(1)

夜というのは、どうにも不思議な時間だという気がしてならない。
昼間とは違う色。違う温度。違う音。
夜はそんな、いつもと違う時間。


土曜。
午後九時半。

夏の名残は、空気には残っていた。
高校最後の夏が、まだしつこく残っているのか、閉め切った部屋の空気は、夜になっても蒸し暑いままだ。
そんな空気を追い出そうと、カーテンを開けて窓に手をかけた時、詩織の部屋に人影が見えた。
俺はハっと思って、急いで窓を開けると、その人影が詩織であることがわかった。
ずっと見てきたシルエットだ。間違えようもない。

「お〜い、詩織!」
声の調子を落として、そう呼びかけると、向こうも呼びかけるまでもなく気づいていたのか、「どうしたの?」という返事が返ってきた。
小さくても、よく通る声が耳をくすぐる。
ふと、自分がなぜ詩織に呼びかけたのか、その理由を探さないといけないことに気づいた。
思わず呼びかけてしまったが、理由も何もない。
「ねえ………ちょっと外出ない?」
俺が考えるよりも先に、詩織がさっきよりも小さな声で俺に呼びかけてきた。
夜でなかったら、聞こえなかったかもしれない。
そんな、小さな小さな声だった。
つられて、俺まで声を落とした。
「今?」
「あ、うん……ちょっとコンビニに行こうかと思って。一緒に行かない?」
「おっけ。別にいいよ」
「そう、良かった。それじゃ下で待ってるから……」
「ああ、すぐ行くよ」

俺が玄関を出た時には、すでに門の前で詩織は待っていた。
白い長袖の薄いシャツに、涼しい色のスカート。
髪は、首の後ろあたりで大きめの布で結んでいる。
ヘアバンドをしていない詩織を見れるのも、こんな時間だからだろうか。
少なくとも、学校ではヘアバンドをしていない姿は、水泳の時以外は見た事がない。
それよりなによりも、微笑みで待っていてくれた事が一番嬉しかった。
夜の闇の中でも、輝いて見える微笑み。
俺がこの笑顔を好きでなかったら、こんなに輝いては見えなかったかもしれない。

小さい頃に見た微笑み。
同じ物のような気もするし、違うような物の気がする。
それでも、どちらもずっと大切に思ってきた事だけは変わらない。

「お待たせ」
「ううん。わたしも今来たところだから」
「外出れば少しは涼しいかと思ってたけど、まだちょっと暑いなぁ」
「そうね。今年の夏は特に暑かったから、まだ影響残ってるのね。きっと」
「でもさ、その方がなんとなく……」

俺は、そこで言葉を止めた。
この夏にあったいろんな事が、頭の中に浮かんでは消えて、そのせいで口の方まで気が回らなかった。といえば、聞こえはいいかもしれない。
実際は、じっと俺の方を見て、まるで俺の言葉のひとつひとつを聞き逃さないようにしている姿に、言葉を忘れてしまったのが正直な所だ。

なんとなく……まだ夏だったような気がして……
その夏が、今年は詩織と強く結び付いていて……

「どうしたの?」
俺が言葉を止めたの事に対して、不思議そうな表情で、それでも笑みを絶やさずに訊いてきた。
微笑みを向けられていると思っただけで、胸を押えたくなるほどだ。
心臓が飛び出てくるのではないかという思いに駆られて。
もし、小さい頃からこんな風だったら、俺の心臓はとっくに過労でまいっていたかもしれない。
「あ、いや、別に……まだ夏だなぁって……そう思っただけだよ」
「うん……わたしもそう思う」
苦し紛れの言葉の続きに、詩織は優しく同意してくれた。
その優しさが、たまにどうしようもなく辛い事がある。
心底それを向けてくれる相手が、もし俺でなかったら……
まあ、少なくとも、今はこの笑顔は俺だけの物なのだろう。
「あ……と、こんなとこで話しててもしょうがないから、歩きながら話そうよ」
沸き上がって来たちょっとした不安を振り払うようにして、詩織を促した。
「そうよね。それじゃ行きましょうか」
まだ暑い空気の中、俺達は夜の暗闇に向かって歩き出した。
暗い世界も、一緒ならば恐れる必要も、寂しい思いをする必要もない。
詩織が隣に居る今、そんな風に思えた。


「ありがとう」
ふいに、詩織が声をかけてきた。
「え? なんで?」
「だって、一人で外出るには、ちょっと遅い時間だったから……」
「あ、そうか。そういう事か」
「でも……ごめんね。つき合わせちゃって」
申し訳なさそうな感じはするものの、どこか楽しそうな響きがある。
どんな表情をしているのかを見ようと、詩織の方を向くと、やはり迎えてくれたのは笑顔だった。
「いいって。家ん中に居ても暑いだけだし」
それに………一緒に夜の散歩が出来たし。と、頭の中だけで続ける。
口に出したら、詩織は困るだろうか。
それとも………
「そう……良かった」
「でもさ、さっきも言ったけど、ほんと涼しくないよなぁ」
「そうよね。
 でも、部屋の中の空気よりは全然いいって気がしない?
 わたしは……夜の外の空気って、結構好き」
言い終わってから、両手を軽く広げて、空気の匂いでも感じているかのように気持ち良さそうに目を細めながら、息を吸っている。
俺もつられて、いつもの呼吸よりも少し多めに息を吸った。
確かに、昼間感じなかった匂いや温度が、空気にしっかり混ざっている。
まだ湿気を含んだ暑い空気は、土の匂い。木々の匂いがあった。
少しだけ、微かに感じる甘い匂いは、詩織の方から来ているのだろうか。
いや、それは単なる錯覚かもしれないな。
「夜って、一人だと寂しいけど、誰かと一緒だと楽しいね」
「俺でも?」
「うん」
それが当然とでも言うふうに、優しい笑顔が浮かんだ。
さりげなく聞いてみた事に、その答えは嬉しかったが、たぶん俺でなくても、この笑顔は向けられるのかもしれない。
そんな優しい詩織だから、俺は惹かれたのかもしれない。
………出来れば、とっておきの笑顔は俺の為だけに存って欲しい。
それを伝えられないもどかしさが、胸の中だけで、出口を探して渦巻く。
こんなもやもやとした気持ちのままでいるなら、いっそ言ってしまえればいい。
そう思う事は何度となくあった。
今もそうだ。
「それに明日は日曜日でしょ。なんかこう……楽しくなっちゃうね」
「確かに。こればっかりは小学生の時からずっと変わんないな」
思いを伝えようと準備していた心が、あっという間にどこかへ消えた。
いつもそうだ。
「そういえば……ほら、土曜の夜っていえば、小さい時……」
思い出すのが楽しくてしょうがないという風に、それとも、わざとじらすようにしているのか、夜の中でも、少し悪戯っぽい笑みを浮かべているが分かった。
「なんかあったっけ?」
「…、わたしのうちに泊りに来た事あったよね」
「あ、ああ。そういえば」
夕方から遊びに行って、結局ご飯をごちそうになった後に、そのまま居着いて結局泊りになった事が、頭に浮かんできた。
初めて詩織に会ってから、一年くらい経った頃だ。言われなければ、一生思い出さなかったかもしれない。
「一緒にご飯食べて、一緒にTV見て……すごく楽しかったね」
「でもさ、確かこの時間にはとっくに寝てたよね。
 夜更かしするぞって言ってたのに気が付いたらお互い目がトロンってしててさ」
「ふふふっ、そうよね」
「思い出してみると、あの時はホント子供だったよなぁ」
「そうね……でも、今じゃもうこーんなに大きくなっちゃって」
詩織が、俺の頭の高さまで手を上げた。
俺は、逆に自分の腰くらいの所に手を持ってきて、
「あたりまえだって。まだこんな小さかったら、今頃家で熟睡してる頃だよ」
俺も笑って答える。
「あら。でもそうなったら弟出来たみたいで、楽しいかも」
可笑しそうに笑って、財布を持った手で口元を押えた。
「じゃ、今日のコンビニの買い物は詩織姉ちゃんのおごりだな」
「ふふっ……お姉ちゃんにまかせなさい」
その声につられて、俺も笑った。
もう、今まで、何度そうやって笑ったかわからない。
でも、どうしようもなく胸が暖かくなるのだけは、いつも変わらなかった。
「そういえばさ……あの頃どんな事話してたっけ? 詩織覚えてる?」
「細かいとこまでは覚えてないけど……楽しかった事だけは覚えてる」
「やっぱそうか」
俺は、まあ当然という感じで、軽いため息交じりの軽い言葉を言った。笑いながらだ。
その俺の言葉に、意外なほどの口調の言葉が帰ってきた。
今にも消え入りそうな声。
「……ごめんね」
「え?」
「せっかくの思い出なのに……覚えてないなんて」
驚いて詩織を見ると、どこか淋しそうな微笑みが俺を待っていた。
口の端が微かにでも上がっていなければ、目から涙がこぼれても不思議がなさそうな気さえする。
その表情に、心臓が雑巾のように絞られたように、鈍く痛んだ。
「ちょ、ちょっと……何も謝らなくても……俺、そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「………」
「俺の方なんか、ほとんど覚えてなかったんだから。
 詩織が謝るくらいだったら、俺なんか土下座もんだよ。だから……」
淋しそうな表情をされるとは、これっぽっちも思ってなかっただけに、頭の中が混乱して、なにを言っているのかさえわからない。
「でも……」
「でももヘチマもないって」
「うん……ありがとう」
「だから、なんでお礼なんか……いいって言ってるのに」
そう言いながらも、精一杯笑う事しか出来なかったが、それでいいのかもしれない。
なにしろ、詩織の表情も、さっきまでの淋しそうな表情が嘘のように明るさを取り戻しているのだから。
「でも……どうしてヘチマなの?」
可笑しそうに笑ってくれただけでも、慌てた甲斐があるってものだ。
「さ、さあ、なんとなく勢いで……」
「そうなの………うふふ」
笑いあってから、少しだけ沈黙があった。
別に何が気まずいという事もない。
ただ、歩く靴の音だけが、やけに夜の街に響く。
それはそれで、俺には十分だった。なにしろ足音は二人分だ。
横を見れば、一番一緒に居たいと思う人が居る。
それ以外、何を望めばいいのだろう。
少し無言で歩いていると、すぐにコンビニの明かりが見えてきた。

ジュースとおにぎりと………

俺は夜食用にと、適当な物をみつくろってはカゴのなかに入れた。
おっと、メモリアルスポットの新刊も今日発売か。
ふと外を見ると、コンビニの中の不自然なまでの明るさが、窓から見える「夜」を一層引き立てているように見える。
しかし、まあ……夜のコンビニというのもいい物だな。
ひととおり済んだ俺は、まだ何かを選んでいる詩織の所まで行くと、片手にジュースやポテトチップスや雑誌を持っていた。
「俺のカゴん中入れてもいいよ。まとめて払っておくから」
「え……悪いわ」
「いいって、その方が楽なんだからさ」
「そう……それじゃ、お願いしていい?」
「ああ、いいよ」
そう言うと、詩織は、持っていた物をカゴの中にそっと入れた。
やっぱり、「わりぃな、これも頼むよ」と言って、ドサドサと入れてくる好雄とは訳が違う。
もっとも、その場合は、俺が好雄の分の菓子まで手を出すから、高くつく。
「他に何か買うものは?」
「えっとね……」
カゴの中をしばらく見た後、思い付いたように顔をあげて俺を見つめてきた。
「ん? なに? どしたの」
「あ……ううん。なんでもない」
少し照れた風に笑ってから、ふいにくるりと背中を向けて、おにぎりが置いてある棚の方へとスタスタと歩いていって、しばらく何事か選んだ後、おにぎりとジュースを二個ほど持ってきてカゴの中に入れた。
「もうこれでわたしの買い物は終わりよ」
「なに、おにぎり二つも食べるの?」
「え? 別にそんなんじゃ……」
見るまに頬が赤くなっていくのがわかる。
「別にいいけどさ。
 んじゃ、レジ行ってくるから、ちょっと待ってて」
自分でも意地悪な笑いを浮かべているのが分かるくらい、口の端が釣りあがっている気がする。
「もう、知らないっ」
俺のその笑いを見てか、恥ずかしそうにそっぽを向いて、さっと出入口の方へ向かって歩いていってしまった。
ちょっと悪ノリしすぎたかな。
ま、いいか。
俺はさっさとレジを済ませて、詩織が待っている外へ向かった。


「お待たせ」
「………」
俺が声をかけても、後ろを向いたまま、何の反応もなしだ。
「何? 怒ってるの?」
「別に。怒ってなんかないわ」
そう言って、クルリと振り返った。
声だけは、少し怒っているふうに聞こえる。
表情は………
「はは、わかったよ。それじゃ行こうか」
俺は、笑いながら言ってから、すっと詩織の横を通り過ぎて歩き出した。
怒っているか怒っていないか、すぐにわかった。
もし頬をつつく事を許してくれれば、つついてみたい。
そんな風に思えるほどの、ちょっとふくれた頬だった。
相変わらず怒る「フリ」は下手だ。
それがわかっているから先に行った。
そういえば、詩織が怒るフリをするようになったのはいつからだったかな……と、ふと思う。
でも、なぜかハッキリとは思い出せない。
ま、思い出せないのは、それはそれでずっと一緒だったいう事か。
「もうっ……」
少し悔しそうな声が背後からして、さっきまで聞いていた足音が近づいて来た。
本当に怒ってない場合に、今まで何度もあった事だ。
それを思い出したら可笑しくなって、口元だけをちょっとあげて笑ってしまった。

「いくらだったの?」
「はい、レシート」
何事もなかったように、並んで夜道を歩きながら、詩織にレシートを渡した。
しばらくそのレシートを歩きながら見て、
「うん、わかったわ。それじゃ、後で払うね」
と、何事もなかったように、小さく微笑んだ。
怒る「フリ」が上手くないだけはある。
心底の笑顔上手には、フリなんか似合うはずがない。
似合わないが、見ていて楽しくはあった。フリの役目なんて、そんなものだと思う。
「どうしたの? なに笑ってるの?」
そう言われて、自分が笑っている事に気づいた。
「あ……え?」
「なんか、楽しそうに笑ってるから……どうしたのかなって」
興味深そうに、俺をじっと見つめている。
「あ、いや。なんでもないよ」
「うそ。何か隠してるんでしょ?」
「考えすぎだって。何も隠してないよ」
笑ってみせた。隠しているというか、正直に言わないのは確かだ。
「ほら、その顔。昔から隠し事があると、そうやって笑ってたもの。
 ほんと、ごまかすのが下手なんだから……ふふっ」
おかしそうに笑うその姿に、今日一番に胸が高鳴った。
誤魔化し笑いだったのは確かだけど、それを誤魔化し笑いだと気づいてくれた事に、心臓が反応したのかもしれない。
もしかして、ずっと見ていてくれていた……?
それならば、本当の隠し事には、いつか気づいてくれるだろうか……
「それを言ったら、詩織だって……」
しまった。思わず口が。
「なぁに? やっぱりなんかあるのね」
いたずらっぽい微笑みを浮かべながら、目を細めている。
「ないない。なんでもないよ」
俺は今度は誤魔化しをしないで、その代わり少し駆け足で走りだした。
なんでかわからないが、笑いだけが浮かぶ。
「あ、逃げるなんてずるい。待って」
どこか楽しそうな声が、軽やかな足音と一緒に追いかけてきた。
追いかけられる事がくすぐったく思ったのは、初めてかもしれない。

(2)

俺は息を飲んだ。
軽く心臓がトクトクと波打っている。
詩織が、軽く息を弾ませながら、
「疲れちゃったね」
そう言いつつ、胸に手を当てている。
しばらくそのまま呼吸を整えるように、深い呼吸をした後に、落ち着いたのか気持ちよさそうな笑顔を浮かべた。
「ごめんごめん、追っかけてくるから、つい走っちゃったよ」
「先に走ったのは…の方じゃない」
「そういえばそうだっけ」
ようやく呼吸が収まってきたせいもあってか、薄闇の中、顔を見合わせて笑った。
小学校の頃は、こうやって走り回っていた時の方が多かったっけ。
その頃に戻れたような気がして、楽しささえ感じた。
どうしようもなく血が騒ぐというか、何かせずには居られないような気分だ。
もしかしたら、今、ずっと言えなかった事を詩織に言えるかもしれない。
そんな気分にさえさせてくれる。
「ねえ、今日帰ってから、なにかすることある?」
「え、え? いや、別に……何もないけど」
高揚していた気持ちが、一気に混乱へと変わった。
俺にとって、詩織の声は魔法みたいな物なのかもしれない。
「それなら……ちょっと公園に寄っていかない?」
詩織が指さした先には、遊びなれた公園の水銀灯の明かりが見える。
「いいよ。俺もこのまま帰ったら、なんか物足りないって感じだったからさ」
「ほんと? 良かった……」
嬉しそうな表情。嬉しそうな声。
その表情の本当の意味を教えて欲しい。いつでもそう思う。
素っけ無い言葉は、俺を落ち込ませて、今みたいな嬉しそうな言葉は俺に期待を持たせる。
どの言葉を信じていいか、教えてくれる人は………今目の前に居るものの、聞いてしまえる勇気はなかった。
「それじゃ、早く行きましょ」
「ああ」
今度は、詩織が先に駆け出した。


始めはブランコだった。
「そぉれ」
楽しそうな声が、前後に揺れる。
鉄と鉄がこすれあう音が、夜の闇に小さいながらも確実に響いた。
学校で詩織を知っているやつらが見たら、どう思うだろう。
夜中に公園で楽しそうにブランコを漕ぐ姿。
俺以外のやつらが見たら、なんて言うだろう。
俺は知っている。小さい頃、同じようにしていた詩織を。
だから、楽しいと思うことはあっても、驚くという事はなかった。
むしろ、そんな姿を見れる喜びさえある。
「あんまり無茶するなって。子供用なんだから」
「大丈夫よ。小さい時、お父さんも一緒に漕いだ事あるもの」
「そうか。それなら安心だ」
俺は、勢いをつけて濃いだ。

次はジャングルジムだった。
「ねえ、覚えてる?」
ジャングルジムの一番上に二人で腰掛けている時に、詩織がふとつぶやいた。
「なに?」
「わたしがこの上に登って降りられなくなっちゃった事あったでしょ」
「あ、そういえば」
「そしたら、…、一生懸命助けてくれたよね」
「あ、うん……まあね」
必死だった事だけは覚えていた。
あの頃の俺。今の俺よりずっと強いな。
「あの頃、ここから下見るとすっごく高いって思ったけど、今見るとそんなでもないね」
「そりゃ、俺達も大きくなったしね」
「うん……そうだけど……でも、あの頃が一番楽しかった」
溶けていきそうな言葉だった。
「じゃ、今あんまり楽しく……ない?」
その言葉に、びっくりしたのか、驚いた風に目を丸めて俺の方を見つめてきた。
「ううん。そうじゃないの。
 今だって、学校じゃ沢山お友達も居るし、やりたい事も沢山あるし、すっごく楽しい」
そこまで言ってから、一息ついて
「でも……」
「でも……なに?」
「あの頃って、すっごく自由だったなぁ……って。
 だから、すごく楽しかったってそういう意味なの」
「なるほどね。確かにそうだったよ」
「それに、あの頃はいっつも……」
そう言って、静かに目を伏せた。
まぶたの裏にだけある物を、見たくなったかのように。
「いっつも?」
その問いには、首が小さく横に振られただけで、答えはなかった。
口元が微笑んでいるなら、別にいいか。
ふと目を開けた詩織が、しばらくしてから、独り言のように呟いた。
「ここから見る風景って……全然変わってないね」
淀んだ暑い空気が、少し流れたような気がした。

三番目はシーソーだった。
「おお、俺が上がっちゃうよ。詩織の方が重たいのか」
「嘘。なにその足」
「ああ、バレたか」
持ち上げていた脚を地面から離すと、一気に俺の方が下がる。
寸前で足を地面につけてショックを和らげた。
「やっぱり、…の方が全然重たいね」
またがずに、横座りに腰掛けている詩織が、安心した風な口調で言った。
「今、安心してなかった?」
「し、してないわ」
昼間だったら、顔を赤らめていたのが見れたかもしれない。
「それにしても、体重差がありすぎると、こりゃどうしようもないなぁ」
「小さい時は、だいたい一緒だったのにね」
「背くらべした時なんか、俺の方が小さかったくらいだし……」
チラリと、背比べの傷跡が残る木の方を見た。
「いつのまにか、…だけ大きくなって……」
今、寂しそうな感じに聞こえたのは気のせいだろうか?
「詩織だって大きくなったじゃないか」
「うん……でも、…の方がもっと大きいでしょ?」
「そりゃ……ね。男だから」
「そうよね。…は男の子だもんね」
「でも……男で良かったと思うよ」
「どうして?」
「男だから………その……」
勢いでさりげなく言おうと思っていた事が、やっぱり言えなかった事がどうしようもなく悔しかった。
「ま、いいじゃないか。男だから……その、色々楽しい事もあるしさ」
苦しい誤魔化しだな。と自分でも思う。
足で、また自分を少しだけ持ち上げた。
「もし……わたしが男だったら、…と友達になれてたかな?」
「え?!」
突拍子もない質問に、俺は耳を疑った。
「いや、そりゃ困るって」
「え? どうして?」
「どうしてって………そりゃ……」
俺が男だから、女の詩織が好き。という単純な事じゃないが、こんな思い悩めるのも詩織が女だからかもしれない。
「男は色々大変なんだよ」
「色々楽しい事もあるんでしょ?」
「ま、まあ、色々あるって事だよ。
 それより、詩織はどうなの? やっぱり女の子で良かった?」
「うん」
誤魔化し紛れの質問に、あまりにも呆気なく、すぐに答えてくれたおかげで、一瞬次の言葉に詰まってしまった。
「そっか……」
頭の中に、チラっとだけ、俺と同じ思いなのかな……と思い、すぐにその考えを振り払った。
思い過ごしだったら……という事を考えたからだ。そんな消極的すぎる自分で居る限り、絶対駄目だというのはわかってはいる。
「訳……聞いてくれないの?」
予想だにしてなかった言葉に、今日一番に心臓が跳ね上がった。
何も考える事すら出来ない。
ただ、水銀灯の光に照らされた詩織の姿だけが、目に写っている。
「聞いたら……教えてくれる?」
つい聞いてしまったが、正直、聞きたいような聞きたくないような、複雑な気分だった。
俺がこんなに混乱するほどの事じゃないかもしれないし、もしかしたらもう今までの時間を失ってしまうような事かもしれない。俺が一番望んでいる理由かもしれないという事は頭に無かった。
良い方向に考えられれば、こんな苦労なんかしていない。
「やっぱり内緒」
微笑む詩織を見て、肩の力が抜けた。
残念というより、安心が先立つ。
「そっか……そうだよな」
「わたしばっかり聞いちゃって、ごめんね」
「いいよ。それよか、俺、ちょっと立ち上がるから気をつけて」
「どうしたの?」
「体重調整」
俺は、支点側の方に少し座る位置をずらした。
「こんなもんかな? ちょっと力抜いてみて」
「うん」
詩織が足の力を抜くと、俺の方がゆっくりと下がってきて、水平になったところで
ピタリと止まった。いい加減にしては、うまくいったもんだ。
「すごい。ピッタリね」
「緻密な計算の結果のおかげだよ。だてに科学部じゃないぜ」
ニヤリと笑ってみせた。
「ホントはいい加減なんでしょ?」
可笑しそうに笑っている。
「いい加減じゃないよ。
 このシーソーの長さが二、五メートルで詩織の体重が五十六キロで……」
「やっぱりいい加減じゃない。わたしそんなに重くないもん」
体重を否定するあたりの口調が、慌てているのがわかる。
「じゃ何キロ?」
「ええとね……」
と言いかけてから、暴走しようとする口を止めるように、自分で手を当てている。
「もう。意地悪なんだから!」
「ちぇっ、惜しかったな」
俺は、笑いながら、足で地面を軽く蹴った。
詩織の方にゆっくりと傾く。
詩織も、すぐに地面を蹴った。
俺の方にゆっくりと傾く。
もっとお互いに近付ければ、気持ちもシーソーのように揺れずにすむだろうか……
さすがに、足を離して思いっきりやるには、このシーソーは小さすぎたが、懐かしい気持ちだけは、あの頃のままだった。

四つ目は滑り台だった。
「わたしスカートだから」と言った詩織は、下で待っている。
子供用なだけに、俺が滑るには狭すぎるが、それでもなんとか体を押し込めた。
しかし、あの頃のように滑るのは無理だろう。
「んじゃ行くよ」
手を離すと、ゆっくりと滑っていく。
下につくまでに当時の倍くらい時間がかかった。
「やっぱり子供用だったよ」
「こんなおっきな子供、いないものね」
水銀灯が後ろにあるから、今の詩織の表情が影になって良く見えないが、笑ってくれているのだろう。そんな口調だ。
立ち上がろうとした時、足がつかえて、バランスが崩れた。
大げさに倒れるほどの物じゃないが、何か支えがないと派手に体勢を立て直すハメになる。
「あっ」
俺と詩織、お互いが短い声を上げた。
抱きつかなかったのは、かろうじてそこまで体勢が崩れていなかったせいもある。
その代わり、詩織の両肩に手を置いてしまった。
そのままで固まった。
こんなに近くで詩織を見るのなんて、もう十年以上ぶりかもしれない。
高鳴るのを忘れていたのを思い出したように、鼓動が高鳴りだす。
肩に触れている手にも、心臓があるような気がするくらい。
触れている所から感じる詩織の体温が、余計鼓動に拍車をかけた。
詩織も、驚いた風に目を丸くしている。
「あ、え、えと……」
自分でも慌てているのがわかるのに、手が言うことを聞かなかった。
いや、もしかしたら手は凄く正直なのかもしれない。
ようやく、手の神経に主導権が戻ってきた。その瞬間に慌てて手を離す。
まだ温もりが手に残っている。染み込んで、当分取れそうもない。
「ご、ごめん……」
「う、ううん……別に……」
詩織もぎこちなさそうな声を出した。
俺が思っている以上に驚いたのかもしれない。
幼なじみとはいえ、男である俺に両肩を掴まれるとは思っていなかったのだろう。
「やっぱりさ……あれだよね。子供用で高校生が遊ぶっていうのは駄目だね」
何事もなかったように出した声が、うわずっていた。
情けない。
詩織は無反応で、振り返って俺に背中を見せてしまった。
そんなに驚かせてしまったのだろうか。
「詩織……ごめん。ほんと」
背中に話しかけると
「いいの……いいのよ。わたしの方こそ……」
か細い声だけが聞こえてきた。
俺の方は、どうにかして鼓動を抑えようと必死だった。
このまま続いたら、口走ってしまいそうだったからだ。
決定的な言葉を。
鼓動に任せるまま、言えたらどんなに楽だろう。
「あのっ……詩織……」
自分じゃない自分が喋っているような気がする。
「……なに?」
詩織は、まだ背中を見せたままだ。
「俺さ……あの……えっと」
さすがに声が出てこない。
今にも、口が滑って、一気に喋ってしまいそうだ。
その時、クルっと詩織が振り返った。
何も言わずに、ただこっちをじっと見ている。
「だから……その……」
もしも、詩織があのまま背中を向けたままだったら、言えたかもしれない。
ただ、今は俺をじっと見つめている瞳のせいで、どんどん気力が萎んでくるのが自分でもわかった。
情けない。
「……ごめん」
後でこの言葉を思い出したら、きっと暴れそうな気がする。
とりあえずは、言えなかった事の安心感だけが、胸に残った。それ以上に、後悔が胸の奥深くに溜まった。
「ううん。いいのよ」
消え入りそうな声。
残念そうに聞こえるのは、俺の気のせいだろうか。
気のせいだろうな。俺が何を言おうとしていたか、詩織には分かってはいないだろう。
「ねえ」
「えっ、なに?」
不意に言われて、うわずった返事を返してしまった。
「おにぎり、食べない?」
「え?」
「そのつもりで、さっき買ったの」
「あ、あれってそうだったんだ」
詩織は一つ頷くと、ベンチに置いてあるコンビニの袋の所まで行った。
俺もついていく。
「あ……と、その前に手を洗わなきゃ」
ビニールに手をかけた詩織が、思い出したように言った。
「…もね」
「えっ、俺も?」
「洗わないと、おにぎりあげないから」
「わかったよ。洗うよ洗う」
水道の所へ行って、蛇口をひねると、勢い良く水が出てきた。
冷たい水が心地いい。
水の冷たさに、詩織の肩に触れた時に残った温もりが、少し薄れたのは残念だ。
「この水道には随分世話になったっけ。
 転んで怪我した時なんか、良くこの水道で洗ったもんだよ」
「わたしは……そういうの無かったな」
俺が洗っているのを見ながら、水の音にかき消されてしまうような声で言った。
「当たり前だって。詩織は女の子だから」
「……でも、一緒になって、走り回ったりしてみたかったな……
 女の子だからって、いっつも野球とかサッカーには入れてもらえなかったし」
「仕方ないよ」
「そうよね……だから、女の子じゃなければなぁ……って、あの頃、ちょっとだけ思ってたの。
 そしたら、一緒に走ったりして遊べたんじゃないかって」
「そりゃそうだけど……」
洗い終わって、濡れた手をどうしようかとか思っていると、たまたま胸ポケットにハンカチが入っていた事を思い出して、手を入れた。
硬い物が手にあたる。
「あ、そっか」
俺は指先だけシャツでぬぐって、それをつまみだした。
「詩織の財布、ちょっと持ってて。ハンカチ出すから」
「うん」
公園で遊ぼうと決めた時、ポケットの無い服装の詩織に、財布を預かろうか?と言って預かった物だ。
詩織に財布を渡してから、ハンカチを取り出して手を拭いた。
「じゃまた預かろうか?」
「もう大丈夫よ。でも、手洗うからちょっといい?」
「いいよ」
俺はまた財布を受け取って、手を洗っている詩織を見ていた。
水銀灯の光が、水に小さく跳ね返り、そのなかで動く柔らかそうな手と指に思わず見とれた。
人の手を、こんなにまじまじと見たことはない。
ふと我に返ってから、目のやり場に困って、持っていた詩織の財布を見た。
落ち着いた色の、ボタンホールド式の皮の財布だ。重さは俺の財布とさほどかわらない。
学生の財布なんて、こんな物だろう。重い財布なんか持っている学生なんか見た事がない。
伊集院の財布は、きっともっと軽い事だろう。プラスチックのカードしか入っていないに違いない。
いや、あいつに財布なんか必要はなさそうだ。
しかし、女の子の……詩織の財布の中身というのも気になる。
キュっと蛇口を捻る音がして、水が流れる音が止まった。
「はい。ハンカチ」
持っていたハンカチをすぐに手渡した。
「ありがとう」
「なあ、詩織。財布の中身ってどんな物が入ってるの?」
「中身? 別に……お金とかちょっとしたカードとか……それだけよ」
手を拭いながら、不思議そうな表情をしている。
「開けていい?」
冗談まじりで言ったつもりだった。
「別にいいけど、恥ずかしいから……やっぱり……」
「冗談だよ。冗談。はい」
無言で受け取った詩織は、俺にハンカチを返してから、しばらく財布を見つめていたが、不意に財布を開いた。
「ほら。これ」
少し恥ずかしそうに、開いた財布を見せてくれた。
財布の中にある小さなチャックには、俺の見覚えがある物が、細い網紐に小さい鈴と一緒にくっついてぶら下がっていた。
夏の暑い日の事が、頭に浮かんでくる。
「それ……あの貝?」
そう訊くと、詩織はコクンと小さく頷いた。
海で拾った桜色の貝。最初に詩織にあげたやつだ。
もう一セットは、イヤリングに加工して詩織にプレゼントした。あの貝。
まさか、こんな風にして持っていてくれたとは思わなかった。
「紐緒さんに加工してもらったの。トンカチで叩いても割れないって言ってたわ」
「へぇ……」
そんな凄い加工にもかかわらず、あの貝の美しさだけは損ねてないあたりが、さすがとしか言い様がない。
「貝殻、こんな風にしちゃって悪いなぁって思ったんだけど……」
「いいよ。詩織にあげたんだから、どう使おうが自由だよ」
「そう言ってくれて良かった……」
実用にまでなっている。むしろ嬉しいくらいだ。
「あ、そうそう、それより早くおにぎり食べましょう」
閉じた財布をポンと挟むように手を打ち鳴らした。
「そっか。すっかり忘れてたよ」
家を出てからの間のはしゃいだツケを払えとばかりに、腹が鳴いた。

(3)

「夜に公園でおにぎり食う事になるとは思わなかったよ」
ベンチに座って、夜空を見上げると、僅かながら星が見えた。
「おにぎり、どっちがいい? 梅干しと鮭があるけど」
袋から取り出したおにぎりを差し出した。
「そうだな……詩織はどっち食べる?」
「先に選んでいいわよ」
「それじゃ、鮭貰おうかな」
「はい」
ニッコリと笑っておにぎりを差し出してくれた。
こうやっておにぎりを渡してもらうというのは、なんか照れくさいな。
「ジュースもあるわよ」
「お、さんきゅ。お金、あとで払うから」
そう言うと、詩織は口元をそっと隠した。口が見えなくても目が笑っている。
「さっき言ったでしょ。お姉ちゃんがおごってあげるって」
クスクスと笑う声も一緒に届く。
「いいってば」
おにぎりのビニールを剥きながら言うと、口元を隠していた手を下ろしながら
「いいの、お礼だから。
 夜にお買物つき合ってもらっちゃったし、それに……とっても楽しかったから」
気温とは違う暖かさを感じるような笑顔をした。
夜中の遊びにつき合ってくれた事に感謝したいのは、むしろこっちの方だし、土曜の夜がこんな楽しいのも久しぶりだ。
「それはこっちの言葉だよ」
「ほんとに?」
「ああ、なんか久しぶりに楽しかったよ」
「良かった……子供っぽいかな……なんて思われてたらどうしようかなって思ってたの」
こんな予想もつかない言葉を、何度聞いただろう。
こんな言葉に、何度心乱したかわからない。
ただ、今日は少し安心した。
「詩織も、子供っぽいところあるんだなぁ……」
「やっぱりそう思ってたの?」
「いや、そういう意味じゃなくってね。なんか……安心したっていうかさ……」
「安心?どうして?」
「どうして……って、そんなたいした事じゃないよ。ただそう思っただけ」
俺よりずっと先に、ずっと高い所に行ってしまったと思っていた。
そうじゃない事に気づいたような気がする。
「ずるい。教えて」
「気にすんなって。それよりおにぎり食べようよ」
「もう、すぐに誤魔化すんだから……」
俺が不安な表情さえしてなければ、詩織はいつでも笑ってくれた。
今もそうだ。
「んじゃ、ごちそうになるよ」
俺はおごってもらう事にした。それを口実で、次の約束が取れるかもしれない。
そしたら、今度おごるのは俺の番だな。
おにぎりをかじると、まだ新しい海苔がパリっと音を立てた。
同時に、缶ジュースを開ける音がする。
「はい、ジュース」
開けたジュースを俺に差し出してくれた。
「あ、さんきゅ」
何気なく手を出したが、開けて渡してくれた事で、内心ドキドキのしっぱなしだった。
俺はそれを受け取ってから、一口飲んで、一息ついた。
夜だと、それも野外だと、食べ物も飲物もひときわうまく感じるのはなぜだろう。
それに一人じゃないと、なぜこんなに楽しいのだろう。
分かりすぎるくらい分かった事を考えた。
もしこれが、手作りのおにぎりだったら、もっとうまいだろうな。
そう思いながら、しばらく黙々と食べたが、おにぎり一個程度じゃ、物の一分もかからない。
最後の一切れを口のなかに放りこんでから、少し噛んですぐに飲み込んだ。
ジュースも、喉越しが冷たくて気持ちよかったせいで、一気に飲み干した。
「ふぅ……うまかった」
「ええっ、もう食べちゃったの? 早いね」
詩織は、まだ三分の二程度しか食べていない。
「まあね、日頃早弁で鍛えてるから」
「それで、昼になるとまたパンとか買って食べてるでしょ」
「育ち盛りなんだ」
「ふふっ……中学生みたい」
そういえば、中学の頃も詩織はいつもこんな風に微笑んでいたっけ。
変わっていないな……
「でも、ほんとに腹減るんだよ」
「いろいろ……頑張ってるもの。おなかだって空くわよ」
「そうかもね」
空になった空き缶を指で軽くへこませた。
「昼休み、パンでいいの?」
「え? いや、だって弁当は早い時間に全部食っちゃうから、しょうがないよ」
さらに缶を指で潰して、パキパキと音を出した。
その間、詩織は何か考えているかのように黙っている。
チラっと見た横顔が、それを裏付けた。
こんな一瞬一瞬に、一体どんな事を考えているんだろうな……
「それじゃ……今度良かったら、お弁当作ってあげる」
「えっ、ホントに?」
驚いて、少し大きな声をあげてしまったが、詩織はそれに驚く事もなく、小さく頷いた。
今自分で頬をつねったら、おそらく痛くないかもしれない。
きっと、つねって貰っても同じだろう。
「いろいろおかず作る勉強してるから、まだ味の保証は出来ないけど……それでよかったら」
「ホントにいいの?」
「うん」
夜に目が慣れてきたせいで、水銀灯に照らされた詩織の顔に赤みがほんのりとさしているのがわかった。
夜でこうだ。昼間見たらもっと赤いかもしれない。
俺はそんな事を考えるよりも、弁当を作ってもらうという喜びに浸っていた。
弁当を作ってくれるなんて、もしかしたら……という、変な期待を抱くよりも、『作ってあげる』という言葉を頭の中で繰り返すので精一杯だ。
「その代わり……朝、絶対にいつもより早起きしてね」
「え? なんで」
「だって……学校で渡すの……恥ずかしいし」
そう言われてみれば、そうかもしれないな。
俺なんかに学校で弁当を渡したら、詩織がどんな事言われるかわかった物じゃない。
俺はどっちでも良かったが、少し残念なような気もする。
「それと……」
「まだなんかあるの?」
「必ずお昼に食べてね。その為のお弁当だから」
「あ……うん」
もったいなくて、早弁なんか出来ない。詩織もそれを望んではいないだろう。
「せっかくの弁当を早弁なんか出来ないよ。もったいない」
「そんな期待されるほどの出来じゃないから……」
「そんな事ないって」
「……うん、それじゃ頑張ってつくるね」
声に力がみなぎっているような気がした。
「そんなに力入れなくてもいいよ」
「いいの。そう決めたんだから」
じっとこっちを見ている視線を、急に照れくさく感じて、俺は目を空に向けた。
今もう一度詩織を見たら、どんな表情をしているだろうか。
そんな事を考えると、星空に意識なんか向かない。
ふと目に入った公園の中央にある大時計の文字盤が目に入った。
時刻は────
「あっ! もうこんな時間か!」
すでに十時を少し過ぎていた。
「詩織、もうそろそろ帰ろう」
ベンチから立ち上がった。
あまりにも急に立ったせいか、驚いて俺を見ている。
「えっ……あ、うん」
「すっかり遅くなっちゃったよ。おじさん達心配してるぞ、たぶん」
「出る時、…と一緒に買い物に行くって言ったから、そんなに慌てなくても……」
「そっか……でも、そういう訳にもいかないから。さ、帰ろう」
「うん……」
詩織はゆっくりと立ち上がった。
本当は、話尽きるまでこうやって話していたかったが、詩織の親父さん達を心配させる訳にもいかない。
「さ、行こ」
俺達は、束の間、子供の頃に戻っていた夜の人気の無い公園を、少しだけ見てから後にした。


「それじゃ、はい。詩織の分」

俺は自分の家の門の前で、自分の分だけを袋から取り出してから、詩織に袋ごと渡した。
「ありがとう。あ、お金払わないと」
「いいよ今日は。また明日か学校ででも」
「明日……ねえ、明日なにか予定はあるの?」
ふいに訊いてきた。
「いや、別に。なにもないけど」
「それなら……明日どこか行かない?」
「ホントに?」
信じられないような思いをしたのは、今日これで何度目だろう。
夜というのは、不思議な事が起こる時間なのだろうか。
「特に行く場所とか決めてないんだけど……どこか行きたいところある?」
俺は、自分の手に持っている雑誌の事をちょうど思い出した。
今日はたまたま発売日だったのも、運がいい。
メモリアルスポット十月号。
表紙は最近人気上昇中の声優「銀月麻奈美」さんだ。
「さっきコレ買ってきたから、それ見てあとで電話するよ」
「わたしが誘ったんだから、わたしがあとで電話する」
「そっか。それじゃ待ってるよ」
「うん……」
その後、数秒だけ無言が続いた。
言う事がなくなった訳じゃないのに、なぜか……しかし、悪い間じゃない。
詩織はどう思っているかはわからないけど、俺はそう感じた。
沈黙を破って、先に声を出したのは詩織だった。
「それじゃ……」
「ああ、それじゃまた後で」
俺がそう言ったあと、詩織はクルっと背中を見せて、わずか数メートルしか離れていない所へと歩き出した。
背中を見送るのも、悪い気分じゃないな。
詩織が門に手をかけるまで、ずっと見ていた。
ふと、門に手をかけたまま、こっちを向いたのがわかった。
「ありがとう」
そう聞こえたような気がする。
気のせいかもしれない。そう思った。
それほど小さな声だ。
すぐに、詩織の姿は門の中へと消えていった。
それを見届けた俺は、人指し指で、ひとつ頬を小さく掻いてから、
自分の家の門に手をかけた。
土曜日の夜。
いつもと違う事が起きても不思議じゃないな。
公園での事を思い出すと、そんな気がして、でもそれが嬉しくて
思わず口元が緩んでしまった。


夏がまだ少し残る夜。
いつか同じ季節になったとき、思い出せるだろうか。
その時、一人だろうか。
同じ思い出を持った人は側に居てくれるだろうか……

Fin

後書き

わたしは、夜の散歩とか、そーいう話が好きなのでわりとこの手の感じのが、TOKIの中じゃ他にちょっとだけあったりしますが、今回のは少し長めです。

思い出を語ってもらおうと、少し特殊な舞台(夜の公園)を使いました。
ほんとは、背比べもやってもらおうと思ったんですが、いきなり十時になってしまったので、「しまった、背比べさせる時間とシーンがなくなってしまった………ぅぅ」という事で、省きました(T_T)

前回がTOKI47で今回がT0KI46。
47が先に仕上がってしまったので、そうなりました。次は45です(^^;
で、なんだかんだであと3つで50本です。
(昔みたいに、長編を区切って番号にしていれば、とっくに60作くらいはいってるかもしれない(^^;;;)
良くまあこんな書いたものだ。と、自分でも思います(^^;
50作目のアップの時は、なんか変わった事したい。
なんかないですかね。(^^;

(編者注:47が29話、46がこの28話です、45は後日掲載します)


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル28:土曜日の夜
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数280
感想投稿最終日時2019年04月10日 18時48分33秒

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  • [★★★★★★] 夜は非現実的な世界・・・。とっても幻想的で、良い感じでした。(^^♪
  • [★★★☆☆☆]