(1)

1997 −夏−

波の音が、心地よく響く。
真っ青な空には雲一つ無いが、水平線の向こうには綿で出来た山の連なりのような入道雲がある。
陽の光は容赦なく照りつけて、肌がチリチリするくらいだ。
時たま吹く暖かい風には、潮の匂いが一杯混ざり、吸い込むと懐かしい何かを感じるような気がする。
砂浜には、色とりどりのビーチパラソルが咲き乱れ、人がその間を流れていた。
それでも、TVで見た有名海岸ほど混んではいないのが幸いだった。
海岸線が、浜辺だけではないというのが、そういう理由だろうか。

「寝ちゃったのか‥‥?」
俺は、ふと横を見ると、いままでうつ伏せになって背中を太陽にさらしていた詩織が、心地よさそうに目を閉じているのに気づいた。
「お〜い詩織‥‥おーい‥‥‥」
ちょっと小声で呼んでみたが、反応がまるで無い。完全に寝ているようだ。
改めて背中をみると、陽に焼けてほんのり赤くなっている。
うっすらと滲んだ汗に日の光が跳ね返り、俺は思わず息を飲んでしまった。
「本当に寝ちゃってるのか‥‥‥」
このまま放っておいても良かったが、詩織を一人残して泳ぎに行く訳にもいかない。
とりあえず俺はその場に居る事にした。
こんなところで寝ていても、夢を見ているのだろうか。
俺は、しばらくやることもなく、ボーっと海を見ていた。
何度も何度も繰り返し寄せる波を見ているだけでも、わりと飽きる事はなかった。
どうして飽きないのだろう。そう考えていても、一向に結論は出なかったが考える事の楽しさは十分にあった。
しかし、陽射しのせいか、喉がだんだん乾いてきた。
ジュースでも買ってくるか‥‥‥
詩織が寝入っているのを確認して立ち上がった。
やっぱりこのままにしておいたら、背中焼きすぎになるな。
そう思って、俺はタオルをゆっくりと背中にかけた。
本当は‥‥‥放っておいて誰かが声でもかけるんじゃないかと心配になったというのが本心なのかもしれない‥‥‥‥
「‥‥じゃ、行ってくるか」
寝ている詩織を起こさないように、ゆっくりとその場を離れた。


ジュースを二本買って帰ってきても、相変わらず詩織は寝ていた。
確かに、海に来た早々ハイペースで泳ぎすぎた。
それで疲れてしまったのだろう。
さすがに、ちょっと手持ちぶたさになって来た時、ふと悪戯心が涌いてきた。
持っていたジュースを、そーっと詩織の頬に近付けた。
寸前で止めてしまったのは、このまま寝かせておいてあげようという心故だったが、今は悪戯心が圧倒的に強い。一気に付けた。
「きゃっ」という声とともに、詩織はびっくりしたように目を開けた。
それでも、熟睡していたのか、ちょっと表情が鈍い。
「あ‥‥‥わたし‥‥寝ちゃってたのね」
ノロノロと身体を起こした。
「ごめんごめん。こんな事するつもりじゃなかったんだけど」
「ううん、いいの。ごめんね、一人で寝ちゃってて」
「はい、ジュース」
頬につけたジュースを手渡した。
「ありがとう」
寝起きなのか、微笑みもゆっくりと柔らかい感じだった。
「良く寝てたね」
「うん‥‥‥あったかくて気持ち良かったから‥‥つい‥‥‥ごめんね」
そう言ってから、背中にかかっていたタオルがハラリと落ちた。
「あ‥‥‥」
「焼きすぎになっちゃうと思ってね」
本心は当然隠したが、やはり照れくさい。
「そう‥‥‥ありがとう」
嬉しそうに笑ってくれた。もし本心を言ったらどういう反応をしてくれるだろうか。
「どう? 動ける?」
「うん、もう大丈夫‥‥‥それじゃ、また泳ぎにいきましょうか」
「そうだな。今度はもっと沖の方まで行こう」
「うんっ」
波打ち際に行くまで、詩織に集まる視線をカットするように、なるべく近づいて歩こうとしたせいか、手が触れてしまった。
「あっ‥‥‥ごめん」
詩織の返事は笑顔だった。


「何してるの?」
砂浜に半分磯が混ざったような場所に居た俺に、波打ち際から詩織が声をかけた。
さすがに、岩が多いせいか、海水浴客の影もまばらだ。
詩織が泳いでいる間、俺はあそこに居るからと告げて、ずっとある作業に専念していた。
詩織が泳ぎ終わって俺を呼ぶまでに、その成果はあった。
「貝殻拾ってたんだ」
「え‥‥‥」
俺のところまで来た詩織に、右手を開いて、持っていた貝殻を見せた。
「わぁ‥‥綺麗な貝殻」
桜色した薄い殻の物、複雑だが綺麗な輝きを放つ物、美しい曲線をもった物など厳選に厳選を重ねて拾い集めた物だった。
「素敵な貝ばかりね‥‥‥」
うっとりとその貝殻を眺めていた。
「どの貝がいいと思う?」
「そうね‥‥‥この貝殻が可愛いかな‥‥」
桜色の薄く小さい殻を指さした。
「じゃ、これあげるよ」
「え‥‥‥いいの?」
ちょっと驚いた風に俺を見つめた。
「いいって、あげる為に拾ってたんだから」
本当の目的は左手にある。
「うれしい‥‥‥ありがとう。ずっと‥‥大切にするね」
指でつまんだ桜色の貝を、嬉しそうに見つめていた。
嬉しそうな笑顔の方こそ、俺の宝だ。
「そう言ってくれれば、拾った甲斐があるってものだよ」
「貝だけに甲斐があるのね」
詩織は、そう言ってから少し恥ずかしそうにうつむいた。
詩織の冗談なんて、何年ぶりだろう。
思わず吹いてしまった。
「ひどい。言わなければよかった」
ふくれっつらでそっぽを向いてしまった。
でも、俺はチラリと見てしまった。頬が真っ赤になっていたのを。
「ごめんごめん。詩織の冗談なんて、滅多に聞けないだろ。だからかえって嬉しいくらいだよ」
冗談っぽく笑ってこそ言える台詞だった。
「ほんとに?」
それでも、まだそっぽを向いたままだ。
「他の人の前じゃ、冗談言ったりしないだろう?」
俺の声が、ちょっと本気になってきた。
その言葉に、詩織は一回だけ頷いた。
「いや、ほんとごめんごめん」
「うん、許してあげる」
振り向いた顔は、すっかり笑顔を取り戻していた。
「でも‥‥この貝殻。本当にきれいね‥‥‥」
「気に入った?」
「うん」
太陽の下で、笑顔が光輝いた。
「そっか、それは良かった」
俺は、軽く握りしめた自分の左手を見つめた。

陽がすっかり西に傾いたころ、海岸にはすっかり人がまばらになっていた。
次々と片付けて帰る人の中、俺達は海岸に座り込んで海を見ていた。
青く澄んでいた空は青さを失いつつあった。かわりに黄色味を帯びている。
昼間が澄み切るような青さだっただけに、寂しい色だ。
街の木々がこの色に変わる時は、高校最後の夏が終わった合図になるのかと思うと、いいようのない気持ちがこみ上げてきた。
過ぎて行く日々には、もう帰れない。そんな切なくやるせない気持ちが涌いてくる。
時計の針が動くのさえ憎らしい。
そう思うと、この場所から離れるのさえつらくなる。
この場所を去らなければ、夏は終わらないような気がした。
もちろん、一人じゃない。隣に居る人も一緒だ。
「もうじき‥‥‥夏休みも終わりね」
潮風に髪を軽く遊ばせながら、太陽の姿を黄金色に写す海を見つめていた。
どこか寂しげに。
詩織も、去っていく一日に寂しさを感じているのだろうか。
戻らない夏を想っているのだろうか。
「ここに‥‥‥‥ずっとこうして居れたらいいのにね」
言葉の半分は潮風が持っていってしまった。
「え?」
「ううん‥‥‥なんでもないの」
軽く首を横に振るだけだった。
聞こえたら聞こえた。聞こえなかったら聞こえなかった。
それでいい。という風な感じで。
「そうだ。もうじき、もうちょっと先の海岸で、花火大会やるらしいよ」
駅で見たポスターの事をふと思い出した。
「そうなの?」
「うん、だから‥‥‥夜まで待ってから見て帰らない?」
一瞬の間があってから、「うん」と答えが返ってきた。
一瞬の間に、どれだけ多くの事を考えたのだろう‥‥‥
そう思う。
もし聞いても、きっと答えてはくれないだろう。
しかし、一緒になって返ってきた笑顔にその答えをこっそり教えてもらったような気がした。

「うん‥‥‥ …と一緒だから。だから心配しないでね。
 ‥‥うん‥‥‥うん、わかってる‥‥‥それじゃ」
詩織は、そう言って受話器を置いた。
テレホンカード返却の電子音が響く。
俺は即座にカードを抜き取った。
「おばさん、なんだって?」
「…と一緒だって言ったら。それじゃ大丈夫ね。だって」
おかしそうに笑った。
「ほら、俺は小さい時から信用ある人間だから」
「そうだったかしら。悪戯ばかりしてたのに?」
「それは言わないでくれよ‥‥‥」
ちょっと悪戯交じりの笑顔で言われて、ふいにドキっとした。
ときたま見せる表情の一つ一つは、小さい頃からの俺の胸には沢山刻まれている。
今でも思い出せる。今でも刻み込める。
「じゃ、なんか食べに行こうよ。まだ時間あるから」
そう言って見回すと、もうすでに、花火大会を見物する為の人達が、ぞろぞろと歩いている。
「わたしも‥‥‥浴衣着たかったな」
目の前を通り過ぎた浴衣姿の女性を見て、少し残念そうに表情を落とした。
「今回はしょうがないよ。来るまで知らなかったからね。
 ま、詩織の浴衣姿見れなくて‥‥‥残念だったけどね」
残念そうな詩織の表情に、思わず、普段はすすんで言えないような事を言ってしまった。
さすがに照れくさくなって、俺は視線を反らした。
「え‥‥‥‥‥」
そういう声だけが聞こえてくる。
嬉しさの色が濃い声だというのがわかっただけで、満足だ。
「そ、それじゃ‥‥‥どっか夕飯食べれるとこみつけて、そこで食べよう」
「そうね。わたしおなかすいちゃった」
子供が、軽く小さい悪戯を優しく笑いながら怒られた時のように、小さく笑った。
「俺ももうペコペコだよ」
笑いあう瞬間の心地良さに、腹より胸が一杯になった。
景色が空と同じ色になる時間、時たま思い出すように感じる潮風が心地よく流れていった。


「夏休みの宿題‥‥‥もう終わった?」
詩織が、シーフードスパゲティを食べていた手を止めて、聞いてきた。
「うーん、まだといえばまだだし、やってないといえばやってないし」
俺はスパゲティミートソースを食べる手を止めて答えた。
結局、海岸沿いのファミリーレストランに落ち着いた。
「結局まだ終わってないのね‥‥うふふ」
「そういう詩織はどうなの?」
「わたしは、もう終わってるわよ」
「じゃ、あとで見せてもらおうかな」
「駄目よ、自分でやらなきゃ。わからない所なら教えてあげるけど」
小学生を微笑みながら、やさしくたしなめる先生みたいに言った。
「ちぇっ、昔から夏休みの最後に苦しんでいたのは俺だけだよ」
「小学生の時は、良く助けてあげたじゃない。でも、小学生の時までよ。助けてあげるのは」
「実は‥‥詩織には内緒にしてたんだけど‥‥‥俺、小学生なんだ」
「あら、随分大きな小学生ね。
 最近の小学生って、高校で成績一番になったりするのね。知らなかった」
笑いを抑えるように、フォークをもった手の甲で、そっと口を隠した。
「しょうがない。自分でやるか」
「そうそう、それでいいのよ。…が本気でやればすぐに終わるはずよ。
 学年トップなんだから‥‥わたしが教える事なんて、もう無い‥‥‥かな」
フォークをシーフードスパゲティの皿にカツンと当てた。
寂しそうな響きのある小さな音が俺の耳に入ってきた。
フォークが皿に当たる音よりも、寂しげな表情の意味が俺にはわからない。
まだまだ詩織には聞きたい事、教えて欲しい事が山ほどある。
それなのに‥‥‥


挿入歌:「わたし・あなた」

いつからかな、あなたの背が私を追い抜いていったのは。
私は、そんなあなたに少しでも追い付きたくて、一生懸命だった。
あなたは言ったわ。
君に追い付かなくちゃ、って。
あなたに追い付こうとしていたのは私だったのに。
今の私が居るのは、あなたのせい。
あなたはそれに気づいてなかったのね。
私は、いつもあなたを追いかけてたの。
これからも‥‥

おやすみなさい‥
もしも夢の世界で会えたなら、私はきっとあなたに‥‥
おやすみなさい‥
また明日‥‥

(歌:藤崎詩織)


「そ、そんな事ないって。俺なんかまだまだ詩織には及ばないよ」
「ううん‥‥もうすっかりわたしを追い越してるわ」
寂しさと嬉しさが混ざったような表情に、俺は用意した言葉を忘れてしまった。
「やめよう。こんな話。それより‥‥ほら、スパゲティ伸びちゃうよ」
少し苦しい転換だったかな。と思わずにはいられない。
「ふふふっ‥‥ラーメンじゃないんだから」
話題転換の甲斐はあったようだ。
「あ、そうだ。今度ラーメンスープの中にスパゲティ入れてみようかな。
 パスタラーメンとかって感じで」
「面白そうね」
「だろう。という訳で、今度作ってみてよ」
「え? わたしが作るの?」
「俺じゃ無理だよ」
「わたしだって無理よ」
「いや、詩織なら大丈夫だって、なんだったら俺も手伝うからさ」
どさくさに紛れるという見本みたいな台詞だと、われながら思う。
「‥‥‥そう。それだったら‥‥今度やってみようかな」
俺のその言葉のせいなのか、やる気になってくれたようだ。
「あっ‥‥あともう少ししたら、出よう。そろそろ始まる時間だし」
「そうね」
残りのスパゲティを二人して一気に平らげた。

小さく細い線が空高くあがったと思った瞬間、大きく弾けて、夜空に大輪の花が咲いた。
身体を芯から揺するような音がすぐに届く。
「きれい‥‥‥」
海上の船から打ち上げられた花火は、光を海面に反射させて美しさを一層強調していた。
「あ‥‥これも昇り龍七変化っていうのじゃない? 神社で見た時のと一緒」
「確かに。そっくりだ」
「でも、海の上だとかなり違うね。すごく綺麗」
花火の光に照らされる詩織の姿。花火が途絶えると、闇に包まれ、打ち上げられるとその光でまた照らし出される。
花火よりも、そっちの方が気になった。
火の花が広がるたびに、見上げた瞳に輝きがやどる。
ふと、その瞳がこっちに向いた。
「なに? どうしたの?」
「あ、いや‥‥‥なんでもない。綺麗だなぁ‥‥って」
「うん、そうね。すごく綺麗」
良かった。気づかれていない。俺が詩織に向かって言ったつもりの事が。
その瞬間、夜空が一段と明るくなった。
連発花火が、夜空を一瞬の間だけ昼間に変えた。
咲き狂う花火は、今年の夏を表現しているような気がした。


「今日はとっても楽しかったわ」
詩織の家の門の前で、微笑んでいた。
「こっちこそ。朝から晩まで付き合わせちゃってごめん。疲れちゃった?」
俺の言葉に詩織は小さく首をふった。
「ううん‥‥いいの。楽しかったから」
「そう言ってくれると助かるよ。また‥‥‥」
来年も。という言葉を俺は飲み込んだ。
来年‥‥‥卒業した年の夏に、俺はまた詩織と海に行けるのだろうか。
また花火を一緒に見れるのだろうか。
そんな思いがよぎって、飲み込んだ言葉は、胸につかえて残りそうだった。
「それじゃ‥‥‥今日はありがとう。貝殻‥‥大切にするね」
「うん‥‥‥それじゃ」
俺は詩織が玄関に入るまで見届けた。
今日一日。
俺の夏の日が終わった。

(2)

− 新学期 −

朝、制服に着替えた俺は、カレンダーを見た。
9月7日には赤ペンで丸がかかれている。
年に一回の日。
詩織の誕生日だった。
「あと一週間か‥‥‥なんとかなるかな」
俺は机の上を見た。
人の拳の大きさくらいの小さな箱がある。
とりあえず、やるだけやってみよう。
そう決意して、鞄を掴んだ。
今日から新学期。うかうかしていられない。


学校に着いて、教室に入ると、詩織はもうすでに来ていた。
机を挟んで、虹野さんと何事かを真剣に話し合っていた。
メモまで取っているようだ。
なんだろう? と気になって、近寄ろうとしたとき
「よう、元気そうだな」と、好雄がやってきた。
「元気そうだって‥‥‥お前、こないだ会って遊んだばかりだろう」
「そうだっけ」
「まったく‥‥」
そう話していると、いきなりとんでもない声をかけられた。
「やあ、庶民達。夏休みはどうだったかね」
「い、伊集院‥‥‥」
突然やってきた伊集院に、好雄が明らかにイヤそうな顔をする。
「僕はスイスに行って、日本の暑い夏を避けてきたよ。はっはっは」
笑い声に、好雄はがっくりと肩を落とした。
「わるかったなぁ。どうせ俺達は庶民だよ。今年の夏はただ暑いだけだった‥‥」
好雄には悪いが、今年の夏は十分に良い夏だった。
「君達には、日本の夏が似合っている。僕には日本はせますぎて駄目だがね」
庶民には庶民の楽しみがあるんだ。
日本の夏の良さが分からないとは、伊集院も少し哀れな奴だ。
「来年は、南極にでも行ってこようかと思っているよ」
金持ちの考える事は良くわからない。
どうせなら、そのままペンギンと一緒に暮らして、日本に戻ってこないといい。
「南極かぁ‥‥‥俺も行きたいなぁ‥‥」
おい好雄、本気か‥‥‥でも、行きたく無いといえば、確かに嘘になりそうな気がする。
「荷物運び、及び雑用をやるというのなら、考えなくもないがね」
やっぱりヤメた。

− 放課後 −

下駄箱で自分の靴を取り出した時、肩をポンと叩かれた。
「あ、詩織じゃないか」
振り向くと、優しく微笑む詩織の姿があった。
そういえば、俺が見る詩織はいつも笑顔を絶やさない。
小さい時から、ずっとそうだった‥‥‥
そんな笑顔に惹かれたのかもしれない。そう思う。
「もう帰り?」
「ああ、今日は部活もないしね」
「それなら、一緒に帰らない?」
「え、いいけど‥‥‥どうしたの?」
いつもと違う積極さに、少しドキリとさせられた。
「帰りに寄りたい所があるんだけど‥‥駄目?」
「いいよ別に。俺も今日は暇だしさ。つき合うよ」
「良かったぁ」
嬉しそうにする表情は、小さい時から本当に変わらないな。
これから先、いつまでこの笑顔に出会う事が出来るのか。
卒業するまでに、これから先の笑顔の予約が出来れば‥‥‥
そう思っても、まだお互いの距離がどれくらいなのかわからない。
言ってしまったら、これからの‥‥‥これまでの時間を失いそうな気がした。


「もうじき、お父さんの誕生日なの。
 それでネクタイをプレゼントしようと思うんだけど、どんなのがいいのかわからなくて‥‥」
「そうか。それじゃ俺に任せてくれよ」
「ごめんね。そんなのに付き合わせちゃって」
「いいって。どうせ暇なんだから」
例え多少の無理があっても、付き合っていたかもしれない。
「誕生日といえば、詩織の誕生日も、もうすぐだよね」
「え‥‥‥覚えていてくれたの?」
「忘れる訳ないよ。なにしろカレンダーに印までしてあるんだから」
「ありがとう‥‥‥すごく嬉しいな‥‥」
頬がさぁっと赤くなった。恥ずかしそうに俺から視線を反らす。
こうしていると、お互いの距離が凄く近く感じる。
今はそれで満足するだけだ。
この時間がそのまま続くなら‥‥‥
「そういえば‥‥‥朝、虹野さんと何を話してたの? ずいぶん熱心に話し合ってなかった?」
「あ、あれは‥‥ね‥‥‥内緒よ」
口の端を小さくつり上げて笑った。
「なんか気になるなぁ‥‥‥教えてよ」
「今度教えてあげるから」
「どうせ教えてくれるんなら、今でもいいじゃないか」
「だ〜め」
「ちぇっ」
とは言うものの、俺も今は隠し事がある。とりあえずあいこだな。


「ねえ、このネクタイなんかどう?」
「そうだな‥‥‥おじさんなら、もうちょっと地味な方がいいかもしれない」
「それじゃ、こっち?」
「これなんかどうかな?」
「ちょっと地味すぎない?」
紳士服専門店だけあって、ネクタイの数が多い。
あれやこれやと、見て回っていた。
「そうかな‥‥‥あ、これなんかいいかもしれない。俺も結構こういうの好きだな」
別に自分が買う訳でもないのに、好みを言ってもしょうがないな。
「うん‥‥‥そうね。これなら似合いそう」
ネクタイを俺の制服の襟元へ持ってきた。
「べ、べつに俺がする訳じゃないし」
「どんな感じになるのかなって。ちょっと思ったから」
なんだか、ネクタイを締めてもらっているような気がして、どうにも気恥ずかしくなってきた。
女の店員が、こっちを微笑ましそうに見ているだけに、余計恥ずかしかった。
「うん、これでいいわ。それじゃこれ買ってくるから」
「あ、ああ」
ネクタイを買っている詩織と、それを受け取って包装している店員を見ていたら何事か話しているようだ。
いきなり詩織の頬が真っ赤になった。
慌てて手と首を振っている。
「ち、違いますっ」という声だけが聞こえた。
「どうしたの?」
戻ってきた詩織にそう聞いてみた。
「べ、べつに、なんでもないから‥‥‥ほんとなんでもないの」
なんかかなり動揺しているようだ。何を話していたのかな‥‥‥


帰り道、俺はある店に目を止めた。
一瞬立ち止まった俺についてこれず、詩織は三歩ほど先に進んでしまった。
「どうしたの?」
振り返った詩織にバレないように、俺は歩き出した。
もっとも、バレる心配は無いとは思っているが‥‥‥
「ごめんごめん‥‥いや、ちょっとね」
三歩先にいる詩織の所へ早足で追い付いた。

(3)

−9月7日(日)−

俺は机の上を見た。

赤ん坊の手くらいの大きさの小さな箱には、綺麗な包装紙と綺麗なリボンが巻かれている。
ここ一週間、詩織と買い物に行った帰りに見つけた店に行って、色々相談しながら苦労した成果が入っている。
さて、そろそろかな。
受話器を取り上げて、ゆっくりとボタンを押した。
目をつぶってでも、正確に押せるほど覚えた番号を。
三回ほどコール音が鳴ったあと、受話器を取り上げる音が聞こえた。
「はい。藤崎です」
「あ、もしもし。…と申しますが」
「あら、…君?」
「あの‥‥詩織さんはいらっしゃいますか」
一瞬詩織かと思ったが、どうも少し違う。これはおふくろさんの方か‥‥‥
聞き返したのは、少し自信が無かったからだ。
「あら‥‥詩織なら‥‥‥」
「え?」
おふくろさんの調子が落ちた声に、俺は思わず声が出た。
「あの子ね‥‥‥昨日の夜から風邪ひいちゃって、今部屋で寝ているのよ‥‥」
「ええっ!?」
「もうだいぶ熱も下がって良くなったんだけど、今日はとりあえず一日休ませる事にしたの」
「そうなんですか‥‥‥」
「それで、詩織に何かご用? 伝えておきましょうか?」
「あ、いえ‥‥‥いいんです」
「そう」
「それじゃ‥‥‥」と言いかけてから、俺はちょっとした決断をした。
「あ、あの!」
「あら? どうしたの?」
「お見舞い‥‥‥行ってもいいですか?」
「あら‥‥きっと詩織も一人で寝てて退屈してるだろうから。きっと喜ぶわよ。
 それに、私もこれからでかけなければならない所だったから。
 ちょうど良かったわ」
「え?」
「いいのよ。それじゃ、いつでも来てちょうだい」
「はい、それじゃ後ほど」
通話ボタンを押してから、俺は机の上の包みを掴んだ。


「あら。早かったのね」
「ええ、もう準備はできてましたから」
出迎えたのは詩織のおふくろさんだった。
すでによそ行きの準備が完了しているようだ。
「私が留守にしちゃうと、詩織が一人になっちゃうでしょ。心配してたとこなの。
 本当に助かったわ。ごめんさないね‥‥‥忙しかったでしょう?」
「いえ‥‥‥今日一日全部暇ですから」
「そう‥‥それなら、お願いね」
「はい」
「そうそう。今日は詩織の誕生日なのよ‥‥‥もしかして覚えてたの?」
「え、ええ‥‥まあ」
「ふふふふっ」
「え?」
いきなり小さく笑いだされて、少し戸惑った。
でも、こういう仕草は親譲りだろうか。詩織と良く似ている。
「いえ、なんでもないわ。
 それじゃ、詩織の事よろしくね」
そう言って、軽く頭を下げられてしまった。
「いえ、こっちこそ‥‥‥」
見当違いな台詞だな。と自分でも思った。


ドアを二回ノックした。
「お母さん? まだでかけてないの?」
弱い声が中からした。
「‥‥‥詩織。俺だけど」
そう言った時、「え!」という声が聞こえてきて、数秒の沈黙がやってきた。
「もうおばさんでかけちゃったよ。俺にあとよろしくって」
それでも、中から言葉が無い。
「詩織? ‥‥‥入っていい?」
もう一度ノックをすると、
「‥‥うん。いいよ」という声が聞こえてきた。
俺はゆっくりとノブを回し、そーっとドアを開けた。
布団を口元まで掛けた詩織がこっちを見ている。
「具合い‥‥‥どう?」
「‥‥‥うん、まあまあ良くなってきたみたい」
「そっか」
目だけで俺の動きを追っている。
俺がつったっていると、布団をわずかに下げて口元を見せた。
「椅子、座って‥‥‥」
まだ少し熱があるのか、少し顔が赤い。
俺は机の椅子を引き出して、ベットの横に持ってきて座った。
部屋を開けた瞬間に、寝ている詩織の姿を見た時から、もう心臓は胸の中で暴れ回っているようだ。
寝ている姿を見下ろすというのは、どうにも恥ずかしい。
「おばさん、さっき出かけちゃったよ。俺が留守番する事になったから」
「お母さんたら‥‥‥」
また布団をあげて口元を隠した。
「‥‥でも、風邪移るといけないから‥‥‥」
布団のせいで、こもった声になっている。
「いいって、なんとかは風邪引かないっていうだろ。
 それに、風邪は移した方が早く直るっていうしね。なんだったら俺に移してもらっても構わないよ」
よくまあこんな台詞が出るものだと、われながら感心する。
「え‥‥‥そ、そんなこと」
「それより、今日は俺が一日付き合ってあげるから。なんでも言ってよ」
「そんな、悪いわ‥‥」
「いいって、元々そういう予定だったんだから」
俺は、鞄から小さな包みを取り出した。
「はい。誕生日プレゼント」
「えっ!?」
小さな包みを差し出すと、驚いた風にまた布団を下げて口元を見せた。
「これを渡す予定だったんだけどね‥‥‥はい」
詩織は、布団の中から手を出して、プレゼントを受け取った。
「ありがとう‥‥‥」
さっきよりもなんとなく顔が赤くなっている。
「大丈夫? 熱まだあるんじゃないか?」
「ううん‥‥大丈夫‥‥‥それより‥‥開けてみていい?」
「いいよ」
詩織は、こっちをちょっとだけ見てから、覚悟を決めたように、布団から身を少しだけ起こして腰の位置をずらした。
枕と壁に腰と背中を預ける形になる。
淡いオレンジ色のパジャマ姿に、俺の顔まで熱くなってきた。
しかし、赤くなってる場合じゃない。
「駄目だよ。身体冷えるから」
俺は、とっさに布団を胸の位置まで持ち上げた。
良くこんな事が出来たと、自分でも驚くばかりだ。
さすがに詩織もビックリしている。
「あ、ありがとう‥‥‥」
「ごめん‥‥勝手な事して」
「そんな事‥‥‥心配してくれてありがとう」
赤い顔で微笑まれると、こっちまで照れる。
「それより、開けてみてよ」
とりあえず、何か言わないと、恥ずかしさで身が溶けそうになる。
「うん」
詩織がゆっくりとリボンを解いて、包装紙を解くと、なんの変哲もない白い箱が出てきた。
その箱の蓋を開けた詩織の顔が驚きに変わっていく。
「これ‥‥‥」
信じられないという風に俺を見た。
「そう。あの貝だよ」
「だって、あの貝はわたしが‥‥」
「あの貝、実は詩織にあげた分とは別に、同じ奴を拾っておいたんだ。
 どれが気に入ってくれるかわからなかったから‥‥‥選んでもらったんだけど」
箱から取り出して、柔らかそうな手のひらに乗せていた。
一対のイヤリング。金色の金具にぶら下がった桜色の小さな貝。
磨いて、それに光沢液を薄く塗った物だ。
出来上がった時の綺麗な出来に、我れながら驚いたものだった。
「街で見つけたアクセサリー工房っていう店で、色々教わって作ったんだよ」
「え! ‥‥これ‥‥手作りなの?」
驚きに目が丸くなっていた。
「ま、まあね」
こういう場所でなかったら、もっと普通に渡せたかもしれない。
今は照れくさくて仕方無い。
「‥‥‥‥‥‥」
「どうしたの?」
詩織が黙っているので、心配になってのぞき込んだ。
「詩織‥‥‥」
目に滲む涙を俺は見てしまった。
「うれしいの‥‥‥すごくうれしいの‥‥‥‥」
指で自分の目尻をぬぐっていた。
正直、ここまでよろこんでくれるとは思わなかった。
喜んでくれる事だけを考えていただけに、ここまでだと俺の方が泣けてきそうだ。
「俺の方がうれしいよ。そんなに喜んで貰えたんだから」
「‥‥大変だったでしょ?」
微笑むその目が、涙で少し潤んでいた。
ずっと貝を磨いていた時の事を思い出すと、報われたような気がする。
薄く小さい貝だっただけに随分苦労したが、喜んでくれる顔を
想像していたから、何ほどの物ではなかった。
「うん‥‥‥ちょっとね。でも、もうお礼もらったし」
「わたし‥‥まだ、お礼なんてしてない‥‥‥」
「喜んでくれただろ。それでいいよ」
「‥‥‥‥‥」
「はははは、ちょっとキザっぽかったかな」
自然に笑えた。
胸が一杯なとき、こんな自然になれるのか。と自分でも思った。
「ふふふっ」
笑顔は笑顔を生み出す元になるっていうのは本当なのかもしれない。
「ちょっと着けてみてくれない‥‥‥かな?」
俺は自分の成果を見たくなった。
「うん‥‥」
一つ頷いて、ゆっくりと一つずつ着けはじめた。
「どう‥‥かな?」
着け終えた詩織が、ちょっと恥ずかしそうに俺の方を向いた。
小さい桜色の貝が、キラリと光って揺れた。
「すごい‥‥‥良く似合うよ」
「ほんとう?」
「うん。作ってよかった。あ‥‥‥鏡持ってこようか?」
俺の言葉に、詩織がゆっくり首を振った。
「いいの。似合うって言ってくれたから‥‥‥今は見なくても」
目をつぶって、俺の言った事を噛みしめていてくれるような‥‥そんな気にさせてくれる言葉だった。
「そんなに信用されると、なんか恥ずかしいなぁ」
その言葉に、詩織は目線を反らした。
「だって‥‥他の人に言われたってしょうがないから‥‥‥」
心からそっと溢れたような、小さな呟きだった。
「えっ?」
言葉の意味が良く理解できなかった。
「別に‥‥いいじゃない。そういう事だから」
そういう事と言われても、よく分からないのは、想像よりも遥かに似合うイヤリングを付けた詩織に見とれていたせいだろうか。
「なんだかわからないけど、もう身体冷やすから、ちゃんと寝てないと」
「うん‥‥‥」
わからないほど小さく頷いた。
「イヤリング‥‥取りたくないな‥‥‥」
そう言いながら名残惜しそうに耳からイヤリングを外している姿に、気持ちがふわっと暖かくなるような気がする。
胸の中だけ、春の陽射しが溜まっているような‥‥‥
「お、おい」
詩織が布団から出ようとしているのを、俺は止めた。
「イヤリングしまいたかったの」
視線の先の棚の上には、アクセサリーをしまっている小さな箱があった。
「なんかあったら言ってくれよ。昔からそういうところは変わらないんだからな‥‥‥詩織は」
俺は、詩織を制しておいて、アクセサリー箱を持ってきた。
「ありがとう」
手渡した箱を詩織が開けると、小さなオルゴールが流れた。
イヤリングをそっと仕舞って、蓋を閉じるまで、俺はオルゴールの音に聞き入っていた。
一度も聞いた事も無いメロディ。でも、なぜか懐かしい。
そう思わせる優しいメロディ。
イヤリングは、これから先あのメロディを何度聞く事になるのだろうか。
誰の為にこの箱を開いて、誰の為にアクセサリーを取り出すのだろう。
その誰かがこの俺である保証は‥‥‥‥どこにも無い。
「ねえ、…は宝箱って持ってる?」
いきなりの質問に、俺はオルゴールの世界から引き戻された。
「え、別にないけど‥‥」
「わたしはね‥‥‥この箱がそうなの」
優しい眼差しを受けている箱が羨ましい。
「そうなんだ」
「大切な物が入っているから‥‥‥」
箱を持った指に、少し力が入ったのだろうか。微かに動いた。
「そっか‥‥‥いいよね。大切な物があるって」
「そうだ。この箱に最初に入ったアクセサリーってなんだか知ってる?
 実はね、それが一番最初の大切な宝物なの」
俺がわかりそうも無い事を聞いているせいか、どこか子供っぽく悪戯な微笑みを浮かべている。
「そんなの俺が知ってる訳ないよ。で、一体なんなの?」
「わからないの? ‥‥‥それじゃ、そのうち教えてあげるね」
「聞いておいてそれはないよなぁ」
残念そうな俺の声に、小さく笑ってから、聞き取れないほど小さな声で、「ほんとは‥‥知ってる筈なのにね‥‥‥‥」と、つぶやいた。
「え? なんだって?」
「別に‥‥‥なんでもない」
弾むような声が、いつもの明るい笑顔と一緒になって戻ってきた。
「まあ、いいや。それ貸して。置いてきてあげるから」
「うん、ありがとう」
受け取った箱が、少し重く感じた。
大切な物が入っているから‥‥か。どういう物なんだろうな‥‥‥
箱を元の場所に置いて、俺はまた椅子に座った。
詩織はすでに布団の中に戻っている。
落ち着いた時間が戻ってきたような実感があった。
「昔も、こうやって俺がお見舞い来た事あったよね」
「うん‥‥覚えてる」
「大丈夫って言ってたわりには、学校を三日くらい休んでて‥‥
 詩織の大丈夫はいっつも大丈夫じゃない時に言うからなぁ」
「だって、あの時は本当に大丈夫だって思ってたのよ」
「じゃ今は?」
「今は‥‥大丈夫よ」
昔、お見舞いに来た時も、辛そうにしながらも、微笑みながら大丈夫って言った時の詩織の表情が浮かんだ。
「本当かなぁ」
「嘘だと思ったら‥‥‥熱あるかどうか確かめたっていいけど‥‥」
詩織は、そう言って布団を口元まであげてしまった。
「い、いいよ。わかったよ。信用するって」
再び暴れだした心臓を抑えるのが大変だった。
「それより、ゆっくり寝てていいよ。
 俺は読みかけの本持ってきたから、それ読んでるよ」
「お見舞いに来てくれた人を放っておけないわ」
また身体を起こそうとする。
「だから、いいんだって。
 お見舞いされる人はしっかりお見舞いされてないと‥‥それがお見舞いする人に対しての礼儀だよ」
自分でも、なんかわからない事を言ったような気がする。
笑いながらだ。なんとかごまかせるだろう。
「それじゃ‥‥‥甘えちゃおうかな」
「そうそう。それでいいの。なんかあったらいつでも言ってくれよ」
「うん‥‥‥でも、あまり寝顔みないでね。恥ずかしいから」
恥ずかしそうに頬を染めた。
それから、すぐに目を閉じた。
なんだかんだ言っていても、身体が少し辛かったのかもしれない。
しかし、安心したように目を閉じている。
それを見守りながら過ごせる時間がある事に、誰にともなく感謝したくなった。

(4)

カーテンから差し込む光が、少し赤みを帯びてきたのに気づいたのは、二冊目の本を読み終えた時だった。

「なんだ‥‥もう夕方か‥‥‥」
微かに聞こえる寝息をBGMに、ゆったりとした気持ちで本を読んでいた俺は寝ている詩織を見た。
眠れる森の美女を見つけた王子様の気持ちが、今ならなんとなくわかるような気がする。
あの話どおりならば‥‥‥と、考えてから、頭からそれを振り払った。何を考えているんだ。俺は。
とりあえず、すっかり熟睡しているようだ。
これなら、明日にでも回復するだろう。
ふと、回復具合いを確認したくなった。
「熱あるかどうか、確かめたっていい‥‥‥」
その言葉が頭の中で何度も蘇る。
そうなのかもしれない‥‥そんなつもりじゃないのかもしれない‥‥‥‥
自分でも判らないまま、ゆっくりと額に手を延ばした。
出来る限り、全神経を集中してゆっくりと額に触れた。
ほんのりと暖かい温度が手に伝わってくる。
代わりに、自分の鼓動が伝わってしまうんじゃないかと心配した。
そっと離して、自分の額に触ると、ゆっくりと温もりが伝わってくるようだった。
詩織の額より、俺の額の方が熱い気がする。確かに顔が熱い。
それだけは、触れる前からそれは判かっていた事だが‥‥
もうほとんど、熱は下がっているようだが、若干まだ熱があるようだ。
仕方無いな‥‥‥


「‥‥‥‥」
わずかな声に、俺は詩織が目を覚ましたのに気づいた。
「あ、起きたのか」
「‥‥‥すっかり寝ちゃってたのね」
海での事をふと思い出すような、柔らかな笑顔だった。
「もうすっかり夕方だよ」
「ごめんね‥‥放っておいちゃって」
「いいって‥‥‥それより、もうほとんど大丈夫そうだね」
「うん‥‥」
首を横にした時、額に乗せていたタオルがズルっと落ちる。
「あ‥‥」
「熱あったから‥‥‥悪いとは思ったけど、勝手にタオルと洗面器借りたよ」
柔らかな笑顔に驚きの色がどんどん濃くなっていくのがわかった。
やがて、それは嬉しさの色が濃い笑顔へと変わっていった。
「ううん‥‥ありがとう‥‥‥あっ」
軽い驚きの声。
「ん?」
「熱あるの‥‥‥わかったの?」
しまった! あった。なんて言えばこうなる事になるのは当たり前だ。
額に触れた時の鼓動の高鳴りがまた蘇ってきた。
「え‥‥‥あ、ああ、なんとなく、あるんじゃないかなぁ‥‥って」
「‥‥‥‥‥‥」
俺の慌てぶりを見ているかのように、じぃっと見ている。
詩織は、とっくにどういう事か気づいているかもしれない。
「あ、ほら、タオルもう一度冷やそうか」
「うふふふふっ」
口元を丸めた手で隠しながら笑った。
「ありがと」
「べ、別に‥‥‥それより、なんか飲む? 持ってこようか?
 風邪引いて熱がある時は、水分摂った方がいいんだぞ」
気が動転している時は、ろくな言葉が出てこないというのが判った。
判らないよりはいいが、この際解決にはならない。
「変わってないね‥‥」
「なにが?」
「あの時も、いろいろわたしを心配してくれてたよね‥‥?」
「あ、ああ‥‥そういえば‥‥‥ね」
真剣な目で見られて、なんとなく鼻の頭を掻いた。
「ちっとも変わってない」
詩織はニッコリと微笑んだ。嬉しそうに。
「そうかなぁ、俺も随分変わったと自分でも思ってるんだけどね」
変わってないという意味は、ちゃんとわかっている。
ただ、嬉しそうな笑顔を受け止めるのが、たまに照れくさい時がある。
今がそういう時だった。
笑いながら言えれば、それが判ってくれるかもしれない。
笑いで答えてくれた。
「‥‥‥それじゃ、何かお願いできるかな」
「ああ、いいよ。じゃ、なんか買ってくる」
そう言った時、下で電話が鳴っているのに気づいた。
俺が電話した時も、こういう風にして聞こえているのだろうか。
「あ、電話‥‥」
「俺が出てもいいかな?」
「えっ?」
驚くのも無理はない、人のうちの電話を取ろうというのだから。
「今日は留守番の約束おばさんとしちゃったし‥‥‥
 あ、なんか言われたら俺は親戚って事にするけど‥‥やっぱり駄目かな?」
「ううん‥‥別にいいよ。それじゃ、お願いしようかな」
「おっけ、それじゃついでにジュース買ってくるから」
俺は急いで詩織の部屋を飛び出して、階段を駆け降りた。


「はい‥‥藤崎ですが」
俺がかける時に返ってくる台詞を思い出した。
なんか妙な気分がする。
もし、誰か俺の知らない男が出て「詩織さんはいらっしゃいますか」と言われたら、俺はその時なんて答えるだろうか‥‥‥と、ちょっと考えた。
そんな不安も、すぐに返ってきた言葉が掻き消してくれた。
「あら‥‥‥ …君?」
「あ、おばさん」
詩織のおふくろさんだった。
「ごめんなさいね。電話まで取らせちゃって」
「いいえ、僕が言った事ですから」
「そう‥‥‥ところで、どう? 詩織の具合いは?」
「ええ、もうすっかり良くなったみたいですよ」
「そう‥‥ありがとうね」
「いえ‥‥別に」
「そうそう、今日、ちょっと長引きそうになっちゃったの‥‥だから、遅くなると思うわ」
「えっ?」
「お父さんも帰るのがちょっと遅くなりそうだから、あなた達二人で何か店屋物でも取って食べてちょうだいな」
「そうですか。わかりました」
「それじゃ、お願いできるかしら」
「はい、いいですよ。それじゃ、ごゆっくり」
そう言った時、笑い声が聞こえてきた。
「ごめんなさいね。
 電話に出たときの…君、なかなか似合ってたわよ」
「そ、そうですか。ちょっと不自然だったかなぁって思ったんですけどね」
「そんな事ないわよ。それじゃ、よろしくね」
「はい」
それで電話は切れた。
ツーツーツーと乾いた音をしばらく聞いていた。
まだこれから少しの間だけ、風邪をひいているとはいえ詩織と二人きりの
時間が続くかと思うと、これから訪れる時間の一秒一秒が楽しくて
しょうがないような気がする。


電話の報告だけをするために、すぐに階段をかけあがって、ドアをノックした。
「詩織、入るよ」
当然、まだ寝ているものと思って、すぐにノブをひねった瞬間。
「駄目。開けないで!」
と、大きな声がして、とっさ手を引いてしまった。
「あ‥‥‥ごめんなさい。ちょっと着替えてるから‥‥」
すぐに小さい声が聞こえてきた。
「ご、ごめん‥‥‥」
気弱になる必要は無いとは思っていても、思わず声が弱まる。
「ところで‥‥どうしたの?」
ドアに閉ざされた向こうから聞こえてくる詩織の声は、半分はドアに聞かれているのか小さく聞こえる。
「おばさんが、ちょっと遅くなりそうだって」
ドアの向こうの事を少し想像すると、心臓が中から胸を蹴飛ばしているように暴れた。
「もう、入って大丈夫よ‥‥‥」
やっとの許可が出たところで、ゆっくりとドアを開けてそうっと中をのぞき込んだ。
薄い赤のパジャマの上下に、カーディガンを羽織った詩織がベットに腰掛けていた。
顔を赤らめて。
「ごめん‥‥‥まだ寝てるかと思ったからさ‥‥」
「ううん」
小さく首を振ってくれた。
「汗かいちゃってたから‥‥‥」
「熱がひいてきた証拠だよ」
「うん、ほんとう、楽になったわ」
寝乱れていたはずの髪が、綺麗に流れている。
梳かしたのかな‥‥‥
「それより、食事だけど」
「そうね‥‥‥なんか出前かなんか頼みましょうか」
「そう思って、今ちょっと家に電話してきたんだよ。母さんが作ってくれてるから」
「え‥‥そんな。悪いわ」
「いいっていいって、電話したら、あなた責任持って看病しなさいよって言われたよ。
 なんか嬉しそうだったのが訳わからないけど‥‥‥」
「そう‥‥‥それじゃ‥‥お願いしようかな」
「あとで、うちに取りに行くから」
「‥‥もう動けるから、わたしが行くわ」
申し訳なさそうな表情で言うのを俺は手で止めた。
「病人の心得その一。直るまで無理はしないこと」
出した手の人指し指を残して、あとは全部折り畳んだ。
「だから、詩織はここで寝てて」
「ごめんね‥‥‥本当に迷惑かけちゃって」
「俺もうちの家族も、誰も迷惑だなんて思ってないって」
「ありがとう‥‥‥」
申し訳なさそうな表情がようやくほぐれた。
「それじゃ、色々持ってくるから、楽しみにしててくれ」
「うんっ」

(5)

「おいしいね。このお粥」
湯気をたてているお粥を、ふうふうと冷まして口に運んだ詩織が、驚いたような表情を浮かべた。
ベットと椅子の間にテーブルを持ってきて、向かい合わせで食べている。
「だろう?
 中華風のお粥だから、スープの味がなんとも言えないんだ。ちょっと胡麻油なんか入れると、もっとうまくなるよ」
「そうなんだ‥‥‥ほんと、身体がすごくあったまるね」
お粥の薄い湯気の向こうに、詩織の笑顔が見える。
「ほら、芋の煮付けもうまいよ。これも身体あったまっていいんだよ」
「ほんと、おいしい」
ほくほくとした芋を口に運び、熱そうに食べている。
「だろう?」
俺も芋を頬張った。確かに熱い。
普段の日曜日よりも、ゆっくりと時間が過ぎているような気がした。
もう二日くらい居るような気がする。
時計を見ても、秒針はいつも見た通りのスピードで動いているのに時が進んでいるという実感は無かった。
楽しい時間が早く過ぎるというのは、嘘なのだろうか。
それでも、小さい時から今までの事を思えば、確かに早く過ぎているような気がする。
永遠。
その言葉があったら‥‥‥と思った。
詩織が、箸の手を休め、ふうっと肩の力を抜いた。
「こうやって食事するのって‥‥‥いいね」
「そうだね」
「でも‥‥もう、こんな機会なんて無いかもしれないね」
ふっと寂しそうに目を伏せた。
「そんな事ないって、またこうやって食べようよ」
「本当に?」
訴えるような瞳で見られて、少し胸が痛んだ。
こんな時間を重ねてもいいのだろうか、と
俺が望んでも、詩織が望まなくなったら‥‥と。
その時になったら、重ねてきた時間の分だけ心が無くなりそうだ。
不安ばかりが大きくなっていく。
「俺で良ければ‥‥‥だけどね」と心の中だけで言った。
「それじゃ、約束よ」
嬉しそうな顔を見たら、不安を感じている自分が馬鹿らしくさえ思えて、俺もつられて笑った。
「おっけ、じゃまた今度こうやって食べよう」
不安はいつでも笑顔には勝てない。そう信じられる。
「お粥‥‥‥おかわりする?」
俺の空いた茶碗を見て、詩織が手を出した。
粥の入った鍋は詩織の方においてある。
「それじゃ、もらおうかな」
茶碗を受け渡す時の恥ずかしさは、同時に心地良さでもあった。


「おいしかった。おばさまにごちそう様って伝えてね」
「ああ、言っておくよ」
食器を片付けようとしている詩織を、俺は言葉で止めた。
「いいよ。俺が片付けるから、詩織は寝てて」
「そこまで甘えられないわ。ご馳走になったんだから。
 それに‥‥もうすっかり身体も軽くなったし」
確かに、熱っぽい感じではなく、普通に血色が良くなってきたような感じがする。
昼間、ずっと寝ていてさっきあれだけ食べたんだ、大丈夫だろう。
「空になった食器が並んでると、なんだか寂しいね」
詩織が片付けながら、ぽつっと呟いた。
そうかもしれない。
空になった食器達は、祭りの後を思わせる寂しさがある。
ましてや、こういう状況で楽しく食べていただけに、余計寂しい。
「だからさ‥‥‥また今度こうやって食べよう」
「‥‥うんっ」
「あ、その鍋、こっちに貸して‥‥‥」
片付けるのも、また一つの楽しみかもしれない。そう思って鍋を受け取った。

一日の終わりがやってきた。
長いと感じた筈の一日は、気が付くと終わりを迎えていた。
部屋で話していた所へ、おふくろさんが帰ってきた。
「…君、本当に今日はありがとうね」
詩織の部屋へ来たおばさんは、そう言ってニコリと笑った。
「お母さん、…のおばさまにご飯ご馳走になっちゃったの」
寝ていた詩織が、身体を少し起こして言った。
「まあ‥‥‥本当にごめんなさいね。御迷惑かけちゃって」
俺はその台詞を聞いて、ちょっと笑ってしまった。
「さっき詩織が同じ事言ってましたよ。
 いいんです。母さんも結構楽しんで作ってたみたいですから」
「そう? ‥‥‥でも、今度お礼言いに行かなくちゃね」
「いえ、本当におかまいなく‥‥‥」
「‥‥それじゃ、今日はありがとうね。…君」
「いえ」
おふくろさんは、そう言ってから、部屋から出ていった。
「それじゃ、おばさん戻ってきたから、俺はお役御免だ。そろそろ帰るよ」
「もう帰っちゃうの?」
「うん、俺と話してて、また風邪ぶりかえさせたらまずいだろ。
 ゆっくり寝とかないと、明日つらいよ」
そう言ったあと、どんな表情をしてくれるのか、少し気になった。
「うん‥‥‥今日一日、本当にありがとう。すごく楽しかった」
俺は引き留められると思っていた。
残念そうな表情を期待していたが、期待とは裏腹に、優しい笑顔をもらってしまった。
やはり自惚れだったのかもしれない。
本当は、まだ話していたかった。
帰るなんて言い出したのは、引き留められるのを期待したからだ。
しばらく間、何を言っていいのかわからなくなって、沈黙が続いた。
「あ‥‥‥」
俺が言った。
「ね‥‥」
詩織が言った。
俺は時計をチラリと見た。まだ帰るには全然早い時間だ。
それに、遅くなろうとも、家は隣だ。1分もかからない。
「何? 詩織」
「あ、あのね‥‥‥」
詩織が何かを言い出そうとしているとき、部屋のドアが開いた。
おばさんがお盆に白いカップを二つ乗せている。
「お茶が入ったから、どうぞ‥‥‥あら? …君もうお帰り?」
その問いに答えるのに、長い時間かかったような気がした。
でも、それは一瞬だった。
「‥‥‥と思ったんですが、まだ早いですし、お邪魔じゃなかったら」
「ええ、全然構わないわよ。ねえ詩織?」
おふくろさんの言葉に、嬉しそうな顔でこくこくと頷いた。
「じゃ、ゆっくりしてらしてね」
お茶をテーブルの上に置いて部屋を出ていってしまった。
タイミングの良さに、おかしくて、なんとなく笑いが込み上げてくる。
さっき、俺はまだここに居てもいいかな? と言うつもりだった。
一度帰ると言い出した手前、言おうかどうか迷っていたところだっただけに、おふくろさんがお茶を持って来た時のタイミングはバッチリだった。
「お茶も入っちゃった事だし‥‥‥まだちょっと居てもいいかな?」
「うん、ゆっくりしていって」
今度は、期待どうりの答えが返ってきた。笑顔付きのとびきりな答えが。
もしかしたら、さっき詩織が言いかけた事も‥‥‥

「こないだ‥‥沙希ちゃんと話してた事が‥‥って聞いてたよね」
「ああ、そういえば‥‥」
紅茶をひとすすりしながら聞いた。
早く飲めば飲むほど時間が進みそうだったから、ゆっくり飲んだ。
ベットから上半身だけを起こしながら話している詩織は、まだカップにも手をつけていない。
もしかしたら、同じ気持ちなのだろうか。
それは自惚れだろうか‥‥‥
「あれね、色々相談に乗ってもらってたの」
「相談って?」
「海行った時‥‥‥言ってたじゃない。パスタラーメンって」
「あ! あれか」
海に行った時、スパゲティの事で色々話したのを思い出した。
それ以前に、覚えていてくれた事自体に感動していた。
「覚えててくれたんだ」
「うん‥‥‥」
「俺の言った事なんて、冗談か忘れられているかのどっちかと思ったよ」
それでも、嬉しさは隠し切れない。頬が自然に緩む。
「そんな事‥‥‥ないのに」
そっと包むような微笑みに、俺はでかい太鼓を鳴らしたような鼓動の音を聞いた気がした。
鼓動の音が声に変わって口から出たら、どういう言葉になるだろう。
「それでね、どういう感じにしたらいいかって、聞いてたの」
「そうなんだ」
「ただ、ラーメンのスープに入れたんじゃ、スープスパゲティと同じでしょ?
 だから、もうちょっと変わった方法無いかなって‥‥‥」
真剣に話しながら、じっとこちらを見つめている。
目を逸らすつもりもないが、逸らす事は出来ないだろう。と思う。
その視線を目で受け止めた。
「なるほどね」
「で、ラーメンから離れて、中華風という事でどうかな? という感じになったんだけど‥‥‥」
「けど、どうしたの?」
語尾が下がった。なんか問題があったかような口ぶりだ。
「…がどう思うかなって」
「え?」
視線を逸らしたの詩織だった。
頬を紅くして。
「…が手伝うって言ってくれたのに、わたしで勝手に決めちゃったら悪いと思って」
自分自身に言い聞かせているような、小さな声だった。
こんなにも、あの突発的な考えを実行しようとしてくれている事に、
飲んだ紅茶よりも暖かい何かが、胸全体に広がっていく気がした。
「いいよ。詩織にまかせたんだから。俺はその手伝いするだけだよ」
「ありがとう‥‥‥わたし、頑張るからね」
「そんなにハリきらなくてもいいよ」
俺は飲むと、早く時間が進む紅茶を飲んだ。
そうでもしないと、どうにも照れくさい。
「沙希ちゃん‥‥料理がうまくなる秘訣も教えてくれたの」
「へぇ‥‥‥なんだって?」
答えが返ってくるのに十秒ほどかかった。
一度すぐに言おうとして、ためらった感じがあったのが気にかかる。
「根性と‥‥‥愛情だって」
ためらった理由が判った。
同時に、カップを落としそうなほどビックリした。
「に、虹野さんらしいね」
心の中は、動揺しまくっていた。この場で思いつくまま言ったらなにかとんでも無い事を口走りそうな気がする。
「でも‥‥そうだと思うな」
「えっ‥‥‥」
今の言葉の本当の意味を教えてくれ。と言いたかった。
しかし、心だけが空回りする。
作ってくれる物に、両方とも入れてくれるだろうか‥‥‥
「だ、だから‥‥その‥‥‥大切な事なんじゃないかなって」
どうも詩織も動揺しているようだ。
俺なんかに言ったからだろうか。
「それじゃさ、今度こうやって食べる時、それにしようよ」
「わたしもそう思ってたの」
こういう時間があれば、他はなにもいらない。
そんな瞬間だった。

「それじゃ、俺はこれで本当に帰るから‥‥‥」
「うん」
寝ている詩織は、小さく頷いた。
「風邪も、明日には完全に直ってるよ」
「‥‥‥ありがとう」
そう言って起き上がろうとしていた。
「なに、どうしたの」
「見送りするから‥‥‥」
「いいよ。寝てなきゃ駄目だって‥‥」
それでも起きようとする詩織の肩に、押さえようとして、思わず手を乗せた。
「あっ‥‥ご、ごめん。いいからほんとに‥‥‥」
詩織のびっくりした表情に気づき、慌てて手を離した。
すぐに詩織は無言で首を横に振った。
「ねえ‥‥‥」
驚くほど落ち着いている詩織が言った。
「な、なに?」
「どうして‥‥そんなに優しくしてくれるの?」
俺は一瞬息が止まった。
「どうしてって‥‥‥それは‥‥」
今、俺がここで本心を言ったらどうなるだろう。
いままでの時間と、これからの時間を無くしそうな気もする。
でも、言ってしまいたい気もする。
いままでの想いのすべてを打ち明けてしまいたい。
「それは‥‥‥詩織が心配だからじゃないか」
出てきた言葉は、自分でもつまらないと思うほどありきたりな物だった。
ありきたりだが、本心には違いない。
「‥‥そう、そうよね。ありがとう‥‥‥ごめんね。変な事聞いちゃって」
残念そうな表情の意味は一体なんだろう。
もしかしたら‥‥‥と、そんな考えを振り払った。
「それじゃ‥‥‥」
寝ている詩織を少し見てから、背中を見せた。
「プレゼントありがとう‥‥‥本当に嬉しかった」
後ろからの声に、俺は振り返らずに頷いた。
ドアを開け、振り返って閉める時、ドアの隙間が最後の一センチになるまで詩織はこっちを見ていたような気がする。
俺も見ていた。
ドアが完全に閉じた時、今日一日が終わったような気がした。


おふくろさんに挨拶してから、俺は詩織の藤崎家を後にした。
夜になれば、秋風は心地よい。
なんとなく、いつもりゆっくり歩いたせいか、家につくのにいつもの倍かかってしまった。
食器類を台所に戻してから、部屋に入って電気をつけると、乾いた部屋が出迎えた。
誰も寝ていないベット。少し散らかった部屋。
さっきまでの時間が夢のような気がする。
カーテンを開けてから窓を開けると、部屋にも心地よい風が吹き込んできた。
ふと、詩織の部屋の窓に人影が見えた。
「あ‥‥‥」
寝てないといけない筈の詩織がそこに居た。
「寝てないと駄目だって言ったろ」
少し大きな声で叫んだ。
「お見送りしてたの」
詩織も少し大きな声で言った。
まったく‥‥‥
それでも、俺はうれしくて笑った。
「それじゃ‥‥明日学校でね」
詩織が言った。
「ああ、学校で」
そう言うと、頷くのが見えた。
「じゃ、わたしは…の言いつけどおりにもう寝るね」
それから、すぐに窓が閉められ、カーテンも閉じられた。
すぐに電気が消えた。
俺はそれまでずっと見ていた。
やれやれ‥‥‥
口元には勝手に苦笑が浮かんだ。


今度食べれる、まだ見ぬ中華風スープスパゲティを想像しながら俺はいつまでも明かりの消えた詩織の部屋を見ていた。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹‥‥‥
誰にも聞こえないような声で、でも詩織には届くと信じてゆっくりと羊を数えた。

Fin

後書き

(編者注…TOKI32は第17話にあたります。TOKI24は12〜13の間にあたります)
今年最後のちょっと長い文です。
SLS(セミロングストーリー)かもしれないです(笑
自分で言うのもなんですが、割と書いてて気に入れた文章でした。
TOKI32の時は、わりと無意味に長くなっちゃってて結構キツかったんですが、今回のは楽しみながら、それに倍する苦労をしながら、なんとか書けました。

と、まあ‥‥そんな事はおいといて‥‥‥
誕生日プレゼントの度に泣かせちゃってるので、なんか変わらないなぁとか思ってしまいます。
海に行った時にふと思い浮かんだストーリー。
そこから書き出したら、いつのまにかああなってこうなってそうなって‥‥という感じになってしまいました。
こういう一日を送ると、その日の夜が寂しいですね。
始まる事の楽しさ。
終わる事の寂しさ。
こんなのをちょっとでも感じられるような文章になってたらいいとか思いつつ、表現力の不足でどうにもうまく行きません。

あと、余計な事なんですが、ファミレスで食事中の時「あなた・わたし」という挿入歌の部分がありますが。
雰囲気が壊れてしまうようでしたら、そこの部分を削除しちゃってください(^^;
もともと無かった部分ですが、なんとなく台詞との兼ね合いも良かったのでつけてみました。
実は、これがTOKI24だったりするんですが・・・(笑

暴走文章を書く秘訣も、「根性と愛情」かもしれません。


今年一年。
ときメモにハマって以来、こうやって毎日のように書いた物が、気が付くとたくさんありました。それでも、読んでくれている人は、片手の指で足りるかな‥‥‥
いや、ほんとに1、2人くらいと思ってて、まあそれでもいいや、と思ってずっとアップしてたら、結構読んでくれている方が多いのにビックリしました。
それでも、両手の指には足りないかもしれませんが。
読んでくれている方々、レスをくれた方々には、本当に感謝です。
来年も機会と暇があったらよろしくおねがいします(^^)/
良いお年をお迎えください。
来年になってからこのDOCを見た方。
明けましておめでとうございます。今年は良い年であると良いですね。


このイベントは、三年目に海に言って貝殻を拾って詩織にあげて、
9月の休日に誕生日があると発生します。
・・・・・・・・・・・・・嘘です


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル19:貝殻のプレゼント
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数282
感想投稿最終日時2019年04月09日 13時32分36秒

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  • [★★★★★★] 挿入歌が最高に良いですね!(^^)! 削除なんて、とんでもない! 日常生活を描くのって、結構難しいような気がしますが、上手く纏まっていますね(^^♪ 私も詩織ちゃん手作りのラーメンパスタor中華風パスタ食べて見たい!
  • [★★★★★★] 「お見舞いされる人はしっかりお見舞いされてないと‥‥それがお見舞いする人に対しての礼儀だよ」がいい。
  • [★★★★☆☆] 氏んでもらっていいですか。(笑)
  • [★★★★★★]