八月五日。
気温三十五度。湿度六十五パーセント。


簡単に言ってしまえば、物凄く蒸し暑い日。
丸井町の温度は、これからさらに上がり続けるだろう。
今年一番の最高気温を更新するのは、時間の問題だった。

美樹は、自分が住んで居る所のビルの階段をリズミカルに駆け下りていた。
長い髪、赤いリボンが弾むように揺れる。
一階が近づいて来ると、一段飛ばしで降りていた。それくらいはもう慣れた物だった。

入り口にある自分達の部屋宛のポストの前に立った美樹は、手を伸ばしてポストに伸ばし、途中でやめて胸に引き戻した。

胸に手を当てながら、一度だけ大きく深呼吸。
今度は止める事もなくポストの扉に手をかけた。


こんな事をするようになって、すでに三日が経っていた。

* −五日前− *

七月がもう少しで終わろうとしていた。
今年の夏は、丸井町の片隅で不本意な出会いをした二人が二人一緒に迎える、初めての夏だった。
セミの声も、光の強さも、いつもの年よりも少し多いような気がする。
二人にとっては、今年はそんな夏だった。


二人揃っての昼食の時に、美樹は同居している少年から、こう告げられた。

これから、紅玉館の分店に、夏の間だけ住み込みでバイトに行ってくる。
だいたい一週間くらいかな。
もしかしたら、二週間くらいになるかもしれない。
バイトが終わったら、ちょっとだけ旅をするかもしれないから。

「なんですかそれは?」
美樹は呆気に取られて聞き返した。
良い悪いではなく、いきなりですね。という意味を込めたのだ。
そういう事だよと、笑いながらも困った風に言われて、そうですか。と答えた。

返事をしてから、しばらくの沈黙。
美樹の中に湧き上がる違和感。
それは、寂しいという気持ちと似ているようで違う物だった。
暮らし始めの頃は、何時の間にか居なくなってくれたらどんなにいいだろう。なんて思っていた筈だったのに。

それが不思議でたまらなかった。


やがて七月が終わると同時に、少年は、いってくるよと言って、家を後にしてしまった。

なんてあっさり行ってしまうんだろう。
少年を見送った後、ベットに寝転んで枕を抱きながら不満そうに身体を揺らしていた。

もうちょっと名残惜しそうに行ってもいいのに。
一人で大丈夫? とも言ってくれなかった。
元々一人暮らしをする予定でこの家に来たのだし、今更言われる事ではないのはわかっているけど……戸締りには気をつけてとか、そういう事は言ってくれたけど……

少年が出る前に言った事を、美樹は何度も何度も頭の中で反芻した。
その度に抱いていた枕がきゅうっと締め付けられていく。
しばらく、何をするでも無くゴロゴロしていると、何時の間にか窓の外の景色が深いオレンジ色に染まっていた。
窓からは、夕暮れを告げる風が流れ込んで、カーテンを優しく揺らす。
時計は、すでに夕食の準備をしろと告げていた。
本来なら、今日は当番の少年がやる筈だったのだが、すでに少年は居ない。
お腹も減ってないし、今日はいいかと思ったが、このままじっとしていても良い事はなさそうだったので美樹はのろのろと動き出した。
「冷蔵庫に、まだなんかあったかな……」


ドアを開けてみた。どことなく、家の中が少し広く見えた。
不意に。
小学校の時体育館に一人で入った時の事を思い出してしまう。
握ったままの手の指を軽く何度かこすり合わせた。
手の平には、じっとりと汗が浮かんでいる。

あの広い空間で、一人ぽつんと立った時に感じた微かな不安感。
染み込んでくる恐怖。
ホラーは好きでも、それだけは苦手だった。

その時も、今みたいに手に汗を滲ませていた。
体育館は誰かが居るから楽しい場所なのだと初めて実感してから、もう何年経っただろう。
もうじき夕飯だよ。
いつもなら、台所に立つ少年が振り返ってそう言ってくれる。
今は、ずっと前から誰も使ってないような、時間がずっと止まったままのキッチンがあるだけだった。

息を止めてみた。

まるで世界に自分しか居ないような静けさが怖くて、慌てて呼吸をした。
美樹は電気のスイッチに手を伸ばして部屋の明かりをつけると、少しだけ気持ちが明るくなった。

「…………」

胸を少しだけ撫で下ろしてから、

「よしっ」

何か吹き飛ばすようにそう気合を入れてから、腕を捲り上げた。


迂闊だったと嘆きながら、美樹はおかずに箸を付けた。
一人分の量にしたつもりだったのだが、結局二人分に届こうかという量を作ってしまったのだ。

美樹は、じっと少年の席を見ながら、時折眉を寄せては不満そうな顔をした。
「いつも居るのに、居ないのが悪いんですからね」
頭の中だけに留めておけなくて、ついつい口に出る。
「…さんのせいですよ」
理不尽な文句にも、当然返事は無い。いつもならばケンカの一つも始まったろう。
そういえば……と、美樹は箸を止めた。

よく考えたら、一人でご飯食べるの……何年ぶりだろう?

やっぱり一人で食べるのは美味しくない。
それよりなにより、どんなに些細な事やくだらない事でも、話をしながら食べた方が美味しかった。
それでも、結局、箸は良く進んだ。
食べていると、胸の中の隙間が埋まっていくような気がしたからだった。

部屋に戻って、深いため息一つ。同時に肩の力を抜いた。


お腹が一杯になったせいか、少しは気分が落ち着いている。
普段伸ばせなかった羽が思いきり伸びるような、そんな解放感を感じていた。

一人になるというのは、これはこれでいいかもしれない。

そうだ。
何をしても誰にも気兼ねする事もない。
勉強しなくても親から何も言われる事もなければ、暇な時はずっと寝ていたっていい。
下着一枚、いや、素っ裸で歩き回っても誰にも見られないし文句も言われない。

しかし、解放感という翼は不意に羽ばたくのをやめてしまう。

美樹は、ベットにうつ伏せに倒れこんだ。
何でも自由な代わりに、何もしなければ何も起きない。
時間は全部自分で動かさなければならない。
しかし、一人では時計の針も重い。

でも、二人ならば少しは軽かった。
いつも、うんうんと重い針を動かそうと必死になっている時も、さっと手を貸してくれた。

今までずっとそうだった。

気が付けば、二人で居る事を望むようになっていた。
あれほどイヤだった同居も、今では心地いい。
お互い見えなくてもいい所も見えてきてケンカになった事も、今考えるといい思い出だった。

しばらくピクリとも動かないままで居たが、やがて苦しくなって顔を横に向けた。

空気って、無くなってみないとわからないのかな……

美樹は目を閉じた。

わかってる。
私だって鈍感じゃない。自分の気持ちにくらい気づいてる。
でも……

美樹は、今までそれを実感出来ていないだけだった。
水や空気は掴めないのと同じように。
所在なげにばたばたとさせていた足が、しばらくしてパタリと止まった。

そして言ってみた。
今まで声にした事のない言葉を。

言っても、ただ声になるだけで、なんの変化もないだろう。
なんでもない事だ。冗談めいた独り言だ。
そんな軽い気持ちで。

「…さん……好き……」


その瞬間、驚く程、鼓動が跳ね上がる。


あまりにも突然な事だった。
押してしまったスイッチが、爆弾の物だったと気づいた時には遅かったように。

初めて美樹はハッキリと意識した。
自分が誰をどのくらい好きなのかを。
たった一つ言葉にしただけで。

それは水が氷になったような確かさだった。
そんな気持ちが、宝物のように思えた。
あまりの心地よさとくすぐったさに、表情がにへらと緩む。

そっか……好きなのか……好きなんだ……


欲しかった玩具を買って貰って、嬉しさのあまりに何度も手にとって眺めた時のように、自分が言った言葉を何度も頭の中だけで繰り返した。
繰り返す度に、胸の奥と奥歯の辺りがムズ痒くなって、その感覚がたまらなくなって逃げ込むようにタオルケットに潜り込んだ。

ひとしきり、身をよじらせたり足をばたばたしていたが、しばらくしてぱたりと動かなくなった。
どのくらい経っただろう。美樹はタオルケットから顔を上げた。
表情は打って変わって、なぜか浮かない風だ。

「…………ばか」

一つ小さく呟く。
それから、少なくともこの家の中ならどこに居ても聞こえる声でこう言った。

「なんで居てくれないの……好きなのにっ!」

もし、なんらかの事情で少年が帰って来ていれば、確実に聞かれてしまうだろう。
それでも言わずにはいられなかった。
そのスリルが、行き場の無い気持ちのはけ口だったのだろう。


理不尽な叫びに応えたのは、静寂だけだった。

一人になっても別に大丈夫。
何も怖い事なんてない。
幽霊なんてちっとも怖くないし、夜中にホラー映画だって平気で見られる。

少年が出かけていった時は確かにそう思っていた。
例え大丈夫じゃなくても、二週間くらいならなんともない。
戸締りすればなんの問題もないし、夜の暗闇だって怖くない。
もう子供じゃないのだし。


そんな気持ちは、二日めの夜にはあっさり崩れ去っていた。
物音一つ、夜の闇一つがリアルな恐怖だった。
それから逃げる為に、まだ寝るには早い時間に美樹は青葉林檎の家に電話を入れた。
普段する話にいつもより家事の事や一人で居る事の心細さを言った為に、何を今更と言われたのにハッとしたが、すぐに笑って誤魔化した。

林檎との電話が終わった直後、すぐに電話が鳴った。
誰からだろうと訝しげに思いながら、通話ボタンを押してもしもしと応えると、聞きなれた声が返ってきた。

美樹が、今世界で一番聞きたい声だった。

「…さん!」
美樹が少年を好きとはっきり自覚してから、初めての声。
鼓動のせいで心臓が爆発寸前にさえなる。
だが、思った以上にパニックになることは無かった。
「大丈夫かって……大丈夫に決まってるじゃないですか。
 戸締りだってきちんとしてるし、火の元だってチェックしてます。子供扱いしないでください。
 それよりも、そっちはどうなんですか?
 え?そうなんですか?
 いいですね。そっちはそっちで楽しいんでしょうね……そうですか……いいですね」
いつもの自分らしい口調に安心したのは、美樹自身だった。
いつもと同じで居られた。それが一番嬉しかったからだ。
「絵葉書ですか?
 いえ……今日ちょっと家から出てないから、チェックしてなかったです。
 後で行ってみます」
そう言った時に、頭の中で何かが閃いた。
「あ、ちょっとお願いがあるんですが……いいですか? 毎日……いえ、三日おきくらいでいいですから……」
その提案に、少年は電話の向こうで快諾した。


電話が終わった後に、急いで一階まで駆け下りてポストの中を確かめると、少年の言った通り、一枚の絵葉書が入っていた。
ドキドキしながら手にとってまず最初に見たのは宛名だった。

『石塚美樹』
確かにそう書いてあった。

私の名前が書いてある。
美樹にはそれが嬉しくて、何度も文字を見返した。
好きな人が書いてくれた自分の名前。
まず表を見たのは、それが見たかったからである。

裏を返すと、上半分に綺麗な海岸線の写真。
下には、手短に近況が書かれていた。
写真の景色は、バイト先から近いらしいということも書いてあった。

ポストの前で二度ほど読み返してから、クスっと笑った。

こっちの気も知らないで。楽しそうに……

それから急いで階段を駆け上がった。
部屋に戻って、棚から新品の小さめのカンバスを引っ張り出し、スタンドに立てて、絵葉書をカンバスの上の方に画鋲で止めた。
しばらく写真を見た後に、鉛筆で切りつけるように、線を刻んでいった。


どれくらい経っただろう。
美樹は、一息ついて鉛筆を置いた。

すでにカンバスの中には、今にも動き出しそうな世界が広がっていた。
だが、美樹は自分の作業の成果を気にしていないのか、カンバスから葉書を取ってずうっとそれを見ていた。
この景色を見ている少年の側に、自分を居る事を重ねながら。
少年との電話で、これから三日おきくらいに、そっちに好きな景色があったらそれを文で書いて葉書でくださいと頼んだのは、それを想像して絵にする事で少年とどこかで繋がっていたかったからであった。
それから、絵を片付けてから美樹は風呂に入った。
湯船に漬かっている最中に、電話で少年の声を聞いた時のドキドキを思い出して思わず胸に手を当ててみる。

お湯につかったせいではないのがわかるくらい、胸が高鳴っていた。

「…………」

そんな鼓動のせいだろうか。
小さな泡のような悪戯心が湧き上がる。
すぐに弾けて消える筈のそれは、止まる事なく際限なく膨らんで抑えられなくなっていた。
もし、少年の方が美樹が思いついた事を実践していたとしたら、美樹は少年を許さないだろう。
そんな事を自分でしようとしている。
でも、もう止める事は出来なかった。
意を決して、湯船から勢い良く立ち上がった。

念入りに石鹸は洗い流したし、リンスも使ってない。
なるべく匂いが残らないようにしたつもりだ。

うん、大丈夫。
別に悪い事をする訳じゃないんだから。多分……

何度も自分に言い聞かせながら、美樹は愛用の枕をぎゅっと抱きしめて、少年の部屋の前に立った。
それでも気になるのか、何度となく腕や肩に鼻を近づけて匂いの確認を欠かさなかった。
ノックもせずに開ける事への罪悪感を、どこかで楽しみながら、ゆっくりドアを開けた。

ふわっと空気が流れ出してくる。
間違いなく少年の部屋の匂いだった。
その匂いに、鼓動が一段階跳ね上がる。

月明かりのせいで、微かに明るい部屋に踏み入れて、辺りを見回す。

「…………」

電気を点けずに、そのまま部屋を見渡した。
別に今まで入ったことの無い部屋でもない。それなのに、今はどこか知らない部屋のような気がしていた。

大好きな人の部屋。その部屋になんの断りもなく入る。
その罪悪感は、人の日記を読む気持ちと同じなのかもしれない。
後ろ手でドアを閉めてから、ベットに向かい、ゆっくりと腰掛けた。
しばらく枕を抱きしめてから、意を決したように後ろを向いて、そこにあった枕を少し端に寄せようとして……止めた。

ここまで来たんだから。せっかくだから。

そんな気持ちで、持参した枕を使わずにベットに横になった。
身体がカチコチに固まって、落ち着かない。

なんで自分はこんな事をしているの?
やっぱりこんな事っていけない事なんじゃ……

どれくらいそうしていただろう。
やがて、枕を抱きしめていた腕から徐々に力が抜けてきていた。
ベットや枕の高さや固さが違うのに慣れてきたのもそうだが、何よりも少年の匂いに安心したせいであった。寝返りをうって横になり、枕に染み付いた匂いをさらに感じてみた。
美樹にとって、それはイヤな匂いではなかった。

…さんの匂い、こんな匂いだったんだ……
今までちゃんと嗅いだ事は無かったけれど……

不思議だった。
しばらく嗅いでいると、昂ぶっていた気持ちと高鳴っていた鼓動が、すうっと落ち着いて、幸せな気分になっていった。
小さい頃に、父親の布団で寝た時の記憶と重なったからだろうか。

美樹は、そっと目を閉じた。
あんなにカチコチだった身体からは、もう、すっかり力が抜けている。
今は、とにかく心地の良さだけに身を任せていた。
こうしていると、優しく抱きしめられているような気がして、胸がどんどんと高鳴った。
今日初めて言った「好き」という言葉を思い出して、それがドキドキを加速させていく。
ただでさえ、好きな人のベットを勝手に使っているのだ。
今日はもう眠れないかもしれない。
そう思って、どれだけ過ごしただろう。

何時の間にか、美樹は眠っていた。
すうすうと安らかな寝息を立てている。
もし少年がこの事を知っても、笑って許してしまうかもしれない。そんな寝顔だった。


翌朝、行き倒れのような寝相の美樹は、窓から差し込む朝日で目を覚ました。
いつもと部屋の景色が違う事に驚いて、慌てて身体を起こして部屋を見回す。
少年の部屋で寝てしまったこと。
それが夢でなかった事に安心して胸を撫で下ろし、再び倒れこんで寝息を立ててしまった。

そして、二日後。
八月四日。


丸井町の気温はぐんぐんと上がり続け、今年の最高気温を叩き出していた。
それでも風があったせいか思った以上に不快感はなく、爽やかな夏の一日という記憶を丸井町の誰の心にも刻んでいた。

美樹は、ベランダから丸井町を眺めていた。
強い日差しで白い建物が一際目立つのが好きで、ずっと見ていた。
時折吹く風が、干した洗濯物と布団、美樹の長い髪をさらさらと揺らす。

…さんが居るのは、あっちの方かな。
今ごろ何してるんだろう。
海が近いから、きっと気持ちいいんだろうなあ。


しばらく街並みを見てから部屋に入るとき、自分が昨夜も使ったタオルケットと、シーツの匂いを確かめた。

うん、これなら大丈夫。
私の匂いは残ってないし、お日様の匂いもたっぷりだ。

自分の証拠が残ってない事に満足した。
この日は、自分がベットを使った証拠を念入りに取り除くのに午前中一杯かかってしまっていた。

八月五日

午後に入ってから、案の定、今年の最高気温をマークするニュースが流れたが、テレビも何も付けていなかった美樹には知るよしも無かった。
が、そんな事は言われなくても解るくらいに、暑かった。
開け放した窓からも暑さを一掃してくれる風は入って来ることなく、美樹に汗を掻く事強要していた。


美樹は、用意していたカンバスに絵葉書を貼り付けて、じっと見ていた。
絵の所ではなく、少年の書いた文を。

美樹の目的を知らないせいか、細かい風景描写はそれほど多くなく、どう思ったのかが主に書いてあったが、むしろそれで良かった。想像して描くのが目的だったのだから。
よしっと気合を入れて、作業の邪魔にならないように髪をポニーテールのようにリボンで結びつけてから、鉛筆を取った。


それから三十分。

下書きは少しも進む事はなかった。
何度か線は描いたものの、描いてるうちにこれは違うと消し、また描いて消す。
これの繰り返しで、新品だったカンバスは段々と薄汚れてきてしまっていた。
結局消費したのは、汗と気力だけだった。
描けないイライラは、暑さのせいで倍増している。

「…………」

違う。こんな筈じゃない。

想像して描く事が楽しいと思っていたし、すぐに出来る自信もあったが、それが脆く崩れていく。
このままカンバスに不用な線を刻んでも、無駄に汚すだけだ。
美樹はクロッキー帳にラフを描こうと思って探したが、切らしている事に気づいて、画材屋に買いに出かけた。
道すがら、ずっと景色を想像しながら歩いていたが、結局うまく思い浮かべられずに本屋に足が向きかけた。

が、足が止まる。
違う。参考にする景色じゃ意味が無い。想像して書くから意味があるんだ。
でも……
そして、また足が動く。
知らない景色は描き様が無い。想像するにも、素が要る。

そんな葛藤を何度か続けたが、結局本屋に足が向いた。
景色の写真集を数冊立ち読みしてそれなりのイメージを掴んだが、帰り道に、どうしてもそのイメージでしか描けなくなるような気がして、忘れようと何度か小さく頭を振った。

家に帰ってから、クロッキーにいくつかイメージを描きまくった。
が、納得のいかない物ばかりになってしまい、嫌になって投げ出してベットに倒れこんだ。

やっぱりこんな事考えなきゃよかった。
思ったより楽しくない。
想像するのがこんなに難しいなんて思わなかった。
見て描くのは楽なのに。
なんでだろう。なんでかな。

美樹は目を閉じた。
葉書に書いてあった事を何度も繰り返す。
それでもやっぱり駄目だった。うまく風景が思い浮かばない。

考えに詰まったのか、浮かない顔をしながら身体を起こし、棚にあった写真集を何気なく引っ張り出した。
美樹にとって、他の本よりも特別な物だった。中身以上に、本がここにある事に意味がある。
それは、いつか二人が一緒に出かけた美術館で、少年が持ち合わせの無かった美樹にプレゼントとして買ってあげた物だった。

そういえば……と、その時一緒に同じ絵を見た時に、少年が興味ありそうに見ていたのを思い出す。
美樹の、この絵良いと思いますか? という言葉に、うんと頷いてくれた事がその時は嬉しかった。美樹も好きな絵だったのだ。
きっと感じ方は同じではなかったのだろう。でも、好きという事は同じだった。
ならば、逆にどんな絵を描けばどんな風に思ってくれるのか。それくらいならわかるかもしれない。

少年の近くでいろんな気持ちに触れたのは、誰よりも側に居た自分なのだから。
そう思うと、雲間から日差しが差し込むように何かが変わった。

そっか……別に忠実に再現しようと思わなくてもいいんだ。
想像して描くって決めたんだから。
実際に見たことがないんだから、私は私で、…さんの感じた事をなぞればいいんだ。

何時の間にか、風景描写の正確さを追求するだけになっていた事に気づいた。
最初にこんな事をしようと思いついた時、なんとなく思っていたのはそういう事の筈だったのに。
美樹はクロッキー帳を無視して、カンバスに向かった。
しばらく目を閉じ時間も忘れて、想像出来るだけ想像した。
文章に書いてあった風景描写を一旦忘れて、どんな景色だったら書いてあった風に思うんだろうという所から始めた。

やがて、イメージが固まった。
完全とはいかないまでも、これなら描いているうちになんとか出来る。
多分、本当の景色とはだいぶ違うと思う。でもこれでいい。

そう割り切ってからは、鉛筆の動きは速かった。
同じような絵を描く時間の半分くらいのスピードで下書きを終わらせた程だ。
色塗りは明日。
そう決めて、美樹は満足そうに微笑んで、ううんと思い切り伸びをした。


その夜、少年から電話が来た。
しかし、美樹は風景に関しては何も聞かなかった。
固めたイメージを崩したくなかったのだ。

他愛も無い話が続いた。

今日食べたもの。
天気はどうだったか。
何か変わった事はなかったか。

いつも家で二人して話す事とは少し違った話。
お互い別々の所に住んでいれば、きっとこんな風に話すのだろう。
もしかしたら、そんな別世界もどこかにあるのかもしれない。

その世界でも、私はちゃんと好きになれているだろうか?

美樹は、そう思いながら、少年の声に耳を傾けた。
そうしているうちに、夜は過ぎていった。


翌日、丸井町の空は抜けるような青が広がっていた。

「いい天気」
目を細めて、空を見上げた。

こんな日なら、どんな絵でも描ける。

美樹は、思いっきり伸びをした。
それから、カンバススタンドと絵の具をベランダに持ち込んで、着色の準備に取り掛かった。
筆のスピードも、前の日より格段に違った。
鼻歌まで出てくる。しかも演歌だ。
そのうち鼻歌では済まなくなって、声になる。
こぶしの聞いた声の時に、特に筆が良く走った。少年が居たら、歌うか絵を描くかどっちかにしたら? と言うだろう。
午前中から始めた作業は、集中力が乗っていたせいか街がオレンジ色に染まる頃には完成した。

自分で描いて置いてなんだけど、良く出来たと思う。
帰ってきたら、これを見て貰おう。
理由も何も言わずに。どういう反応をしてくれるのか楽しみ。

美樹は、出来上がった絵を両手で掲げて、照れくさそうに笑った。
暑さも疲れもどうでもよくなるほど気持ちがいい。


完成した画を掲げ、満足そうな美樹


その夜、自分の部屋の机の上に完成した絵を置いて、それを見ながら眠りについた。
枕もとには、力尽きた指からこぼれ落ちた絵葉書が転がっていた。

一枚目の絵が完成してから、二日が経った。
美樹はベットに座り、三通目の葉書を見ながら、何度目かのため息をついた。

うだるような、呼吸をするのも嫌な程の暑さのせいでもなければ、また絵について悩んでいる訳でもなかった。


「…………もうバイト終わったのかな」
そう呟いて、またため息を一つ。
側に置いてあった受話器をチラリと見た。

もしかしたら、まだバイト中かもしれない。
でも、終わってどこかへ旅に出ているかも……

そう思いながら、何度かダイヤルしては、繋がる前に切るというのを繰り返していた。
美樹は、少年の声が聞きたかった。
しかし、もう話す事は無かった。声が聞きたいだけで電話しても、何を話せばいいのかわからない。
夜まで待てば『今日一日はどうでしたか』と聞けたのだが、あいにくと、太陽はまだまだこれからですよと言わんばかりに丸井町をこんがりと焼いている最中だった。

そうして、またため息。

これからまた一週間ほど会えない。
その事を思う度に、胸の奥の何かがぎゅうっと絞られていく。

しかし、美樹の本当の心配は別にあった。
それは、再び少年と会った時の事であった。

会った時に、自分はどんな顔をすればいいのだろう?
ちゃんと話せるだろうか?
そして、もし、胸の奥の気持ちを抑えられなかったら、その事を告げてしまうのだろうか?

そんな心配が、頭の中でぐるぐると渦巻く。
やがて、考えたくない事が頭に無理矢理浮かんでくる。

もし、気持ちを受け入れてくれなかったら……
もしそうなったら……
一緒に住み続けられるのだろうか……

美樹は、膝を抱えた。

どうしよう。
なんでこうなっちゃったんだろう。
どうしてこんな所まで来ちゃったんだろう。


「会いたいよう……」
美樹は、小さく呟いた。

洗面所で顔を洗って、鏡を見た。

ひどい顔。さっきよりはマシだけれど。

美樹は、鏡の向こうから見つめてくる自分をじっと見ていた。
一度だけ両手で頬をパンと叩いてから、下腹に力を込める。
家の中に居るから余計な事を沢山考えてしまう。美樹はそう思って、出かける準備をして家のドアを開けた。

そのまましばらく固まってしまった。

「あ、美樹ちゃん。居たのか」
少年が、美樹の姿を見るなりそう言って、ニコリと笑った。

気のせいか、少し背が伸びて、日焼けしたのか、色も濃くなっている。
間違いなく少年だという事はわかっていながらも、美樹は動けなかった。

「駅についてから何度も電話したんだけどね。
 ずっと話中だったから、帰ってきちゃったよ。ただいま」

「…………」

美樹は、まだ呆然としたまま、少年を、不思議な物でも見るように見ていた。

「店長からREMのライブチケット貰っちゃってね。
 それで良く見たら、日付が今日じゃないか。
 で、まあ折角だから、旅はやめて一旦帰って来たって訳さ。
 美樹ちゃんと一緒に行こうと思ってね。
 まだ夏休みはあるから、旅はまた行けばいいし」


「…さん……ほんとに…さんなんですか?」
「え? 何が……」

少年が言い終わる前に、美樹は少年にいきなり抱きついた。
迷子になった子供が、親を見つけた時のように。

どんな顔をして会おう。どんな話をしよう。
なんとなくシミュレーションを考えてもいた。

それらが、全部吹き飛ぶ。

「ちょ、ちょっと……」
少年は慌てて、抱きついてきた美樹を見た。

「ど、どうしたの?
 なんかあったの? お腹でも痛くなったとか?」
「バカ……バカバカ」
「な、なんで?」
「バカだからバカなんですっ!」

美樹は、顔を上げないまま言った。
少年に向けたのか、自分に向けたのか。

「ああもう解ったよ。
 解ったからちょっと落ち着いて」

少年は、鞄を置いて、美樹の両肩を掴んで優しく引き離した。

「ほんと、どうしたの?」
本気で心配した声に、美樹が顔をあげた。

少しだけ目が赤かった。でも泣いては居ない。
少年の胸の中で、泣かない泣かない、絶対に涙だけは浮かべない……そう我慢していた。

少年と目が合って、ハッと我に返る。慌てて少年から離れた。

「あの、えっと。
 あのその……
 ……ごめんなさい。なんでもないです」

「う、うん……それならいいんだけど……」

少年は、照れくさそうに笑って返した。

なんでもない訳が無い筈が無い。
帰ってくるなりいきなり抱きつかれたのだ。
けれども、少し慌てて、少し恥ずかしそうにしては居るが、今の美樹は笑顔だった。
なんの翳りも無い。
少年にはそれが解っていた。

それを見た美樹の中から、張り詰めていた何かがゆっくり抜けていく。
この人の側でなら、普通に、でも思いっきり息が出来る。ずっと暮らしていける。
こんな気持ちで居られれば。前よりずっと好きなままで。
美樹は、そんな気持ちで居られる事が、何よりも嬉しかった。

「あ、それで……なんでしたっけ?」

少年は、苦笑して、

「ライブなんだけど……行く?」
「あ、はい! 行きます!」

美樹は今年一番の笑顔を見せた。

「それより、ちょっと荷物置きたいんだ。
 少し休んだら一緒に行こう」
「そうですね」

美樹は頷いて、

「あ、…さん。あの、えっと……」
「ん? なんだい?」
「見て欲しい物があるんです。いいですか?」
「いいよ」

少年は、にっこりと微笑んだ。

「あ……と、その前に……まだ言ってなかったですね」

美樹は、こほんと小さく咳払いをして、こう言った。
帰ってきたら、絶対にこれだけは言おう。
そう思って、ずっと心の中に仕舞って置いた言葉だった。

「おかえりなさい」

少年も応えた。
二人が今までずっとそうしてきたように。

「ただいま」と。

Fin

後書き

佐々木無宇商店の佐々木無宇さんのずっと一緒の物語2000に出品した物です。
時期も時期なので、とりあえず出しますが、ずっと一緒2000は非常に内容沢山で読み応えのある本なので、ずっと一緒ファンの人にオススメです(^^)
それはそうと、今回の本は非常に難産でした。読んでみると、その難産っぷりが見られると思われます。
出来はどうあれ、とりあえず懸命にやったので、評価はどんなでもそれはそれでしょうがないなあと受け止められる物になりそうです。


作品情報

作者名 じんざ
タイトルふたりぼっち
サブタイトルX−1=1
タグずっといっしょ, ずっといっしょ/ふたりぼっち, 石塚美樹, 青葉林檎
感想投稿数156
感想投稿最終日時2019年04月10日 06時24分59秒

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