これはIfの世界を題材にしたストーリーです。
ゲーム本編ではバッドエンド直行となる選択肢を選んでしまった主人公。
彼は運命の分岐路を見つけ出し、無事もう一つのグッドエンドにたどり着くことができるでしょうか……?
1
「ゆっくりおやすみ」
僕は取り乱す美月を何とか寝かしつけると、ふぅっとため息をついた。
「何でこんなことに……」
あの廃病院での出来事。謎の人物に襲われた僕と美月。逃げ去るバイクの男。そして残された二枚の写真。
佐久間が犯人……? まあ、状況から考えて一番怪しいのは確かだけど。
「美月ちゃんのことは気になるだろうけど、ここは私にまかせて」
部屋を出た僕に、部長がそう声をかけてきた。
「あなたは編集作業をお願い」
「いえ……美月の看病をさせて下さい」
僕はダメもとで頼んでみた。いくら部長命令でも、今夜は美月のそばにいてあげたい。
「……分かったわ」
部長は意外にすんなりと折れてくれた。
「今日は私、下で寝てるから。……くれぐれも気をつけてね」
「はい。……わがまま言ってすみません」
「なに言ってんの、そんなこと気にしなくていいよ。
……それより、あんたはこれからのことを考えないといけないわ……」
「はい……」
部長が階下に行くのを見送った僕は、再びベット脇のイスに腰を落ち着けた。
美月が寝返りをうった。あれ、起こしちゃったかな。
「……」
大丈夫だ。すやすや眠っている。
心なしかさっきよりも安らかな寝顔だ。僕がここにいるって分かるのかな……
その安らかな寝顔と、彼女の身体中に巻きつけられた痛々しい包帯を見ていると、ふつふつと怒りが沸きあがってくる。
……ちくしょう……佐久間のやつ、今度会ったらただじゃすまないぞ……
コチコチコチ。時計の針が進む。二時、三時……。
「やっぱ徹夜はまずいかな……。明日も編集あるだろうし……」
どうやって佐久間に仕返ししてやろうか考えてるうちに、さすがに眠気が襲ってきた。美月もよく眠っているようだし……
その数分後、僕はベットに突っ伏す格好で熟睡していた。
「おはよー!」
元気のいい声で叩き起こされたのは、時計が七時半を回るころだった。
朝の日差し。……もうこんな時間か。
僕は盛大なあくびをすると、ベットに起きあがってニコニコしている美月と目が合った。
「あ、あれ、だめだよまだ起きちゃ」
「ううん、全然平気だって」
美月は元気よくベットから飛び下りて、僕の目を丸くさせた。
「ホ、ホントに大丈夫?」
美月はしっかりした足取りでベットを一周すると、快活な笑顔を満面に浮かべて僕の気遣いを打ち消した。
「お、驚いたなぁ……」
「キミが大げさなんだよ、こんなあちこち包帯でぐるぐる巻きにしちゃってさぁ……」
美月は身体中を見回しながら言った。
「これ、ひょっとしてキミが巻いたの?」
「ん、んなワケないだろ、部長だよ部長。部長が手当てして着替えさせたの」
「なーんだ、そっか。残念、残念」
残念、ってオイ……
「あははっ、冗談だってば」
美月の明るい笑い声を聞いていると、なんだか昨日危うく殺されかけたのがウソのように思えてくる。
「おや、まあ……元気がいいわね」
「あ、遥さん!」
「部長!」
僕と美月は同時に振り向いた。部長はちょっと呆れた表情で僕らを見ている。
「やっぱり、念のため病院の手続きしておいた方がいいと思ったんだけど。
……余計なお世話だったかしらね」
「すいません、遥さん。ご心配かけて」
美月はぺこりと頭を下げた。
別に強がっている様子はないし……
一晩中付き添っていた僕への配慮? いや、本当に元気になったみたいだ。
何はともあれよかった……
「じゃあ、僕は美月を送り届けてきますから。その後は部室に直行でいいんですね?」
「ええ、お願い。まだ編集も残ってるし……」
「分かりました。……あ、それと部長、佐久間さんの連絡先知りませんか?」
「ええっ? 佐久間の……?」
「はい」
「……あいつは映研の部員じゃないし、自宅の番号までは知らないわ。
でも携帯の番号なら控えがあるわよ」
「お願いします」
「それは別に構わないけど……あんまり無茶するんじゃないわよ。
とにかく一度話し合ってみることね。まだ犯人と決まったわけじゃないんだから……」
「はい、分かってます」
とにかく聞きたいことは山ほどある。
部長は無茶するなって言うけど……僕や美月にこれ以上手出しさせないためにも、この件にはきっちりケリをつけておかなきゃ。
「じゃあ、これで失礼します」
部長から番号が書かれたメモを受け取った僕は、振り返って美月に声をかけた。
「行こうか、美月」
「……」
「美月?」
どうしたんだろ、ボーッとして。やっぱり身体の調子悪いのかな?
「美月ってば」
「えっ……あ、なぁに?」
「どうしたの、どこか痛む?」
「えっ? ……ううん、違うの。何でもない」
「そう……」
ひょっとして佐久間の名前を出したのがまずかったのかな。
そりゃそうだよなぁ。いくら元気になったって言っても、昨日ヘタすりゃ殺されてたかもしれないんだし。
ちょっと無神経だったかな?
「じゃあ、帰ろう」
「うん。……」
美月をマンションまで見送った僕は、その後先輩たちや二村と一緒に大学の部室で残りの編集作業にかかった。今日中に何とか形にして、明日は試写会を行なう予定なのだ。
まあ、試写といってもとりあえずのものなので、それで作業が終わりというわけではない。そこで作品の全体像を把握しておき、最終的な詰めの作業に入る。
学園祭まであと約一週間。まだまだやることは山積みだ。
他にやることと言えば、佐久間さんへの電話。
ニ、三回かけてみたが、結局つながらないままだ。大学のほうも欠席しているらしい。
このまま行方をくらます気なんだろうか……
ふと時計を見る。昼の十二時だ。
「よーし、一時まで休憩! 再開の時間に遅れるなよ」
剛田先輩の声で昼食タイムとなった。
部室を出た僕は、構内の自販でジュースを買うと、ベンチに腰を下ろした。
「……」
どうもくつろげない。美月、どうしてるかな。
「うーん。……」
帰って様子を見てこようか?
いや、しかし一時までには部室に戻らないと。
時間的には往復することも考えてギリギリ何とかなるけど、ゆっくり昼食をとる暇はなくなってしまう。
(帰る・帰らない)
僕は悩んだ。
……さび付いた歯車が軋むような音が脳裏に響いたのは気のせいだろうか?
「よし。……やっぱり帰ろう」
なに、一日くらい昼めし抜いたって死ぬわけじゃない。
それより美月が心配だ。ちょっと顔を見てくるだけでいいんだから。
決心すると、僕は飲みかけのジュース缶をベンチに残したまま、早足で歩き出した。
「ただいま」
僕が玄関をくぐるのと同時に、電話のフックを戻す音が聞こえた。
「あ……お帰りなさい」
美月が出迎えてくれた。
「あれ、誰と電話?」
僕は靴を脱ぎながら美月に聞いてみた。
「うん、ちょっと……バイト先から」
「ガソリンスタンド、ちゃんと休むって言っといた?」
「今日も来てくれって。
……あたし、行かなくちゃ」
「ええっ?」
驚いた僕は呆れ顔で美月をにらんだ。
「昨日の今日だよ? 今日一日くらいはちゃんと安静にしておかないと」
「大丈夫」
「……」
妙に迫力のある美月の様子に気圧されてしまった。
いや、言葉尻は穏やかなんだけど、雰囲気がどこか尋常じゃないと言うか……あれ、ひょっとして怒ってる? いや、そんな心当たりもないし。今朝は普通だったしなぁ……
「……じゃあ体調悪くなったらすぐ帰ってくるんだよ、いい?」
「分かってる」
美月はそれだけ言うと、すっと立ち上がり、自室に入ると振り向きもせずにぴしゃりと戸を閉めてしまった。
な……何なんだ、一体。何かしたっけ? 僕。
と、閉まったばかりの戸が勢い良く開いて、僕を仰天させた。
「あれ?? 帰ってたんだ」
部屋から出てきた美月は、僕を見てびっくりしたように言った。
「……は?」
「今日は遅くなるって遥さんから聞いてたのに、どうしたの?」
「え? ……いや、あの……」
「あ〜っ、ひょっとしてボクのことが心配でいてもたってもいられなかったとか」
「???」
いつもの美月だ。
このノリ、このテンポ。……間違いない。
「あの。……美月……サン?」
「ん? なに?」
「あ……、いや、何でも」
疲れてるのかな、僕。
……いやいや、これはどっちかって言うと美月の問題だぞ。
「……ねa、美月。
今日はやっぱりバイト行くのやめた方がいいんじゃない?」
「え? バイト?」
「うん。
……ほら、自分では気づかなくても、ひょっとしたら目に見えない疲れとか溜まってるかもしれないし」
「……心配してくれるのは嬉しいけど、行くも何も今日はバイト休みだよ」
「休み? でもさっき……」
僕は頭がこんがらがってきた。どういうことだ?
「……」
もうあまり時間がない。そろそろ大学に戻らなきゃ。
でも、このまま美月を一人にしてしまって大丈夫だろうか?
あきらかに様子が変じゃないか?
今までにも状況によって態度がころころ変わることはあったが、言ってることまで全く食い違っているのは、どう考えても妙だ。
「……美月、これから一緒に大学行かない?
編集手伝ってくれないかな。全然人手が足りなくて……」
僕は思いつきでそう言った。
ゆっくり休ませるのが彼女のためなのかもしれないが……どうも気になる。
「あ、それおもしろそう! 行く行く!」
かなりヒマしていたらしく、幸いにも(?)彼女は二つ返事で引き受けてくれた。
美月を連れた僕は、再びてんやわんやの編集作業に追われる身に戻った。
美月はやはり素人ということで、編集には加わらず、翔子ちゃんたち女子部員と一緒に僕らの夜食の世話やその他の雑用を担当することになった。
目が回るほど忙しいにもかかわらず、心なしか美月の表情は自宅にいたときより生き生きしているように見える。
連れてきて正解だった。
昨日あんなことがあった彼女を働かせていることに罪悪感を感じていた僕は、ほっとすると同時に、いつもと変わりない美月の様子にさっき感じた心配そのものが杞憂だったんじゃないかと思いはじめていた。
やっぱり疲れていたんだな、美月。
体の疲れとかそんなんじゃなくて、いろいろあって精神的にまいってたんだと思う。
そういう時は、一箇所にじっとしているより動くに限る。
「さあ! あとひとふんばりよ! 頑張ってちょうだい」
部長の激がとぶ。
それにしても、この忙しさが学園祭直前まで続くのかと思うと、ちょっと気が遠くなってきた……
結局今日の作業がお開きになったのは、夜中の一時を過ぎた頃だった。
「ふぅ、疲れた」
僕は校舎前のベンチにへたりこみ、足をぶらつかせながらちょっとした開放感に浸っていた。
お疲れー、とか言いながら他の部員たちがめいめいに帰っていくなか、僕は美月を待っていた。
美月は、翔子ちゃんたちと僕らが食べた夜食の後片づけをしている。
明日は試写会の準備があるし、今日は帰ったら速攻で寝ようなどと考えていた僕は、はっきり言って昼間のことなどきれいさっぱり忘れていた。
「ん……?」
何気なく視線を上げた僕は、校舎の屋上に人影が立っているのに気づいた。
「誰だろう……?」
こんな時間まで大学に残っているのは、今夜は映研部員だけのはずだけど。
部員の誰かかな?
月明かりをバックに、微かなシルエット。……何か見覚えある気がする。
まあ、部員の誰かだとすれば、見覚えがあって当たり前なんだけど。
「お待たせー!」
美月の声で注意を引き戻された。美月は肩で息をしながらこちらに走ってくる。
ふと上を見ると、人影がすっと奥に消えていくところだった。
誰だったんだろう?
ま、……誰だろうと僕には関係ないか。
「さあ、帰ろ! 明日は早いんでしょ?」
「そうなんだよ、しかも僕だけね。新人は辛いなぁ……」
「ほらぁ、グチってばかりいるとまた遥さんにどやされるぞ!」
「そんなこと言われてもなぁ……」
「あ、そうそう。
明日はボクも試写会行くって遥さんにお願いしてきたから」
「あ、そうなんだ。……じゃ、頑張って仕上げないとね」
「うん、がんばれ新人くん!」
「痛い! 背中を叩くなって」
「へへ……」
そんな他愛のない会話をしながら僕らは帰路についた。
2
翌日。試写会の日だ。
「遅いわねぇ……」
部長が腕時計を見ながら言った。
「待ちますか?」
「いえ、時間厳守。時間を守れないやつが悪いのよ。予定通りに始めるわ」
「はぁ……」
今日の作業は、何とほとんど僕一人でやった。早朝から黙々とだ。
他のみんなはと言うと、大学側からの要請で学園祭の準備に駆り出されている。
学園内での映研の立場は弱い。部長の英断(?)で、結局僕と二村の新人コンビを除いて全員が執行部の機嫌取りに奔走することになったのだ。
ま、部長を責めてはいけない。部長とて責任者。体面より部を守ることを第一に考えなくてはいけないのだ。
そんなわけで、今日の試写会は僕と二村、部長、美月の四人で行なうことになった。
ちなみに、二村も午後から学祭の準備に回されている。あちらも相当忙しいようで、こき使われているのは僕だけではないのだ。
「部長。……あの、時間です」
「よし、始めるわよ」
「分かりました」
映写機がカタカタと回り始める。スクリーン一杯に美月が演じるヒロインの顔が映し出された。
「ごめんなさ〜い、遅くなりましたぁ」
くだんのヒロインの御登場だ。
「いいや、ちょうど始まったトコだから」
全く、部長……。善意の出演者には甘いんだからな。
「あ、できたんだ、映画!」
美月が嬉しそうにスクリーンを覗き込んだ。これが完成形だと思っているらしい。
「まださ、NGのシーンをカットして粗くつないだだけだから」
「ふぅ〜ん、そうなんだ。……あれ? 他の部員の人たちは?」
美月はがらんとした室内をきょろきょろ見回しながら言った。
「あとは二村が来るはずなんだけど……」
僕の言葉と同時に、部長のPHSが鳴り出した。
「はい、私。
……どうしたの、もう始まってるわよ。……え? 何ですって?」
部長の顔が険しくなった。何事だろう。
「何言ってんの、許さないよ!
……そんなの知ったこっちゃないわ、そっちで何とかしなさい!」
「どうしたのかな」
部長の形相に脅えた美月が僕に寄り添ってきた。
「あの、部長。……何かあったんですか?」
一方的にPHSを切り、かみつきそうな顔でスクリーンを睨みつけている部長に、僕は恐る恐る聞いた。
「二村よ。
あのバカ、忙しくてこっちにこれないだって。
……馬鹿にしてると思わない? 全くどっちが本分だと思ってるのかしらね」
そんな、部長。……自分で行かせたくせに。
「いいわ、私ちょっと見てくる。横っ面の一つでも張ってやらなきゃ。
……すぐ戻ってくるから、試写は続けてていいよ」
部長はそう言い残して部室を出ていった。
「二村さん、どうなっちゃうんだろ」
「さあ。あんまり想像しない方がいいよ」
「そうだね」
それでもちゃっかり想像したらしく、美月は口に手を当ててくすくすと笑った。……哀れ、二村。
その時、僕は唐突にこのシチュエーションに気づいた。
暗い部屋。
二人きり。
そして、図らずも寄り添う肩……。
あの撮影旅行の夜以来だろうか。
その後自宅でもちょっといい雰囲気になったけど、あの時は部長の乱入があってそれどころではなかったし。
「……美月」
「ん?」
振り向いた美月の顔が僕の間近にあった。
あと、ほんのちょっと距離を縮めれば……。
未遂を含めればこれで三回目のチャンスだし、いきなりってことはないよな、うん。自然の流れだ。……多分。
「……どうしたの? 何か、変だよ」
美月は困ったように微笑んだ。雰囲気を察しているようだ。
でも、拒絶はしていない……。
僕は思い切って顔を近づけた。
……彼女がすっと身を引くのが分かって、僕は目を開けた。
美月はうつむいて膝を抱えこんでいた。
「……ゴメン。あの……」
「……ううん、キミが悪いわけじゃないの」
美月は沈んだ面持ちで言った。
「ただ……答えを出しちゃっていいのかな、って」
「え?」
「ボク、何も分からないから……何も決められないの。
このまま立ち止まってるしかないんじゃないかな、って……」
「分からない、って……自分の気持ちが?」
「気持ちは分かってる。
でも、それがどういうことなのか、自分で決められないの。……変だよね、こんなこと」
美月には記憶が……思い出がない。
……恋した記憶さえないのだとしたら?
恋した相手と何を語らい、何を手に入れ、何を失ったか。
自然に積み重なっていった思い出が、ある日突然不自然な横風を受けて崩れ去ったとしたら……人はそれでも前に進めるだろうか?
……でも、気持ちが分かっているのなら、戸惑うことはない。
ここは一つ、僕が男らしく態度で示さなきゃ!
「……僕が決めてあげるよ」
僕は美月の肩をそっと抱き寄せると言った。
「……え?」
「君がどうしたらいいか」
美月はいたずらっぽい目で僕の顔を覗き込んだ。
「何かエッチなこと考えてるでしょ」
僕はぶんぶん首を振って否定した。
「……そうじゃなくて!
……多分、君は僕のことを必要としているんじゃないかな、と……」
「ほら、やっぱり」
僕はもう一度首をぶんぶん振った。
「い、いや、だからね……。そういうことじゃなくて、もっと、ほら、何て言うか……」
「保護者として? キミがいないと、ボクは家なし浮浪少女に逆戻りだもんねー」
「だ、だから……」
柄にもなくリードしようとしたところを掻き回されて、僕はしどろもどろになった。
僕の恨めしげな視線に気づくと、美月はぺろっと舌を出した。
「……ゴメンゴメン、急にマジメな顔するから、ちょっとからかいたくなっちゃって」
そう言うと、美月は再び膝を抱え込んだ。
「だめだなー、ボク。
……肝心なときになると、いっつも逃げてばかりいる」
「美月……」
どうやら、僕らを隔てている壁は一枚ではないらしい。
どこかで一線を引いていなければ、成り立たないほど不安定で、不自然な関係……
(保護者としての僕が必要、か……)
あの言葉はただの冗談ではないだろう。
……スクリーンには、代役の僕と女優の美月が抱き合うシーンが写されていた。
これはスクリーン上の虚像に過ぎない。
でも、同じ場所で、同じように、素顔のままで互いの気持ちを確認し合った瞬間が僕らにはあったはずだ。
その思いが、僕の喉に詰まりかけた言葉を押し出した。
「……美月、覚えてる?
港でセリフ練習している時に僕が言った言葉」
僕はスクリーンに目を向けたままそう聞いた。
「……ボクも守るって?」
「それもあるけど……」
僕はゆっくりと美月に向き直った。
「……僕が、君を必要としてるってこと。
君が僕を同じ意味で必要としてくれてるかは正直分からないけど、少なくとも僕のこの気持ちだけは信じて欲しいんだ」
思わず自分の気持ちを直球で示してしまい、僕は急激に顔面に血流が込み上げてくるのを感じた。
「……」
美月は無言のまま僕を見つめていた。僕は赤面した顔を見られるのが恥ずかしくって、目を逸らしていた。
急速に彼女の顔が近づいてきて、僕の鼓動は胸を突き破らんばかりに高鳴った。
気持ちにウソはつけない。
僕の気持ちが伝わったのなら、それが彼女の答えなのだと僕は理解した。
スクリーンから溢れる夕焼けの色がやけに眩しく部室を包み、僕らの一瞬の出来事を覆い隠した。
一週間後。学園祭当日だ。
映画は無事完成した。
僕は汗だくになりながら、当日の作業である宣伝用のポスター貼りに精を出していた。
ふと佐久間さんのことが頭をよぎって、僕の手が止まった。
「コラ!」
背後からの突然の叱咤に、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。
「なに考えごとしてんの? 手の方が休んでるよ!」
先輩達かと思いきや、……ポスターにプリントされた主演女優と同じ顔を見つけた僕は、ホッと胸を撫で下ろした。
「美月!」
美月はくるっと踵をかえすと、廊下の端から賑わう広場へと出ていった。僕は最後の一枚を貼り終えると、あわてるようにその後に続く。
並んで屋外に出た僕らは、ベンチに座って一息つくことにした。
都会の雑刀のようなざわめきが、僕らを包み込む。僕は吹き出る汗を手で拭いながら、真夏の太陽を恨めしげに見上げた。
……あれから一週間。
佐久間さんは相変わらず行方不明のままだ。僕や美月に対するいやがらせはぱったりと影をひそめ、全てが終わったようにも思える。
実際、僕らはそんな甘い感覚の中でこの一週間を過ごしていた。
「なにボ〜ッとしてんの?」
美月の怪訝な調子の声が僕の耳を打った。
「……佐久間さんのことを考えてた」
「そっか。
……あれから一週間だもんね」
「うん。
……佐久間さんは映画の邪魔をしたかったんだって思ってたけど、もう映画は完成しちゃったし。
……結局、あの人は何がしたかったんだろう……」
「……」
美月はすっと立ち上がると、真正面から僕の顔を覗き込んだ。
「ねぇねぇ、5時からライブ始まるんだって。行こ行こ!」
美月はあまり佐久間さんの話題に触れようとしない。意識的に避けているのか、それとも僕と同じように気にしなくなっているだけなのか。
いずれにしても、当の本人が行方不明のままではこの話は進展しない。
僕は、この話題は切り上げて、美月の意向にならって今日一日は楽しい学園祭をエンジョイすることに決めた。
「その前になにか食べようよ。
美月だって朝からずっと先輩たちにコキ使われて、なにも食べてないだろう?」
そうなのだ。彼女は部員でもないのに、みずから志願してこの炎熱地獄の中、僕らの作業につきあってくれていた。
「なんでわざわざ手伝うなんて言い出したんだよ」
「だぁってぇ!」
いきなり美月は僕の腕に絡みつくと、思いっきり引っ張った。
彼女の胸の重みが僕の二の腕に押しつけられ、僕は危うく血流が逆流しそうになった。
「ずっと、一緒にいたかったから……。
……それって迷惑?」
「迷惑だなんて……嬉しいよ」
「あはっ、なに食べよっか!
お好み焼き? タコ焼き? 焼き鳥? それとも焼きそば?」
「それ全部ってのはナシだよ」
僕は苦笑して、少し積極的になった美月の顔を眩しそうに見つめた。
全てはうまくいく。
……それは甘い幻想であり、平穏な日常に逃避した心情に過ぎないことをすぐに思い知らされることになるのだが、今の僕らにとっては共通の思いであり、願いでもあった。
僕らの中では、それはリアルな現実と何ら変わることはなかったのだ。
少なくとも、この時までは。
美月は幽霊でも見るような顔で目の前に立つ男を見ていた。
無理もない。
鏡を見れば僕だって同じ顔をしているに違いないのだ。
数あるレパートリーの中から遅めの昼食に焼きそばをチョイスした僕らは、腹の鳴りを静めたあと、腕を組んですっかり恋人気分に浸りながら賑わう構内を闊歩していたのだが。
「やあ、探したよ」
背後からかけられたその一言で、僕と彼女の幸せな時は終わりを告げた。
そう、文字通り『終わった』のだ。
「部長! どういうことなんです!」
この時の僕の剣幕はよっぽど凄かったのだろう。
なんせ、あの部長が一瞬たじろいだぐらいだ。
「お、落ち着きなさい。一体何の話?」
「何の話じゃありませんよ! 佐久間のことです!」
「あ〜……そのこと」
「そのことって……や、やっぱり知ってたんですね!?」
僕は先刻の出来事を頭の中で反すうして、いら立ちまぎれに机をバンと叩いた。
……何の前触れもなく、再び僕らの前に姿を現した佐久間。
そして彼は言ったのだ。
「部長! この一週間、ずっと佐久間と連絡を取り合ってたって本当なんですか!?」
「本当よ」
あっさりと言い返された僕は、気勢を削がれ、言葉に詰まった。
「な、何であんなヤツと……部長は一体どっちの味方なんです!」
「いいから座りなさい! ちゃんと説明するから!」
いつものペースを取り戻した部長は、パイプイスを指差して怒鳴った。
こうなると、残念ながら僕に勝ち目はない。
僕はしぶしぶイスに腰をかけると、部長の次の言葉を待った。
「佐久間に呼び出されたのね? 話があるから五時に屋上に来いって」
「はあ」
「事情は私に聞けば分かるって言われたのね?」
「そうです」
「……で、美月ちゃんは?」
「は? ……美月なら広場で待ってもらってますけど。
いくらなんでも連れていくわけにはいきませんからね」
「そう。……計算通り動いてくれるわね」
「???」
「さ、そろそろ私たちも行きましょうか」
「行くって……どこへですか?」
「屋上よ」
時刻は三時半になったばかりだった。
「部長。まだ早いんじゃ……」
「いいの。いいから黙ってなさい」
「……」
引きずられるように屋上に連れてこられた僕は、部長の指示で給水塔のかげに身を隠していた。
「で、この後どうなるんです?」
僕は半分やけになって聞いた。
「シッ」
コツコツと足音がして、佐久間さんが姿を現した。……あれ? まだ約束の時間まで一時間以上あるのに。
「あの。……佐久間さんが来たみたいですけど」
「見れば分かるわよ」
「出ていかなくていいんですか?」
「まだよ。彼女が来てない」
「彼女?」
「……美月ちゃんよ」
「美月? 美月が来るわけないじゃないですか」
部長は意味ありげな目つきで僕をちらっと見た。
「……何故そう思うの?」
「何故って……恐がってたし……彼女は僕が戻るのを待ってます。
危険を承知で、こんな所に一人で来るわけないじゃないですか」
「それならよかったんだけど、ね」
部長の表情が一瞬歪んだように見えたのは気のせいだろうか?
部長の視線を追うと、外付けの階段を上がる美月の姿があった。
カンカンカン、と無機質な足音を響かせながら、美月は確実に屋上に近づいてくる。
…………美月…………?
「やあ。やっぱり来たね」
屋上に着いた美月は、先に来ている佐久間さんに気づき、警戒するように目を凍らせた。
が、すぐに表情を戻すと、微笑みを浮かべながら佐久間さんに歩み寄る。
「あら、早いのね。
……お久しぶり、佐久間さん。
この間はごめんなさいね。志穂の用事が忙しくてなかなか出てこれなかったの」
「君は……美月さん?」
「そうよ。志穂じゃなくて残念だったわね」
「いや。……君と話がしたかったんだ」
「へえ?」
美月は後ろ手を組んだままゆっくりと歩を進めていった。
「あたしを待っていてくれたの?」
「そうだよ。
……君は先回りしてここで僕を待ち伏せるつもりだったんだろ? その手は食わないよ」
途端に美月の表情が険しくなった。
「分かってるなら話は早いわ。……あなた、邪魔なのよ」
「僕が昔、志穂さんと付き合ってたからかい?」
美月は佐久間さんを見下すように哄笑した。
「うぬぼれないで。志穂の心はもうあなたには無いわ。
……あの男。あいつも邪魔。
……でも……あなたが先よ」
美月……後ろ手に何を持っているの?
「あなた、あたしを病院に連れ戻すつもりなんでしょ?」
「そうだ。……君はこんなところに居ちゃいけない」
「だから邪魔だって言うのよ!」
美月が角材を振り下ろした。
佐久間さんはすばやく後ろに下がってその先端をかわした。
「誰にも邪魔させない。……あなたにも、あの男にも。志穂はあたしのものよ」
美月が再び腕を振り上げた。
「そこまでよ!」
部長の声で、僕はぼやけた視界のピントが急速に合ってハッとなった。
気がつくと、部長は二人の前で仁王立ちになっている。
「罠にかかったわね、美月ちゃん。
あなたの正体見せてもらったわよ」
「遥さん、彼は?」
佐久間さんがホッとしたように部長に言った。
「ちゃんと連れてきたわ。
……ほら、もういいわよ、出てきなさい」
「彼……?」
美月がいぶかしげに目を細めた。
僕が部長に腕を引っ張られて給水塔のうしろから出てくると、美月は大きく目を見開いた。
「……あ」
「どう、驚いた?
もうあなたに逃げ場はないのよ。……観念しなさい」
僕は美月から目を逸らせなかった。
美月も僕から目を逸らさなかった。その視線の意味するものは、僕には分からない。
「美月……?」
僕が一歩足を刀み出すと、美月は怯えたように後ずさった。
しかし、それも一瞬。
「……殺してやる!」
美月は凄まじい形相で僕に襲いかかってきた。
「危ない!」
部長がとっさに僕を突き飛ばし、角材がそれまで僕が立っていた床を激しく打ちつけた。
美月は今度は部長に殺気だった視線を向けた。
部長が襲われる瞬間、佐久間さんが背後から美月にタックルを仕掛けた。
美月と佐久間さんはもつれあい、床に転がった。
すぐに部長が加わり、二人がかりで美月を抑えこむ。
「佐久間、しっかり足を押さえて!」
「分かってます。……志穂さん、目を覚ますんだ!」
「うるさいっ! 離せぇぇぇ!!」
暴れる美月。
必死に彼女を押さえつける部長と佐久間さん。
僕はぼうっと見ているだけだった。
「は ・ な ・ せぇぇぇぇぇぇ!!!」
3
美月は部室の仮眠用の簡易ベットで横になっていた。
かすかな寝息が聞こえる。
……僕と部長と佐久間さんはあの後、急にぐったりした彼女を思案のあげくここに運んできた。
今は僕のわがままで二人きりにしてもらっている。
もちろんいい顔はされなかったが、僕の心情を察した部長が特別に短時間だけ許可してくれた。
二人には部室の外で待ってもらっている。
「……」
僕は無言のまま美月の寝顔を見つめていた。
……美月。いや……志穂さんだっけ。
「何から話せばいいかしらね」
……数時間前。部長の切り出しはこうだった。
「まず、僕から話しますよ」
「……ええ、そうね。佐久間、お願い」
部長は、まだ状況の整理がついてない僕の肩にやさしく手を置くと、佐久間さんにうなずいた。
「最初に、彼女の本当の名前を教えておこう。
彼女の名前は志穂。赤坂志穂だ」
「……し……ほ?」
「そう。廃病院で僕が落としていった写真を拾ったね? 覚えてるかい?」
「……写真?」
そういえば。
確か、封筒に入っていた二枚の写真……どうしただろうか?
「……忘れてました」
「そうか。何が写ってたかは覚えてる?」
「美月。彼女が……」
「そう、彼女だ。赤坂志穂と、……その姉の、赤坂美月さん」
「姉の……美月?」
「うん。美月というのは彼女のお姉さんの名前なんだ」
佐久間さんは続けて僕に語って聞かせた。
姉の美月さんが男に騙され、ノイローゼになったこと。
そのはけ口となった志穂さんが実の姉から受けた虐待。
そして、姉の自殺。
志穂さんの精神もバランスを崩し、心に大きな傷を残したこと。
「……なぜ、佐久間さんがそれを知っているんですか?」
「僕と彼女……志穂さんは、昔付き合ってたんだ」
佐久間さんと志穂さんは美月さんの異常な嫉妬によって引き裂かれたのだそうだ。
男性不信に陥っていた美月さんは、男を憎悪する反面、唯一の肉親である妹の志穂さんに対して屈折した愛情を寄せていたらしい。
「……志穂さんはお姉さんから受けていた虐待で、身も心もぼろぼろに傷ついていたはずだった。
でも美月さんが自殺した時……一人ぼっちになり、殻に閉じこもっていた志穂さんが救いを求めたのも、また……
皮肉なことに、お姉さんの面影だったんだね。
志穂さんは自分の中にもう一人の『姉さん』を作り出してしまったんだ。
……多重人格って知ってるかい?」
「多重……人格。……彼女が?」
「そう。……でも問題はそれだけじゃない。
志穂さんの中の美月さんはとても危険な人格で、姉の美月さんと同じように志穂さんを溺愛していて、志穂さんが心を許した男性を襲う可能性があるらしいんだ。
……君も心当たりがあるんじゃないか?」
「美月がやったって言うんですか? 別荘で植木鉢を落としたのも、廃病院で僕を襲ったのも……」
そう考えるとつじつまが合うのは事実だ。
あの日、美月の部屋に忍びこんで、僕の頭の上に植木鉢を落とせる人物。……美月本人なら確実にそれが可能だ。
「病院での待ち合わせに遅れたのは悪かった。
君が血相変えて追っ掛けてくるんで、つい逃げちゃったりしたんだけど。
……ずっと話し合いたいと思ってたんだ。でも、遥さんに少し時間を置くように言われてね」
「部長。……部長はいつからこの事を?」
「一週間前よ。美月ちゃんのことは、私も気になっていろいろ調べていたの。
でも、佐久間みたいに昔の彼女を知っていたわけじゃないし、確証はつかめなかった。
そこに、怪我をしたあんたたちが転がりこんできて……あんたの口から、佐久間の名前が聞けたってわけ」
「いろいろ話し合った僕らは、しばらく静観することにした。……何故だか分かるかい?」
「……いえ」
「手掛かりは与えたつもりだったし、あとは君に託すつもりだったんだ。これは僕じゃなく、遥さんの提案だったんだけどね。
別に君らを引き離すのが目的だったわけじゃないし、僕もしぶしぶ同意した」
「可愛い部員に恨まれるのも後味悪いしね。
……協力はするつもりだったけど、できればあんた自身の手でケリをつけて欲しかったの。
だから佐久間には携帯に出ないようにいって、自宅で待機してもらっていたのよ」
「部長……。佐久間さんの自宅の連絡先を知っていたんですね?」
「ええ、そうよ。
……悪かったね、騙したりして」
「遥さんだけじゃないよ。
実はあの病院での事件の翌日、彼女……志穂さんから電話があったんだ」
「美月が……佐久間さんに?」
まさか、あの時だろうか……?
美月はバイト先からだって言ってたけど……
「志穂さんなら僕の自宅の番号を知っていても不思議はない。
……でも、彼女は記憶を失ってるはずだろ? それで不審に思ったんだ」
「それで、美月は佐久間さんに何て言ったんですか?」
「大学の屋上で会わないか、って……ちょうど今日みたいにね。
でも、結局彼女は来なかった」
「確かあの日、美月ちゃんは午後から編集の手伝いにきてたわよね?」
「ええ、僕が連れてきたんです。自宅で様子がおかしかったので、心配になって……」
「それが、志穂さんの自我を保つ結果になったんだろうね。
……つまり、こういうことだ。僕を呼び出したのは志穂さんじゃなくて、美月さんだった。
それに気づいた僕は、正直あせった。今度は僕が狙われてるのかもしれない。
そう考えた僕は、遥さんの意見も考慮して、とりあえず一週間だけは待つことにした。遥さんもそれで納得してくれたよ。
……で、一週間がたった」
「僕のせいだって言うんですか? 僕が美月との生活にかまけていたから……」
「……まあ、一度距離を置いてみることも必要だったかもね。
でも、無理もないよ。あんたにとっては過酷な現実だし、できれば見せたくなかったわ。
でも、このままじゃいけないのも分かるでしょ?
現にあんたは二度も危ない目にあってるんだし、どこかでふんぎりをつける必要があったのよ。
で、……今日佐久間と相談して美月ちゃんに罠を仕掛けた」
「彼女次第だったんだけどね。
……結局、彼女は僕を殺しにきた。君も見ただろ? あれが現実なんだ」
彼女が次に目覚めるとき、僕は何と呼びかけたらいいのだろう。
……美月? それとも志穂?
いや、それ以前に彼女はその呼びかけに答えてくれるだろうか。
また僕らを襲う? それとも、人格交替をしている時の記憶を失い、いつもの美月に戻るのだろうか。
いつもの美月?
……そもそも、僕と暮らし、僕が守ると約束したあの彼女は一体誰だったんだろう。
記憶を失った志穂さん?
…………それとも…………。
ぞっとするような考えが頭に浮かんで、僕はあわてて頭を振った。
「……入るよ」
ノックの音と共に、部長が部室のドアを開けた。
「もう気は済んだかい?」
気が済むはずがない。
……美月と話がしたかった。
もう一度彼女の笑顔が見れるまでは、気が休まるはずなんてないじゃないか。
でも、僕はゆっくりとうなずいた。これ以上、僕のわがままで部長たちに迷惑をかけるわけにはいかない。
「……美月をどうするんですか?」
「志穂さんにはカウンセリングが必要だ。
前に彼女の治療を担当していた南西総合病院の森崎医師も承知してくれている。
このまま病院に戻すのが正解だろうね」
部長に続いて部室に入ってきた佐久間さんがそう言って僕の傍らに立った。
「でも、美月、病院が苦手なんです」
僕のささやかにして最後の抵抗だった。佐久間さんは首を振ると僕の肩に手を置いた。
「……分かるだろ? それが志穂さんのためなんだ。
本当に彼女のためを思うのなら、今は離れていたほうがいい」
本当にそうだろうか? 僕がしてやれることはないのか?
「お見舞いに行くこともできるし、別に金輪際の別れってわけじゃないんだから」
部長が僕を励ますように言った。
「ええ……そうですね」
……結局、彼女には僕なんか必要なかったってことか。僕は無力感に打ちひしがれながらうなずくしかなかった。
美月が身じろぎしたのはその時だった。
「う……」
「美月!」
美月は目を開けると、ゆっくりと辺りを見回した。
「ここは……どこ?」
「部室だよ。……何も覚えてないの?」
「……うん」
「部長! ……お願いです。もう一回だけ二人きりにさせてくれませんか」
とにかくこれで美月と話ができる。……僕は食い下がるように部長に頼んだ。
部長と佐久間さんは顔を見合わせると、思案げに眉を唸らせた。
「……何かあったらすぐ呼ぶのよ。外で待ってるから」
「分かってます」
僕の返事を確認すると、部長たちは美月の様子をちらちらとうかがいながら外に出ていった。
部室のドアが閉まると、僕は美月に向き直った。
「気分はどう?」
「……平気。……ねa、何であたしこんなところで寝てるの?」
「本当に覚えてないの?」
「うん……」
廃病院での事件のあとも、目を覚ました美月はこんな感じだった。やはり、人格が変わっているときの記憶は彼女にはないらしい。
もちろん、聞いてみたいことはいろいろあるけど、忘れているのなら無理に思い出させたくはなかった。
……今は残されたこの時間を大切にしたい。
「君は僕を待っている間に日射病で倒れたんだよ。
でも大丈夫。ちょっと休めばすぐ良くなるって」
僕は出鱈目を言った。
ウソでもいい。このウソが否定されるのなら、僕は彼女自身を否定しなくてはならなくなる。
「へa……何で覚えてないんだろ」
美月は小首を傾げて言った。
「多分、倒れたときのショックで記憶が一時的に混乱してるんだよ。心配すること無いって」
「うん……」
「別に僕の顔まで忘れちゃったワケじゃないだろ? まさか記憶喪失じゃあるまいし」
「そうだね……って、そのまさかの記憶喪失なのっ、あたしは」
「あれ、そうだっけ」
「もう。……キミの記憶のほうがよっぽど心配になってきたよ」
美月の笑顔。……僕が見たかった笑顔だ。
自分で冗談をふっておきながら、僕は不意に胸が熱くなり、言葉を続けることができなくなってしまった。
その熱さが目頭に伝染して、顔を上げることさえちょっとした努力が必要になってきた。
これは贖罪の気持ちなのだろうか。
なぜ美月が記憶を失ったか、今なら分かる気がするのだ。
彼女はやり直したかったのではないだろうか?
死してなお、解かれることのない姉の呪縛から逃れるために。
それがたとえ……本来の自分ではない「他人」を永遠に演じ続けることを意味していようと。
ゼロからのスタート……そして彼女はスタート地点に僕のとなりを選んだ。
僕はその気持ちに応えることができただろうか?
僕のした事と言えば、彼女と楽しく語らい、暮らし、共の時間を過ごしたことだけ。
その時間が彼女の心の隙間を埋めることができたかどうかは、図らずも今日の出来事で証明されてしまった。
……彼女を愛しくおもう気持ちだけが、フィルムを巻き取り終わったあとの映写機のようにカラカラと空回りしている。
結局、僕は涙をこらえ切ることができなかった。
正確には、こらえる気力が失せてしまったのだ。押しつぶされそうな無力感が僕の心に大きな穴を開けてしまった。
涙は僕の視界に膜を張り、僕と彼女の間にある見えない壁を象秩しているように思えた。
「……ごめん……」
「……?」
戸惑う美月に構わず僕は彼女を抱きしめた。
その手にいつのまにか部室に置いてあった裁縫用の和鋏が握られていることには気づかなかった。
「……僕は……」
まるで心がばらばらになったようだ。
「僕は……どうしたらいい?」
「教えてあげよっか?」
わき腹に鋭い痛みを感じて、僕は視線を落とした。
美月の握った和鋏は僕の身体にその先端を食い込ませている。
「死んで」
彼女はそう答えた。
「あたしと……志穂のために」
豹変に対する驚きは少なかった。
ただ、粉々になった心と、身体を襲う痛みに責められながら、僕は彼女を感じていた。
彼女の身体は、以前港で抱きしめたときと変わらないぬくもりを僕の胸に伝えていた。
あれから、何もしないで、僕はこのぬくもりを失う日が来ることに怯えていただけだったんだろうか?
(……そうだ。前にも一度、僕は聞いていたんだっけ)
僕はうなずいて、彼女の背中に回した腕の感触に、心を委ねた。
暗い部室が、一瞬、夕焼けの色に染まり、ちょっとだけ僕の時間を巻き戻した。
僕は両手で彼女の顔を包みこむと、やさしく唇を合わせた。
瞬間、彼女の身体が大きく震えた。
吹き出すような感情が肌を通して感じられ、僕は怖くなった。
彼女の和鋏を握る腕に力が込められ、僕は目の前が真っ白になるような苦痛に襲われた。
そして………………………………………………………
夏が終わった。
平日の午前中だというのに、一種異様な喧騒に包まれている……ここはそういう場所だ。
僕は病院の待合室にいた。
彼女……志穂は、ここで治療を受けている。
僕もわき腹の傷で……というのは口実だ。僕は志穂に会いに来ている。
今日面会の許可がおりて、久しぶりに彼女の顔を見ることができる。僕の胸は高鳴っていた。
僕を刺し、殺そうとした彼女……部室に飛びこんできた部長と佐久間さんに引き離された時に、僕は彼女の顔を見た。
血塗れの和鋏を握りしめ、執拗に僕への殺意を剥き出しにする彼女。
しかし……確かに、彼女はあの時。
……泣いていた。
憎悪の表情を浮かべたままで……。
部長と佐久間さんからしてみれば、奇妙な光景だったに違いない。
僕だけがその意味を知っている。
彼女の、いくつもの顔……僕は、受けとめなくちゃならない。
「……くん、ね?」
白衣を着た女性が僕にそう声をかけてきた。
「私、志穂さんの治療を担当している森崎です。……じゃ、行きましょうか」
「は、はい」
僕はあわてて立ち上がると、森崎と名乗った女性医師の後について歩き出した。
それとなく横に並び、聞いてみる。
「あの。……志穂さんの治療の経過はどんな感じですか?」
森崎医師はくすっと笑うと僕を安心させるようにやさしく微笑んだ。
「会いたがってたわよ」
森崎医師は廊下の端の病室の前で足を止めた。
「ここよ」
僕は熱い鼓動に引かれるようにドアノブに手をかけた。
作品情報
作者名 | 栄地帝 |
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タイトル | ダブルキャスト |
サブタイトル | Good End 5 分岐路 |
タグ | ダブルキャスト, 女性, 日記の女性 |
感想投稿数 | 42 |
感想投稿最終日時 | 2019年04月12日 04時10分27秒 |
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- [★★★★★★] とても面白かったと思います。私はダブルキャストが大好きなのでまた次作も書いてほしいです。
- [★★★★★★] こういう結末もありかなって感じでよかったです。
- [★★★★★☆] 面白かったです。ダブルキャストの二次作はあんまりないので
- [★★★★★☆] ダブルキャストの雰囲気がよく出ていると思います。続きを期待してます。
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- [★★★★★★] もしこんなエンディングがあったら画面の前でないてると思います。それくらいすばらしい作品でした。