さまざまな動物を模して色とりどりの画用紙が壁を彩る。
壁と比べると寂しいくらい味気ない床に、場違いに大きな机とパイプ椅子を並べてある。
日頃ひびきわたる園児たちの喧噪とは異なる声が教室に響く。それはもう一度、喧噪を取り戻すためのものだった。


「ほう、骨董屋さんですか」
シャツとセーターを品良くまとめている老園長がそうつぶやいた。
「ええ、商店街の方で『五月雨堂』という店をやらせてもらってます」
健太郎の言葉を終わるのを待って、スーツ姿の結花は堅めの会釈をする。
「存じてますよ。なかなか評判のお店じゃないですか」
「そう言っていただけるとありがたいです」
滅多に着ないスーツ姿の健太郎と結花に挟まれた飛鳥が、かしこまっている両親を珍しいものを見比べるように見上て、ぶらぶらと足をゆらした。
「それで、この子はどうなんでしょうか」
結花が本題を切り出した。
その言葉に園長はすぐに答えようとせず、飛鳥の顔をのぞき込むように見つめた。
飛鳥は困ったような表情で園長と目を合わせると、にい、と笑顔を作る。
「良いお子さんのようですね」
園長はそこでいったん言葉を区切り、健太郎を向いた。
「ご心配なく、うちのような保育園でお断りする園児は滅多にいませんよ」
ふぅ、と力を抜いたのは結花だった。
お受験ブームを何かの雑誌で読んで、近所の保育園の面接に健太郎にまでスーツの新調を迫ったくらい騒いでいたのは結花だった。
健太郎はそう考えながら、自分の肩からも重い物がおりた気分を味わった。
「あすかちゃんにおとうとかいもうとはいるのかな?」
ゆっくりと、しかしはっきりとした発音で園長は飛鳥に声を掛けた。
飛鳥は目を見開いたまま体までねじって首をかしげる仕草をした。
「飛鳥、弟か妹がいるかって聞かれてるぞ」
健太郎が言葉と一緒に飛鳥の背中に手をやって心持ち前に押し出すように力を入れて促すと、飛鳥はぶんぶんと大きく頭を振って「いない」と答えた。
「そう、ひとりっ子なんだね」
弁解するように結花が割って入る。
「二人目はまだですから」
まだってことは、二人目をつくるつもりがあったのか。
飛鳥一人さえに手を焼く健太郎の動揺に、気付かないのか見過ごしたのか、園長は口調を変えずに話を続けた。
「そうですか、でもここに来ればお友達はたくさんいますし、なによりお父さんとお母さんをひとりじめ出来たんでしょうね」
中途半端な物言いに健太郎は「はぁ」と呟く他なかった。
どうも結花は呟くことすらしないつもりのようだ。
「じゃあ、おはなしとかたくさんしてもらったんですか?」
健太郎は飛鳥に向けられたようなこの言葉が、自分へのものだと理解するのに少し時間が掛かった。
「いえ、あんまり。店の方もなにかと忙しいもので」
健太郎の代わりに結花が言い訳を述べてくれた。
しかし、飛鳥にあまり本を読んでやらないのは、ここではおとなしくしてくれている飛鳥が、おはなしなんかよりも部屋中走り回る方が好きな子供だという理由の方が大きい。
「そうなんですか、大変ですねぇ」
世間からは暇そうと見られる商売の人間にも、普通の納得を示してくれるように園長は頷いた。
それから、視線を飛鳥の方に下げ、
「ここにはね、えほんもかみしばいもたくさんあるからね」
と声を掛けた。
飛鳥は反応に困ったのだろう、キョトンと園長を見返している。
「ハッハッハッハ、あすかちゃんにはまだむずかしいみたいだね」
「すみません……」
恐縮しているのは結花だ。
「いえ、良いんです。ただ私が好きなもんで、捨てられないからずっと古いのがたまっているだけですよ」
そう言いながら園長は健太郎を眺めた。
「そういえば、骨董屋さんでしたね。そういったものにも何かご関係が?」
健太郎は苦笑した。
「そういうものは古本屋の領分ですよ、骨董市があるように古本市もあったりして似ているって言えば似ているんですけど」
「言われてみればそうですね」
園長は腕を組み替えた。
「なにか価値の有りそうな物でもお持ちなんですか?」
「いえ、だいぶ本の置き場所にも困るようになってきましたんですが、捨てるのは忍びなくて……またどなたかに読んで貰えたらなとおもいまして。
 実は毎年そう思いながら先へ先へと延ばしているんです。
 園児達が大勢読んでくれたんでくたびれた本が多くて、価値は期待していませんよ」
さもありなん、と言う顔をして健太郎は頷いた。
「いままで手放さなかったのはくたびれた本と離れるのがなんだか寂しい気がしましてね。
 でも、飛鳥ちゃん達に新しい本を読んでもらうにはもうそろそろ本当に片づけないと」
健太郎の目にも園長の目がだんだんと遠くを見ていることが分かった。
「十年くらい前には、園児さんの親戚が絵本を書いたとかで園に何冊かくれたんでしたが、今じゃもうそれもどこへいったものやら。
 ひとつひとつが大事な貧乏性でして、そういう特別な本もほかの本と一緒くたにしてしまいましてね」
「絵本作家ですか、珍しい方ですね」
自分で言うのもなんだが、骨董屋も負けてはいないと思う。
「いえ、確か……ご本人は絵描きさんだったはずですが、絵本も書いていらしたとか。
 お気の毒に小さなお子さんを残してお亡くなりになってしまったとかで、その方……本をくださった方なんですが……が沢山の方に読んでいただきたいということでくださったんですよ」
老年にさしかかっている園長にとっても、とりわけ思い出に残っている出来事なのだろう。目元から懐かしさと愛おしみがあふれそうだった。
「どんなお話だったんですか?」
話の流れに乗って、健太郎は先を促した。
もう飛鳥の面接というより昔話を聞きに来ているようだ。商売柄こういうことは嫌いではない。
園長は視線を左上に泳がせた。思い出せないということは、出来事ほどに内容は印象に残っていないということだろうか。
「ええと、確か……ある日、魔法を使える方が空からやってきまして、それで……ええ、たぶん主人公は作者の方と同じ絵描きだったと思うんですが、その方と一緒に暮らすことになって、それで最後は二人で仲良く暮らしました、という話だったはずです。
 まぁ、話としては天女の羽衣みたいな話ですよ」
「天女の羽衣?」
健太郎はその話を今一つしっかりと覚えてはいなかった。
「天からおりてきた天女が水浴びしているときに、通りかかった男に羽衣を拾われて帰れなくって、なんだかんだあるうちに一緒に暮らす話よ」
結花の説明に園長も異存は無いようだった。それならなんとなく聞いたことがある。
「おんなじような伝説が日本中にあるのですが、結末は二つに別れるんですね」
園長は童話好きの顔で説明を加えた。
「どんな風にですか?」
園長は考える素振りをせずに間をおいた。
「最後は、結婚して子供をもうけるか天女は空へと帰ってゆく、という話になります」
「はぁ」健太郎は生返事をした。後の方なら身に覚えの無い話ではなかった。
「まるでグエンディーナみたいな話だな」
結花だけ聞こえるように健太郎は言葉をもらした。
その言葉に園長の表情が変わった。驚きではなく、捜し物を見つけた顔だ。
「思い出しましたよ、その絵本は『グエンディーナの魔女』というんです」
驚きの表情を作るのは園長に向かって座る二人の方だった。
かつての話題の中心から遠く離れてしまった飛鳥は、椅子の上で体をゆらしている。
結花が声のトーンを上げて言った。
「その本、一冊貸していただけませんか。探すのはわたしがしますから」
「かまいませんが、何か価値のある本なんですか?」
園長は戸惑った顔をした。
無理もない。記憶の底にあった絵本一つに、それだけ驚かれることを予想する人間はそうはいないだろう。
健太郎は力を込めて言った。
「あるんです」
「わたし達夫婦にとっては、ね」
園長は不可解な顔をしながら、まだ入園もしていない子供の親を倉庫へと案内してくれた。
結花があれだけ気負っていた飛鳥の面接はうやむやのまま終わってしまった。

第七ブロック北西地域
明日の天気は曇りのち晴れ。
気温は人肌のミルクにミルクの二かけらの氷を浮かべたくらい。

第七気象調整署の若い男性職員が、最も窓に近い席にすわる女性に会議の決定内容を伝える書類を渡す。
その女性は書類に目を落とすと、すぐ短く付け加えた。

日の出前に少しの降水

男性職員は説明を求める顔をした。
「噴水広場前の花壇見てこなかったの? 水がなければ可哀想じゃないの」
「しかし、降水させますと気温の調整が難しいのですが」
やれやれという様に女性は額に手を当て、横を向いた。
「わたしがどうにかするわ。
 あなたは放っておくの、おかないの? どっち」
足を後ろにずらして男性職員はうわずった声を出した。
「調整室室長にお任せします」
「そう」
それだけ言うと女性は額に手を当てたまま男性職員から目を離し、机の右隅を見つめた。
もう誰も話しかけられる雰囲気ではない。男性職員は足音を立てないように机の前から立ち去った。
そして、部屋から出て最初に出会った同僚に声を掛けた。
「なんか、今日のミュージィさん、機嫌悪いみたいだな」
「この時期になると恒例だな」
同僚は廊下に貼られたポスターを目で示した。

『第二九三七回魔法能力検定試験』

「ここんとこ、ミュージィさんの機嫌が悪くなるのは決まってこの時期なんだ」
「ミュージィさんほどの使い手がどうして」
「さあな、伸び悩んでるんじゃねぇのか」
男性職員はそう納得した。
とはいえ、ミュージィの能力はこの気象調整署では比肩するものはいない。彼女は王立魔法学校を上位で卒業したという話だ。そ
の割には地位が低すぎる気がする。それも能力検定試験で機嫌が悪くなることと関係があるのかもしれない。
そこまでで考えるのをやめた。なにがあろうと、あの人は優秀な魔女であることに違いなはい。
「それよりも、お前聞いたか?」
男性職員は「なにを?」という返事を目線で返した。
「スフィー様がどうやらミュージィさんを抜いたらしいぞ。だから今年はよけいに機嫌が悪いのかもな」
王女のスフィーがかなり凄い魔法の使い手だという話は聞いたことがある。
「魔法学校の後輩に抜かれて良い気分はしないだろ」
ずいぶんと俗っぽい機嫌の悪くなり方をすると思った。
見たところ若い頃は随分上等な容姿を誇っていたようだが、なぜか独身ということで近寄り難く感じていたが、随分と親しみやすい所もありそうだ。
男性職員はそれから二、三言言葉を交わして同僚と別れて持ち場へ戻った。

テレビのある部屋のソファーに腰掛けて本を開いた。
「ほら飛鳥、絵本読んでやるぞ」
さっきからそう呼びかけても飛鳥はこちらを向かない。
隙あらばテレビのリモコンに手を伸ばそうとかまえているのが分かる。
「飛鳥ちゃ〜ん、ほら、パパがご本読んでくれるんだって、よかったわね〜」
結花がなだめながら椅子の向きを変える。しかし、飛鳥は体の向きを変えて抵抗する。
アニメを流し続けるCSチャンネルに加入していて、それを子守代わりにつかっているとテレビが映らないことが不自然に思えるのかもしれない。
「飛鳥〜、始まっちゃうよ〜」
健太郎の言葉も空しく飛鳥はなにも映らないテレビを眺めている。暇を紛らわせるためなのか、お子魔女人形を握りしめていた。
結花は「しょうがないな」という顔をして健太郎の横に腰掛けた。
「わたし達だけで読んじゃおう」
健太郎はしかたなくそうすることにして、あらためて本を見た。

本はあちらこちらに補修のテープが貼ってあり表紙には染みまで出来ている。園長の言ったとおり保存状態はお世辞にも良いとは言えない。

「グェンディーナのまじょ ぶん・え まきべつとむ」

健太郎はゆっくりとページをめくった。長い間閉じこめられていた空気が解き放たれるにおいがした。
「ふゆのあるひ、えかきになりたいトムはえをかくためにかわのそばのみちをあるいていました」
飛鳥が反応したのが分かる。
「いつもはアトリエにこもっていましたが、たまにはそとにでないといいえがかけないきがしたからです」
「な、なんだか切実な話ね」
「ほしがきれいなよるでした。
 トムはこのきれいなそらをえにするにはどうすればいいかとたちどまってかんがえました」
「ありがちな話じゃないの、これ」
「黙って聞けよ……
 そらのまんなかあたりでなにかがひかりました。
 トムはそれがながれぼしだとおもいました。
 みなさんもしっていますか?
 ながれぼしがきえるまでにねがいごとをさんかいいうと、ねがいがかなうのです。
 だからトムもいっしょうけんめいおねがいしました」
「絵本ってこんなに文章が長かったっけ?」
「さぁ、きっとこういうの初めて書いたんだろ……
 だけどそれはながれぼしではなかったのです。
 きらきらひかるひかりはだんだんとおおきくなりトムのめのまえでとまりました。
 トムがみたのはきれいなおんなのひとだったのです」
健太郎はここで言葉を止めて口元に右手をやった。
「どうしたの?」
結花が訊いてくる。
「いや」健太郎は口元からこめかみに右手を移した。
「おんなじなんだよ、スフィーの時と」
結花は隣から健太郎を見つめてくる。そして口を開いた。
「だけど、おんなじだったことを期待してたんでしょ」
図星だった。
この本を知ったときからそうであって欲しいと思っていた。半年の間、俺達二人にたくさんの想い出をくれた二人の手がかりを。
「あたしだってそうだから」
結花が目尻を下げた。
健太郎は本から目を上げて、結花の瞳を見つめた。想い出を共有する妻を片手で抱こうとした。
が、
「おとうさん、おはなしの続きはまだなの?」
いつの間にか椅子ごとこちらを向いていた飛鳥が健太郎に催促の言葉を言う。健太郎は伸ばしかけた手を引き込めて再び絵本を持ち直した。
「あ、飛鳥ちゃん。もう八時じゃない。寝る時間ですよ〜」
ピントのずれた声で結花が飛鳥を重そうに抱きかかえた。時計を見ると八時を数分過ぎていた。
どうやら飛鳥は八時までの番組を見たかったのだが、終わってしまったので観念したようだ。
「お母さんばっかりずるい〜」
抱きかかえられながら、飛鳥は右手に握りしめたお子魔女人形をぶんぶんとふりまわす。
飛鳥を抱えた結花が部屋を出る間際に健太郎へ目配せをした。健太郎はもう一度絵本に向けた。
続きはまた後で、だ。

ミュージィは書類の整理を終えると席を立った。今日は執行室に寄る用事もない。
署を出ると通りに街路樹の長い影が出来ていた。定時に出ると夜が始まる前に家に帰ることが出来る。
近所にある高等魔法養成所の生徒達の中にも、この時間に下校する生徒がいた。
「あ、ミュージィさん」
後ろから小走りに追いかけてきたのは魔法学校を今年卒業して署で働き始めたウィスディアというショートカットで小柄な女性職員だった。
「今お帰りなんですか?」
身長差があるので上目遣いで話しかけてくる。
「ええ」
ミュージィは歩きながら応えた。
「だったら、ご一緒しても良いですか?」
断る理由が見つからなかったので、そのままウィスディアの横を歩いた。
「歩いてお帰りなんですね、魔法を使えば早いのに」
「あなたも歩いているでしょ」
ミュージィに指摘されるとウィスディアは明るい笑い声を上げた。
「私が行ったことのある世界ではね、こう云われているの。
 『竹橋駅が出来てから天気予報の精度が下がった』って」
ウィスディアはあごに左手の人差し指を当てた。
「えっと、よく分からないです」
「その国の天気は魔法じゃ変えることが出来ないから、予想するしかないんだけどね。
 それをする役所の近くまで地下鉄……って言っても分からないわね、地面の下を大勢が乗れる乗り物が走っているんだけど、とにかく空をあまり見ないで行くことが出来るようになってからそこで働く人達が空を見なくなったって話」
「へぇ〜」
ウィスディアは大きく目を見開いてから俯いた。
「すごいですね、ミュージィさんは」
「え?」
「あたしも派遣されたかったんですけど、成績が届かなくて駄目でした。
 魔法の無い世界でいろいろと見てみたかったんです。難しいけど、楽しそうで」
「良いことばかりじゃないわよ」
「えっ?」
突然、語気が鋭くなったのでウィスディアを驚かせてしまったようだ。ミュージィは口調を改めて言い直した。
「良いことも悪いこともあるってことよ」
「もしかして後悔しているんですか?」
ミュージィは少し考えて、言った。
「さぁ、難しいわね。今は心残りがあった、としか言えないわ」
「やっぱり心残りがあるものなんですね」
ウィスディアはミュージィに同意したのは意外だった。
「スフィー様も、噂では派遣される前はそんなに真面目じゃなかったそうですけど、なんでももう一度向こうに行きたいとかで必死で魔法の勉強に打ち込みだしたそうですからね」
「そうなの」
「ええ、それでどうやら次元跳躍の魔法を身につけて自力で向こうに行けるようになったとか。
 すごいですよね、あたしと五歳しか違わないのに」
「そうね」
ミュージィ短く応えると、暮れて行く空を見上げた。
遠いところで雲が結界にそって分けられ、流れて行くのが見えた。
その向こうにある世界のことが不意に思い浮かんで胸を絞る。
「どうしたんですか、ミュージィさん?」
ウィスディアが顔をのぞき込んでいた。ミュージィはあわてて視線を戻した。
「ごめんね、少し考えごとしててね」
ウィスディアは「そうですか」と言ってそのまま歩き続けた。しばらく無言が続いた。
「だけど、ミュージィさんって優しい方ですよね」
沈黙を破ったのは、ウィスディアの唐突な言葉だった。ミュージィは何も応えられなかった。
「ええ、正直言って入ったときはちょっと怖そうかなと思いましたけど、丁寧であたしなんかの相手もしてくれて」
「そんなこと無いわよ」
この時期になると、自分でもこめかみが張りつめているのが分かる。
「いえ、大人で羨ましいと思いますよ。あたしは」
「全然大人に成りきれて無いわよ。
 だけどあなた位の歳の娘はちょっと優しくしようかなって思う事はあるわよ」
「ふふ、ありがとうございます」
冗談めかした言葉は冗談ではなかった。


なつみ。
今頃はこの娘くらいになっているはず。

優しくしてあげられなかったなつみ。
会いたい。

だけど私は……

「あのなぁ、そんな理由でこっちの世界に来たって訳か」
「だあって、結花のホットケーキまた食べたかったんだもん」
健太郎は開店前に訪れた二人の珍客と話していた。
二人ともきれいな長髪で、白を基調にしたフェルトのような生地で出来た帽子と服を身につけている。
「なんだか、スフィー姉さんはそれだけを心の支えにして修行していたみたいなんです」
「もう、リアンってば照れるじゃない」
スフィーと呼ばれた方がリアンと呼ばれた方の背中を軽く叩く。
「他に言うことは?」
「言うこと?」
スフィーは健太郎の言葉に本気で考え込んでいるようだった。
「姉さん、『会いたかった』とか『久しぶり』とか」
リアンが小声でフォローする。ばれているが。
「会いたかったよ、けんたろ、お久しぶり〜」
よどみなくそう言って、すぐに続ける
「で、久しぶりに結花のホットケーキぃ」
「あぁ、そうかい」
健太郎は軽くため息を付いた。
「まあまあ、せっかく訪ねてきてくれたんだからホットケーキくらいすぐに作るわよ」
飛鳥にしがみつかれたままの結花が笑顔で言う。
「そうこなくっちゃ」
スフィーがガッツポーズを作る。
向こうの世界にいてもこちらの風習は忘れていないようだ。
「ねえねえ。お姉ちゃんたちほんとうに魔女なの?」
結花の影から飛鳥がおずおずとリアンの袖をつかみ、引っ張る。
「そうだぞ、飛鳥。
 こっちのお姉ちゃんはいい魔女で、あっちのお姉ちゃんは悪い魔女だ」
飛鳥は結花の足をぎゅっとつかんで、スフィーから隠れようとした。
「健太郎さん、それはちょっと……」
リアンが困った顔をする。相変わらずの役回りだ。
「ねぇ、こんなかわいい飛鳥ちゃんに嘘を吹き込むなんて。
 ね〜飛鳥ちゃん、かわい〜」
スフィーはしゃがんで、飛鳥に向かって両手を広げた。飛鳥は結花にしがみついたまま離れようとしない。
「でしょ〜、だってあたしの子供だもん」
「うん、健太郎に似なくて良かったね」
「あらあら、ホットケーキ大サービスしなきゃ」
結花は本当に嬉しそうな顔をする。
健太郎はため息を付くだけで放っておくことにした。
スフィーは反撃が功を奏したことに満足したらしく、意地悪な笑顔を向けてくる。
「スフィーちゃんも相変わらず可愛いわよ」
「ん〜結花、大好き」
「おいおい」健太郎はカウンターに頬づえをついて言った。「お前、その歳になっても可愛いって言われて喜ぶなよ」
「良いじゃない、実際あたしは可愛いんだから」
「ねぇ」スフィーと結花が顔を見合わせて笑った。
「じゃ、あたしはホットケーキ焼いてくるから」
結花がスフィー達を見つめたままの飛鳥を引きずって店の奥へ入っていった。


「五月雨堂も変わってないわね」
飛鳥に手を振りながら結花を見送ると、スフィーが言った。
「相変わらず古くさいって?」
「あたしが居た頃みたいに良い店ってことよ」
「ええ、やっぱりここに来ると落ち着きます」
「そりゃどうも」
言いながら健太郎は店内を見渡した。
親父が送りつけてきた舶来の骨董品の割合が若干増えた位で、あまり変わってはいないかもしれない。
もしかすると、スフィー達が去った日から置かれ続けている品物だってあってもおかしくない。
「それより訊かないんだな」
「なにを?」
スフィーが無邪気な顔で聞き返してくる。
「俺と結花がスフィー達を覚えてる理由だよ」
スフィー達が去った日。
スフィーは健太郎と結花を含めて全ての人からスフィー達の記憶を消して行っていた。
健太郎達はそれでも記憶を消されきれずに、あるきっかけをつかんで記憶を取り戻していた。
「それは覚えてなかったらひっぱたいても思い出させてあげようと」
「姉さん」
リアンがスフィーを呼ぶと、スフィーも振り返った。
「本当のことをお話しした方が良いんじゃないですか?」
スフィーはそのまましばらくリアンを見つめてから、健太郎を向いた。曇り気味の笑顔になっていた。
「えっとね、ちょっとばかり仕込ませて貰ったってわけ」
「仕込んだ? なにを」
「う〜ん」スフィーは銀色の腕輪がついた右手で頭をかいた。
「それはですね」
言いにくそうなスフィーに変わってリアンが割って入った。スフィーは一瞬止める素振りを見せたが、本当に止めはしなかった。
「遠隔通話のずっと単純なものでして、姉さんはお互いの魔力で存在を確認しあうことが出来る魔法をかけておいたんです」
「魔力ってったって俺に魔法は使えないぞ」
「ちょっと説明が必要になりますけど、こちらのみなさんがお持ちの『想い』だとかそれに類するものは魔力とかなり似たようなものなんです。姉さんの魔法はそれを使わせてもらって健太郎さん達が私達をまだ覚えていらっしゃることが確認できた、ということです」
「そーいうこと」
「左意ですか」
スフィー達は結局、こちらの世界とのつながりを完全に断てなかったということだ。
それは……なんだか嬉しいことだと思った。
「それで、今度は俺達の記憶を完全に消しに来たのか」
「そんなことしないわよ、ねぇ」スフィーが同意を求める。
「ええ、ただ姉さんが次元跳躍の魔法を修得したので試してみただけなんです」
「結花のホットケーキも食べたかったしね」
スフィーはさらりと言う。しかし、俺の記憶では次元跳躍の魔法って……。
「大変たいへん!」
健太郎の思考をさえぎる声をあげて結花が店の中に入ってきた。
「ホットケーキの材料きらしちゃってた。
 だからこれからあたしの実家に行かない?」
結花の実家とは、喫茶店のHONEY BEEのことだ。五月雨堂と同じ商店街という文字通りスープの冷めない距離にある。
「是非行きたいです」
初めに返事をしたのはリアンだった。
彼女はそこに住んで働いていたことがある。やはり訪ねてみたかったのだろう。
「ホットケーキのためなら地の果てだってゆくわよ」
「もう違う世界に来ているだろうが」
健太郎の突っ込みはもう耳に入らないらしく、スフィーは結花の腕をつかんで今にも駆け出しそうである。
健太郎はリアンと苦笑を交わし、扉のかげから店内を伺っている飛鳥を抱きかかえた。少し重い。
片手で「準備中」の札を掛け、店を出た。


「でさ、おじいちゃんったらくれぐれもこの魔法を使うなって言うのよ。
 そう言われたら使ってみたくなっちゃうじゃない」

十四枚目のホットケーキにメープルシロップをかけながらスフィーが話す。
カウンターの向こうからマスターの泰久さん、義父にあたるのだが、の時折投げかける視線が気になる。
記憶を消されていても、なにかしらの違和感が拭えないようだ。
前に結花が話していたのだが、HONEY BEEでホットケーキの売り上げが飛躍的に伸びた……というより半年間だけ異様に売れていたということが伝票整理で分かり、未だにHONEY BEE七不思議の一つとして客に語り続けているということだ。
「それで、リアンが派遣される話が出ると急に気弱になって……って、聞いてるの? けんたろ」
「んあ?」
スフィーの食べっぷりに見とれていた健太郎は生返事をした。
十四枚目のホットケーキはあと一口を残すだけになっている。
「せっかく積もる話もたくさん有るってのに」
「積まれてるのはホットケーキだろ」
「甘いわね、けんたろ。このどこにホットケーキが積まれてあって?」
誇らしげに示す皿には残りわずか二枚。そしてさらに
「追加が遅いわね」
追い打ちまでかける。
「はいはい、恐れ入りました。って、飛鳥まで!」
スフィーの隣では飛鳥が二枚のホットケーキを食べ終わって、スフィーの皿に物欲しそうな視線を投げていた。
離乳して以来、結花がホットケーキ中毒に仕込んだだけのことはある。ついでに、遠鉄ファンも結花の仕込みだ。
カウンターの向こうでは結花がフライパンと格闘している。その横ではあざやかな手つきで紅茶を入れるリアン。二人ともお揃いのエプロンを着けている。リアンはあの頃と同じエプロンが着られるらしい。
「おーい、飛鳥ちゃんがホットケーキを待ってるぞ〜」
他の客の相手をしながら、しっかりこちらのテーブルを窺っていた泰久さんが祖父バカぶりを見せつける。
「あんまり甘やかしちゃダメですよ」と言っても無駄だと分かっているので注意はしない。
「飛鳥ちゃんも可愛い顔してやるようね、でもあたしは負けないわよ」
「そこ、ウチの娘を悪の道にさそうんじゃない!」
健太郎の言葉も空しく、飛鳥は赤い野球帽のつばを直すとスフィーに向かって好戦的な笑みを見せた。スフィーは挑戦を受けたという返事の代わりか、皿に残ったホットケーキを一気に片づける。一瞬、スフィーが輝いたように見えた。
「ふぉっふぉすひーにゅぃ……」
「飲み込んでから言えよ」
スフィーは胸を数回叩いて言い直した。
「ゴッドスフィーを使ったのは久しぶりだわ」
危険なはずだから使うなといったはずだ。
そう言おうとした健太郎が見たものは、スフィーの姿に闘志を燃やし、瞳を輝かせる飛鳥だった。
「あ、飛鳥がスフィーに染まってく」
「ふふふ、飛鳥ちゃん。これからはあたしを師匠とお呼びなさい」
健太郎はテーブルにひじをついて頭を抱えた。
「姉さん、健太郎さんが困ってますよ」
紅茶を持ってリアンが来た。顔には苦笑の色が浮かんでいる。
「リアン、姉の教育はしっかりやってくれ」
健太郎がリアンのために席を開けながら言うと、リアンはますます困った顔をした。
「はーいお待たせ、ホットケーキ第二弾かんせ〜い」
リアンに続いて結花が現れる。
健太郎の向かいに座る二人の視線は結花が手にしているものに注がれた。やる気十分だ。
「ほどほどにしておけよ」
もちろん、聞いてはいない。
二人は目の前に差し出されるや、いきおい良くホットケーキとの格闘を再開した。
口の中が乾いた健太郎は、二人を眺めたまま紅茶を口にした。香りが逃げていない上手な入れ方だ。
「姉さんも魔力の使い過ぎで疲れてるんだと思います」
カップを両手で包み込むように持ったリアンが、半ば呆れた顔で言った。
「わたしも少し魔力を貸しましたけど、やっぱり魔法を使ったのは姉さんですから」
「ふーん」
横目で、もはやホットケーキ以外は目に入っていないようなスフィーを見る。
「すごいのか、スフィーって?」
「ええ」
リアンのカップを持つ手に力が入った。
「あの次元跳躍の魔法はグェンディーナでも虎レベル以上の魔法使いしか使えないんです。
 豹レベルから虎レベルに上がるのは本当に難しいって言われているんです。
 ……その代わり、国からの管理も厳しいんですけどね」
「ふーん、あいつがね」
紅茶を飲みながらまたスフィーを見やる。少なくとも外見は前とあまり変わっていない。
「あ、そうか」
健太郎は顔を上げた。
「スフィーって、魔力を使いすぎると身体の年齢が下がるんだ」
「はい。だから健太郎さん達とお別れした頃と見た目はそれほど変わらないと思います」
「なるほど……魔法を使うだけで若いままってのはなかなか」
ちらりと後ろ姿の結花を見た。結花は振り返らずにノーモーションで手にしたお盆を健太郎に投げつけてくる。しかも、しっかりと眉間に狙いを定めて。
「あ、危ねぇ」
きつい目つきをした結花が振り返った。不首尾を悔やんでいる顔だ。
「あたしがババアだと言いたいわけ?」
「まだ言ってねぇだろ!」
「まだ?」
店内の空気がふた月逆戻りする。
「いえ、なんでもございません」
「そっ、ならよろしい」
そう言うと、結花は大股でキッチンへと歩いていった。
「助かった……」
「仲の良い夫婦なんですね」
リアンが笑いを抑えている。
「あいつと暮らしてると寿命が縮まるよ」
「でもお似合いです」
健太郎は少し照れてリアンから目をそらした。
向かいには健太郎の危機も知らない様子の二人。健太郎はこちらと向こうをしばらくの間見比べた。

「やっぱりこういう話はリアンの方が向いてるかな」
リアンは柔らかな動きで健太郎を向いた。

「さっきからスフィーとリアンの話を聞いてると、こっちの世界に来るってかなり大層な事みたいだけど」
「そうですね、グェンディーナの秘密を守る為にいろいろと手続きが必要になりますから」
「秘密を知ったところで、俺たちみたいな人間は向こうに行くことは出来ないんだろ」
リアンはカップの紅茶に目を落とした。
「絶対に無理だとは言えません。
 転移の魔法は施術者に服や持ち物のような付随するものにも及ぼすことも出来ますから、その範囲を拡げる……つまり『連れて行く人を付随物と見なす』ことで転移することは可能なはずです。
 もちろん、それは禁止されていますけど」
「なるほど」健太郎は紅茶をテーブルに置いてしばらく考え込んだ。
「行く行かないはともかくとして、記憶は消さなければいけない?」
「規則ではそうなっています。でも健太郎さんたちのように、思い出してしまう方は仕方が無いということで黙認状態ですね」
「厳しいのかアバウトなのか……だけど、記憶が残った人間がその話を広めたらどうなる?」
リアンは一口紅茶を飲んで応えた。
「もし、健太郎さんがわたしたちに会わないで、その話を聞いたとしたら信じますか?」
確かに信じるに値する話では無いな。という考えを先回りするようにリアンが言う。
「信じませんよね。だから良いんですよ」
たぶん。と、付け加えてリアンは紅茶のカップを置いた。
「だけど、それじゃあ記憶を消す意味がないと思うんだけど」
「きっと、ゼスチャーなんだと思います。
 ……ところで健太郎さん」
不意にリアンが厳しい顔になった。
「そういう話をなさったことがあるんですか?」
「いや、無いけど」
健太郎はリアンの気迫に押されながら応えた。
「無いけど、他人事とは思えない話を見たことがある」
もともと大きいリアンの瞳が一層大きく見開かれた。
「姉さん、姉さん! 聞きましたか? グェンディーナの話が」
リアンがテーブルの向こうに手を伸ばした。そこにあったものは
「うぅぅぅぅぅ、もう駄目ですぅ」
ホットケーキの食べ過ぎで泣き出したスフィーだった。
その横で飛鳥が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらなおもホットケーキを頬張り続けている。
「飛鳥、いい加減にしておけ」
健太郎は飛鳥から皿を奪った。飛鳥は抵抗せず、ただフォークを握りしめながら口の中でもごもごとしていた。
「……聞いていなかったみたいですね」
そんなこと最初から期待していなかったが。

「この道をずっと行くと港に出るんだ」
「港?」
「そう、僕の好きな場所なんだ。
 荷物や人を乗せてどこかの国へ行く船が出る場所……」
つとむとミュージィは、二人が出会った川縁の道を歩いていた。
「つとむはどこかの国に行きたいの?」
「行かないよ。僕はどこにも行くつもりはない。……君がいる限りね」
「つとむ……」
ミュージィは目を伏せた。
「わたしは、いつか帰らなきゃいけないのよ。
 本当はあなたがフランスっていう国に行きたがっていたのも知っている。
 ……わたしのせいであなたを困らせたくない」
「フランスに行かなかったのはこの身体のせいだよ。弱いから仕方なかったんだ。
 そうだな……僕がミュージィのところに行きたいって言ったらミュージィは困る?」
「わたしは困らないけど、でもそういうことは出来ない規則なの」
「そうか……」
つとむとミュージィはしばらく黙って歩いた。
「僕、画家になるのやめようかと思うんだ」
急に立ち止まったつとむが言った。
「普通に働こうと思う。だからミュージィ、お願いがあるんだ」
つとむは上着の内ポケットから小さな青い包みを出した。
「僕とずっとこっちに居て、一緒に暮らしてくれないか」
大きな破裂音が響いた。ミュージィがつとむの頬を叩いた音だ。
「そう、それが君の答えなんだね」
「違うわ」
ミュージィは涙声だった。
「わたしのために画家をやめるなんて言わないで」
「だけど、僕は君をずっと養えるような……」
つとむの言葉は抱きしめたミュージィの腕の中で消されていった。
港を灯す常夜灯が二人を照らす。星空に祝福されながら、二人はずっと抱き合っていた。


……夢、か。
あの時のことを見るのは何度目だろう。
細かいことは年月と一緒に流れて行ってしまったけれど、つとむのあの言葉と目だけはいつも変わらない。
ミュージィは頭を振って寝床から出た。
窓の向こうを見ると、雨が降っていた。


ふと、目尻に指を這わせた。
出たばかりの涙が溜まっていた。

「ミュージィさんの話ですねぇ」
リアンが驚きの声を上げた。
「知ってるのか?」
「もちろん、この方は魔法学校の大先輩でしたから」
絵本から顔を上げてリアンが応える。
リアンの隣にはクッションに寄りかかってうめいている彼女の不甲斐ない姉。
「魔法学校の先輩っていっても大勢いるんだろ?」
「この人は何度も優秀賞を取ったとかで有名な方なんです」
「優秀、ね」
ちらりとスフィーを見た。
「確かに優秀らしいな。
 ミュージィさんって人はこっちに来るとき誰ともぶつからなかったみたいだし」
「ええと、その。姉さんも一応優秀なんですよ」
健太郎を一度死なせてくれた優秀な方はクッションをつぶしてへばっている。
この姿はどうも仮の姿には見えない。
「だけど、ロマンチックな話ですよね」
リアンは話題をもどしてきた。
「そうか? 童話にしちゃありがちだと思ったけど」
「グェンディーナから派遣された人について、かなり正確に書いてあるからですよ。
 なんていうか……こう、他人事ではないというか」
「感情移入が出来るってわけね」
「そうです、ひょっとしたらわたし達にもこういう話が……って、あのそういう意味ではなくて、ええと」
「いいよ、リアン」
健太郎はリアンの頭を軽くなでた。よく考えたら同い年なのだからこの行為はおかしいのかも知れない。しかし、リアンは落ち着いてくれた。
「すいません。ところで、この作者の方っておわかりになりますか?」
「確かずっと前に亡くなったって、なあ結花」
飛鳥を部屋に寝かしつけて、戻ってきた結花に訊ねた。
「うん、確か小さなお子さんを残して亡くなったとか言ってたわね」
「小さなお子さん!? 絵本にありませんけど、ひょっとしてミュージィさんの」
リアンにしては珍しい叫び声だ。
「その子供がミュージィさんの子と決まった訳じゃないし、絵本にあることだけが事実じゃないだろうし」
健太郎の言葉を聞いても、リアンはしばらく視線を宙に泳がせていた。
「で、ミュージィさんって人の方こそ、何してるんだ?」
リアンは絵本を持ち直し、リアン自身の左手を見つめた。
「わかりません。
 ……あ、だからミュージィさんのことを覚えていたんだと思います。
 優秀な方だと聞いたのに最近の話を聞かないんです。上のポストに就いているなら話は聞くはずなんですけど」
「後味の悪い話ね」
健太郎はソファーに深く座り直した。
「書いた本人はこの世にいなくて、子供は分からない。
 グェンディーナに帰った魔女は消息不明」
「あ、ええと、グェンディーナでは消息不明ってことはあり得ないんですよ。きちんと管理はされていますから」
「リアンたちみたいにこっち側へ会いに来ることって難しいんだろ」
「難しいです。
 虎レベル以上の魔法使いは、わたしでも全員知っているくらい少ないんです」
ミュージィという人はそのレベルに達していないというわけか。
スフィーに抜かれるとはその人も癪だろう。
健太郎が考えていたことをまるで読んでいたようなタイミングで、スフィーが起きあがった。
「さっきからごちゃごちゃうるさいわね」
「姉さん、起きてたんですか」
スフィーはリアンの言葉を無視して言った。
「リアン、岩融丸ある?」
「え? いえ、持ってきていません」
リアンは服のあちらこちらを探りながらこたえた。
「そっ」そう言いながら、スフィーはソファーから降りて立ち上がった。
「じゃあ取ってくるわ」
言い終える前にスフィーはどこからか飛鳥の背丈ほどある杖を取り出した。スフィーがなにかつぶやくとうっすらとした光を纏う。
「姉さん! そんな急に帰らなくても」
「そもそも岩融丸ってなんだ?」
事態がうまく飲み込めていない健太郎の疑問だった。
「岩融丸は、むかしどこかの世界に派遣された魔法使いが持ち帰ってグェンディーナに広めたお薬です」
「グェンディーナって魔法の国でしょ? わざわざお薬なんて使うの?」
「その……岩融丸というのは」
「岩融丸というのは?」
「消化剤です」
リアンは健太郎と目を合わせないで言った。
「いちいちくだらないぞおい! 消化剤くらいそこの平島薬局にも売ってる」
「食べ過ぎ・飲み過ぎ・二日酔いに良く効く岩融丸が良いのよ!」
杖から発せられた光が、スフィーも包み込んだ。
「姉さん! 健太郎さんの言うとおりです、無駄に魔力は使わない方が」
リアンの言葉も空しく、徐々に光は強くなってゆく。リアンは、握りしめた掌を開いてスフィーに向けた。
「どうしても使うのなら、わたしの魔力を貸します」
リアンの掌から青白い光が走り、スフィーを包む光と混じり合う。昼間だというのに存在感のある光だ。しかし不思議と熱は感じない。
「リアン、ありがと」
光の中でスフィーが微笑んだ。
「すぐ戻るから」
そう言うと、スフィーの身体が浮かび上がった。そのまま上昇を続けて、天井の存在を感じないかのようにすり抜けて行った。
「まったくの気分屋だな」
スフィーの足が消えていった辺りに付いている天井の染みを見つめながら健太郎が言った。
「姉さんお気に入りのお薬ですから」
リアンが苦笑してこたえる。
「あれだけ力使えるんなら胃腸薬なんて要らないと思うんだけど」
結花の疑問ももっともだ。
「岩融丸って薬はそんなに効くのか?」
「ええ」リアンは頷いた。「岩をまるごと食べてももたれないそうです」
健太郎と結花は顔を見合わせた。
「そんなものを食べようとする時点で別のお薬を飲んだ方が良いんじゃないかと思う」
「お前のホットケーキは岩まるごとみたいなもんだったのか」
結花のノーモーションから放ったハイキックが健太郎の後頭部にヒットした。
「さて、午後の店番でも始めましょうか」
崩れてゆく健太郎に背を向けて結花が部屋を出ていく。
「相変わらず、危険なやつ」
うずくまって後頭部を押さえる。
急所は外れたようだ。こぶになるかは微妙なところだろう。
「健太郎さん、大丈夫ですか?」
リアンが頭に手を当ててくれる。
「あいつも年期が入ったから加減は出来てるらしい」
「そうですか」
リアンは健太郎の言葉でさらに心配そうな表情をした。
健太郎にはその表情の意味が分からなかった。
「姉さんも、あっちに帰ったら大目玉ですね」
リアンはそう漏らすと、膝を床につけたままで天井を見上げた。

制御を失ってふらふらとさまよった身体が、鈍い衝撃を伴って止まった。

所々に備えられた灯りのわずかな光を頼って辺りを見渡す。
ぶつかったものを探すには魔法を使った方が早いけれど、まだこちらの世界に身体がなじんでいない。
静かな音が聞こえる。こちらの世界にも水があるようだ。
水の音に混じってかすかな音も聞こえる。音の方を向いてみる。水面に反射した光に一つの影が浮かんでいた。
どうやら人のようだ。少し緊張しながら話しかけてみる。
「なにを、しているんですか?」
「絵を。絵を考えていたんです」
人間は男だった。こちらの人間の習性なのか濡れた額に手を当てて苦しそうな声をしている。
「それで流れ星にぶつかって、土手から落ちたみたいです」
「えっ!?」
ミュージィはことわりもせずに男の額に手を触れてみた。
額に付いていたのは水ではなく粘り気のある液体だった。ここではじめて、その液体特有の匂いをかいだ。
「あの、血が……」
「出ているみたいですね。でも大したことはなさそうです」
「あの……」
ミュージィは一歩下がって出来る限り大きく頭を下げた。これがこの世界で謝罪を意味するはずだ。
「あの流れ星、わたしなんです」
ミュージィが顔を上げると、男が片手で目を押さえながらおずおずとこちらを見た。
「あの、だいぶ変わった服装ですね」
信じていないような素振りだった。
無理もない。ミュージィは携帯型魔道杖を取り出すと大急ぎで印を結んだ。青白い光が杖を取り巻き、それが男へと移ってゆく。
「手当はしてみました。まだ痛みますか?」
男は額から手を離した。そして、まだ血が付いたままの手を不思議そうに眺めた。
「あれ? 痛くない。
 え、えと……その、ありがとうございます」
「ぶつかったのはわたしです。すいませんでした」
ミュージィはもう一度頭を下げた。
「いえ、ぼーっとしていた僕が悪いんです。気にしないで下さい」
そう言うと、男は改めてミュージィを眺めた。
「不思議な、方なんですね」
ミュージィは困惑して応えた。
「流れ星ですから」
「まだ消えていませんけどね」
男は立ち上がろうとして、よろめいた。ミュージィは咄嗟に支えようと手を伸ばす。
「あ、これはぶつかったこととは関係ありませんからご心配なく」
でも、と言おうとしたミュージィを手で制した。
「僕は身体が丈夫じゃないんです。これは誰のせいでもありませんよ」
「あの、それなのにこんなことしてしまって、本当に……」
ミュージィの言葉を男はさえぎった。
「それよりも、どうして空から降ってきたんですか?」
そう言いながら、男は夜空を見上げた。それにつられてミュージィも見上げる。
見たことのない星空だ。星の数はグェンディーナよりかなり少ないだろうか。
「信じてもらえないかもしれないけど」
そう前置きをしてミュージィはいきさつを話し始めた。グェンディーナのこと、魔法学校のこと、派遣のこと、魔法のこと。
暗くて顔はよく見えないが、面白く聞いてくれているようだった。
「すこし、寒くなってきたかな」
話が終わりかけた頃、男が言った。
ミュージィは初めてグェンディーナよりずいぶん気温が低いことに気づいた。そして男が震えていることにも。

「寒い、と言うんですか。あまり快適な温度ではありませんね」
ミュージィの言葉に男は笑った……かに見えた。しかし次の瞬間男の身体がぐらりと崩れた。
「あっ!」叫ぶと同時にミュージィは男を支えた。
男の力は完全に抜けていて、体温はミュージィよりかなり高かった。
「どうしよう……」
誰も聞いていないことは承知だった。
ミュージィは大きく息を吸った。それから、男の掌に自分の掌を重ねた。
掌に付いた血は乾いていて、ミュージィの手を汚さなかった。断りもしない罪悪感を感じながら、記憶を読んでみた。
もちろん、基礎的な部分にとどめて。
「えっ!?」
最初にミュージィが知ったのは、この気温ではこちらの人間も不快だということだった。
身体の弱いこの男はあまり長い時間留まることは身体に障るということだ。
「ごめんなさい」
ミュージィの目から涙が溢れ出た。
自分はなんて思いやらないんだろうと悔やむ気持ちでいっぱいだった。自分への悔しさで男に合わせた手にも力が入る。
「うんん……」
男の鼻から息が漏れた。まぶたが小さく動く。
「大丈夫ですか」
大きな声で呼びかけた。その声に反応してくれたのか、男のまぶたが開いた。
「あ、ああ、ごめんなさい。せっかく、話の途中だったのに」
ミュージィは手に入れた力をさらに強めた。
「ごめんなさい、二度もあなたを……」
「僕は話の続きが聞きたいな」
ミュージィは黙って男の頭を抱きしめた。


「つとむさん、で良かったんですよね」
「ああ、はい」
ベッドに腰掛けたつとむがこたえた。
薄汚れたフローリングの床に散らばった絵具、黒ずんだイーゼル、筆、そして積まれてほこりをかぶった油絵。
ただ一つある東向きの小さな窓から差し込む光が、打ちっ放しのコンクリートの壁に掛けられた風景画を照らしていた。
「あの、君は?」
「昨日からさんざんご迷惑をおかけしました。言うのが遅れましたが、ミュージィと言います」
ミュージィはまた頭を下げた。
「ミュージィさん、ですか」
つとむはかみしめるように口の中でその名前をつぶやいた。
「良い名前だと思いますよ」つとむははにかむような笑顔を見せた。
「ここに運んでくれたのはミュージィさん?」
「ええ、その」
ミュージィは胸元で右手を握りしめた。
「ありがとう、重かったでしょう」
つとむはわずかに反動をつけてベッドから立った。
足下を見ずに障害物を避けながら部屋の西側にある流しへ向かう。
「朝ごはんはパンと卵で良いですか?」
ミュージィが応える前に、つとむは冷蔵庫から卵を取り出し、フライパンに落とした。
卵が焼けるまでに食パンを2枚差しのトースターにセットする。ミュージィはその後ろ姿を黙って眺めていた。
「こんなものしかなくてわるいんですけど」
そう言いながらつとむが並べた朝食は、ミュージィが初めて見るものばかりだった。

白い四角の表面が焦げたもの。
沈む少し前の太陽の色と形をしたものが白くて弾力のあるものに浮かんでいる食べ物。
そして、黒いお湯。
どれも香りは良い。

「え、い、いただきます、で良かったんですか?」
講習でならった食事の際のあいさつをする。
「はい、どうぞ」
あいさつはしたものの、食べ方が分からない。
仕方がないのでつとむをしばらく観察し、おずおずと真似てみる。
当たり前だが、初めての味。悪くはない、というより香ばしくて柔らかくて、ほんのり甘い。弾力のある食べ物は、やさしい味。
「おいしい……」
ミュージィが漏らした言葉につとむが微笑んだ。
「どうも。でも、まるで初めてパンや卵を食べたみたいな顔をしてる」
ミュージィはちぎったパンを手にしたままつとむを見た。
「いや、ごめん。あんまり美味しそうに食べるんでつい」
つとむは笑って、コーヒーをすすった。
ちぎったパンを皿に置いてミュージィは目を伏せた。
「本当に初めてなんです」
コーヒーにむせてつとむは咳き込み、ようやく開けた片目でミュージィを見た。ミュージィはつとむを真っ直ぐに見つめた。
「むこうの世界にはこういう食べ物はありませんから」
「すごいな」
かみ合っていない反応に、ミュージィは戸惑った。つとむは察したのかすぐに言葉を続ける。
「本当にそういう人が僕の目の前にいるって事がすごいんです」
「わたし、変、ですか?」
つとむはかぶりを振った。
「こっちの世界でも綺麗な人で通用しますよ」
「そういう意味ではなくて……」
ミュージィは首をすくめながら出来る限りの小さな声で反論した。
「あ、違う世界から来たってことですか」
つとむは笑顔のままゆっくりとコーヒーカップを持ち上げた。
「僕は嬉しいんですよ。そんな世界にずっと憧れていましたから。
 そんな世界の人がこんなに綺麗な人だったことが嬉しくてたまらないんです」
そう言ってコーヒーに口を付けた。
「僕は絵を描いているんです。僕が憧れるそんな世界の絵を。
 もしミュージィさんがご迷惑でなければ」
つとむはカップを置いた。ミュージィと目を合わせる。
「もっと、話を聞かせてください」
安堵と驚きがミュージィに訪れた。
自分のことを認められたことと、相手は仮にも男だと言うこと。
しかし、興味を持ってくれたことを反故にしたくない気持ちと、少しはこの人の役にたたなければいけないという気持ちがまさった。
「はい、しばらくでよければ」
「そうですか」
つとむは鼻歌でも歌い出しそうな顔でコーヒーを飲み干した。
「あ、そうだ」
空のカップを前にして、つとむは急に深刻な顔になった。
「あ、僕は風邪をひきやすいみたいなんで、この部屋で熱とか出してもあんまり気にしないで」
ミュージィは、「はい」とだけ返事をすると、つとむが美味しそうに飲んでいた黒い液体に恐る恐る手を伸ばしてみた。

大きなくしゃみの音が響いた。
「……風邪、ですか」
鼻をすすって壮年の男が応える。
「いや、花粉症だ」
「大変ですね」
健太郎の言葉が終わる前に、壮年の男はカウンターの前から五月雨堂の店内を一望する。
「あの絵はなんだ?」
店の奥にある一枚の絵を指さした。この間、骨董市で仕入れた品物だ。
「ええと、大正時代の港を描いた油絵ですよ。ただし、贋作ですけどね」
「ずいぶんと正直だな」
振り返って壮年の男は健太郎を見据える。
「高倉さんに嘘をついても無駄でしょうから」
健太郎の言葉に高倉と言う男はふふ、と笑った。笑うと鋭い目が細くなる。
「ではな、失礼した」
眼鏡にかなう品物がないと分かると颯爽と出て行く。毎度のことだが、健太郎は割り切りの良い常連として好感を持っていた。
「ごめんください」
高倉と入れ違いに、もう一人の常連がやってきた。高倉より十歳ばかりは若そうな、恰幅の良い紳士である。
「あ、牧部さん。いらっしゃいませ」
高倉とは違い、彼は一つ一つの品を吟味するように眺めながら店を一巡する。
「おや」
足を止めた。高倉も目をとめたあの一枚の絵だった。
「この絵は……」
「ええ、大正時代の港を描いたものだそうです」
贋作、ということは説明から省いた。
「どこかでこれを見た覚えがあるような」
絵に話しかけるように牧部は言った。
「どこかの美術館で本物をご覧になったんですか?」
「ということは、これは贋作ですか?」
失敗だ。健太郎としたことが要らぬ事を口にしてしまった。後悔しても仕方がないので、それを認める。
「そうですか、それにしてもなにか懐かしい気がします」
牧部はそう言いながらポケットティッシュを取り出し、鼻をかんだ。
「花粉症ですか?」
「いえ、風邪なんです。妻も風邪をひいていましてね、娘は入院までしてしまいました」
健太郎は一瞬、言葉に詰まった。
「た、たいへんですね」
やっとのことでそれだけ言うと、その話題には触れないようにした。牧部も要らぬ事まで喋ったと悟ったのか、その話はもうしなかった。


「健太郎さん、ちょっとよろしいですか」
牧部が帰った後、お客の居ない店内にリアンがやってきた。
言うまでもなく暇なのでリアンにカウンター内側の椅子を勧める。リアンは「ありがとうございます」と小さな声で言うと、椅子に浅く腰掛けた。
「姉さんが居なくなって分かったんです」
健太郎は「なにを?」と先を促した。
「この世界には、わたし以外に魔法を使える誰かが居るみたいです。もしかすると何人か」
「グェンディーナから派遣されてるんじゃないのか?」
健太郎は、意外な事実にありがちな結論をとりあえず示した。しかし、リアンは首を振った。
「それは無いはずです。一応、わたしも調べておきましたから」
「ふーん」健太郎は話の重大さを図りかねたので生返事だけ返すことにした。
「しかしさ、リアンって割とグェンディーナ内部の事情に詳しいんだな」
何気なく言ったこの言葉に、リアンはかなりの動揺を見せた。笑う理由もないのにぎこちない笑顔まで浮かべている。
「まぁ、どうでも良いんだけどさ。それで、どうしたの?」
「ええ」リアンは、軽く息を吸った「ずっと前に、わたしが姉さんを訪ねてこっちの世界に来たことは覚えていますよね?」
あの時はリアンがスフィーを探して世界中を飛び回ったとかで、この街に来たときのボロボロになっていた姿を思い出し、健太郎は苦笑した。
リアンはそれをイエスのサインだと受け取ったらしく、話を続ける。
「あの時は姉さん以外に魔法を使える人が居なかったはずなので、魔法が作る歪みを探して、どうにか姉さんに会うことが出来ました」
その割には、さんざん迷っていたことは不問にしておこう。
「で、スフィーが居なくても誰かが魔法を使ってる、と」
「そうなんです」
リアンが強い口調で認めた。
「でもさ、それって何か問題があるの?」
リアンは俯いた。
「グェンディーナからの逃亡者だった場合は……処罰対象になりえます」
「処罰? でもわざわざ魔法の無い世界に来てるんだぜ、ちょっとくらい目をつぶっても良いんじゃないのか?」
リアンは両手を力強く握りしめた。
「この世界で悪用したらどうなるんですか!」
気迫に負けて、考えてみることにした。魔法が勝手に使われたら、物理学会は大騒ぎで新橋あたりにある出版社が喜ぶかも知れない。ではなく、武装しているも同然の人間に我が物顔で通りを歩かれるのは愉快ではない。
「ちょっと嫌かな」
「少しだけではなく、世界は大変なことになりかねません」
ならば、何故こっちの世界に派遣などするのか健太郎にはいまいち理解できない。
「それで、リアンはどうするんだ?」
リアンの声が大きくなった。
「健太郎さん。姉さんが帰ってくるまで探してみようと思うんです」
「探して、どうするんだ?」
リアンは目をそらして、いつもの声の大きさに戻る。
「もし見つかって、危険と判断されるなら」
リアンは右手をほどくように開いた。
「出来れば封じ込めようと思います」
「封じ込める?」
「ええ、力を封じる魔法もあるんです」
そう言ってから、急にリアンは笑顔になった。
「わたしでは無理なようでしたら、姉さんを待って交代してみます」
「そっか」
スフィーを信頼するこの顔を見せられると、健太郎は何も言えなくなる。
「行って来ればいいよ。あ、だけど」
「はい?」
「いつも、遅くとも晩飯には帰って来いよ」
リアンはさらに良い笑顔を作った。
「はい、健太郎さん」

「話を聞かせる」ということが、時々訪ねてくるということと、しばらく滞在するということで最初に誤解があったが、結果的にミュージィがつとむの部屋に住んでしまうということで落ち着いてしばらく経つ。
つとむとはかなり上手くやっている。
最初のうちは、つとむがミュージィの話を聞きたがったが、今ではつとむに話をしてもらう方が多い。
この世界のことに興味は尽きないし、つとむの穏やかな話し口が、ミュージィにとって心地よいものだった。
いまでは、つとむにならった晩御飯の買い物がミュージィの役割だ。
その日、買い物から帰ると誰かの靴が玄関にあった。
玄関と部屋の間には仕切がないので、部屋の中に居た二人の目がミュージィに集まった。
つとむと、もう一人は始めて見る人だった。
「この人がさっき話してた」
「そう、ミュージィさんって言うんだ」
つとむが銀色の腕輪を着けた手でミュージィを示す。ミュージィはスーパーの袋を下げたまま、二人の間に入った。
「ミュージィです。よろしく」
お辞儀をすると、スーパーの袋が床についた。
「こっちは、僕の弟なんだ」
「よろしく」
銀縁の眼鏡を掛けたつとむの弟は、つとむより体格がしっかりしていて健康そうな人だった。
「絵の勉強をなさっているそうですね?」
つとむの弟が、ミュージィに声を掛けた。絵の勉強に日本に来たと、口裏を合わせることになっていたのでそれを認める。
「弟は日本画が好きなんだ」
「いえ、日本画だけでなく骨董品が最近面白くなってきまして」
そう言いながら、ショルダーバッグから桐の箱を取り出した。
「この間、手に入れたんです」
「へえ、萩焼か」
つとむがそれを手にとって中を覗き、テーブルに置く。
「あの、骨董品ってなんですか?」
「ああ、昔の芸術品や道具のことです。兄さんの絵もあと百年もすれば骨董品ですよ」
つとむがなぜか苦笑していた。
「ほめられてるのかけなされてるのかわからないなぁ」
つとむの弟は、その言葉に取り合わずに部屋の奥に向かった。
「じゃあ、最近兄さんが書いた絵でも見せてよ」
そう言いながら、勝手に積まれた絵を物色し始める。
「うーん」つとむの弟はその全てに難色を示した。
「やっぱり、絵って難しいんだね」
つとむの弟の言葉に、つとむは複雑な顔をする。ミュージィにもその理由が分かった。
「あ、あれは良いんじゃないかな」
つとむの弟が指したのは、壁に掛けられた絵だ。前にはそこに、風景画が掛けられていた。
「それは模写なんだ。だからあんまりほめられてもな」
つとむの弟も言葉に詰まったようだった。
「でもそれは、昔の南方航路でミラノまで行く船の出航を描いた絵なんだ。
 そこから陸路でパリやベルリンに行く人たちも描かれてる」
「兄さんの好きそうなモチーフだね。結局、別の世界に行くってところが」
つとむは笑ってかえした。
「なら、あれをもらうか」
「なんだよいきなり。今まで僕の絵なんていらないって言ってたじゃないか」
「ああ、うん。
 お祝いにだよ、兄さん。
 ……実はそろそろ結婚しようかと思うんだ」
つとむは目を丸くした。ミュージィも改めてつとむの弟を見た。
「結婚って、お前がか?」
「そうだよ。兄さんも最近調子が良いみたいだからあれを越える絵だってたくさん描けるだろ?」
「確かに、調子が良いって言えば良いけど」
つとむはそう言いながら、腕にはめられた銀の腕輪を見て、ミュージィに微笑んだ。
「あんな絵じゃ悪いから、他になんか描いてあげるよ」
「そう? それもなんだか悪いね」
つとむの弟は、テーブルに戻って桐の箱を両手で持ち上げた。
「実は、この萩焼も大学の助手をしてる先輩からもらったんだ」
「へえ、本物?」
「そうだと思いたいよ」
つとむの弟は、底をのぞき込めるように、箱を傾けた。すると
「えっ!?」
まるで、スローモーションのように何もまとわない茶碗がフローリングへたたきつけられ、あとから付け足したように、高い音が幾重にも重なった茶碗の断末魔が聞こえた。
「ああっ!?」
先に声をあげたのはつとむだった。
つとむの弟は事態を飲み込むことを拒否しているのか、側面が一カ所外れた箱を手にしたまま立ち尽くしていた。ミュージィもなにを言えばよいのか分からなかった。
「記念に貰った大事なものなんだろ。
 たぶん、僕の絵なんかよりもずっと価値のある」
つとむがめずらしく取り乱している。
「ああ」
つとむの弟は焦点の合わない目をしながらその場にしゃがみ込んだ。
「取り持ってくれた先輩が縁起かつぎにくれた夫婦茶碗」
「じゃあ片方は向こうに?」
つとむの言葉に力無く頷いて、ゆらりと立ち上がった。
「兄さん」
ズボンを三度はたいて、歩き出す。
「悪いけど、今日は帰るよ。頭を冷やして出直してくる」
つとむは引き留めなかった。ミュージィは言葉無く、彼の後ろ姿を見送った。


「夫婦茶碗ってどういうものなんですか?」
座り込んでいるつとむに訊ねた。
「風習ってほどみんながやるものじゃないんだけど、二つで一組になっていて、好きな人に片方を持って貰う茶碗なんだ」
「じゃあそれを割ったと言うことは」
顔をのぞき込もうとするミュージィを阻むかのように、つとむは首を垂れた。
「相手の人が迷信深く無ければいいな」
ミュージィは、手のひらに茶碗の欠片を乗せてみた。ぼんやりと、なにかを感じる。
「つとむさん」
茶碗の欠片に目を凝らしながら言った。
「この茶碗は古いものなんですね」
「本物だったら、古いものかもしれない」
「本物かどうかはわたしには分かりませんが、古いものだと分かります」
ずっと、そのままの形でいたという形跡を感じる。
「この茶碗。わたしにあずけてくれませんか?」
つとむがミュージィを振り向いた。驚いた顔をしている。
「ひょっとして、直せる?」
ミュージィは俯いた。
「分かりません。元々の形がどうにか分かる位ですから。その前に、茶碗というのはこう、まあるいもので良いんですよね」
「そう。お茶を入れるものだからこう窪んでるんだ」
つとむが身振りで形を示す。
「わかりました」
ミュージィは目を閉じて、詠唱した。
『あるべき所へ戻れ』
そんな意味の呪文だった。
目を開くと、底のない筒に取っ手の付いたものが手のひらに乗っていた。
「少し、違うかな。でもすごいよ、簡単にくっつくなんて」
「でも、上手くいかなかったんでしょう?」
つとむは組んだ腕に頭を埋めた。
「そうだ! 僕はさっき一度だけ茶碗を見たんだから、それを思い出せば良いんだ。
 僕を運んでくれたとき、この部屋を記憶から読んでくれたんでしょう?」
ミュージィはいびつなものを落としそうになりながら、つとむを見つめた。
手に汗が滲んでいた。ミュージィがなるべく使わないでいた魔法のことだ。
「あれはあんまり使いたくないんです」
「だけど、そうすれば茶碗は直せるかもしれないんでしょう」
つとむはなおも食い下がる。ミュージィはしぶしぶ認めた。
「良いんですね」
真っ直ぐな眼差しでつとむを見つめた。つとむはそれを返してきた。
「わかりました」
ミュージィはいびつなものをテーブルに置いて、つとむの顔の前に右の手のひらをかざした。
「思い浮かべて下さい」
つとむが目を閉じる。ミュージィは手のひらに集中した。
象牙色のものがミュージィの頭に入ってきた。柄は青い笹のようだ。
それで十分だった。しかし、ミュージィはもう少しだけ余分につとむの心を読んだ。
「もう良いですよ」
つとむに声を掛ける。ミュージィは頬に血が上るのを感じた。
「で、僕の記憶で出来上がりそう?」
「ええ」
ミュージィはつとむから目をそらして応えた。
あわてた動作で、茶碗になりそこねたものを取る。手のひらの汗で滑ったものを危うく受け止めた。
「大丈夫?」
つとむが顔をのぞき込む。それを避けるために姿勢を変えてミュージィは詠唱を始めた。
純粋なイメージが浮かばずに、他の感情も交じる。それでも詠唱を止めずに、最後まで行った。
「良いよ。僕の勘違いかも知れないけど、前よりも良いみたいだ」
ミュージィが目を開ける前に、つとむが声をあげた。
目を開けると、手のひらには色合いが暖かめになり、輪郭が柔らかくなった茶碗が乗っていた。
「あの、元通りにしないといけませんよね。もう一度やりなおしますから」
ミュージィの言葉につとむは「うん」とは言わなかった。
「取りあえずあいつに見せてあげよう。うんと、なにか入れるものは無いかな」
つとむは部屋の中を見回すと、スーパーの袋に目をとめた。
「あれでいいや。
 ミュージィ、君も来て。僕が自転車を運転するから」
つとむは片手にスーパーの袋を下げると、もう片方の手でミュージィを引っ張った。
ミュージィの頬にまた血が集まり始めた。


つとむの自転車が車体をきしませながら猛スピードで河原を駆けた。
十分くらい走っただろうか、橋の欄干にもたれて川面を眺めているつとむの弟を見つけた。
つとむは、大きな音をたてて急ブレーキを掛けた。ミュージィを先に降ろして、自転車を倒すと駆け寄っる。
「忘れ物だよ」
つとむがスーパーの袋を手渡した。
「ああ、割れた茶碗の欠片ならそのまま捨てちゃっていいよ。掃除しないでごめん」
「そうじゃないって、見てみなよ」
つとむの弟は疑わしげにスーパーの袋の中に手を入れた。たちまち驚愕の表情に変わる。
「まさか」呟きながら、手に触れたものを袋から出した。
「ミュージィがしてくれたんだ」
つとむは弟の表情を見ながら言った。
「だけどどうして……ひょっとしてこれは代わりのもの?」
信じられない様子でミュージィを見た。
「僕が萩焼なんて持ってないのは知ってるだろう」
「さっきは酷いこと言ったよ。ごめん」
つとむの弟は軽く頭を下げるとミュージィの側に来た。
「あの、どういうことか分かりませんがお礼を言います」
「そんな、あの、わたしは大したことをしたわけじゃ」
ミュージィは片足を一歩引きながら応えた。あまり深く追求されることが怖かった。
「あなたが来てくれてから、兄は元気になりましたし私の茶碗は直して頂けるし。不思議な方なんですね」
「あの……」
ミュージィは右手を軽くあごに当てて俯いた。つとむの弟はミュージィの左手をとった。
「出来ればこれからも兄をよろしくお願いします」
そう言うと、つとむの方を向いて意味ありげな笑いを浮かべた。
ミュージィはその意味が分かってしまい、上気した顔を見られないためにも、俯いたままでいた。隠れようとしている夕焼けのせいに出来るかどうか、難しいと思った。
「この茶碗。前よりも気に入りました」
つとむの弟が、茶碗を入れた袋を片手に、ゆっくりとした足取りで橋を渡ってゆく。
つとむは落ち着かない目でそれを見送っていた。

「くぅおんんぬぉ、ぶぅわっかもぉぉぉぉぉぉん!」
人気のない公園に降り立ったスフィーの頭に、突き刺さるような大声が響く。
これだけの大声が可能なのは、王家にのみ許された遠隔通話の帯域を使用しているからだ。
「うるっさいわね! ちゃんと無事に帰ってきたから問題ないでしょう!」
相手の見えない遠隔通話なので、やり場のない叫び声は空に向けておく。
「あの魔法はおいそれと使うなと言うておろうが!」
「レベルを上げるために覚えちゃったもんはしょうがないじゃない」
「王家の人間ともあろう者が、節度を守らんでどうする!」
むっとしたスフィーが視線を下げると、少し遠くに「魔法を正しく使って明るい生活」という大型魔力掲示板が目に入る。
きっと風紀組織委員会の予算消化目的だ。
「節度を見極めるために、試してみるのも必要よ」
「ったく、突然消えたお前を捜すためにどれだけ苦労したのか分かってるのか」
「苦労したのは捜索局でしょ、死ぬほど暇だったんでしょうから命拾いしたのを感謝して欲しいわね」
「口の減らないヤツだ」
「おじいちゃんと血が繋がっているからね」
小さなうめき声が聞こえる。きっと王宮の奥で苦虫をかみつぶした顔をしているんだろう。
「言いたいのはそれだけか?」
スフィーはワンピースの裾をつまんで、礼の姿勢をとった。
「スフィー=リム=アトワリア=クリエール、ただいま帰参いたしました。……これで良い?」
参ってはいないけどね。スフィーは心の中で舌を出した。
「リアンはどうした?」
「あとで迎えに行って来る」
相手の息づかいが大きくなった。帯域をさらに増強したかもしれない。スフィーは耳を押さえて目をつぶる。
「くぅおんんぬぉ……くぅおんん……この……ふぅ」
「?」
何もないとは知りながら、辺りを見回す。
「スフィー、あまり老人をいじめるな」
「おじいちゃんも、あまり孫に怒鳴らないでよ。あたしは向こうにやり残したことがあるんだから」
「ほう。なんだそれは?」
「今は秘密。知りたかったら王室教育の期間を短くして」
向こうからため息が聞こえる。
「出来ない相談はしないことだ。それで、済んだら戻って来るんだろうな」
「もちろん」
「出来るだけ済ませろよ。早く縁談を決めないといけないんだからな。いい加減遅すぎるくらいだ」
「うっ」
スフィーとリアンは早いところ結婚して王家の未来を盤石にしろと言われていた。
「その……縁談の話を聞いてあげるからお願いがあるんだけど」
向こうの空気がまた不機嫌なものになったと分かる。
「なんだ? また無理難題か?」
「せっかく捜索局が働いてるんだからもうちょっと働いて貰いたいの」
「なんの実験台にするつもりだ?」
向こうが問題にしているのは、かつてスフィーが魔法の練習として行った数々の武勇伝のことだろう。
さすがに、暇そうだからと選んだ戸籍局の職員を全員透明に変えた実験は確かに問題がありすぎた。
「そうじゃなくて、人捜し。ミュージィって人を捜してるの」
「ミュージィ? 豹レベルの魔法使いで昔は優秀な魔導士を期待されてた人間だが、ミュージィになんの用事がある?」
「だ〜か〜ら、やり残したことに関係があるの」
「お前に教えると、リアンが早く帰って来るんだな?」
「もっちろん! 明日にでもリアンがおじいちゃんの肩をもんでくれるわよ」
向こうで、大きく息を吐く音が聞こえる。
「わかった、調べて置いてやろう。ただし、リアンと一緒に縁談の用意はして貰うぞ」
「へいへい」


「第七ブロック、気象調整署……って、優秀な魔導士になれそうだった割に地味なところに居るわね」
スフィーの力でも一日の十分の一くらい費やす所に、その半球系の建物はあった。
「すいませ〜ん」
受付にいる若い女性職員に声を掛ける。
「はい? え! す、スフィー……様?」
「やだなぁ、そう固くなんないで。あたしは公用で来た訳じゃないから」
スフィーの顔を知っていた女子職員に軽く手を振って言う。
「い、いえ。はい……」
『もう少し王家に相応しい言葉遣いをせんか!!』
「うっさいわね!」
どうやら監視していたらしい祖父に怒鳴って、魔法を解除する。
スフィーの前では怒鳴られたと勘違いしたらしい女子職員がひたすら恐縮していた。
「あ、ごめんね。今のはちょっとおじいちゃんに言っただけだから」
おじいちゃん、が国王を意味すると知ってか、さらに身を縮める。
スフィーは彼女に用件だけ告げることにして、早く立ち去ろうと決めた。
「えっとさ、ミュージィさんって居るでしょ?」
「はい、調整室室長ですけど……何か?」
女性職員は上目遣いでスフィーを見る。体は半分正面から外れた姿勢だ。
「用事が有るんだけど、会わせてもらえるかな?」
「は、はい。ちょっとお待ち下さい。ええと、ではこちらへ……」
本人に確認も取らず、女子職員は受付から出てスフィーを案内する。身体の動きがぎこちない。
二層目の部屋の前に立って、女子職員が扉を叩いた。グェンディーナには無い風習だがミュージィがさせているのだろう。
「はい?」
扉の向こうから落ち着いた声が聞こえる。
「ウィスディアです。あの、お客様をお連れしました」
「お客様?」
扉の向こうで短い沈黙があった。
「いいわ、お通しして」
「どうぞ」
ウィスディアが扉を開けると、深緑の厚い衣装をまとった女性が机の横に立っていた。
髪はブロンドで短めの巻き毛。瞳の色も緑がかかっている。
「はじめまして、スフィー様」
ミュージィがうやうやしく礼をする。つられてスフィーも礼を返す。
「それで」
ミュージィがスフィーに催促するような言葉を言った。が、
「わたしは賛成出来ません」
突然、しかし落ち着いた言葉のままそう言い放った。
「えっ!?」
スフィーはあわてて魔法の壁を作り、ミュージィを見つめた。
穏やかな微笑みをたたえているような顔だ。見た目は伝えられた年齢にしてはかなり若い。
「そんなに驚きにならなくても、私が読んだのは『向こうの人間の記憶を消す』というところだけですから」
ミュージィはそう言うと、いぶかしげな表情をするウィスディアを見た。
ウィスディアは、その視線に追い立てられるように、一礼して部屋から出て行く。
「そんな、あたしは少しそういう相談をしてみようかと思っただけですよ」
ミュージィは静かに目をとじた。
「王女陛下の恋愛相談ですね」
スフィーは身を固くした。
「けんたろ、というのはどなたですか?」
スフィーにとって話しづらいことを読まれていることを知った。
読まれていたことも、読む能力のある人間が目の前にいることにも恐怖のような感情を覚えた。
「ど、どこまで知ってるの?」
「さあ?」
ミュージィは後ろを向いて、机に左手をのせた。
「あなたが。あ、すみません。スフィー様が派遣されたとき、けんたろという方に恋をなさった。
 そしてあきらめきれずにもう一度会いに行った。だけど向こうはもう身を固めていた。
 だけど同じような境遇でグェンディーナに帰ったミュージィという人を知った。その人は諦めているようだった。
 それで意見を聞きたいと思って適当な理由を付けてこんなところまでやってきた」
ミュージィは窓からの光を浴びながらゆっくりと振り向いた。「違いますか?」という目をしている。
「そのとおり。です」
後ずさりたい気持ちを抑えてスフィーが応えると、ミュージィは微笑んでいるような表情に微笑みを重ねた。
「そんなことまで知ってしまったおわびに、少しだけわたしのお話をしてさしあげます」
ミュージィはそう言って、また背を向けた。
「確かにわたしは、グェンディーナに帰ってから、一度も向こうに行っていません」
ミュージィは机においた手を軽く握った。
「スフィー様がお考えになったとおり、わたしは向こうの世界の恋をあきらめました。
 だけどですね、私からあきらめた訳じゃないんです」
握る手に、徐々に力がかかってゆく。
「スフィー様もなさったと思いますが、わたしはつとむにお互いを確認出来る魔法を掛けておきました。
 もちろん、つとむには魔法は使えなかったのでわたしの一方通行でしたが」
握りしめた手を、宙に浮かせた。
「ある日。
 ……ある日、相手の『想い』が消えたんです。
 規則どおり、記憶を消す魔法をかけても消えないでいてくれた想いが消えたんです。
 スフィー様のようにいつか次元跳躍の魔法を修得しようとしていたわたしは、それでむこうに行く理由が無くなってしまいました。
 つとむは穏やかな優しい人でしたから、きっとなつみと一緒に仲良くくらしているでしょう。
 わたしはつとむの思い出になれて嬉しく思っていますから、今さらつとむの心を乱しに行きたくはないんです」
握りしめた手で、机を叩いた。しめった音が部屋に響いた。
「なつみというのが、相手の人?」
「いえ」
ミュージィは一歩窓の方に足を踏み出した。
「わたしの、娘です」
「ええ!?」
スフィーは思わず大声を上げてしまった。
「それじゃあ、グェンディーナの血を引く人間が向こうにもいるってことなの?」
「ええ、それだけがわたしの心残りなんです。あの娘が元気にしているかどうかが」
スフィーは右手で頭をかいた。
お互い、誤解をしていることに気づいてしまった。
「ミュージィさん。
 そこまで読まなかったみたいだから、あたしが言うのは辛いんだけど……
 その、つとむさんって人はずっと前に小さい子供を残して死んだって」
「ええっ!?」
ミュージィは勢い良く振り向いて、スフィーに詰め寄った。「それは本当なの?」
肩をつかまれたスフィーが顔をしかめながら応える。
「あたしはそう聞いただけなんだってば」
「それじゃあ、なつみは……」
ミュージィはスフィーを離し、胸元を押さえた。
「わたしがつまらない思い違いをしていたせいで、つとむが居なくなってからずっと一人で」
「それは分からないけど」
スフィーはしばらく黙ってミュージィの震える小さな背中を見ていた。
「あの。ミュージィさん」
返事はない。
「えっと、変な相談持ちかけちゃってごめんなさい。
 それと、やっぱり、そんなに簡単に諦められるのは嘘だよね。ミュージィさんのお陰でよく分かった。
 で、その、今度はあたしがミュージィさんの事をしてあげたいんだけど、わたしの力で向こうに行くっていうのは……」
「結構です」
ミュージィが泣きはらした目を上げた。
「ずっと、放っておいたわたしが、なつみに会う資格なんてありません。
 酷い母親の顔をさらされてもなつみが可哀想なだけです。
 そんなことをするのはグェンディーナの掟に背きます」
「そんなことは……」
スフィーが言いかけたとき、突然、部屋の扉が開いた。
「そんなことはありません!」
ウィスディアだった。飲み物を運んで来ようとしたときに話を聞いたようだ。
「そんなことはありませんよ、ミュージィさん」
飲み物を乗せた盆を廊下に置いたまま、ウィスディアはミュージィに駆け寄った。
「ミュージィさん。
 あたしだって、この歳になってもお母さんに甘えたいときだってあります。
 そんな、ずっと会ってなかったのならなおさらじゃないですか」
「ウィスディア。子供ね」
ウィスディアはむきになってこたえていた。
「子供ですよ。
 あたしは子供だから、そのミュージィさんのお子さんがいくつか知りませんけど、きっと会いたいってことが言えるんです」
「ミュージィさん」
二人のやりとりを見ていたスフィーが口を開いた。
「ごめんね、今ミュージィさんの心が無防備だったから少しだけ読ませてもらったよ。
 机の左側下から三段目の引き出しに、なにが入ってるかわかっちゃった」
ミュージィとウィスディアがスフィーを振り向いた。
「あれは……」
涙目のミュージィが俯く。
「やっぱり、掟を破ってもなつみさんに会いたかったんでしょ」
「あの、なにが入っているんですか?」
スフィーは話の次元に戸惑うウィスディアを手で制して、ミュージィに一歩近づいた。
「そう……わたしは、せめてなつみだけにでも会いたかった。
 でも他の人と暮らすつとむを見るのは辛かったし、わたしはうまれてすぐのなつみと別れただけの母親。
 何度もそう自分で押しとどめて、今日まで……スフィー様さえいらっしゃらなければ」
「おじいちゃんのせいでこんなことになっちゃったんだし、あたしのせいなら責任とるから、ね」ウィスディアに同意を求めた。
「行ってあげてください」
ウィスディアの泣き出しそうな声が部屋の中の音全てのように思えた。
「スフィー様」
ミュージィがスフィーを見上げた。
「ご自分のことはご自分で解決するという約束なら、向こうに参ります」
「ミュージィさん!」
ウィスディアがミュージィに抱きついた。スフィーは肩の力を抜いて息を吐いた。
「まったくもう、素直じゃないんだからさぁ」スフィーは心の中で呟いた。
「その言葉、そのままお返しします」そんな台詞が聞こえた。スフィーは苦笑した。

港の見える病院にミュージィは居た。

産まれたばかりの赤ん坊の横。
ようやく会えた顔。ずいぶんと痛い思いをした。
悲しいけれど、心のどこかでこの日が来ることから逃げることを望んでいた。
何もなかったら、あの小さな顔に思う存分ほほえみを誘われてみたかった。
その願いがかなうのは、たぶん遠い。
そう思うと、真っ直ぐな眼差しを注ぐのがためらわれた。

「ミュージィ、僕たちの子供なんだよね」
ベッドの上からゆっくりとつとむに頷いた。
「つとむ……」
うまく回らない口がもどかしかった。
「わかってるよ、でもすぐに帰ってくるんだろう?」
ミュージィは掛け布団で顔を覆った。
特例は、ミュージィの出産まで。それを終えたミュージィには、いつ帰還の魔法がかけられてもおかしくはない。
「きっと、きっとミュージィみたいに器量の良い女の子になるから。いつでも帰っておいでよ」
つとむの空元気の声にも、涙が邪魔をする。
「あぁ、良かった。可愛い女の子で。
 兄さんみたいな男が産まれたらどうしようかと思った」
つとむの弟が息を切らせて病室に入ってきた。
場違いな雰囲気に気づいたのか、病室内を見回す。
「あれ、兄さん? ミュージィさん? どうしたんです?」
「ああ」
つとむは、相手を向かずに声を絞り出した。
「ミュージィは、本当は国に帰らなくちゃいけないのに、子供が産まれるからって延ばしてたんだ。
 だから、すぐにでも帰る支度を始めないといけない」
「そんな……」
つとむの弟はつとむとミュージィの顔を交互に見た。
「ごめんなさい、いままで黙っていて」
布団の中から言うせいなのか、ミュージィの声はいつもより柔らかく響いて、かえって悲しかった。
「兄さん、この子の名前は付けました?」
つとむの弟は、明るい声で話題を変えた。
「いいや、まだ」
「ミュージィさん」
布団をかぶったミュージィに聞こえるようにか、大きな声で言う。
「ミュージィさんがこの子の名前を付けたらどうですか?」
ミュージィは泣きはらした目を布団から出した。
横を向く。自分の子供が別れも知らずに、静かに眠っていた。冷たい風が、窓を鳴らす音がする。
「……寒いのはいやだから。夏、かな。
 それと、綺麗になって欲しいって願うのは、なんていう名前が良いんですか?」
「美しいという字を入れると良いんですよ。美夏とか夏美というようになります」
つとむはその横から赤ん坊の顔を見つめた。
「なつみ……」
「夏美、か。だけどミュージィ、漢字の名前で良いの?」
ミュージィは黙り込んだ。が、その時
「!!」
ミュージィの体をぼんやりと光が包んだ。
「ミュージィ!」
「ミュージィさん、これは一体?」
こんなに早く魔法が発動するとは思っていなかった。もう時間がない。
まだなつみを一度も抱いていないことに気づいた。
「つとむ! なつみを、なつみをわたしに」
おどおどするつとむの代わりに、つとむの弟がなつみを抱いてミュージィへよこした。
なつみを抱きしめる。小さななつみの暖かさが、体中に広がった。
急に動かされたことに驚いたのか、なつみが大声で泣き始めた。
「つとむ、忘れないでね。かならず帰ってくるから。
 それと、つとむの弟さん、お世話になりました。それから……」
言いたいことが上手く言えない。
時間はいつまであるのだろうか。言い終えることが出来るのか分からないので言い出すことも出来ない。
「ミュージィさん、なつみちゃんのことは僕も責任を持ちます。
 兄さんだけじゃ大変な時には僕たちもお手伝いしますから」
ミュージィの胸が詰まった。言いたいことの代わりに涙が頬にあふれ出す。
「あり……が……とう」
ようやくそれだけ言うと、なつみを抱きしめる腕に少しだけ力を込める。
「また、すぐに会おうね」
言い終える前に、ミュージィの腕からなつみが消えた。
目を開けると色のない空間に一人で浮かんでいた。なつみの温もりだけは、まだ腕と胸に残ったままで。

「ミュージィさん、べつにここじゃあ目をつぶらなくても良いんだってば。
 どうせ大したものは見えないんだから」
次元を移動する空間に入ってからずっと目を閉じたままのミュージィをスフィーが不思議がる。
「何も見たくないときだってあるのよ」
次元跳躍の魔法を使うと、この空間を通らなければならないことも、この魔法を使いたくなかった一つの理由だった。
どんどん冷めてゆくなつみの暖かさを思い出しそうで。出口はあの場面に出会ってしまいそうで。
スフィーがミュージィの手を引いた。驚いて手を引っ込める。
「ミュージィ、さん?」
「あ、ごめんなさい」
スフィーはあまり気にしていないようだった。
「そろそろ、出口だよ」
ほのかな風を感じる。思い切って目を開けた。視界に青が広がる。
「海だ!」
スフィーは叫んでから首をかしげた。
「ということは、場所を間違えた?」

「それで?」

健太郎の家の居間には健太郎とスフィーの髪を引っ張る飛鳥が居た。
「胃腸薬を飲んで帰ってきてみたら、場所を間違えたけど一緒に向こうから来た魔法使いの人に助けられて、ようやくたどりついたと」
「面目ないですぅ……って、わぁ! 髪、結ばないでよ!」
飛鳥は嬉々としてスフィーの後ろに回り込む。鳥の巣でも作るつもりだろうか。
「かなりまた小さくなったなぁ。飛鳥の妹にでもなるつもりか」
「余計に魔力を使い過ぎちゃいました。はぁ。って痛っ!」
テーブルに突っ伏そうとしたスフィーの髪を飛鳥が後ろから引っ張る
「飛鳥、少しは手加減してやれ。
 お前がそうこうしているうちに、リアンはなんだか働いてたぞ」
「リアンが? なにしてたの」
引っ張られている髪とバランスを取りながらスフィーが健太郎を向いた。
「確か、こっちの世界で魔法を使える人間が居るみたいだから、捕まえて処罰するとかなんとか」
「リアンも真面目なんだから。
 だからこの間、治安局の一日局長なんてどうでもいい仕事をやらされるのよ」
健太郎はちらりと壁のネジ巻き時計を見た。
「そろそろ帰って来るんじゃないか、晩飯の時間だし」
「うーん、じゃあリアンにはそのパワーをあたしのために使ってもらいましょう」
スフィーは言いながら後ろ頭に手を伸ばした。
「だから引っ張らないでよ〜」
飛鳥は喜んで、左と右を交互に引っ張った。
「む〜〜〜〜」
健太郎は飛鳥の手を押さえながらスフィーに訊ねた。
「そういえば、お前と一緒に来たって人はどうしたんだ?」
「あっ!」
スフィーはいきなり立ち上がった。
「痛ててててて」
案の定、飛鳥に握られている髪に張力が働く。
「玄関の外で待っててもらったの忘れてた」
「おい」
健太郎はあわてて玄関へ向かった。靴をはかずに三和土に降り、ドアを開ける。
「あ、健太郎さん」
健太郎を振り向く二人が居た。リアンと、リアンより背の高くて品の良い女性。二人は少し言葉を交わしていたようだった。
「あの、こちらは」
リアンの言葉を先まわって、伸ばせばさぞかし豪勢なブロンドヘアになりそうな女性が口を開いた。
「ミュージィと言います。よろしく」
ミュージィはふかぶかと頭を下げた。ドアのノブに手を掛けたまま、健太郎もつられて礼を返す。
「雨が降りそうだったんで、走って帰ってきたら玄関の前にミュージィさんがいらしたんです。少しお話をさせてもらいました」
「スフィーのやつが玄関の前に待たせたまま忘れたんだってよ。
 ったく、雨だって降り出しそうだっていうのに」
リアンのしょうがない姉のことを愚痴る。しかし、ミュージィは平然とした表情をしていた。
「ご心配なく。雨に降られるようなことにはなりませんから」
健太郎はその台詞の意味をあまり考えずに、玄関の扉を開け放った。
「とにかく上がって下さい。お話は中ででも」
「ええ、そうしましょうミュージィさん」
リアンがミュージィに微笑んだ。
ミュージィは「おじゃまします」と言いながら手元でなにかをした。
扉を閉めた健太郎は、降り始めた雨の音を聞いた。


「ということで、ミュージィさんは来たってわけ」
六人での夕食の後、スフィーが、むかしこちらに派遣されていたミュージィと偶然知り合って、向こうの人をこっそり訪ねてみたいという彼女を次元跳躍の実験に参加してもらったという話をした。
「やっぱり、魔法はなんでも回数をこなさないとね」
「実験台にさせられたせいでお前を助けるはめになったんだろうが!」
スフィーが締めくくった言葉に健太郎が突っ込む。
「でも、あの絵本を描いたつとむさんって方はもうお亡くなりになっているんでしたよね」
リアンの言葉に、ミュージィを除いた全員が目を伏せた。
「絵本? そんなものがあるんですか?」
ミュージィはリアンを見て、膝に乗せた手に力を込めた。
「あ、はい。健太郎さん、この間見せていただいた絵本、まだありますか?」
「借りっぱなしのものが、テレビの横のマガジンラックにあるはずだけど」
「あ、あたしがもってくる」
飛鳥がおぼつかない足取りで走り出していった。健太郎は飛鳥の背中を見送りながら両手を組んだ。
「だけど、『牧部』さんでしたっけ? あまり変わった苗字じゃないですから、探すのは難しいと思います。
 うちの常連さんにも牧部さんっていらっしゃいますし」
スフィーがその言葉に表情を曇らせる。
「だからさ、そこんところを健太郎の力でちょこっと」
「そんなこと言われてもな」
健太郎はソファーに身を沈めた。
「うちは骨董屋で探偵じゃないんだ。人捜しならリアンの方が得意そうだし」
「そんなことは……
 あ、そういえば、そのことで姉さんに聞いていただきたいことがあったんです」
「え? あたしになにを?」
「えっと」
リアンが言いかけたとき、ミュージィの顔を見上げながら飛鳥が絵本を抱えて戻ってきた。
が、部屋に入る寸前、足下を見ていなかったせいでドアの敷居につまづいて転んだ。あわてて結花が駆け寄る。
「よし、泣かなかったな。えらいぞ」
立ち上がる際に、座卓に膝をぶつけた健太郎が痛みをこらえて声を掛ける。
飛鳥はぼうぜんと、手にしていた絵本を見つめていた。それはばらばらになって床に散らばっていた。
「あ、借りてた絵本が!」
ことのほか大きな結花の声に、思い出したような飛鳥の泣き声がフェードインする。
「まあ、もうボロかったんだし」
あまり大きくない健太郎の声を背にミュージィが立ち上がり、丁寧な手つきで絵本だった紙を拾い集めた。そろえて、撫でるように手をかざし、飛鳥に手渡す。ミュージィがゆっくりと顔を上げると、飛鳥の泣き声が徐々に小さくなっていった。飛鳥は絵本が元通りになったことをしばらく確かめると、ミュージィに顔を向けた。
「おばちゃんは良い魔女なの?」
ミュージィはその言葉に悲しそうな笑顔を浮かべて、飛鳥から絵本を受け取った。
「すごい。長瀬さんみたいだ」
健太郎は独り言のつもりで呟いた。その言葉にリアンが気づく。
「あ、その長瀬さんなんです。どうも魔法が使えるみたいなのは」
「長瀬さんが? 確かになんとなく訳のわからない人だから、まぁ魔法が使えるって言われてもそう不思議じゃないな」
健太郎は再びソファーに腰掛けた。
「あの爺さんなら放っておいても大丈夫でしょ」
スフィーが横から無責任な口を利く。それは世の中に害にならないから大丈夫なのか、それ以外の理由で大丈夫なのかはうかがい知れない。
「リアンがあたしに聞きたかったってそういうことだったの?」
「いえ、そうじゃなくて。
 言うのが難しいんですけど……どうやらこちらの世界で生まれつき魔法が使う能力がある人間が居るみたいなんです」
「ふーん」スフィーはミカンを一つ手にとってむき始めた。「それはグェンディーナには関係ないわよ」
そう言ってミカンを口の中に放り込んだ。
「そうなんですけど」
リアンは膝の上で両手を握りしめた。
「その人、自分では魔法をコントロール出来ていないようなんです」
「じゃあ、わざと危害を与える危険が無いってことか」
健太郎の言葉にリアンは首を振った。
「魔法を使う本人が危険なんです。
 この世界にはグェンディーナのように魔力を人工的に回復することが出来ませんから、あまりにも使いすぎると本人の命が大変なことになってしまうかもしれません」
リアンは一気にそう言うと、「ふう」と息を付いた。
「確かにね。で、その人っていくつくらいなの?」
スフィーが二つ目のミカンに手を伸ばしながら訊いた。
「たぶん、はたち前後だと思います」
「ふーん」
ミカンのへたをほじくり出しながら、スフィーはなにか考えているようだった。
「向こうじゃ魔法の制御って自転車に乗るようなもんだからね。
 大人になってからそれを覚えるのは難しそうだし、教えてどうにかなるか分からないね」
「そうなんです。
 でも本人の能力ですから封じてしまっていいものかどうか。
 けど封じないとその人は……」
「うーん」
スフィーはミカンを丸ごと口の中に入れた。しばらく、息苦しそうな声を上げてから飲み下す。
「うう、あたし小さくなってたの忘れてた。
 で、どういう話だったっけ? って、そうそう、その魔法が使えるって人ね、いまその人どこにいるの?」
「病院です」
「なんだ、じゃあ具合が悪くなっても安心」
懲りずにまたミカンに手を伸ばした手を止めた。
「って、そんなに悪いんじゃ大変じゃない!」
急な大声に、飛鳥や結花も驚いてスフィーを見る。
「はい。ですから姉さんに話を聞いていただこうと思って」
「その人の名前は?」
名前なんかきいたところでどうにかなるもんでもないだろう、と思いながら健太郎は訊いた。
「実はまだ、本人と会ったわけじゃなくて、その人の魔力がつくった分身と少し接触しただけなんですけど」
リアンの声に心なしか力がこもった。
「なつみ、なつみさんと言う方だそうです」
その言葉に、スフィーと目を閉じて絵本を抱きしめていたミュージィに驚きの表情が走った。
「あの、どうしたんですか?」
リアンが二人の反応に戸惑った。
「どうしたもこうしたもないわよ」
スフィーがミュージィを向く、その視線を受けてミュージィが頷いた。絵本を持つ手が震えている。
「リアン、すぐにその病院に案内しなさい!
 けんたろ、あたし魔力使えないから運転お願い」
いつになく機敏な動作でスフィーが立ち上がって指示をする。健太郎は弱々しく応えた。
「悪りぃ、さっき少し飲んでた」
健太郎は軽く手を合わせながら、結花に視線を移した。アルコールの苦手な人間の出番だ。
「あたしが運転? ……良いけど、飛鳥の面倒みてよね」
「俺が留守番ってのは勘弁してくれよ」
飛鳥を寝かしつける役目は、つつしんで遠慮したい。
「じゃあ、あなたも来れば」
結花が戸棚の上から車のキーを取り、回しながら言った。
たまには一人で飛鳥の面倒くらい見ろとでも思っているんだろう。

海を見下ろす小高い丘の上に、その病院はあった。

丘を登る坂道の途中に車を停める。エンジン音の代わりに海から吹き付ける風の音がした。
「じゃあ、あたしたちはちょっと行って来るから。
 結花と飛鳥ちゃんはここで留守番お願いね」
ドアのキーに手を掛けながらスフィーが言う。キーを外して車から出るのはなるべく後にしたいようだった。
「結花と飛鳥って、俺も車の中で待ってていいんじゃないのか?」
「う〜ん、残念」
スフィーが健太郎の膝から飛鳥を抱き取る。
「あたし、今ちょっと魔力を使えないからさ、他の二人に迷惑かけそうなのよね。
 でさ、いざって時にはけんたろがあたしを背負って逃げてよ。今なら軽いし」
「いざってことを起こさなきゃいいだろが。
 第一、この時間に来なくても昼間に面会すりゃいいだろう」
気怠く返事をしながら結花を見る。結花はなぜか不安そうな顔をしていた。
「そうしたいのはやまやまなんだけどね。ちょっとそうも言ってられない事情ってもんが」
スフィーはちらりとミュージィを見た。
「まぁな、どうしてもって言うなら行ってやらないこともないけどな」
わざと、さも面倒そうに頭を掻きながら言う。
しかし心のどこかでは、少しだけ夜の病院に忍び込む行為に胸を躍らせる自分もいる。
「ちょっと、待って」
結花がハンドルから手を離し、哀願するような視線を健太郎に向けてきた。
「あたしと飛鳥だけここで待たせるつもり?」
「なんなら、俺の代わりに行くか?」
結花は目をつぶって首を振った。
「出来ればあたしも連れていって欲しいんだけど」
「どうして?」
結花が弱々しく、車の左後方を指さす。
その方向にはコンクリートの壁があって何も見えない。
「むこうに、岬があるの知ってるでしょ。ほら、そういう話だし、最近は特に……」
確かに、その小さな岬はそういう話が多くて、この世の住人でない方の話も店番をしているときに耳にすることがある。
「なら、スフィーたちと一緒に行けばいいじゃないか」
「そうなんだけど、その……」
「まったく、お熱い夫婦ね」
健太郎の横でスフィーがためいきをついた。
「良いですよ、わたしがなんとかしますから、一緒に行きましょう」
助手席のリアンが後ろを向いて言う。
「本当は向こうに感づかれるといけないので魔法は使わない方が良いのかも知れませんが、簡単な結界を張るくらいでしたら良いんじゃないですか?」
最後の言葉と一緒にリアンがスフィーの目をのぞき込んだ。スフィーはミュージィを振り向く。ミュージィは頷いた。
「なんだそれ?」
「改めて説明をするとなると難しいんですが」リアンは口ごもって続けた。
「この場合は、その結界を張られた対象に他の人の関心が行かなくなる……で良いんですよね」
リアンが生徒が教師にするような視線でミュージィを見つめた。ミュージィはゆっくりと頷いて、聞き取れない声でなにかを呟いた。
「じゃ、行こうか」
スフィーの言葉を合図に、ドアが次々に開いた。暖まった空気を夜の風が押し流す。
「寒っ」
結花がそう言って、肘を体に密着させながら飛鳥を抱き上げた。健太郎も持ってきたコートの襟を直す。スフィーとリアンは向かい合って体を縮めていた。ただ一人、ミュージィだけは寒さなど感じないかのような表情で、じっと病院の建物を見上げていた。
「行きましょう」
誰の方にも向かずにミュージィが言った。
黙ってミュージィの後に続いた。振り返ると、光を失った白いバンが歩道に乗り上げているさまが闇に溶けて行くようだった。坂道をのぼるにつれ、病院の煌々と灯るあかりが闇の領域を徐々に狭めてゆく。今日のように曇っていなくても、あまり星は見えないところのようだ。
健太郎たちは裏口に回った。
「いいですか?」
扉の前に立ったリアンが、常夜灯のぼんやりとした光に照らされながら言う。
「病院の中はたぶん夜中でも人が居ますから、あまりわたしから離れないで下さい。それほど強い魔法ではないので」
あまり光の届かないところで、健太郎と飛鳥を抱いた結花が頷いた。それを確認するとリアンは扉に手を掛けた。リアンの手元が青白く光ると、扉に隙間が生じる。健太郎を最後に、一列になって病院の中へ入った。
「ところでリアン、病室は分かってるの?」
スフィーが歩き出しながら訊ねた。リアンは、なるべく距離を取らないようについて行く。
「いえ、この病院を突き止めただけで、実はまだ……」
「上、ですね」
二人の会話を割ってミュージィが上向き加減で呟いた。
「上かぁ。魔法が使い放題だったら楽に行けるんだけどなぁ。
 ……そういうことでけんたろ」
「なんだよ」
「おんぶ」
言葉とほとんど同時に、スフィーが背中にまわった。健太郎は方向を百八十度変える。
「ふざけるなよ」
「その為に付いてきたんでしょう」
健太郎はスフィーを無視して結花を向いた。
「帰ろうか、結花」
「ちょっと、冗談だってば」
スフィーはいかにも不精という姿勢でリアンの後ろに戻った。
「エレベーターがありますけど」
姉を気づかってか、リアンが廊下の向こう側を指さした。
「なんだ、誰かさんと違って気が利く病院じゃない」
「へいへい、さっさと行くぞ」
健太郎は結花を振り返って先に行かせようとした。が、人数が足りないことに気づいた。
「あれ? そういえば誰かがいない」
「あ、ミュージィさんがいませんね」
先頭に立つリアンも首を傾げた。そのリアンの向こうで声がした。
「あなたに封じられるなら、封じてみればいいじゃない!!」
「誰?」
結花が飛鳥を抱く手に力を込めた。眠りそうだった飛鳥の瞳が急に大きくなる。
「向こうの方からします。行きましょう」
その先に人影は無い。
目を凝らすと、十メートルほど先になにかの入り口があることが分かった。
一番遅い結花が精一杯付いてくることが出来る早さでそこに向かった。
そこから先は階段だった。床は緑に塗られている。
上の踊り場にうずくまっている緑色の人影があった。ミュージィさんだった。スフィーが駆け寄る。
「大丈夫だったの? ねぇ」
ミュージィは応えなかった。どうやら泣いているようだ。
「ひょっとして、封じ込めようとしたの?」
さらにスフィーが訊ねた。やはりミュージィは応えなかった。
「姉さん、封じ込めないつもりだったんですか」
踊り場の五段手前でリアンが呟いた。スフィーには聞こえないだろうが健太郎の耳には届いた。
「ご迷惑をおかけしました」
目を拭って、ミュージィが立ち上がった。不思議なほど、さっぱりとした顔だった。
「エレベーターを使った方が良いでしょう。だいぶ上にいるようです」
ミュージィがスフィーを振り返らずに階段を下りてきた。
なんとなく、健太郎は道をあけてしまう。結花も同じようだ。
ミュージィの後ろからスフィーも降りてくる。スフィーはリアンの側で立ち止まり、なにか短い耳打ちをした。
リアンは神妙な顔で、それを聞いていた。
隠し事をされているようで、あまりいい気分ではなかった。


エレベーターが八階に着くまで、誰もが無言だった。

「開」ボタンを最後まで押していた健太郎は、エレベーターから降りるとワゴンを押している看護婦の後ろ姿を目にした。
彼女はまったくこちらを気にせず、どこかの病室へと入っていく。
思わず声をあげそうになったが、見つからないのは魔法のお陰らしい。
廊下には堅い絨毯が敷いてあり、足音もあまり気にならなそうだ。
「ここからなら、わたしでもはっきりと場所が分かります」
リアンは胸の前で右手を握りしめて、続ける。
「あの、健太郎さんたちをお連れしても良いんですか?」
訊ねられたスフィーはミュージィと顔を見合わせた。
一瞬の沈黙の後、ミュージィが無言で歩き始める。あわててリアンが従った。
健太郎は結花と顔を見合わせ、その後ろを歩くことにした。飛鳥はまた、結花の腕の中で眠りそうだった。
『牧部なつみ 様』
病室の前のプレートにはそう書かれている。扉の向こうは個室のようだ。
リアンが息を飲んだ。
「牧部さんって、なつみという人はまさか……」
スフィーがリアンに鋭い視線を送った。
「さっき言ったでしょ、あまり驚いちゃいけないって」
その言葉に、リアンがあわてて俯いた。
ミュージィは扉の前に立つと、スフィーを見やった。スフィーが頷く。
ミュージィがノブに手を掛けた。いともあっさりと、扉は仕切としての役目を無くす。
そして、健太郎を最後に全員が病室の中へと入っていった。
病院の外にある水銀灯の光が壁に反射して、ベッドの上を青白く染めていた。
ベッドの上に居る人の顔にはいくつかの影が出来ていて、十分な光に照らされていても顔色が良く見えそうにもない。
ミュージィが一人でベッドの上の人間に近づき、頬に右手を当てた。
「なつみ……。これが、なつみ」
ミュージィは、ゆっくりと頬に当てた手を滑らせ、もう片方の頬へ移す。
「これが……」
ミュージィが左手もなつみへ伸ばそうとする動作に入ったとき、ミュージィの視線が鋭くなつみの足下へ移動した。そこには、ぼんやりと人の形が出来つつあった。
「来たわ!」
スフィーとリアンが身構えた。健太郎も、なにも出来はしないと知りつつ身構える。
「フフ」
笑い声がした。声の主は、裸の女だ。
肌の色は白く、髪の色はミュージィに似てブロンドに近く、軽いウェーブがかかっている。
「えっ!?」
健太郎は戸惑い、構えを解いた。
「見ちゃだめ!」
結花の叫び声がした。そう聴覚が捉えるより早く、健太郎は結花の腕で両目を塞がれた。
「痛てっ!」
健太郎はもがきながら結花の腕を引き剥がし、結花に向き直った。結花は飛鳥を片手に持ち替えていた。
「そんなに見たいの?」
健太郎が言葉を発する前に、冷たい視線の結花が言った。健太郎は、何も言い返さずにその向きを維持することにした。
が、それもつかの間だった。
「ミュージィさん! なにをなさるんですか!」
後ろからリアンの悲鳴が聞こえた。健太郎は振り返った。
さっきの裸の女にミュージィが剣のようなものを手に突き刺そうとしているところだった。リアンの手から発する青っぽい半透明な光の壁がそれを防いでいる。
「邪魔……しないで」
ミュージィは剣を握ったまま、なおも向かおうとする。
スフィーは呆気にとられたようにその光景を眺めていた。
「いけません! そんなことをすれば本人にも影響が……」
「でも、この魔法だけは止められる。今の魔法さえ止めてしまえば」
裸の女は突然の攻撃に面食らったような表情でそれを見ていた。
「いけません」
力の均衡を保つため精一杯なのだろうか、目を閉じながらリアンは力一杯の顔で叫んだ。
「なつみさんに傷をつけてしまっていいんですか?」
ミュージィは目を見開き、握力を弱めた。剣のようなものが徐々に小さくなり消えてゆく。
リアンの壁が大きくなって、ベッドのまわりを覆った。
リアンは、ミュージィを蔑んだような目で見る裸の女に目を向けた。
「あなたが、なつみさんの作り出したもう一人のなつみさんですね」
もう一人のなつみは、応える代わりに口を開いた。
「なんだか魔法が使える人がどやどや来たみたいだけどさ、あたしがそんなに迷惑なわけ?」
リアンは少し俯き、スフィーを見た。スフィーが前に出る。
「別に迷惑なわけじゃ無いけど、魔法を使うと本人が弱って大変なことになってるでしょ」
もう一人のなつみは、「ふーん」と言いながらなつみ本人を向いた。
「良いじゃない。本人が使いたいなら使って。
 あたしは、なつみの本心、ココロなんだから」
そしてちらりとミュージィを見て、一歩近づいた
「本人が死ぬまで使いたいなら死ぬまでさせておけば良いんじゃないの」
ミュージィは素早く立ち上がり、後ろからココロの肩に左手を回し右手でココロの右手をつかんで握りしめた。
驚くほどあざやかに、ココロはミュージィに捕らわれた。
「ちょっと、急になにするのよ」
突然の動作に、ココロは焦っているようだ。
「なつみ」
「気安く呼ばないでよ」
「なつみ……」
ココロは何も言わなかった。ミュージィの左手に、黄色い光が集まる。
「待ってください!」
再びリアンの叫び。
「母親が、自分の子供を傷付けるなんて間違っています」
「母親?」ココロは呟きながら首を左に回した。ミュージィの瞳と目が合う。
「この人が、あたしを捨てた母親?」
「違うわ!」
目を伏せたミュージィの代わりにスフィーが叫んだ。
「なにが違うって言うのよ! あたしの母親はどうしようもないお父さんを見限って出ていったって」
「違うわよ」
今度はミュージィの涙声だった。
声と共にミュージィがココロを捕らえる力が弱まり、ココロはミュージィから離れた。
そのまま支えを失ったようにミュージィはその場に崩れた。
「そうじゃ……ないの。わたしはあなたに……」
ミュージィの背中に手を置いて、スフィーがミュージィの前に出た。
「なつみさん。聞いてあげなよ。ミュージィさんはずっとあなたのことを忘れないでやっと」
「だったら、なんで今まで来なかったの。お父さんが死んでから、なんであたしを放っておいたの」
「それはものすごく複雑な事情があって」
「もういいわよ」
スフィーの後ろからミュージィのか弱い声がした。
「もういいわ。
 この子を、ココロを使う魔法を封じ込めればなつみはふつうの人間。
 優しかったつとむの子供のままで、魔法を使える母親が居たなんてもう関係が無くなるでしょう」
「ちょっとミュージィさん。そんなことでいいわけないでしょ」
「わたしは、良いんです。全てわたしの責任でこうなってしまったんですから。
 なつみさえ元気でいてくれれば」
「ミュージィさん」スフィーが強い口調になった。
「グェンディーナの掟を破って、次元跳躍の魔法の教本を手に入れてたでしょう。
 なつみともう一度会うために」
「ミュージィさんが?」
リアンが驚いた表情でミュージィを見る。軽く頷いてスフィーが続ける。
「あなたはグェンディーナから追放されても、なつみに会おうとしていたでしょう。
 確かにつまらない勘違いでくじけたけど、まだ来る気はあったんでしょう」
「つまらない勘違いって、なにを?」
ココロがスフィーを凝視しながら訊ねた。スフィーはミュージィから目を離さず応える。
「つとむが死んだとき、ミュージィさんはつとむがミュージィさんから心が離れたと勘違いしたのよ。
 どうしてそうなったのかは説明が面倒だけどね」
「そんな」
ココロが息を飲んだ。
「お父さんは、ずっとお母さんのことばっかり話してたのに。いつか帰って来るって」
「帰る日が今日まで遅れたのよ。
 約束を破った訳じゃない、そうよね、ミュージィさん」
しばらく、しゃくり上げた音が聞こえた後、ミュージィの声がした。
「なつみ。さっき、後ろから抱きしめたとき、あれがあなたを二十一年ぶりに抱いたの。
 嬉しかった。あなたが魔法で出来た体とはいえ、本当に大きくなっていて、それで」
ミュージィはそこでまたしゃくり上げた。
「あなたを産んだこの病院で……
 誕生日は少し過ぎてしまったけどあなたに会えて……本当に、本当に。
 ずっと待ってた。
 母親と名乗る資格は無いかもしれないけど」
最後の方はあまりにも弱くて健太郎にはあまり聞き取れなかった。
スフィーもリアンもその言葉のせいか、うなだれて何も言わなかった。
「お母さん……」
ココロはゆっくりとしゃがみ込んだ。
「本当にお母さんなら、あたしを叱ってくれないと。
 あたし、居場所が欲しいわがままでカラダを殺そうとしたんだよ」
「わたしもあなたを眠らせてあやつろうとした」
ミュージィの鼻声が病室内を静かに流れた。
「眠らせる。だけだったんですか?」
きょとんとしてリアンが声を発した。ミュージィは大きく頷いた。
「あたり前じゃない」
結花の声だった。
「子供に傷を負わせる母親なんて母親失格よ」
そう言って、結花が飛鳥を強く抱きしめた。飛鳥は迷惑そうな顔をして
「さっきのお子魔女みたいなのはもう無いの?」と訊ねた。
空気が和んだ。と思った次の瞬間。
部屋中に大きな破裂音が響いた。
ミュージィがココロを平手で打った音だった。
その場の全員の視線がミュージィに集まった。
ミュージィがココロを力いっぱい抱きしめた。ココロが安らいだ笑顔になる。
「お母さん。ありがと」
ミュージィに抱かれながら、ココロは徐々に薄くなり、そしてその場から居なくなった。
「消えたの?」
結花が意外そうな顔をする。リアンが笑顔で応えた。
「いえ、なつみさんと同化したんです。なつみさんのココロの意志で」
「はあ」健太郎と結花は顔を見合わせた。納得は出来ないがそういうことなのだろう。
「さあ」
ミュージィが立ち上がった。
「帰りましょうか、皆さん」
「ええ!?」
リアンと結花が意外そうな声をあげた。健太郎も意外だった。
「ちょっとミュージィさん、なにも今帰らなくても」
スフィーも不思議そうだ。
「良いんです。今日はもう」
「あたしが命令しても?」
「お断りします」
にべもなくそう言うと、ミュージィは扉に向かおうとした。
「待ってよ」
ベッドの方から声がした。ミュージィは振り返った。
「行っちゃ嫌だよ、お母さん」
ベッドから身をおこそうとするなつみの声だった。
「あたしより、断れない人からのご希望だよ」
ミュージィはベッドに駆け寄った。スフィーの言葉が聞こえているのか分からなかった。
「なつみ……ごめんね。ごめんね」
ミュージィさんの声に背を向けてスフィーが歩き始める。
「さて、あたしたちは退散しますか。リアン。後はよろしく」
「あ、はい」
ベッドの様子を見ていたリアンはあわててなにかを唱えた。
「じゃああとはごゆっくり、ね」
スフィーは片目を閉じて病室から出ていった。健太郎もあまり状況が飲み込めないまま後に従う。
「ありがとうございます。スフィー様」
閉じかけた扉から、ミュージィの声がした。
「ところで、けんたろ。おんぶして」
「いやだ」と、言おうとしてスフィーを見ると、さらにスフィーは小さくなっていた。
「おい、魔法使わないって言ってなかったか?」
「うーんとね」
スフィーは頬に人差し指を当てた。
「出る前に、素直じゃないミュージィさんにちょっとね」
健太郎は、だまって背中を差し出した。

「つまり、ミュージィさんはカラダの方に拒絶されるのが怖かったというわけ」
車の中でスフィーがさっきの解説をしていた。
運良く駐車禁止に引っかからなかったが、エンジンがなかなか掛からず、暖房もあまり効いていない。
「まったく、あの人はまだどっかで子供なんだから」
外見がまさに子供の人間に言われてしまっては身も蓋もない。
「それでお前はどんな魔法をミュージィさんにかけたんだ?」
「しばらくの間、ミュージィさんの魔法を封じ込める魔法」
こともなげに言うスフィーにリアンが驚いた声をあげる。
「そんな大変な魔法を使ったんですか?」
「だって、せっかくの親子の対面に魔法が入っちゃしょうがないでしょ」
「へえ」
スフィーも割と成長しているんだな。という言葉はしまっておいた。
「へえ、ってなによ。またこいつろくでもないことしてる、とでも思ったんでしょ」
「はいはい、その通り」
健太郎は後部座席で眠る結花と飛鳥をちらりと見て、車を発進させた。
夜も更けて、病院の灯りはだいぶ減ったが、あの部屋の灯りが灯っていることは分かった。

五月雨堂の扉が開いた。
「あ、いらっしゃいませ」
その常連客は、いつもと違って店内を見ずに真っ直ぐにカウンターへ向かってきた。
「この間の絵なんですけど、まだ置いてありますか?」
健太郎はちらりと店の奥に視線を走らせた。
店と家を仕切る扉の前にミュージィが立っている。健太郎は視線を戻した。
「残念ですが、もう」
「そうですか」
その客は健太郎に背を向けた。ミュージィと目が合う。
「おや?」
眼鏡を直す間に、ミュージィは深々と頭を下げた。
「あの方が、あの絵を?」
訊ねられた健太郎は、「まあ」と曖昧に応えた。
「なるほど」言いながらミュージィへ歩み寄った。
「どこかでお会いしたことがあるような」
ミュージィは顔を上げてしっかりとその客の目を見つめた。そして、
「ありがとうございました」
と言って、また深々と頭を下げた。
「いえ、絵のことだったらいいんですよ」
「いえ、その事ではなくて」
ミュージィは頭を下げたまま言った。
「その事じゃない? では、ええと」
困惑しているようだった。健太郎はカウンターから絵本を取り出した。
「牧部さん、この本に覚えはありませんか?」
「ええ、その本は兄が書いたものですが、なにか?」
「偶然知り合ったんですが、この本の作者の方をずっとお探しになっていたそうで、少しばかり商売のつてで調べさせて貰いました」
「そういうことでしたら構いませんけど」
牧部はミュージィに向き直った。
「兄はずっと前に他界しました。忘れ形見の子供がおりますが、我が家の娘として育ってます」
「そうですか」
ミュージィは体を起こしたが、目を伏せたままでいた。
「はい。
 あ、宮田さん。入院していた娘ですが、昨日退院しました。
 ご心配をおかけしました」
「それは良かった、おめでとうございます」
健太郎はミュージィを見た、何か言おうとしているところだった。
「あの、牧部さん」
牧部はまたミュージィを向いた。
「あの、娘さんとお会いしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
牧部は即答した。
「初対面のはずなのになぜか分かりませんが、あなたとは会っていただきたい気がします。
 あの絵をお買いになったからでしょうか」
「そうですか、ありがとうございます」
ミュージィはもう一度頭を下げた。
牧部は困った顔をして、「それではまたうかがいます」という言葉を残して店を出ていった。

「スフィー様の魔力がお戻りになりましたら、一度グェンディーナへ帰ろうかと思います」
カウンターの横に腰掛けてミュージィが言った。
「なつみさんのことは、どうなさるんですか?」
少し出しゃばりすぎかと思ったが訊くことにした。
「本当なら、そろそろ自立する年頃だと思います」
ミュージィは悲しげな目をして俯いた。
「でもお互いに会いたいんでしょう」
「つとむの弟さんもいい方ですから、あまりご迷惑を掛けたくないんです」
健太郎は頭をかいた。
「また、ミュージィさんは遠慮深いから」
「臆病なんです」
小さく笑いながら言った。
「大変! たいへん! たいへん!」
結花が、店の入り口から入ってきた。
「ったく、なんだ騒がしい」
健太郎はしぶしぶと肩で息をする結花を見る。
「スフィーちゃんたち、朝御飯にホットケーキ食べたのよ」
「それがどうした? 記録更新でもしたか」
「そう! そうなのよ、って、それもそうなんだけど食べ終わったら、急に魔法を使って……」
「胃薬でも作ったのか?」
「帰っちゃったのよ!」
健太郎とミュージィの驚く声が店内に響いた。
「帰ったって、ミュージィさんはどうする?」
健太郎はおろおろと落ち着かないミュージィを横目に言った。
結花がポケットから二枚の紙を出し、それぞれに渡す。
「グェンディーナに帰ります。
 一月後、迎えに来ます。なつみさんと旅行でもしてきたら良いでしょう。
 それと、子供に魔法の使い方を教えるのはグェンディーナの母親の仕事だから、わかっているでしょうけどよろしくね」
だ、そうです。とミュージィさんが読み上げた。語尾は消えそうだった。
「ご自分のことは後回しにして、わたしのことばかりしてくれるんですから」
冗談っぽく、ミュージィは言った。
「自分のことって、そういえば、ミュージィさんってスフィーたちに『様』ってつけるけどなにか関係があったりするんですか?」
「ご存じ無かったんですか?」
ミュージィは健太郎の顔をまじまじと見つめて言った。そして、笑った。
「知らない方が良いかも知れません。
 本当は、王女様が縁談から逃げていることととても関係が有るんですけど」
「へぇ、グェンディーナの王女ってひょっとしてその縁談じゃ満足できないのかな」
「さあ?」
ミュージィは含みのある笑顔をした。意味を追求することは諦めて、健太郎は手紙を開いた。
「けんたろへ。
 飛鳥ちゃんによればお子魔女はパート3まで出ているじゃない。
 今度こっちに来るときには、全シリーズのビデオを借りておくこと。今放送中の録画も忘れずにね」
結花が吹き出した。
「あいつは、それしか言うことないのか」
「アハハハハハハ」
ミュージィが声をあげて笑った。初めて聞く笑い声は綺麗だった。
笑い声をあげていたことに気づいたのか、ミュージィは顔を赤らめる。
「す、すみません」
「いえ、別に悪いことでは」
言いかけた健太郎の背中で扉の開く音がした。店の入り口の扉の音だ。
ミュージィは、それまでよりもずっと華やいだ笑顔になった。
店の中にその客の声がする。
「こんにちは、お母さん」


絵本はこう結ばれている。

「グェンディーナのまじょがくれたやさしさは、であったひとのこころにずっとのこりました」

優しさの力をもう一度使おうとしている魔女が目の前にいる。

Fin

あとがきぐちぐち(長文注意報)

う〜〜〜
難産&中だるみしすぎ
原稿用紙換算で150枚超とは。後書き含めて100KB超。
書いた本人が読み返したくないっす。
長くても、消化不良気味。夏バテ。

パタ。

むくり。

んで、読んで下さった方もこれからお読みいただく方も、読む気全くない方もこんにちは。
あとがきを書きたいエネルギーでどうにかでっち上げた雅明です。

この作品、実は夏コミでコピー本にするつもりでしたが、断念したやつです。
それにちょっくら手を……加えるはずが、当初の予定とかけ離れたものが出来上がったようです。ホントはもう少し短くてダークな……
なぜ夏コミであきらめたかというと。

1.長すぎる。(「Coda」のときは限界まで字を小さくしたんで(^^;)
2.実は100行くらいでバイタリティーは尽きていた。後は惰性なので出来は……
3.追い込みの時間にやっていたゴールデン洋画劇場が面白かった
4.その前にやっていた「世界・ふしぎ発見!」も面白かった
5.テレビを見終わったらがんがん酒を飲んでいた

のうちのどれかだそうです(複数回答可)

番外編として、冬コミで大分自動車道も真っ青な営業係数を記録したことで懲りたということもあるかもしれません。
夏コミでは知り合いのサークルが初参加初黒字を達成しまして、カルチャーショックを受けました。面白い研究本だったので納得しましたけど。

そんなこんなで手ぶらでコミケの3日目に参りまして、そこで手に入れたkanonの小説本が、自分には絶対に書けないリリカルで切ない内容でぶっ飛びました。
それでしばらく「駄目だ俺、書いていらんね〜」状態に陥ったわけです。
でも、根が貧乏性の私は、途中まで進めた原稿が惜しくなってどうにか仕上げに。
かかるつもりだったのですが、これが強烈な難産。
削ったり継ぎ足したり、欠陥住宅と張り合えます。
白状すると、というか弱音を吐きますと、『つとむがプロポーズするシーン』を『身ごもったミュージィがグェンディーナへの帰還を拒否するというシーン』にしようかとかなり迷いました。
今でもそうした方が良かったかもしれないと思っていたり(^^;
そうすると、次のシーンとの辻褄が合わなくなるんらしい。
次に書くものは簡単な構成にします、はい。
ついでに、このSSが難産だったことにちなみ、なつみは難産だったことにして意地悪しようかと思いましたが、本筋と関係がないのでやめておきました。
以上、愚痴終了。
あ、先に挙げたkanon小説本は「地球平和堂」さんの新刊です。
goo辺りで検索すれば、そのサークルのHPに行けるはず。おすすめです。

今回、SSのネタを探すに当たっては夏コミで私が少しだけ原稿を書かせていただいたサークルの本にお世話になりました。
細かい設定はそれで調べさせてもらいました。
身内はあまり褒めないでおきます(笑)
そのせいではありませんが、すっかり馴染みとなった構成の致命的な欠陥と数回出会いました。
もう仲良しです。今度会ったらただじゃおきませんけど。

う〜〜〜生命維持剤(フリスクともいう)が切れた。

一瞬だけ真面目な話をさせていただきますと、ファンタジーの設定というのはかなり難しいと感じました。
上の行、行間をお読み下さい。
そういうことです。お察しを。
ちなみに、私の魔法知識はグイン・サーガの初歩的なレベルだけというのも問題が(笑)

……と、まぁ
これくらいのものを3日だか4日だかで書いた昔の自分って元気だったなぁ。
たった4年前だったのに。
単位時間当たりの量はそう変わりませんが、連続できる時間が短くなったようです。
はやい人ってい〜な〜。成長してないしなぁ。
これしきの駄文は5時間以内で書けると言うことが無いんですけどね。
あ、結局、最後まで愚痴ってた。

それでは、またいずれ。
現実逃避で書いている雅明でした。


補足

そんな奇特な方はいらっしゃらないと思いますが、作者はまじ☆アンの二次創作を他にするつもりはありませんので続編を待っていただいても無駄です。
このネタで次の作品は、まじ☆アンが骨董的な存在になった頃考えます(笑


補足2

なんか、今回のあとがきを読み返してみると書いた本人も鼻につくくらいむかつきます。
気を悪くされた方、すいません。


補足3

キーボードの下から未開封のミンティアが発掘されたので命拾いしました。
一緒にコミケ落選の払い戻し金も発掘。ラッキー(^^)


質問の答え:もちろん全部


作品情報

作者名 雅昭
タイトルAgain
サブタイトル
タグまじかる☆アンティーク, スフィー, ミュージィ, リアン, 健太郎, 結花
感想投稿数12
感想投稿最終日時2019年04月13日 02時50分56秒

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  • [★★★★★★] 「どうでも良い」というよりも、この話に関しては「完結」ということにしても良いかな・と思います。温かさが伝わる逸品でした。
  • [★★★★★☆] まじアンは未プレイですが、かなり引き込まれました。もっと色々書いてください。
  • [★★★★★★] うまい!!
  • [★★★★☆☆] 長くて、ちょっと・・・