(1)
きらめき高校卒業から一週間 ────
桜の蕾はいよいよ大きくなり、美しい花を咲かせる準備を整えている。
新しい学生生活が始まるまでには、まだ時間があった。
「え? なんだって?」
俺はもう一度聞き返した。
「だから、藤崎さんのご家族と一緒に温泉に行く事になったのよ。
行くでしょ?」
朝食を食べている時に、母さんがいきなり言ってきた。
俺は食べていたご飯を喉につかえそうになる。
「あんたも詩織ちゃんも卒業して、無事に大学にも入学出来た事だし、そのお祝い旅行にしようという事でね」
同じ年代の子供を持つ親同士、それに家が隣同士だからだろうか、うちの両親と詩織の両親は結構付き合いが深い。
そのせいで、驚かされる事は今に始まった事ではなかったが‥‥‥
「とかなんとか言って、本当は自分達が行きたいだけじゃないの?」
「あら? 行きたくないの?」
「そんな事言われても、いきなりだしな‥‥‥」
箸を休めて、少し考えた。
「詩織も賛成してるの?」
「当然でしょう」
「そうか‥‥‥」
いきなりとはいえ、別に行きたくないという訳ではない。
まだ大学が始まるまでには時間があったし、詩織と一緒に居られる時間があるなら別にどこでも良かった。
俺が浮かれているせいだろうか。
長い間‥‥‥ずっとずっと心の一線を越える事ができなかっただけに、今、詩織の笑顔や、しぐさを思い出したりするだけで、鼓動がどうにも
収まらないほど暴れ出す。
「まあ、別に断る理由も無いし、いいけど‥‥」
詩織が行くなら‥‥と、そうは言えなかった。
「そう。それじゃ決まりね」
「で、いつ出るの?」
「明日から。二泊三日で」
「えっ!」
別に良いとは言ったが、まさか明日だとは思ってもみなかった。
詩織が賛成したというのは、どうも怪しい。それに、詩織からはそんな事一言も聞いてない。
昨日の夜に電話で話していた時も、一言もそんな話題は出てなかった。
「だいたい、いきなりで宿なんか空いてるの?」
「もう予約も取ってあるし、全然大丈夫」
根回しが良すぎる。
「‥‥まぁ別にいいけど‥‥‥」
温泉も悪くはない。
何よりも、詩織が一緒‥‥‥
と考えてから、改めて頭の中を整理した。
この分だと、多分詩織は知らないか、俺みたいに今日聞いているくらいだろう。
とはいえ、両親同士が行く事はすでに決定しているだろうから、詩織を残して行く筈もないか‥‥‥
もし、詩織が残るくらいなら、俺も行ってもしょうがない。
それに、せっかくの機会だし、誘うつもりもある。
「ごちそうさま」
「それじゃ、明日だからね」
「わかったよ‥‥」
嬉しそうに微笑みながら、母さんはこっちを見ている。
それを尻目に、とりあえず俺は部屋へ向かった。
電話のコールが四回鳴った所で、受話器を取る音が聞こえた。
「はい。藤崎です」
男の声がした。親父さんの声だ。
「あ、…と申しますが、詩織さんはいらっしゃいますでしょうか」
「やあ、…君か。おはよう」
「ども。おはようございます」
「詩織かね? 詩織は今居ないんだ」
なんとなく、笑っているような声がした。
「えっ?」
それと同時くらいに、チャイムの音がする。
「今頃そっちへ行っている頃じゃないかな」
「‥‥‥あ、今来たみたいです」
タイミングがバッチリだ。
なんとなく可笑しくなった。
「そうか」
おやじさんは、明らかに笑っている。
「あ、それじゃ、そういうことで‥‥失礼します」
「そうそう。明日の旅行だけど、楽しみにしているよ」
「あ‥‥いえ、こちらこそよろしくお願いします」
「それじゃ。よろしく頼むよ」
明るい声がしてから、電話は切れた。
つい答えてしまったが‥‥‥
ま、いいか。とりあえず、今は詩織を迎える方が先だ。
階段を降りて玄関へ行くと、暖かな微笑みが俺を待っていた。
微笑みながら、ほんのちょっと首を傾げている。
そんなちょっとした仕草が好きだった。
暖かい微笑みを投げかけてくれる。
そんな優しさが好きだった。
昔も。今も。そして‥‥‥これからも。
「おはよう」
詩織のそう言う声も、柔らかい。
同じ挨拶なのに、一週間前とは違う。
あの日からの一言一言が、妙に新鮮に感じる。
いままで十数年間、ずっと話したり会ったりしていた筈なのに‥‥‥
「‥‥おはよう」
安らぎさえ感じる暖かい何かが、胸にたまって行くような気がする。
昔みたいに、多く会話しなくても、通じる事が沢山出来たような感じさえあった。
「今、詩織の所に電話してたんだよ」
「そうなんだ‥‥」
ニコリと笑って答えた。
この笑顔が向けられている事に、誇らしさと恥ずかしさと‥‥嬉しさがある。
「それより、こんな所で立ち話もなんだから、上がってよ」
「うん‥‥それじゃ、お邪魔します」
靴を脱いで玄関を上がった所で、奥の部屋から母さんが顔を覗かせた。
「あら、詩織ちゃん。いらっしゃい」
「あ、おば様、おはようございます」
「明日、楽しみにしてるからね」
「あ‥‥‥はい」
言葉に多少の間があるな‥‥‥
これはやっぱり知ったばかりという事かもしれない。
とりあえず、俺は、詩織を先導して部屋へ向かった。
「ねえ、明日どうするの? 今日その事で来たんだけど」
俺のベットに腰掛けた詩織が、開口一番、そう言った。
「どうするって言っても‥‥‥俺も朝聞いたばかりだし」
言いながら窓を開けると、春の暖かい空気が入ってくる。
「行かないの?」
少し表情が曇る。
「別にする事もないし、俺は行こうかと思うんだけど‥‥‥詩織はどうするの?」
「良かった。…が行かないなんて事になったらどうしようかな‥‥って思ってたの」
すぐに明るい表情が戻ってきた。
「じゃ、詩織も行くのか」
「うん」
「良かったよ。俺も詩織行かないんじゃどうしようかなって思ってたから」
「もし‥‥‥わたしが行かないって言ったらどうしてた?」
少し悪戯っぽい笑顔をしながら、興味深そうに俺を見ている。
「どうせ母さん達は有無を言わさず行く羽目になるんだろうから、
俺一人ついていっても、詩織残っちゃうなら、俺も行かなかったかもしれないな。
でも‥‥‥せっかくの事だから、絶対に誘おうかとも思ったけど」
「ほんと? うれしいな‥‥」
笑顔が輝く。
笑顔に限らず、何もかもが、本当に新しい気がした。
何がどう変わったかは判らないが、心だけは確実に近いと感じる。
「明日か‥‥いきなりだけど、楽しみだよ」
「わたしも」
こうやって笑いあう瞬間。
それだけで何かが通じる瞬間。
ずっと思い描いていた事だった。
卒業する前までの不安が夢だったような気がする。
「そういえば、どこへ行くとかって聞いてる?俺なんにも聞いてないんだけど」
「なんか★●▼温泉に行くって言ってたみたいだけど‥‥‥」
「★●▼温泉? あまり聞いた事の無いところだけど、まあいいかもな」
机の椅子に腰をおろして、まだ見ぬ温泉郷に少しだけ思いを馳せた。
シーズンがシーズンだけに、それほど人は多くないだろう。
ひなびた温泉旅館のある町並みを想像するだけで、なんとなく心がなごんでくる。
一人でも雰囲気はあるだろうけど、今回は詩織が一緒だ。
「そういえば‥‥‥旅行一緒に行くなんて、初めてよね」
もし、小さく微笑む詩織が、今目の前に居なかったら
とても温泉旅行に浸れる気分ではなかったが‥‥‥
「親同伴ってのがアレだけどね」
「いいじゃない。大勢の方が楽しいわよ。きっと」
「まあ、そうだけど」
「でも‥‥‥いつか‥‥いつか二人だけで行けたらいいね」
ちょっとだけ頬を染めながら、恥ずかしそうに小さく言った。
一週間たっても、まだお互いの新しい関係になれていない。
そんな事の一つかもしれないな‥‥‥
「‥‥‥そうだね」
それでも、こう答えられる事が、前とは違うんだな。そう一つ一つ思っていけるだけで今は十分だった。
幼なじみ、友達、そして‥‥‥。
俺は、ふと窓から外を眺めた。
窓から見える隣の家の窓。
その窓の向こうに居る筈の人が、今ここに居る事の不思議さを感じさせてくれるような、暖かい空気が柔らかく入ってきた。
振り向くと、待っていたのは、いつもと変わらない詩織の笑顔。
いつも思う。振り向いた時に居なくなっているでは‥‥と。
目を覚ますと、全て夢ではなかったのか‥‥と。
そんな不安を消してくれるのが、詩織の笑顔だった。
これからもずっと‥‥‥
「ねえ、明日の準備もかねて‥‥今日、これからどこか買い物に行かない?」
「そうだな‥‥‥それじゃ、いこうか」
そうだな。俺達はずっと変わらない。
いままでだって、これからだって‥‥‥。
こんな春の匂いがする日、俺達は初めて出会っていたような気がする。
まだ、明けやらぬ空が、ようやく青さを取り戻しつつある頃、俺は玄関を開けた。
三月とは言っても、朝の空気はまだ冷たい。
一つ深呼吸をすると、身が引き締まる思いすらする。
母さんと父さんについで門を出ると、すでに詩織と両親達は家の前で待っていた。
「あ、おはようございます。藤崎さん」
母さんと父さんが頭を下げた。
「あ、どうも。おはようございます」
詩織の親父さんとおふくろさんも同時に頭を下げている。
俺は‥‥‥
「詩織、おはよう」
「うん、おはよう‥‥」
親達の挨拶そっちのけで、真っ先に詩織と交わす。
今の俺達は、となり同士で、幼なじみで、友達で‥‥‥そのどれでもあり、そのどれでも無い。
「おばさま、おじさま、おはようございます」
詩織はすぐに父さん達にそう言って頭を下げた。
「やあ、詩織ちゃん。今日はいきなりですまなかったね」
父さんが、申し訳なさそうにしている。
「いえ‥‥そんな。楽しみにしてましたから」
にっこり笑っていた。
「おじさん、おばさん、どうもおはようございます」
「やあ、おはよう。いい天気で良かったね」
「そうですね」
親父さんは、今日を楽しみにしていたのか、明るい声だ。
「…君。いきなりで、ほんとにごめんなさいね」
詩織のおふくろさんも父さんと同じように、
申しわけなさそうに言ってきた。
「いえ、別に構いませんよ。どうせ学校始まるまで暇ですし」
俺は誰にもわからないように詩織を見た。
わからないようにしたつもりだったが、詩織と目があう。
お互いに小さく笑いあった。
詩織と、どうしようかという事を相談したせいもあったせいだろうか。
それを思い出しての笑いだ。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
母さんの声に、俺達はぞろぞろと動き出した。
親達に遅れるようにして、さりげなく詩織のとなりに並んで俺はゆっくりと歩き出した。
手をつなぎたかったが、今はまだその姿を親に‥‥‥詩織の両親に見せる訳にもいかない。
いつの日か、お互いの親に俺達の事がわかる時も来るだろう。
母さんは、なんとなく気づいてはいるようだが‥‥‥
ふと、手に暖かくて柔らかい感触が触れた。
「えっ? ‥‥あ」
そっと触れた指先は、俺の指に優しく絡みついている。
「いいの。お母さん‥‥‥知ってるから」
小さく、つぶやくように言う詩織の顔は、照れた風に頬が染まっている。
正直、驚いた。
俺が気にするまでもなく、周知の事になっているとは思わなかった。
それとも、俺が鈍いだけだろうか。
俺は、それでも両親達が振り向かないようにと願いつつ、詩織の手を握る手に力をいれた。
「もうすっかり、山の中ね」
窓の外を流れる景色を見ながら、詩織が言った。
民家はまばらになって、変わりに山や畑や綺麗な川が見えてくる。
電車に揺られて一路目的地へと向かっている最中だった。
両親達は、四人席で向かい合って座っていて、俺と詩織だけは隣の四人席に二人で向かい合って座っている。
「なんか、だんだん旅行って気分になってきたよ」
「わたしも。昨日の今日だから、まだ実感わかなかったの」
実感か‥‥‥
どこか楽しそうに微笑む詩織を見ていると、あの時の次の日の事も実感がわかなかった事を思い出す。
あの時、詩織の気持ちを俺は受け取った。俺も詩織に自分の気持ちを伝えた。
好きだよ。
確かな声でハッキリと言えた。
どれだけの年月、そう思い続けていただろう。
何度心の中で繰り返しただろう。
何度口からでかかった事があるだろう。
思いを伝える事の辛さ、恐さ‥‥‥‥そして嬉しさ。
あの瞬間、頭の隅で、そんな事を考えていたかもしれない。
その時の木洩れ日の眩しさを、ハッキリと覚えている。
詩織の目に浮かんだ綺麗な涙の事も覚えている。
そっと、その涙を指でぬぐってあげた時の涙の暖かさも‥‥‥
友達でなくなった瞬間。
その事を実感するのに、ずいぶん時間がかかった。
もう戻れない日々を思っても、寂しさはなかった。
これから俺達は始まるのだから。
「俺もそうだよ」
「それに‥‥‥家族で旅行なんて、久しぶりだったし」
そう言って、詩織はとなりの四人席を見た。
いままで気づかなかったが、父さんと母さんが楽しそうに詩織の両親と話している。
入試や卒業などで、いろいろ気をもませていたからだろうか‥‥‥
すべてうまく行ったおかげで、肩の荷が降りたからかもしれない。
「なんか‥‥お父さん達、すごく楽しそう」
「大学入試とか卒業で、いろいろ苦労かけたもんなぁ‥‥でも、詩織のおかげだよ」
「え? どうして?」
「詩織が居なかったら‥‥‥」
そこまで言いかけて、言葉が止まった。
ずっと聞いてくれている詩織を見ていたら、言う必要も無い事だと感じたからかもしれない。
詩織が居なかったら、俺はどんな人生を歩んでいただろうか。
そんな事が頭をよぎった。
「とにかく、詩織のおかげだよ」
「なぁに。それ」
どこか楽しそうに笑う詩織を見れる。
それだけでいい。今はそれだけで。
(2)
「ここが★●▼温泉郷かぁ‥‥‥」
駅を出ると、道路の端に雪がたくさん残る、木造の落ち着いた古い町並みが俺達を出迎えた。
遠くに見える山々の稜線だけでなく、近くに見える山も雪を被って、まだ冬の名残を存分にとどめている。
空気は、身体に染み込んでくるような心地よさだ。
俺は胸一杯にその空気を吸い込んだ。
冷たかったが、身体の中が綺麗になっていくような気がする。
ゆっくりと息を吐くと、かすかに白く変わって、山々を駆ける空気の中に戻っていく。
俺達の町よりも、ずっとゆっくり時間が流れているような気がして心が妙に落ち着く。
「とってもいいところ。それに‥‥‥すごく落ち着いてていいね」
詩織も、気持ちよさそうに目を細めて、空を見上げている。
灰色の空だったが、温泉の町には良く似合っていた。
もしかしたら‥‥‥雪が降るかもしれない。
そんな予感さえ感じさせてくれる空だった。
「そうだなぁ‥‥‥来てよかったよ」
「うん‥‥そうね」
心地良さのせいもあるのだろうか。
詩織の笑顔も、いつにもまして、一層柔らかく、暖かく‥‥優しい。
聞いてみたかった。
どうしてそんな風に微笑めるのか。
空気が綺麗だから?
旅に出られたから?
それとも‥‥‥俺が居るから?
聞きもしない質問の答えは、詩織の胸の中にあるのだろう。
その答えを信じていられる今が、たまらなく心地いい。
「二人とも。いったん旅館に行くわよ」
温泉郷の雰囲気を満喫していた俺達に向かって、母さんが楽しそうに言った。
ここにこうやって来るだけで、詩織だけでなく、俺と詩織の両親も楽しそうにしている。
それを見ていると、こういう旅行もいいな。と思う。
そう思うだけで、これから今日を入れて二日間。
言い様の無い嬉しさで、足取りが軽くなっていくような気がする。
「はいはい」
俺は詩織と顔を見合わせて、苦笑した。
駅から離れれば離れるほど、自然が急激に深くなっていく。
旅館へは、バスで三十分くらいのところだった。
まさに秘湯の里という言葉がふさわしい。
「わぁ‥‥」
バスを降りてから歩いて十分の所で、俺達は立ち止まった。
旅館を目の前にした時、詩織が驚きの声をあげた。
無理もない。俺も圧倒されている。
総木造りの重厚なたたずまいは、年月を感じさせる重みがある。
さながら、大正浪漫の世界と言ったところだ。
今にも過去の文豪達が窓から顔を出して、雪の残る景色を見ながら創作の為に頭を巡らしそうな気さえする。
「どうだ。スゴイところだろう」
父さんが得意げに言った。
「おじさま、ここは良く知ってるんですか?」
詩織がまだ驚きから覚めないまま、父さんに聞いた。
「ああ、まだ…が生まれる前には、良く来たもんだ」
どこか懐かしそうな目で、目の前の旅館を見ていた。
それにしても、良く来ていた事があるなんて知らなかった。
どうりで、いきなりでもこんな所へ来れた訳だ。
「詩織には言ってなかったけど、父さん達も良くここには来てたんだよ。もちろん、まだ詩織が生まれる前だけど。
その時、…さん達に会ったんだよ」
「え? そうなの!?」
驚いたのは詩織だけじゃない。俺も驚いた。
知らなかった。まさか、俺達が生まれる前に、知り合いだったとは。
「あなた、そんな事より早く入りましょう。荷物おいてさっそく温泉入りたいわ」
おふくろさんが言って、母さんが同意した。
その姿は、友人同士。という感じさえある。実際そのようだが。
「ねえねえ」
詩織が俺の袖とつんつんと引っ張った。
「ん? なに?」
「なんかお母さん達って、高校生同士って感じじゃない?」
楽しそうにクスクス笑いながら、母さん達の方を見ている。
「そういえば、詩織もあんな風に友達と話してたっけ」
休み時間になると、いつも楽しそうに友達と話していた詩織の事を思い出した。
「何やってんだ二人とも。母さん達先に行っちゃったぞ」
父さんが、俺達に言ってから、母さん達の後に付いて行ってしまった。
「やれやれ‥‥‥だね」
俺は苦笑して肩をすくめてみせた。
「そうね」
側に居てくれる時は、どんな時でもこの笑顔でいて欲しい。
そういう笑顔で笑ってくれた。
「ふぅ‥‥」
湯に入る時、あまりの心地よさに思わず身体の疲れと一緒に声が出た。
部屋に荷物を置いてから、まだ三十分と経っていない時の事だった。
近くの山々の間から、雪に白む遥か稜線を望む様は、まさに絶景だ。
聞こえてくる音は、川のせせらぎ。
近くに見える山は、薄く雪を被っている。
雪の下で、まだ春は眠っているのだろうか。
「いやぁ‥‥‥疲れが取れますね」
父さんが、詩織の親父さんに言った。
心地よさそうに岩に背をもたせかけている。
「まったく。ここはいつ来てもいいですね」
親父さんは、湯の中で手を泳がせている。
「…君。ここはどうだい?」
「いいですね。すごく気持ち良くて。
それにしても、おじさん達がこういう所の常連だったなんて知らなかったですよ」
「そのうち、お前と詩織ちゃんが卒業でもしたら、連れてこようかと思っていた所だからな」
「‥‥‥ま、いいけどね」
この露天風呂の心地よさを味わっていたら、もうそんな事はどうでも良くなった。
それにしても、男湯はすっかり湯を堪能する側に回っているな。
女湯はどうだろう。
母さんとおふくろさんに詩織だ。
なにやら賑やかになっていそうな気がする。
俺は空を見上げた。
さっきよりも雲が濃くなってきている。
「雪でも降るかもしれないな」
父さんが、ぽつりと言った。
雪か。
こういう所でなら、雰囲気がありそうだ。
降りだしたら、窓から眺めるかな。
詩織と一緒に。
風呂から上がった後、俺は一人で部屋でお茶を飲みながら、外を眺めていた。
年月を感じさせる落ち着いた部屋の隅におかれた椅子に座って風呂の心地よさの余韻を味わいながら。
まだ身体があったかい。
「しかし‥‥ほんと、景色いいなぁ‥‥‥」
窓から見える景色は、古びた町並みと、その向こうに見える山々だった。
空が灰色のせいか、町並みが、どこか沈んで見える。
俺達の町とは、全然違うんだな‥‥‥
それに、町というほど建物がある訳でもない。
それでも、妙に落ち着くのはなぜだろう。
二杯目のお茶を茶碗に注ごうとした時、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「はい、開いてますよ」
そう言うと、すぐにドアが開いた。
「ここに居たのね」
ドアの向こうに立っていたのは詩織だった。
「あ、風呂あがったのか」
「うん、いいお湯だった」
風呂上がりのせいか、頬だけでなく肌全体がほんのり桜色をしている。
まだ少し濡れた髪を肩越しに前に回していた。
「お父さん達と一緒に居なかったから、探しちゃった」
「ロビーで座ってても仕方無かったから、一人で戻ってきちゃったよ」
俺もさっきまでは、父さん達とロビーに居て、馴染みならしい女将さんと話していたが、途中で抜けてきた。
「それより、入ってよ。今お茶入れるところだったからちょうど良かった」
「うん‥‥‥それじゃ、おじゃまするね」
ゆっくりと部屋に入ってきた。
「母さん達は?」
「ロビーでお父さん達と合流して、なんか話してたみたいだけど」
「なんだ、まだ女将さんと話しているのかぁ‥‥‥」
テーブルを挟んだ向かいの椅子に腰掛けた詩織に、部屋備えの茶碗を出してそれにお茶を注いだ。
「ありがとう」
俺が自分のに注ごうとすると、詩織がそれを言葉で止めた。
「二人で飲んでる時に、駄目よ。手酌なんて‥‥‥」
ニッコリ笑って、手を差し出した。
「‥‥それじゃ、頼もうかな」
その手に急須を渡す。
「うん」
ゆっくりと茶碗に注ぐ音だけが、妙に響いた。
この静けさに、不思議な何かを感じる。
目の前に居る詩織は、本当に詩織なのだろうか。
ずっと想い続けていた詩織なのだろうか‥‥‥
そんな他愛もない事を考える余裕さえある。
「ありがと」
俺は注いでもらったお茶を、ひとすすりした。
うまい。
お茶の葉が‥‥というより、詩織が入れてくれたから‥‥‥と言うとさすがに照れくさい。
「なんか‥‥‥こうやってると、二人だけで旅行に来たっていう感じがするね」
詩織が、じっとこっちを見ながら、抑えたように小さい声で言った。
照れているのか、少し頬が紅い。微笑みも少しだけぎこちない。
そんな表情の一つ一つが、たまらなく俺の胸に染み込んでくる。
ここ一週間、そんな感覚に戸惑いを感じた事もあった。
暖かくて‥‥心地よい感覚に。
「そ、そうだね」
照れくさいのは俺も同じだ。
「なんか‥‥‥すごく不思議な感じ。…とこうしてるなんて」
「なんだ。詩織もそう思ってたのか」
言ってから、ふと目があって、思わず笑い合ってしまった。
こんな瞬間も、ずっと思い描いていた事だ‥‥‥
「卒業する前までは‥‥‥高校に居る時までは、ずっと友達だったのにね」
「今でも友達じゃないか。まあ、ちょっと違うかもしれないけど」
「ふふっ‥‥そうよね。ごめんなさい」
おかしそうに笑ってから、お茶を飲んだ。
「おいしいね」
友達か‥‥‥
あの日から、別になにも変わっていないような気がする。
俺自身も、詩織も、見た目はなんにも変わらない。
変わった物はなんだろう‥‥‥
お互いの見えない距離だろうか。
「そういえば‥‥‥まだ浴衣は着ないの?」
薄いオレンジの柄付きのトレーナーに、クリーム色のロングスカートという格好も良かったが、温泉という事で、俺はひそかに浴衣姿を期待していた。
「夕食の時になったら着てみようかな‥‥って思ってるけど」
ほんのり頬を染めて微笑んだ。
「そっか、それじゃ俺も夕食の時は浴衣にしよう」
そういえば、浴衣なんて小さい時に着たきりだ。
詩織の親父さんに、詩織と一緒に連れられていった神社の夜店の時以来かもしれない。
「まだ昼間だし‥‥‥それに一回風呂入っちゃったし、なんかやることなくて、思ったより暇だね」
「うん‥‥‥でも、こういうのもいいかな‥‥って気がしない?」
「そうだね」
窓の外の景色のせいだろうか、部屋の中まで、音が無い世界が染み込んでいるような気がする。
そんな中で、俺達の話声、お茶を飲む音、ちょっとした動作の時にでる音。
それだけが、妙に良く響くような感じだ。
不意に高鳴る鼓動の音が、聞こえてしまうんじゃないかという心配さえしそうなほど静かだ。
聞こえたとしても、全然構わないが‥‥‥
「そうだ。せっかくだから、ちょっと外出歩こうよ」
「そうね‥‥‥そうしましょうか」
ほんの少し考えるようにしてから、小さく微笑んでうなずく。
「あ、外出るんだから、良く髪乾かさないと‥‥‥外寒いから風邪ひくよ」
「うん‥‥それじゃちょっと乾かしてこようかな」
「そうそう、俺ドライヤー持ってきてるから、それ使う?
使うんだったら、持っててあげるよ。髪長いから乾かすの大変でしょ?」
「うん‥‥でも‥‥‥」
「いいからいいから」
俺はすぐに立ち上がってから、自分の鞄の中からドライヤーとブラシを取り出して持ってきた。
コンセントに差し込んでスイッチを入れると、暖かい風が当たり前のように勢い良く出てきた。
ドライヤーの音が、ここでは騒音にすら感じる。
「オッケ。いいよ」
「それじゃぁ‥‥お願いしようかな」
ゆっくり立ち上がって、ドライヤーの近くにきた詩織にブラシを渡す。
「じゃ、借りるね」
ブラシを受け取って畳に座った詩織は、俺に背を向けて髪を梳かしはじめている。
その部分に風を当てた。
風に、微かにシャンプーの香りが混じっていく。
いや‥‥‥詩織の匂いかもしれない。
「詩織の髪ってさ‥‥綺麗だよね」
「ほんとう? ‥‥うれしいな」
乾いて梳かれた所から、サラサラの綺麗な髪の流れが蘇っていく。
「そういえば‥‥‥なんでずっとロングヘアーなの?」
「え‥‥‥ロングはいや?」
ブラシの動きがピタリと止まった。
「べ、べつにそういう訳じゃないけど‥‥子供の時からずっとロングヘアーだったから、なんでかなぁって」
「忘れちゃったの?」
「え?」
俺は思わずドライヤーのスイッチを切った。
「髪が長くて可愛いね。って、小さい時誰かが言ったからなんだけどな‥‥‥」
一瞬だけこっちをチラリと見て、また前に向き直る。
頬が紅かったのを見てしまった。
俺がそんな事を言った事よりも、その言葉を覚えていてくれた事に、胸の中に暖かい春風が涌いてきたような気になった。
「そ、そうだっけ」
誤魔化すように、ドライヤーのスイッチを入れた。
「わたしも、長い髪とか好きだったから、すごく嬉しかったの。
だから今ロングにしてるのも、結構その時の事が頭に残ってたのかなぁ。
自分の為に‥‥って思ってたけど、やっぱり、人から見てもらっての自分だものね」
「そうか‥‥‥」
そう言っている間にも、しっとりと濡れていた髪は、ほとんど元の輝きを取り戻して来ている。
「ね‥あのさ‥‥‥髪‥‥触っていいかな?」
サラサラの髪を見ていたら、無性に触れてみたくなった。
それでも、いきなりこんな事をいうつもりは無かったが‥‥‥
「‥‥‥うん」
少し間があってから、小さくコクンと頷いてくれた。
どんな表情をしているのか、想像するだけでも鼓動が高鳴ってくる。
肩にかかった長い髪を抄うようにして、指の間に通した。
流れるように、指の隙間からスルリとこぼれていく。
「すごく柔らかい。それに‥‥‥すごく綺麗だよ」
「ありがとう‥‥‥うれしいな‥‥」
囁くような声は、ドライヤーの音にかき消されそうなほどか細かったが、俺の耳にはしっかり届いた。
その言葉になんて答えていいかわからない。
こちらこそ。というのも何か変だ。
「あ‥‥‥ごめん。時間取らせちゃって」
「ううん‥‥いいの」
「早く準備して外行こう」
「うん。でも‥‥‥髪、まだ乾かなければいいな‥‥」
後ろを振り向いて、俺をじっと見ている。
その眼差しに見つめられていると、ドライヤーの音が遠ざかっていくような気がした。
(3)
「父さん、俺達ちょっと外出てくるよ」
ロビーに居た父さん達に声をかけた。
父さん母さんに詩織の親父さんおふくろさんは、女将さんと
何やら楽しそうに話している。
もうすっかり馴染みなのだろう。
「遅くならないようにするんだぞ。
詩織ちゃんも一緒なんだからお前がちゃんとしてないと駄目だぞ」
「わかったよ」
「詩織、外は寒いからちゃんと着て行くのよ」
「大丈夫よ。ちゃんとあったかい格好してるから」
俺も詩織もまだ子供扱いだな‥‥‥
俺が心の中で苦笑していると、女将さんが俺達の方へやってきた。
少しふっくらとした、中年の優しそうな女将さんだ。
「どこか行く予定とかはあるのかしら?」
気さくな感じで話しかけてきてくれた。
声まで優しい。
「いえ‥‥別に。ただちょっと外をブラブラしようと思っただけですけど」
「女将さん、何か良いところありませんか?」
詩織が訊いた。
「そうですね‥‥‥ここの裏の山を登っていった所に、霧ヶ滝という滝がありますよ」
「へぇ‥‥滝ですか」
俺は興味をそそられた。
川や山くらいなら、そんなに珍しいものじゃないが、天然の滝はそうそう見れない。
「綺麗な滝だから、一度は見ておくといいかもしれないわ」
「そうですか。ありがとうございます」
詩織が小さく頭を下げた。
「じゃ、行こうか」
「うん」
「あ‥‥‥ちょっと」
女将さんが行こうとしていた俺達を呼び止めた。
「もうじき雪が降りそうだから、傘をお持ちになったら?」
「どうする? 雪降りそうだって」
俺は別に構わなかったが、降りそうだとわかって詩織を連れていく訳にもいかない。
「わたしは別に構わないけど」
そうだな‥‥‥雪程度は、むしろアクセサリーだ。
詩織もそう思っているのだろうか。
ニッコリと笑っている。
「そう‥‥それじゃ行こうか」
「うん。行きましょう」
「傘なら、入り口の所にあるから、お持ちになって」
「そうですか。ありがとうございます」
頭を下げてから、入り口に向かった。
「傘ってこれね」
「旅館の名前が入ってなくてよかったよ」
笑いながら言って、俺は一本取った。
「‥‥‥一本でいいよね?」
「‥‥うんっ!」
一瞬考えたかのような後に、今の天気が吹き飛びそうなくらい明るい笑顔が返ってきた。
旅館の裏手の山道に出ると、確かに「霧ヶ滝」という標識があった。
その標識にしたがって山道をずっと登っていくと、徐々にざわめきにも似た音が大きくなっていくのがわかる。
「だんだん音が大きくなってきたね。もうじき滝なのかな」
「なんかずいぶんでかそうな滝だなぁ」
そのまま歩き続けてから、俺達は立ち止まった。
言葉が出ない。
そうさせるだけの物はある。
切り立った断崖から一気に落ちていく水の美しさよりも、その迫力に圧倒された。
名前の通りか知らないが、水飛沫で霞んで見える。
まるで、霧のように。
「すごいのね‥‥‥」
詩織も圧倒されているようだ。
「こんなでっかい滝、初めて見たよ」
「わたしも‥‥‥」
俺達は、しばらく黙って水の落ちる様を見ていた。
水の落ちる音も大きかったが、都会の騒音とは違う物がある。
どれくらいそうしていただろうか、ふと気づくと顔に白い物がフワリと落ちてきた。
冷たい。
「あ‥‥‥ねえ、見て‥‥雪」
詩織が空を見上げながら言った。
見上げると、緑というより、黒々とした山を背景に雪が降っているのがわかる。
俺の肩に雪一つ。詩織の乾かした髪にも一つ。
次第に多くなっていく。
俺は持ってきた傘を広げた。
「ほら、濡れちゃうよ」
そのまま、詩織の隣にならぶ。
「ありがとう‥‥‥」
チラっと俺を見て、そっとつぶやくように言った。
雪降る冷たい空気の中、鼓動が高鳴った。
この時間がずっと続けば‥‥‥
その思いが通じたように、傘をもった俺の腕に、そっと詩織が腕を絡めてきてくれた。
優しく。柔らかく。
肩に重みを感じる。
さりげなく寄り掛かってきた詩織の頭の重さを。
憧れ想い続けて来た人の腕の温もり、伝わってくる優しさ、身体じゃなくて、直に心に染みてくるような暖かさ。
なんて暖かいんだろう‥‥‥
「あったかい?」
詩織は、囁くように、それでも滝の音には負けないハッキリとした声で言った。
いつでも詩織はそう聞いてくる。
「あったかいよ」
そのたびに、俺はそう答える。
本当は身体は寒い。
しかし、胸の中の何かが‥‥‥暖かい。
その暖かさが全身に広がれば、身体の寒さは関係なくなる。
「もう帰ろう。雪だんだん強くなってきたし‥‥‥」
「そうね」
滝に背を向けるまでに時間がかかった。
「ねえ」
「ん? どうしたの?」
「わたしね‥‥あの滝見てて馬鹿な事考えちゃった」
「なに?」
「あれだけの水の量だったら、うちのお風呂一杯にするのなんてすぐだろうなぁって」
「そうだよね。あれだけの水だったら、風呂に水入れる手間省けそうだよ」
「そう思うでしょ?」
嬉しそうに、微笑んでいる。
高校に居た時も、同じような馬鹿な事で話していた事もあったがあの時と違うのは、お互いの温度を感じるほど近くに居る事かもしれない。
雪が降っても、雨が降っても、感じる温度はいつも同じ‥‥‥そんな距離だった。
「でも、そんな事考えるの詩織だけじゃないの?」
「ひどぉい」
笑いながら、俺の腕を少し締め付けた。
柔らかな感触に、少し胸がドキッとなる。
「冗談だって。
俺なんか、あの滝に打たれて修行したら痛いだろうなって考えてたんだから」
「水圧でばきばきになっちゃうわよ」
ふと、顔を見合わせて、笑いあった。
滝から離れて行くにつれて、静けさが戻ってくる。
「でも‥‥ほんとに‥‥‥ほんとに来てよかった」
「詩織‥‥」
詩織の小さな声は、噛みしめているように、ジワっと心に響いてくる物がある。
それからは、しばらく無言で歩いていた。
だいぶ遠ざかったのか、もうほとんど滝の音は聞こえない。
歩く音だけが、小さく聞こえるだけだ。
ふと、俺は急に立ち止まった。というより、止まらされた。
繋がった腕が止めた。
「ん? どうしたの?」
詩織は何も答えずに、ずっとこっちをじっと見ているだけだ。
今まで見た事の無い眼差し。
いろんな事が伝わってくるような気がする眼差し。
今までは言葉で語ってきた。
今は、なぜか目で話せるような気がする。
何も訊く必要はなかったかもしれない。
俺は開いた方の手を詩織の肩に乗せた。
正面で向かい合う。
傘が地面に落ちた。
もうこの眼差しからは目を背ける事はない。
この眼差しに応えてやれる今が一番嬉しい。
どちらからともなく、顔が近づいた。
詩織の薄く開いた唇から、緩やかに白い息が洩れる。
俺が目を閉じようとした時に、詩織も目を閉じるのを見たような気がする。
詩織の小さな息を感じた次の瞬間、俺の唇に柔らかい感触が触れた。
ずっと小さい時から見て来た唇。話をしてきた唇。
キュッと端をつり上げて笑い、いつでも俺の心臓を跳ね上げていた唇が今、初めて、触れ合っている。
ヒンヤリと冷たく感じて、それでもどこか暖かい‥‥‥
鼓動が溶けて、身体中に広がっていくような気がする。
どれくらいそうしていたかわからない。
もうずっとそうしていたような気もするし、物凄く短いような気がする。
唇を離す時の瞬間が永遠に感じた。
小さく息を吐くと、白く変わった息の向こうに、頬を紅くした詩織の微笑む顔があった。
「わたし、ずっと‥‥‥忘れないから‥‥」
俺はその言葉に無言で頷いた。
これから、どんな事が待っているかわからない。
でも、俺は信じていられる。
そんな言葉と笑顔だった。
「さ‥‥帰ろう」
今度は詩織が無言で頷いた。
冷たかった空気が、今じゃ火照った頬に心地いい。
傘からはみ出た肩に雪が積もるもの気にせず、俺達は歩きだした。
これからもずっと‥‥‥
(4)
旅館に帰った俺達を出迎えたのは女将さんだった。
にこやかな笑みを浮かべている。
「どうでした? 霧ヶ滝は」
「すごく良かったですよ。あんな大きな滝があるなんて思わなかった」
「とっても素敵な滝でした」
「そう‥‥‥良かったわ」
女将さんはいっそう明るい表情で笑った。
「それにしても‥‥‥寒かったでしょう」
「え、ええ‥‥まあ」
少し思い出して、寒さを忘れていた事に気づいた。
チラっと詩織を見ると、頬を紅くしたままだ。
「詩織、帰ってたのか」
親父さんが、手ぬぐいを肩にやってきた。
父さんも一緒だ。
「そ、それじゃ‥‥もう一回温泉入ってあったまってくるから」
詩織はそう言って、小走りに部屋の方へ向かっていった。
俺は、一瞬手を伸ばしかけて‥‥‥やめた。
走っていったのが、なんとなくわかるような気がする。
「なんだ‥‥?」
親父さんが不思議そうな顔をしている。
「女の子っていうのも大変ですね。
うちの…も何考えてんだかわからないけど、詩織ちゃんも年頃だから」
父さんも詩織の走っていった方向を見ながら呟くように言った。
「ええ‥‥まったく」
やれやれ‥‥‥
俺も親になったら、こんなに鈍感になるんだろうか。
しかし、よくよく考えれば俺もそんなに敏感な方じゃないし‥‥‥
もしかしたら、いままでさんざん詩織に気をもませていたのかもしれない。
「ところで、父さん達、どこ行くの?」
「もう一回温泉入ってこようかと思ってな」
「そっか‥‥‥それじゃ俺も後で行くよ」
とても一人で居られるような気分じゃない。
ずっと二人で余韻を味わっていたかったが、詩織は風呂へ行ってしまったし‥‥‥
「じゃ、先に行ってて」
俺はそう告げて部屋に戻った。
部屋の前に誰か立っていた。
それが誰だかすぐにわかった。
「あれ、どうしたの?」
「あ‥‥‥ごめんなさい。先に戻ってきちゃって」
「いいよ。俺もなんとなく照れくさかったから」
鼻の頭を掻いた。
「どうする? 風呂行くの?」
「うん‥‥そう思ったんだけど‥‥‥」
薄暗い廊下に、小さな声が響いている。
「こんな所で話すのもなんだしさ。部屋入ろうよ」
「そうね‥‥」
部屋に入った俺達は、窓際の椅子に座った。
こういう時、何を話せばいいのか‥‥‥
チラリと唇を見ると、さっきの感触が蘇ってくる。
気にするたびに、心臓がスキップを始めるようだ。
「外、綺麗ね」
その言葉に外を見ると、言葉どうりである事がわかった。
さっきよりもずっと強く降っている雪が、近くに見える山をさらに白く変えつつある。
町並みも雪霞の向こう側。
「ほんとだ‥‥‥」
「思い出すね。雪降った時の事」
「それって、いつ?」
「いつも」
柔らかい微笑みが、俺の胸に染み込んでくる。
「小さい時の雪合戦とか?」
「うん」
「クリスマスの帰りとかも?」
「‥‥‥うん」
思い出すとキリが無いくらい、いつも側に居てくれたような気がする。
今まで気づかなかったのがおかしいくらいに。
「…、ずっと側に居てくれたよね」
「詩織だって」
そう言った時、詩織が小さく笑った。
「おかしいね。なんでこんな話になっちゃうのかな」
「そうだなぁ‥‥なんでだろ‥‥‥」
じっと見つめられているのが、なんとなく恥ずかしくて目を逸らし、窓の外を見つめた。
雪はやむ気配を一切見せない。
言葉はもう無かった。
一緒に居るだけでいい。
それが今の望みだった。
そんな柔らかい沈黙を手助けしてくれる為に、雪が降ってくれているような気さえする。
「雪‥‥‥だんだん強くなってきたね」
ポツリとつぶやいた。
「もう一回温泉でも入ろうかな。雪見風呂っていうの良いかも」
「そうね‥‥‥お母さん達にわたしも後で行くっていっちゃったし」
「そういえば、俺もだ‥‥‥それじゃ、行こうか」
「じゃ、わたし部屋に戻って準備してくるから」
「俺も準備するかな」
お互いに立ち上がった。
ふとまた目が合う。
「なんか‥‥‥照れちゃうね」
頬を微かに染めて、それでも視線を反らさずに俺を見つめている。
「そうだね」
頬がくすぐったい。
口元がどうも緩んでしまうような気がする。
「さぁってと、ゆっくりあったまるかな」
「ゆっくり入ってれば、もうじき夕飯よ」
「俺もう腹減ったよ」
「わたしも」
また笑い合った。
昔とは違って、身長も伸びたし、いろんな事も知った。
でも、いつでもその事だけは変わらない。
少しふらふらになりながらも、俺は用意してきた浴衣を着た。
雪を見ながら、だんだんと薄暗くなっていく空を見ていたら、のぼせる一歩寸前まで行ってしまって、今じゃふらついてロクに立てない。
浴衣を羽織ったところで、椅子に腰掛けて息を吐いた。
まだ少しクラクラする。
それでも、事あるごとに思い出すと、ほわっとした気分になれた。
思い出す度に浮かんでくるやわらかい感触に心臓が騒ぎだし、そのせいでまたクラっとくる。
それでも、しばらく座っていたせいか、徐々に回復してくるのがわかった。
浴衣をしっかりと着て、その上から半纏を羽織る。
よし、これで完璧だ。
回復してくると同時に、腹の虫も騒ぎ出す。
さあて飯だ。
男湯の入り口を出たところで、入り口の近くの壁によりかかっていた詩織を見つけた。
旅館のだからあたりまえだが、俺のと同じデザインの浴衣と半纏を着ている。
「あ、詩織。どうしたの?」
「あ‥‥‥待ってたのよ」
「どれくらい?」
「二分ほどかな」
「先に部屋に戻ってても良かったのに」
「いいの。好きで待ってたんだから」
そう言ってニッコリと微笑んだ。
「それより、髪‥‥‥」
「あ、これ?」
長い髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。
根元を縛っている黄色い布の結び目から広がった余り布は、黄色い蝶が止まっているような感じに見えた。
「ちょっと気分変えてみたの」
「へえ‥‥‥似合うもんだね」
「ほんと? ありがとう」
ずっと一緒だった筈なのに、いつも新鮮な物を見せてくれる。
俺が今まで知らなかっただけなのかもしれないな‥‥‥
「んじゃ、部屋戻ろうか」
「そうね」
横に並んだ詩織の襟元を見たせいで、息が一瞬つまりそうになった。
ポニーテールにしているせいで、首筋がハッキリ見える。
きめ細かな肌は、ほんのりと赤く上気して、その赤さに妙に心が落ち着かない。
きっとドキドキしっぱなしの心臓のせいだろう。
「のぼせる寸前までいっちゃって、たいへんだったよ。なんか今でもくらくらする」
「大丈夫?」
心配そうな表情で俺を見ている。
「ああ、ちょっと座ってたら落ち着いたよ」
「ほんとにのぼせるまで入る事ないのに‥‥‥」
「ま‥あね。ちょっといろいろ考えながら入ってたから」
別に本当の事を素直に言っても良かったが、なぜか照れくさい。
「いろいろって?」
「まぁ‥‥‥いろいろだよ」
俺が何を言いたいのかわかったのか、そう言った途端ただでさえ温泉であったまって上気している詩織の頬が、さぁっと紅くなるのがわかった。
「そ、それにしてもあれだね。父さん達よっぽどうれしかったのかまだ風呂入ってるよ」
「お母さんとおばさまも、まだ入ってるみたい」
少しだけぎこちない会話だった。
無理矢理引っ張りだした会話だからしょうがないといえばしょうがない。
そうでもしないと‥‥‥どうにかなりそうなほど照れくさくなる。
「ほんとはね、わたしものぼせそうになってたの」
少し間があった後、詩織がポツリと苦笑しながら言った。
「そしたら、お母さんに、何やってるのかしらこの子は‥‥ってあきれられちゃった」
「ははは、詩織らしくないなぁ」
「そんな事ないわ。わたしなんて、いつもそうなんだから」
そう言って苦笑した。
もしかしたら‥‥‥俺の知らない詩織は、まだまだ沢山いるのかもしれない。
でも‥これからじっくり知らない詩織と出会っていければいい。それだけの事だ。
部屋に戻ると、すでに料理が運ばれていた。
俺達の部屋にひとまとめにするようになっているのか、人数分ある。
「おおっ! なんかすごいうまそうだな」
色とりどりにならべられた豪華な料理に、俺の腹は鳴りまくった。
「ほんと、ますますおなか減ってきちゃう」
詩織は楽しそうに、料理に見入っている。
「早くみんな戻ってこないかなぁ‥‥‥」
「そうね‥‥でもいいじゃない。来るまで座って待ってましょうよ」
窓際の椅子を指さした。
「そうだな‥‥‥これ以上料理の側にいたらおかしくなりそうだ」
「ふふっ、そうよね」
なるべく料理は見ないようにして、窓際の椅子に座った。
もう窓の外は、薄闇に覆われている。町の明かりだけが目立つ。
窓のすぐ外を落ちる雪だけが、部屋の明かりを受けて、白く浮かびあがっていた。
「山って‥‥‥夕方とか夜になると真っ黒でちょっと恐いね」
外を見ていた詩織が、つぶやくように言った。
確かに、真っ暗になる寸前の空に、大きな黒い塊のように浮かんで見える。
言い様のない迫力があった。
「でも‥‥‥雪国の町の明かりって‥‥とっても綺麗」
目を細めながら外を見ている姿に、俺はたまらない気持ちになって立ち上がった。そのまま詩織の後ろに回って両手を肩に置く。
詩織は驚いた風もなく、首だけを横に向けて頬を赤くしている。
俺が何か言おうとした瞬間、部屋のドアの前にざわめきを感じて、思わず手を引っ込めてしまった。
腹にしてみればタイミングがいいし、俺にしてみればタイミングが悪い。
すぐにドアが開いて、父さん達と親父さん達が入ってきた。
「あら、…君もう戻ってたのね」
「つまみ食いしてないでしょうね?」
同じ母親でもこうも違うのか。
この俺にして、この親あり‥‥‥か。
「ほら、詩織。さっそく食べるから来なさい」
親父さんが呼ぶと、詩織は椅子からゆっくり立ち上がった。
俺が適当な席に付くと、詩織がさりげなく隣に座る。
めいめいが席についたところで、なんとなく落ち着きが戻ってきた。
「今日は朝からお疲れ様でした。
…と詩織ちゃんの卒業と入学祝いということで盛大に飲んで食べましょう」
父さんのその言葉に、詩織は小さく頭を下げた。
「詩織ちゃん‥‥‥」
母さんの言葉に、「はい」と返事をした。
「うちのと同じ大学になって、一緒でたいへんでしょうけれど‥‥よろしくね」
「い、いえ‥‥そんな事‥‥‥」
慌てた風に小さく手を降った。
「…君も、もし良かったらいろいろ詩織を助けてやってね」
おふくろさんに言われた。
こんな風な感じのおふくろさんは初めて見た気がする‥‥‥
それにしても、なんか妙に照れくさい。
「いえ、助けてもらうのはむしろ僕の方ですよ」
「お前がしっかりしないとな」
父さんが、ニヤリと笑った。
「…君。頼むよ」
親父さんも、ニッコリと笑った。
信用してくれているのだろうか‥‥心底からの笑顔のような気がする。
どちらにしろ、裏切る訳にはいかないし‥‥‥裏切るつもりも無い。
「さあ、それじゃ食べましょう」
親父さんの言葉を合図に、食事が始まった。
「はい、ご飯よそってあげる」
詩織が俺に手を差し出している。
「あ、わるいね」
「ううん‥‥」
小さく笑って俺の茶碗を受け取った。
帰ってきた茶碗には、ご飯が大盛りになっていたのにはビックリしたが、今の俺の腹具合いからすれば丁度いい。
「それじゃ、いただきます」
のどから出た手が箸を握っているように、俺は食べはじめた。
(5)
「しかしなんだよなぁ・・・父さん達、風呂ばっかり入ってふやけちゃわないの?」
俺はおかずをつつきながら訊いて、口に入れた。
「そんな事はないぞ。いつ入っててもいいもんだ」
「ふぅん‥‥‥」
うん、この山菜の空揚げはうまいな。
返事よりも、噛みしめた空揚げの味に感心するほうが先だ。
「あなた達も、若いんだからそんな事じゃ駄目ね」
「お母さんみたいに、ずっと入ってられないわよ」
「詩織、何を言ってるんだ。うちの娘ともあろう者が」
親父さんが、川魚をつまみながら言った。
「そんなの関係ないわ」
呆れた風に言ってから、吸い物をつっと飲んだ。
「あ、すごくおいしいのね。これ」
親父さんをまったく無視しながら、俺の方を見ながら、にこりと笑った。
「どれどれ」
俺も吸い物を手に取ってのんでみる。
「うん、確かに。なんかほわっとする味がたまんないよ」
すっきりとした味の中に、なんとなくあの女将さんの人柄を思わせるようなあったかい感じがある。
料理だけじゃない、この旅館全部もあの女将さんに似た雰囲気があった。
父さん達が、ずっと馴染みにしている理由がわかるような気がする。
「詩織もこれくらい作れるようにならないと駄目よ」
「そんな事言われても‥‥‥」
「そうでもしないと、将来困るわよ」
おふくろさんが、唇の端をつりあげて笑った。
一瞬チラリと俺の方を見たような気がして、何かがグサっと胸に刺さった。
「な、なによ‥‥お母さんたら」
声に勢いが無い。
なにかしぼんで行くような感じの声だ。
照れているか、頬が紅く染まっている。
「大丈夫だって。詩織ならこれくらいすぐつくれるよ」
今までも、詩織の料理は何度も食べた事はあるが、これほどとはいかないまでも俺にとっては十分にうまい。
掛け値無しの言葉だ。
「‥‥だって」
おふくろさんが意地悪そうに、でも笑いながら言った。
「お母さんの意地悪」
少しふくれてそっぽを向いてしまった。
俺の言葉がすっかりおふくろさんに利用されてしまったな。
「?」
父親連中は不思議そうな顔をしている。
騒がしいというか、わりと賑やかな夕食のひとときが終わった。
中居さん達がわらわらとやってきて、あっとういまに片付けてしまうのを見て寂しさを感じる。
「それじゃ、わたしたちはいったん部屋に戻ってますから」
親父さん達がそう言って、部屋を後にした。
「それじゃ‥‥‥またね」
小さく言ってから、詩織も親父さん達の後を追って出ていった。
さっきまでの賑やかな雰囲気が、いきなり終わりを迎えて、なんとなく祭りの後‥‥‥という気がする。
さっきまで一緒だった人が今は居ない。
それだけで、妙に落ち着かない。
今までだって、別にそんなに長く同じ所に一緒に居た訳でもないのに、今日はやたらと寂しい。
待って‥‥‥と、引き留めたい気分だった。
「ああ、食った食った」
父さんがそう言って、壁によりかかった。
「はい、お茶入ったわよ」
母さんがお盆にお茶を乗せて持ってきていた。
「サンキュー」
受け取ったお茶を一杯のんだ。
やっぱりうまい。
特に食後の後は最高だ。
「ちょっとゆっくりしたら、また風呂でも行くか」
「えっ! また風呂入んの?」
信じられない。
よっぽどここの風呂が好きなんだな。
確かに悪い風呂じゃないし、それどころか俺も物凄く気に入ってはいるがそうそう何度も入る気にはなれない。さっきのぼせかけたばかりだ。
「当たり前だ。温泉に来たんだからな」
「俺はあとでいいよ」
「まあ好きにすればいいさ。ここはいつでも入れるからな」
「そうさせてもらうよ」
しばらくゆっくりとしていた後、父さんと母さんはまた風呂に行ってしまった。
部屋で残った俺は、なにもする気になれなくて、しばらく横になって転がっていた。
なにもする事がない。
退屈この上ない。
‥‥‥ちょっと隣でも行ってみるか。
詩織は居るかな?
立ち上がって浴衣を整えたあと、廊下に出た。
部屋の中とは違って、少し寒いな‥‥‥
隣の部屋のドアを二回ノックしたところで、中から声がした。
「はい?」
詩織の声だ。
「俺だけど」
「あ‥‥‥開いてるわよ」
ゆっくりとドアを開けると、詩織が一人でTVの前に座っていた。
「あれ? おじさん達は?」
「風呂に行っちゃったけど‥‥‥それより、どうしたの? お父さん達に用?」
「いや、別に。母さん達もまた風呂行っちゃってさ。俺一人でもう退屈で退屈で‥‥‥」
「そうなんだ‥‥‥わたしも退屈だったの」
口元に手をあてて微笑んでいる。
「それより、そんな所にいないで‥‥‥どうぞ入ってきて」
「あ、ああ」
自分が立ったままだっていう事を忘れていた。
「風呂は行かなかったんだ」
詩織のとなりにどっかりと腰を落とした。
「ふやけちゃうわ」
可笑しそうに笑った。
「だよなぁ‥‥‥」
この瞬間、やっぱりほっとする。
今日の俺は‥‥‥少し変かもしれない。
唇の感触を思い出すと、また詩織の唇が気になった。
「どしたの?」
「あ? あ、いや、別に‥‥‥」
思わずじっと見ていたのに気づかれた。
「そう‥‥」
緩やかに浮かべる微笑みが、俺の胸に刺さるようだ。
「わたしね‥‥‥さっきからなんか変なの。
卒業の日のあの時の感じとは違うけど‥‥良くにてる。
そんな感じで‥‥‥ちょっと変なの」
苦笑しながら、首を小さく傾げながら
「おかしいよね」
小さくそう言った。
「そんな事ないよ‥‥‥俺もなんか今日はやたらと詩織の事が気になって‥‥」
その後‥‥‥なんでだろう。うまく言葉が出てこない。
「いいや、別になんでもない」
そう言ったあと、沈黙がやって来た。
どこかぎくしゃくとした沈黙だ。
「以前までは‥‥‥卒業するまでは、もっと普通に話してたよね」
最初に沈黙をやぶったのは詩織だった。
「あ、ああ‥‥そういえば」
それは俺も感じていた。
「でも、あの日から、なんかどこかぎこちない感じがして‥‥って、たまに思う時があるの。
普段は全然気にならないんだけど‥‥‥どうしてかな‥‥」
ふっと目を反らしてうつむいた瞳が、少し寂しそうだった。
「やっぱり‥‥‥後悔してる?」
言った俺自身、少し驚いた。口が滑った‥‥というのは、こういう事かもしれない。
「えっ?」
驚いたように、ハッとして俺を見ている。
「俺で良かったのか‥‥って」
「どうして‥‥?」
悲しそうな目で見られて、胸が締め付けられるように痛んだ。
苦しい。
言った事を後悔した。なぜそんな事を言ったのか、自分でもわからない。
「ずっとずっと想ってきたのよ‥‥‥今頃そんな事思う訳がないじゃない。
どうしてそんな事言うの? どうして‥‥‥」
絞り出すような声に、さらに俺の胸が痛んだ。
「ごめん‥‥‥そんな事言うつもりじゃなかったんだけど‥‥」
「冗談でも、そんな事絶対に言わないで‥‥‥お願い」
詩織の悲しそうな声。
一番聞きたくなかった声。
一番言わせてはいけない言葉。
「ごめん‥‥‥もう言わないよ。約束する」
「ほんとうに‥‥?」
「嘘言ったってしょうがないだろう」
「ごめんなさい‥‥‥」
また表情が少し沈む。
「だから‥‥‥詩織が謝る事ないって」
「でも‥‥‥」
「ところでさ、何でこういう話になったんだっけ」
「えっ‥‥?」
俺がいきなり話を切り替えたせいで、詩織の沈んだ顔が少し驚きの色に変わっていく。
「なんだか知らないけど、忘れちゃったよ」
俺は笑ってみせた。
本当は、忘れてはいない。
俺も時たまあるぎこちなさが、たまに気になっていたところだ。
高校を卒業するまで、いままでこんなぎこちなさを感じた事は一度だってなかった。
でも‥‥‥そのぎこちなさがなんなのかは、もうわかった。
「俺達さ‥‥まだ慣れてないんだよ。たぶん」
「‥‥‥どういう事?」
「小さい時から一緒だったのに、ある日いきなりお互いの気持ち知って‥‥‥
それでどこがどう変わったと思う? 見た目にはなんにも変わってないよね」
なんだか自問自答しているような気分になってきた。
「そうよね‥‥なんにも変わってないのに‥‥‥」
「だろう?」
「でも‥‥‥自分の気持ち隠さなくても済むようになったし、いつでも言えるようになったわ‥‥‥」
詩織の表情が、ゆっくりと、本当に小さく微笑みに変わっていく。
「え? 何を?」
「好き‥‥って。本当に大好き‥‥って」
少し照れた風に、しかし、しっかりと俺を見つめながらそう言った。
昼間のあの時と同じ、唇を重ねる前に見た眼差しと同じだ。
「ちょっと照れくさいけど、俺も‥‥‥そう言えるよ」
本当は照れくさいどころじゃない。逃げ出せる物なら逃げ出したいくらい照れくさくて恥ずかしい。
そういう事では、男より女の方が一直線なんだろうか。
「ふふっ‥‥ありがとう」
笑顔が戻って来た。
詩織には笑顔の方が全然似合う。
悲しみに沈んだ顔にはさせられないな‥‥‥
「まだ‥‥慣れてないけどさ。たまにそんな感じが心地良くて‥‥‥もしかして、俺だけかな?」
詩織は小さく首を横に振った。
「たまに寂しい事もあるけど‥‥‥でも‥同じ」
頬がゆるやかに紅く染まっている。
「なんか、わたし達‥‥‥今日ちょっとおかしいね」
クスっと小さく笑った。
その唇がまた気になって、ドキっと高鳴った。
あの柔らかな感触が蘇ってくる。
よくよく考えたら、あの時からなんか変な気持ちになっていたような気がする。
もう一時でも離れたくないような‥‥‥そんな気に。
「とりあえずさ、気分変えてどっか行こうよ」
俺は立ち上がって詩織の手を差し出した。
「どこへ行くの?」
差し出した手に、手を重ねて詩織も立ち上がる。
取った手の温もりが、染み込んでくるような気がした。
ずっと離したくない。そんなやわらかな暖かさ。
「どこがいい?」
「ちょっと旅館の中を歩き回ってみましょうよ」
「そうだな。なんか見つかるかもしれない」
これからの時間。
ちょっと昔に戻ったような気になれるかもしれない。
「あ‥‥‥ねえ、見て見て」
詩織が、つないだ手とは反対の手で俺の浴衣の袖を引っ張った。
「なに?」
「ほら、あれ」
指さした方向には、ちょっと広い空間。そこにあったのは‥‥‥
「あ、卓球台か」
きらめき高校に置いてあった台ほど立派じゃないが、十分すぎるほどの台がそこにあった。
「ね、やらない?」
「いいね。やろうか」
実際、近寄って見ると、かなり綺麗に使い込まれているのがわかった。
備え付けのラケットも綺麗だし、台の表面も手入れが行き届いている。
「卓球なんて、すごく久しぶり。高校一年の時にやったきりよね」
ラケットを持った詩織が、嬉しそうに言った。
きらめき高校に入学してから半年後くらいに、数回体育で卓球を
やったきりだかたら、確かに懐かしい。
その時、何度か詩織と試合した事はあったけど、お互い卓球なんて
ほとんどやった事が無いだけに、ろくな物にはならなかったっけ‥‥‥
「大丈夫かなぁ‥‥‥あれから全然やってないし」
「いいじゃない。勝負って訳でもないんだから」
そう言われてみればそうだ。楽しめれば、今はなんでもいい。
「じゃ、詩織が先にサーブやっていいよ」
「うん、それじゃいくね」
軽い音がして、すぐに玉がきた。
さすがにぎこちないサーブだけど、正確に帰ってくるあたり、さすがだ。
俺も軽くそれを打ち返した。
久しぶりにしては、ラリーがかなり長く続く。
とはいっても、卓球というよりピンポンという感じだが‥‥‥
それでも、それなりに楽しくはあった。
「きゃっ」
十回ほどのラリーで、先にミスった詩織が声をあげた。
「俺の勝ちだ」
「今度は負けないから」
微笑みながらも、目がなんとなく真剣っぽくなっている。
あ‥‥‥こりゃ、そうとう夢中になりつつあるな。
そういえば、子供の頃から、わりとゲームとかに熱中する方だったっけ。
「勝負抜きって言ったじゃないか」
「あ‥‥そうね。ふふっ‥‥‥ごめんなさい」
「それじゃ、今度も俺が勝たせてもらうから」
「あ、勝負抜きって今言ったのに」
「言ったっけ。そんな事」
「ひどぉい。それじゃ、わたしだって負けないからね」
楽しそうな詩織の表情を見ていて、ふと気づいた。
なんとなく忘れていた物を思い出したような‥‥‥そんな事に。
気が付くと、汗がにじんでいるのがわかった。
最後の方は、ほとんど真剣勝負に近くなって、ラリーもそれなりに様になってきたせいかもしれない。
「ふう、なんか暑くなってきたなぁ」
「ほんと、汗かいちゃった」
詩織も、顔を微かに上気させている。
旅館内とはいえ、ひんやりとしていた空気が、今はどうしようもなく気持ち良かった。
「やっぱいいよね、身体動かしてると」
「卒業する寸前くらいまでから、今まであんまり動かしてなかったものね」
俺と詩織は、台の側にあるベンチに座った。
「動いてないと、どうも落ち着かない感じだよ」
「そうよね。…は特に頑張ってたし」
その理由を、今はもう言う必要はないかもしれない‥‥‥
「ま、まあね‥‥」
「それにしても、高校時代かぁ‥‥‥終わったなんて、実感わかないね」
「そうだなぁ‥‥まだ一週間経ってないしね」
「そういえばね‥‥‥わたし、いつも朝起きるとビックリするの」
「なんで?」
ほんのちょっとだけ間を開けてから
「壁にかけてある筈の制服が無いから‥‥‥」
どこか寂しそうな響きのする声。
キュっと、小さく胸が痛む。
「卒業式の次の日にタンスの奥に仕舞ったの、すぐ忘れちゃうのね」
「そういえば、俺も制服しまっちゃったなぁ」
「仕舞う時、ちょっと寂しくなかった?」
「まあね‥‥‥」
たぶん、もう着ないかもしれない制服。
そう思うと、さすがに寂しいし、なによりも思い出が一杯染み込んでいる。
桜舞う頃にその制服を着て、桜の蕾が大きくなりだした時にその制服を脱いだ。
すっかり身体になじんだ制服をしまう時は、さすがに寂しかった。
「もう着る事もないのかなぁ‥‥って思ったら、少し泣けてきちゃった」
照れた風に、少しだけ笑った。
「‥‥‥あと二、三年したら、ちょっとだけ着てみようよ」
「え? 着るの? ‥‥‥なんだか恥ずかしい」
それでも、イヤそうなどころか、どこか楽しそうに笑う。
「んでさ、そのままの格好で町歩くんだよ」
「恥ずかしいけど‥‥‥面白そうね」
「だろう?」
「でも‥‥‥クラスの人に会っちゃったりしたら大変よね。
クラス会かなんかあったとき出席出来なくなっちゃう」
軽く口に手をやって、小さく笑っている。
「確かに」
好雄や朝日奈さんなんかに見つかった日には、それこそ卒業した同じ学年の連中全員に知れ渡りそうだ。
「でも‥‥ほんと面白そうだから、いつか着てみましょう」
「それで、外に出るんだよね」
「外に出るのは嫌。家の中だけならいいけど‥‥‥お母さんに見られるのだって恥ずかしいわ」
恥ずかしそうに頬を赤らめた。
何年後かあと、高校の時の制服を着てみた時どんな気持ちになるのか、少し楽しみでもあった。
「‥‥‥ねえ、ちょっと寒くなってこない?」
ふいに詩織が身体をちぢこませた。
言われてみると、俺も少しゾクっとしないでもない。
かいた汗がだんだん冷えていくのがわかる。
「そういえば、ちょっと冷えてきたなぁ」
俺が寒いのはどうでもいい。
着ていた半纏を脱いだ。
「ほら‥‥‥」
「え‥‥」
詩織の肩にそっとかけると、少し驚いた風に俺を見た。
前にもこんな事はあったっけな‥‥‥
「‥‥‥ありがとう」
小さく言ってから、微笑んだ。
その表情が何より暖かい。
「い、いいよ‥‥別に」
こういう時の詩織の笑顔を見ると、妙に照れくさい。
ふと、俺の腕に詩織の腕がそっと巻き付いてきた。
腕を抱き締めるように‥‥‥
「え‥‥詩織?」
「おかえし‥‥」
小さな呟きに、胸がつかえそうなほど鼓動が一瞬高鳴った。
「‥‥‥あったかいよ。ありがとう」
腕に伝わってくる暖かさが心地良かった。
温度だけの暖かさじゃない事は、この胸が知っている。
しかし、いつまでもこのままという訳にはいかない。
「ね、温泉入りに行こうよ。身体冷やすとまずいからさ」
「‥‥‥そうね。汗がひいてきたら、冷えてきちゃった‥‥
でも、このままでもいいんだけどな‥‥」
絡める腕に少し力が入った。
「ずっと‥‥ずっと離れないでね‥‥‥」
心から漏れだしたような、ほんとうに小さな囁きが俺の耳に届いた。
絡みついた腕にそっと手を置いく。
それが俺の答え。
(5)
また、つい心地よくて、気が付くとのぼせる寸前まで入っていた風呂を出た。
父さん達は、俺が入る頃に擦れ違っている。部屋では晩酌の最中だろう。
男湯の暖簾をくぐって、あたりを見回したが、詩織の姿は無い。
待っていてくれる姿を期待したが、さすがにいつもタイミングいいという訳にはいかないようだ。
とりあえず、今度は俺の番か‥‥‥
女湯の出口からちょっと離れた壁によりかかって、しばらく待った。
もうとっくに出ているのか、まだ入っているのかはわからないが身体だけはホカホカと暖かいだけに、待つのは苦にならない。
五分ほど待ったところで、そろそろ戻ろうと思った矢先に、女湯の暖簾をくぐって、詩織が出てくるのが見えた。
「詩織」
「あ、…」
俺が呼び止めると、すぐに気が付いてゆっくり歩いてきた。
「待っててくれたの?」
「まあね。夕方の風呂ん時のお返しってとこかな」
「部屋に戻ってても良かったのに」
クスクスと笑いながら目を細めている。
「どうせ部屋戻っても、父さん達が晩酌かなんかしてるだろうから」
「そうね。なんかお母さん達とは入る時擦れ違ったから、もう部屋じゃ飲み会かしら」
すっかり出来上がっている両親達が目に浮かぶ。
「あ‥‥‥今度は三つ編みだね」
髪を後ろでまとめて束ねて、一つの三つ編みにしている。
夕方の時のポニーテールといい、今まで見た事の無い新しい詩織を見るのが楽しい。
新しい姿を見せてくれる事に、秘かな嬉しささえ感じる。
これから先、何年か先にも、新しい詩織には出会っていけるのだろうか‥‥‥
「のぼせ冷ましを兼ねて、ずっと編んでたんだけど‥‥‥どう?」
手を後ろにやって、髪を触っている。
「なかなか良いよ。どんな髪型しても結構似合うなぁ」
苦笑を混ぜながら笑ってみせた。
「ふふっ‥‥‥ありがと」
「それじゃ、そろそろ戻ろうか。なんかうまいもんでも食ってるかもしれない」
夕飯を食ったあととはいえ、卓球や風呂で疲れたせいもあって、なんとなく腹が減ってきたような気がする。
「わたし、おなか空いてきちゃった」
「なんだ、詩織もか」
「だって‥‥‥」
困ったように苦笑している。
「わかったよ。それじゃ戻ろう」
「そうね。早く戻らないとお母さん達に、美味しい所みんな食べられちゃうわ」
その言葉に、なんとなくおかしくなって笑った。
俺も詩織も。
こんな刻がずっとこれからも続けばいい‥‥‥
そんな瞬間だった。
部屋に戻るまで、静かな旅館の廊下を歩く音だけが小さく響いた。
古いはずの建物なのに、歩いてもきしみ一つ言わない。
それだけ、しっかりした造りなのだろう。
手入れも良く行き届いているようだ。
「静かよね‥‥‥」
「ほんと、ほかに客もあまり居なくて、なんか落ち着いてていいよ」
風呂に入っている時も、ほとんど貸し切り状態なほどだ。
それでも、父さん達みたいに、固定客はきっといるのだろう。
そう思えるほど、雰囲気が凄く良い。
「‥‥‥‥いつか。大学入ってから、落ち着いたら‥‥‥」
沈黙を最初に破ったのは詩織だった。
「なに?」
聞き返すしても、詩織はしばらく無言のままだった。
「落ち着いたら‥‥‥もう一度ここに‥‥来ない?」
「え‥‥」
俺は、一瞬理解出来なかった。
ほんの一瞬だけ。
「‥‥‥いや?」
「いいよ‥‥‥落ち着いたら、もう一度来よう」
俺は詩織の手をそっと握った。
握った手が答えるように力を入れて握り返してくる。
暖かくて柔らかい手。
小さい時は、良くこうして手をつないでいたっけ‥‥‥
いつも手が届く所に居たのに、こうなるまで随分遠回りをしたような気もするけど、今は‥‥‥この手の温もりを感じるほど側にいる。
今はそれだけ良かった。
部屋に戻ると、案の定二組の年配のカップルはすっかり出来上がっていた。
「おう、戻ったか」
父さんが真っ赤な顔をしていた。
「もう‥‥‥お母さんまで真っ赤になって‥‥」
詩織が呆れている。
母さんも同じように真っ赤だが、それでも、父さんや親父さんほど酔ってはいないようだ。
「詩織ちゃん、おいしいおつまみがあるわよ」
母さんが詩織を呼んだ。
「あ、はい‥‥‥」
俺達は苦笑しながら、酒宴に混ざった。
酒は十八歳から‥‥‥だ。
「ふう‥‥‥やれやれ」
酒を飲んで潰れている父さんと親父さんを転がして、ようやく敷いた布団に寝かしつけたら、思わずため息が出た。
「ほら‥‥‥母さん。起きろよ。こんなところで寝るなよ‥‥」
さすがに父さん達とは違って、壁によりかかってはいたが、眠そうなのは変わりない。
「ちょっと‥‥‥お母さん。みっともないからちゃんと布団で寝てちょうだい」
詩織の方も、酔ったおふくろさんを揺すっている。
「まったく四人とも良く飲んだなぁ‥‥‥」
お膳の上には、とっくりが沢山並んでいる。
父さんはともかく、母さんまでこんなに飲むとは思わなかった。
普段、家で父さんの晩酌に軽く付き合う程度だとは思っていたが、ぐたっとするほど飲んでいるのを見るのは初めてだ。
詩織の方は、親父さんは良く飲むと聞いてはいたが‥‥‥
おふくろさんの方まで、飲んでいるとは思わなかった。
「はいはい‥‥‥」
母さんが、少しフラつきながらも、ひいてある布団のところに行ってクタクタっと倒れこんだ。
「やれやれ、ほんとしょうがないな‥‥‥」
その上に布団をかけた。
「お母さんったら‥‥‥ほら、一緒に部屋に戻りましょう」
よくよくみれば、大人三人が寝込んでいる。
これで詩織のおふくろさんが寝たら、俺が寝る場所がなくなってしまう。
「ここわたし達の部屋じゃないんだから‥‥‥」
「‥‥う‥‥ん、いいわよ。あっちの部屋使っても‥‥」
面倒くさそうにとなりの部屋を指さした。
「いいわよ‥‥って、そんな訳にはいかないでしょう」
困ったようにおふくろさんを揺すっている。
「いいよ、詩織。おばさん寝かしちゃって」
「でも‥‥‥」
「今はしょうがないだろ」
放っておけば、壁にもたれかかったまま寝そうだ。
部屋に戻すよりも、ここで寝てもらった方が楽かもしれない。
「‥‥‥ほら、お母さん、ここで寝ていいって‥‥」
詩織が促すと、ゆっくりと立ち上がって、敷いてある布団にもぐりこんだ。
「ふう‥‥‥ようやく落ち着いたな」
「ごめんなさい。部屋占領しちゃって‥‥」
寝ている親父さんとおふくろさんを見ながら、申し訳なさそうにしている。
「いいって、おじさんとかおばさんには良く世話んなったから、これくらいしないと」
よっぽど浮かれてたのか、ここまで酔っている父さん達は初めて見る。
「もう‥‥‥ほんとに恥ずかしいわ‥‥」
呆れた風に、親父さんとおふくろさんを見ていた。
「そんな事無いって、きっと嬉しかったんだろ。卒業も入試も上手くいったし」
「それならいいんだけど‥‥‥」
詩織は、少し困った風に部屋を見渡している。
「どうするの? もう寝るとこ無いけど‥‥‥」
確かに、部屋は大人四人が寝てて、布団を敷くスペースはもう無い。
勢いで寝かせたはいいが、ここまでは考えてなかった。
「まずいな‥‥‥」
「わたし達の部屋使ってもいいって言われても‥‥」
不良両親に飲まされたビールの影響だろうか、詩織は頬を紅くしながら呟いた。
確かに、ここにはもう寝る場所がない。あとはとなりの詩織達の部屋だが、そうなると‥‥‥
「や、やっぱりまずいな‥‥‥父さんだけでも起こして、俺が隣に連れていこう」
変に心臓が暴れ出して、どうにもおかしい。
「あ、あのね‥‥‥わたしは別に構わないけど‥‥」
「えっ‥‥‥」
一秒ほど心臓が止まったような気がした。
気のせいじゃない。詩織の頬がさっきよりも真っ赤だ。
「え、えっと‥‥」
「‥‥‥‥‥うん」
混乱している俺に、頬を赤らめながら、小さくうなずいた。
別にあわてるような事でもないのに、なぜかまともに考えられなくなるほど鼓動がうるさい。
「そ、それじゃ、とりあえずここはもういいか‥‥‥」
自分で何を言ってるのかわからないまま、部屋の電気を消して廊下に出た。
(7)
「TVでも見ようか」
なんか部屋が広く感じる。
どうにも意識して、あまり考えがまとまらない。
「そうね‥‥‥」
TVを付けると、古い洋画が放送されていた。
チャンネルを回しても、これといった番組が無い為か、結局それに落ち着いた。
興味ある内容じゃなかったが、それ以前に内容が頭に入らない。
今頃になって、昼間の事が頭に浮かんだ。
ふと横を見ると、詩織の横顔が見えた。
柔らかい感触だった唇に、どうしても目が行ってしまう。
さっきまでの二人で居た時とは偉い違いだ。
詩織は、この時間をどう感じているのだろうか‥‥‥
「なんか‥‥あまり面白くない映画だね」
「うん、わたしもこういうのはあまり好みじゃないな‥‥‥」
そうは言っても、ほかにやる事は無い。
あるとすれば、もう寝るだけかもしれない‥‥‥
それにしても、何を意識しいるんだ俺は‥‥
顔が熱く感じるのは、飲んだ酒のせいだけじゃなさそうだ。
「‥‥今日はいろいろあったね」
詩織が小さく呟いた。
「そうだなぁ‥‥‥」
確かに今日はいろいろな事があった。
いろいろというほど大した事ばかりじゃなかったけど、忘れられない事もあったのは確かだ。
「でも‥‥‥本当に来て良かった」
柔らかい微笑みが、どうしようもなく暖かい気持ちにさせてくれる。
こういう時、どうすればいいのか‥‥‥
「そうだね‥‥‥俺もそう思うよ」
出てきたのは、ありきたりな答え。
それ以外の言葉を言っても、しょうがない気もした。
立ち上がって、詩織の背後に中腰で立った。
「‥‥‥‥」
俺が無言で背中から詩織を抱き締めると、詩織はなにも言わずに抱き締めた腕に手を置いてきた。
こうなる事を、いつから思い絵がいていたかを思いだそうとしてもうまく思い出せない。
本気で思いだそうとするには、詩織の背中は暖かかった。
考えようとする頭の回転を止めてしまうほどに。
そのままの時間がどれくらい経っただろう。
腕から‥‥‥背中から伝わる暖かさを惜しみながら、詩織から離れた。
「ごめん‥‥‥」
俺の口から出たのは、なぜかその言葉。
「ううん‥‥‥」
優しい言葉に救われたような気がする。
「すごくあったかかった」
その言葉聞ける俺の方が暖かい事を詩織は知っているだろうか。
どうしようも無いほど照れくさく、苦笑して立ち上がろうと思った時、不意に俺の腕に腕を巻き付かせながら、詩織が訊いてきた。
「ねえ‥‥‥どうしてわたしが卒業の日に告白したかわかる?」
いきなりの質問というより、質問の内容に驚かされた。
「‥‥‥あの樹の伝説があったからじゃないの?」
ふと、あの樹の下でのことが頭をよぎる。
キラキラと輝く木洩れ日の中。春の風が吹く中。
互いの気持ちを確かめあったあの時の事は、忘れる事はないだろう。
「それもあるんだけど‥‥‥
ホントはね。卒業までに何度も何度もホントの気持ち言いたかったの‥‥」
「それじゃ‥‥どうして?」
今となっては、それも関係ないが、どうしてかは知りたい。
「伝説を信じたいほど…が好きだから‥‥‥
だから、卒業までずっとホントの事言わないで我慢してたの」
「‥‥‥」
「おかしいでしょ‥‥」
俺の肩に頭をもたせかけて、自分に言い聞かせるように囁いた。
「そんな事ないよ。そんな風に思ってくれるだけで嬉しいよ。ホントに」
夢の中に居るような感じすらする。
腕から伝わる暖かさが、現実なのか夢なのかよくわからない。
心地よいのだけは、現実も夢も同じかもしれないな‥‥‥
「実を言うと‥‥‥俺も高校に居る間、詩織にずっとホントの事を言おうと思ってたんだけど‥‥」
「やっぱり‥‥そうなの」
「やっぱりって‥‥‥知ってたのか?」
詩織に釣られてつい言ってしまったが、予想していた反応とは違う答えが返ってきたせいで驚いた。
「知ってたって訳じゃないけど、なんとなく‥‥‥」
「そうか‥‥俺は知らないまんまで居たって訳か」
正確じゃないな。俺がもっと強ければいつでもチャンスはあった筈だ。
卒業するまで何も言わなかったのは、自分の弱さと‥‥‥伝説をどこかで信じていたからかもしれない。
結局、お互いの距離は近かった訳か。
「怒ったの?」
俺が何も言わないせいか、不安そうな顔でじっとこっちを見ている。
「いや、全然。それに、今はもうどうでもいい事だしね」
可笑しくて笑いそうにさえなる。
当たり前だ。今こうしているのだから。
「良かった‥‥」
詩織も安心したように笑う。
結果オーライとはこの事だな。
「じゃ、もうそろそろ俺達も寝ようか。まだ明日もあるし」
「それじゃ、お布団敷いてあげるから待ってて」
俺より先に立ち上がった。
「あ、いいよ。俺も手伝うから」
「いいわよ」
「いいって」
「‥‥ほんとにいいから」
少し強情なところがあるのは、あまり変わってないな‥‥‥
「手伝わせてくれよ」
苦笑しながら言ってみると、詩織はしばらく考えた風に黙った。
考えながら、部屋を‥‥‥というより、畳をチラチラと見ているのが気になる。
「それじゃ‥‥‥ちょっと別の事でお願いがあるんだけど‥‥いい?」
「なに?」
「何か冷たい飲み物が欲しいんだけど。お願い出来るかな?」
「え‥‥‥別にいいけど」
「それじゃ‥‥」
「ああ、いいよ。じゃ買ってくるから」
「ごめんなさいね」
「いいって。それじゃ行ってくるよ」
布団を敷くのをまかせて、とりあえず俺は部屋を後にした。
部屋を出たのはいいが、自動販売機を探すのに手間取った。
考えてみれば、これほど自動販売機の似合わない旅館も無いな。
ふと、さっきの卓球の置いてある所に置いてあるのを思い出す。結局、買ってから戻るまで随分時間がかかった。
それにしても、一人で歩くにはホントに静かすぎる旅館だな‥‥‥
部屋にたどり着く前に、父さん達が寝ている部屋をそっと開けて中を見てみると、暗がりの中、寝息だけが聞こえる。
みんな良く寝ているようだな‥‥‥でも、明日どうなっても知らないぞ。
ま、いいか。
さて‥‥‥と、いよいよ戻ろうかな。
ドアをゆっくり閉めて、詩織の待つ部屋のドアの前に立った。
ドアノブへと伸ばした手が一瞬止まる。
変に意識しすぎているがわかるだけに、妙に落ち着かない。
小さく頭を振ってから、さすがにいきなり入ったらビックリさせると思って、ドアをノックした。
二回叩くと、「…?」と聞いてきた。
「俺だよ」と言うと、「どうぞ」と中から返ってきた。
ドアを開けると、まず最初に目に飛び込んで来たのが布団だった。
綺麗に敷かれた布団はともかく、その位置だ。
元々四人が寝れるだけのスペースに、布団が二つ並んでいる。
二つの布団の間が、遠すぎず近すぎず‥‥‥そう感じた。
微妙すぎる距離だ。
「冷たい物買ってきたよ。これでいい?」
スポーツドリンクを差し出した。
「あ‥‥‥ありがとう。なんでもいいわ」
まだ少し酔いが残っているのか、詩織の頬が紅い。
でも、さっきよりもずっとずっと紅く見える。
「ごめん、自動販売機探すのに手間どってさ」
「ううん‥‥いいの別に」
ジュースを受け取った詩織は、どこか恥ずかしそうにしながら窓際の椅子に座った。
「布団綺麗に敷いてもらっちゃって悪いね」
「あ、ううん、別に‥‥‥そんなに苦労しなかったから」
「ん? 苦労って?」
自分の分のジュースのプルトップを開けながら訊いた。
「な、なんでもないの」
慌てながら、詩織もジュースの詮を開けている。
心が近づいた今でも、詩織の全てがわかっているわけでも無い。
俺にもわからない事があるんだろうか。
今はそれを聞いて良い関係かもしれないが、聞くつもりは無かった。
詩織が微笑んでいてくれれば‥‥‥悲しんでいなければ‥‥それでいい。
「そうそう、さっきあっちの部屋見てきたけど、母さん達グッスリ寝てたよ。
明日きっと二日酔いだな‥‥あれじゃ」
「ほんと、困った物よね」
さっきまでの慌てようはどこへやら、ニッコリと笑っている。
俺は、とりあえず布団と布団の間の畳に座り込んで一口ジュースを飲んだ。
とくに喉が乾いていた訳じゃなかったが、なんとなく火照っていただけに喉を通るジュースの冷たさが心地いい。
「ね‥‥‥」
聞こえるか聞こえないかわからない、小さな声が届いた。
「え‥‥なんか言った?」
「うん」
詩織は、どこか照れた風にうなずいた。
「‥‥‥小さい時、うちでお昼寝した時の事とか思い出さない?」
「昼寝‥‥?」
言われてから、少し記憶の奥を探ってみると、確かにそんな事があったのを思い出した。
色あせた思い出が、色を取り戻して動き出す。
「ああ、そういえば。
詩織のうちに遊びに行った時、いつのまにか俺が寝ちゃった事もあったっけ」
「そうそう。それ」
「今考えると、随分くつろいでたんだなぁ‥‥‥人のうちなのに」
「そうね。一回や二回じゃなかったし」
おかしそうに口元を押えて笑っている。
「でも、なんでそんな事?」
「覚えてないのね。寝ちゃってたのって、…だけじゃなかったでしょ」
「あ、そういえば‥‥‥」
いつも、いつのまにか寝てしまうのは俺の方が先だった。
でも、起きた時、いつのまにかかけられていた一つの布団の中で、スヤスヤとすぐ隣で眠る詩織の姿があったっけ。
たまに、まだウトウトとしてた時、となりで眠る詩織が小さい声で羊を良く数えてた事もあったな。
「思い出した?」
「ああ。でも結局詩織だってちゃっかり寝てたくせに」
「だって、…ったら気持ち良さそうに寝てるんだもん。
それ見てたらなんかわたしも眠くなってきちゃって‥‥‥」
そう言ったあと、表情にやわらかさが加わった。
今思うと、学校に居た時にはあまり見たことが無い表情だ。
気が付かなかったが、こんな表情を一番近くで見ていれたのは俺なのかもしれない。
「最後に‥‥‥一緒にお昼寝したのって、いつだったかしらね。
こうやって近くで寝るのって、もう何年ぶりかな‥‥」
そういえば、全てがいつの間にか‥‥‥だった。
出会ってから、いつの間にか友達に。そして‥‥‥いつのまにか詩織に想いを寄せるようになったっけ‥‥
「そうだなぁ‥‥‥もうずいぶん昔の事だから」
今こうやって話せる事で、昔の事は過去じゃないという事を感じる。
それだけ、ずっと同じ所を歩いていたのかもしれない。
「また‥‥‥あの頃みたいに、一緒に寝ましょうか」
ちょっとふざけた感じの言葉。いたずらな笑顔付きの言葉。
それが、俺のいたずら心にポッと火がついた。
「いいよ。一緒に寝よう」
「えっ‥‥」
真剣な顔して言ったからだろうか、最初に言った筈の詩織が驚いている。
悪戯な言葉への、ささやかなお返し‥‥‥とはいうものの、俺が言った事は、冗談‥‥‥と言えば嘘になるかもしれない。
ほんの短い沈黙の後、詩織が俺をじっと見つめながら、
「‥‥‥いいよ」
と、囁くような言葉が返ってきた。
「‥‥‥!」
今確か、「いいよ」と聞こえた。錯覚でもなんでもない。
言葉だけじゃない。眼差しもそう言っている気がする。
「わたしは別に構わないわ‥‥‥ …さえ良ければ」
じっと見つめる目には、真剣な輝き。
冗談が冗談でなくなってしまいそうだ。
飲み終えたジュースの缶を持つ手に力が入って、軽く潰れる。
「‥‥‥冗談だよ」
缶を握る手に力が入って、更に缶を潰した。
心の中では、まったく逆の事を考えていたせいかもしれない。
缶じゃなくて、詩織を抱き締めていたい。素直にそう言えれば‥‥‥
「冗談なの?」
「ああ、冗談だよ」
これで、折れてしまったら、冗談でなくなる気がした。それが自分でもわかる。
冗談でなくなっても構わないという自分に、なぜブレーキがかかるのだろう‥‥‥
「‥‥わたしは‥‥‥」
詩織は、すっと表情を落として顔をうつむかせたあと、
何かを振り払うように小さく首を振って、ニッコリと微笑んだ。
「‥‥‥別に冗談なんかじゃなかったんだけどな」
冗談っぽく言ったつもりかもしれないその微笑みが、なぜか痛々しく感じる。
「詩織‥‥‥」
そんな微笑みを見ていると、いてもたってもいられなくて、立ち上がった。
座っている詩織の所まで行って、肩に手を置いて、
「俺もホントは‥‥」
そう言った時、詩織がそっと俺の手に手を重ねてから、小さく首を振った。横に。
「わかってるから‥‥‥」
小さな囁きは、静かな部屋に吸い取られそうなほど細い。
身体を小さくひねって、座ったまま俺を見上げている。
その表情に、昼間のあの時の表情が、俺の頭の中で重なった。
言葉が要らない表情に。
答えるのに、当然言葉はいらない。
身を屈めて、昼間より素早く、昼間より大胆に詩織の唇を盗んだ。
この瞬間、いつ親父さんやおふくろさんが入ってくるかもしれないという不安は心の隅にあったが、やわらかい感触と温もりにかき消された。
微かに感じる、柔らかい匂いに鼓動を早める暇もない。
長いような一瞬が過ぎて、俺はそっと唇を離した。
「ごめん‥‥今はこれだけだけど‥‥‥」
唇の余韻がまだ残っている。
昼間の時とは違う、ほんのり暖かかった感触は、思い出すだけでいつでも夢を見ていられる気分になれそうだ。
「ううん‥‥‥いいの」
今まで触れ合っていた目の前の唇の両端がツッとつり上がって、微笑みの形に変わった。
昔見た微笑みとはどこか違う風に感じる。
そう感じるのは、俺が変わったからか。それとも詩織が変わったのか‥‥‥
あるいは「俺達」が変わったからなのか‥‥‥
「これからも‥‥‥一緒に居られる?」
ふと詩織が答えを求めるように俺を見つめた。
不安そうな響きの声に、俺は詩織の肩に置いた手に力を入れた。
「居られるよ。ずっと」
「ほんとに?」
俺は無言でうなずいた。
「男だって、あの伝説信じていいんだよね」
「うん‥‥‥だって、一人じゃ伝説にならないでしょ」
おかしそうに笑って目を細めている。
「‥‥‥‥好きだよ」
その笑みにつられてか、自然に言葉が出た。
言っても言っても尽きない言葉。
一番曖昧で、一番確かな言葉‥‥‥
「わたしも‥‥‥好き」
言ってから、可笑しくなって笑った。笑い合えた。
ほんの一週間以上前は言えなかった言葉を、今自分が言える事が可笑しくあったし、不思議でもあった。
「‥‥‥それじゃ、もうそろそろ寝よっか」
俺が肩から手を離した時、詩織が、
「あ‥‥ねえ見て。雪‥‥‥やんでる」
と、窓の外を見ながら、どこか楽しそうに言った。
確かに、窓の外を見るとあれだけ激しく降っていた雪はもう降ってない。
立ち上がった詩織がゆっくりと窓を開けると、冷たい空気が部屋にスッと入ってくる。
氷のような空気。でも、吸い込むと身体の中が綺麗になりそうなほど澄んだ空気。
真っ暗な中でも、積もった雪が旅館の窓から出る光で、微かに白く輝いているように見える。
無言で着ていた半纏を脱いで、後ろからそっと詩織の背中にかけると詩織も無言で、俺の腕に腕を巻き付かせてきた。
こんな時、何かを言っても、窓から入ってくる冷たい空気に凍らされてしまうような気がした。
腕から伝わる暖かさが、会話の代わりかもしれない。
しばらく外を見ながら、無言の会話を続けていた。
何も話さない。
何も聞かない。
何も考えない。
それでも、なんでこんなに安らげるのだろう?
それに‥‥‥この温もりを感じていられるなら、何も恐い物がない気さえする。
「冷えてくるから、もういい?」
俺が言うと、小さく頷いた。
窓を締めても、部屋には冷たい空気が残っていたが、寒さは感じない。
一人ではないから。
「すっごく寒かったね」
「そう? 俺はあったかかったけど」
笑いながら繋がっている腕を見た。
暖かさを伝えてくれる腕を。
「もうっ‥‥意地悪。わたしだって‥‥‥」
「いてっ」
腕をつねられた。
つねられるというのも、なんか照れくさい物がある。
「はは‥‥ごめんごめん。それよか、ほんと部屋冷ちゃったなぁ」
元々そんなに部屋は暖かくはなかったが、窓を開けてたせいでかなり冷え込んだ。
雪国の寒さだけあって、半端じゃない。
でも、寒くなればなるほど、腕から伝わる暖かさが一層暖かく感じる。
寒い季節の特権なのかもしれない。
「身体冷えないうちに、もう布団に入りましょうよ」
「そうするか‥‥‥」
並べてある布団のどちら側に寝ようかと考えながら、窓を背にした。
(8)
「ねえ、もう寝ちゃった?」
離れた布団にそれぞれ入ってから、どれくらい時が経ったか分からない。
そんな時、暗闇に詩織の声が小さく響いた。
「‥‥‥まだ寝てないよ」
横で詩織が寝ていると思うだけで、どうにも寝付けなくて、ずっと目を開けて天井を見ていた所だった。
暗闇にも目が慣れ始めている。
「眠れないの?」
そういう声を聞くと、余計眠れなくなりそうだ。
「別にそういう訳じゃないけど‥‥‥」
詩織が居るから。なんて照れくさくて言えない。
「そう‥‥‥」
それから、数えた訳じゃないが三十秒くらい経っただろうか
「ねえ、手延ばしてみて」
ふと、暗闇に溶けてしまいそうな声で詩織が言った。
「手? 別にいいけど‥‥どこに?」
「わたしの方に」
言われた通りに布団から手を出して、詩織の方に手を延ばしたが、特になにも無い‥‥‥
と思った時、柔らかい物が手に触れてきた。
これは‥‥手だ。暖かくて柔らかい‥‥‥詩織の手。
そっと重なった手は、優しく包むように握ってきた。
「やっぱり届いた」
「‥‥‥もしかして、計った?」
やっぱり。という言葉さえなければ、偶然と感じていたかもしれない。
「わかっちゃった?」
楽しそうな声がする。
「ひょっとして、さっきジュース買って来てって頼んだのは‥‥‥」
そう訊くと、言葉の代わり握った手に力がこもって来る。
鼓動が高鳴ってきて、当分眠れなくなりそうな気がした。
それ以上に信じられないのが、今こうして近くで詩織が寝ているという事だった。
隣同士じゃなかったら。
幼なじみじゃなかったら。
同じ学校じゃなかったら。
そんな仮定を思い浮かべると、訳もなく不安になる時が、ここ一週間無かった訳じゃない。
でも、その日に会ったり声を聞いたりするだけでそんな馬鹿げた不安はすぐに消えていた。
今は‥‥‥この手が俺に実感を与えてくれる。
「明日は‥‥‥もうこうやって寝るのは無理ね‥‥」
ひとり言のようなその言葉に、ふと衝動的に「そっち‥‥行ってもいい?」と言いたくなるのを、この手を引いて身体ごと引き寄せたくなるのを抑えて、代わりに握る手に力を入れた。
「さ、もう寝よう」
「うん‥‥‥」
どちらからともなく、手を離した。
離れる瞬間までが長く感じる。
指先が離れても、感触は残った。
柔らかい感触と暖かさが‥‥‥
「ね‥‥‥羊、数えてあげようか?」
手を離してからしばらくした後、詩織がそっと囁くように言った。
どこか楽しそうな響きがある。
「‥‥じゃ、頼もうかな」
「うん」
小さく弾むような返事の後、俺は目を閉じた。
「羊が一匹‥‥羊が二匹‥‥羊が三匹‥‥‥」
ゆっくりと数える優しい声が、白い羊に変わって頭の中をゆっくり舞うように飛び跳ねては消えていく。
俺がかろうじて覚えていたのは、四十七匹までだった。
そういえば‥‥‥昔は、いつも五十三匹あたりで詩織は寝てたなぁ‥‥‥
そうぼんやりと考えながら、と四十八匹目の羊に眠りの世界へと連れていかれた。
揺すられた。
朦朧とした頭で、自分が揺れているのがわかる。
小さく。小さく。
肩のあたりに、小さく圧力を感じる。
身体の揺れはそこから起こっているようだ。
「‥‥‥きて‥‥起きて」
かえって眠くなりそうなくらい優しい声が、そう言ってるのがわかった。
だんだんハッキリと聞こえてくる。
同時に、目にだんだんと光を感じるようになった。
「う‥‥‥‥」
薄く目を開けると、最初に見えたのはやわらかい笑顔だった。
「詩織‥‥?」
「起きた? もう朝よ」
そう言ってニッコリと笑った。
朝起きて一番最初に見た笑顔が一番見たかった物だったが、信じられずに、それが夢だと思った。
目を開けたら、見慣れた天井が見えると思っていたから。
「ん‥‥‥あ‥‥なんでここに?」
そこまで言ってから、昨日の事を思い出した。
家族旅行。温泉。同じ部屋‥‥‥
「あ‥‥そっか」
「ふふっ‥‥‥おはよ」
その笑顔が、眠い身体に一日の始まりを注いでくれたような気がして、だんだん眠気が取れてきた。
「う‥‥ん、ああ、おはよう」
「ほんとに気持ちよさそうに寝てたね」
「ん‥‥なんだ見てたのか‥‥‥」
まだ眠いながらも、ずっと寝てる所を見られてたかと思うと妙に気恥ずかしくて、寝返りをうって背中を向けた。
「それより、もうそろそろ朝ご飯よ」
「そっか‥‥」
「実はね。さっき、おばさまが起こしに来てくれたの」
「えっ‥‥‥」
俺は母さん達がずっと寝ているものだと思っただけに、その言葉にびっくりした。
詩織の方に向き直る。
「母さん達‥‥‥もう起きてるの?」
「‥‥‥‥‥‥朝風呂に入ってたみたい」
苦笑という見本みたいな笑顔を浮かべている。
俺は言葉が無かった。
「でも、おじさまとお父さん、まだちょっと残ってるみたいで、部屋にぐたっとしてるみたいだけど‥‥」
「‥‥‥それが普通なのになぁ‥‥うーん」
女性は強し‥‥‥だな。
もう一度寝返りを打ってゴロゴロしていると、いつのまにか詩織が窓際でカーテンに手をかけている。
詩織が、シャッと勢い良く開けると、光が雪崩のように部屋に飛び込んできた。
その眩しさに、思わず目を細める。
異常なほどの光の量だ。寝起きにはまぶしすぎる。
「わぁ‥‥‥すごくいい天気よ」
開けたカーテンに手をかけたまま、詩織がそう呟く。
「ねえ、見て見て」
楽しそうにはしゃぎながら、振り向いた。
「う〜ん、いいよ」
もうとっくに眠気はなかったが、なんとなくまだ起きる気になれなくて、布団を被った。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
布団を被ってから、何も言ってこないし、物音も聞こえない。
どうしたんだろう?
詩織が何をしていたのかは、次の瞬間にわかった。
「えいっ」
声とともに、いきなりヒンヤリした空気が、どっと身体を包み込んでくる。
あまりの冷たさに、体よりも先に気持ちが跳ね起きた。
「うわっ!」
何事かと見回すと、まず最初にわかったのが、掛け布団が俺の体の上から無くなっていた事だった。
その掛け布団を持ったまま悪戯っぽく笑っている詩織の笑顔を見るまでは、何がなんだか分からなかった。
「ふふっ‥‥‥ごめんなさい」
持っていた掛け布団の端で、口元を隠している。
きっと、その隠している口元に浮かんでいるのは、微笑みだろう。
「いきなりってのはやめてくれよ‥‥‥」
「だって、外見てくれないんだもん」
「わかったよ‥‥」
俺は苦笑しながら、起き上がった。
これがホント目を覚ましたばかりだったら、掛け布団を取り戻してカタツムリになる所だ。
「ほんとにごめんね」
申し訳なさそうにしながらも、微笑みを絶やしてはいない。
別に怒る気もない。いつでも俺が望むのはその微笑みなのだから。
「いいって。それよか外がどうしたの?」
「あ、そうそう」
そう言って、窓際まで先に駆け寄って、俺を手招きした。
なんか、昨日の事で、すっかり吹っ切れたような気がする。
今は、もう信じられる。詩織の事が。
変な迷いもない。
窓際に立った俺は、一瞬言葉を失った。
異常なくらいの陽の光の明るさの理由もわかった。
「ね、すごいでしょ?」
「‥‥‥ああ」
一面の銀世界。
そう言えばいいいのだろうか。
山も木々達も、すべてが白い。
不思議な世界。
そのどれもが、太陽の光を跳ね返している。
跳ね返った光は、突き抜けるような青空へ帰っていくのだろうか。
「こんな綺麗な風景があるなんて‥‥‥信じられないね」
詩織が窓の外を見ながら、俺の方を見ずに囁くように言った。
俺は、ずっと前から自然にそうしていたかのように、肩に手を置いた。
言葉よりも、行動の方が語る時もある。
今がそうだと俺は思う。
詩織の肩を抱いたまま、しばらく、朝の光にまぶしく輝く風景を見ていた。
ここに春が来る頃、俺達はすでに新しい生活を始めている頃だろう。
不安?
それは無くなりはしない。
詩織の事だけじゃなく、色々な事で。
でも、そんな時に、いつでも詩織が居てくれれば‥‥
俺は、肩を抱いた手に、少し力を入れた。
「さってと、そろそろ行こうか」
「そうね‥‥‥」
行き先は朝食のある場所。それもある。
でも、本当の行き先は、いつでも明日。
「今日、どうしようか。雪積もっちゃって、あまり遠くには行けそうもないし」
「いいじゃない。ゆっくりしましょうよ。その為にここに来たんだから‥‥‥」
「それもそうだ。時間は一杯あるしね」
ただ言葉も少なく一緒に過ごす時間。
同じ場所に居て、同じ事を感じれる時間。
ここに居る事がそうなのかもしれない。
そう思うと、今日一日。
時計の針ものんびりまわるような気がした。
後書き
きらめき高校卒業 −AFTER−
で、合同家族旅行で温泉に行く話です。
お互いの気持ちを確認した今でも、まだ恋人同士になりきれていない主人公と詩織のほんのちょっとのぎこちなさが表現出来れば‥‥と思いつつ書きました。
告白したからって、次の日から、好き勝手やっていいという訳でもないですよね。
告白はある意味で、お互いの気持ちの確認って事で‥‥‥
まあきっかけの一種でしょうか。
「まだ二人は始まったばかり。だけど、この気持ち変わらない永遠に」
夢のような言葉ですが、こういう事を信じようとする気持ちだけは永遠かな。とか思ったり。
なんていうか、人の心を信じられるっていいですね。
なんか最近、こう意味もなく切なくなったり、ブルーになったりホワ〜っとしたり、なんか不安定なんですよ。>自分(^^;
いまも不調には変わりなくて、でも以前のを読んだらこれのどこが不調じゃないんだ? という事になって、それならば‥‥という事で、暴走の原点に帰ってみました。
回りの方々に「あいつ暴走しちゃってるよ」と言わせてこそ暴走だ・・・・・と(笑
よくよく考えてみたら、初期のころはそうやって暴走していたからあまり気にならないでサクサクっと書けていたのかもしれません。
ずいぶん悩みました。ええ(^^;
なんかふっきれたような気がする。
これは、「小説」なんていう物じゃなくて、単なるイカレタ奴が書いた「文章」だ‥‥‥という事を自覚したら、楽になりました(^^;ぉ
もしかしたらヌルい話‥‥と思われているかもしれません。
それでも、そのヌルさがどうにも心地よくて‥‥‥
一人で暴走して始めて、一人で悩んで、一人で解決して‥‥‥
なんか馬鹿度89%って感じですね。
でも、レスとかくれた方々が居なかったら、どうなってたかわかりません。
目一杯の感謝をこめて「ありがとう」です。
どうでもいいはなし
見ている方は知っていらっしゃると思いますが私の文章には、タイトルはありません。段落の改行もちゃんとしてません。
ある日の一部を切り取って書いた物だけに、タイトルが浮かばないというのも正直な所ですが、タイトルをつけると、どうにも物語‥‥‥という感じがしてつくられた感じになっちゃうのがつらいんです。
段落は、文章的に一行開けて書いているし、まあ左は全角のスペースを一個入れてそろえを良くしよう‥‥と、まあそれだけの理由なんですね(^^;
段落とか文字数とかに制限されちゃうと、思うように暴走できないというのが本当のところです(笑
主人公の名前も半角の「…」なんですね。
ゲーム中では、しっかり自分の名前が入ってますが、やっぱり主人公が勝手に喋ったり思ったりする文章の中だと名前はかなり大きな意味を持ってきてしまうので、入れるような事はこれからもしないです、たぶん。
あとは、これから「あの時の詩」の(下)巻とかつくるときに描く予定の絵やマンガにも、主人公の姿をほとんど出さないで一人称マンガみたいなのにする予定‥‥‥(^^;
とりあえず作って、(上)(中)の反応あった人に無料配布ってことで(^^
まあ、あれ自体が総集編みたいなモンなので、いままでのいつものアレに反応とかしてくれた方にも‥‥と考えてます。って、私信的になってしまいました(^^;;;)
ゲーム中に使われているような表現を使う事がありますが、そーいうのを入れないと、ときメモとは関係無いまるっきり別のストーリーになりそうだったんで入れました(^^;
「あ、あの時に使われてたセリフだなニヤリ」とかまあそんな風にしようとかいうつもりは無いんですが、そーいう風に感じてくれれば、ゲームを基にした文章だったんだなという事を意識してくれている事になるので、それは成功かな。って(^^;
なんにしても、なんだかんだでもう40作目ですね。
途中、ちょっと欠番とかあるんですが、一応管理上40は越えそうです。
目標100作(^^;
(誰もついてこないって?(^^; そうかもしれない)
当初、この暴走文章って、1本あたり3〜4時間で書いていたのに、今じゃ一本あたり3日くらいかかってるし・・・大丈夫かな。
最近じゃ、一ヶ月単位だし。
作品情報
作者名 | じんざ |
---|---|
タイトル | あの時の詩 |
サブタイトル | 25:温泉旅行 |
タグ | ときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織 |
感想投稿数 | 282 |
感想投稿最終日時 | 2019年04月09日 08時53分22秒 |
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- [★★★★★★] え〜?いきなり(汗)・・・かと思ったら、こう言うお話っだったんですね。とっても良かったです(^^♪ このじれったさが「ときメモらしさ」満点で。 やっぱりこうでなくっちゃ!と思ってしまったのは、私だけでは無いと思いますが、如何でしょうか?
- [★★★★★★] いつも手が届く所に居たのに、こうなるまで随分遠回りをしたような気もする