ずっと一緒。
 今、美樹の胸の中に居るのが、その言葉だった。
 信じられないくらい小さな手合い。自由に動く事もままならない身体。
 そんな不自由な身体でも、その身体の中には、ずっと一緒が込められている。
 例え、僕と美樹が居なくなっても、身体の中には、ずっと一緒が生き続ける。
 お互いを出し合って、出来た物。
 それがこの子だった。
 「小さいよなぁ・・・・」
 「ん? 何?」
 僕のしみじみとした呟きに、美樹が応じた。
 「いや・・・こいつ。樹里の事さ」
 樹里。まだ生後半年の娘の頭に、手を乗せながら言った。僕の手で、頭を持ててしまいそうな程に小さい。
 「そう?」
 「そうだよ。ほら、こんなに小さいぞ」
 僕は、樹里の頭に乗せた手の形を崩さずに、美樹の頭の上に持っていった。
 お産の時にも切らなかった長い髪は、あの頃のままだ。
 こつんと指先が美樹の頭に乗る。
 「美樹の頭掴むには、こうしなきゃ」
 指先を滑らせて、頭の上に手の平がぺたんと付くように広げた。
 「なんだ、美樹の頭でかいな」
 「うそ。わたしそんなに大きくないわ」
 「うそなもんか。僕の方が小さいぞ」
 美樹の頭を離した手を、僕の頭の上に乗せた。頭には、指先だけがついた。
 「はいはい・・・」
 美樹は呆れて、眉をハの字にしていた。
 「ちぇっ・・・」
 僕は頭を掻きながら舌打ちすると、不意に樹里の表情が歪んだ。
 あっと思った時には、すでに泣きだしていた。
 無く事以外に、まだ表現方法を知らない時期だ。哀しいとかそういうのではないのはわかるが、よくここまで泣ける物だ。大きくなってこれを武器にされたらと考えると、少しだけ恐くなる。
 「何考えてるんですか?」
 美樹が、僕の表情をじっと見ながら言ってきた。
 「なんでもないよ。それより、樹里、おっぱいじゃないのか?」
 「あ、そうね。もうそろそろかしら」
 壁かけ時計を見て、はっと目を丸めた。
 「ちょっと樹里をお願い」
 言うなり僕に、泣き喚く樹里を押し付けて、シャツの前を開き始めた。
 それにしても、随分と手慣れてきた物だ。あの泣き虫だった美樹とは思えない程だ。
 胸元を開いた美樹は、フロントホックのブラをずらして、乳房を右方だけ露出させた。
 出産前から、痛い程に張るようになったと言っていたが、確かにその通りなのかもしれない。びっくりするくらい乳房自体が大きくなっているし、乳首も、少し濃い色に変色している。唯一これが嫌だと美樹本人も言っていた物だ。それはともかく昔っから気にしていた事が極端になったんだ。無理も無い。
 「ほら樹里。おっぱいの時間だってよ」
 美樹に樹里を渡した。すると、すぐに泣き止む。もしかしたら、母乳の匂いを敏感に感じているのかもしれない。
 「はいはい。すぐにあげるからね」
 樹里を乳首に近づけると、樹里にはすぐにわかるのか、すぐに吸い付いた。
 「しっかし、良く飲むよなぁ」
 まじまじとおっぱいに吸い付いている樹里を見つめた。それにしても、本当に良く飲むな。飲んで居たら、乳房を縮めてしまうんじゃ無いかと思える程だ。
 「でも・・・不思議よね」
 穏やかな表情で樹里を見守っていた美樹が、ぽつりとそんな事をもらした。
 「不思議・・って?」
 「だってそう思わない? わたし一人じゃ産めなかったのよ。あなたが居たから・・・・」
 ドクンと来た。別に、忘れていた感覚でもなかった。ただ、眠っていた物を起こされたような・・・そんな感じだった。
 「ま、まあ・・・そりゃそうだけど」
 情けなかった。今ごろこんな事で慌てるなんて。しかし、胸の奥の方が、なぜか暖かい。鼓動の度に、暖かい物を身体の隅々にまで届けてくれそうな程に。
 しばらく、樹里が飲むのを見ていた時、不意に頭に浮かぶ事があった。疑問というほど、高尚な物じゃない。ただの興味だ。
 「・・・飲まれてる時って、どんな感じすんの?」
 「え?」
 美樹の目が、びっくりしたように丸くなった。何を言い出すのと言わんばかりに。
 「いや、なんか気になってさ・・・」
 乳腺の具合によって、ごく希に男でも母乳ならぬ父乳が出る奴が居るというが、子供を育てるほど出る訳じゃない。つまりは、どう逆立ちしてもわからない感覚だ。興味が無い奴は、男じゃないと言い切っていいかもしれない。
 「ちゃんと吸われてるって感じがあるの?」
 「・・・べ、別に・・・感覚があるのって、ここんとこくらいだから、特に不思議な感じする訳じゃないわ」
 美樹は、視線で「ここんとこ」を指していた。
 「へえ・・・」
 「くすぐったいとか、それくらいかしら」
 僕が、ずっと見ても、気のせいかと思えるくらいにしか頬を染めないで、あっさり答えた。
 母は強し・・・って事か。
 不意に、僕の中に沸いた悪戯心。
 男の欲望と、好奇心がガッチリタッグを組んだのかもしれない。
 「・・・なあ、僕もいいかな?」
 「?」
 美樹の、不思議そうな表情。何を言われたのか、理解してないのだろう。
 「だから、その・・・・ちょっとおっぱい飲ませてくれないかって事だよ」
 「!!」
 今まで動じなかった美樹が、初めて動じた。びっくりのオーラが、驚きに合わせて身体から跳ね出たように見えた。
 正直、言った物の、いざ口に出してみると、これほど恥ずかしい事もない。
 元々、美樹をびっくりさせてやろうという気持ちもあったが、びっくりされたらされたで、余計に恥ずかしくなった。しかし、ここで後に引く訳にはいかない。
 「いや、後学の為に・・・赤ん坊がどんなの飲んでるかとか、父親として知っておくのも悪くないだろう? いや、むしろ必要な事だと思うんだ」
 なりふり構わずとはこの事か。言ってて、心の中で苦笑した。
 「それはそうだけど・・・」
 僕の口車に乗ってきた。いや、口車とは言うが、あながち全く無駄な事じゃ無い筈だ。
 「でも、今樹里が飲んでるし・・・」
 美樹の頬が、真っ赤になっていく。
 「二つあるじゃないか」
 「でもっ!」
 美樹の反発を跳ね除けたのは、僕の視線だった。昔、こんな風に教師の話を食い入るように聞いていれば、もっと別の人生になったかと思えるほどの、まじめな視線を美樹に向けていた。これに弱いと知っている。
 「・・・・」
 「・・・・・」
 僕より長めに考えているみたいだった。
 しばらくして、
 「もう・・・しょうがないんだから・・・」
 美樹はそう言って、片方のシャツをはだけさせた。フロントホックのブラは、すでに乳房を覆ってはいなかった。
 「するんなら、早くしてください」
 すでに、僕の方すら見てこない。
 恥ずかしさの極致にあるのかもしれない。
 「それじゃ・・・・」
 僕は、上半身を左腕で支えて、乳首までの高さを合わせた。近くで見ると、大きくなった乳房は迫力があった。爆発しそうな感じさえする。
 「樹里、ちょっと隣失礼するよ」
 父親の愚行など我知らずと言った感じで、樹里は吸っていた。大きくなって父親がこんな事をしたと知ったら、どう思うか・・・
 僕は、一息吸って、ゆっくり吐いた後、乳首に軽くキスをするように吸いついた。
 かすかな匂い。柔らかくて、少し甘い匂い。よく、乳臭いガキなんていう表現があるが、こんな匂いのイメージとぴったりだ。
 一旦乳首に吸い付いた物の、吸いかたがわからない。いつものように吸っていいものかどうか・・・
 一旦唇を離して、
 「なあ、どうやって吸えばいいんだ?」と聞いた。
 「そんなの知らないわ。わたし自分のなんて吸えないもの」
 「・・・そりゃそうだ」
 こんな事が出来るのは、赤ん坊と父親だけの特権だろう。。
 「じゃ、もう一回・・・」
 僕は、もう一度乳首に吸い付いた。
 鼻から息を吐いて、肺を空っぽにした後、頬をすぼめて吸ってみた。
 舌先に、かすかな液体の感覚。
 出たのか?
 乳首に歯を立てないように、慎重に吸って見た。みるみるうちに口の中にたまっていく。生暖かい、なんとも薄い牛乳のような、どこか生臭いような・・・妙な味のする物だ。これが母乳という奴か。
 鼻で呼吸するたびに、味が広がっていく。
 少し溜めてから、一気に飲み干して、乳首から離れた。
 「・・・・・」
 「どうだった?」
 美樹が、興味深そうに聞いてきた。
 「・・・・・う・・ん、なんていうかな・・・」
 正直、これを毎日飲んでいる樹里が、信じられなかった。もっとも、僕も赤ん坊の頃は毎日飲んでいたのだろうが、こうして大きくなってから飲むと、こんなのを飲んでいたのかと思えるほどだ。
 「思ったほどおいしくなかったでしょ?」
 美樹が、意外と思えるほど、にこにこ笑いながら言ってきた。
 「なに? さっき飲んだ事無いって・・・」
 「言ってないわ。さっきは、吸った事無いって言っただけ。産婦の先生に、自分の味を確認しておくのはいい事だって言われたらから、搾乳機で取ってね・・・」
 「搾乳機って、そんなのあるのか?」
 「おっぱいの形に合わせてある吸盤がついたようなので、こう胸につけてから、スイッチ入れると、ポンプで吸出してくれるのよ」
 身振り手振りで説明してくれた。まるで牛の人間版だ。
 「そっか・・・そんなのもあるんだな」
 僕は、しみじみと言った。子育ては謎がたくさんだ。美樹と樹里だけの世界という事か。
 父親はいつでも仲間はずれなのかもしれない。父親の出番は、きっと樹里が物心付くようになってからなんだろうな。
 「まだ飲む?」
 「・・・いい、また今度にする」
 「そう」
 好奇心と男心で始めた事だったが、結局は、美樹の思惑の中で泳がされていただけなのかもしれない。今の美樹の笑みがその証拠だ。
 とりあえず、美樹の母乳が必要なのは、僕じゃなくて、樹里の方なのは、良くわかった。
 美樹は、シャツを片方だけ羽織直した。
 「まだ樹里の方はかかりそうだから、お食事の支度・・・ちょっと待ってて」
 「いいよ。今日は僕がやっておくから。樹里もたっぷり飲んで早くでかくなれよ」
 まだ毛がうっすらと生えている程度の樹里の頭を撫でてから、僕は立ち上がった。
 食事の準備など、あの頃と同じ事をするだけだ。慣れた物だ。むしろ、美樹の妊娠中で、さらに磨きがかかったと言ってもいい。
 「さてと、何か栄養の付く物でも作るかな」
 僕は、ちらりと美樹と樹里を見た。
 いつのまにか、こんな所まで来てたんだなぁ・・・でも、ずっと一緒は、まだまだこれからだ。
 そう思って下腹に力を入れた。