(1)

京都。
9月の夜風は、まだ暖かさをとどめ、心地よい古都の息吹を運んできた。
「気持ちいいね‥‥」
旅館「山科亭」の庭園の中、詩織は、目を細め、髪を風に軽く遊ばせながら、夢見るようにつぶやいた。
修学旅行の3日目の夜の事であった。
ロビーのソファに座って、何気なく本を読んでいた俺に、「ねえ‥‥ちょっと庭園歩かない?」
そう言ってきたのは詩織だった。
古都の空気がそうさせたのか、月に照らされた詩織の姿が幻想的に見えた。
「ほんと。やっぱりこの季節の夜風って気持ちいいな」
俺も、吹く風の柔らかさのせいで、気持ちがいつになく軽くなっている。
「今日行って来た奈良‥‥よかったよね。鹿も可愛かったし」
そこで、何かを思い出したのか、おかしそうに笑った。
「どうしたの?」
「メグがね、鹿見て大喜びしちゃって」
「そういえば、なんか鹿に囲まれてたな。鹿もわかるんだね。動物好きな人ってのが」
俺の場合、制服の袖を食われそうになったが。
「そうね」
さらにおかしそうに笑った。
そういえば、袖を食われそうになったのを見られてた。
俺はふと、思い出したように腕時計を見た。
時刻は8時半をさしている。
「そろそろ戻ろうか。恒例のアレが始まる時間も近いし」
「‥‥そうね」
顔を見合わせて、お互いにニヤっと笑った。
悪戯をする前の子供のように。

その時‥‥

「ん?」
「どうしたの詩織?」
戻る途中にいきなり立ち止まった詩織に、俺は訊いた。
「今‥‥‥なんか聞こえなかった?」
「なんかって?」
「なんか‥‥こう。シャーーーーンって。金属音みたいなのが」
詩織は耳に集中しているのか、固まったまま動かない。

シャーーーーーーーーーン

詩織が説明した通りの音を聞いた時、俺の動きも止まった。
「ね、聞こえたでしょ?」
「‥‥‥聞こえた」
確かに聞こえた。
何か、鈴の音に少し近い。そんな感じの音が。
遠くからのような、すぐ近くからのような感じで、俺の耳に届いた。
「やだ‥‥なにかしら」
おびえるように、俺の方に身体を寄せて来た。風呂に入った後の石鹸の香りがかすかに風に混じる。
いかん、いまはそーいう事を考えている場合じゃない。
「きっと、なんかどっかでやってるんだろう」
そんな事は全然思っていなかったが、とりあえずなんか言わないとどうしようもなく不安になる音だったのは確かだった。
もし横に詩織が居なかったら、訳もなく走って逃げていたかもしれない。
「‥‥もどろう」
そう思うなか、どさくさに紛れて詩織の背中に右手を回して、促すようにした。
「うん」
詩織は音が気になるのか、そんな事は全然気にしたふうもなく、促されるままに歩きだした。
もうちょっとシャツの寸法が短かったら、気づけたかもしれない。
俺の、右脇腹の布の部分を、詩織が人指し指と親指でさりげなくつまんでいた事を。

「で、そこで運転手は後ろを振り向いた。そうしたら‥‥」
「キャッ」
という抑えるような悲鳴があがった。
薄暗い部屋の中だった。
敷いてある布団の上に、数人が輪になるようにして座っていた。
抑えた悲鳴をあげたのは、その輪の中にいた女の子だった。
「これからがおもしろいんだ。
 そこで運転手が見たものは、大きい目が顔の真ん中にあるだけの女だったんだ。
 その女がバックミラーごしに、運転手の方をギョロッとにらんだっ!」
今度は、輪のそこかしこから小さい悲鳴があがった。
俺のとなりに座っていた詩織は、悲鳴こそあげなかったものの俺に抱きつきかかり、寸前で止まった。‥‥残念。

修学旅行恒例の、怪談会であった。
参加したのは、俺のクラスの男子と女子数人だった。
修学旅行の2日目から始まったこれは、すっかり恒例と化している。
ちなみに、ここは女子の部屋だった。
女子の部屋への男子入室は、本来ならばご法度なのだが‥‥
「こわいわね‥‥」
詩織のとなりに座っていた美樹原さんが、詩織の腕にスッとしがみつつ恐がっていそうで、そうでなさそうな口調で言った。
「メグは恐がりなのに、恐い話好きだもんね」
輪の中にいた、逢坂千里が、その様子を見ておもしろそうにつぶやいた。
ポニーテールの、活発そうな子だ。
「うおお、マジで恐いな。好雄の話は」
中沢武雄が、おびえていた。
柔道部で、しかもゴツイ身体をしているくせに、やたらと臆病だ。
「結ちゃんも居ればよかったのに」
朝日奈夕子が、おもしろそうに言った。
結ちゃんとは、紐緒さんの事である。
あの紐緒さんに、ここまでオープンになれるのは、たぶん彼女だけだろう。
紐緒さん自身も、なぜか朝日奈夕子とは仲が良い。
自分の研究にやたらと好奇心をそそいでくれるからかもしれないが‥‥
「紐緒は駄目だよ。こんな非科学的な集まりなんて大嫌いだからな」
好雄の言葉に俺も同感だ。
いまごろ、持参したミニ研究セットで、なにか得体のしれない研究をしているに違いない。
「さ‥‥‥次は誰の番だ?」
好雄は、雰囲気たっぷりに言った。
こいつも凝り性だな。
女の子メモの編集をするのを見ていて、そうじゃないかと思っていたがやっぱりそうだったか。
「あ、あたしやる。あたし」
夕子が元気良く手をあげた。
その明るさに、一瞬場がなごむ。
「私が先輩に聞いた話なんだけど‥‥‥」
よくある出だしで、夕子が話始めた。


「あー、こわかったな。さ、部屋に帰ろうぜ」
明かりのついた部屋で、口々に言いながら、俺達男子は部屋を出た。
出る時、詩織が俺にむかって、「おやすみなさい」と軽く手を振ってくれた。

「中沢、お前ほんと臆病だなぁ。俺に近寄るなよ。抱きつかれそうだ」
妙に接近している中沢の顔は、蒼白だった。
「そんな事いうなよぉ。俺、恐い話大嫌いなんだ」
「そんなんで良く毎回毎回あの場に居るよな」
「し、しょうがないだろ」
「ハハーン」
好雄がニヤリと笑った。
「お前‥‥逢坂の事好きだろ?」
いきなりの質問に、中沢の顔が青くなったり赤くなったり信号のように目まぐるしく変わった。これは楽しい。
「ば、ばか。そ、そ、そんなんじゃない」
「そうか、中沢、逢坂に気があったのか」
俺もからかうように笑った。
「な、なに言ってんだ。俺はだな‥‥」
すっかり混乱状態にあるようだ。
「あー、わかったわかった。それより、中沢。お前逢坂のデータ欲しくないか?」
「え?」
中沢の動きが止まった。
「女の子の事なら俺に聞けよ‥‥」
好雄は不敵に笑った。

俺達の男子の部屋は、俺と好雄と中沢とあと二人の五人部屋だった。
和室に、ならぶように布団がひいてある。
「今日も疲れたしな。もう寝るか」
中沢が、淡泊にも寝ようとする。
「寝てもいいのか?」
好雄がニヤリと笑う。
「寝ている間に、どんな話が出るかわからんぞ‥‥」
なるほど。そういう事か。
「おい、みんな、聞け。中沢の好きな奴なんだが‥‥」
「好雄、お前!」
一発衿を締めて落としてしまえばいいと思うんだが、やはり情報提供者である好雄には頭があがらないのか、「やめてくれ」と懇願するだけだった。
「よう、…。お前は誰が好きなんだよ」
同室の一人、溝口が、俺に聞いてきた。
「俺も聞きてぇな。誰なんだよ。教えろよ」
もう一人の同室人、小杉が便乗して聞いてくる。
「‥‥お、俺は誰だっていいじゃないか。いないよ」
言える訳がないだろう。
ふと、俺に届く人だろうか。そう思った。
幼なじみの顔は、一瞬ふと遠くに思えた。
「ちぇっ、照れやがって」
そんな非難は聞こえない。


「詩織、あんたはどうなのよ」
詩織の部屋でも、同じような事が行なわれていた。
「そういう千里こそ、誰か居るの?」
「話を反らさないの。さあ、正直に白状しなさい」
「‥‥わ、私は誰だっていいじゃない。まだ居ないわよ」
「うそ。今日奈良で…君と一緒だったのはだ〜れかしら〜?」
からかうような口調で言った。
「詩織モテるもんね〜」
朝日奈夕子が楽しそうに笑う。
「もう、知らないっ」
そう言って布団をかぶってしまった。
「メグはどうなのよ」
千里が、美樹原にそう言った。
「わ、わたしは‥‥‥」
そこまで言ってから、布団をかぶってしまった。
「恥ずかしがり屋さんねぇ」
千里がカラカラと笑った。
「照れ屋さんまんじゅう二つ出来上がりってね〜」
夕子が、明るい声でそう言った。

シャーーーーーーーーーーーーーーーーン

寝ている俺の声に、そう響いてきた。
寝ているのだが、その音だけはハッキリと聞き取れた。
夢にしては、あまりにもリアルすぎる。
なぜかまぶたが開いた。
眠さは一切無い。

シャーーーーーーーーーーーーーン

もう一度そう聞こえてきた。
布団から身体を起こしてあたりを見回したが、ほかのやつらは呑気に安らかそうな寝息を立てているだけだった。
しかし、聞こえて来たのは、その二回だけで、そのまま耳を済ませていても聞こえてくる事はなかった。
「やっぱり寝ぼけてるんかな‥‥」
しかし、今ので完全に目が冴えてしまった。
しかも、トイレにまで行きたくなってきた。
ちぇっ‥‥‥
ごそごそと起き出して、寝ている奴等を踏まないように、そーっとそーっと抜け出して、廊下に出た。
部屋にトイレがついてない旅館なんて、きょうびあるとは思わなかった。
きらめき高校と昵懇の旅館だからって、うちの学校は仮にも私立だぜ‥‥‥まったく。
トイレに行くために、廊下を歩いていると、背後でカチャっという音がして、数秒後に名前を呼ばれた。
誰も居ない廊下で、さすがにちょっとビビった。
さっきの音の事もあって、かなり過敏になっているようだ。それに、あの集まりのせいもあるか。
「…?」
振り返ると、開いた部屋のドアから、詩織が顔を覗かせていた。
「やっぱり…だったんだ。よかった」
「詩織じゃないか。どうしたんだこんな夜中に」
「…こそ」
「俺は‥‥‥ちょっと用を足しに」
この台詞には、さすがに抵抗があるな。
「あ、あのね‥‥‥」
「ん?」
廊下は、別段暗くはない。薄いながらも照明が灯っている。
その明かりで、詩織が恥ずかしがっているのがわかった。
「どうしたんだよ」
「え、えっと‥‥」
ピーンと来た。
しかし、こういう場合、どういえばいいだろうか。
ほとんど三竦みの図になってしまった。
「‥‥ほ、ほら。行くんなら行くぞ」
出た言葉がこれだった。
下手に待つのもなんだから、俺はさっさと歩きだした。
「ま、待って」
仕方なさそうに、俺の後ろまで小走りで追い付いてきた。


「絶対居てね。いい。どっか行ったりしないでね」
「わかったわかったって」
念を三度押された。
「ほんとよ。どこか行ったら絶対イヤだからね」
「はいはい」
四度目の念に、俺がそう答えると、用を足しに消えていった。
「やれやれ‥‥なんで夜中にこんな事してるんだ。俺は」
われながら、しょうがないなと思いつつ、人気が全くない廊下を見渡した。
確かに一人で行きたくないという気持ちはわからないでもない。俺はもうスッキリしたから別にいいけど。
しばらくすると、詩織が出てきた。
「あ、ありがとう‥‥‥」
顔が真っ赤だ。薄暗い証明でもわかる。
「いや、別にいいけど」
とんでもなく、間抜けのような恥ずかしいような状況だな。と思った。
なるべく気を使わさないために、サラっと流して、歩き出した。
「ねえ‥‥‥、なんでこの時間に起きたの?」
ふいに聞いてきた。
俺は、正直返答に困った。
思い出すだけでも、なんとなく薄気味悪い。
「もしかして、あの音のせい?」
俺の答えを変わりに言われた。
「詩織もか!?」
詩織は無言でうなずいた。
とたんに、不安が一杯に広がってきた。
どう考えても、あの音は普通じゃない。
しかも、状況から見て、俺と詩織にしか聞こえないとなると、なおさらだ。
「こわいわ‥‥‥」
不安そうな顔して、俺のTシャツの袖を掴んできた。
「大丈夫だよ」
が、根拠は無い。
とりあえず一刻も早く詩織を部屋に戻した方がよさそうだ。
行く時よりも若干早足で廊下を歩き、詩織の部屋の前まで来た時、それは突然あらわれた。
「‥‥‥あれ‥‥なにかしら」
俺の袖をひいたまま、詩織が茫然とつぶやいた。廊下の先を見ているのは俺もわかった。
俺もそうだからだ。
薄暗い廊下の先に、大きな影がいた。
影というほど黒くはないが、限りなく影に近い。
姿は、昼間見たアノ姿その物だった。
「し‥‥鹿?」
その姿は、まぎれもなく鹿だった。
それも、とびきりでかい。
目にあたる部分は、赤く光輝く血のように赤い。
ブルゥと、鼻息が聞こえてきた。
俺は、すっかり茫然自失状態だった。
廊下に鹿。それも大きいのが居る事自体、どんな説明をされようとも決して納得できる物ではなかった。
まさか旅館のペットだなんていうオチは無しだ。
だとしたら、優美ちゃんに言っておかなきゃならないな。
あそこの旅館は鹿を夜中に放し飼いにしているって。
ふと、腕に重みを感じた。ハッとして見ると、詩織が崩れるように倒れこんできていた。
とっさにその身体を支える。
それと同時に、鹿が跳ねるように駆け出してきた。
このままだと蹴散らされる。
無意識に詩織の身体をかばうように抱きかかえる。
その時だった。

シャーーーーーーーーーーーン

と聞こえてきた。
次の瞬間、驚く事に、鹿がその動きをピタリととめた。
俺が鹿におびえるように、鹿もその音におびえるように、ビクっと身体を硬直させていた。

シャーーーーーーーーーーーーン

もう一度聞こえてきた。
すると、鹿は憎らしげな瞳で、宙を睨みつつ、踵を返して廊下の奥に向かって走りだして行った。
つきあたりにぶつかる! と思った瞬間、その姿は、壁に溶け込むように消えていった。
しばらく、唖然としてそれを見守っていたが、ふと腕にかかる重さの訳を思いだした。
「‥‥‥おい詩織! しっかりしろ。おい」
肩をつかんでガクガクと揺すると、うっすらと目をあけた。
「あ‥‥‥ …」
「気が付いたか。よかった‥‥」
「あ、あれ‥‥私一体?」
「気絶してたんだよ。あの鹿を見て」
詩織が、目を開いたまま、今までの事を頭の中で整理しているのがわかった。
「いやっ」
突然俺に抱きついてきた。
「お、おい!」
「あっ‥‥‥!」
ふと我にかえったのか、突然に俺から離れる。
「ご、ごめんなさい‥‥」
「‥‥‥いや、いいって。それよりも、早く部屋に戻るんだ」
正直、嬉しかったが、喜んでいる場合でもなかった。
俺だけが見たのならばともかく、詩織も一緒だとなると、これは確実な何かが居たという事になる。
「う、うん‥‥‥それで、あの鹿はどうしちゃったの?」
「消えちゃったよ‥‥」
答えたくなかった。というより、思い出すのがイヤだったからだ。
「それと‥‥‥そうだな。この事は誰にも言わない方がいい。なんかそんな気がする」
「私も‥‥そう思う」
ゆっくりと頷いた。


「それじゃ、なんかあったら回りの連中をたたき起こしてでも‥‥」
「‥‥‥うん」
詩織は、部屋のドアの隙間ごしに頷いた。
「それじゃ、俺はこれで」
「あ、…」
「ん? どうしたの?」
「ありがとう‥‥」
小さく言ってから、慌てた風にドアを締めた。
なんだろう‥‥‥ま、いいか。
一人になった俺は、さすがに心細くなり、走る用にして自分の部屋にたどりつき布団をかぶった。
不思議な事に、眠気がすぐに襲ってきて、俺はすぐに寝る事ができた。

「おい、いつまで寝てんだ。おきろ」
その声に、んあ? と目を開けると、そこには好雄達の顔があった。
窓から差し込む光に照らされているのか、まぶしい。
「もうすぐ朝飯だ。その前に布団たたむんだから、早く起きろ」
中沢のその声に、無意識に反応して布団からのそのそと出て、畳の上に転がった。
頭が全然まわらない。なにも考えられないほど眠かった。
しかし、徐々に頭は回転し初めてきている。
昨日の夜‥‥‥
そこから、いきなり頭が急速に回転を始めた。冷え切ったエンジンを限界まで回したようなショックすらあった。
そこで、鹿! と叫びそうになったが、口を手で押えてなんとか出るのを止めた。
「おい、どうしたんだよ」
「‥‥なんでもない」
「ほら、ボーっとしてないで、早く布団たためよ」
中沢が俺を促した。
「あ、ああ‥‥」
布団をたたむ俺は、身体だけは無意識に布団をたたんでいたかもしれないが
頭の中は昨日の夜の事で一杯だった。


「あ‥‥おはよう」
食堂へ向かう途中、声をかけられた。
「詩織じゃないか。おはよう」
まだボーっとしている俺に対して、詩織はいつもと変わらずだ。
「あのあと、すぐに眠れた?」
ちょっと気になって、聞いてみると、
「うん」
とすぐに返ってきた。
「俺もなんだよ‥‥」
そう話ながら、歩いていると、次第に良い匂いが漂ってきた。
窓から見える明るい景色を見ていると、昨日の事がまるで嘘のようにさえ思えてくる。
実際、本当に夢ではなかったかな? と思っていたところだった。

「いただきまーす」
そう言って、ご飯を片手にバクバクとおかずを食べ初めていった。
中沢などは、さすがにあのガタイを維持しているだけはある。物凄い食欲だ。
「うーん、この千枚漬けうまいなぁ」
好雄が関心していた。俺も同感だ。老舗旅館だけあって、飯にはこだわっているらしい。
「ん?」
中沢が、飯を食う手を休めて固まっていた。
「どうしたんだ?」
そう言って、中沢の視線を追ってみた。
「千里ちゃん、食欲ないの?」
視線の先に居た逢坂千里は、横に座っている美樹原さんにそう聞かれていた。
「う、うん‥‥ちょっとね」
いつも元気な逢坂が、確かに弱々しい。
「中沢の奴、逢坂が心配なんだぜ」
好雄がニヤニヤしながら言った。
「まったく、心配してるにしちゃ、飯を3杯もおかわりして‥‥あいつらしいっていえばらしいけどな」
俺もやれやれ‥という感じで同意する。
「お、その卵焼食わないんなら俺にくれ」
「あ、好雄お前なにすんだ」
そう言った時には遅く、俺の卵焼は好雄に誘拐されてしまっていた。
手が早いのは女の子にだけじゃないのか。飯にまで早いとは。
「あー、諸君。おはよう。今日の自由行動の事についての諸注意などを‥‥」
生活指導担当の教師が、マイクを持って説明を始めた。
そんな事よりも、俺は卵焼の方が大事だった。


「それじゃ、あとでロビーで」
昨日の奈良見学の時に、詩織と約束していた。
今日の自由行動を、一緒にするという約束を。
食堂の出口で、そう小さく詩織に声をかけると嬉しそうに頷いてくれた。

「遅いな、詩織の奴‥‥」
約束の時間を、15分も過ぎていた。
どんなに遅くても、いままで待ち合わせに5分以上遅れた事がない詩織にしてはめずらしい。
1分後。ロビーに息を切らせた詩織が現れた。
「ごめんね‥‥」
「ううん、いいよ。別に。でも、どうしたの?」
「‥‥千里が体調わるくなって、それで倒れちゃって‥‥」
「え、それはたいへんだ」
「でね‥‥わたしがついていてあげようと思ったんだけど」
「‥‥‥」
「そしたら、中沢君が来て、逢坂さんは俺が‥‥って」
なるほど、そういう事だったのか。
「中沢の奴が‥‥」
あいつを少し見直した。さすがにそーいう時の根性だけはあるな。
「でね、それでも千里が構わないでって言ったのに‥‥」
「言ったのに?」
途中で言うのをやめたのが気になって、聞き返した。
「そ、そんな事より行きましょう」
「あ、ああ‥‥」
詩織に促されるまま、俺はいいのかな。と思いつつ旅館の玄関をくぐった。
「ねえ。もし私が病気で倒れたら‥‥‥どうしてた?」
その時、詩織が聞いてきた。
「そうだな‥‥中沢の奴と同じ事したかもな。
 せっかくの修学旅行の時に病気の詩織を置いてなんて行けないよ。京都なんてその気になりゃいくらでも来れるし」
「‥‥‥」
「どうしたの?」
「う、ううん‥‥なんでもない。さ、はやく行きましょう」
なんだかさっぱりわからないまま、腕をつかまれて引っ張られた。
声だけが嬉しそうだが、後ろ姿だけじゃわからない。
後で知った事だが、中沢の奴も逢坂に同じ事を言ったらしい。
詩織はそれを聞いていたのだろうか‥‥‥‥

(2)

「スゴイのね‥‥」
詩織は、回りを見回しながら言った。
俺達は、江戸の町に居た。
「あ、見て見て」
詩織が俺の制服の袖をツンツンと引っ張った。
振り向くと、目の前を侍が通りすぎていった。
「おもしろいね」
楽しそうに笑って、目を輝かせている。
確かに、回りを見渡せば、木造の建物ばかりだ。
長屋という奴だ。

太秦の映画村。
俺達はそこに居た。

「あ、悪代官」
詩織の声に振り向くと、頭巾を被った身なりの立派な侍が歩いていた。
頭巾から覗く目つきが恐かった。確かに悪代官に違いない。
「見て、猫小僧よ」
黒装束の猫背の男が、手を猫招きのようにして通り過ぎていった。
たしかねずみ小僧のライバルだったっけ。
「あ、町娘」
右を向くと、可愛らしい町娘が歩いていた。
ジーっと見ていると、脇腹をキュッとツネられた。
「いてっ」
なにするんだよ。という間もなく、詩織が「あ、殺人コアラよ」と言った。
殺人コアラが凶悪な目つきで俺を睨みながら通りすぎていった。
‥‥なんなんだ一体‥‥
「なんか変なのがいっぱい居なくない?」
「そういえばそうね‥‥」
「そうだ。なんか浦島太郎侍の撮影もやってるらしいよ。見に行こう」
さっき入り口で見た撮影案内の所に書いてあったのを思い出した。
「うんっ」
明るく笑いながら答えてくれた。


撮影を見に行くために長屋の細い路地を歩いていた俺達は、ある角を曲がった。
「え‥‥‥‥?」
俺と詩織は、声をそろえてそう言ってしまった。
本来ならば、路地を曲がって、そこを抜けたあたりが撮影現場の近くになるはずだった。
そこで見たものは、映画村のこまごまとしたセットは一切みあたらず、広い野原のようなところにたっている一本の大きな樹のある風景だった。
遠くには、山々が綺麗な稜線を絵がいている。
「‥‥‥‥」
お互いに、しばらく声が出なかった。
「これもセット‥‥‥かな」
自分自身に言ったのか、それとも詩織に言ったのか、わからなかったがそう口から出てきた。
少なくとも、地図にはそんな広い場所の表記は無かった。
それほどまでに広い風景だった。
「あの樹‥‥うちの学校のあの樹にそっくり」
抑揚の無い、ただしゃべっただけという声で詩織が言った。
確かに。
大きさといい、樹全体の形といい、まるっきりそのものだ。
しばらく茫然と見ていると、木陰から何か動くものが出てきた。
「あ‥‥‥」
また声をそろえてしまった。
それは、鹿だった。立派な角をもった大きな鹿と、二回りくらい小さい鹿が、その鹿に寄り添うようにしている。
小さい方の鹿は、雪のように純白の鹿だった。
あまりの美しさに、その仲の良さそうな姿に、思わず見とれた。
ただ、なにもしない。そっと寄り添っているだけの姿に、俺は夢かもしれない未来を重ねていた。
側にいる人との未来を。
「あの鹿‥‥‥恋人同士なのかな‥‥」
詩織の言葉に、なぜか胸が急に苦しくなった。なにかとてつもなく
不安のような、それでいてどこか心地よいその感覚‥‥‥
そうだ、これは‥‥この感覚は‥‥‥
その時だった。

シャーーーーーーーーン

その音に、ハッとわれに返った。
そこで見たものは、観光客や役者が行きかう、紛れも無い映画村の中であった。
一体どうなってるんだ? さっきの風景はなんだ?

シャーーーーン

もう一度音がした。
その音があまりにも近くで響いたせいで、俺は振り返った。
立っていたのは、網の籠をかぶった、黒い着物を着た人影だった。
手には、錫杖が握られている。
時代劇で良く見る、虚無僧という奴だ。
俺は、無意識に詩織をかばうように身体を移動させた。
その虚無僧は、錫杖を持っていない方の手を、スッと網籠で見えない顔の前に持ってきて、祈りの姿勢を取った。
場所が場所だけに、外見上は違和感はまるでなかったが、どこか奇妙だ。
「色即是空空即是色‥‥‥」
小さいが重い声でそうお経を唱えながら歩き出した。
俺達には一切無関心という風に、通り過ぎた。
錫杖を地面に突くたびに、シャンと音がする。
昨日から聞こえてきた音は、これだ! と思ったが、頭の中に響いてくるような感じはなかった。
「ねえ‥‥この音」
「ああ‥‥でも、似てるけど、どこか違う」
「そう‥‥‥よね」
虚無僧が通り過ぎて、路地の角を曲がるまで見守っていたが、ふと思いなおして、
「詩織、ちょっとここで待ってて」
そう言って、虚無僧が曲がったところまで走っていった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
すぐだった筈なのに、その姿はどこにもなかった。
時代劇で、悪人にまかれた役人の図があったが、それと同じ感じだ。
しかし、ものの10秒もたっていない。
観光客のざわめきが、俺の耳には嘘のように聞こえた。

「浦島太郎侍。良かったなぁ」
「うん、すっごくおもしろかったね」
釈然としないまでも、なんとか気をとりなおして見に行った浦島太郎侍は大正解だった。
役者の演技に、さっきの奇妙な出来事を、少しでも忘れられたからだ。
ひとーつ、開けちゃいけない玉手箱かぁ‥‥
「さ、次はどこへ行こうか?」
一通り見回った事で、少し腹が減った。
「ね、なんか食べに行かない? わたしおなかすいちゃった」
「俺もそう思ってたところなんだ」
タイミングバッチリだ。
「それじゃ、いきましょう」
俺達は、映画村をあとにした。
セットの影から、虚無僧がこちらをずっと見ていた事に気づかずに‥‥‥

「あれ、紐緒さんに朝日奈さん」
豆腐料理屋に入った時、席には紐緒結奈と朝日奈夕子が座っていた。
「やっほ〜」
朝日奈さんが手を振った。
紐緒さんは、こっちも見ずに黙々と豆腐を食べている。
「ねえ、こっち来て一緒に座ろうよ」
朝日奈さんの誘いに、俺はチラと詩織を見ると、うん。と小さくうなずいた。
どこか残念そうなのはなぜだろう?
「‥‥‥やるわね。ここの店」
黙々と豆腐を食べていた紐緒さんが、食べる手を休めて呟いた。
「え? なにが?」
席にすわりながら、聞き返した。
俺が朝日奈さんのとなりに座り、詩織が紐緒さんのとなりに座った。
詩織とは向かい合わせだ。
「大豆のうまみを殺さずに、絶妙なバランスで味を保っているわ。
 きっとここの主人は天才に違いないわ。私と張り合うつもりね」
そ、そうかな‥‥‥
「じゃ、わたしは冷奴」
「俺も同じ奴ね」
ウェイターにメニューを注文したあと、紐緒さんがウェイターを
鋭い目つきで睨んでいた。

「店長。あのお客さん恐いです」
「かもしれんが、あの客はただもんじゃない。ワシも負けてられないぞ」
店長がそう言って、目から炎を吹き出さんばかりに燃えていた事は俺達には知るよしもなかった。


「ねぇねぇ、どこへ行ってきたの?」
朝日奈さんが意地悪そうな小悪魔のような表情で詩織に聞いた。
詩織がなんとなく赤くなっている。
女の子部屋での顛末は、俺は当然知らない。
「大丈夫よ。誰にもいわないから」
「え?なんの事?」
俺が聞くと、
「う、ううん‥‥なんでもない」
ごまかすように、首を振った。
「俺達、映画村に行ってきたんだ」
そう言った時、紐緒さんの豆腐を口に運んでいた手がピタリと止まった。
「あら、偶然ね。わたしたちもそこに居たのよ」
「そうそう、でも結ちゃんずっと何かやってたみたいだけど」
「何かって?」
詩織が興味深そうに聞いた。
「なんか、空間の歪曲率がどうのこうのって‥‥‥」
答えている朝日奈さん本人もよくわからなそうだ。
「何それ?」
俺が聞いた。
その時、注文した豆腐がやってきた。冷たそうな豆腐だ。
「お、うまそうだな。いただきまっす」
答えを待つよりもさきに、豆腐に箸をつけた。
「つまり、こういう事よ。
 京都に来てから、ずっとその歪曲率を監視してたんだけど‥‥昨日の夜あたりから急に反応が強くなって、その反応元を調査してたのよ。
 空間の歪曲率があがると、いろいろと変わった事が起きるわ」
「変わった事‥‥‥って?」
詩織の箸が止まった。
「そうね。
 例えば、歪みの中に巻き込まれると、まったく別の場所へ行ったりする事があるわね。
 時間すらも越える事があるわ。
 ‥‥俗に言うタイムスリップという奴よ」
「‥‥‥‥」
俺は詩織と顔を見合わせて、絶句した。
さっきのアレは、もしかして‥‥‥
「ん? どしたの?」
朝日奈さんが俺と詩織の顔を見て、きょとんとしている。
「あ、いや、なんでもない‥‥‥」
「変なの。‥‥‥それよりさ、詩織ちゃん、これからどこ行く予定なの?」
「え、えっと‥‥」
俺を一瞬、チラリとみつめた。
なんとなく、詩織の言いたいことが伝わったような気がする。
「そうそう、これから清水寺の方におみやげでも買いに行こうと思ってさ。詩織と行く約束してるんだ」
とっさに、というか、元もと俺もそのつもりだったから、不自然さもなく言えた。
「ふ〜ん」
朝日奈さんは、ニヤニヤとしている。
「あら、奇遇ね。わたしたちも‥‥‥」とそこまで紐緒さんが言った時、
「ねぇ、結ちゃん。嵐山の方に行こうよ。
 あそこらへんは景色がいいからきっと結ちゃんの天才的頭脳のためになると思うんだけど」
そう言って、紐緒さんの台詞を封じた。
「さっきあなたが清水って‥‥」
「あ、やっぱり気が変わったのよ。
 あそこらへん、今流行ってるお店とか一杯あるから行きたくなっちゃった」
朝日奈さんのペースにすっかり乗せられているようだ。
ペースを乱される紐緒さんを見れただけでも、珍しいというもんだ。
「それじゃ、わたしたちはもう行くから」
朝日奈さんは釈然としない紐緒さんを促しながら、レジを済ませた。
「じゃ〜ね〜」
明るい雰囲気を俺達に残しながら、二人は出ていった。
出て行く時、朝日奈さんが、詩織に向かってウィンクを一つ送った事は俺は知らなかった。
「変わったコンビだよなぁ‥‥‥」
「そうね」
クスっと笑った顔を見ていると、さっきの奇妙な事が嘘のようだ。
「ありがとう。夕子ちゃん‥‥」
「ん? なに? どしたの?」
「ううん‥‥なんでもない」
頬がほんのり紅。

清水に行く途中、俺達は鴨川の河原に立ち寄った。
時間はまだ十分ある。
それにしても‥‥‥
「ここって‥‥」
詩織が、赤くなりながらなんとなく回りを見回すだけはある。
河原には、等間隔でカップルが座って川の流れを見ていた。
計ったように間隔を開けているのは、感心すらする。
「恋人達の憩いの場‥‥‥みたいだな」
仏閣ばかり見回っていてもしょうがない。せっかくだから少しのんびりしようと思ってきたのだが、どうも居心地が悪い。
両隣のカップルは、べたべたのあつあつだ。
「さて‥‥」と、立ち上がろうかな。と思った時。
「ねえ‥‥‥」
「ん?」
「わたしたちも‥‥恋人同士だと思われているのかな‥‥」
川面を見つめたまま、ポツリと言った。
「‥‥そう‥かもしれない‥し‥‥じゃないかもしれない‥‥」
ハッキリとなんて答えていいのかわからずに、鼓動だけがただ高鳴った。
「やっぱりまずいよな。
 こーいう所は俺みたいな奴が詩織の隣にいて座ってて良いところじゃなさそうだ。
 ‥‥行こう、詩織」
回りのカップルの接近度に対して、俺達は普通にただ河原に座っているという感じだ。
今度こそ立ち上がろうとしたとき
「まって。もうちょっと‥‥‥もうちょっとだけ一緒に居ましょう」
嬉しいとも寂しいとも、どちらとも取れそうな表情のまま微笑みを浮かべた。
小さく、弱く儚い微笑みだった。
もし寂しい方だとしたら?
どうしてそうなのか、聞ける物なら聞いてみたかった。
「いや?」
その問いには、無言で軽く首を横に振った。
イヤなはずがない。
さっきよりも、俺は詩織の近くに腰を下ろした。
秋の京都の柔らかい日差しが、川面に当たって、キラキラと輝いている。
俺にはまぶしすぎる。そう思うのは、きっと隣に居る人のせいだろうな‥‥
どう思われているかわからないが、今のこの瞬間だけは、詩織のとなりに居るのは誰でもない。俺だけだ。
しかし、その距離が近いのか遠いのか、俺にはわからない‥‥‥
聞いてみたかった。
でも、聞いたら何もかもなくしてしまいそうだ。
そんな儚い思いのまま、時間は確実に流れていった。
俺達の間をすり抜ける秋の風は、去った夏の匂いが、微かに残っていた。

虚無僧は、橋の上から河原を見下ろしていた。
ぎこちなさそうな、遠そうで近そうな二人の学生をじっとみていた。
しばらく見つめたあと、錫杖を地面に一回突いて歩き出した。


鴨川の河原から、俺達は再び清水に向かって歩きだした。
京都の町の裏路地を歩こうと詩織が言い出し、俺も同意した。
裏路地は、物静かな町の本質を見せているような気がする。
仏閣よりも、この町の本当の姿はこういうところにあるのかもしれない。
「こういうところを歩くのって‥‥いいね」
「純文学の一節にありそうだよね」
「素敵よね‥‥‥」
ゆるやかな日差しが、家々の影を道に落として、地面に光と影の模様を作っている。
俺達の小さい足音だけが、音であるような気がする。
ふと、俺は背後になにか気配を感じて振り返った。
「あ‥‥‥」
これで遭遇は二度目だな‥‥
旅館の廊下で会っていらいだった。
巨大な鹿が再び俺達の前に現れた。
俺も詩織も、一歩も動けなくなる。
さっき俺達が歩いていた場所だ。当然鹿を無視して通りすぎた訳じゃない。
居なかった場所に、今居るのだ。
しかし、なぜか旅館で遭遇した時ほどの恐怖は無かった。
奴の目のせいだろうか。
あの時は、燃える赤い目をしていた。しかし、今は‥‥‥
「あの鹿‥‥哀しそう‥‥‥」
詩織が言った。その声もどこか哀しそうだ。
鹿の目は、あの時とは違い、青い空を水晶に閉じ込めたような綺麗な色をしていた。
その目で見つめられていると、俺まで哀しくなってくる。
ふと、俺の頭の中に、ある光景が浮かんだ。
映画村で見た、あの幻影。
その時に見た鹿‥‥あの雄の方であろう鹿と、目の前の鹿のイメージがダブった。
大きさこそは全然違う。しかし、なぜか同じと感じる。
俺達と鹿は、ただ見つめあったまま、なぜか色々な事を語り合ったような気分になった。
それどころか、どこか懐かしい物さえ感じる。
「あっ‥‥‥」
陽射しに溶け込むように、その鹿の姿が薄くなりだした時に、詩織が小さく声をあげた。
もし、次に言葉が出ていたら、こうだったに違いない。
「待って‥‥」と
「哀しそうな目だったね‥‥」
俺は無言でうなずいた。
言い様のないつらさに、制服の胸をギュっと握りしめる。
あの目が頭に、胸に焼き付いて離れない。
「お主ら」
いきなり声がした。
俺達のすぐ背後からだ。
反射的に振り向くと、そこには映画村で見た虚無僧が、すぐ近くに立っていた。
鹿同様、さっきまでは絶対に居なかった。
「きゃっ」
驚いた詩織は、俺の袖をつかんで、わずかに身を寄せてきた。
「な、なんだおまえは」
「お主ら、鹿を見たのだな」
機械がしゃべっているかのような抑揚の無い言葉だったが、なぜか声には人間味があふれている。
「し、鹿って‥‥‥」
「あの大鹿だ」
「ああ、見たよ。でもそれが一体なんだっていうんだ」
「どのように見えた?」
「どんなって?」
「見て感じたままを言うがよい」
偉そうだな。と思いもしなかった。言い様のない迫力があったからだ。
「哀しそうだった‥‥」
詩織が、俺の袖をギュっと握りながら言った。
「あの鹿、以前見た事あるんだ。でも、その時は恐いくらいに怒っていたような気がする」
「そうか‥‥‥」
虚無僧の言葉に、初めて人間らしい感情がこもった。
「‥‥‥‥あんただろ? 俺達につきまとっていたのは」
京都に来てからの奇妙な現象のたびに聞こえてきた音の主はこの虚無僧だという事は、映画村で会った時からかすかに思っていたが、確信に変わった。
「拙僧はただの見届け人に過ぎぬ」
「見届け人って‥‥?」
「そんな事はどうでもよい。それより、お主ら、あの鹿の助けになってやってくれぬか」
「助ける? 一体なんの事なんだよ。説明してくれ」
「お主ら、わからぬのか?」
意外そうに虚無僧が聞いてきた。
「そうか‥‥‥まだ気づいておらなんだか」
「なんだかわけがわからないぞ。
 それより、俺達も訳のわからない事につきあっている暇だってないんだから」
心のどこかで、かかわろうとしている自分が居る事はとっくに気づいていたが、いままでの事は質の悪い冗談とさえ思っている現実の俺の方が強い。
それに、危険な事だったら、俺一人だったらいいとしても‥‥
「ねえ、…」
「ん?なに?」
「なんだかわからないけど‥‥‥あの鹿助けてあげられるなら、わたし、そうしたい。
 ‥‥‥なんだか、放っておけないの」
「‥‥わかったよ。
 詩織がそう言うんなら、俺もなんだかわからないけどやってみよう」
「ありがとう」
「詩織にお礼言われるほどじゃないよ。
 実を言うと、俺もなんとなくやってみようと思ってたんだ。けど、変な事に関わって詩織が危ない目に会うのも難だったし」
「そう‥‥」
嬉しそうにほほえんだ。
「お主ら、もう良いか?」
虚無僧の言葉に、俺達はハッとして離れた。
ずっと見てたのか、この虚無僧は。
下手に黙っていられただけに、やたらと照れくさい。
「さすがによう似ておるな」
「は?」
「なんでもない。それより、話はまとまったようだな」
「まあ‥‥一応」
とはいえ、まだ100%純粋に信じている訳でもない。
「よかろう。それならば、今から言うところに行って、ある事をしてもらう」
「どこへ行けばいいの?」
詩織の方が、どちらかといえば乗り気のようだ。
虚無僧は、懐から紙をとりだして俺に差し出した。
「観光案内96年度版‥‥?」
時代がかった虚無僧から、まさかそんな物が出てくるとは思わなかった。
虚無僧を見たが、網籠のせいで表情はわからないが、やっぱり無表情なんだろうか。
「そこに印をつけておいた。その印のついてあるところへ行って、小さい壷を持ってきてほしいのだ」
小さい壷というとき、人指し指と親指で大きさを示した。
5センチくらいだろう。
「それを持ってくればいいのね」
「そうだ。特にその役はお主に頼む」
「わ、わたし?」
詩織が自分を指さして驚く。
「俺はどうするんだ?」
「お主は、ただついて行けばよい。役目はほかにある」
奥歯に物が挟まったような、もってまわった言い方に、多少イライラする。
「それで、その壷をどうすればいいんだ?」
「壷を取った時点でわかる」
「ちぇっ、さっぱりわからないよ」
「ね、ねぇ‥‥‥ここって‥‥」
「何、どしたの?」
受け取った地図を見ていた詩織が、印がしてあるところを指さしていた。
「ここ‥‥ほら」
「ん? どれどれ‥‥‥げっ!!」
地図に記されている場所は、修学旅行前に配布されたパンフレットの中に記載されていた、ある場所と同じ所だった。
伊集院京都別邸。
そういう名前がついているのを見た時は、あきれたものだったが‥‥
「伊集院の敷地かよ‥‥いやだなぁ」
「ずいぶん大きいところよ。そんな場所でそんな小さな物なんて探せるのかしら?」
「案じるな。娘。お主が行けばおのずとわかる事だ」
まったくもってまわりくどいな。この虚無僧は。
「さあ、もうぐずぐずしている暇は無い。早々に行かれるがよい」
まったく有無を言わさない虚無僧だ。
「ところで、なんで俺達に? 色々知っているならば、あんたがやればいいじゃないか」
「言ったであろう。拙僧は見届け人だという事を」
そう言って、錫杖を地面に一突きした。
シャーーーーンと金具が触れ合う音がしたと思った瞬間、目の前が一瞬強烈な光につつまれ、気が付くと、虚無僧の姿はどこにもなかった。
夢か? と思ったが、詩織の持っている地図は、確かにあの虚無僧から渡された物だった。

やれやれ、なんだって難儀な修学旅行になっちゃったな‥‥

(3)

「でかいな‥‥‥」
「おおきいね‥‥」
伊集院京都別邸の前に来た俺達は、寺の門かと見紛うほどの大きな門を見上げて、唖然とした。
金持ちのやることは良くわからないな‥‥
だいたい、こんな門をでかくしても、誰が活用できるっていうんだか。
トラックか恐竜でも出入りするのか、この家は。
大門の横にある小さい門の前にあるインタホーンをとりあえず押した。
「はい、どなたでしょうか」
どこかで聞いた声がした。
背中にゾゾっと悪寒が走った。
「あ、伊集院レイの‥‥‥クラスメイトですけど」
友達という台詞は出てこなかった。あたりまえだ。
「レイ様のお友達でございますか」
ク・ラ・ス・メ・イ・トです」
念を押すようにつげた。
「失礼ですが、お名前を」
「…と藤崎詩織です」
「少々お待ちください」
ほどなくして、大きい門が開きだした。
「この小さい門って、なんのためについているのかしら‥‥」
まったく同感だ。
ふつう、こっちの門を開けるんだろうに。
「それじゃ、入ろう」
「うん」


門をくぐってから、歩いて5分ほどの所にある玄関をくぐった俺達は、でかい客間に通された。
ベットと言っても通用しそうなほどでかいソファに座らされて、落ち着かない思いで待っていると、ドアを派手に開けて伊集院レイがやってきた。
修学旅行中、ずっとここに駐留しているつもりらしい。
まったく、修学旅行という物をわかってないな。
「何か用かね」
前髪をサラっと整える姿が、良くわからない。
美形なのは確かに認めるが‥‥‥
そういえば、伊集院のまわりにはいつも女の子達が居るが、詩織とかほかの子達や、あの鏡さんでさえ特になんとも思っていないようだ。
なんでだろう?
あれだけの美形だ、その気になれば学校の女の子をひとり占めにだってできるだろう。
もっとも、性格があれじゃ無理かもしれないが‥‥
「自由行動の日に私の所を訪ねてくるとは、随分殊勝な心がけだな」
「誰も訪ねてきたくて来たんじゃない」
「…、そうじゃないでしょ」
ほとんど喧嘩越しになりそうな俺に、ささやくようにして詩織がつぶやいた。
「あ、そうだった」
「なんだね。二人して」
「あ、レイさん、ちょっと聞きたいんだけど」
「なにかね」
「これくらいの小さい壷なんだけど‥‥‥この家にある?」
先ほどの虚無僧と同じ手で、説明した。
しかし、詳しく聞かなかったのが、今になって悔やまれた。
このでかいところで、雲を掴むような話だ。
「君ほどの女性が、そんな訳のわからない事を言うとは‥‥」
伊集院は、やれやれいうふうにと首を振った。
「私もそう思うんだけど‥‥」
自分でも呆れているようだった。
「まったく、あの虚無僧め‥‥」
「何か言ったかね?」
「いーや、なんもぉ」
教えてやる義理なんて一切ない。
「なんの事かわからんが、それ以外に用がなければ、お引取願おうか」
確かに、いきなり押しかけて、色も形も分からない壷はあるか? なんて、いくら相手が伊集院でもさすがに失礼と思ってしまう。
失礼以前に、おかしいとさえ思われても仕方無い。
困っていると、ふいに詩織が立ち上がった。
「ん? どうしたの、詩織」
俺の問いに答えずに、詩織は迷う事なく、出入口へと向かっていった。
「おい、詩織。どこ行くんだよ」
俺も立ち上がって、止まろうとしない詩織の肩をつかんだ。
「‥‥あったの‥‥」
無表情で、それだけ言って、再び歩きだした。
目が少しうつろだ。
ふとあの虚無僧の言葉を思い出した。なんだかわからないが行けばわかるってこのことか?
仕方なく、俺は詩織の後についていった。
「君たち、どこへ行くんだ?」
「あ、悪いな、ちょっと事情があって」
実にイヤな来客と思われている事だろう。
「なんだか知らないが、邸内を勝手にうろつかれてもあまり良い気分はしないから、私も付き合わさせてもらう」
なんだ。ついて来る気か。
でも、ここは本来伊集院のうちだ。文句は言えない。

「どこまで行くつもりかね」
「まあ、ちょっと我慢してくれよ」
すでに邸内から出ていた。
詩織の足取りは迷う事なく、ある方向へ向かっている。
大きな池に、綺麗に整えられた木々達。
ちょっとした寺の中より、スゴイ作りだ。
「なんだ、スゴイ鯉が一杯いるな」
「当然だ。一匹百万円はあたりまえの超高級魚しか飼わん。
 わが伊集院家は常に一流なのだ」
ふん、金魚すくいで取った金魚を大事に飼ってくれている詩織のほうがスゴイよ。
「こっちは‥‥‥‥」
突然、伊集院が詩織の歩いて行く方向に目をやって、驚いたように呟いた。
「どうした?」
「白鹿塚‥‥‥」
「えっ!」
伊集院の口から出た言葉が、俺の記憶を呼び覚ました。
あの幻で見た鹿も、真っ白だった‥‥
「なんかあるのか?」
「京都の伊集院家に代々伝わる繁栄をもたらすと言われている、神の鹿と言われている鹿を祭った塚がある。
 藤崎君があのまま行けば、そこに行く」
そうか。そういう事だったのか。すっかりあの虚無僧に振り回されているような気がした。
きっと、どこかで、あの網籠の下の顔の中では、口の端をつり上げて笑っているに違いない。

「藤崎君、そこから先に行くのはやめたまえ」
確かに、塚はあった、小さく盛り上がった地面の上に、小さな社がたてられている。
その回りは、形こそ不揃いだが、細長い石が取り囲むようにして設置されている。
その回りだけ、木々がうっそうとして、手入れがなされていないようだった。
大切な塚のはずなのに。
その盛り上がった土の前で詩織はピタリと止まった。
伊集院の忠告を聞いたのか?
社へと続く小さな階段へと入るのを止めているように張られた注連縄にスッとあげた片手をあてると、ボロボロに崩れるようにして風に溶けていった。
詩織がそれを確かめたように、再び進もうとするのを、伊集院が止めた。
肩をしっかりと掴んでいる。
「伊集院、やめろっ!」
詩織を止めている伊集院の肩を俺がつかんだ。
「離せ! ここは京都の伊集院家の中でもっとも神聖な場所。
 それに入る事は許されていないんだ」
「ちょっとくらいいいだろう!」
厚かましい事この上ないが、それどころではない。
それでも、詩織の歩みは止まろうとしない、伊集院や俺ごとグイグイと引っ張っていく。
伊集院は、肩だけでは駄目だと見たのか、肩をつかんでいた俺の手を振り払って
詩織を羽交い締めにした。
「誰か! 誰か来い」
レイのかけ声に、即座に数人の黒服を来た男達が瞬時に集まってきた。
なんでここまでされなきゃならないんだ。
「取り押えろ!」
くそっ、これがクラスメイトに対する仕打ちか。
数人が、俺を取り囲み、残りの男達が詩織の方へ向かった。
「駄目か‥‥」
そう思った時、ブルゥッという空気を震わせるような音が聞こえた。
その場にいる全員が凍り付く。
俺もだ。
おそるおそるその方向をみると、奴がいた。
あの大鹿だ。しかし、最初に会った時と同じ目をしている。
その大きさ、その目の異様さに、黒服の男達が全員信じられないというふうに茫然としている。
次の瞬間、大鹿は地面を蹄で一掻きしたかと思うと、鹿は俺達の方へ突っ込んできた。
動けない黒服の男の何人かは、跳ね飛ばされて池に落ちる。
「な、なにをしている。なんとかしろ」
まだ詩織を止めようとしているレイが、そう命じた。
命令は絶対なのか、男達は恐れを隠すように叫びながら鹿に掴みかかっていった。
つかむと言っても、大きすぎて足をつかむ格好になっていた。
四人がかりで前足を捕まれているにもかかわらず、鹿は足を振ると
あっというまに四人も池の鯉と仲良しになった。
鹿の瞳は、まっすぐ詩織を見つめていた。
「やばいっ。伊集院、なんとか詩織を動かしてそこからどけっ」
「し、しかし‥‥」
いくら金持ちでも、どうしようもないことはあるもんだ。すっかりいつもの威厳がなくなっている。
「くそっ」
俺が走りだすのと、鹿が走り出すのはほとんど同時だった。
伊集院を詩織からはがして、詩織を抱きかかえながら渾身の力を込めて押し倒した。
やった。なんとか倒せた。
その上を鹿がつっきっていき、木に激突していった。
木が音をたてて、まっぷたつになったのを見て、俺は青くなった。
「‥‥!」
腕の中の詩織が、驚きの声をあげた。
「な、なに!?」
「お、詩織、気づいたのか」
「え? え?」
なんで自分が俺の腕の中にいるのかわからないのだろう。
それになんで倒れているのか。
気づいたのなら、今はこうしている場合じゃない。
「詩織、立ち上がれ」
俺はすぐに立ち上がって詩織の手をひいた。
手をひかれながら、詩織は鹿をみていた。何がなんだかわからないという感じではあったが、恐れているのは確かだ。
鹿は、木を倒したあと、再びこっちを真っ赤な瞳で睨みつけた。やばいな‥‥
「早く逃げろ」
「え、で、でも‥‥」
「いいから早く! ここは俺がなんとかするから、早く建物の中に!」
怒鳴り声に近かったが、頭で考えさせるよりも、とりあえず身体を動かさす方が先だ。
俺の声に威圧されたのか、詩織は駆け出した。
あの虚無僧め、詩織が危険な目にあったぞ。
とりあえず、詩織を逃がしたのはいいが、どうしたものか‥‥‥
なんか考えがある訳じゃなかった。
とりあえず、時間稼ぎになればいいと思っただけだ。
「お、おい、何を怒っているのかわかんないけど、少し落ち着つくとかしない?」
そんな言葉が聞こえるはずも無い。鼻息も荒く、俺を睨んでいた。
まいったな‥‥
伊集院の方をチラリとみると、とっくの昔に失神している。
おや、いつものイヤミな性格とはほど遠い素直そうな寝顔だな。
そんな事考えている場合じゃない。
余計な事を考えた時には、鹿が俺に向かって突撃してきた。
すでに避けられる距離じゃなかった。
踏みつぶされる! と思いつつも、なぜか無意識に両手を前に突き出した。
手に衝撃が来た瞬間、飛ばされる! と思った‥‥‥が。
「え!?」
自分でも驚いた。
目を開けると、鹿の突進が俺の手で止まっている。
「え? え?」
大の大人を軽く飛ばせるほどの鹿が俺の手で止まっているなんて、信じろという方が無理というものだ。
なぜだかしらないが、本当に止まっている。
重いのは確かだ。
鹿の方も怒りに燃えた目で俺を睨みながら押し切ろうとしているようだが、蹄が地面に食い込んでいる。
そういう俺もさすがに悠長にしてはいられなかった、手にかかる重さはだんだん増してくるし、この状況から何にも進展することがないのも確かだ。
「!」
その時、背後の塚の方に再び気配。振り替えると詩織が歩いてきた。
「な、なにやってるんだっ! 早く逃げろって‥‥」
その声が届かないのが、なんとなくわかった。さっきまでの詩織に戻ってしまっているのが、その目でわかった。
なんだってこんな時に‥‥
詩織は、再びゆっくりと塚の上の社に続く小さな階段を昇り始めている。
詩織の手が社の小さな扉に手がかかるまで、俺は必死で鹿を抑える事だけを考えていた。
もう一度後ろを振り向いて、それを確認しようとした。
隙はその時にできた。
鹿が渾身の力をこめて、身体を捻ると、俺は支える手がすべり、完全にバランスを崩した。
倒れこむ瞬間、鹿の前足蹴りが俺の胸に一直線に向かってくるのがわかったが手でかわす余裕はなかった。
身体が半分になるかと思うくらいの衝撃が胸を貫き、俺は3メートルほどふっ飛んだ。
地面にしたたか背中をうちつけて、呼吸が止まった。
立ち上がろうとしても、全身に力が入らない。呼吸もろくに出来ない。
し、詩織‥‥‥
首だけを動かして、詩織を見た。鹿がねらっているのがわかる。
「だめか‥‥‥くうう」
詩織を守れない悔しさで、吠えそうなほどだったが、身体が言う事を聞かない。

シャーーーーーン

その時、あの音が響いた。
俺だけでなく、鹿もビクっとなる。
「よくやった。あとは拙僧にまかせるがよい」
そう倒れている俺に声をかけたのは、あの虚無僧だった。
虚無僧は、俺のところから、鹿と詩織の間まで一気に跳躍していった。
怒りに目を赤く燃え上がらせている鹿の前に立ちふさがる。
「もう良いであろう。あとはあの二人に任せるがよい」

ブルゥ

その声すら無視して、鹿はそう鼻息を出し、虚無僧に向かって突撃していく。
「やむをえまい‥‥」
錫杖を地面に突き刺し、両手で印を結んだ。
「鴛鬼闇に沈み、日輪の護法により闇魔駆逐せしめんっ!」
するどい声で言い放つと、鹿は完全に動きが停止した。
「汝の意志は、継ぐ者にまかせられよ‥‥‥色即是空空即是色一切願似功徳衆中」
低いが良く通る重い声で経の詠唱が流れると鹿の姿がだんだんと薄くなっていき、虚無僧がお経を唱え終わると鹿の姿が完全に消えていた。
同時に、俺の身体からも痛みと脱力感が引いていき、立ち上がる力が涌いてきた。
「詩織!」
社の前で倒れこんでいる詩織を見て、俺はあわてて駆け寄った。
「おいっ、詩織。大丈夫か。しっかりしろ」
抱きおこして揺すると、「ううん‥‥」と声をあげてまぶたをゆっくりと開けはじめた。
「よかった‥‥」
ほっとして、よくよく見ると、詩織の手には、小さな壷が握られている。
「壷って‥‥それか」
「あっ‥‥‥ …」
まだちょっと茫とした感じだが、意識だけは完全に戻っているらしい。
「大丈夫だった?」
「うん‥‥ありがとう‥守ってくれて‥‥怪我はない?」
弱々しく笑いながら言った。
「何言ってるんだ。それはこっちの台詞だよ」
ホッとして、苦笑した。
「起きれる?」
いつまでもこうして居たかったが、そうはいかない。残念だ。
「うん‥‥」
そう言って、詩織はゆっくり身体を起こした。
「私ね‥‥‥わかったの」
「何が?」
「この壷がなにか‥‥それで何をするのかって」
「どういうこと?」
詩織が返事をしようとしたときに、
「よくやった」と虚無僧が割り込んできた。なんだいい時にこの虚無僧は。
しかし、俺を助けてくれた事だけは確かだ‥‥
「わかったか。娘よ」
「うん‥‥‥」
「何の話だよ?」
俺だけ除け者かよ。
「お主、自分がさっき何をやったかわかっておるか?」
「さっき‥‥‥ってなにが?」
「鹿を止めたであろう」
「あっ!」
あのでかい鹿を両手で止めたのを思い出した。
両手を見ても、なんの事は無い、いつもの手があるだけだ。
「その壷に触れてみるがよい」
虚無僧のその言葉に、詩織は壷を差し出すようにしてきた。
「こ、これにか?」
本当に何の変哲も無い壷だ。
「触ってみて。わかるから‥‥‥」
詩織がそう言うんなら仕方がない。
俺はためらいもなくその壷に触れた。

(4)

目の前に白い鹿が居た。
優しい瞳で、ずっと俺をみつめている。
木漏れ日が、白い鹿と地面にキラキラと光を落としていた。
上を見上げると、葉が一杯に広がって、サワサワと揺れている。
大きな樹の下だ。
俺は、白い鹿をもう一度みつめ、寄り添った。
白い鹿も、俺にピッタリと寄り添ってきた。
胸の中に、暖かい何かが満ちていくのがわかった。

突然、目の前の場面が変わった。

白い鹿の身体に、数本の矢が刺さり、白い毛を赤く染めあげて倒れていた。
俺は言い様の無い怒りにわれを忘れ、その鹿に近づこうとしたが、自分の身体を見て愕然とした。
白い鹿に刺さったのより多い矢が俺の身体から生えている。
それでも、武将のような人影が白い鹿に近づこうとするのから守るために激痛に耐えながら白い鹿の前に立ちはだかった。
矢が四方から飛来するのが見えた。
首に、胸に、背中に、腹に、次々と矢が刺さっていく。
それでも、俺は倒れなかった。倒れる訳にはいかなかった。
そのまま、意識が遠くなっていった。
眠くてしょうがない。
これが死ぬという事なのか‥‥‥
倒れている白い鹿を見て、俺は言い様のない悲しさに身体が引き裂かれそうになる。
そこで俺の視界は真っ黒になった。


「はっ!」
気が付くと、壷に触れたままの体勢でいた。
「い、いまのは‥‥‥」
驚いて詩織の顔をみると、大粒の涙をこぼして泣いていた。
ふと気づくと、俺の頬にも同じ物が流れているのがわかった。
「いまのは‥‥‥」
「見たか。哀しい過去を」
虚無僧が、錫杖を地面に一突きした。
シャーンという音が頭に響く。
そうか‥‥そうだったのか。
「白い鹿は、繁栄をもたらすといわれる神の鹿。
 その鹿を人間達は狩りたて、ついには‥‥‥」
「その鹿の骨が入ったのがその壷なんだな‥‥」
俺は壷をもう一度見た。何かが俺の心に呼びかけてくる。
声ではない呼びかけ。
「その鹿は、待っていたの。あるところで。
 でも、待っている時に、人間達が来て、その鹿を‥‥」
詩織も自らもった壷のを見ながら言って。涙を浮かべた。
「さよう。そして雄の鹿は、想う白い鹿に会うために、
 何度もここに来たが、結界のせいで近づく事もままならなかった」
そのせいで、狂ったように怒っていたのか‥‥
「‥‥‥‥」
「しかし、お主らがこの都に来た時に、何かを感じたのだろう。
 ずっとお主らにつきまとっていたようだ。
 ずっと怒りに燃えていたあの鹿が、何かを感じたのか、哀しみを現すようになった」
「俺は‥‥‥あの鹿だったのか?」
虚無僧は黙っていた。頷いたつもりなのだろうか。
「詩織は‥あの白い鹿」
詩織は一つ頷いた。
「どーいう事なんだ? 生まれ変わりとか、そういう奴なのか?」
「そうとも言うかもしれんが、少し違う。
 ‥‥意志を継ぐといったほうがいいのかもしれん」
「意志って?」
「永遠を誓う者達の意志だ」
「永遠を誓う‥‥‥」
俺は、繰り返すようにつぶやいた。
「お主らの後ろには、大きな樹が見える。
 とても大きくて古い樹。その樹の力が、お主らには満ちておる」
「伝説の‥‥樹?」
詩織が言った。
「とてつも無く強い樹だ」
虚無僧の声に、どこか夢見るような響きがあった。
「さ、娘」
虚無僧がそう言った時、詩織がニコっと笑った。
瞬間。その姿が一瞬にして消える。
「し、詩織っ!」
「案ずるな。あの娘の行く場所はお主にはわかっているはずだ」
そう言われて、考えてみると、確かに俺はわかった。
あそこか‥‥
「さ、行くがよい。これですべてが成就される・・・」
虚無僧が、肩の荷を下ろしたような声を出した。
「あんたは一体‥‥‥」
「見届ける者だ」
虚無僧の最後の言葉だった。
俺はいきなり目の前の景色が違うところにたっていた。
広い草原の真ん中にある一本の大きな樹がある場所だ。
懐かしい何かを感じて、俺は駆け出した。
樹に近づくにつれて、誰かが立っているのがわかった。
誰なのかも‥‥
「詩織‥‥‥」
詩織はただニコっと笑うだけだった。
「待っていたの。ずっとずっと待っていたの」
「あいたかった」
俺じゃない俺がそう言った。
「私も、会いたかった」
「あなたが好き。ずっとそれだけを思って待っていたわ」
「俺も‥‥」
詩織が、持っていた壷を差し出した。
その壷に触れると、また俺の目の前の光景が変わった。
目の前には、白い鹿。
やさしそうな瞳だった。
俺は、その鹿にそっと寄り添った。
その瞬間、胸の中の隙間に何かが満たされた感じがして、眠くなった。
心地よい。
意識が無くなる瞬間、大きな鹿と白い鹿が幸せそうに寄り添う姿が見えた。

「…。起きて。ねえ起きて」
遠くでそう呼ぶ声が聞こえる。その声はだんだん大きくなって俺の頭の中に響いてきた。
頭が暖かい何かにつつまれているような感覚に目をさました。
「う‥‥あ?」
目を開ける時、まぶしさで一瞬目が眩んだが、すぐに見えるようになった。
詩織の顔がすぐ前にあった。
「詩織‥‥」
「良かった。良かった」
泣きながら、抱きおこされている俺の身体に抱きついてきた。
「あ‥‥‥詩織?」
「よかった。何度呼んでも目を覚まさないんだもん‥‥」
それ以前に、俺は一体何でこうなっているのかわからなかった。
見える景色は、よく刈られた木々のある庭園らしき場所。
それに、小さい盛り土の塚らしきもの。
「なあ、俺はどうしてこんなところに居るんだ?」
自力で起き上がって、詩織をゆっくりと身体から離した。
「わたしにもわからないけど、気が付いたらあなたが倒れてて‥‥」
「それに、ここはどこなんだ?」
見回すと、伊集院レイが倒れていた。
「あ、伊集院じゃないか!」
「あ」
俺と詩織は顔を見合わせてから、伊集院の所へ駆け寄った。
触れたくないが、身体を抱きおこそうとしたとき、詩織が割って入ってきた。
「駄目」
「え? なんで?」
「なんでもいいから」
そう言って、詩織が伊集院の肩を揺すった。
ちぇっ、なんだよ。
「レイさん。大丈夫?」
「う‥‥‥」
伊集院はゆっくりと目を開け、何かを考えたように見回してからバネのように跳ね起きた。
「こ、ここは、なんだ君たちは。どうしてここに居る?」
「そんなの俺が聞きたいよ。それより、ここはどこなんだよ」
「ここは伊集院家の京都別邸だ」
「ええ!?」
俺と詩織は声をそろえて驚いた。
「どうして俺達がそんなところに?」
「それは私が聞きたいくらいだ」
俺と詩織、伊集院はしばらく考えこんでしまった。
だいたい、京都に来てから、なにやってたか記憶が飛び飛びだ。
そんないい加減な行動していたのか。俺は。
「なんだか知らないが、帰りたまえ。旅館へは送ってやろうじゃないか」
なるほど、確かにもう日は落ちかかっている。
「それじゃ、お願いします」
切り替えが早いのか、詩織が頭を下げた。


「おい、何やってたんだ。ずいぶん遅かったじゃないか」
旅館に着くなり、好雄が出迎えた。
「うーん、なんて言ったらいいのかわからないけど‥‥」
実際、なんだかさっぱり訳がわからない。
伊集院の車の中で考えていても、まとまらなかった。
「それより早くしろよ。もうすぐ飯だぜ」
「お、そうか。腹も減ったし、ちょうど良かった」
「そうね。私ももうおなかペコペコ」
詩織と顔を見合わせて、なんとなく照れくさそうに笑いあいった。
なぜだか心地よい物が胸に満ちてくる。
「あーあ、結局この修学旅行でなんもいいことなかったなぁ」
好雄が残念そうに言った。
俺達は、なぜかおかしくて笑ってしまった。
何かわからないけど、良いことがあったような気がする。
でも、それがなんだかわからないのが、ちょっとイヤだった。


「あら。…君」
「あ、紐緒さん。なんか研究してたとか言ってたけど、どうなった?」
「どうもこうも無いわ。いつのまにかデータを記録したディスクの中が空っぽになっていたわよ」
紐緒さんが怒りながら行ってしまった。
そういえば、何の研究だったっけ‥‥‥
あとで朝日奈さんに聞いてみるか。

「あ、千里。もう大丈夫なの」
「うん、もうすっかり‥‥‥詩織、ありがとう心配してくれて」
「良かった」
「ずっと中沢君がついててくれたおかげ‥‥かな」
「そうなの‥‥‥良かったね」
「私、卒業式の日に、中沢君に‥‥‥」
「え?」
「あ、な、なんでもないなんでもない」
照れくさそうに逢坂千里は走り出してしまった。

そうして、俺達の修学旅行の日程は過ぎていった。

「各自‥‥家に戻るまでが修学旅行と‥‥」
そういう教師の説明をくどくどと聞かされた後、俺は背伸びをした。
「いや〜、疲れたけど、楽しい旅行だったな‥‥」
さて、帰るか‥‥と、思った時呼び止められた。
「あ、…」
「なんだ。詩織じゃないか」
「ねえ、一緒に‥‥‥帰らない?」
「そうだな。それじゃ一緒に帰ろうか」
「うん」
嬉しそうにうなずいてくれただけで、旅の疲れも取れそうな気がする。
「ねえ、聞いて聞いて。昨日の団体行動の時ね‥‥‥」
まだくすぶっている旅の思い出を、俺達は帰りの道すがら話あった。


9月 −放課後−

「あ、詩織じゃないか。何してるの?」
校門横にある伝説の樹のしたで、樹に寄り掛かるようにして何かを考えている詩織をみつけて、駆け寄った
「あ! …、どうしたの?」
「どうしたの? って、それはこっちの台詞だよ」
「ううん。別に何してるって訳じゃないんだけど、なんとなく‥‥‥‥」
「そうか」
俺も、樹に寄り掛かった。
「最近さ、変な夢みるんだよな‥‥こんな感じの樹の下で、二匹の鹿が出てくるんだよ」
「もしかしてそのうちの一匹は白い鹿?」
「え!そ、そうだけど‥‥なんで知ってるの?」
「私もね‥‥‥その夢みるの」
同じ夢を見るとは、驚きだ。
「でね、その夢見ていると、なんかすごく懐かしくて‥‥」
「俺も‥‥」
何気なく、ふと上を見上げた。
葉が秋の風にサワサワと揺らいでいる。
いつかどこかでこんな感じで居た事があるような気がしてふと詩織をみると、詩織もこっちを見ていた。
ふと、何かがおかしくて、お互い笑ってしまった。
「おかしいよね」
「そうだね」
もう一度見上げた。
ふと、後ろの耳元からシャーーーーーンという音が聞こえてきたような気がしたが、良く考えたら後ろは樹だ。聞こえる訳がないか。
俺と詩織は、そのまま俺達と樹の影が長く伸びるまで
その場に居て話し合うでもなく樹を見上げていた。

Fin

後書き

修学旅行(京都)編の長編です。
修学旅行の事を思いだしながら、あるいは、こんな事とかあったらいいな。とか
そーいう事を思って書きました。
制服を着たままでかけるいつもとは違う空間。それこそが修学旅行という気がします。
そこに好きな人も居れば、楽しめる仲間達もいます。
そこで起こった事は、容易には忘れられない物になると思います。
私も、修学旅行の時の事は、結構覚えてます(^^;

で、ゲームで京都に行った時、グレート鹿が出てきた時にピンとひらめいてそれでやったネタなんですが、ちょっと淡々としすぎて、いまひとつだったかもしれません。
あと、もう一つのネタとして、「二人の時」の「不思議な運命のめぐりあわせに心から感謝したい」というくだりありますよね。
たまたま家がとなり同士自体、なんか不思議な運命の巡りあわせという感じがしなくもない。
もしかしたら、それよりも前になんかあったのかもしれない
そんな事をふと考えて、まあ前世とかいう言い方はあまり好きじゃないのですがそーいうのを意識した物です。

この時期、ちょうど原稿から逃げていた時期だったので(^^;
自分で書いておいて、ゲームやってもう一度京都行ったらイメージにハマってしまいました(笑
自分のイメージにハマれるなんて、安上がりな自分だな。と思ったものです(笑


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル13:修学旅行
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数280
感想投稿最終日時2019年04月09日 12時47分25秒

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  • [★★★★★☆] 2人を待つのは伝説の樹…
  • [★★★★★★] 面白かったです!読み応え十分でした(^^)v