「お姉様」
グラドリエルは、辺りを二、三度伺ってから、シドラエルに向かって囁いた。それでも石の壁の城内には良く響いて、思わずグラドリエルは口を抑えた。
呼ばれたシドラエルは、自らも辺りを伺ってから、そそくさと、柱の影に隠れているグラドリエルの元に駆け寄った。足音を殺す事に慣れていないのか、トトっと小さな靴音が響くが、グラドリエルの声ほど大きな物ではなかった。
シドラエルの格好といえば、城内でいつも着ているような、ドレスではなく、グラドリエルが町で調達してきた、ごくありふれた地味な服を着ている。艶やかな髪は後ろで束ね、帽子で頭を隠している。このまま街に出て、人混みに紛れてしまえば、誰も自分の国を治める王族の血を引いた姫だと気づかずに、通りすぎてしまうだろう。
しかし、彼女達を見て通りすぎた人々は、彼女らを見た後、不意に立ち止まって、そっと後ろ姿をそっと見守ってしまうに違いない。
そうさせる彼女達の雰囲気を、どんな服も隠す事は出来ない。
もっとも、ジェストナイら、側近の者が見たら卒倒させてしまう格好である事は、間違いなかった。
「お姉様。お身体は大丈夫ですか?」
グラドリエルが心配そうに言うと、シドラエルは微笑んだ。
「大丈夫です。とっても具合がいいの。これのお蔭かしら」
そう言って、シドラエルは胸のあたりをポンと叩く。
姉の言葉に満足したのか、グラドリエルは嬉しそうに目を細めた。
シドラエルの元気な笑顔を見る事自体が、今まで少なかったせいもあるのだろう。
生まれつき病弱な姉、シドラエル。
グラドリエルは、物心ついた時から、病弱な姉を気遣うようになっていた。
いつもバルコニーから、城下や、遥か向こうに連なる山々、無限に広がる青い空を見ている姉の瞳が、巣立ちを前にした小鳥のような希望に溢れていると同時に、それが叶わぬと知っている悲しい光がある事を、グラドリエルはいつも見ていた。
姉が母の中に置いてきてしまった物を、自分が全て貰ってしまったように思えて、そんな眼差しを見る度に、小さな胸を痛めていたのだ。
シドラエルの双子の姉であるエリエルは、病弱な妹を気遣って、元気にする方法を模索しながら読書に励んでいる。その為か、医学の知識は、下手な町医者を凌ぐ程であった。
グラドリエルは、そんな姉達を見て育ち、また、そんな姉達に育てられたのだ。
「お姉様、隠れて!」
不意にグラドリエルが柱にピシっと身を寄せた。シドラエルもそれに習う。
しばらくすると、コツコツという足音が聞こえてきた。やがて、足音は二人の隠れている柱の前を通り過ぎて行く。
城仕えの女性達であった。
今、柱に隠れている城下の人々と同じ格好をしている二人を見れば、瞬間的にただでは済まない。小さな悲鳴すら上げられてしまうだろう。自分達の仕えるべき女王だと知って胸を撫で下ろされたとしても、グラドリエル達にとっては都合が悪い。今は、なにより、計画の隠密性が問われるのだ。
息を殺していた二人は、足音が遠ざかるまで待ってから、ほっと胸を撫で下ろした。
ふと、シドラエルが口元を手で隠して、クスっと笑った。
それを見て、グラドリエルが不思議そうに首を傾げる。
「お姉様?」
「あ・・・ごめんなさい。おかしくって」
抑え切れないのか、クスクスと笑い出す。
「こんな事してるなんて知ったら、お姉様やジェストナイはどう思うかしらね」
不意に、グラドリエルもクスクスと笑った。
「?」
「ご、ごめんなさい・・・・なんでもありません」
ようやくグラドリエルは笑いを抑えてから、
「でも・・・きっと、あとでわたしがジェストナイに叱られます」
グラドリエルはそう言ったが、表情は困っていなかった。
笑っていた。
十三歳の女の子が浮かべるに相応しい、少し悪戯っぽい笑顔だ。町でグラドリエルと同じ年頃の子供達の中で、こんな笑顔を浮かべれば、彼女の回りには、いつも友達が居るに違いない。
「大丈夫ですよ。私が一緒に謝ってあげますから」
シドラエルが、目を細めて、柔らかく笑った。
姉のこんな笑顔が見られるなら、私がどんな罰を受けてもいい。と、グラドリエルは思った。
自分に罰を与えてくれる人など、この城には居ない立場である事も忘れて。
二人の行動の二日前───
グラドリエルは、いつも城下の話しをシドラエルにするのが好きだった。外の世界の話を聞いている時のシドラエルの目を輝かせた表情が、グラドリエルにとっては、何よりの喜びであったからだ。シドラエルもグラドリエルが話してくれる城の外の世界の事に興味を持ち、想像の世界に羽ばたいていくのが好きだった。妹が話してくれる外の内容も好きだが、何より、自分の為に妹が話して聞かせてくれる事が、嬉しくてたまらないのだ。
ある日、グラドリエルがいつものようにシドラエルに話していると、不意にシドラエルの部屋に、ほんのりと胸を暖かく満たしてくれる匂いのする風が舞い込んで来た。
毎年春になるとヴァレンディア地方に吹く、春を告げる風だ。この風が吹くと、人々は春の到来を感じ、空を見上げては目を細める。
風に混ざる匂いの正体は、春に咲く精花草の花の匂いであった。見る者の身体を癒すと言われている、伝説の花。匂いだけでも人の心を潤し、元気で満たしてくれる。だから、毎年春になると、シドラエルの身体も楽になって、バルコニーに姿を見せる事が多くなる。
城下の人々は、バルコニーに立つ姫の姿を見る事で、春の到来を改めて感じ、シドラエルがバルコニーに姿を見せた夜などは、街の酒場は春の宴でどこも賑わう。
「今年は、少し早いですね」
グラドリエルは、吹き込んでくる柔らかな風に目を細めながら呟いた。
シドラエルも、ベットに腰を下ろしたまま、風の入ってくる窓の方を見つめた。
「この風が早く来ると、豊作になるといいます。今年はみんなの表情も明るい事でしょうね」
「きっとそうだと思います」
グラドリエルは、元気良く言った。
不意に、シドラエルの目が見開かれた。
視線は、グラドリエルを通り越して、窓の方を向いている。
「?」
グラドリエルがシドラエルの視線を辿ると、その先に、一枚の大きな、大人の手のひらほどの大きさの、真っ白で薄い、まるで蝶のような物がふわりふわりと舞っていた。空気のかけらのようにフワフワと揺れて、なかなか降りてくる気配がない。
グラドリエルとシドラエルが見守る中、それはゆっくりとゆっくりと時間をかけて、床に舞い降りた。
グラドリエルは、近寄って、落ちた物をじっと見つめていた。
しばらく観察した後、ひょいと、何事も無いかのように指で摘み上げる。
不安げに見守っていたシドラエルが、思わず小さな声をあげた。得体の知れない物を平気で摘んでしまうグラドリエルへの心配が混ざっている。
「それは・・・?」
「お姉様・・・これ・・」
グラドリエルが、摘んだ物をシドラエルに向けて見せた。
「・・・・」
興味が、シドラエルをベットから立ち上がらせた。
おそるおそる近づいて、まじまじと見ていると、グラドリエルが持っている物を差し出して来た。綺麗な白い物であったせいか、シドラエルは思わず手を出した。グラドリエルは、持っている物に負けないくらい白い、シドラエルの繊手の上に乗せた。
「これは・・・?」
手の上に乗っていても、今にも消えてしまいそうなほどに儚い物を気遣うように、囁くように言った。
「間違いなければ・・・・多分精花草の花です」
グラドリエルがシドラエルの手の平の上にそっと乗せたのは、精花草の花びらだった。
気高い純白の花びら。グラドリエルには見覚えのあった物だ。しかし、覚えのあるのは形だけで、色と大きさは、グラドリエルも知らない物であった。
「これが精花草の花びら・・・綺麗・・・・本物の精花草の花を見るのなんて、初めて・・・」
シドラエルは、手の平に乗せられた精花草の花びらを、飛ばさないようにと息を潜めた。
「不思議・・・持っているだけで、身体の奥から元気が湧いて来るみたい・・」
事実、シドラエルの透くような白い肌には、柔らかな紅が浮かんで来ている。
「わたしも、何度か精花草を見た事はありますけど、こんなに大きくて真っ白な花びらは初めて・・・」
グラドリエルも、花びらに見とれていた。
「風に乗ってやってくるなんて・・・近い所にあるのかしら」
シドラエルが、窓の外に目を移した。
連なって見える山々と、清々しい色の空が広がっている。
「あの山の方から来たのかしら・・・」
自分が行く事の出来ない、遥か彼方の場所に思いを馳せているのだろう。
「そうですね。精花草はこの周りでは育たないから」
シドラエルが、精花草を見られない最大の理由だった。例え発見してから、どんな早馬で運んでも、城に着く頃には、花は枯れてしまうのだ。しかし、今二人の元にある花びらは、枯れずになぜか残っている。その事を一番の疑問に思わないのは、二人が精花草の輸送についての多少なりとも知識あったが、実践が無い為であった。
「わたしも・・・一度精花草が花を開かせている所を見てみたいわ」
手にした精花草の花びらが無かったら、この言葉は消えてしまうのではないか。精花草の花のように。
グラドリエルは、シドラエルに、精花草の儚さを重ねていた。
「お姉さま・・・」
自分自身は、城を抜け出しては、何度も冒険に出ている。そのせいもあって、精花草を見る機会は多い。しかし、病弱な姉は、城の外に出る事すらおぼつかない状態だ。
出来れば、連れ出して見せてあげたい。そう思う物の、無理をさせれば、シドラエルの身体に影響を与えてしまう。
連れ出したい気持ちを、ぐっと抑えた。
「それでは、お姉様。わたしは午後の謁見があるので、これで・・・」
どうにも出来ない自分を、グラドリエルは少し憎んでいた。剣技に長けても、姉一人救えない悔しさから来る物だ。
こんな事なら、エリエルお姉様のように、書物で学ぶべきだった。と、事ある事に思うのだった。
「わかりました」
グラドリエルの心境を知ってか知らずか、シドラエルは優しい微笑みで、妹を送りだした。それがグラドリエルには一番の喜びであり、悲しみだった。
「あ、グラドリエル。これを・・・」
出て行こうとするグラドリエルを呼び止めたシドラエルは、立ち上がって、グラドリエルの所まで歩み寄って、
「これはあなたが持っていなさい」
グラドリエルの小さな手を開かせて、持っていた精花草の花をその上に置いた。
「わ、わたしは大丈夫です。これはお姉様が持っていた方が・・・」
グラドリエルは慌てたが、シドラエルは首を横に振った。
「わたしは、春の風が吹いてくれれば、大丈夫です。毎年そうしてきました。でも、あなたはこの国を治めなくてはならないのでしょう。その為のお守りだと思って・・・」
「でも・・・」
「グラドリエル。あなたが元気で居てくれないと、わたしが辛くなるばかりなの」
「お姉様・・・」
「あなたの元気がわたしの元気。ね・・・・だから」
病弱とは思えないほどの力強い言葉に、グラドリエルは少し考えてから頷いた。
その頭の中には、閃いた物があったのだが、今はシドラエルには内緒にした。
「ありがとうございます。お姉様」
妹の頷きに満足した姉は、にっこりと微笑む。
もしかしたら、本当の春風はお姉様なのかもしれない。
グラドリエルはそう思いながら、シドラエルの部屋を後にした。
夕刻、グラドリエルはエリエルの部屋に赴いていた。
「お姉様。これを見てください」
グラドリエルが差し出したのは、精花草の花びらだった。
「まあ、これは・・・」
エリエルの瞳が驚きの色を浮かべる。
「精花草・・・」
「昼に、シドラエルお姉様の部屋に舞い込んで来たのです」
グラドリエルがそう言うと、さらにエリエルの目にある驚きの色が増した。
「なんてことなの。精花草の花びらが枯れずに在るなんて・・・これは本物なのですか?」
いつにも無く驚く姉の姿を見て、一番驚いていたのはグラドリエルだ。
物静かに本を読む姿の姉からは、想像も付かないほどの驚きようだったからだ。
「ええ、多分そうだと思います」
「すぐに枯れてしまう筈なのに、まだこんなに瑞々しい・・・それに、とっても大きい。こんな立派な花びらは見た事がありません・・・」
これを聞いたグラドリエルは、しばらく考えこんでから、
「お姉様、これをどうにか出来ませんか・・・」
「どうにか?」
エリエルは、不思議そうにグラドリエルを見つめた。
「シドラエルお姉様の為に・・・・」
「・・・・グラドリエル」
エリエルの驚きの表情が、序々に笑顔へと変わっていく。
「なんとかこれを研究して、シドラエルお姉様の為に役に立てば・・と思って。精花草の花は、癒しの効果があるのですよね? もしなんとか出来れば、お姉様だけでなく、国の人達にも・・・」
「・・・・」
グラドリエルの言葉に、エリエルは、グラドリエルをぐっと抱き寄せたい気持ちをぐっと抑えて、
「あなたの治める国なら、きっといつまでも平和が続くわ。これからずっと先、わたしやあなたがこの世から居なくなっても、あなたの残す物が、平和を繋いで行ってくれる事でしょう・・・」
エリエルの言葉に、グラドリエルは少し照れ笑いを浮かべる。
こんな素直な所も良いと、エリエルは思う。
「それより、精花草の事ですね。わかりました」
そう言って、エリエルは書棚に行き、一冊の古い装丁の本を手にしてきた。
「精花草の花が輸送に向かないのは、各文献に記されている通りだけど、過去に一度だけ、大魔女と呼ばれたロデリナ・ジェリエンドが、短期間だけど、花びらを保存する事に成功した方法があったと記されています」
ページをめくりながら、エリエルはグラドリエルに語って聞かせた。
「そうなのですか?」
グラドリエルの驚きをよそに、エリエルは目的のページに目を止めた。
「・・・角ある馬のたてがみを依りて作りし布に、ユグドラシルの実を擦りて潰した汁に漬け込み、白き魔法石の力をもって作る物なり。其を風縛の衣と言ふ」
エリエルが、本の箇所を読み上げた。
「風縛の衣・・・・」
「角ある馬とは、ユニコーンの事でしょう。製法自体はたいして難しく無いのですが、一番の難点は、ユニコーンに会えるかどうかにかかっています・・・」
エリエルは、声をわずかに落とした。
「お姉様・・・」
グラドリエルは、ユニコーンの名前が出た時に、思わず息を飲んだ。かつて、闇の神の力を秘めた本、ラルヴァの書によって操られていたとは言え、エリエルがユニコーンの力を使おうと企んだ事を知っていたからだ。
ユニコーンの命である、一本の角を折ろうとした記憶は、今もエリエルを苦しめる元でもあるのを、グラドリエルは知っている。
「私には、きっと無理なのでしょうね」
エリエルは、誤魔化すかのように苦笑した。それがグラドリエルを苦しめる事になるとは知らずに。
「でも、あなたは大丈夫です。あなたになら風縛の衣は作れる事でしょう・・・」
グラドリエルは、エリエルの寂しそうな表情に圧されながら、次の言葉を捜していた。どうすればいいのか判らない。剣を振るえても、姉の苦悩一つ救えない。そんな自分に苛立ちを覚えながら。
「そ、それで、風縛の衣があれば、精花草を枯らさないで済むのですか?」
本来の目的の話に戻ることで、雰囲気を戻そうとした。
実の所、エリエルには判っていた。グラドリエルが自分の苦悩を敏感に察しているのを。
もとより、シドラエル、グラドリエルの二人の妹の事を、何より気にかけるエリエルだ。自分の苦悩一つで妹が気苦労を負う事よりも、自分の苦悩を静める事を選ぶ。
今もそうして、グラドリエルの真意を汲んで、自分の気持ちを落ち着かせながら、
「正確には、花びらだけです。でも・・・それ無しでも長持ちしているのだから、使えばもっと長持ちするに違いありません」
「・・・・・・」
グラドリエルは、しばらく考え込んだ後、
「わかりました。わたしが材料を集めて来ます」
はっきりと、エリエルの目を見ながら言った。
「わたしが出来る事と言ったら、これくらい・・・」
「グラドリエル・・・」
エリエルは、いたわるようにグラドリエルの菫色の髪を撫でた。
「あなたを誇りに思います」
「お姉様・・・」
「私達は、素晴らしい妹を与えてくださったお父様お母様に感謝します」
エリエルは、そっとグラドリエルの頭を抱きしめた。
「・・・・・」
グラドリエルは、優しい姉の腕の中で、匂いを感じていた。柔らかい匂い。包まれて眠ってしまいたいと思う匂い。記憶には無い母の匂いとは、こんな匂いなのではないか・・・そんな事を思いながら。
そんな時、ふと、ある考えが浮かんできた。
姉の苦悩を取り除きたいという考えだ。それを姉に伝える事は、ある意味で残酷な選択になるかもしれないと思いつつも、決定的な解決はそれしかないと決心を固めたグラドリエルは、優しく包む姉の腕から離れた。
「お姉様。もし良ければ・・・・」
「?」
「私と一緒に出ませんか? 風縛の衣の材料を集めに・・・」
「えっ・・・」
エリエルが短い声を上げるのも無理は無かった。風縛の衣を作ると言う事は、ユニコーンに会わなければならないという事だ。自分に会う資格など無いと思っているエリエルにとっては、辛い事と対峙しなければならない選択であった。
「きっと・・・きっと、お姉様なら、ユニコーンに会えます」
「・・・・・」
「私は、お姉様が苦しんでいる所なんて見たくありません。でも、心の中の事を解決する事は、私には出来ない・・・でも、私がお姉様を支えます。だから・・・だから・・」
そこから先の言葉は、グラドリエルの中には無かった。ただ、姉を支えたい。姉を苦しみから救いたい。それだけの一心で紡ぎ出し切ったせいだ。
「グラドリエル・・・・」
「私には、お姉様を救う力が無いのが悔しいのです・・・エリエルお姉様だけじゃない。シドラエルお姉様の身体の事だって・・・・」
エリエルは、その時、グラドリエルの瞳に、久しく見ていなかった物を見た。
涙。
グラドリエルがまだ今よりずっと小さかった頃でも、滅多に見る事が無い物だった。
馬術や剣術で負けた時にだけ見せていた物だ。
「お姉様達を救えないで、一国の王など務まる筈もありません」
エリエルは、悔しそうに表情を歪めて涙を浮かべるグラドリエルの頭を、再びそっと抱いた。一人の姉として。
「ありがとう。グラドリエル・・・私達は、幸せです」
気が緩んだせいか、胸の中で小さな嗚咽を漏らすグラドリエルを、さっきよりも力強く抱きしめた。
「わかりました。私も一緒に行きます。あなたにばかり辛い思いをさせられない。あなたが戦うなら、私も私の出来る戦いをします。あなたが心置きなく戦えるように」
エリエルは、グラドリエルをそっと離して、微笑みかけた。
目を赤くしたグラドリエルは、エリエルの笑顔を見て、我に返ったのか、慌ててエリエルから離れて、指で涙をぬぐった。
「私もお母様やあなたみたいに強くなりたいわ。きっと、シドラエルだってそう思っているに違いないから。あなたの勇気と強さ、私達に分けてくださいね」
「はいっ」
グラドリエルの表情に、笑顔が戻った。
「それに、わたしも、お母様やあなたと同様に、世界を見て回りたいと常々思っていました。本だけでは教えてくれない事・・・それを知りたいのです」
「お姉様・・・」
グラドリエルは、エリエルの真摯な眼差しを、真っ直ぐに受け止めた。
「正直、あなたを羨ましいと思った事は何度もあります。しかし、わたしが抜け出して、もし何かあったときに、身を守る術を知りません。だから、ずっと我慢していました」
「・・・・」
「でも・・・」と言ってから、しばらくの沈黙。
不意に、力強い眼差しをグラドリエルに向けて、
「わたしもお母様のように・・・あなたのように・・・」
言葉よりも、グラドリエルを圧倒したのは、エリエルの眼差しだった。
母親を受け継いだのは、自分だけではなかったのだ。
エリエルの眼差しに、グラドリエルは、自分の知らない母の姿を見ていたのかもしれない。
未知の世界へ望もうとする母の瞳は、きっとこんな風だったに違いない。
「それでは、善は急げと言います。早速行きましょう」
さすがに、これにはエリエルは驚いた。
「い、今から・・・ですか?」
「はい。こういう事は早い方がいいと思いますから」
「でも・・・こんな時間に、わたしたちが外へ出られないのでは・・・」
もっともな心配だったが、グラドリエルはニコリと笑った。
「大丈夫です。ちゃんと抜け道がありますから」
「そ、そうですか・・・」
エリエルは、妹の行動力の勢いに流されるままに呟いた。
エリエルは、自分の姿をまじまじと見つめていた。
「・・・」
地味な服は、今までの城内で着ていた物とは、天地の差があった。
グラドリエルが用意した服は、エリエルが今まで一度も着た事が無かった物だ。しかし、エリエルは一度、城下町でのパレードの際に、街の人たちが着ていたの見ている。
どんな着心地なのだろう。
その時に、心の片隅に生まれた思いが、今叶っていた。
「とっても似合います」
グラドリエルは、屈託の無い笑顔で、エリエルを見つめている。
膝下程の長さのスカートや、紺色のふわっとした服。町娘の流行の服装だ。
確かにエリエルには似合っていた。中身が服を圧倒せず、服も中身を堕としめる様な事も無い。着こなすエリエルの器量か、選んだグラドリエルのセンスか。どちらにも功があるのだろう。
「本当ですか?」
「はい」
エリエルは、頷くグラドリエルの笑みを、素直に信じる事にした。
言われてみれば、自分なりにも、今着ている服の気心地が、思いの他良いと思っていたせいだ。
ゆったりとした感じでは、いつも着ている物には及ばない物の、動きやすさでは、その逆であった。
「城での服より、動き易いわ」
エリエルはスカートをひらめかせながら、嬉しそうに言った。
そんな姉を見て、グラドリエルは思う。
王家も何も無いのかもしれないと。
グラドリエルの本心であったが、今の彼女がそれを口にする事は無かった。
「それじゃ、行きましょう。お姉様」
「ええ」
二人は、廊下をコソコソと隠れながら、秘密の抜け道から城外へと抜け出した。
「シドラエルとジェストナイがこんな事してるなんて知ったら、どんな顔するかしら」
抜け道から出てきたエリエルは、後ろでまとめた髪を撫で付けながら言った。
城の外は、すっかり夜の帳が降りかかっていた。
月の光だけが、二人の脱走を見守るように降り注いでいる。
城の外へ、誰にも内緒で出る事の悪戯心が、今のエリエルを姫ではなく、普通の歳相応の少女にしていた。
「後できっと城は大騒ぎでしょうね」
エリエルが言ってから、口もとを抑えてクスクスと笑った。
「わたしはまたいつもの事と思われるけど、お姉様が居なくなったら、ジェストナイがびっくりするでしょうね」
グラドリエルも、女王ではなく、少女に戻って笑った。
「あ、お姉様に渡す物がありました。はい」
グラドリエルが出したのは、大き目の枯葉色の帽子だった。
「これで髪を隠してください」
「そうですね・・・」
グラドリエルから受け取った帽子を、きゅっと被った。帽子を被るだけでも、随分と印象が変わる。
エリエルも、グラドリエルと同じく、母親から、葡萄色の髪を受け継いでいるのだ。武勇の点では母親に遠く及ばないエリエルだったが、容姿はしっかりと受け継いでいる。エリエルの方が、グラドリエルより年上な分、エルファーランに似ていた。しかし、それは、エルファーランを知る街の人達にとっては、目立ちすぎる格好でもある。
もっとも、グラドリエルがあと数年もすれば、先王の再来と言わんばかりになる事だろう。名実ともに。あるいは、母の偉業を娘が越えるかもしれない。
「それじゃ、お姉様。行きましょう」
「グラドリエル、ちょっと良いですか?」
「はい?」
「これから、城に戻るまで、わたしとあなたは、普通の姉妹として振るまいましょう。その方が自然でしょうから」
エルファーランの娘達に共通しているのは、その溢れるほどの気品にあった。物腰は隠しようが無いが、せめて言葉だけでも・・という事なのだろう。
「そうですね」
グラドリエルも、賛成した。もともと、そういうのが嫌いな娘ではない。むしろ好きでもあるのだ。
「じゃあ、いいですね。ちゃんとお姉さんの言う事を聞くのですよ」
エリエルは、すでに入っているようだった。
「はい、お姉様・・・じゃなくて、うん、わかったわ。お姉様」
「お姉様はちょっと硬いけど・・・ま、いいでしょう。あ、それと・・・あなたはグラドリエルではなくて、グリエルと呼ぶ事にしますからね。名前で判ってしまっては元も子もない無いわ」
姉の、意外なほどの凝り方に、グラドリエルは新鮮な物を感じていた。
城の中だけではわからない事。それがここにも一つある事を発見したのだった。
「なんと。グラドリエル様はまたおられぬか!」
ジェストナイが、女王不在を告げられて目を覆い、嘆いた。いつもの事とはいえ、そろそろ王としての自覚を持って欲しいと思っているジェストナイを嘆かせるには十分だった。
「なんという事だ・・・」
「それに・・・あの・・・」
伝令は、口篭もった。
「なんじゃ。まだ何かあるのか」
「いえ・・・それが・・・」
「ええい、じれったい。早く言うのじゃ」
ジェストナイの苛立ちに圧されて、伝令は重い口を開いた。
「エリエル様も居られません」
伝令のこの言葉に、ジェストナイは、目から目玉がこぼれんばかりに目を丸くした。
ジェストナイにとって、ここ数年で最も驚いた出来事の一つだったからだ。
「な、なんと! そんな重要な事をなぜ先に言わん!」
「はっ! 申し訳ございません」
伝令は深深と頭を下げて、縮こまった。
「なんという事じゃ。エリエル様まで・・・・エルファーラン様のそういう血を受け継いだのは、グラドリエル様だけかと思っていたのだが・・・」
ジェストナイは、うーむと唸りながら、大きく立派な白い顎ヒゲをさすった。
「きっとグラドリエル様が連れ出したに違いない。帰ってきたらお諌めせねばなるまいな」
そう言って、ふぅとため息をついた。
ため息の数だけ、皺が刻まれていくとしたら、これでまた一つ増える事になるのだろう。
しかし、心底困った風ではないのは、微かに浮かんでいる笑みを見ればわかった。
「くしゅん!」
グラドリエルは、小さなくしゃみをした。
「グリエル、大丈夫?」
「え、あ・・うん。お姉様」
すでになりきっている二人であった。しかし、やはり役者ではない彼女ら。地を隠す事など出来ないで居た。もし、誰かとすれ違えば、普通の姉妹とはどこか違う雰囲気に映るに違いない。しかし、それが、自分の国を治める女王と、その姉であると、例え遠まきに顔を知っていても、まさか自分の近くを、何の変哲もない格好をして歩いているとは夢にも思わずに、気のせいかと苦笑して、通りすぎてしまうだろう。
「今夜はどこかで宿を取って、明日早くに出ましょうね」
エリエルがニコニコしながら、グラドリエルに向かって言った。
「うん」
実の所、グラドリエルは一人旅が好きな質ではあったが、今こうして姉と歩いている事は、グラドリエルにとっては、思いもよらない感動と興奮を与えていた。決してこんな事が出来るような身分として生まれて居ない自分が、こうして姉と歩くなどとは、夢のまた夢だとさえ思っていた。
王家ではなく、普通の街娘として生まれていれば、二人の姉と一緒にこんな事をするなど、造作も無い筈だった。
グラドリエルの心の中に、不意にシドラエルの寂しそうな表情が浮かぶ。病弱な身体を嘆いたりせずに、常に周囲の事を気遣う姉の姿が、弾む心を少しだけ沈めた。
「・・・シドラエルお姉様も一緒なら良かったのですが・・」
グラドリエルにとって、幼い頃から自分の面倒を見てくれた二人の姉のうち、どちらが欠ける事は考えもしない事だ。
「・・・そうですね」
辛いのは、グラドリエルだけでは無かった。エリエルにとって、双子の妹であるシドラエルの事は、グラドリエルの事同様に、誰よりも気にかけている。
「今度の事がうまく行けば、きっとシドラエルも一緒に行けます。だから心配するのはお止しなさい。シドラエルは、あなたの心配する表情が苦手なのよ」
ふと、グラドリエルは、シドラエルがいつも自分に言っている言葉を思い出した。
「わたしの元気が、お姉様の元気・・・」
シドラエルが言った言葉が、グラドリエルの口から、そっと溢れた。
「そうです。だから・・・・」
「はい・・・・わかりました」
自分の元気が姉の為になるなら、いくらでもなろう。そんな気持ちが、グラドリエルの中で沸き上がっていく。
「絶対今回の事を成功させて、シドラエルお姉様も外へ連れ出します」
「まあ、あなたは女王なのよ。そんな事を軽々しく言ってはいけないわ」
エリエルは、妹の言葉に驚いたのか、目を丸くした。
「・・・・」
「連れていく時は私も連れていってくれないと、許しませんよ」
不意に笑顔を浮かべて、柔らかい口調で言った。
グラドリエルは、ジェストナイの気持ちをほんの少しだけ理解して、苦笑した。
エリエルにとっては、グラドリエルとの短い旅は、どんな本よりも得る物の多い旅であった。見るものは鮮やかに映え、木々のざわめきや、街の喧騒さえ耳に心地よく、風が運んでくる匂いに胸を高鳴らせ、降り注ぐ太陽の光を肌に感じては、心を躍らせていた。
城の外の世界は、エリエルを魅了してやまなかった。
二人は、今森の中の歩道を歩いていた。
森の村、ロウグローブから続く、ユニコーンの森へと続く歩道だ。
「どうですか。お姉様」
「ええ、とても気分が良いわ。心がどこかへ飛んでいってしまいそうなくらい」
木漏れ日が、きらきらと、気持ちよさそうに目を細めて見上げているエリエルに降り注いでいる。
「あとは、ユニコーンの鬣を分けてもらうだけですね」
エリエルが、不意に真顔になった。決心を固める為に。
魔法石とユグドラシルの実自体は、比較的簡単であった。二つとも、妖精アーリアが持ってきてくれた物だった。
「そう言えば、あの妖精さん・・・アーリアだったかしら。なにか急いでいたようですけど」
「なんでも、ナッツビルの村で、村を上げてのお祭りをする準備の為だそうです」
「まあ、楽しそうですね。私も行ってみたいわ」
「今度の事がうまく行ったら、シドラエルお姉様も一緒にと思ってます」
「そうですね・・・」
再びエリエルの表情が、緊張の色を濃くした。
今度の事をうまく行かせるには、ユニコーンに会わなくてはいけない。エリエルにとっては、自らの苦悩と向き合う形になる。
「もうじきです・・・」
グラドリエルにも、エリエルの緊張は伝わっていた。もしユニコーンがエリエルを認めないような事にでもなったら、余計辛い目に会わせてしまう。その事になにより緊張しているのは、他ならぬグラドリエルだった。
二人は、不意に、開けた場所に足を踏み入れた。
森がわざわざそこだけぽっかり空間を残してくれたのかと思う様な場所だ。
木々が、その空間を上からも見えないようにと、覆い被さっている様でもある。
微かな木漏れ日が、地面に斑の模様を作っていた。
神秘的な光景だった。
二人はこの場所を知っていた。
邪悪な心に操られた姉を、妹が退けた。
その場所であった。
「・・・・・」
エリエルは、グラドリエルより先に、広場の中央に歩み出た。自らの決心を示すかのように。グラドリエルには、ただ見守る事しか出来ない。
やがて、風が吹いてきた。どこから吹いているのかさえ判らない、不思議な風だった。
エリエルが帽子を取ると、まとめていた髪が解けて、風の中に広がる。
すると、それが合図にでもなったのか、鬱蒼とした茂みの中から、まるですり抜けでもしてきたように、一頭の馬が現れた。大きな馬だ。どんな白よりも白い姿。額から生えている一本の角は、虹色に輝いている。
ユニコーン。
清い心の持ち主だけが会えるという、美しい幻の姿を、人はそう呼ぶ。
「・・・・・」
ユニコーンは、姿を見せた場所から動かずに、ずっとエリエルを見ていた。底の知れない、深い泉を思わせる目で、微動だにせずに見つめつづけている。
心を試しているかのように。
エリエルも、瞬きする事なく、ユニコーンの瞳を受け止めていた。
逸らさずに受け止める。どんな瞳であっても。
それがエリエルの決心だった。
どれだけそうしていただろう。
目の前のユニコーンが出てきた場所から、白いユニコーンの子馬がひょいと出てきた。
自分が相対しているユニコーンより、一回り小さいその姿を見て、エリエルは身体を小さくビクリと震わせた。
自分の記憶の中にある、今出てきたユニコーンの顔は怯えきっていた。暗黒の力に操られた自分は、怯える表情が何より愉快でたまらなかった。苦痛に歪む顔は、美酒にも等しい。
そんな事を思い出したのだ。
エリエルを苦しめる記憶だった。
しかし、エリエルは怯みそうになった気持ちを必死で抑え、現れたもう一頭のユニコーンと対峙する。小さなユニコーンも、少し怯えた表情をしながらも、エリエルの瞳をずっと見ていた。
エリエルとグラドリエルにとっては、気の遠くなる時間が過ぎていく。
先に声を出したのは、エリエルだった。
「私がした事を許して貰えるとは思っていません。でも・・・それでも私には謝る事しか出来ないのです・・・それに、今日ここに来たのは、許してもらう為じゃなくて・・・私自身と向き合う為で・・・だから・・」」
エリエルの言葉が詰まった。
グラドリエルは、思わず息を飲んだ。聡明な姉が言葉に詰まるなどとは思いもしなかった事だからだ。
それでも、グラドリエルはあえて前には出なかった。姉が戦おうとしている。自分自身の苦悩と向かい合っている。
前に出られる筈が無い。
エリエルも、エルファーランの娘であった。
「魔に取り入られた事を悔やんでいるのですか? それとも、私達にした仕打ちの事を嘆いているのですか?」
ユニコーンがそう言った。正確には、この場に居る者にしか伝わらない言葉で。
優しい「声」だった。
「・・・・」
「魔に取り入られるのは、自分に魔の要素があるからです」
ユニコーンの言葉が、エリエルの胸に刺さった。
「・・・・・ええ、その通りです」
エリエルは認めた。取り入られたきっかけになったのは、国を思い、妹を思う気持ちのあまりとはいえ、妹を苦しめる病に対する気持ち。城の人達を困らせる妹に対しての苛立ち。そんな気持ちの裏で、微かに闇が芽生えた事に気づいてはいなかった。
魔から開放された時、その事に気づいていた。
それを指摘したユニコーンの言葉に向き合うのが、エリエルの最大の苦悩だったのかもしれない。
すると、ユニコーンは笑った。
表情は動いていないのに、笑っている。
エリエルにはそう見えた。
「あなたの苦しみが、痛い程伝わってきました。それに、魔に魅入られたといたとはいえ、今のあなたの中には、魔に負けない大きな光があります。わたしにはそれが見えるのです」
「・・・」
エリエルは、両手で口を覆い隠した。
両の目からは、滲むようにして浮かぶ涙。
今まで抱えてきた物を下ろした故の物だった。
小さなユニコーンが、その涙を見て、エリエルに擦り寄ってきた。
「ああ・・・」
「お姉ちゃん。泣かないで。僕、あの魔女は嫌いだったけど、お姉ちゃんは好きだよ。だって、お母さんみたいな良い匂いがするもの」
エリエルは、ペタっとしゃがみ込んで、ユニコーンの首に手を回して、掻き抱いた。
妹の見ている前なのも構わず、エリエルは声を上げて泣いた。
涙は、苦悩を洗い流している証に違いなかった。
グラドリエルは、エリエルの手を握りながら座っていた。
涙が引いたとはいえ、泣き腫らした顔を見せないようにしているエリエルに、グラドリエルが唯一出来る事だ。
二人の前には、かがんだ形でユニコーンが座っている。
「そうですか。それで私達の鬣を・・・」
「ええ」
「構いませんよ。あなたは私達を救ってくれた恩人。出来る事であれば、なんでも協力させてもらいます」
母馬が、優しい声で言った。
「それだったら、僕の鬣を使ってよ。お姉ちゃん達の役に立てるんなら、別にかまわない」
「本当ですか?」
エリエルが、小さな声で訊いた。
「平気さ。僕だってもう立派なユニコーンさ」
そう言って、得意そうに嘶いた。
「ありがとう。本当にありがとう」
「おねえちゃん達の大切な人の為だったら、僕はいつだって大丈夫さ!」
子馬は、片目を閉じた。ウインクしているつもりだろうが、目に埃が入った風にしか見えない。しかし、エリエルにはちゃんと伝わったようだ。
「それじゃ・・・いいですか?」
グラドリエルが、立ちあがって、腰につけていたバックから、鞘に収まった短剣を取り出した。
「グラドリエル。それは私にやらせてもらえませんか?」
「え? お姉様が?」
エリエルは頷きで答えた。刀剣の類など、生まれてこの方一度も持った事が無い。持った事があるのは、ペーパーナイフ程度だ。そのエリエルが自分から持とうとしている。グラドリエルにとっては驚きではあったが、エリエルにとっては進歩であった。
「・・・わかりました。お姉様にお任せします」
「ありがとう」
グラドリエルから短剣を受け取ると、慎重に引きぬいた。良く磨がれた刀身が、微かな木漏れ日を跳ね返す。
「それじゃ、いいですか?」
「うん。いいよ」
子馬が、首を下げて鬣を晒した。
鬣を手で一つかみした分の根元に、ゆっくりと剣を近づけ、すっと引くと、いともあっさりと鬣は切れた。まるで、切られる前に切れた。とでも言う風に。
「これで全てそろいましたね」
エリエルは、グラドリエルに鬣を差し出した。
純白の鬣は、シドラエルの部屋に舞い降りてきた精花草の花びらを思わせた。
「ありがとう。ユニコーンさん」
「いいよ。そんな事より、おねえちゃん、またこの森に遊びに来てね」
子馬が、頭をエリエルに擦り寄せた。エリエルは、その子馬の頭を撫でながら、
「ええ。必ず・・・今度は私達姉妹三人で遊びに来ます」
「ほんとに? うれしいなぁ」
そう言って子馬が嘶くと、その場に居た全員が、おかしそうに微笑んだ。
「グラドリエル様だけならいざしらず、エリエル様まで、我々に内緒でお出になられるとは、なんたる事か・・・」
玉座の間に、ジェストナイの声が重く響いた。
玉座に座ったグラドリエルと、傍らに立っているエリエルは、身をちぢこませて、ただ聞くのみである。
二人が城に戻ってすぐの事であった。
「皆に迷惑をおかけした事は謝ります」
エリエルは、消え入りそうな声で言いながら、頭を下げた。
「とはいえ、やはり、エルファーラン様の血が、立派に継がれた証なのじゃろう・・」
ジェストナイの表情が、微笑みに変わった。刻まれた皺の分だけ、笑顔も一層深く見える。
「シェリウス様も、旅好きな御方であった。その二人の血を抑えるなど、無理なのかもしれぬな・・・」
「ジェストナイ・・・」
エリエルが、心底から申し訳無いと言う顔で、胸に手を当てた。自分達の事を本当に心配してくれていた事を痛感したからだ。
「出向かれる事は、今後無いようにしていただきたい・・・と言いたい所じゃが、エルファーラン様がされた事を、今更咎める訳にもいくまいて・・・」
ジェストナイは、二人に背を見せて、豊かな顎鬚をそっと撫でた。
私も広い世界を見て回りたいのです。この国の為に。国をもっと知る為に。
若きエルファーランの姿を思い出しながら。
「ですが、一つだけ約束して頂きたい。グラドリエル様はともかくとして、エリエル様は決してお一人では出てはなりませぬ。出る時は、必ず我らにお話下さいませ。騎士の中から精鋭を護衛に付けさせますゆえ」
そう言って再び二人の方に向き直ったジェストナイの笑顔は、老人の笑顔とは思えない程、若々しく見えた。
「わかりました。約束します」
エリエルは笑顔で頷くと、ジェストナイもそれに答えて、一層笑顔を深くした。
風縛の衣は、製法さえ知っていて、材料さえあれば、簡単に作れる物だった。
ユグドラシルの実をすり潰した物に、鬣を編みこんで作った小さな布を浸し、十分に染みた所で、白い魔法石に宿る力を与えるだけである。難しいのは、あくまで材料集めであって、製法ではないのだ。
エリエルの部屋で、グラドリエルとシドラエルは、エリエルの作業をずっと見守っていた。
旅の理由は、すでにシドラエルには伝え済みだっただけに、シドラエルの瞳には期待の色が濃い。
「あとは、仕上げに魔法石を使うだけですね」
エリエルは、淡く白く輝く魔法石を手に取り、二人に向かって一つ頷いてから、
「聖なる癒しの力。其の力、我が祈りで目覚めん」
短く詠唱した後、魔法石を天井に向かってかざすと。瞬間、眩い光の粒が魔法石から飛び出し、それぞれが光の尾を引きながら、目の前に置かれた布に次々と吸い込まれていく。
全ての光の粒が布に吸い込まれると、エリエルはふぅと息をついた。その手には、魔法石は残っていなかった。全て光となって布に宿ったのだ。
「多分、これで大丈夫な筈です」
ユグドラシルの金色の汁を吸い込んで、それだけでも十分に綺麗だった布が、内側に光を宿したせいで、神が降りたのかと思う程に輝いていた。
その美しさは、三人の姉妹さえも魅了している。
「これで、花びらを包めば・・・さ、グラドリエル」
エリエルが促すと、グラドリエルは一つ頷いて、用意していた布を開いた。その中から、精花草の花が出てくる。しかし、日が経ちすぎたのだろうか。無垢の白さを示していた花が、うっすらと茶色がかっていた。
グラドリエルが知っている、花が枯れる寸前の色だ。本来なら、草から離れた瞬間にこうなる筈なのだ。
慌てながらも、慎重に花びらを摘んで、完成した風縛の衣の上に乗せると、衣から、光が、まるで湯気のように立ち昇ってくる。すると、枯れそうな色をした花びらが、洗い流されるかのように、元の、いや、元以上の白さを取り戻していった。
周囲の空気にまで、成分が溶け出していっているのかもしれない。
「不思議・・・なんだか身体がとっても軽くなるみたい」
シドラエルが、小さな声で呟いた。生まれて初めて味わう気分の良さの証拠か、頬にはうっすらと赤味が差している。
「さ、グラドリエル」
エリエルが、グラドリエルに小さな袋を手渡した。少し長めの、袋の口を閉める為の紐が付いた物だ。
手渡されたそれに、花びらを風縛の衣で折り包んだ物を入れて、シドラエルに手渡した。
「やっぱり、これはシドラエルお姉様が持っていてください」
「え・・・でも・・」
「シドラエル。そうなさい。私もグラドリエルも、その為に城を開けたのですから」
「お姉様・・・」
何か、信じられない物でも見ているように、シドラエルの表情が固まっている。無理もない。シドラエルが二人から聞いたのは、花びらの力を保たせるのが目的だという事だったからだ。まさかそれが自分の為であろうとは。
「それに、もっとこの花の研究をすれば、もしかしたら、精花草その物を持ち運ぶ事が可能になるかもしれないわ。そうなれば、病に苦しむ人達にとって、明るい材料になるかもしれない」
私は剣を振るえないけど、知識を使う事は出来る。それが私の闘い。
エリエルの決意は、ユニコーンと向き合った時に、すでに固まっていた。
「むしろ、あなたにこそ持っていて欲しいのです。ひどいと思われるかもしれませんが、今後の研究の為にも」
「・・・わかりました。お姉様」
シドラエルは、強く頷いた。
自分で役に立てるなら、自分に出来る事があったなら、なんでもする。それが今まで私の為にしてくれた事へのお返し。
「わかりました。必要ならば、いつでもお返ししますから」
「そうしてください」
エリエルは、シドラエルの気持ちをしっかりと受け止めた。
「グラドリエル。ごめんなさいね。これはあなたにあげた筈なのに」
「いいんです。元々、こうするために、あの時お姉様から受け取ったのですから」
「・・・・・」
シドラエルに言葉は無かった。思ったと同時に、身体が先に動いていた。
身を屈めて、グラドリエルを抱き寄せる。
「・・・・・お姉様」
甘える為ではなく、シドラエルの思いを受け止める為に、グラドリエルはそっと目を閉じた。
「エリエルお姉様とおんなじ・・・優しい匂いがします」
いつか自分も、こんな優しさで、誰かを包める日は来るのだろうか。
そんな事を思いつつ、シドラエルの胸の中で、暖かさを感じていた。
そして、一日後
シドラエルにしてみれば、初めての体験であった。
普段は、自分達を守ってくれる警備の騎士や、仕えていてくれる女達が、今は彼女達の障害だ。
もちろん、見つかった所で罰を受ける筈も無いが、見つからないようにするのが、二人の姉妹の目的だった。
手馴れた妹に付いていく姉は、やがて、ほとんど出歩いた事の無い、城の外へと辿り着いていた。城からの眺めとはまるで違う、風景に押しつぶされそうな感覚に、姉は怯えを感じてはいなかった。
自分の意思で飛び出してきた世界は、何もかもが新鮮だった。
自分達より高い物はたくさんある。抜け出してきた城壁もそうだし、ちょっとした木々でも、身長の何倍も高い。しかし、ちっぽけな自分が、それらに負けないように弾けそうになる感覚を覚えていた。
巣立った小鳥が最初に思う事も、もしかしたら同じ事なのかもしれない。
「外の世界・・・」
感動と興奮に打ち震えるシドラエルを見て、グラドリエルはかつて無い喜びを感じていた。まさか、病弱だった姉とこうして外へ出られるようになると・・・と。
シドラエルと同じくらい、グラドリエルの方が夢心地に居たのかもしれない。
「二人とも、遅かったですね」
不意に、そんな声がした。
その声に振り向いたのは、シドラエルだけだった。
「お、お姉様!」
シドラエルは、いつのまにか自分達の背後に居たエリエルを見て、大きな声を上げた。
なぜここに居るのかという事もあったし、何より今の自分と同じような、街娘の格好をし、帽子を被っている事に驚いていた。
「あなた達が抜け道から出てくるまで待っていたのですよ」
悪戯っぽい笑顔を浮かべたエリエルは、二人のところまで歩み寄って、
「シドラエル。良かったですね」
エリエルは、呆然としているシドラエルの手を取った。
「今日はナッツビルでカーニバルがあるんです。それに三人で行こうという事になって」
グラドリエルが、苦笑しながら、シドラエルを見つめる。
「シドラエル、身体の具合はどうですか? 大丈夫そう?」
「ええ、とっても。こんな気持ち、生まれて初めて。これも、お姉様とグラドリエルのお陰。こんな事出来るなんて信じられないわ」
シドラエルの言葉に、二人は、顔を見合わせて、微笑みあった。
「さ、お姉様、行きましょう」
グラドリエルが、とんっ、と歩き出した。嬉しさで跳ねそうなのは、シドラエルだけではない。
「お待ちなさい。グリエル」
「グリエル?」
シドラエルが不思議そうに訊くと、
「ええ、あの子の事は、外ではこう呼ぶ事にしているのです。王家の者がうろうろしているのが見つかってしまったら、大変な事になってしまうでしょう? だからです。あなたは、そうですね・・・シエルでいいですね」
「シエルですか」
シドラエルは可笑しそうに小さく笑ってから、
「わかりました。お姉様」
二人は、先に歩き出したグラドリエルの方を見ると、グラドリエルは立ち止まって空を見ていた。
ヴァレンディアに吹く、春の風を感じているのだろうか。
空の向こうにある、もっと大きな何かを見ているのだろうか。
「私達は、あの子の為に、してあげられる事をしなくてはね・・・」
「そうですね・・・」
二人も、グラドリエルの見ている空を見上げた。
青く広いヴァレンディアの空を。
「やれやれ、困った女王様とお姫様達だ」
木陰に隠れて、三人を見守っていた少年が、ため息交じりに呟いた。しかし、表情は微笑み。
微笑みは、背中の大きな剣は似合わないのを知っていながらも。
「ま、それを守るのが、俺の使命か・・・もっとも、必要無いとは思うがな・・・」
ジェストナイが、エリエル達の護衛に付けさせたカード騎士団の精鋭は、苦笑した。
後書き
プリンセスクラウンより。
プリンセスクラウンはほんと良かったです。今サターンがかろうじてしまわれないのは、このゲームがあるからで・・・(^^;
そうでなければ、もうサターンは押し入れの奥か、あるいはサムシング吉松せんせーのサイン会がまたあったときに持参するかくらいしか 私的使い道が無い(^^;
今回のお話は、ゲーム後のお話です。
一応ゲームをやってないと話しが見えないかと思われます。
後書きに書くのも難ですが。
作品情報
作者名 | じんざ |
---|---|
タイトル | プリンセスクラウン |
サブタイトル | プリンセスシスターズ |
タグ | プリンセスクラウン, グラドリエル, シドラエル, エリエル, ジェストナイ |
感想投稿数 | 74 |
感想投稿最終日時 | 2019年04月09日 14時23分59秒 |
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- [★★★★☆☆] なげ〜!!長いっすよお〜!!
- [★★★★★☆] プリンセスクラウンに相応しい温かさがあって、OKぐっ!って感じです(^^
- [★★★★★★] 新作希望ですv
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- [★★★★★★] アトラスがんばるべし
- [★★★★★★] 久しぶりにプリンセスクラウンがやりたくなりました(^^)
- [★★★★★☆] ゲーム自体も可愛いらしくてすきでしたので。
- [★★★☆☆☆]