1997年11月初旬
−高校生活−

ドアを開けた瞬間、冬の色が濃い秋の空気がすうっと流れ込んできた。
それでも、それを見越して着込んできている。寒さはさほど感じない。
俺は、空を見上げた。
星がきれいに出ている。
夜食をコンビニに買い出しに行くには、十分過ぎる雰囲気だ。
静かな夜の街。昼とは違う世界を歩く楽しさ。
そんな、いつもとは違う時間に踏み込める楽しさがある。


そのまま玄関を閉め、門を出た所で、いきなり俺の目に飛び込んできた姿があった。
準備もなにもない出会い。
詩織がそこに居た。
驚いた風にこっちを見ている。
「あっ! 詩織じゃないか」
「あ、…」
鉢合わせとはまさにこの事だろう。
「あれ? どうしたの? 洗面器なんか持って‥‥‥どこ行くの?」
「ちょっと、気分転換に銭湯でも行こうと思って」
楽しそうな表情は、もしかしたら俺と同じ、いつもと違う時間に出歩く楽しさを味わっているせいかもしれない。
「あ‥‥‥そうなんだ」
洗面器を持つ姿に、少し見とれてしまった。
その時、頭のなかで何かが閃く。
もうこうなったら、コンビニなんかどうでもいい。
「そうだ。ちょっと待っててくれないかな?」
「え? いいけど」
少し不思議そうな顔をしながらも、すぐに答えてくれた。
「じゃ、すぐ来るから待ってて」
俺はすぐに家の中に駆け込んだ。


「お待たせ」
俺の手には、洗面器。シャンプーに石けん。そこに乗せたタオル。
「あ‥‥‥」
詩織が驚いている。
「あ、良かったらだけど‥‥‥俺も一緒に行っていいかな」
とっさの思い付きで準備したはいいが、断られる事までは考えてなかった。
詩織の驚いた顔を見るまでは。
「駄目かな‥‥‥やっぱり」
俺の言葉に、詩織は小さく首を横に振った。
「ううん‥‥‥そんな事ないわ。一緒に行きましょう」
少し照れた風な表情が、街灯の暗い明かりに照らされている。
夜の暗がりでも、しっかりわかる。俺の目をしっかり見つめているのが。
その時感じた少し冷たい夜の空気も、俺の上気した頬には気持ち良かった。
「ありがとう‥‥‥でも、いきなりで、ほんとごめんね」
「いいの。…がお風呂の準備してきたってわかった時、すごく嬉しかった」
「ほ、ほんとに?」
俺の言葉に、詩織は一つ頷いた。
「それじゃ、身体冷えるといけないから、早速行こう」
「うん」
予期せぬ夜の出会いと、昼間とは違う世界を歩ける楽しさに
心踊るままに、俺達は歩き出した。

「でも‥‥‥やっぱり恥ずかしいね」
「そ、そうだね。学校の連中に一緒に銭湯行く姿なんて見られたらなんて言われるか」
道すがら、そんな事を話し合っていた。
「でも‥‥‥わたしは別に構わないけど‥‥」
正面を向いて、ボソっと呟いたのを俺は聞き取る事が出来なかった。
「えっ?」
「い、いいの。べつになんでもないから」
慌てて手を振っている。
「そ、そう?」
なんだろう‥‥‥でも、気になると言えば気になるが、今こうしてこうやって一緒に居られるだけで‥‥‥それだけで十分だ。
「それにしても‥‥‥わたし、銭湯なんて行くのなんて何年ぶりかなぁ‥‥」
詩織が空を見上げながら、遠い何かに話しかけるように言った。
「俺もそうだよ。昔は安かったから結構行ってたんだけどね。
 良く行ってたころに、詩織と初めて会ったあったような気がするなぁ」
「小学校一年生のころよね。確か」
「そこまで覚えてるなんて、すごいね」
「うん‥‥‥忘れたくたって、忘れられないから‥‥」
そっと、優しい声でつぶやくその言葉に、俺は暖かい何かを肺いっぱいに吸い込んだような気持ちになった。

思えば、いままでの時間の中で、一番近くに居たのは詩織だ。
笑顔も泣き顔も知っている。
今こうしていると、そのどれも鮮明に思い出す事だってできる。
知らないのは、今の詩織の心の中かもしれない‥‥‥
しかし、昔の詩織と今の詩織が違うのは、確実にわかるものの、いつから違っていったのかはわからなかった。
わからない事こそが、ずっと一緒に居たという証なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ誇らしささえ感じる。
これから先、何年か後にそう思えるだろうか。
思えるほど、俺は詩織の近くに居れるだろうか‥‥‥
見上げた夜空に、その答えはなかった。

銭湯「ほのぼの湯」の入り口の前で俺達は立っていた。
入ってしまえば、すぐに男湯女湯で別れる。
「それじゃ、三十分後くらいでいい?」
俺の言葉に、詩織は一つだけ頷いた。
「あんまりゆっくりして。のぼせないようにしてね」
詩織は、小さく笑った。
「ここのは温泉質だからあったまるよ。
 詩織も気をつけろよ。のぼせたら助けに行ってあげようか?」
「もう、えっち!」
それでも、小さく微笑みながら俺から少し視線を反らした。
「ははは、冗談だよ。‥‥‥それじゃ、三十分後にここで」
「うん。それじゃ‥‥‥」
そうして、俺達は男湯と女湯で別れた。
入ってからすぐに番台越しに顔を見合わせて、なんとなく照れてしまった。


「ふぅ‥‥‥‥」
湯に入ると、押し出されるように声が出た。
後ろを見ると、そこには、壁に大きく描かれた、三保の松原と富士山の絵。
それを見ると、不思議と心が休まる。
銭湯での醍醐味はこれだろう。
ゆったり足を延ばして、十分に身体の力を抜いて、ゆっくりとその絵を見た。
女湯も同じような絵なのかな。
今、壁の向こうで詩織も同じ風にして絵を見ているのだろうか‥‥‥
ふとそんな事を考えた。
もし、風呂に誰も居なかったら、声を出して聞いてみたい気さえする。
時計をチラリと見ると、まだ入ってから五分も経っていない。
三十分もフルに入っていたら、まず間違いなくのぼせるに違いないが、
俺はそれでちょうど良かった。少し早く出ると、最初から決めていたからだ。
「ふう‥‥‥‥」
気持ち良さのせいか、また声が出た。


二十分後。

すべて準備を整えた俺は、男湯のドアを開けて外に出た。
すぐに夜気がまとわりついて来たが、十分にあったまった身体を冷やすには至らない。
せいぜい、汗を止めるぐらいだ。
それほど身体の芯からあったまっている。
三十分も入っていたら、本当に倒れる所だった。
ドアを閉めて、下駄箱の鍵の木の板を差し込もうとしたとき、ドアを開ける音が聞こえてきた。
女湯のドアだ。
「あ‥‥‥」
出てきた詩織が、小さく声をあげた。
「な、なんだ。詩織。もう出てきちゃったのか」
「…こそ」
「まだ三十分経ってないよ」
「うん‥‥‥わかってる」
詩織の頬が、ほんのり紅くなっているのは、風呂であったまっていたせいだろうか。
「待たせちゃ悪いと思って‥‥‥」
そう言って微笑む詩織の笑顔は、風呂に入っていた時の心地良さとは違う暖かさで、身体にじんわりと染み込んでくるようだ。
「なんだ、同じ事考えてたのか」
風呂を先に出て、詩織を待つ。
これがやりたかったために、待ち合わせより十分も早く出てきた。
「そうなんだ‥‥‥ありがとう」
この笑顔を見るために、俺は早く出てきたような気がする。
コンビニにも、世界中のどこにも売っていない。
今の俺だけの大切な物‥‥‥
「こんな早く出てきちゃって‥‥‥良くあったまった?」
「うん‥‥もう十分あったまったから」
ほんのり匂いたつシャンプーの香り。桜色に染まった肌。まだ濡れた髪。
俺の心臓を暴れさせるには十分な要素ばかりだ。
「なんか‥‥‥恥ずかしい」
俺がじっと見ている事に気づいたのか、すこし身体を反らしながら言った。
「あ‥‥ご、ごめん」
俺もさすがにそういう反応をされるとは思っていなかっただけに、照れくさくなって目を反らした。
そのまま下駄箱からサンダルを取り出す。
「そ、それじゃ、身体冷えないうちに帰ろうよ」
「そうね」

「詩織。はい、これ。俺のおごり」
俺はビンを詩織に差し出した。
「あ、これ。フルーツ牛乳?」
「そう。やっぱり風呂上がりはこれだよね」
「そうなの?」
俺から受け取った瓶を面白そうに眺めている。
「本当なら、風呂上がり直後に、キューって飲むのがいいんだよ。腰に手をあててさ」
「女湯でそんな事してる人、いなかったわよ」
「そうなのか‥‥‥やっぱりこれは男のロマンなのかな」
そう言うと、おかしそうに笑ってくれた。
「それはいいけど、こんな瓶持ってきちゃって良かったの?」
「あ‥‥‥ほんとは駄目なのかもしれないけど、つい持ってきちゃったよ。
 一緒に飲みたかったから」
「えっ‥‥‥」
少し驚いた風な表情。しかし、それが段々と微笑みの表情へ変わって行く。
「ありがとう‥‥‥」
呟くように言ってから、
「でも‥‥‥今度返しにいかないといけないね」と、言いながら笑った。
「そうだね。それじゃ、飲み終わったら俺に瓶渡して。今度行く時に返しておくよ」
「ねえ‥‥‥」

俺の言葉に少し間をおいてから、詩織がそっと呟いた。

「わたし‥‥この瓶持ってちゃ駄目かな?」
「え? だって‥‥‥返さなきゃ」
「その時‥‥‥良かったら一緒に‥‥行かない?」
「‥‥‥!」

言葉に、少しだけ勇気を感じたような気がする。
胸に直接刺さる言葉。
心に優しく響く言葉。
そんな言葉だった。

俺に断る理由なんて微塵も無い。

「いいよ。それじゃまた今度来よう‥‥‥一緒に」
「‥‥うんっ」
俺達の持っている瓶は、またこうやってくる事の約束の証になった。
返すその時まで、今日の事は忘れないだろう。
もちろん、返しても忘れるつもりは無い。

「あ、開けてあげようか?」
詩織が、瓶の蓋を開けようかと思案にしているようだった。
片手に洗面器。片手に瓶では蓋の開けようが無い。
「え、あ‥‥だ、大丈夫だから‥‥‥」
「大丈夫な訳ないだろう。片手じゃ無理だよ」
「やっぱり‥‥‥そうよね」
照れた風に笑う姿。
大丈夫じゃないときに大丈夫というクセは直っていないようだ。
大丈夫じゃない時に、守ってやれる事ができるだろうか。
そんな事をふと考えた。
「じゃ、そのまま持ってて」
俺はまだ自由になっている片手で、詩織が持っている瓶の蓋のビニールを取ってから紙の蓋を取った。
「ありがとう‥‥‥でも、やっぱり一緒に飲みたいな」
「い、いいよ。詩織が先に飲んじゃって」
詩織は首を横に振った。小さく、ゆっくりと。
そうして、少し辺りを見回した後、塀の上にビンを置いた。
「瓶持って」
「う、うん‥‥‥」
俺は自分の瓶を洗面器の中から取り出した。
「開けてあげるね」
詩織が自由になった片手で俺の瓶の蓋を取り去った。
「あ、ありがとう‥‥‥」
俺の予想のしなかった事だ。
ふと、小さい時の素直な気持ちが口にでかかったが、何故かそれを飲み込んだ。

「やさしいから‥‥‥大好き」という言葉は、いつか俺の口から出してやる事ができるだろうか。


「それじゃ、乾杯しよ」
詩織が、置いてあった瓶を取ってから言った。
俺は、自分が言おうとしていたことを先に言われて、思わず口元が緩んだ。
「変な乾杯だけど、またこうやってくる事を約束したって事で」
俺は、詩織の差し出した瓶に小さくあてた。
音が小さく響く。
「おかしいね」
「乾杯っていったのは詩織じゃないか」
「ふふふ‥‥‥そうだけど」
優しく笑ってから、瓶に口をつけて飲んだ。
俺もそれを見てから飲んだ。
「おいしいね」
「だろう。やっぱり風呂上がりはこれだよ」
身体も、それに‥‥心もあったまった俺にとっては、フルーツ牛乳の冷たさは心地良い。
それに‥‥‥約束の味が入っている。なおさらおいしい。
「あ、そうそう。風呂出たら…に聞いておこうって思った事があるの」
「何?」
「男湯の方の壁の絵って、何が描いてあったの?」
「へ?」
俺が素っ頓狂な声を出したせいか、詩織が恥ずかしそうに、視線を反らした。
「‥‥ほら、銭湯の壁の絵の事‥‥‥」
「あっ! ‥‥‥」
さっき、俺が絵を見ながら思っていた事だった。
「俺も聞こうと思ったんだよ」
笑いがこみ上げてきた。おかしくてたまらない。
「そんなに笑う事ないじゃない」
「ははは、ごめんごめん。
 ずっと絵見ながら、女湯はどんな絵が描いてあるのかなって思ってたから」
「わ、わたしも‥‥‥」
昼間、明るいところで今の詩織の表情を見てみたい。
そんな風に思わせるような、恥じらいを含んだ声だった。
「男湯は、湖に松それに富士山だったよ。普通かな‥‥‥」
とは言っても、男湯のしか見た事が無い。男湯の常識だとしても女湯では常識ではないかもしれない。
「そうなんだ‥‥‥女湯と一緒なのね」
「へぇ‥‥‥女湯も似たような絵が描いてあるんだね」
「あの景色って、なんか素敵よね」
「そうそう、心なごむって感じで」

「いつか‥‥‥‥‥‥」
ふと、わからないほどうつむいた詩織が言った。
見ている先は、地面か。夜の空気か。あるいは‥‥‥

「あんな所へ行ってみたい‥‥な」

チラっと俺の方を見つめる。

なぜ俺を見るのだろう。
なぜ俺に言うのだろう。

見てくれた事は嬉しい。言ってくれたのは嬉しい。
しかし、俺はその言葉の意味をどう取っていいのかわからないでいた。
それを信じていいのかわからないまま‥‥‥
「来年になったら‥‥‥」
そう口からでかかった。
来年になったら‥‥‥か。
俺は出かけた言葉を心の中だけにとどめた。
詩織の笑顔と、この先どれだけ居られるか‥‥‥
そう考えるだけで、胸がチクっと痛む。
「そうだね」とだけ言えた。
心の距離を計れる物差しがあったら。
そう思う‥‥‥
しばらくの沈黙の後、俺はフルーツ牛乳を全部飲み干した。
「ふぅ、うまかった」
「ごちそうさま」
詩織も全部飲み干したようだ。
「とってもおいしかった」
「そう、それは良かった」
「それじゃ‥‥‥この瓶、次に行く時までわたしが持ってるね」
「ああ、それじゃ次に行く時まで預かっておいて」
遠い未来の事なんてわからない。
でも、近い未来の約束だけは、笑顔が保証してくれそうな気がした。

Fin

後書き

夜の街を歩くっていうのは、普通の時間とは違ってなんかいいですよね。
繁華街とかを歩くのとは訳が違って、いつもの自分が住んでいる街の夜の時間をフラっと歩いたりすると、たまに見慣れている筈の場所が違う場所に感じたり。
もっとも近くて見慣れた場所がそういう世界に変わる場所で二人して歩けたら‥‥‥と。まあそんな感じです(^^;
銭湯ネタは、わたしが最近になってちょっと気まぐれに行った時に思い付いた物です。
風呂に10分も入ってたら、マジで倒れそうになりました。ええ。
なにしろ、ラジウム鉱泉で、温度が50度近くありましたから。
でも、足を伸ばせてゆったりできるので、疲れた時なんかは良さそうです。

風呂の外で待つ、いわゆる神田川系ってのは、やっぱりいいですね。
待たれる方がいいか。待つ方がいいか。
わたしの場合、待たれる方がなんかクラァって来ますが(^^;
この話での主人公は、待つ方を選びましたが‥‥‥それもまたいいかな‥‥と(^^;

今年になってから、ちょっと暴走に変化が生じて、それで戸惑って今結構スランプから脱しきれてないです。
TOKI35(編者注…第19話です)で力入れすぎて駄目っちゃったかも(T_T)

なんていうか、告白後みたいなのを書いてしまうと、告白前の主人公&詩織の心情の変化とかが、区別をつけるのがたいへんということがわかったんです(^^;
距離がわからないもどかしさと、お互いの心を許しあった時の感覚と、まあそんなのがゴッチャになっちゃうというか。
ああ、頭がパニック。(^^;


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル22:風呂上がりのフルーツ牛乳
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数284
感想投稿最終日時2019年04月10日 07時04分33秒

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  • [★★☆☆☆☆] 六龍鉱泉でも行ったか?
  • [★★★★★★] 日常の中の非日常・・・いいですね〜(笑) 神田川の世界ですか?えらい古い歌を御存知ですね。(笑) でも、こう言うのも好きです。(^^♪
  • [★★★★★☆] ほのぼの湯は石川県にあります。http://www3.nsknet.or.jp/~hirosima/2honobonoyu.htm
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