(1)

ポンッ!という派手な爆発音とともに、黒い煙があがった。
その一番近くに居たのは俺だった。
フラスコからわきあがる黒い煙を顔に浴びながら、『フラスコがわれなくて良かった‥‥』と思っていると、
「…、大丈夫!? けがはない?」
と、詩織が心配そうに駆け寄ってきた。
「‥‥ん? あ、ああ、なんとかね‥‥」
ちょっとビックリしたくらいで、これくらいはいつもの事だ。
そのたびに詩織が心配してくれるのはありがたい。
「本当に気をつけてね‥‥‥はい」
そう言って濡れたハンカチを俺に差し出してくれた。
「いつも悪いね‥‥洗って返すから‥‥‥」
ゴシゴシと顔を拭くと、ハンカチが真っ黒になる。
「ううん、いいの‥‥‥それより、本当に気をつけてね」
心配そうな目で見られてると、なんかつらい。
「‥‥ところで、なんの実験だったの?」
「そう、それなんだけどね。今度電脳部と合同でやる企画があったよね?」
「あ、そういえば‥‥‥なんかクローン生物の培養とかっていうあれ?」
「そうそう。それの培養液の合成をやってるんだけどね」
「でも、培養液がなんで爆発しなきゃならないの?」
おかしそうに笑った。
「俺もそう思うんだけど、電脳部の紐緒さんが、この調合をよろしくって薬品を預けていったからしょうがないよ‥‥‥」
やれやれという顔で、俺は机の上を見つめた。
「‥‥‥なんか‥‥すごいね」
「だろう?」
そこにあるのは、まさに中世の魔女の部屋を彷彿とさせる、奇怪な薬品の数々があった。
中には、ビンにつめられた得体の知れない生物が入った液体まである。
しかも、その生物はピクピクと動いていた。
ほかには、見た事もないような植物の束まであり、その植物の花の部分からはケケケケと小さな笑い声がする。
「学校にあんな物保存してあったのかしら‥‥」
「紐緒さんが自分で持ってきた物らしい」
俺と詩織は、顔を見合わせて、ため息をつき合った。


三ヶ月後−

「そうね。これでいいわ」
紐緒さんが成分表のコピーを見ながらうなずいた。
「‥‥‥これ、全部紐緒さんが?」
詩織が、目の前にある巨大な円柱型の水槽を見て、驚きの声をあげた。
無理もない。俺も茫然とならざるを得ない。こんな物を見せられては‥‥
水槽の土台の機械らしき物からは、大小入り乱れたパイプがからまるように出ている。
そのパイプのうち、数本からは、常に蒸気が吹き出していた。
「培養マシーンよ。これに、生物の細胞の切れ端を入れて一晩煮込めばクローンの出来上がり」
「煮込む‥‥‥?」
顔に縦線が入りそうな単語だ。
「何か不都合でもあるのかしら?」
「‥‥あ、いや。別になんでもないけど‥‥‥」
「当然よ。私のやる事に間違いは無いのだから」
「紐緒さん、すごいのね‥‥」
詩織は結構本気で感心しているようだったが、なんかこの場にいたたまれなくなった俺は、詩織を促して電脳部を出ていった。
「‥‥‥‥フフフ」
紐緒さんが、この時ニヤリと笑っていたのを俺は知らない。
どこから調達したのか、二本の髪の毛を持っていた事を俺は知らない。
知っていたら、あんな問題にはならなかっただろう。
俺と詩織の髪の毛であるという事を‥‥


放課後、俺は校舎を振り返った。
「ん?どうしたの?」
きょとんとした顔で、詩織が聞いてきた。
「あ、いや‥‥‥なんかこう、いやな予感が‥‥」
「ふーん‥‥‥」
訳もわからないという風に、とりあえず生返事だけが返ってきた。
あとで、当事者になる事も知らない二人だった。

(2)

その夜、天気は急に下り坂になっていた。
天気予報では、ここ一週間晴天に恵まれると言っていたのだが・・・
「きゃっ!!」
詩織は、不安そうに空を見ていた時に、落ちてきた雷におびえてカーテンをとっさに閉めた。


稲光が、人影を照らした。
白衣を着たその姿は、目のまえにある巨大な水槽をみつめながらほほえんでいた。
紐緒結奈
電脳部の部長である彼女は、自らの行なおうとしている実験の成果を見届けるべく、一人部室に残っていたのだ。
「順調ね‥‥」
そうつぶやく。
水槽の中には、下の台から照らされたライトに浮かび上がる人影が膝をかかえる格好で浮いていた。

全裸の女性であった。

水中に漂うその美しさは、水の女神を思わせたが、それが悪魔の所行によってつくられた物と知ったら、神は戒めのイカヅチを落とすのだろうか‥‥
数時間後、紐緒は一つのスイッチを押した。すると、台座の機械からは勢い良く蒸気が吹き出し、水槽の中の液体がどんどん抜けていく。
全部なくなると、中に居た女性がピクリと動き出した。
同時に水槽が台座に沈んでいき、中の女性は完全に外気に触れた。
中の液体は煮込むと言った通り、暖かかったのか、湯気をあげている。
「ふふふふ、どうやら完成ね」
タオルと下着、それに学校の女子用の制服をもった紐緒が、ゆっくりとその女性に近づいていった。


「よ、おはよう詩織」
「あ、おはよう…」
自宅を出ると、すぐに詩織と出くわした。
やたらタイミングが良すぎるような気もするが‥‥‥
「昨日‥‥‥雷と雨すごかったね」
「ああ‥‥」
俺は答えながらも路面を見つめていた。
雨に濡れた形跡なんてどこにもない。
それをあえて詩織に言う事もないと思い、そのまま見過ごして俺達は登校した。


教室に付くと、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
「なんだ騒々しいな‥‥」
「おいっ!聞いたか!?」
いきなり好雄に呼び止められた。
「聞いたかって‥‥‥なにを?」
「今日、このうちのクラスに転入生が来るらしいぜ」
「え?いまごろ?」
「そうなんだよ。しかも、聞いて驚け!女の子らしいぜ。とびっきり可愛いらしいぞ」
「お前‥‥‥そーいう情報だけは早いんだな。一体どこからそんな情報仕入れてくるんだ?」
「企業秘密だ」
将来、好雄は営業マンかなんかになったら、きっとスゴイ活躍をするんだろうなという事をボーっと考えていると、朝のHR開始のベルが鳴り響いた。
「いよいよだぞ」
好雄がわくわくしながら、自分の席に戻っていくのを見ながら、『気楽でいいよな』と思っていると、教室のドアがあいた。
担任がまず入ってきた。
「起立! 礼!」
一日が始まった合図だ。
「今日は転入生を紹介する。入ってきなさい」
いよいよ、紹介される時が来たか。
と、好雄のワクワクが写ってしまったかのようにドキドキしてきた。
入ってきた女の子を見たとたん、男子生徒は、小さな驚きの声をあげた。
女子は、さすがに伊集院を見慣れているだけあって、女だろうが男だろうが美形には免疫があるようだが、入って来た女の子を見る目に、驚きの色が少しあるようだった。
たぶん、一番驚いたのは俺と詩織だったかもしれない。
「おはようございます」
「さ、自己紹介をして」
「はい‥‥‥初めまして。私の名前は紐緒香織といいます」
紐緒香織と名乗る少女は、まず名前で俺を驚かせた。紐緒ということは
あの紐緒さんの関係者‥‥という事。
そして、一番驚いたのは、香織という少女が、限りなく詩織の雰囲気をとどめている事だった。
「‥‥‥おい、あの子藤崎に似てないか?」
好雄がとなりの席で俺に小声で言った。
「あ、ああ‥‥‥でも‥‥‥」
詩織の方をみると、詩織の方も結構ビックリしているようだ。
髪を伸ばしてヘアバンドをさせれば、もっと似るのではないかと思う。
「よろしくお願いします」
自己紹介が済み、香織が頭を下げた。
「そうだな‥‥‥席は、…のとなりが空いてるからそこへ座りなさい」
担任が、俺のとなりの空席を指さした。
「はい」
香織は俺の隣に座り、「よろしくね」と声をかけてきた。
「こ、こちらこそ‥‥‥」
なんか横に詩織が来たみたいで、なんとなく妙な気分だった。
それに、なぜかどこかで会ったかのような感じさえしている。
「ね、ね、紐緒さん。もしかしてあの紐緒さんの身内?」
好雄が俺の机ごしに香織に話かけてきた。
「ええ‥‥‥遠い親戚なんです」
「へえ‥‥そうなんだ。で、趣味は誕生日は血液型はスリーサイズは?」
「おい、好雄。お前そーいうのは後にしろ後に」
「なんだよいいじゃないか」
「俺の机越しにやることじゃないだろ」
「ちぇっ、わかったよ。じゃあとでいろいろ聞かせてね」
好雄は香織に手を振ってひきさがる。
「あ、あの‥‥‥」
「ん? なに?」
「…さんって‥‥‥あ、いえ、なんでもないです‥‥」
何かを言いかけて、口をつぐんでしまった。
何か気になるな‥‥

放課後、俺と詩織は電脳部に赴いた。
「紐緒さん、スゴイびっくりしたよ。親戚にあんな子が居たなんて」
「あら? 言ってなかったかしら。でもいいじゃない。よろしく頼むわ」
「‥‥‥それより、あの機械はどこへ行ったの?」
詩織が部室内をキョロキョロと見回した。確かにあのでかい機械がどこにも無い。
「あ、あれね。あれは重大な欠陥が発見されたので、今修理中なのよ」
「‥‥‥あ、そうなの‥‥」
ふーんという感じで、詩織は納得している。
「それじゃ、私はまだ研究が残っているので」
ようするに、出て行けという事だな。
「あ、ああ‥‥‥おじゃましました」
俺達が出て行こうとすると、不意に紐緒さんに呼び止められた。
「‥‥‥あの子を見て、あなた達、何か感ずるところはない?」
「え?別に‥‥でも、詩織に良く似てるよね」
「そうね‥‥私もちょっと驚いちゃった‥‥‥」
「そう‥‥ならいいわ。ありがとう」
「はあ‥‥‥」
俺達は狐に化かされたような感じで、電脳部を後にした。

校門の前で詩織が待っていた。
「あ、…」
そう呼び止められたかと思った瞬間、
「…さん。待って」
と声がかかった。
振り向くと、香織が小走りにかけてくるのが見えた。
「はぁはぁ‥‥‥よかった。間に合って」
「どうしたの?」
「一緒に帰ろうと思って」
「え?」
俺は思わず待っていてくれたであろう詩織を見た。
「あ、いいの。別になんでもないの。じゃ、さよなら‥‥‥」
ぎこちない笑顔を浮かべながら言って、そそくさと帰ってしまった。
「あ‥‥‥」
呼び止めようとあげた手を、香織が抱き締めた。
「え?」
「さ、帰りましょう‥‥」
なんて大胆なんだと驚く暇もなく、腕を引っ張られてしまった。


「紐緒さんの家って、こっちの方なの?」
誘われるまま歩いていたが、いつもの帰り道とほとんど同じで
あと少しで自分の家についてしまおうかというくらいのところまで来た時に訊いてみた。
「あ‥‥‥う、うん。そうなの」
「へぇ、そうだったんだ。俺のうちはもうすぐそこなんだ。
 さっき門の所に居た詩織は、俺のとなりに住んでるんだよ」
「うん、知ってます」
「え?」
「あ、いや、早乙女君にそう聞いたんです‥‥」
「なんだ、そうか‥‥‥」
話しているうちに、うちの前に来てしまった。
「じゃ、俺はここだから」
「はい‥‥‥じゃ、さようなら」
香織とわかれてから、俺は、自室に入って、ふと窓を見ると、うちと詩織の家の真ん中あたりの道路で、香織がジーっとこちらを見ているのに気づいた。
向こうもそれに気づいたのか、そそくさと消えてた。
「‥‥‥なんか変わった子だなぁ」
それでも、どこか親しみを感じずにはいられない、不思議な魅力があることを
感じずにはいられなかった‥‥‥

(3)

−香織− Classmate

香織が転入してきたその翌日から、とんでも無い事が起きていた。
やたらと俺にまとわりつくようになっていったのだ。

もちろん、悪い気はしない。
同時に、詩織がなぜか俺に対してだけ怒っているような気がするのだが、これは気のせいか・・・
香織は、同時に詩織にも懐いてしまって、たまに困ったように俺の方を見るのだが、俺が見つめかえすと、とたんにプイっとそっぽを向いてしまう。
しかし、なんか香織と居る詩織は悪い気はしていないようだ。
むしろ、なんやかやと詩織が世話を灼く形にさえなっている。
似た者同士だからなのだろうか‥‥‥

「どう? あの子は。ちゃんとやってる?」
科学部の部室に紐緒さんが来るたびに、開口一番言う言葉がこれだ。
「あ、うん‥‥ちゃんとやってるみたいだけど。なあ詩織‥‥‥」
「え‥‥‥あ‥‥」
俺の方を一瞬見るには見るが、気まずそうにすぐそっぽを向いてしまう。
「あら? どうしたのかしら。喧嘩でもしているのかしら?」
「け、喧嘩って‥‥そんな」
俺があわてると、紐緒さんがなぜかニヤっと笑った。
「まあ、当然の結果ね」
「え?」
「‥‥‥いえ、なんでもないわ。
 引き続き、あの子の面倒を見てやってちょうだい」
あくまで冷静に言い放って、紐緒さんはさっさと出ていってしまった。
入れ替わりに、香織が入ってきた。
「…さん。今日も一緒に帰りましょう」
俺の腕に抱きつく。
それを見た詩織が、ちょっとムっとしたように見えた。
「藤崎さん、いいでしょ?」
突然何を言うのかと、俺はたまげた。
「え‥‥わ、私は別に‥‥‥」
困ったような顔をしている。
「そう、じゃ、帰りましょう。…さん」
「わ、わかったよ‥‥‥それじゃ、詩織‥‥」
答えはなかった。俺ばかりを責めるような目で見ていたきりだった。
「それじゃ、藤崎さん。お先に」
「‥‥うん。さようなら」
普通、こういう場合はなんとなく香織の方にも俺に対したのと同じ行為をするものだと思っていたが、香織には優しい眼差しを送っていた。
むう、なんだかわけがわからない。
「あ、…」
「ん?」
「ううん、なんでもないの‥‥‥」
詩織の複雑な表情を読み取る事はいまの俺にはできない。
「‥‥じゃ、お先に」
俺はいつものように、香織に腕をひっぱられて歩きだした。


香織は、俺だけでなく詩織とも一緒に帰っているようだった。
なんか、交互に入れ替わりやっているのが、どういうつもりだかわからないが行動の一つ一つに、言い様のない親しみというか、そういう心地よいもやもやがある事だけは確かだ。
詩織に良く似ているからかもしれない。
「おかしな子だよな‥‥‥」
苦笑する余裕すらある。


「こんにちは〜」
いつものように、香織が科学部部室に入ってきた。
もうこうやって来るようになってから、2ヶ月は経っている。
体育際にも積極的に参加していた香織は、すでにクラスの一員と化していたりと、人気も高い。
「やあ、香織ちゃん」
「今日はね‥‥‥一緒に帰ろうと思って」
香織は、なにかを隠したように上目使いで俺と詩織をみつめた。
「一緒に‥‥って、いつも一緒にかえっているじゃないか」
「ううん、違うの。今日は二人と一緒に帰ろうと思って」
「二人って?」
「…さんと詩織さんと一緒に」
「え?」
詩織と声をそろえてしまった。
「いやですか?」
香織の何かを訴えるような目に、俺は戸惑ってしまった。
「う、うん‥‥いやって事はないけど‥‥‥」
ちらりと詩織をみると、詩織もこっちを見ていた。
香織がなじんでから、俺達に気まずいという感覚は無くなっていたが、いざこう言われてみると、なんとなく照れくさい。
「じゃあ‥‥‥」
「わかった。一緒に帰ろう」
俺が頷くと、詩織もうれしそうに同意した。

−香織− The daughter

「もうそろそろ夏休みですね。気持ちがいいな‥‥」
俺と詩織が香織を挟むようにして歩いて居る。
香織はいつも一緒に帰る時とは比べ物にならないほどうれしそうだ。
「香織は夏にどこかへ行く予定があるの?」と、詩織。
もうすっかり友達になっているらしく、詩織は香織と呼び捨てにしている。
「ううん、ないです」
詩織と香織を横に並べてみると、本当に良く似ているのがわかる。
時たま、ドキっとするくらい似ているのだから、複雑な気分だ。
「香織ちゃん、俺達同級生なんだからさ。もっと気楽にしていいよ」
「え? ‥‥あ、いいんです‥‥私この方が」
「そう‥‥ま、いずれもっと気軽に話せるようになるよ」
「‥‥‥‥そうですね」
この時、ちょっとだけ香織の表情が沈んだのを俺は見逃していた。
「詩織さん、夏にどこかへ行くんですか?」
「えーとね、一杯泳ぎに行こうかと思ってるけど」
「そうなんですか。私もご一緒させてもらっていいですか?」
「うん、いいわよ」
「わーい。…さんも一緒に行きましょうよ」
「え? あ? 俺も一緒にか?」
「いいじゃない。…も一緒に行きましょう」
「そ、そうか‥‥‥」
思わぬ予定ができた。しかも詩織と一緒だ。ラッキー。
「ね、手つないでいいですか? カバンお願いします」
と、俺にカバンを持たせたかと思うと、いきなり手を握ってきた。
なんと、もう一方の手は詩織と握っている。
「うれしいな」
香織は子供っぽくはしゃいでいた。
端からみれば、非常に恥ずかしい状況だった。
高校生の男女が3人そろって手をつないで帰宅するなどと、高校生の風上にもおけないほどだろう。これだけは古典的に恥ずかしい。
それでも、なぜか悪い気はしない。
実は、香織がやらなかったら俺がそうやってかもしれない。そう思う所がどこかにあったからだ。
「香織ったら‥‥‥」
詩織も赤くなりながらも、イヤという気はしていないようだ。
「わたしね‥‥クラスのみんなも好きだけど、二人の事一番好きです」
そう言われれば、誰でも悪い気はしない。俺だって、いまこの手でつながっている二人の事は‥‥‥
「あ、それじゃ、俺達はここで」
気が付けば、いつのまにかうちの前だ。
「今日はありがとうございます」
手が離れる瞬間、俺は離したくないと思った。離したらもう二度と戻ってこないような気がしたからだ。
「‥‥‥それじゃ、さようなら」
香織は、今来た道を引き返して行ってしまった。
「‥‥‥香織、家はこっちの方じゃないのかしら」
「俺もずっと気になってて‥‥‥
 いつもここまでは一緒に帰るんだけどその後に帰る方向がいつもバラバラだ‥‥こないだはあっちの道へ行ったし」
「香織‥‥‥」
「詩織、あの子見てるとさ‥‥なんか変な気持ちにならない?」
前々から言おうと思っていた事を聞いた。
「うん、私もそう思う。なんか放っておけないっていうか‥‥‥
 いつも明るそうなんだけど、どこか寂しそうで‥‥」
「そうか、詩織もそう思っていたのか」
「うん‥‥でも、なんかとても他人とは思えないの」
「俺もなんだ」
「不思議な子よね‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
無言で、香織の消えていった方をみつめた。

−夏休み− Summer Illusion

照りつける太陽が、今年は特に強かった。
去年の冷夏が嘘のように、今年は猛暑になるとの発表を、今日のニュースで見たばかりだった。
「暑いですね」
「ああ」
「…さん、夏生まれだから、暑いのには強いんですよね?」
「ああ」
「詩織さんは、暑いのは駄目ですか?」
「え、ええ‥‥‥私も別に暑いのは嫌いじゃないけど」
詩織は俺の顔を見て、苦笑した。
俺が仏頂面しているのがおもしろいのではなく、なぜ仏頂面をしているのか。その理由で面白いのだろう。
「紐緒さん」
「なにかしら」
俺は、俺達3人の後ろにくっついて歩いている紐緒結奈に声をかけた。
氷のような答えが返ってくる。
「なんで紐緒さんまで一緒に?」
3人だけだったはずが、なぜか香織に紐緒さんがくっついて来たのを見たときはちょっとガッカリした。
「何か不都合でもあるのかしら? 私は香織の保護者なのよ」
「ま、まあいいじゃない‥‥多い方が楽しいしね‥‥」
苦笑しながら、なんとかなだめようとする詩織。
「いいよ。じゃ早く行こう」
そうだな。いつまでこういう状況を渋ってても仕方無い。悔やむより前へ進めだ。
「私、プール行くのって初めてなんだ」
「え? 香織ちゃん、プールって初めてなの?」
「あ、い、いや‥‥‥ここの街のプールは初めてってことなの」
ちょっと慌てた風に言葉を直した。
「ここのプールはウォータースライダーとかあって面白いわよ」
「ええ! そうなんですか。わーい、楽しみだなぁ」
「香織ったら‥‥」
楽しそうな詩織と香織を見ているだけで、こっちまで楽しそうになってくる。
俺達と同年代なのに、若干精神的に子供っぽく見えるので、まるで仲の良い姉妹を見ているような気にさえなる。
実際、まわりからみれば、誰もが疑わないだろう。もうちょっと香織が年齢低かったら、雰囲気的に姉妹というより親子だ。
「私ね‥‥‥お父さんとお母さんがいないの」
「え?」
突然の告白に、俺は凍りついた。詩織も同じだ。
「いないって‥‥どこかへ出張でも?」
最悪の状況にたどりつくまいとして、とりあえず一歩良い方向へ持っていこうとした。
「ううん‥‥ずっと私一人だったの」
曖昧に答えられたような気はするが、ようするに小さい時から一人らしいというのはわかった。
それ以上何も聞く気はない。
「でもね、…さんと詩織さんが居てくれれば、香織幸せなの」
弱々しい笑顔に、詩織はたまらずに香織の頭に手をおいた。軽く髪を撫でている。
「香織‥‥‥」
「お母さん‥‥‥」
「え?」
「あ、い、いえ。ごめんなさい。お母さんってこんな感じかな‥‥って」
気を取り直したように微笑みを取り戻し、詩織から離れた。
「さ、はやく行こう!」
夏の光を全部身体に集めようとしているかのように空を見上げ、香織は俺達を促した。

(Interude)

「詩織さん、一緒に帰りましょう」
紐緒香織が、最後の授業を終えて片付けている詩織の所へやってきた。
「あ、香織‥‥‥うん、ちょっと悪いんだけど、今日はちょっと部活に出ないといけないの」
詩織が残念そうな微笑みを香織に向けた。
「‥‥‥そうなんですか」
香織の方が、目に見えて残念そうな表情をする。
「香織‥‥ごめんね。明日一緒に帰りましょう。約束するから」
香織の表情があまりにも残念そうだったのか、詩織の表情から笑顔が消えた。
いつも一緒に帰るのを、詩織自身も楽しみにしていたからだ。
「今日、…が急用で先帰っちゃったでしょ? だからどうしてもわたしが出ないといけないの。
 ほんと‥‥‥ごめんね」
「ううん。いいんです、わたしのわがままだったんですから」
「香織‥‥‥」
詩織も、香織が感情を隠さずに出す子だというのを知っているのだろう。
それだけに、香織の無理して作った笑顔に強く胸を痛めていた。
「それじゃ、明日‥‥かならず一緒に帰ろ。ね?」
「はい」
無理をした元気な返事が、詩織の胸に重く残った。


部の会議が終わった頃には、もうすっかり陽が西に傾いて、浮かぶ雲を赤く染め上げていた。

詩織は、資料の片付けが終わった後に部室のドアを開けて廊下に出た。
廊下の窓から差し込む茜色の光が、四角い形となって壁に張り付いている。
昼間は明るかった廊下も、夜の準備をしているのだろう。
どこか寂しげな雰囲気がある。
「もうこんな時間‥‥」
会議が長引いたのと資料の片付けとで、随分遅くなったせいだった。
部長の…が居ない今、副部長である彼女にとっては、多すぎる仕事だったのかもしれない。
腕時計を見ると、すでに五時を少し回っていた。
詩織がドアをゆっくりと締めた時、いきなり声がした。
「詩織さん」
「えっ‥‥‥」
驚いて振り向くと、廊下に香織が立っていた。
長い影を廊下に落としている。
「香織‥‥‥」
信じられないような声を上げた。
教室で別れてから、もう二時間近くもなる。驚くのも無理はない。
「どうしたの?」
「詩織さん待ってたんです」
香織の微笑みが、夕日に照らされて紅い。
「どうして‥‥‥明日一緒に帰るって約束したじゃない」
少し声をあらげた。もちろん、怒っての事ではない。待たせてしまった事への後悔からである。
たとえ約束していなくても、後悔はしただろう。
そういう所が、彼女の優しさでもあった。
「そうなんですけど‥‥でも、どうしても一緒に帰りたくて」
「ほんとに‥‥」
そう言って苦笑した。
待っていてくれた事が、心のどこかで嬉しかったのだろう。
「迷惑でしたか? もし迷惑なら私一人で‥‥‥」
「香織。誰も迷惑だなんて言ってないじゃない」
ニッコリ笑ってみせた。
「ほんとうに?」
「あなたに嘘ついたってしょうがないじゃない。もう遅くなるから一緒に帰りましょう」
そう言うと、香織の顔に心底からの笑顔が浮かぶ。
詩織はその笑顔を見るのが好きだった。
「嬉しい」
「ふふふっ‥‥‥香織ったら」
小さく詩織が笑うと、よほど嬉しかったのだろう。詩織の腕に抱きつくようにして腕を絡めた。
「ちょ、ちょっと‥‥香織ったら‥‥」
それでも、困った表情はしていない。むしろ嬉しそうだ。
「校舎を出るまで‥‥‥こうやってていいですか?」
そう言われて、一瞬だけ困ったような表情をした。もちろん嫌だからという訳でなく、人に見られるのが恥ずいからにすぎないのだろう。
しかし、少し香織を見つめた後に、一つだけ頷いた。
人気の無い薄暗い校舎が後押ししてくれたせいだろうか。
大丈夫だよ。と。
「じゃ、校舎出るまでよ」
「うんっ」
子供のように嬉しそうな声を一つ。
二人の影は、一つになって廊下に長く長く伸びていた。

(Interude 96/06/22 発表)

(4)

−プール− light of sun

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
と絶叫を響かせて落ちてきたのは詩織だった。
去年やっていらい、すっかりハマってしまっているようだ。
「はぁ、面白かった」
「お、次は香織ちゃんの番だ」
ほどなく、香織も絶叫を響かせて降りてきた。
「すっごい恐かったけど、すっごい楽しかった」
満面の笑みを浮かべてよろこんでいた。
去年の詩織も、確か同じふうにしていたような気が・・
「ねえ、この水着どうかな?」
香織が聞いてきた。
「え? ‥‥‥とっても可愛いよ」
デザインと色のセンスが、詩織の水着と良く似ているので去年と同じ反応をした。
「え、うれしいなぁ‥‥でも恥ずかしいな。きゃっ」
ちょっと子供っぽいが、ほとんど詩織と同じ反応をする。
この時点で、俺はあることに気づいていた。
となりに居る詩織と香織を見比べてみてそれは気づいた。
体型が似ているのはともかく、仕草や行動が、一定の範囲内で良く似ている事であった。
たぶん、香織が髪を伸ばして後ろを向いたら、詩織と区別をつけるのが物凄く難しくなるのではないかと思うほどに。
「…君。ちょっといいかしら?」
紐緒さんが、俺の方に近寄ってきた。
ワンピースの水着だが、体型は詩織達よりは幾分大人の感じがする。俺は思わず息を飲んだ。
「な、なに? 紐緒さん?」
「ここじゃなんだから、ちょっと来てくれないかしら?」
「い、いいけど‥‥‥」
「それじゃ、私たちは飲物買ってくるから」
紐緒さんは、詩織達にそう告げると、さっさと行ってしまった。


−紐緒− Mad scientist

「あなた。何か気づいているわね?」
「なにかって、なにを?」
「あの二人の事よ」
「詩織と香織ちゃんの事?」
「ええ」
紐緒さんの目は、冷静だった。研究の成果を一滴も無駄にはしないという研究者の厳しい目なのだろう。
「別に‥‥‥でも、すごく良く似てるのは確かだけど。
 それに、気づいているかどうか知らないけど、詩織の肩の後ろにある黒子の位置まで同じだった‥‥」
「さすがね」
「は?」
「私が見込んだだけの事はあるわね。それでこそあの子の素材に選んだという物だわ」
俺には話が見えなかった。
奇妙な符号の一致には、なんとなく疑問を持ち始めてはいたが、そこから先は、考えが及ぶところではなかった。

「良く聞きなさい。あの子はクローンなの」
「‥‥へ?」

俺は石化した。
当然だ。クローンという言葉を聞いて、思いあたる事はあるにしても、人間がクローンだ……という考えには、聞いた今も及んでいない。
「クローンって? 何が?」
「そーいう所は察しが悪いわね。あの香織という子は、クローン人間なのよ」
「え?」
二度目の石化だ。
「あの子は、あなた達科学部と我が電脳部の技術の結晶。
 そしてあの子を構成する細胞の素材となったのは、あなたと詩織さんの髪の毛。
 この二つを合成して一晩培養液につけて煮込んだの。あなたと詩織さんで3:7の割合ね」
「だって、あれは重大な欠陥があるって!」
「ええ、重大な欠陥があったわ。
 あの子の身体を固着させているDNAの強さを高める事が出来なかったの。
 ‥‥だから、あの子の身体はあと持って一週間」
「え‥‥‥そ、そんな事って‥‥」
ようやく、いままでの疑問が氷解してきたとはいえ、やはり信じられない。

クローン。
俺と詩織の細胞。
あと一週間の命。

頭の中で渦巻いて、俺は倒れそうになった。
「あと一週間もたてば、あの子の身体は機能しなくなってしまうわ」
「嘘だろう?」
「私は嘘を一度も言った事はないわ」
「な、なんてことを‥‥‥」
俺は、怒りを一気に飛び越えて、脱力ゾーンにまで落ち込んでしまった。
もう、立っているのもやっとだ。
「あの子を作ってから、学校のコンピューターにハッキングして、偽りの経歴を全部放りこんでおいたから、だれにもバレていないわ。
 あの子はうちに帰ってから、ずっと培養液の中に漬かっていたの。
 そうしなければもうとっくに身体を構成できなくなっていたでしょう」
俺はついにがっくりと膝をついた。

香織は言わば俺の分身。
方法さえ違わなければ、娘という事にもなる。
そうか、それでわかった。なぜ親近感を覚えるのか。
あの子は、俺でもあり詩織でもあった訳だ‥‥‥

「最初、あの子は戸惑っていたわ。
 圧縮学習でとりいそぎの情報は与えてあるから高校生としては、申し分無いんだけど、肉親‥‥つまりあなた達へのつながりというか精神的肉体的な物を越えたつながりみたいなのに、ずいぶん悩まされていたようよ」
「‥‥‥‥」
俺の耳には、もう届いていなかった。
それでも、紐緒さんは続けた。
「だから、最初はあなたとか詩織さんを困らすような真似ばかりしていた筈よ。
 自分の元となった人達という事は教えてあったけど、自分に近い物を嫌ったり困らせたりする近親憎悪というのが、変な形ででちゃったようだから。
 それになんとなく妬いていた節も見あたっていたようね」
俺は、ふらふらになって、詩織達のところに戻ろうとした。
「いいこと。詩織さんにはこの事は絶対に言っては駄目よ」
言えるかそんな事‥‥‥
「香織ちゃんは‥‥その事を知っているのか?」
「‥‥‥‥‥‥」
紐緒さんは答えなかった。それが答えという事か。
足が1トンくらいになった気がした。

−香織− error

「‥‥‥遅かったじゃない」
プールサイドに腰掛けた詩織が、俺に気づき、声をかけた。
「あ、ああ‥‥」
「…さん、顔色がちょっと悪いみたい‥‥」
「大丈夫、大丈夫だよ」
まともに香織と詩織の顔を見れない。
「俺ちょっと休んでいるから、もうちょっと泳いでくれば」
「‥‥‥そう。じゃ少し泳いでくるから」
そう言って、詩織と香織はプールの方へ行ってしまった。
俺はもう起き上がれない気がした。


紐緒さんと香織と別れてから、
「今日は楽しかったね」
「あ、ああ‥‥‥」
「香織ったら、何度もウォータースライダー乗ってふらふらになって」
思い出しているのか、おかしそうに笑った。
「そう‥‥‥」
「どうしたの。‥‥‥元気無いわね」
「詩織‥‥‥実は‥‥」
「なに? どうしたの?」
「香織ちゃんの事なんだけど‥‥」
「え‥‥?」
「‥‥紐緒さんから聞いた話だと、あと一週間くらいで海外へまた戻ってしまうらしいんだ」
「そんな‥‥‥せっかく仲良くなれたのに。香織からもなにも聞いてない‥‥」
「急な話だったらしい」
詩織は、信じられないという風な表情で、茫然としていた。
本当の事を聞いたら、どんな風に思うか‥‥‥
「今度近いうちに‥‥香織ちゃん誘って、KMN楽団のコンサートに行こうよ」
気を取り直して、笑顔を浮かべてみたが、きっとそんなにうまくは笑えていないだろう。
「でも‥‥‥香織ちゃん。クラシック好きかしら」
「大丈夫。俺が絶対保証するって」
「あの子の事、なんでも知ってるのね」
「ああ、俺が詩織の事をなんでも知っているようにね」
冗談っぽくカッコをつけてみたが、本心はそのままだ。
「そうなの‥‥‥」
夕暮れせまる街中を、俺達は家路を急いだ。

(5)

−電話− bad women

「わかったわ。それじゃ5日後に香織をそちらに向かわせるわ」
「紐緒さん‥‥」
「なにかしら?」
「‥‥‥なんでこんなひどい事を?」
「なんと言われようと仕方無い事だけど、私は自らの研究を追求して行く事こそが命題だと思っているわ。
 その為には、人道はずれた事も必要なの。
 ひとえに私の探究心を満たす研究の為‥‥‥と言っても、あなたにはわかるかしら」
「わからないよ」
「そう‥‥」
初めて、紐緒さんのいつもと違う声がした。
「紐緒さん、君はひどい人だね」
「なんて言ってもらっても構わないわ。わかってもらえる人だけでいいのだから」
「‥‥‥詩織には、香織ちゃんは海外に行くと言っておいたよ」
「賢明な処置ね」
「‥‥じゃ、当日香織ちゃんを」
「わかったわ」
そう聞いて、すぐに電話を切った。
心が重い。


−香織− last vacation

「遅れてごめんなさーい」
俺と詩織が待つ家の前に、香織がかけてきた。
息をきらせているのをみて、彼女がクローン人間であることを信じられなくなっている。
「香織ちゃん、大丈夫?」
息の切らせ方が少し異常だったので、俺は少し心配になった。
「え、ええ‥‥走ってきちゃったから‥‥‥」
なんでもないと、元気に息を整えていた。
笑顔が元気だったので、俺は安心した。あの日までまだ2日あるという事があったからかもしれない。
「今日のコンサート、スゴイ楽しみにしてたんです。私クラシック大好きだから‥‥‥」
「ほらね」
「私も大好きなの。そうだ‥‥今度CD貸してあげる。
 …からプレゼントでもらったの、すっごく良かったから‥‥」
いいでしょ? という感じで俺を見つめる。異存なんてあるはずがない。
「きっと気に入ってもらえると思うよ」
俺も同意する。
「うん。ありがとう」
「じゃ、行こうか」
そう言うと、香織は俺の腕にしがみついてきた。
「お父さん‥‥‥」
香織は、誰にも聞こえない声で、心の中9割、口に1割くらいの声でつぶやいた。
「香織と…って、なんか良く似てるよね」
「え?」
「なんか、仲の良い兄妹って感じよね」
そうか、詩織も核心から全然遠いまでも、似ている事は気づいていたのか。
兄妹よりは、親子に近い感じではあるが。
「ねえ、詩織さんって‥‥‥、…さんの事どう思っているんですか?」
このいきなりの質問は利いた。
この子には石化ばかりさせられる。
「え! ‥‥わ、わたしは‥‥‥」
ボッ! と頬が赤くなる。
「か、香織ちゃん、そんな事はどうだっていいじゃないか。早く行こうよ」
「え〜、聞いてみたいのにぃ〜」
「いいからいいから、早く」
腕ごと香織を引っ張っていく形になる。
本当は聞いてみたかったけど‥‥‥
「香織ちゃんは、俺の事どう思っているの?」
「もちろん、大好きです!」
なるほどね。
俺はなんとなく照れてしまった。

−コンサートホール− requiem

コンサートホールの前は、クラシックコンサートだけあってか、さほど混雑はしていなかった。
毎年くるという事もあるのだろう。
「香織、大丈夫?」
詩織が、コンサートホールに付くなり、顔色がわるくなっている香織を詩織が心配そうに抱えていた。
俺はピンと来て、あわててかけよる。
「香織ちゃん、大丈夫!?」
「う、うん‥‥‥大丈夫」
苦しそうなのに、ニコっと笑う姿が、俺の胸に突き刺さった。
小さい時、詩織が風邪を引いて寝込んでしまい、俺がお見舞いに行った時に見せてくれた笑顔に良く似ていた。
手を香織の額に当てて、俺はさらに愕然とした。
熱がほとんど無い。汗ばんでいたなら、もっと冷たく感じたのかもしれない。
「なんてことだ‥‥‥」
宙を仰ぎ見て、そのあと俺はすぐに行動にうつった。
「詩織、香織ちゃんを頼む。ちょっと紐緒さんの所に電話をしてくるから」
すぐに駆け出して、電話に飛びつくようにして紐緒さんの所へ連絡を入れた。


「…、どうしよう‥‥‥香織がどんどん具合いわるくなっていっちゃう」
半ば泣き出しそうな表情で、詩織が電話から戻ってきた俺を見つめた。
「とりあえず、中に連れていこう。椅子に座らせないと‥‥すぐに紐緒さんが来る」
香織を抱きあげて、コンサートホールの中に運び込んだ。
ホールの休憩所の椅子に香織を座らせる。だが、一向に状態は良くなっていない。
「救急車を‥‥‥」
「駄目だ。駄目なんだよ‥‥詩織」
「どうして!? このままじゃ香織が‥‥‥」
俺の予想を遥かに越えた事態だった。本来なら、あと2日間あった筈だった。
それで、詩織に気づかれる事なく、全てが終わるはずだった。
だが、もうこうなってしまっては、どうにもならなかった。
紐緒さんの話だと、紐緒さんが来るまでもつかもたないかという事だった‥‥
もはや隠しだてが出来る状況じゃないのは明白だ。
「‥‥‥詩織、聞いてくれ。香織ちゃんは‥‥実はクローン人間だったんだ」
「え‥‥?」
何を言っているの? という表情だった。
無理も無い。事態が事態だし、それにもし平常な時に聞いていても、信じてもらえるかどうか。
「以前、電脳部との合同企画ってあっただろ。
 あれで紐緒さんに人工的に作られたクローンなんだよ‥‥‥俺と詩織の細胞を使ってつくられた」

言ってしまった。

と、内心後悔していたが、目の前の苦しそうな香織の本当の事を知らせない訳にはいかない。
「‥‥‥‥‥‥‥‥そう‥‥やっぱりそうだったの」
「え!? ‥‥‥し、詩織‥‥どうしてその事を‥‥」
「ううん、ハッキリわかっていた訳じゃないの。
 でも、あまりにも私に、それにあなたに似すぎているから、変だな‥‥って思ってはいただけなんだけど」
香織の前髪を、やさしく払ってやりながら、消え入るような声でつぶやいていた。
「その身体を維持できるのが、本当ならあと2日後だったんだけど‥‥‥
 さっき紐緒さんに電話したら、もう限界の症状だって‥‥」
悔しそうに、壁を拳でたたいた。
「‥‥‥‥ …さん、詩織さん」
香織が目を開けて、苦しそうに言った。
「もうコンサート‥‥始まっちゃうね‥‥ごめんね‥‥‥」
「香織ちゃん‥‥‥」
「ごめんね‥‥‥本当の事は言っては駄目って言われてたの。
 でも、もうみんなバレちゃったんだね‥‥」
「香織」
詩織の目からは、涙がポロポロとこぼれ落ちて、香織の頬に落ちてツーっと伝わる。
香織の涙のように。
「お母さん‥‥‥」
はっきりと詩織を見据えて香織が言った。
「お父さん‥‥‥」
次に俺を見つめて言った。
「短い間だったけど、楽しかった‥‥‥
 この世界に生まれてからほんの少しだけだったけど、お父さんとお母さんと一緒に居られただけで私はうれしいの。
 ‥‥お願い、紐緒さんを怒らないであげて‥‥‥」
「‥‥香織っ」
だんだん冷えてく香織の手を強く握って、まるで暖めようとしているかのような詩織を見て、俺は自然に目から涙がこぼれていた。
「ねえ、お母さん‥‥‥私、眠くなってきちゃった‥‥‥
 お母さんとお父さんの顔をもっと見ていたいのに‥‥
 でも、お母さんの顔も、だんだん見えなくなってきちゃった‥‥‥」
命の光が消えかかろうとしているのは、俺達にもわかった。
だが、どうすることも出来ない。
「お母さん、なんか聞かせて‥‥‥おねがい‥‥
 でも、もう眠いな‥‥‥
 声もだんだん聞こえなくなってきちゃった‥‥‥」
涙でくしゃくしゃになった顔で詩織はうなずいた。
「お母さんが羊を数えてあげる。
 ‥‥‥羊が一匹、羊が二匹、羊が三‥匹、羊が‥‥うう‥‥羊が四匹、羊が‥‥」
涙でつかえつつ、五匹目を数えようとした時、香織はこくんと小さく首を傾けた。
気持ち良く寝入ってしまったように。
「香織‥‥‥? 香織? ‥‥ねえ、香織?」
信じられないという風に、ガクガクと揺すった。
しかし、その目はもう二度と開かない。

その時であった。
俺は後頭部に軽いショックみたいなのを感じた途端、急に目の前が真っ暗になり、意識がなくなった。

「まだ間に合うわね」
昏倒している詩織のそばで、紐緒は、香織のまぶたを開いて何事かを確認したのち、懐から取り出した注射器を香織の腕にあてて、中身を注入した。
しばらくすると、ほのかに香織の頬に赤味がさしてきた。
紐緒が香織の胸に耳をあてて、ひとつうなずいた。
「間に合った‥‥‥」
そう言って、ほほえんだ。
「あの伝説の樹の葉から抽出した成分が、DNAの活性化につながるのを発見するのが一日でも遅れたらアウトだったわ」
研究のために鬼にもなろうかという女の表情には、不思議な安堵感がただよっていた。
「さて‥‥‥と、あとはこの二人の記憶操作をしなくては」
一変して冷徹な研究者の目に戻った紐緒は、懐からライター大の機械らしき物をとりだし、昏倒している二人の頭に近付けた。

−空港− so long good bye

「香織、はいこれ」
詩織は、空港で香織に包みを渡した。きれいにリボンがかけてあった。
「わあ、うれしい。開けてもいいですか?」
「うん」
丁寧にリボンと解き、箱の中を開けると、きれいにたたまれたヘアバンドとクラシックのCDが入っていた。
「私の持っているCDと同じやつよ。それに私が愛用していたヘアバンド」
「ええ、いいの? これをもらっちゃって」
「ええ」
「香織ちゃん‥‥‥向こう行っても。俺達の事忘れないでくれよ」
「‥‥‥うん、忘れない。絶対に」
「ほら、香織。もう飛行搭乗手続きの時間よ」
紐緒さんが、やさしく香織の肩をポンとたたいた。
「うん‥‥‥」
「それじゃ‥‥‥さようなら」
香織は、手を差し出した。まず俺がその手を握った。
「うん、元気で‥‥」
次に詩織が握った。
「あなたに会えなくなるのは寂しいけど、私もあなたの事絶対忘れないわ」
香織はその言葉に無言でうなずいた。
「眠れなくなったら、私も羊を数えるから‥‥‥」
香織が最後に俺達に残した言葉がこれになった。
「それじゃ‥‥」
振り向いた香織は、二度とこちらを振り向かなかった。
涙を見せるのがつらかったのだろうか。
エレベーターに消えるまで、俺達はずーっとその背中を見守っていた。


飛行場の屋上で、俺は一人つぶやいた。
「紐緒さん‥‥‥香織ちゃんって‥‥なんか他人とは思えないんだ」
「そう‥‥」
紐緒さんの淡々とした答えが返ってきた。
「私も、香織が他人とは思えないの。
 なんかずーっと前から一緒に居たようなそんな気持ちになってきて‥‥‥」
詩織は、そっと胸に手をあてた。
香織の残してくれた手の温もりを守るかのようにして。
「二人を永遠に結び付ける伝説の樹か‥‥‥」
紐緒さんが、何事かボソっとつぶやいた。
「ん? なんか言った?」
「伝説っていうのも、結構あてになる物なのかもしれない。と思っただけよ」
「ふ〜ん」
さっぱり訳がわからない。
「ほら、見て。あの飛行機よ」
詩織が指さした飛行機は、だんだんと上昇していき、次第に空の彼方へとその姿を消していった。
「いっちゃったね‥‥‥」
「ああ」
飛行機の消えた方向を、俺達はずっとみていた。

(Epilog)

−10年後−

紐緒結奈

人体臓器の培養に成功。
それにより、自分の臓器のストックが可能となり、医学界に新風を巻き起こす元となった。
ノーベル賞を授賞するが、本人は今それを机の引き出しの隅に転がしておいて、新たな研究に没頭中。

紐緒香織

アメリカで養子として生活。
アメリカンハイスクールで知り合った男性とめでたくゴールイン。
現在、紐緒結奈の優秀な助手として活躍中。


そして‥‥‥‥

「あなた、この子の名前なんだけど‥‥‥」
「女の子だったら‥‥ってわかった時に、もう決めてあるんだ」
「そうなの‥‥実は私もなの」
『香織』
俺達は同時に言った。
言ってから、何かを思い出したように、小さく笑い合った。
「どうしているかな‥‥‥あの子」
「そうね‥‥」
俺達は思いだしていた。
アメリカでの結婚式での幸せそうな香織の姿を。
ブーケが俺達のところへ飛んできたが、その必要はなかった。
すでに、小さい香織は詩織の中に居たのだから‥‥‥

Fin

後書き

長編物です。
紐緒結奈のクローン実験という感じで、最初は詩織の100%クローンが出てきて、もっとライトにドタバタを演じてくれるはずだったんですが、何がどこで間違ったのか、途中から結構重い話になってしまいました。
クローンである香織の人格を軽くみる訳にもいかず、かといって存在させ続けていいものかどうかを悩みながら書きました。
最後、「死なせる」と決めたんですが、知っている者の記憶から無くなる事もある意味では死なせるという事なので、「死んだ」という事を詩織達の記憶から「死なせて」やりました。
とりあえず、香織ちゃんは生きてます。
主人公達からすれば、もう一人の自分であり、娘でもあるという複雑な立場を取ってもらったんですが、苦労しまくりました(^^;

クローンの%がどちらかというと、詩織的なのは、詩織の秘めている感情をストレートに表現する存在としての目的があったからです。


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル10:紐緒香織
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数282
感想投稿最終日時2019年04月09日 04時39分04秒

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  • [★★★★★☆] いい話だった。いろんな問題があると思いますが臓器が培養できるようになったらいいですね。
  • [★★★★★★] 感無量です。最高です
  • [★★★★★★] コレで完結してると思うので、続きはいいです。
  • [★★★★★★] 面白かったです!ラストを読むまでは、「何て酷い話だ・・・」と思っていましたが、締めが上手く纏まっていて、後味の良い話になっていました。(^^) しっかし、よくこんなSSを思い付きましたね〜(汗) 作者の方の想像力には脱帽しました。