「う・・・・ん」
寝返りを打ったついでに目を開けると、壁掛けの時計と目が合った。
昼飯時をとっくに過ぎている。
もうこんな時間か・・・
春休みとは言え、こんな時間まで寝ていたのは始めてかもしれない。
例え休みだろうと、長く寝かせてくれる事など無かったからだ。
「いいかげんに起きてください」という美樹ちゃんの声。
今はもう・・・・無い。


美樹ちゃんが部屋を引き払ってから二日が経った。
引越し当日の騒動が嘘のように、家の中が広い。
二人で居た時の、何倍にも広く感じる。
食卓の椅子にぼうっと座っていても、物音一つしない。
見回しても、美樹ちゃんの姿は無い。
台所で、食事の支度をする美樹ちゃん。眠そうな顔をしながら、洗面所へ向かう美樹ちゃん。ベランダで、長い髪をリボンで束ねて鼻歌まじりで洗濯物を干す美樹ちゃん。
どれもが、今では記憶の中だけに残っている。
僕が美樹ちゃんと一緒に暮らしていたなんて、実はさっきまで寝ていた時の夢だったんじゃないだろうか・・・
そう思って、ベランダからの景色を眺めた。
いい眺めだ。一人で見るにはもったいなさすぎる程いい眺めだ。
窓をゆっくりと開けると、春の匂いを一杯に溜め込んだ風が入ってきた。
そういえば、一年前、ここに始めて来た時も、こんな匂い・・してたっけな。


美樹ちゃんの部屋だった所のドアを開けた。
ノックをする必要も無い。
開ければ、まだ美樹ちゃんが部屋に居るような気がした。
僕を待っていてくれたのは、体育館のミニチュアを見ているかのような、がらんとした空間。
何も無い。
ゴミ一つさえ。
それでも残っていた物が一つだけあった。
美樹ちゃんの匂いだ。
柔らかい匂い。
実は、ついさっきまでここに居たんじゃないかと思える程だ。
しかし、もう居ない。
見回しても、匂い以外は美樹ちゃんが残っていない。
壁に微かについた家具の跡を、そっとなぞってみた。
ホコリの一つも指先に付きはしない。
美樹ちゃん、一生懸命掃除・・・してたな。
立つ鳥後を濁さずというけど、綺麗にされると、後に残るのは寂しさだけと、鳥は知っているのだろうか。
後に残る者への気遣いと、住んでいた場所への感謝。それを残して美樹ちゃんは行ってしまった。
僕も、もうじきここを立つ。
そうしてもう、誰も寂しがる奴は居ない。
何一つ残らない部屋を想像して、不意に哀しくなった。
残されるのは、この部屋だ。一番寂しがるのは、この部屋なのかもしれない。
二人の時は、随分やかましくしたからな・・・


家事当番は美樹ちゃんの筈だった。
僕はゆっくりしていれば、ご飯のいい匂いがしてきた物だ。
僕の作る料理より、よっぽどうまい物が食えた。
それも、もう無い。
冷蔵庫を開けると、一人にしては多すぎる食材が残っていた。
しばらく買いにいかなくても、これで大丈夫だな。冷蔵庫の中身を空っぽにする頃には、僕もここを引き払う予定だ。
何も取り出さずに冷蔵庫のドアを閉めた。
食うような気分じゃない。


僕は自分の部屋に戻って、ベットに潜り込んだ。
面倒くさい。何もする気が起きない。
いきなり一人暮らしになったような気分だ。
そう思って僕は苦笑した。
もともと一人暮らしの予定だった筈なのにな。
美樹ちゃん、今頃、自分の家の引越し整理で忙しいんだろうな・・・
何か考えていたような、何も考えていなかったような・・・そんな時間を思う暇もなく、瞼が重くなっていった。
睡魔に逆らう理由は無かった。


「…さん、…さんってば」
「う・・・ん」
誰かに呼ばれた。呼ばれ慣れた声だ。
声だけの夢ってのは、初めてかもしれない。
「起きてくださいってば」
身体まで揺れた。震源地は肩だ。
割と気持ちの良い地震だった。こんな地震だったら、毎日起こってもいい。そういえば、美樹ちゃんが居た時には、こんな僕限定の地震が良く起こっていたっけな。
「いつまで寝てるんですかっ」
少し強めの地震だ。
僕は目を覚ました。
暗い世界から、一気に明るい世界に戻ってくる。
「あ・・・・」
僕が目にしたのは、美樹ちゃんの姿だった。しかし、普段の家着とは違う。
ちょっと外に出る用の服装だ。
なぜか、エプロンまでしている。
あ、そっか・・・今日は美樹ちゃんが家事当番だもんな・・・・
「えっ!?」
のろのろ運転だった僕の頭が、いきなりアクセルを踏み込んできた。
「あ、み、美樹・・・・・・ちゃん?」
居る筈の無い姿が、今目の前にある。
変わらない笑顔で。
「おはようございます」
いくら寝ぼけた頭でも、今が朝じゃないのは分かる。それに、夢じゃない事も。
もちろん、頬でもつねってみたい気持ちがあるのは確かだが・・・
「え、なに、どうしたの? なんでここに? どうやって入ってきたの?」
「どうしたもこうしたも、普通に入ってきたんですけど」
何を言っているのと言わんばかりに、小首を傾げた。微笑みのまま。
「だって・・・え・・・あ・・・そっか」
合鍵は美樹ちゃんの手元にあるのを思い出した。でも、それにしても・・
「…さんが飢えてるんじゃないかって、心配で来たんです」
美樹ちゃんは、七割冗談、三割本気と言った風に笑っていた。
言葉通りだったのかもしれない。微かに部屋に満ちている匂いに、腹の虫が先に反応した。
この匂いは・・・・
「まだご飯・・・食べてないですよね?」
「え・・あ、うん」
台所を見れば、僕がどういう状況なのか分かっているのは、美樹ちゃんだけだ。
僕は身体を起こして、ベットに腰掛けて、頭を軽く振った。
「作っておいたから、一緒に食べましょ」
「そうなの?」
「だって、今日はわたしが家事当番ですよね」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、クスクスと笑った。
一昨日去っていった筈の日常が、今目の前に居る。
不意に真顔になった美樹ちゃんが、こんな事を聞いてきた。
「・・・・・…さん、ちょっと聞いていいですか?」
「ん?」
「あの・・・」
声に出してから、何かためらっているかのような後に、
「寂しくなかった・・ですか?」
頬を真っ赤にして、僕から顔を背けながら言った。ちらちらと、時折向けてくる視線と目が合う。
言われた僕の方は、恥ずかしいほどに照れくさくなった。心臓が余計な気を利かせて、僕の頬に血を送り過ぎて来たが、こればかりはどうにもならない。
「・・・・いや・・あ・・まあ・・・ね。後で電話でもしようと思ったけど」
素直にハッキリと言える筈もない。そんな照れくさい真似なんか出来る訳がない。
引越し当日に、気持ちを確かめ合った仲でもだ。
「そう・・・ですか」
「美樹ちゃんは?」
自分だけ恥ずかしい思いをしてなるものかと、美樹ちゃんにも聞き返した。
ポンっと、頬の中で血管が破裂したのかと思うくらい、美樹ちゃんの頬がさらに赤くなっていく。
「わたしは・・・・寂しかったです」
「・・・・・」
「朝起きた時、起きたら、わたしどこで寝てるんだろうって、本気で思っちゃいました」
「そっか・・・」
「わたしの部屋、変わっちゃったんだ・・・って思ったら、寂しくなって・・・」
僕の部屋を見回しながら、呟くように言った。僕じゃなく、美樹ちゃんが自分自身
に話かけているような・・・そんな口調だった。
「起きたら、まず…さんを起こしに行かなくちゃ・・朝食作らなきゃ・・・
なんて、考えないで済むんだなぁ・・・って思ったら・・・」
美樹ちゃんは小さくなって消えてしまいそうだった。
一足先にここを立った美樹ちゃんの寂しさ、僕にはどれほどなのかわからない。
でも、今美樹ちゃんがこんな風に小さくなっているのを見れば、わかるような気がした。
寂しさには、人を押しつぶす力があるに違いない。
「それに、…さん居ないし・・・」
当たり前の事でも、美樹ちゃんのこの言葉が、僕の胸を締め付けてきた。
「僕だって・・・」
立ち上がって、思わず美樹ちゃんを抱きしめた。
美樹ちゃんは、拒みもせずに、僕の腕の中だ。
半年以上前は、一日に三十分程度しか顔を合わせていなくても、全然平気だった。
それなのに、今は離れているというだけで、どうしようも無いくらい落着かなくなっている。
だから、今は一番落ち着いている。
これ以上無いくらい近い所に美樹ちゃんは居るのだから。体温を感じる程近くに。
「会いたかった」
カッコ付けすぎともなんとも思わなかった。本心から思った事だからだ。
たった二日だけで、しかも、いつでも会える距離であってもだ。
「・・・わたしもです」
お互い、一番言いたい事を、今になってようやく言えたのかもしれない。
会った時にすぐにこの言葉が出てこない所が、僕達らしい。
僕は、美樹ちゃんを離した。
抱きしめている時には感じなかった照れくささが、今になってやってきた。
「ん・・と、それじゃ、飯でも食おっか」
「・・・そうですね」
お互い真っ赤になってるのかもしれない。
照れくさい時には赤くなるのは仕方ない事だ。
「冷蔵庫の中の、たっぷり使っておきましたから、たくさん食べてくださいね」
「あ・・なに、あれ全部使ったの?」
「ちょっとだけ残ってますけど?」
「ちょっとってどれくらい?」
「ちょっとです」
「・・・・・・」
まあいいかな。内心そう思った。
折角美樹ちゃんが来てくれたのだし、朝から何も食べていない。ちょっとくらいの量なら、まかせとけだ。
「でも、参ったな。あれで引越しまで持たそうと思ったのに」
「そうなんですか?」
「まあいいや。無くなったら買ってくりゃいいんだし」
「駄目ですよ。コンビニのお弁当とかインスタントばっかりじゃ」
美樹ちゃんの言葉が矢になって、僕の胸を直撃した・・・と言いたい所だけど、二人暮らしの家事をこなした今となっては、お手軽で済まそうなんていう気分はもう無い。自分の分だけじゃなく、相手の事を考えながら作る楽しさが身に染み付いているからだ。
「・・・なんて心配はしてませんけど」
そう言って微笑んだ。今の僕の事を一番知っているのは、なんだかんだ言っても美樹ちゃんだけだ。
「とりあえず、続きはご飯を食べながらにしましょう。話したい事、一杯あるんです」
たった二日でも、話したい事はたまるのかもしれない。なにしろ、今の僕達は二日前から始まったのだから。そして、僕もそれは同じだった。
「そっか・・・んじゃ行こうか」
ここで、僕は言いかけた事があった。久しぶりに美樹ちゃんの料理を・・と。
久しぶりも何も、美樹ちゃんがここを立ったのは、一昨日じゃないか。
「・・・? どうしたんですか?」
「いやいや、なんでもない。ほら行こう行こう」
きっと僕が苦笑してたせいだろう。不思議そうに聞いてきた美樹ちゃんの背中を押して促した。

「それじゃ・・・また来ますね」
「ああ」
美樹ちゃんが、玄関の扉を背にしていた。
つい一昨日までは、美樹ちゃんもこっちに立つ側だった筈だ。
最近感じた違和感の中の、ベスト1かもしれない。
「帰るんだよね・・・」
「そうですね・・・こないだまで、住んでた所なのに。帰るなんて変ですよね」
「まあ・・・ね」
「また必ず来ますから」
「うん、待ってるよ」
「あ・・・えっと・・・ちょっといいですか?」
美樹ちゃんが、神妙な表情で、僕を見ながら言ってきた。
なんでだか、視線が落着いていない
「なに?」
「・・・・ちょっと」
囁くような声に、思わず僕は顔を近づけた。
「な・・」
に。と続ける筈だった。
いきなり美樹ちゃんの顔が近づいて来なければ。
僕は目をつぶる暇さえもなかった。
唇に一瞬触れた感触。
通り過ぎた匂い。
僕は、固まっていた。
美樹ちゃんにこんな事をされるとは思っていなかったからだ。
一昨日、初めて交わして以来、今で二度めだった。
「・・・・」
「・・・ご、ごめんなさい。それじゃ」
慌てて玄関の扉を開けようとする美樹ちゃんを呼び止めた。
「あ、ちょっと待った」
「・・・・」
「やっぱ、送ってくよ」
送ってくれなくてもいいと言われていたが、僕は行く事にした。
不意打ちをくらいっぱなしというのも悔しい・・・というのは建前で、本当は、少しでも長く一緒に居たいと思う気持ちに火を付けられたからだ。
「でも・・・」
「暇だからね」
少しでも一緒に居たい。なんて本心、照れくさくて言える筈も無い。それに、不意打ちの仕返しのつもりで、強く出られたのが功を奏したのかもしれない。
美樹ちゃんの顔に、ぱあっと広がった笑顔に釣られて、僕も笑った。
「行こう」
玄関にかけてあったジャンパーを羽織ってから靴を履き、僕が先に扉を開けて外に出た。
家の中の暖かい空気が、一気に流れ出していくのを感じる。
「まだ寒いね」
日は暮れかかって、屋上から見える西の空は、黄金色に輝いていた。紫色の夜の帳が、東の空から迫ってきている。
びゅうっと強めに吹いた風が、玄関から出てきた美樹ちゃんの長い髪を、少し乱した。しかし美樹ちゃんは、なぜか髪を撫で付ける事もせずに、風にまかせるままにしていた。
「腕・・・いいですか?」
「え? あ、ああ・・」
もしかしたら、この事を言う為に集中していたせいだったのかもしれない。
僕は、右腕を軽くあげて輪を作った。
すぐに、美樹ちゃんの腕が絡まってくる。
以前ならば、すぐにこうは行かない物だった。もっとも、そんな機会も少なかったが・・・・
触れ合う部分は抱きしめるより少ないけれど、僕には十分だった。
生まれたての季節の風が気にならなくなるほどに暖かい。
「そうだ・・・今度美樹ちゃんとこ遊びに行っていい?」
「あ・・はい。いつでも来てください。待ってます」
笑顔が輝いた。
「どうせ、また近い所に引っ越すからね。その時になったら、寄らせてもらおうかな」
「そうですね。そうしたら、わたしも…さんの所、行っていいですか?」
「おお、いいよ。どうせ、うちの両親、帰ってきたって仕事仕事の連続
だろうし」
一緒に暮らす事になるとはいえ、これからは、両親と顔を合わせる時間は、美樹ちゃんとの一年分より少ないかもしれない。
「また・・・・ここで一緒に暮らしたいですね」
美樹ちゃんが振り返って、家の扉を見た。
「うん・・・」
忘れては居ない。美樹ちゃんが引っ越す当日の約束を。
いつかまた二人で、ここに住もう・・・と言った事を。
もし、それが叶っても、決して良い事ばかりは無いだろう。今までだってそうだったのだから。
「またケンカとかしちゃうんだろうなぁ・・」
「でも、ケンカしてなかったら、わたし達、お互いの事、全然わからないままだったかもしれないですね」
僕の腕に絡んでいた美樹ちゃんの腕に、力が篭ったを感じる。
まるで、ケンカしないで過ごす時間が現実になったら、僕が消えてなくなるとでも思っているのだろうか。もしそうだとしたら、それは僕にとっても同じ事だ。美樹ちゃんと分かり合えない世界なんて、想像したくもない。
「また、絶対戻ってこよう」
「そうですね・・・絶対」
約束は誓いに変わったのかもしれない。
僕達はここで初めて出会った。
ここで一緒に暮らし、一緒にケンカをして、一緒に笑いあった。
そして、気持ちを知り合った。
僕達の全てが始まった場所だ。
不意に、僕達は顔を見合わせた。
どっちが先に向いたのか解らない。僕が美樹ちゃんの方を向いた時、美樹ちゃんは僕の方を見ていた。
小さく口の端を吊り上げるだけの微笑みを交わしあってから、また歩き出した。
一年前、始まった頃と同じ季節の中に向かって。


Fin

作品情報

作者名 じんざ
タイトルふたりぼっち
サブタイトル歩きだす二人
タグずっといっしょ, ずっといっしょ/ふたりぼっち, 石塚美樹, 青葉林檎
感想投稿数157
感想投稿最終日時2019年04月09日 07時01分22秒

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