ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。
カチ。

正樹は、布団の中から手を伸ばして目覚しを止める。そのあとに顔を出し、手に持っている目覚しで今何時なのかを確かめた。

「ふぁ〜〜〜あ…………ちっ。まだ、こんな時間じゃないか……」

正樹は欠伸をしながら、何とはなしに不平漏らす。
本来ならば準備をして朝練にいかなければならないのだが、大会を終えたばかりなので朝練は今のところはない。
それでも、つい、いつもの時間に目覚しをセットしてしまったのである。
正樹はもう一度眠りにつくために布団の中にもぐり込んだが、どうやら完全に頭が目覚めてしまったようで、目をつぶっても眠りにつくことがなかなかできない。

「……しょうがねぇ、起きるか………」

そう言いながら、正樹は布団の中からむくりと起き出す。寝癖のついた頭をぽりぽりと掻きながら、窓側の方へと移動する。
窓に掛けられたカーテンの隙間からは、陽が差し込み始めている。陽の光を遮っているそれを、正樹は思いっきり開けた。
差し込んで来る陽の光に正樹は眩しそうにに目を凝らす。
だんだんと目が慣れて来たのか、いつもの風景が視界に飛び込んで来る。
見慣れた風景なので何の目新しさもないが、どこかほっとするような風景だった。

「うしっ。雨は止んだみたいだな」

窓を開けて空を見上げながら、正樹はそう呟く。
昨日の夕方あたりから急に雨が降り出した。まるでバケツをひっくり返したような、ものすごい大雨だった。
なにぶん、急に降り出したので傘なんて持っているわけがない。
急いで家路についたのだが、濡れないで帰るなんてできようはずもない。
家についたころには、正樹はびしょ濡れになっていた。
そんな雨に怨みもしたが、今晴れ晴れとした空を見上げていると、そんな気持ちもどこかへいってしまうかのようだった。

「さて……さっさと支度でもするかな………」

正樹は着替えを持って、下の階に降りていった。

洗面所で支度を済ませた正樹は、台所に足を向けた。
いつもなら母親が朝食を準備している音が聞こえて来るのだが、今日に限って、その音が聞こえて来ない。
おや?と、首を傾げた正樹だったが、その原因をすぐさま思い出した。
両親は親戚の結婚式に出るために、昨日から家を留守にしていた。
1日で行って帰ってこれないわけでもないのだが、週末ということも相成って、休養を兼ねて2泊3日の軽い旅行みたいなものにしたのである。
そうするように提案したのは正樹本人だった。 そう提案したにもかかわらず、そのことを忘れていた自分に苦笑する。
しかし母親がいないとなると妹の乃絵美が準備していそうなものなのだが、台所からは先程と同様、そういう音は聞こえて来ない。
正樹が台所まできてみると、やはり誰もいなかった。

「乃絵美のやつ…まだ寝ているのかな……」

彼女が作った朝食を食べられないのは非常に残念だったが、それだけのために彼女を起こすのも気が引ける。
軽く溜め息をついた正樹は、冷蔵庫の中から卵を取り出した。
正樹が自分で用意した朝食は、ベーコン・エッグとトーストといった簡単なものだった。
だが、それでもないよりはまだマシというものだ。正樹はそれらをたいらげると、冷蔵庫から牛乳を取り出し、それをコップに注いだ。

ふと時計を見ると、そろそろ学校へ行かなければならない時間に迫っていた。
それでも一向に、乃絵美が起きて来る気配がない。
彼女にしては珍しいことだ。
正樹は注いだ牛乳を一気に飲み干すと、乃絵美の部屋へと向かった。

乃絵美の部屋の前に来た正樹は、ドアをノックして部屋の中にいる彼女に呼びかける。

「乃絵美っ。そろそろ起きて準備しないと、学校に遅刻するぞ」

しかし、彼女から何の返事もない。
正樹は再度ノックして呼びかける。

「乃絵美っ、本当に遅刻するぞっ。乃絵美っ!」

先程よりも大きな声で呼びかけてみるのだが、それでもやはり彼女からの返事がない。
様子がおかしいと思った正樹は、彼女の部屋に入ることにした。

「乃絵美……入るぞ………」

静かにドアを開け、彼女の部屋に入った正樹は、久しぶりに目にする妹の部屋に懐かしさを感じた。 乃絵美が自分の部屋に来ることはよくあったが、自分が彼女の部屋に行くことはほとんどなかった。
小さい頃は、何の気兼ねもなしに入れたが、今はそういうわけにもいかない。年頃の女の子の部屋に入るのは、何かしらの抵抗がある。
そんなことを考えていると、ベッドのほうから微かに声が聞こえてくる。

「乃絵美…起きているのか……」

正樹は遠慮がちに乃絵美の寝ているベッドに近づく。
乃絵美が発しているその声が苦悶の声だとわかったのは、彼女のすぐ側まで近づいたときだった。

「んっ、んんん……はぁ、はぁ………………」
「お、おいっ、乃絵美っ!大丈夫かっ!?」

だが、乃絵美は正樹の呼びかけには応じず、苦しそうな声を上げるばかりだ。
彼女の頬はどこかしら赤く火照っており、そして額からはたくさんの汗をかいていた。
もしやと思った正樹は、乃絵美の額に手を当ててみた。

「なっ……!すごい熱じゃないか………」

その瞬間、正樹の頭の中によぎるものがあった。

(まさか……乃絵美も昨日の雨の中、濡れて帰ったんじゃ………)

昨日の雨は何の前触れもなしに降ってきたので、いくらしっかり者の乃絵美でも傘を持っていなかっただろうと、正樹はそう思った。 だが、自分が濡れて帰ってきたとき、彼女はそんな素振りも見せず、自分にタオルに差し出してくれた。
考えてみると昨日の晩、彼女の様子がおかしかったことに気がつく。
夕食の片付けをしているときや、テレビを見ているとき、ぼーっとしていることが多かったように思える。 ひょっとすると、乃絵美はそのときから熱があったのかもしれない。
あのとき自分が気づいていれば、こんなことにはならなかったはずだ。あまりの不甲斐なさに腹が立ってくる。
そう思っていると、乃絵美は再び苦しい声を上げる。
その声に正樹は、はっと顔を上げる。先程の考えを吹き飛ばすかのように頭を振り、そして苦しそうにうなっている乃絵美に声をかける。

「待ってろっ、乃絵美!今すぐ病院に連れてってやるからな!!」

正樹はそういうと、乃絵美の部屋から飛び出した。

乃絵美の部屋から飛び出した正樹は、まず電話のところへと向かった。
最初は救急車を呼ぼうかと思ったが、救急車を一度も呼んだことのない正樹は自分に遠慮してしまった。
考えたあげく、救急車の代わりにタクシーを呼ぶことにした。
次に正樹は学校へと連絡をし、乃絵美の担任、そして自分の担任に休むということを告げた。
 今度は、病院にいくために必要なお金と保険証を手にした。以前、母親から病院にいくときには保険証を必ず持っていくことを聞かされていたからだ。
 とりあえず、持っていくものはこんなものだろうと思い、再び乃絵美の部屋に戻った。
 部屋に入ると、彼女はまだ苦しそうに声を上げている。正樹はそんな彼女の側に寄ると、手を握った。

「すぐに病院に連れてってやるからな。もうちょっとの間、辛抱してくれよ、乃絵美っ」

ぎゅっと彼女の手を強く握ると、彼女の瞼がうっすらと開き始めた。

「んっんん……あっ……お、お…兄ちゃん………?」
「の、乃絵美っ!大丈夫かっ!?」

乃絵美は、何故兄が自分の部屋にいるのか不思議に思ったが、自分を起こしに来たのだと理解した。

「えっ……だ、大丈夫……だよ……。
 そうだ……それよりも…学校に行く準備をしないと………」

そういって、乃絵美は体を起こし始めようとする。

「バカっ! その熱で学校なんて行けるわけないだろっ。もうすぐタクシーが来る。
 それに乗って、乃絵美を病院まで連れていくからな」

体を起こし始めている乃絵美を押さえつけ、正樹はそういう。
乃絵美は熱のせいで視線がおぼつかない。それでも、何とか潤んでいる目を正樹に向ける。

「で……でも、お兄ちゃん……学校は……?」
「休んだ! 大事な妹をほっておいて、学校なんかに行けるかっ!!
 ……だから………だから、乃絵美は安心して俺に任せてくれ……」

そういいながら、正樹は乃絵美の手をもう一度握った。最後のほうは声が小さくて聞き取りにくいものだったが、それでも乃絵美の耳にはしっかりと聞こえていた。

「うん………ごめんね……お兄ちゃん………」

乃絵美は、自分の手を握っている正樹の手を握り返しながら呟いた。

「バカ…謝るなよ……乃絵美は俺にとって大切な妹なんだから……」

正樹は言ってて恥ずかしくなったのか、乃絵美から視線を逸らす。
彼のそんな態度に乃絵美は胸が熱くなるのを感じながら、彼の手を強く握りしめた。

「……うん………」

そのとき、家の外から車のクラクションが鳴った。

「タクシーが来たみたいだ。乃絵美、もうちょっとの辛抱だからな」

正樹は、毛布でくるんだ乃絵美を抱え上げ、部屋を出た。
以前、乃絵美をおぶったことがあったが、あのときと同じ。いや、それより軽く感じられた。
正樹は腕の中にいる乃絵美の重みを感じながら、タクシーに乗り込み、行き先を告げた。

高い熱にもかかわらず、医者は乃絵美に注射を一本打ち、絶対安静を告げて二人を家に帰した。
診察の結果は肺炎の一歩手前ではあるが、ただの風邪ということだった。
それを聞いた正樹は、ほっと胸を撫で下ろした。
 家に帰ってから正樹は、乃絵美をベッドに寝かせ、氷水を入れた洗面器とタオルを用意した。そして、氷水で冷やしたタオルを乃絵美の額にのせた。
 正樹は、目の前で弱々しく横になっている妹に優しく声をかける。

「医者がただの風邪だってさ。一晩ぐっすり眠れば、すぐによくなるさ」

そう言って正樹は、乃絵美の頭を優しく撫でる。
乃絵美は、そうしてくれている正樹に目を向ける。

「ごめんね……お兄ちゃん………私のせいで迷惑かけちゃって……」

乃絵美は、申し訳なさそうに正樹にいう。

「何いってるんだよ。俺は乃絵美のことで、迷惑に感じたことは一度もないぞ。
 ……それに…謝らなければならないのは俺のほうだ……」

そう言いながら、正樹の表情は曇っていく。

「ごめんな、乃絵美………
 俺がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに……兄貴失格だよな………」

昨晩、乃絵美の様子に気づけなかったことをいっているのだろう。正樹は、きつく唇を噛み締め、拳を強く握り締める。

「そんなことないっ! そんなことないよ……
 だって、お兄ちゃん…今だって私のことをすごく…すごく心配していてくれてるし…
 …その気持ちだけで十分だよ……」

乃絵美は、正樹に向かって強く言う。そして真っ直ぐに正樹のことを見つめた。
彼女の心遣いがわかったのか、正樹は彼女に対し優しく微笑む。

「…乃絵美………ありがとう………そして、ごめんな……」
「ううん……私のほうこそごめんね……お兄ちゃん………」

乃絵美も正樹に微笑み返す。
正樹は乃絵美の額にのせたタオルを冷やし直して、もう一度のせる。

「ほら、起きていると下がる熱も下がらなくなるぞ。風邪を治すのは寝ているのが一番だからな」
「……うん」

そういって、乃絵美は目を静かに閉じる。
しかし、なかなか寝付けないのか、彼女はときおり、ふいに目を開けては正樹のほうを見る。

「ねぇ……お兄ちゃん………」
「うん? なんだい」
「……あのね……手を握っていてほしいの……。
 目を閉じてるとね……なんだか、独りぼっちのような気がして…怖いの……」

乃絵美は正樹のほうに手を差し出す。その口調はひどく怯えたような、それでいてどこか恥ずかしそうなものだった。
正樹は、差し出された乃絵美の手を握り、彼女を安心させるように優しく声をかけた。

「ああ……俺がずっと側にいるから、乃絵美は安心して眠りな……」
「うん…ありがとう、お兄ちゃん」

乃絵美は、正樹の手を握り、目を閉じた。
しばらくすると、彼女から寝息が聞こえてきた。

「おやすみ……乃絵美………」

正樹はそっと乃絵美に声をかけ、彼女の頭を優しく撫でた。

乃絵美が目を覚ますと、そこには正樹の姿はなかった。

「…お兄ちゃん……出掛けちゃったのかな………」

乃絵美は寂しそうに呟くと、自分の体を起こし始める。体を起こす際に多少、目眩はしたが我慢できないほどではない。病院で打った注射が効いているようだ。
乃絵美はぐるっと部屋を見渡してみる。やはり、正樹の姿はどこにもない。
そのとき、時計を見てみると、午後2時を過ぎていた。

「ふぅ……今日は土曜日だから、学校はもう終わっちゃってるよね……」

乃絵美は大きく溜め息をつく。
彼女は、学校が終わったことに肩を落としているのではなく、学校を休んでしまったことに肩を落としているようだ。
小さい頃から病弱だった彼女は、学校をとかく休みがちであった。最近は店の手伝いをしているせいか、学校を休むということはあまりなくなってきている。体を動かすことで、丈夫になってきてはいるようだ。
だが今日みたいに休んでしまうと、小さい頃の自分と同じ。結局何も変わっていないんだと、そう思ってしまう。
途端、目から涙があふれそうになる。
そのとき、部屋のドアが静かに開く。そこから、正樹の姿が現れた。

「乃絵美? 起きてたのか」
「えっ……? あっ……うん……」

乃絵美は、今にもこぼれ落ちそうな涙を慌てて拭うと、笑みを作って正樹に向ける。
正樹は乃絵美の様子に気づかなかったのか、そのままベッドの側に腰を下ろす。

「ほら、乃絵美。体を起こしていると熱が出てきてしまうぞ。横になっていたほうがいい」

正樹は、そういって乃絵美を寝かしつけようとする。その際に彼女のパジャマが汗で濡れていることに気づいた。

「……乃絵美のパジャマ、汗でぐしょぐしょじゃないか。こりゃあ、着替えたほうがいいかな………?」

いいながら、正樹は乃絵美のほうを見る。

「えっ……着替えるって………」

乃絵美は布団で自分の体を隠すようにすると、顔を赤らめた。
一瞬、彼女が何故そうするのかわからなかった。だが、その意味をすぐさま理解したのか、正樹の顔は真っ赤に染まる。

「ばっ……ち、違うよっ。え、えっと、ほらっ、体がまた冷えると困るだろ?
 これじゃ、治る風邪も治らないし……。
 かといって、乃絵美は風邪を引いているから、体を動かすのは辛いんじゃないかなぁ〜って、あ〜〜っ、何いってんだぁ〜〜俺は〜〜〜〜〜!!!!」

正樹は頭を掻きむしりながら、叫んでいる。自分が何を言いたいのか、わからなくなってきたのだろう。乃絵美はそんな彼の姿を見て、笑みをこぼす。

「大丈夫だよ、お兄ちゃん。着替えくらいなら、自分でできるから」
「そ、そうかっ? じゃ、じゃあ、俺、た、タオルを取ってくるから。ちょっと待ってな」

正樹は乃絵美にそう言い残すと、顔を真っ赤にさせながら部屋を出ていった。

「ふふっ、あんなに慌てているお兄ちゃん、初めて見たな……」

先程の正樹の慌て振りを思い出したのか、乃絵美はくすっと笑った。
乃絵美の目から普段の正樹は、頼もしく見える。自分に何かあったとき、いつも側で支えてくれていたのは他でもない、正樹だった。
そんな彼が、あのように動揺しているところを見るのは初めてのことだ。その初めて見る姿が妙におかしく、そして可愛く思えた。
しばらくして、正樹が部屋に戻ってきた。

「ほらっ、乃絵美。これで体を拭きな。濡れた服は洗濯かごを持ってきたから、その中に入れてくれ。あとで持って行くから」
「うん、ありがとう、お兄ちゃん」
「じゃあ、俺は外で待ってるから、終わったら呼んでくれ」

そういうと正樹は、再び部屋を出た。
乃絵美は着ているものを脱ぎ、正樹が持ってきてくれたタオルで体を拭くと、新しい下着とパジャマに着替えた。そして、濡れたパジャマと下着をかごの中に入れ、その上にタオルをおいた。
乃絵美は部屋の外にいる正樹に声をかける。

「もう、いいよ。お兄ちゃん、入ってきても」

すると、ドアが静かに開いた。正樹はゆっくりと部屋の中に入ってきた。

「ところで、乃絵美。どうだ、気分のほうは?」

腰を下ろしながら、正樹。

「うん。まだ、ちょっと辛いけど、朝よりはずっと楽になったよ」

乃絵美は笑みを作って、正樹に応え返す。
しばらく寝ていたせいもあるのだろう、乃絵美の顔色は今朝よりずっと良くなっていた。
だが、正樹は乃絵美のいったことが信用できないのか、疑いの眼差しを彼女に向ける。

「本当かな……乃絵美はすぐ無理をするからな………」

いいながら正樹は彼女の額に手を当てて、熱があるかどうか自分のそれと比べてみた。
正樹の手が触れたとき、乃絵美は気恥ずかしさのせいか、頬がうっすらと赤く染まった。

(…お兄ちゃんの手って、やっぱり大きいんだぁ……さっきも手を握っていて、そう思ったけど……)

乃絵美は寝る前に正樹に手を握ってもらったことを思い出していた。
そのことを思い出すと、何故か胸がドキドキした。

「う〜ん、まだ熱があるみたいだな……もうしばらく横になっていたほうがいいだろう」

正樹は乃絵美の額から手を離すと、神妙な顔つきで彼女にいう。
乃絵美は手が離れてしまったことを名残惜しそうにしていると、どうしたと正樹に声をかけられたので慌てて手を振り、なんでもないよと応えた。

「じゃ、じゃあ、もうしばらく横になっているね」

乃絵美は照れ隠しなのか、すばやく布団の中に潜り込んだ。そして顔の半分を布団から出して、正樹のほうを見る。
正樹は、この彼女の行動に首を傾げていた。

「と、ところで、お兄ちゃん。さっきまで、どこかに出掛けていたの?」
「えっ……あ、ああ……いや、実はさっきまで菜織たちが来ていたんだよ」

急に話を持ち掛けられて一瞬戸惑ってしまったが、正樹は微笑みながら応える。

「えっ、菜織ちゃんがっ!?」
「ああ、ミャーコちゃんと冴子も一緒にな。3人とも、乃絵美のことすごく心配していたぞ」
「そっか………。みんなにも心配かけちゃったんだ………」

乃絵美は伏し目がちにそう呟くと、大きく溜め息をついた。彼女の表情がだんだんと暗いものになっていく。

「ん? どうした、乃絵美?」

乃絵美の様子に気がついた正樹は心配そうに声をかけ、彼女の頬に優しく触れる。

「えっ………うん………………」

乃絵美は、頬に触れた正樹の手の暖かさを感じながら、自分の手を彼のものに重ねる。

「……私って………お兄ちゃんや菜織ちゃん……みんなに心配ばかりかけて、嫌な子だよね……
 お店の手伝いをして、少しでも体を丈夫にしようって思ってみたけど……
 今日みたいに熱を出して、お兄ちゃんにまた心配かけている………」

乃絵美は震える声で言葉を紡いでいく。いつもより饒舌になっているのは、風邪を引いて、心が弱くなっているからだろうか。彼女は潤み始めている目を正樹に向ける。
それは、熱のせいだけではないだろう。

「……あの頃の…小さい頃のまま………ずっと弱いままの私………」

そういうと、乃絵美の目から涙がこぼれ落ちた。
正樹はこぼれ落ちる涙を指で拭いながら、彼女に優しく話しかける。

「いいんだよ…乃絵美……乃絵美は俺に心配かけてもいいんだ。
 俺は乃絵美のお兄ちゃんなんだからな……」

いいながら正樹は、片目をつぶって乃絵美にウィンクしてみせる。

「……お兄ちゃん………」

正樹の言葉が、乃絵美の心に優しく染み込んでいく。

「それにな。昨日の雨に濡れて、風邪を引かないなんて無理な話だぞ。
 雨の中を濡れて帰ったら、誰だって熱を出したりするもんさ」
「で、でも……お兄ちゃんも…濡れて帰ってきたのに…………
 私が…丈夫じゃないから……」

乃絵美は自分の体が弱いから。だから風邪を引いたのだといいたいらしい。
彼女の中でそれは、ある意味コンプレックスとなっているようだ。
正樹は、彼女の考えを打ち消すかのように首を左右に振る。

「それは、違うぞ乃絵美。
 俺が風邪を引かなかったのは、体が丈夫だからじゃないぞ。
 俺が風邪を引かなかったのはな……まぁ、その…なんだ………」

そこまでいうと、正樹は頬をぽりぽりと掻きながら、視線を泳がす。
乃絵美は彼の言葉の続きを促した。

「ほ、ほら……よくいうじゃないか……なっ、なんとかは風邪引かないって…………」

正樹は照れているのか、顔が赤い。一方、乃絵美のほうは彼がいった意味がわからないのか、きょとんと目を丸くしている。
だが、その言葉の意味を理解すると思わず吹き出してしまった。

「お、おいっ、笑うことはないだろう!?
 そこは嘘でも、違うよっていうのが普通だぜぇ〜?」

正樹は顔を真っ赤にしながら、口を尖らせて乃絵美に不平をいう。
だが、乃絵美にはそんな彼の態度がますますおかしく、しばらくの間、彼女は笑い続けていた。

「くすくすっ、ご、ごめんなさい、お兄ちゃん。くすくす……」

乃絵美は正樹が眉をひそめてこちらを睨み付けているので、笑うのやめる。
それでも、まだ吹き出してしまうが。
正樹はこほんと一つ咳きをして、まだ赤い顔で乃絵美に話しかける。

「えっと、俺がいいたかったのはだな…つまり…そのう、あれだ。
 乃絵美は賢くていい子だから、か、風邪を引いたんだ。
 そ、それに乃絵美は小さい頃に比べて、はるかに丈夫になっているぞっ。
 俺がいうんだから、間違いないっ!」

正樹は一気に言葉をまくし立てると、乃絵美の頭を優しく撫でる。

「だから、そんなことは気にしないで早く風邪を治そうぜ?
 そして菜織たちに乃絵美の元気な姿を見せるんだ。そうすれば、あいつら喜ぶぜ、きっと」
「うん……わかったよ……お兄ちゃん………ありがとう………」
「ば、バカっ。礼なんていうなよ、照れるじゃないかっ」

正樹は恥ずかしさのあまり、乃絵美から目を逸らす。
そんな彼に、乃絵美は心の中でもう一度、ありがとうと呟いた。

「そ、そうだ、乃絵美。お腹すいていないか?」

突然、正樹はぱっと思い出したかのようにいう。そう正樹にいわれて乃絵美は、朝から何も口にしてはいなかったことに気づく。

「うん……いわれてみれば、すいているような気がする……」

乃絵美がそういうと、正樹はすくっと立ち上がり、洗濯かごを持ってドアノブに手をかける。そして、乃絵美のほうに振り向いて声をかける。

「待ってな。今、俺がお粥を作ってきてやるからな」
「えっ?お兄ちゃんがっ!?」
「ま、まぁ、味の保証はできないかもしれないけどな……」

正樹は恥ずかしそうにいうと、部屋の外に出た。

「……お兄ちゃんの手料理かぁ……ふふっ。なんだか、嬉しいな……」

乃絵美は一人残された部屋で嬉しいそうに、そう呟いた。

しばらくして、正樹が部屋へと戻ってきた。
もちろん、彼が作ったお粥と一緒に。
正樹はお粥の乗った盆を床に置くと、茶碗にお粥を取り始める。そして、乃絵美にお粥とレンゲを渡した。

「乃絵美、ちょっと熱いかもしれないから、気をつけて食うんだぞ」
「……うん」

乃絵美はそう呟くと、目の前にあるお粥と正樹の顔を交互に見つめている。
どこか思い詰めたような表情をしている彼女に気がついた正樹は、笑って話しかける。

「大丈夫だって。一応これでも、ちゃんと味見はしたんだぜ。うまいから食ってみなって」

いいながら正樹は、親指を立てて、得意げな顔を見せる。
だが、乃絵美はいっこうに食べる気配がない。そんな彼女に正樹は、気まずそうに問いかける。

「ひょっとして、乃絵美………お粥じゃないほうがよかったか………?」

乃絵美は正樹の言葉を聞くと、慌てて首を横に振る。

「ちっ、違うよっ! そうじゃない、そうじゃないよっ……!
 ただ……お兄ちゃんの手料理って、初めてだなって思うと…なんだか嬉しくて………」

乃絵美は頬を染めながら、嬉しそうに正樹に話しかける。

「そ、そうか? じゃ、じゃあ、今度から俺も料理をしてみようかな?
 そしたら、乃絵美が食べたいときにいつでも作ってやれることができるしな!」

正樹は料理なんてやったことはないが、彼女が喜んでくれるんだったら、それもいいかなと思った。

「うん。約束だよっ、お兄ちゃん!」
「ああ、約束だっ。……ほら、熱いうちに食べないと冷めちまって、美味しくなくなっちゃうぞ?」

正樹は乃絵美にお粥を食べるように促した。

「うん。それじゃあ…いただきまぁす」

乃絵美は、レンゲにお粥を取ると、ふーふーとお粥を冷ましながら口に運んだ。
正樹は、彼女がお粥を口にするさまを食い入るようにじっと見ていた。

「…どうだ……乃絵美……?」

正樹は乃絵美の返答を待った。彼の喉がゴクリと鳴る。

「美味しい………美味しいよっ、お兄ちゃん」

乃絵美は、ぱっと花を咲かせたような表情で正樹に応える。正樹もこれを聞いて安心したのか、乃絵美に微笑みかける。

「そうかっ! おかわりならたくさんあるから、じゃんじゃん食べてくれよっ!」

正樹は自分の作ったお粥を褒められて嬉しいらしく、乃絵美に次の食を促した。
一方、乃絵美は正樹の顔をじっと見つめている。彼女の顔は、何故か赤く染まってる。
何かを言おうとしているらしく、口を開こうとするのだが、その度に彼女は正樹から視線を外し俯いてしまう。
そんな乃絵美の態度に正樹は、どうしたと声をかける。
乃絵美は意を決したのか、正樹の顔を真っ直ぐに見つめた。

「…あ……あのね……お、お兄ちゃん………お兄ちゃんに……お粥をね…………
 食べさてもらいたいな………」

何度も言葉を詰まらせながらそこまで言い切ると、乃絵美は顔から火が出そうなくらい真っ赤になり、そのまま俯いてしまう。
正樹からの返事がないので、乃絵美は先程口にした言葉をものすごく後悔していた。
彼女がその言葉を取り消そうとしたとき、ふいに手からお粥とレンゲが取り上げられた。
顔を上げると、そこにはお粥を冷ましている正樹の姿があった。

「ふーふー………はい、乃絵美。あーーん」

正樹は、お粥を彼女の口まで持っていくと、優しく微笑みかける。
乃絵美は潤んだ眼で正樹を見つめた。その眼からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
彼女は、口を開けてお粥を食すると、目元にたまった涙を拭う。

「うん、美味しいよ……お兄ちゃん」

乃絵美は真っ赤な顔で、嬉しいそうに笑った。

「だろう? なんたって、俺が作ったからな」

正樹はそう言ってウィンクしてみせる。

「ふふっ。しょってるね、お兄ちゃん」

乃絵美は正樹の言葉に笑みをこぼす。正樹は、再び彼女の前にお粥を持っていった。

「はい、あーーん」
「あーん」

乃絵美は正樹が運んでくれてるお粥を口にしながら、この時間が永遠に続いてくれたらと、心の底から願った。

翌朝、正樹は8時頃に目が覚めた。いつもの日曜日なら、彼はまだ寝ている時間だ。
だが、風邪を引いている乃絵美のことが気になって起きたのである。
正樹はベッドから出ると、そのまま乃絵美の部屋と向かった。

乃絵美の部屋の前に来ると、正樹は軽くノックをする。しかし、部屋の中からは何の反応もない。
まだ寝ているのだろうかと思い、正樹は静かにドアを開け、部屋の中の様子を伺うことにした。

「乃絵美……寝てるのかな………?」

正樹はそうつぶやきながら、彼女の部屋の中へと入る。
ベッドに視線を移した時、正樹は慌てた。寝ていると思っていた乃絵美の姿がなかったからだ。
正樹は慌てて部屋を飛び出すと、下の階へと急いで降りて行った。 下の階に降りてみると、台所のほうから物音が聞こえてくる。正樹は、その物音が聞こえてくる台所へと足を向けた。 台所まで来てみると、そこには朝食の準備をしている乃絵美の姿があった。鼻歌を歌いながら、楽しそうにお皿を並べている。
彼女は正樹のことに気がつくと、笑顔であいさつを交わす。

「あ、おはよう、お兄ちゃん」
「え?あ、ああ……おはよう…乃絵美」

いきなり声をかけられてたので戸惑ってしまったが、それでも正樹は乃絵美に応え返す。
それを聞いた乃絵美は、にっこりと微笑んだ。その笑顔に正樹の顔もほころんだが、彼女が風邪を引いていたことを思い出すと、頭を左右に振り、彼女に問いかける。

「おはよう…じゃなくて。乃絵美っ、体はもう大丈夫なのかっ!?」

正樹は、心配そうな顔付きで彼女を見つめる。乃絵美はくすっと笑うと、正樹を安心させるように声をかける。

「……うん。もう大丈夫だよ、お兄ちゃん。…だって………」

そこまでいうと、乃絵美は口を止める。そして、彼女の頬はだんだんと赤く染まっていく。
正樹が言葉の続きを促すと、乃絵美は恥ずかしそうに応える。

「……だって、お兄ちゃんがずうっと看病してくれたから………」

乃絵美の言葉に正樹は、思わず顔が赤くなってしまう。正樹は乃絵美の側まで寄り、彼女の頬に優しく触れる。

「…本当に大丈夫なんだな……乃絵美?」

正樹は再度、乃絵美に訪ねる。

「うん……もう、大丈夫だよ………」

乃絵美は眼を閉じながら、正樹の手に自分の頬をあずけた。
正樹はその言葉に納得したのか、乃絵美の頭をぽんぽんと軽く叩くとにっこりと笑った。

「じゃあ、今日は乃絵美の作った朝御飯が食えるんだな?」
「うん。そうだよっ、お兄ちゃん」

乃絵美も正樹に笑顔で応え返す。

「よしっ。期待しているぜ」

いいながら、正樹は席につこうとする。だが、その前に乃絵美が彼を引き留めた。
振り返ると、乃絵美が真っ赤な顔で自分の顔を見つめている。

「……そういえば、まだお兄ちゃんに礼をいってなかったね」
「ば、バカ。礼なんて別に………」

いらないと言いかけたとき、ふいに乃絵美に引っ張られた。
その瞬間、彼女は正樹の頬にキスをした。

「……ありがとう………お兄ちゃん………」

乃絵美は顔を赤くさせながら、それでも笑顔で正樹に礼をいった。

「なっ………!」

正樹の顔は、一瞬にして赤くに染まる。キスといっても唇が軽く触れただけのものだったが、された場所が問題だった。
それは、”限りなく唇に近い頬”だったからだ。

「そそそそそ、そうだっ!お、俺っ、し、し、新聞取ってくるっ!!」

正樹は言うやいなや、その場から駆け出した。
乃絵美は彼の慌て振りに笑みをこぼすと、駆け出した彼の背中にこう呟いた。

「大好きだよ………お兄ちゃん」


to be continued ....

後書き

KNPです。

以前、ATELIERに投稿したやつです。書いたきっかけというのは、そこに掲載されていた乃絵美SSを読んだからです。
まぁ、この頃はWith Youで、乃絵美にどっぷり浸かってたところにあのSSでしたから(爆)。壊れましたよ、ホント(苦笑)。

そのときの乃絵美に対する想いを込めて書いたものがこれです。
勢いで書いちゃった部分が多いので、なんか構成が変です(汗)。
まぁ、初めて書き上げたSSなんで、大目にみてくれると助かります。
#なんていう甘えはいけないですね。(^^;;;

今日はこの辺で。それでは。


作品情報

作者名 KNP
タイトルSweet Sweet Candy Drops 〜Noemi〜
サブタイトル兄の看病
タグWithYou〜みつめていたい〜, WithYou〜みつめていたい〜/Sweet Sweet Candy Drops 〜Noemi〜, 伊籐乃絵美, 伊籐正樹
感想投稿数204
感想投稿最終日時2019年04月09日 16時00分09秒

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評価得票数(票率)グラフ
6: 素晴らしい。最高!63票(30.88%)
5: かなり良い。好感触!63票(30.88%)
4: 良い方だと思う。56票(27.45%)
3: まぁ、それなりにおもしろかった14票(6.86%)
2: 可もなく不可もなし4票(1.96%)
1: やや不満もあるが……1票(0.49%)
0: 不満だらけ3票(1.47%)
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要望得票数(比率)
読みたい!197(96.57%)
この作品の直接の続編0(0.0%)
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特に意見無し6(2.94%)
(注) 要望は各投票において「要望無し」あり、「複数要望」ありで入力してもらっているので、合計値は一致しません。

コメント一覧(クリックで開閉します)

  • [★★★★★☆] もっと「ドキドキ」な感じがあると個人的にはいいですね
  • [★★★★★★] うーん、こっぱずかしいけど楽しかったです(笑)
  • [★★★★☆☆] のーえーみーーーーーーー。
  • [★★★★★☆] ラストとか、時々正樹も振り回され気味なところがイイです(^^)
  • [★★★★☆☆] つぎにきたいしまーぜったいかいてね
  • [★★★★★★] 「あーん」している乃絵美・・・うおー!萌えるぅー!!
  • [★★★★☆☆] ok
  • [★★★★★★] (゜ρ゜) アーサイコー(壊)
  • [★★★★★★] 乃絵美萌え
  • [★★★★★☆] 僭越ですが、良かったと思いますよ。
  • [★★★★★☆] OK!!
  • [★★★★☆☆] 早く次を〜
  • [★★★★☆☆] はっふ〜ん☆でございますなぁ。欲を申せば正樹のほうに兄としての少し引いたスタンスを見せていただけると・・・。(何せこのままでは禁断のストーリーが近いうちに展開されてしまうのでは?と心配(笑)してしまいますので)なんと言うかニブチンと毅然とした態度を織り交ぜたスタイルというのが自分的に妹を持つ兄の理想像なもので・・・
  • [★★★★★★] ラストのキスシーンがgood!
  • [★★★★★★] あまぁーい雰囲気でお願いします
  • [★★★★★★] やっぱ妹はこうでなくては、
  • [★★★★★★] めっっっっっっっっっっっちゃおもしろい!!!音であらわすと『エイドリアーン(意味不明)』って感じ!お世辞抜きで最高でした!!では、さらば〜〜(^^)/~~~
  • [★★★★★☆] 最高〜〜〜〜〜〜〜。
  • [★★★★☆☆] すごくほのぼのしていて良かったです。
  • [★★★★★★] 今後の作品が楽しみですね〜
  • [★★★★★★] こんなに可愛い乃絵美読ませてくれてありがとう!
  • [★★★★★☆] 満足のいく出来でした。ただ文字自体がちょっと読みにくいかな?
  • [★★★★★★] 乃絵美最高!!
  • [★★★★★★] こんな妹だったら例え病気でなくても看病したい。
  • [★★★★★☆] ほのぼのしていました。
  • [★★★★★☆] いいストーリ
  • [★★★★★☆] greet!
  • [★★★★★☆] この続きって言ってもどんなのか全く予想が出来ないです。
  • [★★★★★☆] お兄ちゃんは、こうでなくちゃいかん!
  • [★★★★★★] もっとその様な話が欲しいなあ〜
  • [★★★★☆☆] 乃恵美の描写がたりないきもするけど(・∀・)イイ!!
  • [★★★★☆☆] シチュエーションがいい
  • [☆☆☆☆☆☆] 表現が直接的過ぎる。学校休ませるくだりとか。
  • [★★★★☆☆]