外は雨が降っていた。

しかし建物の中にいる限りはそれを心配することはない。
しかし…建物の中で人は濡れていた。
きらめき市立総合体育館。その中の室内プールで今年の全日本水泳選手権大会が開かれていた。
全日本選手権はインターハイや大学選手権と異なり、年齢制限のない、純粋に水泳の日本一を決める大会である。
さらに今年の大会は来夏に開かれるオリンピックの代表選考会を兼ねているため、関係者になお一層の注目を浴びる大会であった。
地元きらめき高校の清川望はインターハイで日本記録を上回るタイムで優勝し、今大会でも優勝候補の筆頭であった。オリンピック代表権獲得はほぼ間違いないと言われていた。
もう一人、きらめき高校からインターハイ優勝の実績で参加した主人公は、上位進出を期待されていたが、その平凡な持ちタイムから優勝には届かないというのが戦前の下馬評だった。


「清川さん、コールがかかってるよ。行かなくちゃ」
女子百メートル自由形決勝の召集アナウンスが流れた。
公は、イスに座ったまま俯いてウォークマンを聴いている望に声をかけた。
「…ウ君…」
「え? なに?」
「コウ君…私…怖い…」
「どうしたの? 清川さん」
「みんながオリンピック、オリンピックって言うけれど…私…オリンピックのために泳ぐんじゃない…
 みんなのために…日本のために泳ぐんじゃない……
 …私は…私は…」
「清川さんは、自分のために泳げばいいんだよ…。
 誰のためでもなく、自分自身のために。
 泳ぐのは好きなんだろ?」
「好きよ! 泳ぐのは…大好き…でも…」
「なら、何も心配することはない。
 結果がどうなっても、それは清川さんが自分自身のためにやった結果なんだから…」
「でも、…怖い…お願い…私を…私を…」
公は何も言わずその両腕で望を抱きしめた。
その鍛えられた筋肉の割には弱々しく、細く小さな体をその腕でしっかりと抱きしめた。
「大丈夫。心配はいらないよ」
そうして公は腕をほどいた。望の顔には生気が蘇っていた。
「ありがとう、コウ君…私…泳いでくる」
そう言うと望は選手召集所に走っていった。
望が日本記録を大きく上回り、世界記録にコンマ1秒と迫る驚異的なタイムで優勝したのは、その四十分後だった。

翌日、男子百メートル自由形の決勝の日だった。
公は選手控え室で体をほぐしていた。
(清川さんはオリンピック代表か…俺とは差がついちまったな…なんとか頑張って俺もオリンピックに行かないと…釣り合わないよな…)
一方の、望は昨日の活躍のため報道陣に囲まれて公に声をかけに来ることができないでいた。
(コウ君のスタート時間が来ちゃう…早く解放して…)
望は焦っていた。
昨日の自分の好タイムは公のお陰だ。だから今度は自分が公を守らないと…。
「清川さん、この週刊誌の記事なんですけど…本当なんですか?」
一人の記者が発売前の写真週刊誌のゲラを望に見せた。
『オリンピック代表候補・清川望さん(きらめき高校)、恋のフライング』
そう書かれた記事には学校の帰り道、公園で話をする望と公の写真が大きく掲載されていた。
『オリンピック代表候補の清川望さん(きらめき高校)の恋のお相手は同級生の水泳部員・主人公さん。
 主人さんはインターハイで優勝はしたが、レベルの低い記録での優勝でオリンピック出場は難しい状況。
 ……』
「世界記録保持者の清川さんと、レベルの低い男子高校水泳のタナボタ優勝者では釣り合わない、と言う意見も聞かれますが…いかがですか?」
遠慮ない記者の質問が飛ぶ。
(そんな…コウ君は…人一倍努力して…だから…)
望は入部したばかりの公を思い出した。
満足に泳ぐこともできなかった公。たしかにもって生まれたものもあったが、それでもわずか二年半でインターハイで優勝するまでの努力は生やさしいものではない。
それはそばで見ていた望が一番よく知っている。それを…
「さっき彼にもこの記事見せたんだけどね…なんだい、あのぶっきらぼうな態度。生意気…」
記者団の後ろで一人の記者が独り言を言った。
「!!!」
(コウもこの記事を見た!)
そのことが望に最後の決断をさせた。
「失礼します!」
そう言うと望は報道陣をかき分けて、召集所に走った。公に声をかけたい、その一心で。


しかし…召集所には選手はもういなかった。
選手は予選レース順にプールの方に移動していた。
公は予選一組だ。望はスタート位置に最も近い観客席に走った。
『それでは、男子百メートル自由形。
 予選一組の選手を紹介します。第一のコース・上田祐司君、大阪体育大学。第二のコース…』
望は公を捜した。第三コースのはずだ。いた!
『第三のコース・主人公君、きらめき高校…』
「コウ君!! 頑張って!!!」
大歓声の中、望の声が聞こえるはずはなかった。しかしそれでもいいから望はありったけの声を出した。
すると…聞こえるはずのない公が望の方を向いてガッツポーズをしていた。
「まさか…聞こえたの?……」


予選は五組行われる。
各組の1着と、2着の選手の成績上位3名、の計8名が決勝に駒を進めることができる。
問題は公の組だ。
大学選手権優勝者で日本記録保持者の林。さらにインターハイは怪我で欠場したが、高校記録保持者で中学時にオリンピックにも出場している斎藤。この2名を押しのけて2位までに入らないと決勝への望みは絶たれる。
本来なら林・斎藤・公の三人はシードされ同じ組で予選を泳ぐことはないはずだった。
しかし、インターハイに出ていない斎藤、インターハイに優勝しながらも記録的には全然見るところのない公はシードから漏れた。
しかも抽選の悪戯で、三人が同じ組になってしまった。公にとっては不運としかいいようがない。
(林か斎藤に勝たないとダメって訳か…)
公は覚悟を決めた。
『位置について…ヨーイ…』
ダーン!!!!!
ピストルの音がして選手は一斉に飛び込んだ。スタートが苦手の公も素晴らしいスタートを切った。


先頭は林、その後を頭一つ遅れて斎藤と公が追う展開になった。
望は両手を堅く握って公を見つめていた。五十メートルを折り返した。
差は僅かだが縮まっている。驚いたことに、世界記録を上回るペースで三人が泳いでいる。他の5人の選手は完全に水を開けられた。3人の争いになった。
(俺は…負けない…望に…追いつくんだ…)
必死で泳ぐ公の脳裏に望の励ましの声が聞こえてくる。練習の日々が蘇る。
(自由形って言うのはね、水泳の王様なんだよ。わかる? コウ君)
(王様??)
(柔道で言えば無差別級みたいな物。誰よりも早く泳ぐのが自由形なんだ)
(なるほど…)
(だから自由形、特に百メートル自由形の優勝者をKing of Swimmerって言うんだ)
(よし、じゃ、僕はそのKing of Swimmerを目指すよ)
公のピッチがあがった。林との差が縮まる。斎藤もスパートをかける。三人がほぼ横一線に並んだ。
その瞬間がゴールだった。
(勝ったのは誰だ?)
(誰? 勝ったのは?)
望と公は電光掲示板に目をやった。いや、その場にいる人すべてが掲示板を見た。

1着LANE5ハヤシ シュンイチ48.12secWR
2着LANE4サイトウ アキラ48.13secWR
3着LANE3ヌシビト コウ48.14secWR

ロシアのポポフが持っていた世界記録48秒21を三人が上回った。
しかし…公は健闘虚しく3位に終わった。世界記録で泳ぎながら無念の予選落ちである。
(ダメだったか…)
公は落胆し、天井を見ながらプールを漂った。

「コウ君は?」
選手控え室から出てきたきらめき高校の水泳部マネージャーに望は声をかけた。
「主人さんですか? さっき屋上の方に行きましたけど…着替えもせずに走って行きました」
それだけ聞くと望は屋上へと急いだ。
そこには雨の中、水着のまま濡れて立っている公がいた。望は自分が濡れるのも構わず飛び出した。
「コウ君!!」
「来るな!」
公が向こうを向いたまま望に言った。
「今は…来ないでくれ…」
「どうして?
 コウ君…頑張ったもの。3位と言っても世界記録だよ。
 決勝にいけなくても…オリンピックに行けなくても…コウ君は十分努力したじゃない」
「努力の過程じゃない…結果が大事なんだ…」
「あの週刊誌のこと気にしてるの?」
「……」
「あんな週刊誌には言わせておけばいい。私は…コウ君が…」
そう言うと望はびしょぬれになりながら公の背中にしがみついた。
「清川さん…」
「そんな他人行儀な呼び方やめて! 望と呼んで!」
「望…」
公が振り返り望と向き合った。
「オレ…」
「もういいの。
 コウ君はオリンピックに行けないけど…私にとっては、コウ君は世界で一番速いKing of Swimmerなんだから」
「望…」
「私の金メダルをあげる」
そう言うと望は公の肩をつかみ背伸びをした。
そして公の唇に自分の唇を重ねた。
激しい雨が二人の体をぬらし続けた。
水着の公はともかくとして、望のTシャツやキュロットもびしょぬれだった。
しかし、二人はそんなことは全く気にしてはいなかった。
雨にけむる屋上で二人の影が一つになった。雨が二人をぬらし続けていた。

to be continued...

作品情報

作者名 ハマムラ
タイトルときめきメモリアル短編集
サブタイトル私の金メダル
タグときめきメモリアル, 藤崎詩織, 主人公, 他
感想投稿数163
感想投稿最終日時2019年04月09日 19時24分50秒

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  • [★★★★★★] 今更ながら 見てて気分がいいね。
  • [★★★★★☆] 今読みなおしてもときめきを感じる作品ですね。