あれは一体なんだったのだろう。
 今でも、ふと思う事がある。
 夢か幻か。
 どちらにしても、もうわからない事だった。
 もう会えないのだろうか。
 あの季節に。
 二度と無いあの季節に。
ある日、一足早く学校から帰った俺が、夕方頃に帰ってきた名雪を見てびっくりしたのが始まりだった。
 目を真っ赤にして、涙さえも浮かべている。
 ただ、悲しそうではなく、どこか嬉しそうだ。
 その様は十分に異常だった。泣きながら帰ってくるなんてただごとじゃない。
 ……と普通なら思っただろうが、水瀬家じゃ、たまにある事だ。
「ネコ触ったのか」
 制服についた白い毛が何よりの証拠だった。
 「う、うん」
 一瞬ためらってから、名雪は一つだけ頷いた。
 俺に怒られるとでも思ったのだろうか、少し視線を逸らしがちになっている。
 確かに触るなとは言ったが、それは俺が名雪の体質を心配したからで、結果的に責任を持つのは名雪自身だ。触りたければ存分に触ればいい。
 しかし、一つだけ腑に落ちない事があった。
 ここら辺のネコで人懐っこいのはそうそう居ないし、数少ない人懐っこいネコも名雪が近づくと逃げるのである。
 (名雪はどうしてどうしてと不思議がって嘆くが、どうしてその理由に気づかないのか俺の方が不思議でたまらない。動くぬいぐるみとでも思っているんだろうか?)
「ここの界隈で、おまえをそんなにボロボロに出来るネコが居たのか……」
 「ボロボロじゃないよ」
 これのどこがと鏡を出してやりたい衝動を押さえて、答える。
 「とにかく顔洗ってこいよ。目は良く洗えよ」
 「うん」
 洗面所にとたとたと走っていく名雪を見送ってから、俺はすぐに外に出た。
 名雪のあの具合からして、割と近い場所に居るに違いないと踏んだからだ。しかも、制服に毛をたっぷりと貰ってる状態からして、そのネコは抱かれ慣れてて相当寛容かつ温厚なのか、それともやる気が無いのかのどっちかだろう。まだ遠くには行ってない筈だ。
なによりも、俺は、そのネコに少し興味があった。
 もちろん、名雪をあそこまでボロボロに出来るネコという事もあったけど、それ以上に、そこまで出来るネコがここら辺に居るという事に惹かれた。
 玄関から道路へ出て、左右を見渡す。
道路。
 近所の塀の上。
 植え込みの中。
……どこにも居なかった。
 学校の方の道のどこかだろうか?
 一歩踏み出そうとした時だった。
綺麗な鳴き声が聞こえた。
 一瞬なんの音かと思ったくらい、少しの淀みもなく澄んだ鳴き声だった。
 はっとして後ろを振り向いて、水瀬家の塀の上に目をやると、そこに白い短毛のネコが居た。
 細い塀の上に座る姿に、一瞬我を忘れた。
 白いってのがどんな色なのか、もしかしたら俺は初めて知ったんじゃないかと思った。
 雪みたいに。雲みたいに。そのどれでもありどれでもないような……不思議な白さだ。
俺が呆然とした本当の理由は、その白さに負けない居住まいだった。
 前足をきっちり揃えた姿は、まるでどっかの作法の家元だ。長い尻尾を、揃えた前足に被せるように丸めている。エメラルドグリーンの瞳は、ネコがこんな眼差ししていいのかよと言いたくなる程綺麗で優しかった。
 俺が最初想像してたような、やる気なさそうな雰囲気なんか欠片も無い。しかもネコっぽい可愛さもちゃんと残ってる。
 名雪をメロメロにしたのは、このネコに間違いないだろう。
しかし、よく名雪に触られようと思ったもんだ。
 とは言うものの、人を恐れている様子もない。俺がこんなに近くに居るのに、逃げるそぶり一つ無い。
 「祐一」
 後ろから声をかけられて振り向くと、名雪が玄関から顔を覗かせて、こっちを見ていた。
 視線の割合は、俺二割ネコ八割と言った所か。目が爛々と輝いている。獲物を目の前にしたネコの目その物だ。
 「待て。出てくるなっ」
 慌てて玄関に戻って、名雪の前に立ちふさがる。
 「ねこ……ねこ…………」
 「わかったわかった」
 名雪の両肩を押さえながらネコの方を見ると、何もなかったように、手をなめて顔を洗っていた。
 「あのネコか……見たのは今日が初めてか?」
 「……うん」
 「野良猫……かな?」
 尋常じゃない美しさと気品、人を怖がらない態度。
 どう見ても野良猫とは思えないが、首輪が無い。
 「ねこ……」
 その前に、このネコ人間をなんとかしないとな……
 ため息を一つついてから、俺は名雪を玄関の方に押し戻した。
 扉を閉じる前に、最後にチラっとだけ塀の上のネコを見ると、ネコは空を見上げていた。
夕暮れの空。
ネコが興味ありそうな物が飛んでいる訳でもない。
 雲が茜色に染まっているだけだ。
 何が見えているのだろう。
 しばらく……といっても、四回呼吸するほどの間見ていた。でも、ネコの視線はずっとずっと空にあった。
 あんな風に空を見られたら、どんなにかいいだろうと思った。
 なんとなく名雪を押し戻してからもう一度側に行こうと思っていたけど、それはやめた。
 邪魔したら悪い。そんな気になったからだった。
夕飯を食べてから、自分の部屋に戻って、窓を開けてみた。
 まだ少しだけ冷たい風が、ゆっくりと部屋の中に流れ込んでくる。
塀を見下ろして見たが、もうネコは居なかった。
 さっきまであのネコが居た場所は、月の光が照らすだけだった。月明かりに照らされたら、白い毛はどんな風に輝くのだろうと期待していたのだが。
 今あのネコはどこで何をしてるんだろう。
 飼い猫だったら、今ごろどこかの家の中で寝ている最中だろうか。
 野良猫だとしたら……・ちゃんと飯は食えているのだろうか。どこかで、夜空を見上げているのだろうか……・
すると、ノックの音が響いてきた。
 「いいよ」と答えると、すぐにドアが開く。
 「今、いい?」
 名雪が、上機嫌そうにしながら入って来た。
 「別に。暇だったし」
 「そうなんだ」
 そう言って俺のすぐ横に来て、窓枠に手をかけた。
 「……何見てたの?」
 「ん……あのネコさ、今何してんのかなって思って」
 「祐一も気になってたんだ」
 「気になってるっていうか……まあそうかもしれないな」
 ネコそのものも、確かに綺麗だしどこか不思議めいた感じはするけど、それよりもネコの目的とか見たい物の方が気になるといった方がいいか。
 「ああ、いいなあ。あんなネコ飼いたいなあ」
 「無理だろう」
 「なんでそうあっさり言うの」
 非難がましい声を俺は無視した。
 「あのネコ、もしかしたら……やっぱり野良なのかもな」
 「どうして?」
 「名雪が飼いたいって言ったの聞いて、ちょっと想像してみたんだよ。
  なんか似合わないんだよな……人のうちに居るってのがさ」
 「そうかなあ。可愛いのに」
 「可愛ければ飼い猫って訳でもないだろ」
 「あれだけ大人しいネコなんだもん、人に慣れてるよ。
  野良ちゃんだったらもっと警戒しちゃう筈だし」
 俺は苦笑した。ネコを見る眼は確かなようだ。
 「そっか。あのネコ抱いたんだっけ」
 「うん。ふわふわのもふもふで気持ちよかった」
 代償を恐れない姿は立派としかいいようがない。よっぽどネコが好きなんだろう。
 「俺も触ればよかったなあ」
 「そうだね。また居たらね。また会えるよ絶対」
 名雪の嬉しそうな表情に、俺は思わず名雪の頭に手を乗せた。
 「お前ってさ、ネコっ毛体質だよな」
 ふわふわと撫でてみる。手をフワフワと押し返すような感覚が心地いい。
 「…………」
 名雪は何も言わなかった。
 俺はと言えば、ゆっくり流れ込んできた、少しだけ冷たい風が頬に気持いいな思っただけだった。
正直な話、もう二度と会えないかと思っていたネコとは、玄関の扉を開けたら、あっさりと再会出来た。
 昨日見た、空を見上げる姿に、妙な儚さを感じたのは、気のせいだったのかと思うくらい、晴れた空の下で、ネコの毛は白く綺麗だった。
 水瀬家の塀の上のどこがそんなに気に入ったのかわからないが、昨日とまったく同じ位置に座っていた。
 「なんだお前、ここが気に入ったのか?」
 そう言って近寄ってみたが、相変わらず逃げる気配はなかった。
 指をゆっくり近づけると、鼻をくんくんさせながら、指先に近づけてきた。意外な程普通な反応だ。
 「よしよし」
 俺はゆっくりと頭に手を持っていって、ゆっくり撫でた。
 朝からここに居たのだろうか、驚くほど冷たかったが、撫でているうちに、ほんのりと暖かくなってきた。
 ネコは、気持ちよさそうに、目を細めている。
すると、ドアが開く音が聞こえてきた。
 一瞬名雪かと思って身構えた。学校行く前にネコを触ったら、どんな事になるかは、推して知るまでもない。
 「あら。祐一さん。まだ行ってなかったんですか」
 姿を見せたのは秋子さんだった。
 「もう行きますけど……」
 「あら…………」
 秋子さんは、ネコの方に目を向けて、小さくそう言った。ゆっくり歩いてきた。
 何か信じられないような物を見る目つきだ。
 「このネコちゃんは?」
 「昨日の夕方、ここに居たんですよ」
 「そうなの…………」
 「どうしたんですか?」
 秋子さんと関わりのあるネコかとも思った。そんな態度だったからだ。
 「え? あ……いえ、なんでも」
 「そうですか……あ、ところで名雪は?」
 「あ、そうそう。もうじき来るわよ。ネコちゃんここじゃ危ないわね」
 そう言って、秋子さんは事もなげにネコを抱き上げた。
 タイミング良く玄関のドアが開くと同時に、くるっと玄関に背中を見せる。
 出てきたのは名雪だった。
 「あ、祐一! まだ居たの? 一緒に行こう」
 「え? ああ……そうだな」
 ととっと走ってくる名雪を待ってる間にも、背中に目でもついてるかのように動いて、名雪に常に背中を見せている。
 驚いた。こっちからは完全に見えない。
 「お母さん、どうしたの?」
 「ううん。なんでもないわ。ちょっと鉢を動かそうと思って。
  それより、早くしないと遅刻するんじゃないの?」
 「あ、そうだった」
 「忘れ物はない? 傘はちゃんと持った?」
 名雪は一瞬だけイヤそうな顔をして、ちらりと空に視線を移す。
 「大丈夫だよ。それじゃ行ってきまあす」
 そう言って、脱兎のごとく走っていった。
 「あ、おい。待てよ……それじゃ、いってきます」
 秋子さんの動きに舌を巻きながら、俺は名雪の後を追いかけた。
 「いってらっしゃあい」
 ちらりと振り返ると、抱えたネコの手を持って、小さく振っていた。
 名雪が振り返らないのはわかってるととでも言う風に。
「祐一くん。知ってる?」
 教室に入って席に着くと、後ろの席の月宮あゆが、いきなりそう言ってきた。
こいつは、いつも同じ聞き方をしてくる。
 普通なら何がだよと言ってじれるとこだが、そこでじれないのは、あゆの持ってくる話のネタが、俺の興味をそそる事が「たまに」あるからだ。
 「なんだ?」
 「あのね、商店街に一昨日新しくタイヤキ屋さんが出来たんだって」
 今回の話は情報系か。しかもすでに俺の耳にも入ってる事だ。今日は外れと言った所か。
 「あそこはタイヤキ屋じゃない。たこ焼き屋だ」
 「でもタイヤキも売ってるって聞いたよ?」
 「あそこは、小麦粉系みたいだな。たこ焼きにもんじゃにお好み焼きにタイヤキ。
  なんでもありだけど、大本が有名なたこ焼き屋じゃないか」
 「そうなんだ。祐一くん、物知りなんだね」
 心底感心したように目を丸くしている。
 「ああ、俺は物知り博士だからな」
 やれやれとため息をついた時、
 「あゆ、それじゃ今日帰り寄ってく?」
 美坂香里が、あゆの背後から来て、ぽんぽんと叩いた。
 「行くー」
 あゆが嬉しそうに目を細めながら言った。
 屈託の無い笑顔ってのはこんな笑顔の事を言うんだろうな。
 「なゆちゃん、ああいうの好きかなぁ?」
 あゆが聞いた。香里は首を振って、
 「あの子ね、今日部活で遅くなるっていうから、駄目だって」
 「ええ、そうなの? なんだー残念」
 「仲良しなこって」
 名雪と香里とあゆ。前から、この三人はどこでどう馬が合うのか不思議だった。
 天然が二人も居るから、香里の奴も大変だろう。
 「なあに? 祐一も行く?」
 香里がにんまりと笑いながら言ってきた。
 「いや、俺はいいよ」
 「祐一くんも行こうよ」
 「あゆのおごりか?」
 「ううっ……今月はお小遣いきびしいんだよ…………」
 今まで、そんな事出来ないよと言った試しがないのが、あゆのいい所でもあったが、それはどうかとも思う。
 「冗談だよ。期待なんかしてないから」
 俺が苦笑すると、
 「余裕があったら、おごってあげるからね」と、笑顔を見せてきた。
 罪悪感を感じる笑顔だ。
 「ばかねえ」
 くすくすと笑いながら、香里が俺の方を見てきた。俺の裏側なんか全部見えているといった風だ。
 「わかったよ。俺も確かにあの店には興味あるからな」
 「わーい」
 あゆが手をぽんと打ち合わせて声をあげる。
 「名雪居ないのに?」
 香里が苦手なのは、コレがあるからだった。
 「お前にゃ関係ないだろ」
 香里から視線を逸らして、窓の外に映した。
 良く晴れた空。雲は一つも無い。
 遠くに見える稜線には、まだ少しだけ雪は残っていたが、ここ最近の陽気が続けば、程なくしてなくなるだろう。
 「最近、あったかくなってきたよね」とあゆ。
 「……もう冬も終わりね」と香里。
 「ああ……」
凛とした空気。
 綺麗な星空。
 白い雪。
 白い息。
 辛い朝。
 気持ちの良い風呂上り。
正直、辛い事の方が多い季節だ。
 それなのに、今こうして暖かい風を感じていると、何か寂しい気持ちになる。
 また巡ってくる筈の季節なのに、もう二度と会えない気がして。
 「なあ……冬って好きか?」
 なんとなく呟いてみた。あゆと香里、どちらに聞いたつもりのない独り言に近い。
 「ボクは冬って好きだよ」
 「私は……寒いから嫌い」
 「そっか」
 すると、あゆが、「あったかい物が美味しいもん」と付け加えた。香里もそれに同感なのか、「そうね。やっぱりあったかいの食べるのは、寒い時に限るわね」と繋ぐ。
 「食い意地張ってるな」
 内心同感なのがおかしくて笑ったけれど、言葉になるのは憎まれ口だった。
 「でも……」と、二人が言葉を重ねた。
 「悪い季節じゃないだろ?」
 俺が続けると、二人は、柔らかく微笑んだ。
 そんな事言わないでもわかるでしょう? とでも言う風に。
名雪達の姿が見えなくなると、ネコは秋子の腕からスルリと抜け出して、綺麗な声で一つ鳴いてから、また塀の上にぽんと飛び乗った。
 「そう……そこがいいの」
 秋子は、納得したように目を閉じて、柔らかく微笑んだ。
 ネコは、何事もなかったかのように、青い空に目を向けた。
 「あなたはいつもそんな風に空を見てたわね。美汐……」
 秋子は、空に目を向けた。
 何が見えているのかわかっているかのように。
五時限目のチャイムが鳴り終わると同時に、教室の空気がやんわりと緩んだ。
 が、それも束の間、教室のあちこちからこんな声が聞こえてきた。
「なんか雲行きあやしいな……」
 「なんか降りそうだな」
 「やーん、傘持ってきてない」
 「天気予報の嘘つき」
 さっきから俺も気になっていた事だった。
 出掛けにTVで見た天気予報では、一日快晴だった筈だし、現に昼休みまでは、今日の放課後の予定に胸を弾ませている連中を喜ばすのに十分な空だったのに。
 「なんか雪が降りそうだよね」
 後ろで、あゆが不安げに空を見ていた。
 「雪? さすがに雪は……」
 降るなら雨だろう……とは思うが、言われてみればという感じがどこかにあったのも確かだ。
 「……なんでかな。雪って感じなんだよ」
 自分でも、どうしてそんな風に思うのかわからない。そんな顔つきだった。
 ただ、どうしてかそんな表情を見ていたら、本当に降るんじゃないかと思った。
 「祐一、あゆちゃん」
 名雪が俺の所へやってくるなり、
 「なんか雪降りそうだね」
 「なんでみんなして」
 「わからないけど……祐一はそんな気がしない?」
 「…………」
 「あ……」
 あゆの小さな声が、始まりだった。
 窓から見える体育館の屋根の黒い部分に、白い小さな一片が通り過ぎたのが見えた。
 「雪…………」
 名雪が呟いた。
 「降ってきちゃったわね」
 いつのまにか近くに来ていた香里が、淡々と言う。
 「この時期に雪なんて……」
 名雪が、不安そうに、不思議そうに呟いた。
ホームルームが終わる頃には、雪は本格的に降り出し、見える所のほとんどに雪が積もりだしていた。真冬並の降り方だ。
 「今日、どうする?」
 香里が、俺の机の上に腰掛けながら聞いてきた。
 「うう、タイヤキ食べたいよう」
 「私は、今日部活なくなったから、行ってもいいんだけど……」
 結局、判断は俺に委ねられたって所か。
 「傘は…………」
 すると、香里とあゆは、折りたたみ傘をさっと出して、にっと笑った。
 「人間、万が一に備えなくちゃね」
 「鞄の中に入れっぱなしだった」
 両方の人間性が見られてよかったよ。
 「私、持ってないよう」
 名雪が泣きそうな顔をする。
 「こんなこともあろうかと、俺はいつも傘を……」
 机の一番奥に、置き忘れたまんまにしていた折り畳みの傘がある事を思い出したのを巧みに誤魔化しながら取り出した。どうも俺はあゆと同じ系統らしい。一人苦笑した。
 「じゃあ決定ね。祐一は名雪担当って事で。ちゃっちゃと行っちゃいましょう」
 香里の一方的な決定で、突然の雪にも怯まない雪中行軍が組織された。
香里とあゆは自分の傘。俺は名雪を自分の傘に入れてやって、雪降る街を歩いていた。
春に備えて準備をしていた景色が、不意打ちを食らってうなだれているように見えた。
 しかし、俺はちょっと違う。旅に出てしばらく会えなくなると思っていた友人の出発が遅れたような、束の間、また深く話せる機会を得たような……そんな感覚がある。
 「祐一、もっとくっついていいよ。肩に雪積もってる……」
 そう言うなり、名雪の方が、少しだけ身体を寄せてきた。どうせ俺がそんな事をする訳ないと思ってるのだ。だったら自分から動く。名雪らしい。
 「傘狭いんだからしょうがないだろう」
 「だから……」
 俺はふと前を歩く香里とあゆを見た。
 香里がそれに気づいたのか、あからさまにヤレヤレと言った感じで、肩をすくめていた。あゆまでが、香里のそれに反応して、手を口元に持っていって、クスクスと笑ってるようだ。あいつら超能力者かなんかか?
 「秋子さんの言うとおりにしてれば……」
 「お母さん、天気予報泣かせなんだよ。
  雨降るからって言って傘持たせてくれたら、その日雨が降ったためしが無いの。
  だから、天気の事は自分で判断するから、言わないでって言ってるのに」
 「へえ……そうか。ま、結局は傘持ちたくないだけなんだろ?」
 「えへへ……まあね」
 しょうがない。俺は、名雪に重なるように近づいた。腕を組んでくれれば、楽なんだがな。そう思っていると、袖がくいっと引っ張られる感覚があった。
 もしかしたら、俺が傘を持っているのを知ってて、こうなりたくて……なんていうのは、考えすぎだろうな。きっと。
 しばらく無言で俺達は歩きつづけた。
 そういえば、冬はこんな事が似合う季節だったという事を思い出した。
商店街に行くまでの道のりは、うちの高校の連中だったら、誰一人としてわからないという奴が居ないほど、遠くはないし、わかりやすい所である。
 「まずいな……なんかヤバイ降りになってきたぞ」
 ヤバイどころじゃなかった。前も満足に見えない。映画さながらだ。こりゃ雪の土砂降りだ。
 もはや、俺達の居る所が道路の上かどうかも妖しくなってくる。
 もう、傘はほとんど役に立っていない。足元はまっしろだ。足が剥き出しの名雪達には、辛いことこの上ないに違いない。
 「ねえ、どうなってんの?」
 香里が、憎々しげに呟く。
 「なんにもわかんないよう」
 香里にぴったりと寄り添ったあゆが、悲痛な悲鳴をあげる。言う通り、景色は雪で真っ白。どこかの雪山で遭難してるようだった。もちろん、どう間違ってもこれだけの時間で近所の山にも迷い込むのは無理だ。あからさまに異常だった。
 「どっかに避難しようよ。このままじゃ遭難しちゃうよ」
 名雪の言う事ももっともだ。
 今まで冗談で使う事はあっても、心底そう思ったのはこれが初めてだった。
 しかし、どこかと言っても、辺りは真っ白だ。俺達四人以外の人影も見えない。
 「みんな、近くに寄れ」
 俺は名雪達を一旦集めた。香里までが、不安そうな表情で震えていた。
 「本気でやばいんじゃないの?」
 「…………だ、大丈夫だよ。いくらなんでも」
 そう思ってないのは、自分が一番よく判っていた。わかるけれど、それしか言えなかった。
 他に何かいいようがあるというなら、教えて欲しいくらいだ。
 「やだよう。こんな所で樹氷になりたくないよう」
 あゆは、えぐえぐと泣き出した。名雪が、あゆを抱きしめに行く。
 冗談ではなく、ここで力尽きれば、十分もしないうちにそうなれるだろう。
 「あゆちゃん、大丈夫……大丈夫だから」
 今まで、雪は街に綿帽子を載せる程度の存在だと思っていた。
 小さい頃は、雪が降るだけで、嬉しくてたまらなかったものだ。今は、本気で命の危機を感じてさえ居る。
 穴を掘って雪を凌ぐのは大げさだと思っていたが、もうそんな事を考えてられない。すでに雪は腿のあたりにまで達している。足先の感覚なんてとうの昔に無くなっている。
 傘を放りなげて、俺は雪に穴を掘り始めた。
 指先の感覚もすぐに無くなったが、もう構ってられなかった。
 「なにやってるの!」
 香里が声を荒げたが、無視して続けた。
 「そんな事するより、どっかへ行けばっ! だいたいこの辺りだって住宅地の筈じゃない!」
 香里だってわかってる筈だ。そんな事が出来るくらいなら、とっくにやってる。
 すると、名雪が俺の横に来て、素手で雪を掘り出した。あゆも続く。
 「あたしやだ。まだ死にたくない。みんな居なくなっちゃうなんてイヤ」名雪が必死になって掘り出す。
 「絶対やむから……だからそれまでだよ。ね、香里ちゃん。待ってて、今穴掘るから……」
 あゆは、名雪とは対照的に笑っていた。でも、泣いてる風にも見えた。
 助けたくて、それでも一生懸命で……
 俺達がしばらく掘っていると、
 「ばかあ! あんた達みんなばかよ! 祐一も名雪もあゆもみんなっ!」
 香里が叫んだ。叫ぶなり、俺達の作業に加わってきた。
 「こんなトコで死ねないでしょ! バカって笑われたって! みんなで助かるんだからねっ」
 香里は泣いていた。涙とは無縁だと思ってた。この中で一番バカなのは俺だ。
 どれだけ掘っただろう。まだ四人が身を隠せる洞を作りきれていない時だった。
 「あなた達……こんなとこで何をしているの?」
よく通る綺麗な声が響いた。雪のこんな中なのに。
 俺たちは、はっと我に返って、声のした方を一斉に向いた。
 言われてみれば、こんな所で言われてもおかしくないような場所かもしれないというのを、あっさり指摘してくれるような声だった。
 いい高校生が、四人して道端で雪に穴を掘ってる。そんな光景の主役だったんだ。
 いきなり何やってんのと頬を張られた気にさえなった。
 「な、なにって……」
 声の主をまじまじと見た。多分俺だけじゃなく、名雪達も同じだったに違いない。
 ノースリーブのオレンジ色のシャツに、濃紺のデニムのスカート。それだけで目を疑うくらいなのに、それ以上に奇妙だったのは、今まで雪が降ってなかった場所に居たかのように、身体のどこにも雪は積もっても濡れてもいない所だった。傘が真っ白だったから長い間いたのかと思ったが、よく見たらそれは日傘だった。
少しウェーブがかったセミロング。
 可愛いと素直に思えるくらい可愛い顔立ち。
 俺達くらいの歳っぽい。
ただ、目が違う。この目のせいで、俺達が我に返ったと言ってもいい。
 俺達がこんなことをしているのに、なんの興味もない、かといって引くような感じでもない。
 要するに、無表情に近い。
 「助かったよ」
 あゆが嬉しそうに手を合わせた。そうか。そうだった。
 「助けてくれ!」
 「助ける?」
 女の子は、俺が何を言ってるのかさっぱりわからない風だ。
 「遭難しそうなのっ」名雪が言っても、女の子は同じ目をした。
 「遭難? こんな所で? どうして?」
 「遭難は遭難よ。わかんないのっ?」
 香里がじれて、声をあげた。
 バカにされるより、屈辱的な事だったのかもしれない。
 「なんだかわからないけど……とりあえず落ち着いて話せる所へ行きましょうか」
 女の子はくるっと背を向けた。
 「あ、おい……」
 俺の呼び止めも効かずに、すたすたと行ってしまう。
 「どうするの?」名雪が聞いてきた。
 「行きたくないっていうのが本音だけど……」と香里。
 あの格好から判断したら、どうしたってついていかない方がいいのに決まっているのは、香里だけじゃなく、この場の誰もがわかっていることだった。
 「行こう」三人を促して、俺は立ち上がった。もう身体中感覚が無い。
 「待ってくれ」
 俺たちは、こんな深い雪の中をさっさと進んでいく女の子を追いかけた。
そうなんだろう。
 多分、おかしくなってしまったのだろう。
 そうでなければ、説明出来ない。説明出来たら出来たでイヤだが。
刺すような日差しが焼きつく道路には、建物の影がくっきり落ちていた。
 青く澄み切った空の遥か向こうには、入道雲が美味しそうなお菓子に見える。セミの声が音の洪水のようだった。
 ここは……確か、学校から帰り道に使う道だ。
女の子を追いかけて、何かの角を曲がった瞬間に広がった景色だ。
しばらく、棒のように突っ立つ以外、何が出来るだろう。
 どうみても夏の景色の中で、冬服を着ている俺達は、とてつもなく間抜けな一団に見えるんじゃないだろうか。
 そんな俺達を、妙に白く眩しい日傘の下から、女の子はずっと見ていた。
 「どうなってるの……」
 名雪が呆然としながら呟いた。無理も無い。この場の誰だって言いたい事だ。
 「うぅ……痛いよう」自分の頬をつねっていたあゆが、泣きそうな声をあげる。
 「…………」香里と俺は、ただ無言だった。
 そんな俺達を、女の子はずっと見ていた。日傘の白が妙に眩しかった。
 こんな所から来たのなら、あの格好も当たり前だよな。ぼんやり思った。
 指を閉じたり開いたりしてみる。指先に感覚がある。
 もっと不思議なのは、さっきまで雪でぐしょぐしょになっていた制服に、水気が一切なかった事だ。名雪達も同じ風だった。
 「あなた、一体なに? なんなの?」
 見事な質問が香里から飛ぶ。
 「私? 私は私ですけど……」
 確かにそうだ。でもそういう事を聞いてる訳じゃない。
 あの雪の中に出てきて、俺達を引っ張ってきてみれば、こんな所に連れてくる。
 俺達が聞きたいのは、そういう事だった。
 「わたし、名雪……水瀬名雪っていうの」
 名雪が名乗ると、女の子の無表情が、少しだけ動いた。そう見えた。
 「ボク、月宮あゆ」素直にあゆが名乗る。
 「…………美坂香里」答えたくなさそうだが、無礼はもっとイヤだ。そんな顔だった。
 「俺は相沢祐一。君は?」
 「天野……美汐です」
 「天野さん……か」
 「ええ」
 「ちょっと聞いていいかい?」
 「なんでしょう」
 「さっき、俺達と会ったよな。雪が降ってた。そうだろう?」
 「……そうですね」
 この言葉がどんなに欲しかった事か。言葉が嘘にならないように、慎重に行くのが手だな。
 「今は降ってない。おまけに、空見ても雲なんてほとんど無いよな?」
 この返事が最後の希望だった。試験の結果を待つような気分。
 「……そうですね」
 さっきとまったく同じ返事が返ってきた。丁寧な事に、口調まで一緒だ。
 だが、この際そんな事はどうでもいい。
 「どういう事なんだ? こりゃ夢か?」
 「夢……ではないと思います」
 「夢じゃなかったらどうして」とあゆが口を挟んできた。
 「さっきまであんなに降ってた雪がぱって消えちゃったの?」
 「ここには、雪なんかありません」
 そんなのは見ればわかった。もうさっぱり訳がわからない。
 「いいわよ。もう遭難しないで済んだのなら、こんな所に居る必要は無いでしょう?
  夢でも見てるっていうんなら、それでも構わないわ。少なくともここに居るよりまし。
  さっさと行きましょう」
 「う、うん……そうだね」
 香里の言葉に、名雪も賛成する。
 だが、俺はなぜかそれが出来なかった。
 さっきから感じる妙な違和感のせいだ。このままどこかへ行けるだろうか。いつもの道のいつもの角を曲がっても…………
 「行こう、あゆ。ほら」
 香里が、あゆの手を掴んだ。
 「あ……う、うん……でも……」
 あゆは、多分俺が迷ってるのに気づいてるに違いない。香里もわかってたのだろう。
 「祐一、行こうよ」
 名雪が俺を呼んだ。でも……
と、その時だった。
 チリンと小さな音がしたかと思うと、塀の上から、白い物が落ちてきた。
 いや、違う……あれは……
見間違えようの無い白さ。
 聞き間違えようの無い綺麗な声。
美汐に寄り添うように座ったそれは、真っ白なあのネコだった。
後書き
今回、キャラで「月宮あゆ」と「天野美汐」が、ゲームの中の設定とはまるで違う形で登場しています。
   私自身、kanonはちゃんとプレイして設定もわかっているのですが、ゲーム中に感じたキャラのイメージ(言動や思考)をもっと他でも使えないかと思っていたせいか、半ば勢いで設定を変えて出す事になってしまいました。
   この点においても、混乱をさせてしまったと思われます。
   私の力量が足りていれば、混乱も少なかったと思われると、口惜しい限りです。
作品情報
| 作者名 | じんざ | 
|---|---|
| タイトル | たとえばこんな物語 | 
| サブタイトル | 第1話 | 
| タグ | Kanon, 相沢祐一, 水瀬名雪, 月宮あゆ, 美坂香里 | 
| 感想投稿数 | 14 | 
| 感想投稿最終日時 | 2019年04月11日 09時37分14秒 | 
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| 読みたい! | 14(100.0%) | 
| この作品の直接の続編 | 0(0.0%) | 
| 同じシリーズで次の話 | 0(0.0%) | 
| 同じ世界観・原作での別の作品 | 0(0.0%) | 
| この作者の作品なら何でも | 14(100.0%) | 
| ここで完結すべき | 0(0.0%) | 
| 読む気が起きない | 0(0.0%) | 
| 特に意見無し | 0(0.0%) | 
コメント一覧(クリックで開閉します)
- [★★★★★☆] 前書きで設定を変更している事、後書きでその設定を書くと判り易いのではないでしょうか?
- [★★★☆☆☆] 続きがきになるはなしですね。
- [★★★★★☆] とっても、おもしろいから次がはやくよみたいです
- [★★★★☆☆] なんか東鳩みたいだな
- [★★★★★★] 読みやすい上
- [★★★★☆☆] 続きを楽しみにしております。
- [★★★★☆☆] 次回作を期待しております。
- [★★★★★☆] 設定が違っても、うまく話しになってて面白かった。ただ、やっぱり設定は変えない方が読みやすいと思う。
