「だいたいお兄ちゃんはね・・・」
みさきの口癖は決まって、そういう出だしだった。
「わかったわかった」
俺の対応も、みさきの口癖同様、そうやっていなすのが当たり前になるのも仕方無いと言えば仕方無い。
妹なんて、まるで母さんの分身じゃないかと思うくらい、口やかましいと感じる事が何度あっただろう。もっとも、みさきから見れば、一つ上の兄なんて、そこらに居る男よりだらしないと思えるのだろう。むしろ、手のかかる弟のようにさえ思われているかもしれない。
もし俺がみさきの兄ではなく、ただの男子生徒として、みさきと同級生にでもなった日には・・・なんて考える事も無くもなかったが、今までずっと一緒だった妹に、それ以上の想像力は働くべくも無かった。
「お兄ちゃん、聞いてるの?」
みさきの部屋のドアの前で、ぽつんと立っている俺に向かって、じれたように言ってくる。
「あ、ああ、悪かったよ」
「ちゃんとノックはしてよねって、何度言ったらわかるのよ・・もう本当に人の話しをあまり聞かないんだから」
俺が今みさきに言われているのは、みさきの部屋を訪れる時にノックをしない事があるのだが、今日はいつもより虫の居所が悪いのか、それとも我慢の限界が来たのか、徹底的に説教を食らう羽目になっていた。
「いいじゃないか。ノックくらい」
みさきのきつめの言い方に、ついそう呟いてしまって、俺はすぐに、しまったと、心の中で舌打ちした。
「なによ! お兄ちゃんがいけないんでしょ!」
さすがに聞き逃してはくれなかった。
「どうしてそうなのよ! もう本当に信じられない! デリカシーの破片も無いんだから! ホントにホントに無神経よね!」
「・・・・・・」
「ノックしないんだったら、あたしの部屋に来ないでよ! 最低!」
『最低』という言葉が、俺の心をカチンと叩いた。高い声だけに余計勘に触る。
「なんだよっ! ノックしないくらいで。ノックしないと駄目なような事でも
やってんのか? おお、解ったよ。もうお前の部屋なんかに来てやらないよ。
金輪際必要以上にお前に関わったりもしないから、安心しろよっ!!」
怒鳴っているくせに、どこか冷静な頭は、言ってしまったらひどい結果になる言葉を探して選んでいる。みさきを心底から傷つけてやろうという気持ちしかなかった。
「そんな性格じゃ、弥生ちゃんにだってそのうち愛想をつかされるに違いないやな。あの子は口やかましくないもんな。弥生ちゃんも、きっと転校したら、せいせいしたなんて思うかもしれないな」
どんな言葉が止めになるか、そればかりを探す自分を、もう一人の自分がやめろと喚いている。それを見て悪魔のようにあざ笑う自分が今の自分だ。
みさきは、俺の絞り出すような怒りの声を聞いてか、恐ろしいくらいの無表情で固まっていた。心なしか、いつもは健康そうな顔色も、青ざめて見える。
そんな表情を、俺の中の悪魔は望んでいた筈だったが、不意にそんな悪魔は溶けて崩れ去った。
「・・・・・・」
みさきの無表情がかすかに曇ったからだ。両の目に、じんわりとたまった物を見たからだ。
「・・・・・バカ」
そう言ってから閉じた目からは、たまった物がこぼれ落ちて、頬を伝わる。
「お兄ちゃんのバカっ!」
俺の怒鳴り声など比べ物にならないくらいの大声で叫んだ。まるで、俺の言葉を 分の中から弾き飛ばすかのように。家の中はもちろんの事、のぞみのうちまで聞こえてしまっているかもしれないと思ったほどだ。
「バカバカバカ!!」
伝うだけの物だった涙が、みさきの表情をくしゃくしゃにしていた。
みさきは泣いていた。
なりふりかまわず、とにかく叫んでいた。
声を俺に投げるかのように。
俺の中の悪魔が、それに最後の抵抗をして、
「うるさいっ! 近所迷惑だ!」と、さえない台詞を言いながら、みさきの部屋のドアを思いっきり閉じた。
爆発にも似た音がした瞬間、今までの言い争いが嘘に思えるほど、しんと静まり返った廊下に居る事に気づいた。
昂った心が、徐々に覚めていくのが、自分で痛感できるほどだ。
閉じたドアの向こうからは、小さな嗚咽が聞こえてくる。
みさきを泣かせてしまった。
その事だけが、俺の気を重くしていく。いままで心に悪魔を飼っていた代償でもあるかのように。
俺は、みさきの嗚咽が漏れる部屋から逃げるようにして、自分の部屋へ向かった。
妹を泣かす事がこんな辛い事だとは思わなかった。俺はただ・・・・

「全部あんたが悪いんじゃない!」
俺が持っている受話器から、そういう怒鳴り声がした。思わず受話器を遠ざけてしまったくらいだ。
電話の向こうののぞみの表情が容易に想像出来そうだ。
「ホントに馬鹿ね!」
さっきのみさきよりキツイ言葉が、容赦なく受話器から聞こえてくる。
言い返す事が出来ないのは、俺自身でそう思っているからだ。みさきの部屋から戻って、重い気分で居る時でもなかったら、言い返していた所だが・・・・
「・・・・・・」
「まったく・・・なにやってるの」
さっきとは一転、呆れたような声が聞こえてきた。受話器からため息が漏れてきそうだ。
「あなた、お兄ちゃんなんでしょ? なんでもっと大切にしてやらないのよ」
「そう言うけどな、ずっと一緒に居てみろ。憎たらしく思う事の方が多くなるもんだ。のぞみだって、自分の弟達をいっつもかわいいと思ってる訳じゃないだろ」
「・・・・」
のぞみが黙ったのは、それを認めている証拠だろう。
・・・・なんで俺がのぞみを言い負かさないといけないのか。悪いのは全部俺なのは判っている。事もあろうに弥生ちゃんまで引合いに出したあたりは、なんでそんな事を言ったのかわからないくらい後悔している。自分が目の前に居たら口が聞けないほどに殴ってやりたいほどだ。
「悪い・・・ごめん・・」
「・・・・・」
「でもな・・・ホントにそうなんだよ。俺だってみさきの事が嫌いな訳じゃない」
「・・・そんなの・・・あたりまえよ」
小さな声が聞こえてきた。
どんな表情をしながら言ったのだろう。そんな気になる声だった。
「ねえ・・・覚えてる? わたしとあなたとみさきちゃんと・・小さい頃良く一緒に遊んだでしょ?」
「ああ・・・」
「みさきちゃん、どんな時でも、いっつもお兄ちゃんお兄ちゃんって言って、わたしのあとに着いてったじゃない・・・忘れちゃったの?」
「・・・・」
記憶の中で、笑顔しか知らないとしか思えないほどの笑顔で、いつも俺の後を着いてきたみさきの姿が浮かんできた。忘れる筈も無い。
「あなたも、そんなみさきちゃんをいっつも気遣ってさ・・・あの頃はあたしもまだ弟居なかったから、すっごく羨ましいって思ってたの。甘えられるお兄ちゃんが欲しい・・って、みさきちゃん見ていて思ってた」
「・・・・・」
「あたしは、お兄ちゃんなんて呼べる人が居ないけど、みさきちゃんにとってはあなたしか居ないのよ?」
「・・・そうだよな」
当たり前の事をいつのまにか忘れていた自分に気づいた。いや、気づかされた。
言われなければ、もしかしたら一生気づかないままだったかもしれない。
「しっかりしないさいよ・・・あなたはお兄ちゃんなんでしょう」
不意に、肩をポンと叩かれたような気がした。そんな優しい声だった。
近くに居るのはみさきだけではない。
そう思わせてくれる声だ。
「・・・ありがとな。のぞみ」
「な、なによいきなり」
電話の向こうで慌てているのが分かる。実に分かり易い。
「・・あ、そうだ。所で用事ってのはなんだ?」
「え?」
のぞみが、素っ頓狂な声をあげた。
「なんか用事があったんじゃないのか?」
「え?・・・あ、ああ・・・えと・・なんだっけ」
「なんだっけ・・って、俺が知る訳ないだろう?」
「そうよね」
その後に、笑い声が聞こえてきた。その声に、俺の重かった気持ちが、徐々に軽くなっていく。
「あ、思い出した、用事ってのはね・・・・」
話し出したのぞみには悪いが、俺はみさきに謝る事で頭が一杯だった。

 仲直りのきっかけは、翌日の朝食の席だった。
前日の覚悟が鈍らないうちに、決心してダイニングへのドアを開くと、いつもと変わり無い朝食風景がそこにあった。まるで昨日何もなかったかのように、一足早く来ていたみさきは、黙々と箸を動かしている。ただ、いつもと違ったのは、みさきの対応だ。いつもなら俺が入ってくるなり、朝の挨拶くらいはするのだが、今日は顔すら向けてこない。
「ほら、早くしなさいな」
母さんが一番最初にそう言ってきた。
「あ、ああ・・」
答えてから、俺は自分の席、みさきの横に座った。
俺が座っても、みさきは何事もなかったように、こっちを向いてこない。
「よう・・・おはよ」
いくら昨日決心したからといっても、実際向き合うと、どこか決心の時に描いたイメージとは違う物があって当然だったが、だからと言って何もしないのでは進まない。
俺はなんとか挨拶だけを絞り出す事は出来た。
みさきの返答は────無かった。
やはり昨日の今日では駄目か・・・とは思うものの、箸を持つ手が少しだけ止まったのだけは解っのだけが幸いだった。
良くも悪くも、まるで無反応よりはマシだ。
朝食だけに、さすがにゆっくりとした訳にもいかず、みさきを気にしながらも朝食を食べるだけで精一杯だった。もっとも、こんな気分でもなければ、もっと会話も出来ただろう。
俺より先に食べていたみさきが、全部食べ終わってから、ただ一言「ごちそうさま」と言ってから、自分の食器を片付けて、すぐに食卓を離れていった。
避けられている。
そう感じるのは、気のせいではないのがわかる。首をなるたけこちらに向けないようにしているのが、見え見えだからだ。
みさきが出ていってから、母さんがぽつりと、
「・・・・ほら、あなたもゆっくりしてる場合じゃないでしょう」とだけ言った。
何か言いたそうなのは、複雑な表情で見ている父さんだけで、母さんはドンと構えている。昨日のケンカの声が聞こえていない筈もないだけに、こういう時に子供を見守る目だけは、さすがに母さんの方が一枚上手だ。もっとも、引っ越しの準備で忙しい父さんにそれを期待するのは無理があるという物だ。引っ越しの事では、随分と俺達兄妹に引け目を感じているせいもあるのだろう。
「んじゃ、行ってくる」
俺は自分の食器を片付けてから、鞄を取り上げて、なんとなく居づらい雰囲気から逃げ出した。

 俺の肩を叩いたのは、のぞみだった。
休み時間に、ぼーっと席に座って、どんよりとした灰色で覆われた空を眺めていた時の事だ。
「ねえ、みさきちゃんには謝ったの?」
おかしな事に、のぞみの学生服姿が、みさきとダブって見えた。いつも目にする女子の学生服姿が、家でも見られる事に、今ふと違和感を感じずには居られなかったからだろうか。
妹は妹。男でもなく女でも無いと感じていただけに、なぜか妙に胸が騒ぐ。
女未満と書いて妹。つまり女と思えない存在。この漢字を思い付いた奴の心境が、なんとなく理解出来た。きっと、そいつは兄貴だったに違いない。
今、のぞみを見た瞬間の俺の心境は、兄貴のそれでは無かった。
「え? あ、ああ・・・・」
我ながら気の抜けた返事だ。
「うそ、謝ってないでしょう」
まるで信じてないのか、間発入れずにそう返って来た。確かに、曖昧な返事をしたせいもあったが、なんとなく嘘を混ぜて言ったのだ。すぐにバレるのは、ある意味で心外だった。
「あんた、昔っからそう。誤魔化す時はいっつも嘘の時よ」
「・・・・・・」
自分でも気づかなかった事を指摘されて、確かに思い当たる節があるだけに何も返す事は出来なかった。
「・・・いや、別に謝りたくないって訳じゃないんだ。ただ・・言いづらくて」
自分でも弱気なのが解る声だ。
「ふう・・・」
のぞみは頭に手を当てて、いかにも呆れた風にため息一つ。
「わからなくもないけど、だからってずるずるしたって良い事ないのよ?
いっつも家で顔付き合わせなきゃなんないんだから、その度に気まずい思いさせてたらみさきちゃん可哀相でしょう?」
のぞみは、俺の前の空いた席に腰を下ろしながら言った。本格的に言いたい事を言うつもりだ。
「俺はどうだっていいのかよ?」
「あなたはお兄ちゃんでしょう。望んでなった訳じゃないって言われればそれまでだけど、わたし今までちゃんとお兄ちゃんしてきたじゃない。わたしがみさきちゃんを見て羨ましいなんて思ったのは、あなたが小さい頃よくみさきちゃんの面倒見てたからよ・・・」
「・・・・・・」
俺の反撃などお見通しで、俺の言い返したい事を全て封じられてしまった。
「だから、あなたが先に謝らないと駄目なのよ。みさきちゃんとのケンカを全部知ってる訳じゃないけど、酷い事言ったんでしょう? それならなおさらよ。みさきちゃんだって女の子なんだから、ひどい事言われたら傷つくに決まってる・・・」
どこか寂しそうなのは、自分にはケンカしたくても甘えたくても、そんな兄や姉が居ないせいなのかもしれなかった。本当の所は、のぞみの胸の内だ。
「こういうのはね・・早い方がいいのよ。わたし・・・そう思う」
さっきまでの勢いはどこへやら、だんだんのぞみの方が俺よりもトーンダウンしていく。
「・・・わかったよ。ありがとうな、のぞみ」
のぞみの心まで重くしたのをみさきが知ったら、本気で俺を嫌うかもしれない。
そう思ってしまうほどののぞみの暗い表情を取り除く為に、俺は精一杯の笑顔で答えた。
「うん・・わたしも、近い兄弟が居ないのに生意気言っちゃってごめん・・」
照れくさそうな笑顔を浮かべたのぞみだが、俺はそんな事は無いと思った。
のぞみは、俺以上に立派なみさきの姉だったと思う。
ふと見上げた空は、のぞみの笑顔とは裏腹に、泣きじゃくる寸前の子供のような様相を呈してきた。
やがて、空は泣き出した。
どこか、小さい頃のみさきに似ている。そんな風に思いながら、俺は空を見ていた。


「先輩!」
食堂に向かう渡り廊下の途中で、背後から呼ばれた。俺の事だとすぐ解ったのは、いつも俺を呼ぶ聞きなれた声だったからだ。
いや・・・もしかしたら、心のどこかで、呼ばれるのを予感していたのかもしれない。
「あ・・・弥生ちゃん」
振り向くと、みさきの親友。南弥生が、真っ直ぐに俺を見つめていた。
刺さりそうなくらい痛い視線だ。弥生ちゃんにしては珍しい。
「先輩・・・ちょっと話しがあるんです」
いつもの恥ずかしがりな雰囲気は、表情から消えていた。変わりに出ていたものは、いつもの弥生ちゃんからは想像出来ないほどの、何かを決心した強さだった。
悲痛な感じさえする表情だ。
針で刺せば割れてしまう風船のように張り詰めているのが解る。
弥生ちゃんがこんな態度になる理由は、俺には察しがついていた。大好きな人の為ならこの子はいくらでも強くなれる。そう思わずには居られない。
今の場合大好きな人というのは、他でもない、みさきの事だろう。
「・・・なんだい?」
解ってはいながら、聞き返してみた。
「あ、あの・・・その・・・」
弥生ちゃんの張り詰めた物が、少し緩んだのが解る。強くはなれるが、身体の方がまだ心の強さに着いてこれないのだろう。
「みさき・・の事だろう?」
「え・・・?」
俺が言うと、弥生ちゃんはハッとして目を見開いた。なんで解るのと言わんばかりに。
図星だったようだ。
それよりも、俺が気になったのは、弥生ちゃんにここまでさせる程の態度を、みさきが取っていたのかという事だ。
「あいつは、何でも一人でしょいこみたがるからな・・・」
みさきは、俺に対して説教はするが愚痴は言わない性格なのはわかってはいる。それは俺相手でなくてもそうだろうが、それだけに全部一人で抱え込む時の不安定さは、誰よりも俺が知っている。当たり前だ、曲がりなりにも、俺は実の兄貴なのだから。
おそらくだが、弥生ちゃんには、今回の事は話しては居ないに違いないと思った。
もっとも、兄妹の問題だけに、話すほどの事ではないのかもしれないが・・・
「先輩・・・」
「みさきの奴、弥生ちゃんになんか言ったのか?」
一応聞いてみた。
「え、い、いえ。違います! でも・・・今日は朝から少し変なんです。私が話しかけても、どこかボウっとしてて・・・生返事ばかり・・・」
そう話す弥生ちゃんの瞳は、俺よりもその時の情景を見つめているような気がした。
「どうしたのって聞いても、なんでもないって笑って答えてくれるんですけど、なんだかみさきちゃんらしくなくって・・・」
「そっか・・・」
「それで、先輩なら何か知ってるんじゃないかって・・・」
弥生ちゃんは、うつむきながら、消えそうな声で喋り出した。
親友の自分にさえ言ってくれない事を嘆いているのか、それとも親友の不安を聞いてやれない自分の弱さを悔やんでいるのか、俺にはわからなかったが、弥生ちゃんがみさきの事を心底から心配してくれているのだけは解る。純粋に優しい子だ。
みさきは良い友達を持った物だな・・・
ふと、この子が三年生になったら、どんな先輩になるのか興味があったが、今はそれどころではないし、なによりもうじき俺はこの学校から居なくなる。みさきも一緒に・・
不意に、昨日のみさきの涙を思い出した。胸がツっと痛くなる。
涙で思い出すのは、まだ俺とみさきが小さかった頃の事だ。
みさきがいじめられている時に、俺が、みさきをいじめていた奴相手にがむしゃらに突っ込んでいった事が、昨日の事のようだ。
俺は、傷だらけの身体などおかまい無しに、泣いているみさきの手を引いて、連れて帰った物だった。
みさきが泣けば泣くほど、俺は強くなったような気がする。
みさきの兄として。みさきを守る男として・・・
ただ、昨日だけは違っていた。みさきに涙を浮かべさせてしまったのは、他ならぬ俺だからだ。
「弥生ちゃん・・・出来たら、何も聞かないでやってくれないか? みさきの奴が弥生ちゃんに話さないのは、多分・・・弥生ちゃんの事すっごく大事に思ってるからじゃないかな。だから・・・・」
みさきが弥生ちゃんに言わない事を俺が言う訳にもいかなかった。それに、事が兄妹の問題だけに、みさきの事だ、言うのもバカバカしいとでも思っているのかもしれない。
みさきが弥生ちゃんの事をどう思っているのかは、俺の想像だが、実際にそうなのはみさきが弥生ちゃんの事を話す時の表情を見ていれば、察しがつく。
「でも・・・話して欲しいです」
こんな子に寂しそうな表情をさせるなんて、みさきもどうかしてる。
いや・・・どうかしているのは俺の方かもしれないな。
弥生ちゃんを巻き込むような態度をさせた原因は、俺にあるのだから。
「馬鹿な兄貴だと思うかもしれないけど、今は何も言わずに、みさきの側に居てやってくれないか? みさきが弥生ちゃんに、本当の事を言ってくれないのが不満だってわかるけど・・・」
親バカならぬ、兄バカで、しかも勝手な言い分だが、今の状態のままでは、俺が支えになってやる訳にはいかない。学校ではみさきに一番近いのは弥生ちゃんだし、なにより原因が俺にもあるのだから。
「勝手なお願いだけど・・・駄目かな」
「・・・・・・」
弥生ちゃんが、俺の方をじっと見ている。さっきとは違って、くすぐったい気持ちになる視線だった。
「先輩・・・とっても優しいんですね」
不意に優しそうな表情で、ニコっと笑った。女の子の笑顔ではなく、女の笑顔。 いざとなったら、男なんてその笑顔の前にはどうする事も出来ないだろう。
そんな笑顔だった。
「い、いや、別に俺は・・・」
「いいなぁ・・みさきちゃん、こんなお兄さんが居て・・・」
だんだん細くなっていく語尾。「居て」の辺りまでを聞き取るのが精一杯だった。
最後の方はほとんど弥生ちゃんの口の中だけで鳴り響いたに違いない。
「え?」
「い、いえ! なんでもないです」
弥生ちゃんは頬を染めながら、慌てて首を振った。自分の言った事を帳消しにしようとするかのように。
「わかりました。先輩の言った通りにします」
元気が出たのか、先ほどとはうって変わって明るい笑顔になっている。
「頼むよ。あいつの事・・・」
「はい!」
弥生ちゃんは、夏の太陽のような無邪気な笑顔を浮かべながらうなずいて、ちょこんと頭を下げてから、トトっと、弾むように駆け出していった。
弥生ちゃんの姿が、廊下の角を曲がるまで見送ってから、俺は歩き出した。
頼むよ・・・か。
そういえば、みさきが俺の手から離れたのはいつからだろう。
みさきが、俺の前で涙を見せなくなったのはいつからだろう・・・
そんな事を考えていた。
ふと、妙な違和感を感じたが、それが何かはわからないまま、俺は腹を空かせていた事を思い出して、食堂へと向かった。
次第に強くなる雨音を気にする余裕も無いままに・・・・・・


今日一日の授業が終わる頃には、さっきまで降っていた雨はやんでいた。それでも、空は相変わらずの鉛色だ。いつ降り出すか分かったもんじゃない。というより、降っていない方がおかしいぐらいだ。
俺は、そんな空を見ながら、湿りきった空気を胸一杯吸い込んだ。
かすかな土の臭い。あと少しすれば、この土地で嗅ぐ事はもう無いだろう。
新しい土地へ行っても、この臭いは変わらないだろうか・・・
一人で帰ると、そんな事ばかりを考える余裕だけは有り余るほどあった。
本当は一人で帰るつもりはなかったが、帰りに誘った大須賀は、「悪いな、俺、これからミーティングあるんだ」そう言って呆気なく行ってしまったし、のぞみは部で絵の仕上げにかかるとかで、HRが終わると、すぐに部室へ行ってしまっていた。
誰か他を当たっても良かったが、今の空と同様に、気分が乗らなかった時点で、すっぱり諦めて帰途につく事になった。
まあ、いいさ一人で帰るのも悪くはない。
そういえば、みさきの奴はどうしただろう・・・
あいつはあいつなりに、残り少ない青空高校での日々を過ごすのだろうが、ここに来てイヤな思いをさせてしまったのが、気にかかる。
しばらくそんな事を考えていると、鼻の頭にポツリと来た。
ん? と思う暇もなく、大粒の雨が一気に落ちてくる。降り出さない鉛色の空を見た時からイヤな予感はしていたが、まさかここまでとは思いもよらなかった。
慌てて俺は、近くの店の軒下に駆け込んだ。しかし、そんな事をしているのは俺くらいで、町を行く人達は、みんな手持ちの傘をパっと広げている。
実は俺も、今日はめずらしく傘は持っていたのだが、生憎とカバンの中だ。外でのんびり出している訳にもいかない。
やれやれ・・・
折り畳みの傘を広げてから、俺は軒下から離脱した。
雨の勢いはまるでかわらず、勢い良く傘を叩く音がやたらとうるさい。ただでさえ狭い傘なのに、この勢いでは、すっかり濡れてしまう。
靴などは、すでにじとっと濡れて気持ちが悪い。
不快に思いながら歩いていると、数軒先の喫茶店の軒下に、見慣れた制服姿が立っているのが見えた。雨に霞んでも、ハッキリと見て取れた。青空高の女子の制服だ。
いきなりの雨に、傘の用意をしてこなかったのだろう。
それから数歩歩くと、その制服姿の子が、制服以上に見慣れた顔であるのがわかった。
あれは・・・・
雨を降らしている空を、困った風に見上げているのは、みさきだった。

「・・・・・」
「・・・・・」
しばらくは沈黙が続いた。雨の音がなければ、間がもたなかっただろう。
今、俺は無言でみさきのとなりに立っている。
そうなるまでの経緯はこうだ。
みさきだと分かってから、俺は、傘で顔を隠しながらゆっくりとみさきに近づいた。
そのせいで、俺が近づくまでは、みさきはそんな俺をただの通行人とでも
思ったのだろうか。傘を差し出した時の表情には、驚きの色を浮かべていた。今日初めて見た感情のあるみさきの表情だった。
俺は、何事もなかったかのように、
「お前、今日は傘持っていかなかったのか?」と訊くと、
限りなく困った風に、複雑な表情をして、視線を俺から逸らした。
「これじゃ当分止まないぞ」
話すのも気まずいと思った朝とは違って、今はなぜだか言葉がスラスラ出てくる。
「・・・・・」
「ほら、貸してやるから、濡れないようにして帰れよ」
俺は、傘をみさきの前に、ずいっと押し付けるように差し出した。傘をまるまる貸してやるつもりだった。しかし、みさきは受け取ろうとしない。それが、昨日からの事で意地を張る感じではなく、受け取っていい物かどうか考えている風でもあった。
「・・・いい」
初めて反応が返ってきた。
「いいって・・・このままじゃ、いつまで立ってても止まないぞ」
「止むまで待ってるから」
どこか素っ気無いのは、昨日の今日だ。仕方ない。いつものように笑顔で答えてくれるなんて事は期待はしていなかった。
「・・・わかったよ。それじゃ、俺も暇だからつき合ってやるよ」
「え?」
俺がそういう事をするとは予想もしていなかったのか、驚きで目を丸めている。
「家帰ってもしょうがないしな。たまにゃいいだろう」
「なんで・・傘持ってるのに」
「いいよ、別に。使いたければお前が使え」
「・・・いいよ」
否定の意味での「いいよ」なのはわかった。弱々しくも、感情が混じったのは、悪くない感じだ。
「・・・・」
「・・・・・・・・・」
それから、俺はしばらくの間、無言でみさきの隣に立つ事になった。

どれだけ無言が続いただろう。雨は一行に止む気配を見せない。ただ、無言を埋めてくれる雨音だけは有り難かった。もっとも、こんな所にこうしていなければならない理由は、その雨音の元なのだが・・・
俺は、ほうっと一つ息を吐いて、今まで胸に仕舞まっていた決心を掘り起こした。
今言わなければ、もう言うチャンスが無いような気がしたからだ。
「なあ、みさき」
「・・・・」
「答えなくてもいいよ。とりあえず聞いててくれ」
「・・・・」
本当に答えはなかったが、構わず話しを始めた。
「あ、あのさ・・・昨日は・・・その・・俺が悪かったよ。っていうか、悪いのは全部俺だったんだよな・・・いや、ちょっとさ・・・あんまり気分良くなかったからさ、つい・・・」
言ってると、だんだんむず痒いほどの照れくささが、身体の奥から染み出てくる。
「許してくれなんて言える立場じゃないけど・・・その・・・ごめん」
妹に謝る事が、これほどまでに重い事とは思わなかった。辛いという意味ではなく、なんていうか、照れくささの極致というか・・・しかし、一回言葉に出してしまうと、これほどスッキリする言葉も無いかもしれない。
今なら何度でも言えそうな気がする。
「いいよ・・・お兄ちゃん」
「え?」
予想外の反応に、俺は思わずみさきの方を見た。
少し照れくさそうにしている。
「わたしも・・・言いすぎたかな・・って」
「みさき・・・」
「ごめんね・・・・お兄ちゃん」
「バ、バカ、謝るのは俺の方だって」
俺は慌てるしかなかった。予想外の行動をされると弱い。
お互い謝ったせいもあるのか、昨日から重かった俺の気持ちが、今の空より一足早く晴れていく。
「ねえ・・・お兄ちゃん。ちょっと聞いて」
「あ? なんだ?」
「今日ね、学校で・・・のぞみお姉ちゃんに言われたんだ。お兄ちゃんがすごくわたしの事で気にしてたって・・・」
「のぞみが?」
「うん。だから、許してあげてって・・・」
「そっか・・」
そういえば、昼休みが終わった後、妙にニッコリしてたのはそれが原因だったのか。
「のぞみお姉ちゃんに言われなくても、わたしもこんな気が重いのヤだから、謝ろうって思ってた。のぞみお姉ちゃんに言われて、決心したんだけど、いざ会ったら、やっぱり照れくさくって・・・」
「・・・そうか」
結局、お互いで近寄ろうとしていただけだったようだ。それでもお互いに素直に言えなかったのは、似た者同士という事なのだろう。それとも、やはり兄妹故なのか。
「あ、そうだ・・お兄ちゃん、弥生になんか言わなかった?」
不意に、みさきがそう訊いてきた。
「え? い、いや・・・別に」
弥生ちゃんの事だから、俺が言った通りみさきには何も聞かなかったとは思うが、どこから漏れたの物やら。
とりあえず、シラを切り通す事にした。
すこし慌てたのは失敗だったか。
「ふうん・・・」
「なんだよ。弥生ちゃんがどうかしたのか?」
「別に。なんでもないよ」
「なんだよ。気になるぞ」
「いいよ。お兄ちゃんは気にしなくて」
昨日、ケンカした事がまるで嘘のように、みさきは笑顔を浮かべた。
「ちぇ、なんだよ・・・」
俺も、舌打ちしながらも、みさきの笑顔に釣られて笑った。
そういえば、みさきのこんな笑顔・・・ずいぶんと見てなかったような気がする。
そんな笑顔を見ていて、ふと思った。なんて気が安らぐ笑顔なんだろう・・と。
他の誰が笑うよりも、みさきの笑顔が一番見たい。そんな妙な気持ちが、心の奥底から湧いてきた。
兄として・・という気持とは違う、なんだか不思議な感覚だ。
今横に居るのは妹ではなく、親しい下級生・・・そんな感じさえする。
「あ、見て見て。雨・・・やんで来たよ」
しばらくはやまないと思っていた雨が、見る見るうちにこぶりになっていくのを見て、みさきは嬉しそうに言った。
「お、ホントだ」
「やまないと思ったのに・・」
「そうだな・・」
さっきまで止まないと思っていた雨が止んだ事が、今はどうしてだか寂しい気持ちになっている。もっと話していたいと思う気持ちの行き場所が、いきなりなくなってしまったからだろうか。話すだけなら、家でいくらでもある筈なのに・・・
「もう、傘要らなくなっちゃったね」
軒下から手を出しながら、みさきは空を見上げていた。さっきまでの豪雨が嘘のように引き、空も鉛色から、限りなく白に近い灰色になっている。
「やれやれ、荷物になっちゃったよ」
「まだ降ってれば良かったのに・・・」
傘を折り畳んでいる時に、みさきの小さな声が聞こえた。
もしさっきの豪雨の中だったら、聞こえないほどの声だ。しかし、今はハッキリと聞こえた。
「え?」
「もう帰ろう。お兄ちゃん」
すくった水が、指の隙間からこぼれるように、みさきは軒下からぴょんと飛び出した。
自分が言った事など、まったく知らないとでも言う風に。
みさきが踏んだ水たまりの波紋が収まると、そこには雲の隙間から覗く青空が映っていた。


先ほどまでの雨は嘘のように引き、雲は凄いスピードで流れ、青い軍隊に追い払われるように、いつのまにか空からは消えかかっていた。
遥か向こうの空に残る白い雲は、泣いて帰った雨雲を優しく包む母親だろうか。
引っ越して行く先は、あの雲のずっと向こうにあるのだろう。
「このまま帰るのもなんだから、どこか寄っていこうよ」
みさきは、そう言って俺の方に顔を向けてきた。
笑顔を浮かべる顔の頬に差す紅を作る物は、俺にも流れている。
そう意識した途端、不意に不思議な気持ちになる。同じ物を分け合っているという、ただそれだけの事で。
運命の出会いなんていう生易しい物を越えた出会いを、俺達は果たしているのかもしれない。
「なんだよ。帰るんじゃなかったのか?」
「うーん、そう思ってたんだけど、こんなに晴れてきちゃったからね」
目を上に向けてから、すぐに俺の方に視線を合わせて、ニコリと微笑む。
雲に隠れていた太陽が、みさきの表情の中にもあった。
「どっか行こうよ、ねえ」
「なんだよ。いつもは行きたがったりしないくせに」
そうは言うものの、俺もせがまれればまんざらでもない気分になる。
「いつもっていつの事よ。わたし、高校に入ってからお兄ちゃんと帰った事ってほとんど無いわよ」
確かに、ほとんど無い。
「そういやそうだったっけか」
何度かあった一緒の帰りでは、同じ高校の制服を着た女の子が隣に居るという事だけでかなり気恥ずかしかったのも確かだが、さすがに俺よりもそういうのには、気を使う
のだろう。『ほとんど』と『何度か』は、そこらへんの解釈の違いなのか。
「まあいいや。確かにこのまんま帰っても暇なだけだしな」
「そうでしょ? だから行こうよ。ね」
「わかったよ。どこ行きたい?」
「うんとねー・・・・」
そう言ってから、みさきはしばらく考え込んでいた。
行き先も決めないで、行きたがっていたのか。
「うーん・・・・」
「なんだよ、行き先くらい決めておけ」
「そんな事言ったって、さっき行こうって決めたばっかりだもん」
考えに水を差されて、少し気分を害したらしい。
「はいはい・・・」
「あ、お兄ちゃん・・・・今何時?」
いきなりそう聞いてきた。
「え? あ・・と」
腕時計を見ると、時計の針はまだ「俺達」の時間を指していた。夕飯までにはほど遠い。
「三時半だな」
正確には三時二十五分だった。
「・・・・・」
「なんだ? 予定でもあるのか?」
「うーん、そういう訳じゃないんだけどね」
「だったらなんで時間なんか気にするんだよ」
「・・・・ねえ、お兄ちゃんは予定ないの?」
「は? なんでだ?」
「いいから」
「別に・・・無いけど?」
俺がそう答えると、みさきの目に「やった」といわんばかりの光が宿った。
「だったらさ、海行こうよ海!」
「は?」
いきなりの事でも、海と言われると、砂浜やら水平線やらを想像してしまうが、それ止まりだ。そこに行くという事は考え付かない。
「海よ。海」
「海って・・・・なんだ、あの海へか?」
俺の頭の中の海が、ざぶんと波を打ち寄せさせた。
「ね、行こうよ」
「しかしな・・・今からじゃなぁ」
「大丈夫よ。急行乗れば、40分くらいだし」
40分という時間が、俺の心を緩めた。確かに今からさっと行って急行に乗れば、頭の中の海とは違うが、それなりの海には出られる。それに、みさきが寄り道したがるほどの空だ、俺もなんとなくそんな空に誘われてもいいと思った。
「・・・・行こうよ。ね」
「わかったよ。んじゃ決めたからにはさっさと行くぞ」
のんびりしていると、ただでさえ時間が無いのだ、遅くなる。気力も萎える。
「うんっ」
嬉しそうにしてうなずくみさきを見たら、少しでも行き渋ったのが嘘のように、俺まで楽しくなっていた。

 駅からの40分は、俺にとっては不思議な時間だった。
以外なほど空いていた車両で、俺とみさきは座席に座って、たあいも無い事をずっと話していた。同じ学校で、しかも歳は一つ違いだ。しかも家族だから、話にジェネレーションギャップなど無く、会話の内容は、他の子と話すよりずっと身近でなじみやすい物だった。学校の事から親戚の事まで、そんな会話が出来るのはみさき以外には居ない。
40分も腰を落ち着けて、ずっとそんな会話をするのは、もしかしたら初めての事かもしれない。
目的の駅が近づいても、あまり乗客の数は変わらず・・・いや、むしろ少し減った感じになった時、みさきが悪戯っぽい笑顔を浮かべて、
「ねね、お兄ちゃん、さっき向かいの席の一番はしっこに座ってたカップルが居たじゃない。ああいう人達から見たら、もしかしたらわたし達も、そういう風に見えるのかなぁ」
ただの悪戯な台詞だったのだろう。確かに、兄妹とはいえ、兄です妹ですと宣伝して回っている訳でもないし、そういうプラカードを持っている訳でもない。他の人が見れば楽しそうに談笑していると俺とみさきを見れば、兄妹と思う奴の方が少ないだろう。
雰囲気だけからすると、そこらのカップルよりはずっと深い物に思えるに違いない。
ただ・・・その事を、頭の中で外側から見るようにして想像してみた。俺の目が俺から離れて、向かいの席から、俺とみさきを見ている感覚で・・だ。
「さ、さあな。別に俺達が兄妹だからって触れ回ってないから、そう思われてるかもしれないぞ」
「そうかな」
みさきが笑った。悪戯が成功した子供は、こんな笑顔を浮かべるのだろうか。
俺の方はといえば・・・妙な話しだが、そう思われてもいいとさえ思った。
今隣に座っているのは、血が繋がった妹だ。仲良く談笑したりしても、それが当たり前の事だから、なんとも思わないが、自分がいざ客観的に俺とみさきが並んでいる姿を見ると、なぜだか変な気持ちになる。胸のあたりがざわついて、妙に落ち着かない感じだ。なによりおかしいのは、それが心地よいという事だった。
それが普通と思う事はあっても、心地よいと認識したのは、初めてだ。
「腕くんじゃおうか。そしたら誰もわたしたちの事兄妹だなんて思わないよね」
悪ノリとも本気ともつかない、冗談まじりの声でみさきが言った。
俺は、ふと、横に居るのが妹ではないような気がしてきた。
妹ではなく、みさきという名前の女の子だ。たまたま俺と血が繋がっているだけの女の子。俺の今までの人生の仲で、両親以外に一番長く一緒に居る存在。
妹という認識とはまったく違った物に思えた。
そんな思いを慌てて振り払ってから、
「ばか、洒落にならん」
「そっかなぁ、面白いと思うんだけど」
学校では、割りと回りの目を気にする年頃でも、こうやって長い時間話していて何かが緩んだのだろう。
俺は、こう言いかけた。「兄妹でそんな事が出来るか」と。
そこで、ふと、こんな疑問が浮かんだ。
なぜ兄妹ではそんな事がいけないのか?
正直、この疑問を浮かべた俺の頭が、どうかしてしまったのかと思ったくらいだ。
以前ならば、どうかした以前に、あまりにばかばかしい事として、鼻で笑える程度だった筈なのに。
それが、どうして・・・
「ん? どうしたのお兄ちゃん」
この時、声さえかけられなければ、もしかしたら普通に戻れたかもしれない。
「え? あ、ああ・・別に」
「ふうん・・・あ、もうすぐ着くよ」
そう言ってから、みさきは立ち上がった。俺は、立ち上がったみさきの後ろ姿を見て、沸き上がった奇妙な感情を、半分ほどの無意識で、心の中に押し戻そうとした。
もう半分の意識は、なぜだか押し戻そうとする無意識を応援しようとはしなかった。


空気に潮の香りが混ざっていた。
不定期に砂浜に押し寄せる波が、心を和ませる潮騒を生んでいる。
ちょっとした砂浜のある海岸は、人の影もまばらだ。こんな時間にわざわざ砂浜に用のある奴も多くはあるまい。
俺は、一人座って海を見ていた。いや、正確に言えば、波打ち際を裸足になって歩いているみさきを・・だ。
海岸に着くなり、いきなり裸足になって、波打ち際に向かっていったのには驚いたが、それもいいかな。と思い、俺はみさきの靴と靴下が置いてある横にどっかりと座り込んだ。
波打ち際を歩くみさきを見ていると、さっき電車の中で沸き上がってきた奇妙な感覚が、まるで嘘のように引いているのがわかる。
しかし、それが一時の事であるのは、俺にはなぜだか分かっていた。引いては寄せる波のように、きっとまたあの感覚は戻ってくるだろう。この胸に。
薄々と気づいている。この感覚がなんなのか。
ただ、それを認める事は、俺が俺でなくなる事にも等しい。そのせいか、俺自身もまだ「バカな事」として、片付けている。
そんな事をぼんやりと考えていると、みさきが波打ち際から戻って来た。
「お兄ちゃんも波打ち際行こうよ。水が気持ちいいよ」
「俺は遠慮しとくよ。なんか恥ずかしいしな」
「なぁに? 折角海に来てるのに」
「いいんだよ。海なんてのは見てるだけでもいいモンだ」
なるべくみさきと目をあわさないように、俺は海の方を見ながら言った。
「ふうん・・・・」
そう言ってから、しばらく考え込んでいたみさきは、何を思ったか、いきなり俺のすぐ横に座り込んだ。
「じゃ、あたしも海でも見てようかな」
「な、なんだよ。もっと遊んでくりゃいいだろう」
「だって、お兄ちゃん、海は見てるだけでもいいもんだって言ったじゃない」
「それはそうだけど・・・」
「だったらいいじゃない。ね」
ふと目を合せてしまった。瞬間、「やばい」という言葉が頭の中で閃く。
心臓が緩やかに、しかし確実に鼓動を早めていくのが分かる。その心臓が全身に送り出すのは、例えようもない安心感と心地よさだ。
「? なによ、お兄ちゃん。わたし、なんか付いてる?」
キョトンとした表情で、まっすぐ俺に向かって言ってきた。
訝しそうにされなかったのは、助かったと言っていいのか・・
「い、いや、別に」
「あ、そ」
俺のこの感覚をみさきの心だけに伝える事ができたら、みさきはこう言うに違いない。
この感じは恋だよ。と。
俺にはわかっていた。今まで何度かあったこの感覚。甘酸っぱい感覚。その感覚を覚える時には、いつも女の子が近くに居た。気になる女の子という奴だ。それと同じ感覚を、今俺は自分の妹に対して持ってしまっていた。
一昨日までは、俺はみさきを妹だと思っていた。今もそう思っているのだが、今日と一昨日では、その度合いがまるで違う。妹と思うと同時に、確実に女の子として見ている。
間違いなかった。俺は今、妹である筈のみさきの事が好きになっていた。
目を合わせた瞬間、その事が頭の中で弾けた。
錯覚だ。勘違いだ。気のせいだ。誤解だ。
さっきからそんな事で、その気持ちを塗りつぶしていて、それで納得はしていたのだが真実を偽りで塗り固める事は出来る筈も無かった。あっけなく剥き出された真実はすでに隠す事が出来ないまでに輝いている。
最後の抵抗として、俺はなるべくみさきの方を見ないで、海の方へと意識と視線を向けるが、意識だけがどうしても横に座っているみさきの方を向こうとする。ここで意識を抑える事が出来れば、もしかしたら、以前のように俺は兄に戻れる筈だ。そう信じて、必死に抑えようとすればするほど、更に強く意識するようになっていく。
兄としての俺が男としての俺に負けて行くのが、手に取るようにわかった。
「ねえ、お兄ちゃん」
いきなりそう呼ばれて、俺は、心臓が胸を蹴り破って、出ていってしまうのではないかと思うほどの高鳴りを感じた。
「な、なんだ!?」
「な、なによお兄ちゃん、そんなにびっくりして・・・どうしたの?」
言われて、俺が素っ頓狂な声を出していた事に気づく。動揺していた証拠だ。
「いや、別に・・・それより、なんだ?」
不思議と、会話が始まると、若干の高鳴りは残るものの、普通の状態で居られるようになるのは、兄妹として長く同じ場所で過ごしていたせいだろうか。
「別にたいした事じゃないんだけどね。こうやってお兄ちゃんと海に来たのって、何年ぶりかなぁって思って」
「そういえばそうだな」
「確か最後に家族で出かけた時だから・・えーと・・・」
家族。という言葉が、ちくんと胸に刺さった。鈍い痛みだ。
「俺が中学に入った時以来だったかな」
「そうそう、そうだったよね」
みさきの表情がぱっと輝く。落ちかけた夕日が、その表情を優しく照らしている。
その時、今までみさきを妹としか見ていなかった事のツケが今来た。
ニッコリ笑う表情は、今までの俺の知っている妹のみさきの物ではなく、女の子としての物であった。
驚きさえ通り越して、新鮮ささえ感じる。今まで、こんな笑顔をする女の子が俺の妹として、一番近くに居たのかと思うとなおさらだ。
一昨日までは、小憎らしいと思う事はあっても、心底から可愛いと思った事など一度も無かったのに。
「懐かしいよね」
「まあな」
あの頃の気持ちには、なぜかもう戻れない気がした。
「また家族で旅行とかしたいよね・・・・」
「引っ越して落ち着いたら、またいけるよ」
「うん、そうだね・・」
みさきの表情に、寂しそうな影が落ちた。
「引っ越す所って、どんな所なのかなぁ・・・」
「・・・・・」
「こうやって、海にこれる場所だといいのにね」
小さく呟くような声は、潮風に吹き消されてしまうほどか弱かった。
転校という事実を、思い出させてしまったせいかもしれない。
みさきが言ったきり、しばらくはお互い何も言わずに、海を見ていた。
海に消えていく太陽が、海をキラキラと輝く黄金に変えていく。
こんな中、本来なら誰か好きな奴と一緒に居られればいい。なんて思うだろう。
以前ならば。
それは今も変わってはいないし、なにより、今実際にそうしているのだ。
チラリと横を見ると、みさきが足を抱えるのが見えた。
「・・・寒いか?」
「別に大丈夫よ」
そう答える物の、俺から見ると、潮風のせいでかなり冷えていそうな感じしかしない。この時、兄としての行動と、男としての行動が、俺の中で一致した。
学生服の上着を脱いで、みさきに渡した。
「ほら、かけとけ。あったかくしとくに越した事ないだろう」
「え・・お兄ちゃん?」
みさきは目を丸くしている。俺がこんな事をするなんて思いもよらなかったのだろう。
「風邪引かせたら、俺が母さんに怒られるからな」
さも、もっともな理由を付けた。そんな理由でも付けないと、みさきが受け取ってくれないような気がしたからだ。
「うん・・それじゃ、借りるね」
やはり少し寒かったのか、みさきは俺の上着を羽織って、前を合わせていた。
「寒くないか?」
「うん、大丈夫。凄くあったかいよ」
嬉しそうな表情があれば、上着が無くても寒くない。
「お兄ちゃんの上着・・・結構大きいんだね」
「そうか?」
「うん・・・昔は、同じシャツが着られるくらい、あんまし変わらなかったのにね」
「・・・・・・・」
戻りたい。と兄の俺が言う。
戻りたくない。と男の俺が言う。
二人の俺の勝敗は明らかだった。
「すごく・・あったかいよ。お兄ちゃん」
俺がどう思っているかを知っても、みさきは俺の事を兄と呼んでくれるだろうか・・・・

 このままいつまでも海を見ていても良いと思った。
太陽が海に沈みかけた時から、俺とみさきは、ただ黙って見ているだけだった。
赤い太陽が、半円になり、そしてじょじょに半円が小さくなっていく。消える瞬間、みさきが小さく声を上げた。なにを言ったのかわからなかったが、久しく聞いてなかった楽しそうな響きのある驚きの声だ。
いつも身近に居ながら、もしかしたら一番遠い存在だったのかもしれない。
むしろ、近づく気などまるで無いくらいだった。妹はあくまで妹。おかしな感情を差し挟む余地があるとは、思いもよらない。親のように小言や文句を言われる度に、憎らしいと思った事が何度あるか・・・
しかし、今ではそれすらも、そんな事を思った事自体が不思議にさえ思える。
やはり、俺はどうかしてしまったのだろうか。恐いのは、その、どうかしてしまった事を本気で恐れていない所だった。
「そろそろ帰るか?」
いつまでも居たかったが、そんな訳にも行かなかった。
遅くなれば、俺はともかくみさきの事を母さんは心配するだろう。親父は転勤の残務処理で忙しいからまだ帰ってはいないだろうが、母さんは家の事で忙しい。
余計な事で心配をかけさせる事は出来ない。
「そうだね。お母さん心配するからね」
「よし、んじゃ行くか」
俺は先に立ち上がった。ある事をする為に。
「ほら、立てよ」
座っているみさきに手を差し出した。
「・・・・」
短いとも長いともつかない瞬間が続き、みさきは俺の差し伸べた手をつかんだ。
俺の手を掴んだみさきには、言葉は無かった。ただ笑顔があるだけだった。
少し冷えたやわらかい手を感じて、弾けそうになった心臓を抑えるように、握る手に力をこめた。強く握れば壊れてしまいそうなほど柔らかい。
「よっ・・・と」
ゆっくり引くつもりが、無意識に強く引いてしまった。そう気づいた時にはみさきはバランスを崩して、俺の胸に寄り掛かりそうになる。
かろうじて、みさきが残った手で俺の胸に手をついた事で、完全に抱き止める形にはならなかったが、手を付かれた事で、爆発的に鼓動が高鳴る。
慌てて身体を逸らした。
「わ、わるい」
みさきの表情を見る事が出来ずに、視線を空に向けた。すでに紫色のヴェールがかかっている。
「お兄ちゃん、上着・・・」
みさきは、何事もなかったように、上着を脱ごうとしている。
「駅までは着てろ。風邪引くぞ」
「わたしが着てたら、お兄ちゃん風邪引いちゃうよ?」
言われてみれば、確かにほんの少し肌寒いが、耐えられない程じゃない。
「バカ、俺はいいんだよ」
「む、バカとは何よ。折角心配してあげてるのに」
「わかったわかった。とりあえず着ておけって」
「わかったわよ。そんなに着てて欲しかったら、もう返さないからね」
あかんべをしそうな勢いだ。
「別にいいけど、俺の制服着たまんま一緒に電車なんか乗ってみろ。間違いなく俺達は恋人同士扱いだ」
そう言って、出来るだけ意地の悪そうな笑顔を浮かべた。いつものノリに戻れて、どこか安心している自分と、そんな関係を本気で希望している自分に気づく。
兄と男の自分の戦いは、当分続きそうな気がする。
「いいわよ。離れて乗るから」
「あ、ずるいぞ」
「こんな時間にお兄ちゃんの制服なんか着てるのを見られたら、何言われるかわかったもんじゃないしねぇ」
内容こそ胸に刺さる物だったが、冗談一杯に言っているのがわかる笑顔だ。
「さ、行くぞ」
「あ、待ってよ。まだ靴下履いてない」
「待っててやるよ」
以前の俺ならこんな事を言っただろうか?
みさきは、こんな言葉をどう感じているだろう・・・・
結局、家に着いたのは、いつもの夕飯の時間を少し過ぎてからだった。


 思えば、夕飯のあたりから、少し熱っぽかったのかもしれない。
それでも、夕飯の時は、海へ行った事で気が晴れたのか、いつもより
楽しそうにしているみさきに釣られて、近年にないほど明るい食卓になったせいで、熱っぽかったのは感じなかったが、部屋に戻ってどっかりと椅子に座ったあたりから、その事に改めて気づいた。
そのままぐでっとすればするほど、身体は嫌な具合に上気してくるし、身体の節々も、痛いと思えるくらいだるくなっている。
やはり、今日の海が止めだったかのかもしれない。 だからと言って、あの時みさきに上着を貸さなければよいなんていう事だけは思ってはいなかった。風邪を引くとわかっていても、あの時の俺なら貸しただろう。そう言い切れる自信がある。
たまらず布団の上に倒れてから、ぐてっとしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「ん? 誰?」
すると、「お兄ちゃん、わたし」と、みさきの声が聞こえてきた。
「ああ、なんだ?」
「ちょっといい?」
「・・・・・なんか用か?」
入って良いと言わなかったのは、風邪を移さないためだ。
「入っちゃ駄目なの?」
「あ、いや・・・ちょっと熱っぽくてな」
「え?!」という驚きの声と同時にドアが開く。
「なに、お兄ちゃん、風邪引いたの?」
言っても言わなくても入ってくるのが同じならば、この方が良かったのだろうか。
「なんだ、入るなって言ったろ」
「言ってないでしょ!」
みさきは、怒った風に言う。
言われてみて、確かにそうだと気づいた。やばいな、熱が回っているせいだ。
俺が風邪を引いて重くなるときは、いつもこうなる。
「とにかく、移るぞ。だから入ってくるな」
言葉を言う度に、頭の奥がどんどんと熱っぽくなっていくのがわかる。
まともに考える事も出来なくなりそうだ。
俺の警告も無視して、みさきはずかずかと部屋に入ってくる。
「馬鹿ね。だから無理しないで上着をすぐ着てれば良かったのよ。ほんとにもう・・・・」
呆れた風に言っているが、いつもと違う風に聞こえるのは、俺の気のせいだろうか。少しだけ優しげに感じる。
なった事は無いから解らないが、姉に気遣われる馬鹿な弟とは、こんな心境ではないだろうか?
「今更言われてもしょうがないだろう。とにかく移るから出ていった方がいいぞ・・・・」
駄目だ・・・どんどん気分と身体が重くなっていく・・・
みさきへ妙な感情を抱いたのは、もしかしたら風邪を引いていたせいではないかと、安心したくらいだ。
もっとも、そうではない事くらい、自分がよく知っているのだが。
「とにかく、もう寝た方がいいよ。早めになんとかしないと、学校休む事になっちゃうよ?」
「う・・・」
「もう、転校まであと少しなんだから、そんなんで学校休んだらもったいないでしょ・・」
「そうか・・・そうだよな」
「でしょ。だから早く寝て。あたし、薬とか持ってきてあげるから」
「ああ・・・悪いな」
熱っぽいせいか、先ほどまでの感情だったら、今のみさきの優しさに少なからずも過剰に反応していただろうが、今はそうはいかなかった。
「もう、ほんとに世話が焼けるんだから」
苦笑寸前のような、呆れ声で言われた。
実は、俺がみさきの弟ではないかと思わされるくらいだった。両親が大いなる企みで俺を騙そうと思えば、もしかしたら可能かもしれないな。一つ下くらいなら妹の方が全然精神的に上に思える。
「いい? ちゃんと寝てなきゃ駄目だからね」
「わかったから、早く出て行った方がいいぞ・・・」
とは言うものの、声に全然力が入らない。
「じゃ、持ってくるから待っててね」
みさきは、すぐに部屋を出ていった。
やれやれ、俺はまったく何をやっているんだ・・・こんな時期に・・・
適当に着替えて、俺はさっさと布団の中に潜り込んだ。


みさきが持ってきたのは、薬と水だけでは無かった。
「なに、風邪を引いたの?」
母さんが、呆れたような顔をしている。
みさきが連れてきたのだ。
「この時期になにやってるのよ、ほんとに・・・」
「う・・・」
「困ったわね・・・」
「・・・・・」
「明日、お父さんの転勤の都合で用があって、ちょっと出なくちゃならないのよ」
「え?」
困ったというのは、別に俺が風邪を引いた事とは直接関係が無いらしい。
てっきり、呆れたという意味で言ったのかと思っていた。
「明日は大丈夫そう?」
「う・・・・駄目そう」
正直、どんどんと熱っぽくなってきて、話すのも辛い状態だ。
明日は間違いなく今より重いだろう。
「明日、朝はまだわたしが居るけど、昼には出ちゃうし・・・みさきも学校だからね・・」
それでも、心底から困った風ではないのは、風邪くらいで・・・という事もあるのだろう。
「大丈夫よ。駄目そうだったら、明日あたしが帰ってきてから、面倒みるから」
みさきが割って入ってきた。
「お母さんも、大丈夫だって。こう見えてもお兄ちゃんはずいぶん丈夫なんだから。なんたってなんとかは風邪を引かないのに、間違って引いちゃったってくらいだからね」
「・・・・・まじできついんだぞ・・」
怒る気力も無かった。今のは、うめきと同じだ。
「・・・ごめん」
珍しい、しおらしくすぐ謝るとは。
「じゃ、明日みさきが帰ってくるまでは、なんとかなさいな」
「わかってるよ・・・」
「じゃ、お兄ちゃん。薬と水・・・ちゃんと飲んでゆっくり寝てね」
「ああ、悪いな。それじゃ、風邪移るからさっさと出てくれ・・」
正直、身体を動かす事自体、苦痛でたまらないほどだったが、母さんとみさきが出ていくのを見てから、持ってきた薬を飲んだ。
すると、カチャとドアが小さく開いた。
覗いたのはみさきだ。
「ごめんね。お兄ちゃん」
そう言って、すぐにドアを閉めようとしたのを、呼び止めた。
「なに?」
「ちょっと電気消してくれ・・・」
「あ、うん」
言われた通り、すぐに部屋の電気を消してくれた。
「さんきゅ」
「・・・・じゃ、おやすみ」
小さな声で言って、ドアをゆっくり閉めた。ほとんど閉じる音がしなかったくらいだ。
ふと、さっきのみさきの言葉が頭に浮かんだ。
ごめんね・・・と。
何に謝ったんだろう。俺が上着を貸したせいで、俺が風邪を引いたと思われた事か? それとも、悪ノリでもさっき俺をからかった事か?
考えようとしたが、それも辛くなったので、俺は布団を被って眠りについた。
辛い状態から逃れるには、これが一番だ。


案の定、翌朝に目を覚ました俺は、それこそ身体を動かすどころか、息をする事さえも辛いと感じるくらい、身体は言う事を聞かず、頭も朦朧としていた。
昨日どんな事があったのか、どんな事を思ったのか、思い出そうとさえしなかったくらいだ。
それを思い出させてくれたのは、昨日の大半の時間を一緒にすごしたみさきの来訪であった。
「お兄ちゃん、起きてる?」
ノックもせずに開けたドアの隙間から、中を覗き込みながら言った。
すでに制服に着替えている。
「・・・・・あ」
答える気力も無いとは、我ながら情けない。
「大丈夫?」
「まあな・・・」
大丈夫とは言い難いが、死にはしないだろう。
「今日、学校・・・」
「う・・・・無理」
軽くなっていたら、行くつもりだったが、いくらなんでもこれは無理だと、目を覚ました時に思っていた。
「それじゃ、わたしが冴子先生に言っておいてあげるね」
学校では、俺のクラスの担任の三上先生は、女子生徒からは冴子先生の愛称で通っている。あの茫洋とした雰囲気が、親しみ易さを感じさせるせいだろう。
もちろん俺達男子生徒も、そう呼んではいるが、大半の奴が、心の中や冴子先生が近くに居ない時だけだ。
「ああ・・・頼む」
「うん、いいよ」
みさきは、にっこり笑って答えた。
「あ、そだ。お兄ちゃん。なんか欲しかったら学校帰りに買ってくるけど、なんか無い?」
「う・・・そうか? それじゃ・・・今日確か少年ウェンズデーの発売日だったよな。それ頼めるか?」
「うん、わかった。あとは?」
「あとは、適当になんか身体によさそうなジュースとか・・・それだけでいいや」
「いいよ。それじゃ、なるべく早く帰ってくるから、ちゃんとしてなきゃ駄目よ」
「わかったよ」
俺が答えると、満足したように微笑んで、ドアをパタンと閉めて行ってしまった。
みさきから見ると、やはり一つ上の兄なんて、ガキっぽく見える物なのかもしれないな・・・

 妙に不鮮明な映像だったが、なぜかハッキリしている。
俺にはこれが夢だという事がわかっていた。
なぜなら、俺が今見ているのは、俺とみさきの姿だったからだ。
何故か、自分が自分を見ている筈なのに、そこに居る小さな俺も俺であった。
自分が自分でありながら、客観的に自分を見られるのは、夢以外の何物でも
ないだろう。
俺が見ているのは、今の俺の身長の半分くらいの俺とみさき。子供の頃の俺達兄妹だ。
場所は河原。
時間は夕方だ。いつも見える橋の向こうに赤々とした夕日がある時間になると、俺達はいつも帰途についていたのを、鮮明に覚えている。
今、夢とわかっている中で見ても、胸をえぐられる気持ちになる。理由も無いのに泣きたくなる。そんな夕焼けの中での事だ。
ただ、これが実際の記憶なのかどうかは自信が無かった。似たような事を繰り返していた日々だったからかもしれない。
「待ってよお兄ちゃん」
泣きそう表情で土手を登ってくるみさきを、俺は土手の上で待っていた。
お下げ姿なのは今も変わっていないが、今よりずっと弱そうに見える。
母さんの分身でもあるかのように、俺に小言を言う今の姿とは比べ物にならないほどだ。
「早く帰らないと、お母さんに怒られちゃうよ」
俺は・・・いや、僕はそう言った。
みさきは、いつもこの土手を登るのが苦手だった。初めてみさきとここの河原に遊びに来た帰りに、土手の途中でバランスを崩して下まで転げ落ちてしまったのが原因だった。幸いにも夏の草の多い時期だったせいもあってか、カスリ傷一つなかった
のだが、本人はなにより恐ろしかったのか、それ以前の倍の時間をかけるようになっていた。
「だってぇ」
あと一言何かを言ったら泣いてしまうのではないかという時、
「・・・・」
僕は黙ってみさきの居る所まで降りて、おっかなそうにして、土手についている手を掴んだ。
「ほら、俺が手握っててやるから、しっかり自分で登れ」
いつのまにか、僕は俺になっていた。が、しかしすぐに僕に戻る。
まあ、夢の中だ。こんな事も不思議とは思わない。
「お兄ちゃん、絶対に離さないでよ。絶対だよ」
「大丈夫だよ」
握った手から、恐怖感が伝わってきたが、俺はそれを握り潰したいと思ってか少し強く握った。もちろん、痛くない程度に。
なんとかみさきを土手の上まで引きあげた。
「そんなに恐がるんなら、ついてこなくたっていいのに」
恐がるくせについて来たがるというのが、当時の俺の、苛立ちを覚える素だった。
何人かの友達で遊ぶ時は、のぞみや他の女の子も居たせいもあって、別段気にはならなかったが、俺が一人で歩こうとする時には、その事がイヤでたまらなかった。
妹なんて邪魔なだけだ。と、思った事さえあったのをしっかりと覚えている。
あの頃は、みさきは今のみさきよりずっと子供で、俺の方が圧倒的に兄だった。
「・・・・・・」
土手から引き上げたみさきは、不満そうにしているが、俺の手を離そうとはしなかった。離したら、置いていかれるとでも思っているのだろうか。
ふと、この手を離してはいけないような気になって、俺はそのまま無言で手を引いて歩き出した。みさきも、何も言わずに俺に手を引かれるままについてくる。
夕焼けの中、俺は、そんな俺とみさきを見ていた。夕日を背にしている姿はシルエットだったが、それがひどく懐かしい気持ちにさせていた。
そして俺は目を覚ました。


 みさきが学校へ行き、母さんが出かけた所までは、うんうん言いながらも起きていたが、今目を覚ましてみると、すでに時刻は二時を回っていた。
前から持っていた俺の時計と、のぞみがくれた時計の二つが、俺の日常を監視している。
授業が終わるまで、あとちょっとか・・・
ふと、夢の記憶を、思い起こしてみた。真っ赤な夕焼けの中、俺とみさきが手を繋いで歩いている姿だけが鮮明で、後の事は良く覚えていない。
・・・と、気が付けば、身体が随分楽になっているじゃないか。
動くのもイヤだった夕べから今朝にかけての事が嘘のようだ。一昨日からの事がそれこそ夢であるかのようだ。
もしかしたら、本当に昨日みさきと海へ行った事も夢じゃあるまいな。バカバカしいと思いつつも、念の為に、じっくりと思い出してみた。
ケンカ、雨宿り、電車での会話、波の音、沈む夕日、みさきから上着を返してもらってから着た時に感じた温もり・・・・どれもしっかりと思い出せた。
一つ一つを思い出す度に、風邪の時とは違った熱っぽさが、胸のあたりにじんわりと広がっていく。
一晩経って、昨日のみさきと居る時の熱っぽいほどの気持ちはなくなったが、それの方がまだマシだったと思えるような気持ちが、今の俺の中をゆっくりと駆け巡っていた。
今の正直な気持ちはこうだ。
みさきに会いたい。
うざったいと思った事もある。居なくなればと思った事も、今は無いが昔はあった。
そんな存在だった筈のみさきに、今は何故か会いたい。同じ家にいるのだから、そんな事を思わなくても、むしろイヤでも会ってしまうにも関わらず、無性に会いたい。
もはや、妹だとか、そういう事はどうでも良くなっていた。だからなんだという心境だ。
相手がなんであろうと、今まで嫌いでこそなかったが、異性という感情で見た事がなかった妹であろうと、落ちてしまった物は仕方がない。これは頭で割り切って考えられるような問題じゃなかった。頭で割り切れていたら、世の中の愛憎劇は激減する筈だ。
自分の考えている事を、勢いで誤魔化そうとしているとわかるだけが、まだ俺が俺で居られている証拠だった。


 なにもせずに寝ていると、とにかくやたらと考える事が多いせいか、みさきの事だけでなく、いろんな事を考えていた。摘み食いをするような感じで、あっちの考えをしたと思ったら、次はこっちという風に、どうにも落ち着かない。
考えるのにも飽きた頃、着ている物も汗で湿ってきた事もあってか、布団から起きあがって、着替えを始めた。寝巻きのシャツとズボンを脱いで、トランクス一丁になったその時、
「お兄ちゃ〜ん、ただいまぁ」と、いきなりみさきがドアを開けてきた。
別に俺はどうという事はなく、いきなりの帰宅で、安心した程度だったが、みさきはドアを開けたままの体勢で固まっていた。
固まったみさきを見て、俺は何秒止まるか冷静に数えてみようという気になった。
一秒・・・まだ動かない。二秒・・・動かない。三秒・・・あ、ちょっと動いた。
四秒目くらいに、開けてきた時の倍くらいのスピードで、ドアを勢い良く閉める。俺の方が唖然としたくらいだ。
俺の半裸なんか見て固まったってしょうがないだろうに。
普通なら、気になる相手に見られた男なら、少なからず慌てただろうが、そこはそれ、まだ兄としての自分の方が強い。
ドアを閉めてから、しばらくしてから、ノックの音が聞こえてきた。
「終わったぞ」
すると、ゆっくりとドアが開いた。
「ごめんね・・ノックしないで」
照れくさそうに頬がほんのり染まっている。
「あたしも人の事言えないね」 と、そう言って苦笑した。
会いたいと熱望していた気持ちも、実際会ってみると安心感に早変わりしていた。普段会えない間柄では無いというのが、その理由だろうか。
「いいよ。それよか随分早いな」
「うーん、まあね。今日はどうしてもって事で、部活休んできちゃった。それより、もう大丈夫なの?」
「まあな。結構楽になったよ。汗かいたせいもあるんだろうけど」
「な〜んだ、だったら早く帰ってくる事なかったかなぁ」
「そうだな」
「弥生が、今日の先輩の運勢では、体調は最悪なんだって、な〜んて言うから、心配してさっさと帰ってきたのに」
途中、弥生ちゃんの物真似が入った。中々似ている。
「やっぱ、弥生には悪いけど、あたしは占いなんて信じられないわ」
「人それぞれって事だな」
「うーん・・・ま、いいけど」
たいして気にする事でも無さそうな表情だ。
「あ、そうだ。お兄ちゃんに頼まれてたの、買ってきたよ」
手にしていたコンビニの袋を、俺に差し出した。
「悪いな。いくらだ?」
「いいよ、雑誌はあたしも読むから。ジュースはおごりね」
「珍しいな、お前がおごってくれるなんて」
「うーん、お兄ちゃんには、やっぱお世話になってるからね」
どこか嬉しそうな言葉に、ふと、夢の中の出来事が浮かんでくる。
「気持ち悪い事言うなよ」
もちろん照れ隠しだ。いつもなら、これで売り言葉に買い言葉が始まる。そんな関係を続けるのも、俺の望みだ。
「なによぉ・・・と、言いたいとこだけどね。今日はお兄ちゃん病人だからね。多目に見てあげるわ」
そう言って、俺に袋を押し付けた。
「はい。とりあえずこれね」
「あ、ああ・・・」
「お兄ちゃん、今日何が食べたい?」
「え?」
「お母さん、出かけてていないんだから、今日はあたしが作るわ。ほんとに何も聞いてないんだから・・・」
やれやれ・・という言葉は無かったが、俺の頭の中では、みさきの頭のあたりにそう書いた吹き出しが見えたような気がした。
「お前もなんだかんだで、随分しっかりしてきたよな」
ついポロリと洩らしてしまった。
「な、なによ、それ」
「いやな、あんなに泣き虫だったのにな・・って」
「いつの話しよまったくもう!」
恥ずかしそうに頬を紅くしながら、頬を小さく膨らませて怒って、次に何か言おうとした時、突然チャイムの音が鳴り響いた。
「うん? 誰か来たぞ」
「あ、お兄ちゃんいい。あたし出るから」
そう言って、足早に俺の部屋を出ていってしまう。
しばらくして、階段をあがる足音が二人分聞こえてきた。一瞬母さんでも帰ってきたのかと思ったが、そうではなかった。
「の、のぞみ」
俺の部屋をノックもせずに開けたのは、のぞみだった。みさきは、のぞみの後ろに立っている。
青空高校の女子制服姿が二人も部屋の前に居ると、不思議を通り越して壮観な物さえある。
「風邪引いたっていうから、お見舞いに来てあげたわ」
俺を病人と思っていないかのように、明るい声だった。もっとも、俺が平然と布団の上にあぐらをかいていたせいもあっただろう。
「元気そうじゃない」
「まあね。まだちょっとだけだるいけど」
「それはそうと、おばさんお出かけしてるんだって?」
「ああ」
「わたしがなんか作ってあげようか? 夕飯にはちょっと早いけど」
「え・・あ、いや・・・」
ふと、のぞみの後ろに立っていたみさきと目が合った。すると、みさきは少しだけ瞳を動かして、俺から視線を外した。ほとんどこっちを向いている筈だが、焦点は俺には合っていないに違いない。
「なに? 食欲無いの?」
「そうじゃないけど・・・」
こんな時にも、俺は痛感していた。みさきが作ってくれるのを、どこか楽しみにしていたという事を。のぞみほど料理はうまくは無いが、普段食べ慣れている味を、ぎこちないながらも出してくれる、みさきの料理が今は食べてみたかった。しかし、折角来てくれたのぞみの好意を辞退することが出来ないのは、その事を口に出来ないからだった。
「だったらいいじゃない。とりあえず、おなかにいい物でも作っておくから、後で二人で食べてよ」
「あ、ああ・・・」
「それじゃね。元気そうで安心したわ」
ニコリと笑ってから、俺の部屋を後にした。部屋を出ていく時、のぞみに付いていくみさきが、ちらっとだけ振り返って俺を見てからすぐにのぞみを追いかけていく。
なぜだか、その時の視線が胸の奥に鈍く残った。


「お兄ちゃん、ちょっといい?」
ドアの向こうで、みさきが言ってきた。
「いいぞ」
「あ、ちょっと悪いんだけど、開けて」
「え? なんだ・・」
何かと思いながら、布団から起きあがって、ドアを開けに行った。
ドアを開けると、待っていたのは、両手で大きなお盆を持ったみさきが立っていた。
すでに着替えている。
お盆に乗っていたのは、うまそうな匂いを立てている料理の数々だ。
「ご飯、持ってきてあげたよ」
「のぞみは?」
「・・・ご飯作ってから、すぐに帰っちゃった」
「そっか・・・」
「それより、料理運ぶんだから、ちょっと退いて」
「あ、すまん」
俺が避けると、みさきがお盆を持ったまま入ってくる。それは一つではなく、廊下にはまだお盆が置いてあるようだ。
「お、おい。いくらなんでもこんなに食えないぞ」
「あたしの分もあるから」
「へ?」
「お兄ちゃん一人じゃ寂しいでしょう。あたしもここで食べるからね」
そう言う間に、部屋の隅にあった折り畳みテーブルを組み立てて、その上に料理をどんどんと並べていく。
嬉しいとかそういうのを通りこして、ただ呆気に取られていた。
「おい・・・いくら治りかけって言っても、風邪引いてる奴の部屋でそんな・・」
そう言うと、みさきの手がピタリと止まった。
「ここで食べちゃ駄目?」
真顔でそう聞いてきた。
風邪で弱った身体でも、鼓動は元気良く反応した。何かが一つ違っただけで、こんな風になるとは・・・
もう、以前のような兄としての俺には戻れないのだろうか・・・
「いや、そうじゃなくて、風邪が移るから」
「平気・・・わたし平気」
テーブルに乗せるだけ乗せたみさきが、俺の方を見ずに、つぶやくように言った。
「みさき?」
「だ、だって、わたしもお兄ちゃんの妹だもん。きっとバカだよ」
苦笑しながら、とんでも無い事を言ったが、今の俺にはそれを許せるどころか、笑ってやれる余裕さえあった。
「俺が風邪引いたんだからな、俺よりバカでないと移るぞ」
「・・・・大丈夫よ。きっと・・・わたしお兄ちゃんよりずっとバカだから・・」
声に微かに震えがあるような気がしたが、すぐにいつもみたいな明るい笑顔を見せられたせいで、やはり気のせいかと思うだけだったが、いつもなら自分の事をバカとは言わない筈なのが、今日はやけに自分を落としている事の方が気になった。
「それより、早く食べようよ。折角のぞみお姉ちゃんが作ってくれたんだから冷めたらもったないよ」
「みさき、どうした?」
「・・・え?」
「なんかお前変だぞ」
兄としての俺が、心配して頭をもたげてくる。
「な、なんでもないよ」
「そうか・・・ならいいけど」
明らかになんでもなくないのはわかるが、なんでも無いと言われれば、それ以上突っ込む事も出来ない。
「お兄ちゃん、早く食べよう」
「あ、ああ・・・」
みさきに促されて、ようやく俺は腹の虫が騒ぎ出した事にきづいた。
この分なら、明日はすっかり全快だろう。


「のぞみの奴、ホント料理がうまいよな」
「・・・・・」
「なんだ、食わないのか?」
「・・・・・・」
とにかく、最初は俺も腹が減っていたせいで、あまり話さないで食べていたが、みさきの方はここで食べると言った割りには、あまり話しはしなかった。どこか、上の空に見えるのは、俺の気のせいだろうか。
「・・・みさき」
「ん? なに?」
「なんだよ・・・黙って食うなら一人でも同じだぞ」
「あ・・うん・・ごめん」
「お前、おかしいぞ。のぞみになんか言われたのか?」
のぞみがみさきに何かを言う筈も無いとは思ったが、みさきの様子がおかしくなったのは、のぞみが来てからだ。
「違うよ。のぞみお姉ちゃんは悪くない」
「悪くない?」
つまりは、のぞみが何か関係している事には間違い無い。
「・・・・・」
みさきが黙ったのがその証だ。
「のぞみがなんかするとは思えないけどな・・・」
「ねえ、お兄ちゃん・・・」
「ん?」
「このご飯・・・おいしいよね」
「みさき、お前何言ってんだ」
「わたしなんか、料理も下手で、意地っぱりで・・・・」
「お、おい、みさき?」
制御装置の壊れた機械でもあるかのように、俺の事を無視して続ける。
「なんかもう自分がイヤになっちゃうよね。お兄ちゃんだって、わたしの事なんか小うるさい妹とか思うでしょ?」
「・・・・・・・・・・・」
俺は絶句した。ここ二日ほどで、些細だがいろんな事があって、その中で劇的に俺がみさきに対する見方を変えてしまった事もあったが、まるでその事を知っているのではないかと思ったからだ。
「あ・・・ご、ごめんね。変な話ししちゃって」
「のぞみがなんか言ったのか?」
そう聞くと、みさきは慌てて首を横に振った。
「違う・・・違うの。のぞみお姉ちゃんはお兄ちゃんの事一生懸命考えてちゃんと料理作ってただけ」
「だったらどうして・・・・」
「・・・・・」
しばらくの沈黙の後、みさきはゆっくりと続けた。
「わたし・・・のぞみお姉ちゃんとは一つしか違わないのに、全然何も出来なくて・・・さっきも、色々教わりながら、わたしも手伝ってたんだけど、わたし妹なのにお兄ちゃんの事なんにも知らなかった・・・・」
「・・・どういうことだ?」
「のぞみお姉ちゃんの方が、お兄ちゃんの好みとか、他にも色んな事わたしより知ってて・・・なんで、ずっと近いわたしが何にも知らないのって・・・」
「みさき・・・」
みさきは、持っている箸を折ってしまうのではないかと思うくらい、力を入れて話しているのがわかった。声が震えていたからだ。
今まで、みさきがこんな風に話す姿を見たことが無い俺は、昨日からにわかに湧いた感情が、胸の中だけで暴れている感覚に見舞われた。それを解放出来ない苦痛で、胸を引き千切ってしまいたい衝動に駆られる。
鼓動が胸の奥で叫ぶ声が聞こえるような気がした。俺をここから出せと。
「わたし、悔しい・・・悔しいよぅ・・・」
俺は、一昨日に続いて、見たくない物の一つを見る事になった。
みさきの涙。
目を赤く腫らして、目尻に溜めた涙。
まばたきひとつすれば、そばかすの微かに残る頬に零れ落ちるだろう。
くしゃくしゃになる寸前の顔は、子供の頃に見た表情と、なんら変わってはいなかった。
「みさき・・・」
正直、妹であるみさきを好きになってしまった感情でさえ、兄という立場の前では、揺るぎやすかったのだが、今は違った。男の俺と兄の俺が手を結んだのだ。どちらの俺も思う事は一つ。みさきの悲しみの涙は見たくないという事だ。
「そんな事くらいで泣く奴があるか。お前は俺の妹だろう? 他の誰にも代わりなんか出来ないんだぞ。それだけで、十分じゃないか・・・」
「でも・・・」
「俺の事を知らないって? 冗談だろう。お前ほど俺の事知ってる奴が、居るもんか。母さんや父さんよりも、一番俺に近いんだぞ。お前は・・・」
「・・・・」
「だから、もっと自信を持てよ。いつものお前の方が、俺は・・・・」
本当は言うべき事ではなかったのかもしれない。心の奥に閉じ込めて、一生出さないと考えた事さえある言葉を、一呼吸の後に出した。
「好きだよ」
言ったのは俺だった。もはや、兄でも男でもない、俺の気持ちだった。
考えてみれば、俺はみさきにこの言葉を面と向かって言った記憶はなかった。
冗談でも兄妹としての情としても。嫌いという言葉は、ケンカする度に言った物だったが、好きだなんて一言も言っていない。
「・・・・・」
「こんな事言うなんて、バカな兄貴だと思ってくれてもいい。一生避けてもらってもいい。とにかく、俺は・・・・みさきの事が好きだ」
言ってしまった。もう戻れないと思った。もう二度とみさきの笑顔を見る事さえも適わないと思った。ただ、今の一瞬だけ、俺が本気で言っているという事だけを知って貰いたいという一心だけを伝えたかった自分の感情を、少しだけ怨んだ。
同時に、心と鼓動が、俺のしたことを、少しだけ誉めてくれたような気がした。
どんなに忌むべき行為だとわかっていても・・・・
この事を、母さんがドアの向こうで立ち聞きしていたら、俺はどれだけの物を失うだろう・・・そんなスリルさえあった。
「・・・・・」
みさいは、泣く事さえも忘れて、涙を溜めていた目を丸くしてこっちを見ている。当たり前だ。こんな事を実の兄に言われたら、驚くのも無理はない。
「俺は・・・兄としてじゃなく、俺としてお前が好きだ。本気だ」
一度落ちた心というのは、存外に強いのかもしれない。或いはただの自棄だったの だろうか。
みさきの表情はと言えば、まさに鳩が豆鉄砲を食らったという表現がピッタリだ。
ただ、それでも俺の目は本気という事を示す為に、みさきの目をまっすぐ見据えた。
結果の見える自爆行為だ。砕け散る俺がみさきの目に写るのが見えるかもしれない。
しばらく俺が見ていると、みさきは自分を取り戻したかのように、ハッとなって、目を二、三度まばたかせた。
「・・・・・」
普通の男女間の告白でも、言われれば固まる事はあるだろうが、今は踏み込んではいけない告白だった。このまま時が止まってしまう呪いをかけられても、仕方ない。
そう思えさえする。もしそうでも覚悟はあった。
みさきに付き合っている奴が居たとしたら、みさきに告白した事がある奴が居たら、俺はそいつに悪い事をしたのかもしれない。
「・・・本当?」
みさきのこの反応は、駄目とわかっていて覚悟を決めていた筈の俺を、揺るがせるに十分だった。
「・・・・・本気だ。兄妹の縁を切られても・・な」
ケンカなどでいう勢いの意味ではない。本気で心と血の繋がりを拒否されるという意味でだ。それだけに、本当の意味は、みさきには一層伝わっただろう。
「わたし、妹なのよ。お兄ちゃんの妹だよ。それでも?」
「ああ」
「・・・・」
「気持ち悪がられても仕方ないと思う。でも・・・」
俺の言葉を、みさきが遮った。言葉で。
「待って、待って・・・お兄ちゃん・・・」
「みさき・・・」
「やっぱり駄目だよ。そんな事ある筈ないもん。妹を好きになるお兄ちゃんなんてそんな筈・・・ない・・・」
泣くことさえすでに忘れて、引きつったような凍った笑顔を見せている。心なしか顔色さえ蒼白になりつつあった。
「冗談で妹相手に好きだなんて言えるか。俺は女の子にこの言葉を直接言った事なんてないぞ」
追いつめるような言い方は、自分で自分がおかしいとさえ思えるほどだった。
自分が今何を言っているのか分かってはいるが、抑える事が出来ない。
「嘘・・・よね、お兄ちゃん嘘言ってわたしをからかっているのよね?」
「・・・・」
無言が答えだ。これ以上の答えなど無い。
「わたしがお兄ちゃんを気にしてるって知っても、そんな事が言えるの」
「・・・・?」
みさきが何を言っているのか、俺には分からなかった。
俺を気にしてる? どういう事だ?
「わたしがお兄ちゃんの事を・・・好きだって言ったらきっとお兄ちゃん困るよね。
だから、冗談でしか言えない・・・だから・・お兄ちゃんも冗談だよね?」
真っ直ぐ見つめてくる瞳が、冗談と言っても言わなくても、それを許してくれない気がした。
「・・・みさき」
「お願いだから、冗談って言って!」
悲痛なまでの声だった。
「・・・・・」
「冗談って言ってくれないと、わたしが本気になっちゃう。お兄ちゃんがお兄ちゃんでなくなっちゃう・・・」
今度こそ、みさきの目からは涙がこぼれ落ちた。大自然の猛威をダムが止められる筈も無いのと一緒だ。それほどの涙だった。
俺は、この時、みさきの言っている事こそ、冗談ではないかと思った。
「お、おい・・・」
俺が予想したみさきの反応のどれとも違っていた。侵してはならない領域での告白だ。以前までの俺なら、嫌悪感さえ覚えるほどの事を、今の俺はしている。
当然、反応も嫌悪に満ちた物になる筈だった。
「わたしが好きになったら、お兄ちゃんどこかへ行っちゃうよぉ・・・」
みさきが、こぼれ落ちる涙を拭こうともせずに、くしゃくしゃの顔をしながら言った。まるで絞り出したような声だ。そうでもしなければ、言葉にならなかったに違いない。
混乱した頭でも、言葉の意味だけはわかった。
妹である筈のみさきが、兄である俺を好きだって? 冗談だろう。
自分の事を棚に上げるとは、まさにこの事だ。
「みさき・・・」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだから、好きになんかなっちゃいけない・・って思って・・・でも・・・でも・・・」
涙が、みさきの言葉を途切れさせる。
「でも・・・だから、お兄ちゃんなんか嫌いなんだ・・そう思う事って気持ち悪いんだ・・って思い込もうとしても、思えば思うだけ好きで好きでどうしようもなくなってきて・・・」
今、俺は自分の頬を万力で締め付けられても、痛くないのでは・・・と思った。
もちろん、嬉しいという事以前に、信じられないという事でだ。
ある筈が無い。兄の俺が、どこか間違って妹を好きになる事はあっても、妹が兄を好きになんてなる筈がない。
「わたしも・・・お兄ちゃんが好き。どうしようもないくらい」
みさきはそう言ってから、初めて顔を覆って泣き出した。
泣き声は決してあげないようにしているのか、抑えた泣き声は苦鳴のようでもあった。
こうなってみて、初めて気が付いた。言って良かったと思う自分の他に、言うべきではなかったと思う自分が、俺の中に居る事を。
みさきが、兄の俺にこの事を告げるのに、どれだけの辛さを味わったかを考えると、俺の言った事など比べ物にならないほどの物ではなかったか。
それを考えると、俺の中には、守ってやりたいとう愛しさしか無くなっていた。
立ち上がって、みさきの後ろに回り込んで、うしろからみさきを抱きしめた。
微かな柔らかい匂い。
学校でよく近くを通り過ぎる女の子達となんら変わらない匂い。
思った以上に華奢な肩。
それは、このまま強く抱きしめたら、つぶれてしまいそうなくらい柔らかい。
みさきが、妹であると同時に、女の子である事を、今この身体全体で感じていた。
「悪かった・・・冗談って言えたら良かったけど・・・でも・・・・」
言った時から、すでに後戻りは出来ないという覚悟に嘘は付けない。
俺はそのまま、みさきが落ち着くまで抱きしめていた。
誰にも見せる事が出来ない、見せてはいけない姿なのかもしれない。
いいさ・・・それでも。

 抱きしめていた腕に、みさきがそっと手を乗せたのは、それからしばらくしてからの事であった。
「ありがとう、お兄ちゃん」
声にも落ち着きがあった。後ろ向きだから表情はわからないが、なぜか微笑んでいるような気がした。
「この腕がお兄ちゃんのだって・・・なんか嘘みたい」
「・・・・」
「子供の時は、お兄ちゃんの腕だったのに、今はなんだか違う・・」
「・・・・・・」
確かに、踏み込んではいけない所に踏み込んだ俺は、すでにみさきの兄では無いのかもしれない。
俺にとっても、今こうやって抱きしめているみさきは、妹ではない。
「当たり前の事だけど、わたしたちずっと一緒に居たんだよね・・・」
「・・・ああ」
「お兄ちゃん・・・わたしが泣くと、いつも困った顔してたけど、そんな所も変わってないよね・・・」
「そうか?」
そうだったような気もするし、そうでなかったような気もする。みさきが言うのなら、そうなのだろう。
「もしお兄ちゃんと兄妹じゃなかったら、普通に出会って普通の先輩として付き合って・・・」
夢見るような口調だった。
「そして・・・」
首をゆっくり向けて来た。俺の方へ。
泣いていた顔には、すでに悲しみの色は無かった。代わりにあったのは、微笑み。こんな表情を浮かべられる存在が、こんな身近に居たのが信じられないくらいの優しくて暖かい物だった。
「・・・・・」
みさきの瞳には俺が写っていた。きっと、俺の目もみさきを写しているのだろう。
言葉よりも、身体が動くのは、仕方の無い事だった。 むしろ、こうなる予感は、俺とみさきの両方にあったのかもしれない。
俺が顔を近づけると、みさきは拒みもせずに目を閉じた。
唇に触れた物は、暖かく柔らかい物だった。
それしか感じなかった。それ以外の事などは、もう頭の中には無かった。
最後まで抵抗していた心のどこかが、弾け飛ぶのを感じる。
どれくらい経っただろう。そっと唇を離してから、目を開けると、待っていたのは、唇を重ねる前と同じ、みさきの微笑みだった。ただ、頬がほんのりと染まっている事だけが違った。
初めての恋心を持ってのキスの相手が妹だと、これから一生俺は誰にも言えないだろう。
「ごめんな・・・」
みさきにとっても同じ事だと思った。
「ううん・・・いいよ。お兄ちゃんだったから」
巻き付いた俺の腕に、みさきの両手がそっと乗った。
大切な物を持つように。
「こんな事してるなんて・・・お母さん達が知ったら・・・」
「そうだな・・・」
そう言って、みさきを抱きしめる手に力を込めた。
このまま離したら、今までの事が夢になってしまうのではないか。そんな気がしたからだ。
「ねえ、わたしたち・・・これからどうすればいいのかな」
みさきが呟いた。
遠い未来へ目を向けているような声だった。決して明るくはない未来だ。
「そうだな・・・とりあえず、飯でも食うか」
冗談を言えるだけの余裕が出てきたのは、我ながら上出来だ。
「うん」
みさきの明るい返事に、少なくともどこか救われた気持ちになった。それが例え束の間でも。
みさきを離してから、テーブルの向かいに座り直した。
「お料理、冷めちゃったね」
「いいよ。これくらいなら・・・」
「駄目、風邪引いてるのに・・・ちょっと暖め直してくるから」
「いいって」
「駄目って言ってるでしょう。お兄ちゃんは大人しく待ってて」
さっきまでの事が、まるで嘘のような口調だったが、決定的に違うのは、言葉の後に見せてくれた笑顔だった。照れくさそうにして頬を染めながらの笑顔が、今までとは違うと告げているかのようだ。
その微笑みを見て、初めて気恥ずかしくなった。同時に、胸の奥から暖かい物がじんわりと広がっていくような感覚がある。心地よい感覚。
例えそれが禁忌がもたらしている物だとしても・・・だ。
「お兄ちゃん・・・」
冷めた料理を、お盆の上に乗せていた手を止めて、みさきが言ってきた。
「ん? なんだ?」
「・・・なんでもない。ただ呼んでみただけ」
苦笑しか出て来なかった。当然照れ隠しの苦笑だ。
「ば、ばか」
そんな俺の反応を見てか、さっきまで触れるほどの距離だったみさきの唇が微笑みの形になった。
「お兄ちゃん」
また俺を呼んだ。
「なんだよ」
「大好き」
なんの迷いも無い言葉に思えた。
俺は、その言葉に一つ頷いて答えた。俺もだよ・・・という意味を込めて。

転校してから数ヶ月後、ようやく新天地にも慣れて、両親が仕事の関係で家を空けた夜に、本当に越えてはいけない一線を越えてしまった事を、今俺は心に抱えていた。
それでも構わないと思うのは、側でいつもと変わらない笑顔を見せてくれるみさきが居たからだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ずっとずっと・・・大好きだよ」
「ああ・・・・俺もだよ」

Fin

後書き

 トゥルーラブストーリーより、妹のみさき物です。
一応、禁断の内容ですが、別に18禁でもなんでもないですね。
まあ、あまっちょろい近親物語だと思ってくれれば。
トゥルーラブRが出て、みさきを攻略してから、即座に勢いだけで書いてしまったので、なんかムチャクチャかもしれないですが、「しょうがねーなー」と思いつつも、ワイドな心で許しながら見ていただけていると助かります。


作品情報

作者名 じんざ
タイトルトゥルーラブストーリー
サブタイトルみさきR
タグTrue Love Story R, みさき, のぞみ, 南弥生, 七瀬かすみ, 波多野葵, 瑞木あゆみほか
感想投稿数89
感想投稿最終日時2019年04月16日 04時27分59秒

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  • [★★★★★★] 良かったです。小説「思い出のスケッチブック」風の主人公ですね。この二人がゲームから抜け出せばこんな感じかなーって思いました。ただラストは、お互いの気持ちを確かめ合った二人はまた普通の兄妹として暮らしていくこと決心した、というパターンの方がこのゲームらしいかなと。
  • [★★★★★☆] 良かったです。小説「思い出のスケッチブック」風の主人公ですね。