夜。すべての時が止まったかのよう思える時間。静寂が辺りを支配し、闇が我が物顔で闊歩している時。正樹は部屋を出て、ゆっくりと階段を降りていた。
寝苦しかったというわけではないのだが、喉が乾きを訴えたため、目が覚めてしまったのだ。
こういうときは、冷たいものを飲むに限る。そう思った正樹はベッドから抜け出し、台所へ向かうことにした。
正樹は手探りで階段を降りると、静かに廊下を歩く。みしっ、みしっと廊下の軋む音が響いた。視線を台所の方へと向けてみると、そこから光が漏れていた。
こんな時間に誰か起きているのだろうか? そう思いながら、そこまで足を運ぶと、妹の乃絵美がコップに麦茶を注いでいる姿があった。
「……乃絵美? ど、どうしたんだ、こんな時間に?」
正樹は、てっきり父親か母親かが起きているものだと思っていた。だから、乃絵美の姿を見たときは、少なからず驚いてしまった。それで、妙に声が上擦ってしまったのかもしれない。
だが、それは乃絵美のほうも一緒で、突然の闖入者に驚きを隠せないでいた。
「お、お兄ちゃん!? お兄ちゃんのほうこそ、こんな夜遅く、ど、どうしたの?」
乃絵美は狼狽した声で兄に問いかける。今の自分の姿は、大きめのカッターシャツ一枚だけ。
そんな姿を正樹に見られてしまって、恥ずかしいことこの上ない。みるみるうちに彼女の頬は赤く染まっていく。
俯いて、もじもじとしている乃絵美の様子に、見ているこちらの方としても妙に恥ずかしい。
正樹は彼女から視線を外しながら取ってつけたような咳をすると、ここに来た理由を話した。
「お兄ちゃんもそうなんだ。じゃあ、お兄ちゃんの分も入れてあげるね」
幾分落ち着きを取り戻した乃絵美は、言いながら戸棚からもう一つグラスを取り出した。
そして、それに麦茶を注ぎ入れた。
「サンキュ、乃絵美」
正樹は乃絵美に礼を言うと、彼女が入れてくれた麦茶を手にしようとする。だがその行為は、乃絵美の言葉で妨げられた。
「ねぇ、お兄ちゃん……もしよかったら、少しリビングのほうでお話しない………?」
乃絵美は兄の反応を上目遣いに伺う。シャツ一枚という姿はまだ恥ずかしかったのだが、それよりも正樹と話をしたい気持ちが強かった。だから、ほんの少しでもいい、彼と話す時間を乃絵美は持ちたいと思った。
突然の乃絵美の申し出に正樹は目を丸くしたが、特に断る理由がないので、彼女を申し出を素直に受けた。
正樹の言葉に、乃絵美は安堵の息を漏らした。
「乃絵美のお願いなら、断れないよ」
そう言って正樹は、彼女に向かって優しく微笑んだ。

二人はリビングのソファに並んで腰掛けながら、他愛ない話で盛り上がっていた。
学校のこと、部活のこと、お店のこと。何のとりとめのない話題のように思えるが、二人にとってはとても有意義なものだった。
話の途中、正樹は乃絵美の顔をじっと見つめていた。楽しそうに笑っている彼女の顔を見て、最近あまり構ってやれてなかったことに気がつく。この頃、部活の練習で帰りが遅く、また家に帰っても部屋を出ることは殆どなかった。
いくら練習で疲れていたとはいえ、彼女と過ごす時間を作ろうと思えば作れたはずだ。
そう思った瞬間、正樹の心は乃絵美に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そんな思いが顔に表れたのだろうか、乃絵美は怪訝な表情で正樹の顔を見つめた。
「どうしたの、お兄ちゃん? ひょっとして、疲れちゃった……?
……………………………………ごめんね」
乃絵美は顔を俯けながら言葉を紡ぐ。最後の言葉は小さく、聞き取りにくいものだった。
暗い表情へと変わっていく乃絵美に、正樹は慌てて笑みを作った。
「違う、違うよ、乃絵美。疲れたわけじゃないんだ……たださ………」
「……………? ただ……なに、お兄ちゃん……?」
覗き込んでくる乃絵美の視線に、正樹は真っ直ぐに見つめ返すと、
「最近、乃絵美と話することがなかったなって思ったんだ…………ごめん、乃絵美」
言いながら乃絵美に向かって頭を下げた。この正樹の行動に、乃絵美は慌てる。
「う、ううん、いいのっ。お兄ちゃんだって、い、いろいろ忙しかっただろうし!
そ、それに……私は大丈夫だよっ。うん……大丈夫なんだから………」
乃絵美は一気に言葉をまくし立てるが、その勢いはだんだんと失せていく。彼女は俯きながら、膝の上で手をぎゅっと握り締めた。気を抜いてしまうと涙が溢れて、こぼれそうだったから。泣いて、正樹にこれ以上迷惑をかけたくはなかった。
乃絵美がもう一度手を握り締めようとした時、正樹が彼女の頭にぽんっと手を乗せた。
「あっ……」
「乃絵美……寂しい時は寂しいって、言ってもいいんだよ?」
彼女の頭を撫でながら、正樹は優しく声をかけた。途端、乃絵美の目にずっと堪えていた
涙が溢れ始めた。
「駄目な兄貴だよなぁ〜。乃絵美のこと全然構ってやってなかったし、
それに泣かせちゃってるし……」
こぼれ落ちる彼女の涙を指で拭いながら、本当に情けないと思った。兄として、彼女に何もしてやれてないことが腹立たしく思えた。
正樹が慙愧の念に駆られていると、彼の手に乃絵美の手が重なった。
「ううん……お兄ちゃんは、全然駄目なんかじゃないよ……だって今、お兄ちゃん、
私に優しくしてくれてる………」
「乃絵美……」
「………それに、こうして一緒にお話してくれるし……私、嬉しかったよ」
乃絵美は潤んだ瞳を正樹に向け、そしてにっこりと微笑んだ。その彼女の笑顔に、正樹は胸が熱くなっていくような気がした。
常に自分ことを気にかけてくれている乃絵美に対し、いったい何をしてやれるだろうか。
しかし、それは一瞬の迷いでしかなかった。
「そうだっ!!」
正樹は突然、何かを思い出したかのように声を上げる。その声に、乃絵美は驚きに身を震わした。
「そうだよ! あのさ、乃絵美。明日からさ、こういう風にお話しないか?」
「えっ!?」
「ほらっ、最近国会とかでさ、よくやっているじゃないか! ええっと……確か、
”シンキング・タイム”とか言ってったっけ? それと似たようなことをするんだよ!」
正樹は興奮を抑えきれずに、乃絵美に話しかける。最初、彼の行動に呆気に取られていた乃絵美だったが、不意にくすくすと笑い始めた。
「あははっ、お兄ちゃんったら。それを言うなら”シンキング・タイム”じゃなくて、
”クエスチョン・タイム”って言うんだよ」
笑い声を上げながら乃絵美。彼女の言葉に、正樹の顔は真っ赤に染まった。
「うっ……………ま、まあ、とにかく。俺は、明日から乃絵美と一緒に話をしたいと思ってる。
駄目かな………?」
「う、ううん、駄目じゃないよ! で、でも、やっぱりお兄ちゃんに悪い気がする……………
だって、お兄ちゃんの時間を取っちゃうようで…………」
正樹の申し出は嬉しく思えたが、やはり自分の我が侭なような気がしてならない。
そう思うと、素直に喜べなかった。だが、そんな乃絵美の不安を取り除くように正樹が微笑みかけてきた。
「さっきも言ったろ? 俺は乃絵美と話がしたいって。だから、俺に悪いとかじゃなくて、
乃絵美はどうしたいと思ってる?」
乃絵美の顔を覗きこみながら正樹。
「………………お兄ちゃんとお話したい」
申し訳なさそうで、それでいてどこか恥ずかしそうで。それでも乃絵美は、正樹に自分の意思をはっきりと伝えた。その言葉に正樹は、満足そうに頷いた。
「よしっ。じゃあ早速、明日から一緒に学校に行かないか、乃絵美?」
「えっ?」
「ほら、歩きながらお喋りとかできるだろうしさ」
「………うん!」
「それじゃあ、指切りな」
乃絵美の前に小指を差し出す正樹。乃絵美は正樹の行為に驚き、そして顔を赤らめたが、ゆっくりと自分の小指を彼のそれに絡ませた。
「よし、決まり! ってことで、今日のところはこれで解散だな」
長い間話していたらしく、時計を見ると時間は2時を回っていた。明日も学校だから、そろそろ寝ておかないと、朝起きれなくなるかもしれない。
「俺がグラスを片付けておくから、乃絵美は先に部屋に戻ってていいぞ」
正樹は乃絵美に向かって、そう言う。
「うん、わかった。じゃあ片付けは、お兄ちゃんにお願いするね」
言いながら乃絵美はソファから立ち上がり、正樹の方に振り向いた。
「お兄ちゃん……今日は、本当にありがとう。それじゃあ、おやすみなさい」
「ああ。おやすみ、乃絵美」
乃絵美は正樹に礼を言うと、自分の部屋へと戻っていった。
「………さて、俺もさっさと片付けて寝ますかね」
先ほどの乃絵美の笑顔を思い浮かべながら、正樹は静まり返ったリビングを後にした。

朝。すべての時が動き出し始める時間。太陽が昇り、新たな日が始まろうとしている。
だが一方で、正樹はベッドの中から動き出そうとせず、眠りを貪ろうとしていた。
「お兄ちゃん、もう朝だよ。そろそろ起きて準備しないと、学校に遅刻しちゃうよ」
「うう、のえみぃ〜。お願いだから、あと五分〜」
乃絵美は、布団の上から正樹の身体を揺さぶるが、彼は頑なに起きようとしない。布団を頭からすっぽりと被り、まるで亀が甲羅に身を引っ込めているような、そんな連想をさせる。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。乃絵美はもう一度、正樹の身体を揺さぶり出す。
「もう、お兄ちゃん。ほんとに遅刻しちゃうんだよ、早く起きてったら。
走らないと間に合わない時間になっちゃうんだよ」
少し口を尖らせながら乃絵美。だが、正樹の方も負けてはいなかった。
「大丈夫だよ、乃絵美。俺の走りだったら、絶対間に合うって。だから、頼む!
もうちょっと寝かせてくれぇ〜」
布団の中から、正樹は乃絵美に必死に訴えかける。
「えっ!? だ、だって……お兄ちゃん、昨日の夜……………」
「お願いだよ〜、のえみぃ〜」
正樹は、乃絵美の声の調子が落ちたことを気がつかずに、彼女に懇願し続ける。
そんな正樹の態度に、乃絵美は一瞬寂しそうな表情を浮かべたが、すぐにそれを振り払って彼に声をかけた。
「……うん、わかった…………じゃあ、お兄ちゃん……遅刻したら駄目だよ…………………」
「ありがと〜、乃絵美。お兄ちゃん、絶対遅刻しないから」
乃絵美の思いを知ってか知らずか、正樹は陽気な声を上げた。乃絵美は何か言いたそうにしてたが、そのまま正樹の部屋を後にした。
正樹はドアが閉まる音を確認すると、すぐさま眠りの世界へと旅立とうとした。しかし、何かが引っかかる。何か大事なことを忘れているような気がしてならない。そのせいで、目を瞑っても眠りにつくことができないでいた。

『えっ!? だ、だって……お兄ちゃん、昨日の夜……………』

確か、乃絵美はそう言っていた。恐らく、引っかかっていることはその事に違いない。
自分は彼女に何を言ったのだろう。

『そうだよ! あのさ、乃絵美。明日からさ、こういう風にお話しないか?』

そう。彼女と話す時間を持ちたくて、自分から提案した。乃絵美は、その事を言っているのだろうか。いや違う……もっと別のことだろう。
正樹はふと、乃絵美が起こしに来てくれたことを思い出す。普段、乃絵美は自分を起こさずにそのまま学校へと向かう。起こしてほしいと頼んだ覚えもない。それならば、なぜ彼女は自分の部屋に訪れたのだろうか。
起こさなければ、学校に遅刻する……走らなければ間に合わない………
歩いて学校へ行くと遅刻してしまう………………………………

『よしっ。じゃあ早速、明日から一緒に学校に行かないか、乃絵美?』
『えっ?』
『ほら、歩きながらお喋りとかできるだろうしさ』
『………うん!』
『それじゃあ、指切りな』

正樹は被っている布団を蹴っ飛ばし、ベッドから飛び出さんばかりの勢いで踊り出た。
「なにやってんだ、俺!? 自分から約束しておいてっ!!」
喋りながら走ることは、つらいし、遅刻の瀬戸際でゆっくりと会話などできるはずがない。
ましてや、身体の弱い乃絵美には土台無理な話だ。だから彼女は、歩いて間に合う時間ぎりぎりまで待って、そして自分のことを起こしに来てくれたのだ。
それなのに交わした約束を忘れ、ベッドの中でのうのうと寝ている自分に嫌気がさしてくる。
正樹は瞬時にパジャマから制服に着替えると、鞄を持って部屋を飛び出た。
「母さん、乃絵美は!?」
正樹は台所に顔を出し、のんびりとコーヒーを飲んでいた母親に問いかける。
「あら、正樹。おはよう」
「あ、ああ、おはよう、母さん……じゃなくて! 悠長に挨拶している場合じゃないんだ!
母さん、乃絵美はもう学校行ったの!?」
「乃絵美? ああ、乃絵美ならもう学校に行ったわよ。でも、今朝は
あまり元気じゃなかったわね……また、倒れたりしなければいいんだけど………」
母親は、手を頬に当てながら心配そうにもらす。正樹はその言葉に弾かれるように駆け出していった。
「ちょ、ちょっと正樹! あんた、朝ご飯はどうするの!?」
「いらないっ!」
正樹は振り返らずに叫ぶと、玄関を飛び出した。


「よおっ、乃絵美ちゃん! 今日も学校かい? 精が出るねぇ〜」
商店街を歩いていると、八百屋の店主に声をかけられた。ロムレットの常連で、デリバリーではいつもお世話になっている人だ。
「……あ、おはようございます、おじさん。おじさんのほうこそ、精が出てますね」
乃絵美は軽くお辞儀をし、笑顔で挨拶を交わした。だが店主は、その笑顔になんとなく違和感を覚える。どこがどう違うのかと明確には説明はできないのだが、強いて言うなら、商売で培ってきた勘がそう言っていた。
「どうしたい、乃絵美ちゃん? なんか顔色悪そうだが、具合でも悪いのかい?」
「えっ?」
突然の指摘に、乃絵美は驚きを隠せない。自分としては、いつもと同じように振舞ったつもりだった。
「あ、わかった。ひょっとしてあれだろ? 月も………」
「なに馬鹿なこと言ってんだい、お前さんは!」
いつの間にか後ろに現れた店主の女房が、言い切る前に彼の頭を張り倒した。彼は後頭部を抑えながら、振り返りざまに大声を上げた。
「いきなり、何しやがるっ!?」
「何しやがる、じゃないよ! いったいぜんたい、お前さんはなに考えてんだい!?
乃絵美ちゃん、困っているじゃなか!」
彼女の言う通り、乃絵美は顔を真っ赤にさせ俯いて立っていた。かみさんは申し訳なさそうな笑みを浮かべながら、乃絵美に謝罪する。
「ごめんなさいね、乃絵美ちゃん。うちの者ときたら、全然デリカシーがなくってさ、
まったく困ったもんだよ」
「けっ、何がデリカシーだ。てめえの口から出る言葉かい!?」
「なんだってっ!?」
「あ、おばさん! わ、私なら全然気にしてませんから!!」
乃絵美は大慌てで、二人の仲裁に入った。このままだと、喧嘩しかねない勢いだからだ。
「……そうかい? まあ、乃絵美ちゃんが気にしないって言うんだったらいいんだけどね」
かみさんの言葉に、ほっと胸を撫で下ろす乃絵美。顔を上げると、彼女が自分の顔を心配そうに覗きこんでいた。
「うちの者じゃないけどさ。乃絵美ちゃん、本当に具合でも悪いのかい?」
「そ、そんなことないですよ!」
両手を忙しく振りながら乃絵美。
「本当かい? なんだか顔色も悪いようだし……おばさん、心配だよ……」
「おばさん、本当に大丈夫ですから」
乃絵美はそこまで言うと腕時計に目をやり、
「それじゃあ、そろそろ失礼させてもらいます。ちょっと、走らないといけないみたいなんで」
彼女は二人にさよならの挨拶を済ませると、身を翻して駆け出していった。その彼女の後ろ姿を、八百屋の二人は心配そうに見送った。
商店街から抜け出ると、乃絵美の足はだんだんとゆっくりしたものになる。正直に言えば、別に走らなくてもまだ間に合う時間だった。ただ、あの場に居たたまれなくなってしまったからだ。
「まいったなぁ………顔に出ちゃってるんだ…………………」
乃絵美は、何かなしにそう漏らす。今朝のことは、気にしないでいようと決めたつもりだった。今までと同じのように自分一人で学校に向かう、それだけのこと。
しかし、自分は気にしている。嬉しかったのだ、正樹が一緒に登校してくれると言ってくれたことが。だけど、それは叶わなかった。
「しようがないよね……お兄ちゃん……昨日の夜、遅かったし………」
乃絵美は俯きながら、沈んだ声で呟く。不意に彼女は足を止め、立ち止まった。
途端、一粒の滴がアスファルトの上で跳ねた。
「……っく、お兄ちゃあん…………寂しい…寂しいよお…………」
小さな肩を震わせ、声を殺して乃絵美は泣いた。一度堰を切った涙は、とめどなく流れていった。
「乃絵美っ!!」
その時、彼女の肩を背中から掴むものがいた。その声には、聞き覚えがあった。
乃絵美が後ろに振り向いてみると、息を切らせ、汗だくになった正樹が立っていた。
「……お…にいちゃ……ん?」
「ごめん、乃絵美!!」
正樹は乃絵美が振り返るのとほぼ同時に、勢いよく頭を下げた。
「ごめん! 本当にごめん! 昨日約束したばっかりなのに、俺って信じられないよな!?
ほんとっ、駄目な兄貴だよ! 乃絵美にはもう許してもらえないと思ってる!!
でも、本当にごめんっ!!」
頭を下げたまま正樹は、一気に言葉をまくし立てる。自分は彼女に対して、取り返しのつかないことをしてしまった。彼女の心を傷つけた、それは紛れもない事実だ。
だから、どんなに謝罪の言葉を並べても許してもらえないかもしれない。それでも、正樹は乃絵美に謝りたかった。
そして乃絵美は、そんな正樹の姿をずっと見つめていた。彼はまだ呼吸が整っていないらしく、肩が大きく動いている。またアイロンでピンとしていた制服も、汗で肌に張り付いてしまっている。きっと彼は、ここまで全力で走ってきたのだろう。
自分との約束のために。
「………お兄ちゃん……顔…上げて…………」
乃絵美は静かに言葉を紡ぐ。正樹は彼女の言葉に促されて、ゆっくりと上半身を起こした。
そこには、瞳を潤ませてはいるが、穏やかな笑みを浮かべた乃絵美の顔があった。
「もうお兄ちゃんったら、こんなに汗だくになっちゃって………学校は、これからなんだよ?」
乃絵美はポケットからハンカチを取り出すと、背を伸ばして正樹の汗を拭い始めた。
「うわっ! の、乃絵美、お前のハンカチが汚れちゃうよ!」
「お兄ちゃん! ちょっと、じっとしてて!」
「は、はい!」
正樹は乃絵美の剣幕に身を硬くする。しばらくの間、彼女のすることに身を任せて、正樹は立ち尽くした。
「はい、終わりっと」
正樹の汗を拭い終わると、乃絵美は満足そうに頷く。そして、正樹に向かって一言。
「じゃあ、お兄ちゃん。一緒に学校に行こう!」
乃絵美は満面に笑顔を浮かべ、はっきりとした口調で正樹に言った。彼女の笑顔に、正樹の表情もぱっと明るくなった。
「……ああっ! じゃあ行こうか、乃絵美!」
「うん!」
二人は学校へと続く道を並んで歩き出す。
「なあ、乃絵美……もしよかったらなんだけど……明日も起こしてくれないか?」
途中、正樹は乃絵美に気まずそうにしながら話しかけた。だけど、乃絵美は彼の言葉に頬を小さく膨らます。
「でも、お兄ちゃん。すぐ起きてくれないんだもん」
眉を顰め、上目遣いで正樹のことを睨む。だが、彼はそれでも食い下がった。
「それは、乃絵美の起こし方が悪いんだよ〜。他の起こし方なら、ぜったい起きると思うんだ」
正樹は自分のことを棚に上げて、乃絵美のせいにした。そのことに、乃絵美はますます頬を膨らませる。
「………じゃあ、他の起こし方って、どんなの?」
「そうだなぁ〜」
正樹は、顎に手を当てながら頭を捻り始める。ああでもない、こうでもないと、しばらく考えていた正樹だったが、不意に手を胸の前で打った。
「なあ、乃絵美。”目覚めのキス”で起こしてくれるってのは、どうだ?」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、正樹は乃絵美の顔を覗きこんだ。
「ええーっ!!」
乃絵美は驚きで大声を張り上げ、正樹から一歩後退る。彼女の顔は、まるで火を吹き出さんばかりに真っ赤に染まっている。そんな彼女の態度に、正樹は笑い声を上げる。
「あははっ。冗談、冗談だよ、乃絵美」
「じょ、冗談?!」
「そう、じょうだん。顔真っ赤にさせちゃって、乃絵美は可愛いよな〜」
「………………………………………………………」
乃絵美は鞄を取っ手を握り締め、俯いている。見ると、その手はぷるぷると震えていた。
「あ、あの、乃絵美さん? ひょっとして、怒ってらっしゃいますか………?」
彼女の沈黙に、正樹は恐る恐る尋ねてみる。彼の額から一筋の冷や汗がつたい落ち、そして二人の間に異様な雰囲気が漂った。一時の間の後、不意に乃絵美が口を開いた。
「……………………いいよ」
「へっ?」
「いいよ、私。明日からお兄ちゃんを起こす時は、キスしてあげるね」
乃絵美はぱっと顔を上げると、笑顔でとんでもないことを口にした。
「ええぇぇぇぇっっっっっっ!!」
正樹は先ほどの乃絵美の声とは比べ物にならないほどの声を上げた。恐らく、この街全体に響き渡るほどに。彼は驚きのあまりからか、それとも緊張からか。喉がごくりと鳴った。
「あ、あの………乃絵美さん? そ、そそ、それって本当………?」
「うそ」
「へっ!?」
「嘘だよ、お兄ちゃん」
にっこりと微笑みながら乃絵美。最初、正樹は彼女に言われたことが理解できなかった。
だが、彼女の言葉をゆっくりと反芻すると、彼の眉尻が一気に上がった。
「乃絵美ーっ!!」
「だ、だって、お兄ちゃんが悪いんだからねー!! 私のこと、からうから!!」
乃絵美は、正樹に背を翻して駆け出した。しかし、正樹にすぐ追いつかれてしまう。
彼は乃絵美の横に並ぶと、彼女の手を取って、自分の指に絡めた。
「お、お兄ちゃん!?」
「お兄ちゃんのことをからかった罰だ! 今日は手をつないで学校に行くぞ!!」
「で、でも! ひ、人に見られたら、恥ずかしいよ…………」
乃絵美は頬を赤く染め、辺りを見回す。だが、正樹は意地の悪そうな笑顔を浮かべた。
「そりゃ当然。これは、罰だからな」
正樹の言葉に乃絵美は一瞬目を丸くさせたが、恥ずかしそうに笑みをこぼした。
「………………うん、わかったよ……お兄ちゃん」
「よし! ちょっと時間が押してるから、走るぞ、乃絵美!」
乃絵美は正樹に手を引かれながら、道を走り出す。ふと空を見上げると、青々とした空がいっぱいに広がっていた。
つながれた手の温かさを感じながら、今日は最良の日になるだろうと乃絵美は心の底から思った。

Fin

後書き

KNPです。

はっきりいってダメです。構成、文章は変。そして、ネタのマンネリ化。
ものすごく自信をなくしてます(ぉ
違和感を感じているにもかかわらず、どう直していいかわからない。

「もはや、これまで」

って感じです(苦笑)。
#一応、推敲はしたつもり(ぉ

そうそう。感想レスの掲示板にコメントを下さった方。ありがとうございます。
もちろん票を投じてくれた方、ありがとうございます。
自分が思うに、感想レスの中で一番反応があるのは「兄の看病」かなぁ〜と思ってます。
続きの催促が結構あるみたいなので。(^^;
#でも、あれは「to be continued...」じゃなくて本当は「fin」なんですよ〜(苦笑)。
#管理人さんの怠慢なんです〜(ぉ

で、まあ、触発されたのかどうかはわかりませんけど、最初「兄の看病」の続きを書こうと思ったのですが、なんとなく重い雰囲気を醸し出し始めたので 早々に破棄しました(笑)
#だって、全然”Sweet”って雰囲気から、ほど遠い。;)

ゆえに、このSSでした。ふと何気にネタが思い浮かんで、書くにいたったわけです。
自信をなくしたといいましたけど、まあ、勉強になった作品かなと思ってます。
それでは。


作品情報

作者名 KNP
タイトルSweet Sweet Candy Drops 〜Noemi〜
サブタイトル繋いだ手
タグWithYou〜みつめていたい〜, WithYou〜みつめていたい〜/Sweet Sweet Candy Drops 〜Noemi〜, 伊籐乃絵美, 伊籐正樹
感想投稿数187
感想投稿最終日時2019年04月16日 18時37分02秒

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  • [★★★★★★] 乃絵美の目覚めのキス、是非お願いします(^^)
  • [★★★★★★] ごーいんに起こせないあたりが乃絵美ちゃんってところでしょうか(^^; 最後の甘甘な雰囲気の掛合いが良かったです?
  • [★★★★★☆] ぬぅおおおお乃絵美ーーーー(馬鹿)
  • [★★★★☆☆] 乃絵美〜♪
  • [★★☆☆☆☆] 「私のこと、からうから!!」は多分「からかう」だと思うのですが(違ったらごめんなさい)。
  • [★★★★★☆] 転がりそう(笑 ちょっとベタだったけど(^^;
  • [★★★★★★] のえみが可愛すぎる・・・
  • [★★★★★★] 乃絵美ちゃんの目覚めのキス・・・・・・『グハッ!(吐血)』は、鼻血もんだぜベイベー・・・・・
  • [★★★★★☆] 何と言うか、読んでてみょ〜にワクワクする作品でした。これからも頑張ってイイ作品を作ってください。
  • [★★★★★☆] K2-301と申すものです。乃絵美がかなりブラコンなところが最高です。
  • [★★★★★☆]
  • [★★★★★★] 萌えます〜(//▽//)
  • [★★★★☆☆] 兄の優しいところがいい。
  • [★★★★★★] らぶらぶ(死語)最高
  • [★★★★★★] 正樹のばかぁ〜! って感じです。
  • [★★★★★★] greet!
  • [★☆☆☆☆☆] 何か途中から違和感を覚えました。