(1)

秋も深まったある日。
窓を開ければ、入ってくるのは夜の涼しい風。
風鈴が、時たま音を立てる。
虫の声とのハーモニーにはほど遠いが、秋の音には変わらないのかもしれない。


−土曜・夜−

「ごめんなさい‥‥‥その日はちょっと用事があるの‥‥」

ある意味で、わかっていた答えが返ってきた。
電話の向こうで、詩織がどんな顔をしているのか、俺にはわからない。
確認の為の電話だった。
こんな電話をする自分が、つくづくイヤになる。

「あ‥‥い、いや。いいよ別に」

嘘の言葉。
いつわりの笑顔。
自分でも情けなくなるほどの笑顔。
電話の向こうには届かない笑顔。

「また今度‥‥‥今度一緒に出かけましょう。きっとよ」

今度っていつだろう。
今度があるのだろうか。
今度という言葉は、もしかして無理して使っているんじゃないだろうか。

「‥‥今度か」
「うん‥‥」

今、聞いてみたかった。「なんの用事?」と。
だが、それを聞く事ができなかった。
もし、俺の知っている事と違う事を言われたら‥‥‥つまり、嘘をつかれたら俺はその時どうすればいいのだろう。
俺が知っている本当の事を詩織に告げたら、詩織はなんて答えるだろう。

「ま、まあしょうがないか‥‥‥それじゃまた今度ね」
「‥‥‥」
返ってきたのは無言の返事だった。
「詩織?」
「あ‥‥うん、なに?」
「どうしたの?」
「う、ううん‥‥」
「そっか」
一言一言の間にどんな意味があるのか、俺がいくら考えても出てこなかった。
「‥‥‥‥‥‥ね」
ひとことだけ、ポツっと聞こえてきた。
うっかりしていたら、聞き逃してしまうほど小さな声だ。
「‥‥なに?」
俺は、すでに自分で自分の会話内容さえつかめていない状況だ。
声も、もしかしたら機械のように抑揚がないかもしれない。
なぜそうなのか、詩織が気づく筈もないとわかっていながら、どこかで「どうしたの?」と聞いて欲しかった自分が居た。
「‥‥ご、ごめんなさい‥‥‥なんでもないの」
「そっか‥‥」
何を言おうとしていたのか、俺には考える余裕なんて無かった。
それ以上話す気力がなくなっていた俺は、先に電話の終わりを告げた。
「それじゃ、また」
「うん‥‥それじゃ」
電話は先に俺が置いた。
いつもなら、少しだけ間があるのだが、なんとなく詩織と話すのが辛かったからだ。
確かな物が何もない今、こんな気持ちになるのは、俺の勝手なのはわかっている。

俺は俺の世界があるし。詩織にも詩織の世界がある。
お互いそれに干渉する訳にはいかない。
詩織の行動は詩織で決める事だ。俺が決める事でもない。
ましてや、そんな立場でもない。

俺は詩織にとって───────


−三日前−

「中沢、お前どうするよ?」
「どうするって何が?」
中沢が聞き返してきた。
柔道部のエースのこいつは、巨体なクセに案外と気が小さい所もあるのだが、今はそれは関係ない。
「今度の休みさ。
 好雄なんかと前に言ってただろ? どっか行こうってさ」
「あ、その事か」
「なんだよ。忘れてたのか」
そう言うと、中沢が突然立ち止まって、手を合せてきた。
「すまん。今度の休み‥‥駄目なんだ」
「は?」
「だから‥‥‥今度の休み。ちょっと用事が‥‥」
でかい身体が小さく見えた。
「なんだよ。先約か‥‥」
「ああ、ちょっとな‥‥‥ほんとにスマン」
「まあ、別にいいけどさ」
それより、中沢の頬の赤さが気になった。
「なんだお前‥‥‥もしかして、逢坂さん‥‥か?」
言葉に力があるというのはどうも本当らしい。
柔道の技ではビクともしない中沢だが、俺の言葉にビクッとしたように身体を震わせている。

同じクラスの逢坂千夏。

奴の意中の人だ。
ポニーテールの活発そうな女の子は、クラスでは詩織と人気を二分しているという噂だが、俺にとっては関係の無い事だ。
二分も何もありはしない。比べる事自体がナンセンスだ。
ずっと見てきたあの笑顔を思い出す時に、余計な事なんか考えた事もない。

「ち、違う。断じて違う」
と言いながらも顔が真っ赤だ。
まったく嘘の下手な奴だな。

「この歳になってまで隠すこたないだろう。いいよ別に」
「だから違うと言ってるだろう」
「何言ってんだ。お前、嘘つく時、鼻の穴が広がるじゃないか」
俺がそう言うと、中沢はハっとして自分の鼻を押えた。
「‥‥‥という事だ。ま、しっかりやれよ」
ニヤニヤ笑いを浮かべてやった。
「‥‥すまん」
柔道一直線の男らしいな。随分悩んだに違いない。
「なに、いいって。
 恋と友情。秤にかけりゃ、恋に傾く年頃かな‥‥ってさ」
「いや、俺はほんとに‥‥‥」
「はいはい」
俺は苦笑しながらも、中沢を責められない気持ちでいた。
もし、俺が同時に詩織に誘われていたら、どうしたかわかったものじゃない。
まあ、誘われたら‥‥‥の話だが。
「じゃ、また今度にするか。その代わり、結果聞かせろよな」
「お‥‥おう」
開き直ったのか、胸を張って答えてはいるものの、顔が赤い。
「‥‥‥と、あ、そうだ。俺ちょっと図書室に用事があったの忘れてた」
「笠間先生に頼まれた資料って奴か?」
「ああ、悪いな。俺ちょっと行ってくるから」
「なんだ。お前友達と笠間先生。どっちが大事なんだ?」
「そんなの決まってるだろ。笠間先生だ」
心の中を一番大きく占めている人の次に。とは口には出さなかった。
「うむ。だろうな」
笠間先生の威力は、柔道より凄いな。
そう感心しながら、俺は図書室へ向かった。

階段を昇りきった一番上が図書室で、普段は人がほとんど居ない場所だけに、
話声があると、すぐに聞こえる。
今がそうだ。
階段を昇りきってから廊下に出ようとした時、話声が聞こえてきた。
「‥‥‥詩織?」
話声の中には、明らかに聞きなれた声がした。
俺は、廊下に出ずに、階段の最上段に足をかけたまま立ち止まる。

「藤崎さん、今度の日曜なんだけどさ。
 きらめき第三公会堂で、陸奥田楽団の演奏会があるんだよ」

この声には聞き覚えがあった。隣のクラスの菅谷だ。
学年内では、かなり女子に受けがいいタイプの奴だ。成績も常に上位に身を置く秀才ぶりだが、運動だけは人並という、天は二物を与えずの例えを地で行くような男だ。
それよりも、菅谷の台詞に、なぜか胸に痛い物が刺さったような気になる。
その言葉を向けられているのが、詩織でなければ、こんなに痛まないだろう。
「‥‥‥え、そうなの?」
少しの沈黙の後、詩織がその言葉に答えた。
「まだ出来たてほやほやの楽団だけど、そこの団員に何人かが、ウェイストン楽団のメンバーだった人なんだよ」
「え? ほんとに?」

跳ね上がるような詩織の声。
驚きの中に、どこか楽しそうな色が濃い声。

痛みを増す俺の胸。

正直、俺はクラシックはあまり聞いた事がない。
というより、聞く機会がない。嫌い‥‥という訳ではなかったが、好んで聞くという気分にもなれないのは確かだ。
聞く量が少ないせいだろうか。
ただそれだけに、クラシックの話を目を輝かせながらしてくる詩織を見ていると、「ああ」と、相槌くらいしか打てない自分が悔しいと思った事さえある。
ウェイストン楽団の名くらいは、俺も知っている。が、どれほど凄い楽団なのかは俺にはわからない。
菅谷や詩織はそれを知っているのだろうか。
俺の知らない共通の世界を持っている二人。
胸の中に、重い物が沈んで行くのがわかる。
きっと、胃はこれを消化することは出来ないだろう。

「そのチケット、余ってるんだよ。だから、一緒に行かない?」
「‥‥‥‥」
俺は、詩織がなんて答えるのかを聞いてみたいくせに、なぜか声のする方から顔だけ背けた。
背けても、声だけは容赦なく耳に飛び込んでくる。
「‥‥‥‥‥‥うん」
かなりの沈黙の後に、そう声が聞こえた。ハッキリと。
俺がいつも電話で聞く時と同じ声かどうかまでは、わからなかった。
返事を聞く瞬間、俺の脳はとっくに考えるのをやめていたからだ。
ショックのせいで。
「よかった。それじゃ今度の日曜日に‥‥」
俺は、菅谷のその後の言葉を聞く前に駆け出して言った。
ゆっくり昇ってきた階段を、飛び降りるようにしてかけ降りた。
声の届かない所まで行きたい。
このまま転んで、目が覚めれば、布団の中で夢かと思いつつ、ホッと胸をなで下ろせるかもしれない。
そう思って、走った。

「あ、…さん。こんにちは」
しばらくしてから、図書室に入った俺に、眼鏡をかけた子が俺に話しかけてきた。
そう呼ばれて、今自分が図書室に居る事がわかった。
反対側の階段から来たのだけは確かかもしれない。あの会話のあった階段で来る筈がないからだ。
「‥‥あ、如月さんか」
「どうなさったんですか?」
「え?」
心配そうに見てきた如月さんの視線に、一瞬だけ我に返った。
「‥‥なんだか、顔色が優れないみたいですけど」
「そ、そうかな?」
そうかもしれない。しかし、そんな事はどうでもよかった。今顔が赤かろうが青かろうが、どっちでも良いい。
「保健室で休まれたらどうですか?」
そういえば、最近、保健室の常連という汚名からは遠ざかりつつあるという噂を好雄から聞いた。
が、今はそんな事はどうでも良かった。
「大丈夫だよ。なんでもないから」
心の中とは裏腹に、笑いが顔に出てきた。
こんな時にも笑いは出るのかと、ふと思う。
もし、俺が午後の授業をでないで、保健室で休んでいたら、詩織は気にしてくれるだろうか。
「そうですか。それならいいのですけど‥‥‥」
「あ、そうそう。
 ところで、如月さん。ちょっと本の場所を聞きたいんだけど」
「はい‥‥どんな本でしょう?」
図書委員でもある彼女は、図書室の本の配置をほとんど理解しているようで、以前詩織と部で使う資料の本を探しに来た時、すぐに教えて貰った事があるのを思い出した。
そんな事も、もう昔のような気がする。
あの時、少しだけ楽しそうに一緒に資料を探していた時の表情から感じた物は、俺の思い過ごしだったのだろうか。
「古文の授業で使うんだけど‥‥‥
 『紫葉山観録』っていう本、どこにあるかわからないかな?」
「あ、その本でしたら、一番奥の棚の右から三番目の棚の真ん中あたりにあると思いますよ」
「‥‥ありがと」
今は、如月さんの記憶力に感心しているほど、気持ちにゆとりは無かった。
ここ二ヶ月ばかり、互いの用事ずくめで休日にロクに詩織と出かける事もなかったのに、菅谷との約束はああも簡単に受けていた事が、俺には問題だった。
俺は、詩織にとっては、やはりただの幼なじみだったのだろうか。
気が付くと、一番奥の棚の前に立っていた。
如月さんの言う場所を探すと、すぐに本は見つかった。
「こんな本探しに来たばっかりにな‥‥‥」
本に罪はない。
そう思いながらも、俺は本を軽く叩いた。

───握り拳で。

(2)

「あ、…」
授業が終わってから、俺は資料を笠間先生から受け取って、また図書室へ向かう途中に、声をかけられた。
振り向くと、詩織が立っていた。
「図書室‥‥‥行くんでしょ?」
「あ、ああ‥‥」
返事をすると、小走りで駆けてきた。
「今日、部活で使う資料を探そうと思って‥‥」
「そ、そう」
俺は、微笑みながら言う詩織の目を見れなかった。
見ていたら、微笑みの意味を深読みしすぎでしまうからかもしれない。
いや、本当の所、自分でもよく分からなかった。
いつもなら、心安らぐ筈の微笑みも、今は見るのも辛い物になっている。
俺が歩き出すと、詩織も歩き出して俺に歩調を併せてきた。
今は、どうしてか、わざと歩調を早めているにもかかわらず‥‥‥
それに、「早い」と文句も言わない。俺の歩調なんてどうでもいいのだろうか。

俺は、しばらく話す気になれなくて、俺からは何も言わなかった。その代わり詩織が話し出した。
「‥‥‥ね、…はウェイストン楽団って知ってる?」

いきなり来た。

表面上は、俺は平静を装っていた。
内心は、気象庁も真っ青の荒天だ。ウェイストン楽団という言葉は、心のなかに稲妻を落とした。
「‥‥知らない」
名前くらいは知っているよ。と言えなかった。いや、言わなかった。
なぜだか判らない。いや、判かっているのだが、判ろうとしないだけかもしれない。
「そう‥‥‥」
チラリと見た詩織の表情には、苦笑の色が濃い微笑みが浮かんでいた。
知らないのを馬鹿にされたのかもしれない。そんな風に思う子じゃないのを知っていながら、今の俺にはそうにしか思えなかった。
同時に菅谷の顔が浮かんでくる。
あいつは、俺の知らない世界を知っている。その世界は詩織が知っている世界だ。
悔しくてたまらなかった。
「俺、無知だから」
自分を堕とす言葉が出てきた。
それが、詩織を困らせる言葉とも知りながら。
「‥‥‥そ、そんな事ないと思うけど‥‥」
ふと表情から苦笑の笑という文字だけが消えたような気がした。それでも、頭の中にある微笑みの残像のせいで、それは気のせいに見える。
「そうかな。世界的に有名な楽団も知らないなんて、無知だろう?」
嘘を自分でバラしてみせた。
「‥‥‥」
無言の詩織。
明らかな嘘を、詩織はどう感じているだろう。
俺を嫌っただろうか。
元々好かれていなかったら、嫌う余地もないか。
もし、俺がこのまま歩調を早めたら、その時詩織は付いてきてくれるだろうか。
そう思っていながらも、脚だけは俺の意志に反した。
今、一番正直なのはこの脚かもしれない。
それがわかっている自分が歯がゆい。
俺は、その話題の続きを聞くのが恐くなった。
「あ、それよりさ‥‥‥今日すまないんだけど、俺用事があって部活出れないんだ。
 代わりに仕切っておいて貰えないかな?」
嘘も嘘。大嘘だった。
今日一日、詩織が少しでも俺の側に居て、少しでも笑ってくれたら、それだけ辛い。だから嘘をついた。
心のどこかで、理由を聞いて欲しいと思った。心配して欲しいと思った。
「‥‥‥うん。わかった」
詩織の返事はそれだけだった事が、俺の心を少しだけ重くした。痛くした。
表情は‥‥見ていない。
どんな表情をしているのか、恐くて見れなかったからだ。

一人での帰り道、前を歩く人の後ろ姿に見覚えのあった俺は、少し歩を速めた。
「‥‥‥笠間先生?」
すぐ後ろに追い付いてから、自信なさそうに言ってみた。もちろん、確信して‥‥だ。
「‥‥あら。…君」
笠間先生は、ニッコリと柔らかい笑顔で笑った。
学校の男女誰もが、この笑顔が好きなのだ。
柔らかく暖かくしてくれる笑顔。このせいだろうか、古文の授業成績は、受け持ちクラスが軒並み良い。
詩織もこの笑顔が好きだと言っていた。
自分自身の笑顔が、それに近い事を知らずに。
詩織の笑顔には、笠間先生が与えてくれる感じ以上の何かを与えてくれる。
詩織にその事を伝えてみたら、なんて言うだろうか。
「先生、もう帰りですか?」
「ええ、今日はちょっと用事があるの」
「へえ‥‥‥」
「それより、…君。今日は部活はお休みなの?」
「え、ええ‥‥まあ。僕もちょっと用があって」
「そうなの」
疑うという言葉を知らないような笑顔に、なんとなく詩織の言葉と表情が重なって、胸が重く痛んだ。

「あ、あの‥‥‥先生」
「ん?」
「変な事かもって思うかもしれないけど、聞きたい事があるんです」
「なにかしら?」
笠間先生の私事さえも、聞いたらなんでも答えてくれそうな気がする笑顔だ。
今はそうじゃないのだが‥‥‥
とりあえず、この笑顔のせいで、俺がこれから聞きたい事を聞ける。
「たとえば‥‥‥もし好きな人が居て、その人が誰か他の人‥‥異性と一緒に居るってのを見た時‥‥どうしたらいいんでしょう?」
「もし」以外は、全部本当の事だ。

「人ってね‥‥‥誰かの持ち物じゃないのよ」

いきなりそう来た。
いきなりすぎて、理解出来なかったくらいだ。

「たとえ、恋人同士‥‥‥夫婦になっても、誰かの持ち物じゃないのよ」
「そ、それはそうですけど‥‥‥」
「今日、授業でやったでしょ?
 『紫葉山観記』の中の一章にあるけど、平安中期に、須河の山寺に住んでいた寛良というお坊さんが、同じ風に悩んでて、それを書き綴った部分があるの」
「はあ‥‥‥」
「はあ‥‥って、ちゃんと授業聞いてなかったのね?」
怒った風でなく、むしろ笑っている。
「あ、すいません‥‥‥」
「ま、いいわ。
 それでね、そのお坊さんなんだけど、自分は僧侶だし例え女性を好きになっても、どうにもならないって分かっていながらある都の女性を好きになってしまうのね」
「うんうん」
こんな事なら、授業をちゃんと聞いておくんだったと、今思う。
古文でこんな実践的な事をやっていたとは知らなかった。
「そのお坊さん、ちょくちょく都に降りてきて、いつもその女性を見ていたのよ。
 相手は町の普通の娘さんで、良く働く娘さんだったらしいわ。
 それでね、寛良がずっと見ていると、ちょくちょくその娘さんに言い寄る男が居たらしいの」
俺は、菅谷の顔を思い浮かべた。
「娘さんは、嫌がる様子もないし、むしろ楽しそうに話しているのを見た寛良は、自分がその娘さんから遠い所に住んでいるし、見てはいるものの、娘さんと何を話していいのかわからないから、もうどうにもならないと思ったのよ。
 それでも、思いを捨て切れずに、寺を捨てて都に来てしまったの。本格的にね」
「僧侶を捨てたって事ですか?」
「ううん。そうじゃないわ。
 ただ、居てもたってもいられなくなって降りてきただけだったの」
「へえ‥‥‥」
寛良という坊さんの行動力が羨ましい。坊さんが今の俺と詩織の住んでいる距離を知ったら、坊さんは僧侶という事を忘れて殴りかかってくるかもしれない。
「それで、坊さんはどうしたんですか?」
「‥‥‥ほんとに授業聞いてなかったのね」
さすがに、呆れの色が濃いが、まだ微笑みは絶えていない。
「すいません‥‥‥今日ちょっと‥‥」
「‥‥‥それで、そのお坊さんはどうしたと思う?」
授業が始まった。
「打ち明けた‥‥とか?」
その問いは間違っていたようだ。笠間先生は首を横に振った。
「寛良はね、都で寺を開いたのよ。
 どうにもならない気持ちを払うように、一心に仏道を行ったの。
 そうしているうちに、いろいろ都の現状を見てだんだんと考えが変わってきたの。
 ‥‥‥あ、ごめんなさい。相談の答えじゃなくなってきたわね」
いつのまにか相談していた事も忘れて、俺はその続きを聞きたくなっていた。
さすが授業上手だけはある。
「いえ、いいですよ」
「ほんとに? 全然関係ない話になっちゃうけど‥‥‥」
「いいですよ。続き気になりますから」
「そう‥‥‥それじゃ」
そう言ってから、また話始めた。
「娘さんを見る機会が減ってきたけど、それに反して、都での寛良の評判は日に日に良くなっていったの。
 一生懸命仏道したのね‥‥‥」
笠間先生は、そのお坊さんに感心したような口調で言った。
「ある時、寛良の寺に、寛良もびっくりするような人がやってきたのよ」
「‥‥‥もしかして、娘さん?」
笠間先生は、コクンと一つ頷いた。今度は正解だったようだ。
「寺にやってきた娘さんに、寛良はビックリしたの。
 それで、更にビックリした事に、その娘さんは、ずっと寛良の寺にやってきては、いつも寛良の事を見ていたのよ。
 ちょっと前の寛良みたいにね」
「そうなんですか? それで?」
その物語の展開に、俺はすっかり乗せられていた。
古文は心情を理解する事にこそ、その意味があるのかもしれない。
「その娘さんに、寛良はこう言ったの。
 『わたしも、かつてはあなたを思い慕った身。
  されど、今はこうして仏道に精進する日々でございます。
  わたしは、あなたを思い慕った事によって、今かようになれたのです。
  それゆえ、わたしは今のあなたの思いを受け止める事は出来ません。
  わたしは、わたしの為。衆中の為に念仏を唱えなければいけないのです』
 ‥‥って」
「‥‥‥‥‥‥」
「寛良は、自分のやるべき事を見つけたのね。
 その為に好きだった人を遠ざけるなんて、とっても辛い事だったと思うわ。
 その事は書かれてなかったけど」
「‥‥‥‥‥‥」
俺の場合、遠ざけるのは他愛も無い理由でだけだ。
単なる甘えやわがままと言っていい。
でも、俺は僧侶でもない、普通の高校生だ。坊さんと同じ風になんてなれない。
「後に都で最も有名になった寛良‥‥‥後に妙永大師と言われたお坊さんだけど、そうなったきっかけは、人を好きになったからなのよね。
 そう考えると、きっかけなんてちょっとした事に過ぎないのよ。きっと」
「‥‥‥それで、娘さんはどうなったの?」
「教えてあげません」
「えっ?」
「宿題にします。自分で調べてらっしゃい」
そう言って、ニッコリ笑った。
相談が、いつのまにか俺に自発的に調べさせたくなるような事に変わっている。
「ちぇっ‥‥‥相談だったのに」
それでも、悪い気はしない。
「ごめんなさいね。
 でも、自分で何かをしなきゃ始まらないのは確かよ」
最後に笠間先生が放った特大の言葉の槍が、胸に刺さった。
しかし、今の俺の胸には、どんな痛みもあまり通じはしない。
一番痛いのは、詩織の笑顔だった。

次の日、俺は普通に振る舞った。
昨日の事は、無理矢理胸の奥に閉じ込めた。
掘り起こせないように、ずっとずっと奥に埋めた。
そのせいか、表情が思うように出せなくなるという状態になったような気がする。
しかし、俺はそれで良かった。
日曜日まで、あと一日。
明後日には、詩織は菅谷と一緒にコンサートへ行ってしまうのだろう。
今の俺には寛良のように見ている事しか出来ない。
「ねえ、…。昨日の部活の事なんだけど」
詩織が言ってきた。
「なに? どうしたの?」
俺は、這い上がろうとしてくる気持ちを、必死で閉じ込めて笑った。
乾いた笑いでもいいのだろうか。
詩織はニッコリと笑ってくれた。


−日曜日・朝−

俺は、早めに起きて、机の椅子に座りながら、窓を見ていた。
正確には、窓の向こうの窓。
詩織の部屋を。

カーテンの隙間から、たまに詩織が通るのが見える。
忙しそうに動いているようだ。

服装の事を気にしているのだろうか。
ほんのちょっとだけの化粧の事で悩んでいるのだろうか。
俺と出かける時よりも時間をかけているのだろうか。
アクセサリーの箱のオルゴールは、今も鳴っているだろうか。

そんな事を考えながら、窓の中を伺っている自分がイヤになった。
いっその事、仏道に入ってやろうかという気にもなる。
坊主頭にして学校に行ったら、みんなになんて言われるかわかったものじゃないが、それはそれでいいような気がした。
ふと、どうでもいいような気になって、俺は椅子から立ち上がって、ベットへと倒れこんだ。
立ち上がったホコリが、窓からの日差しに反射して良く見える。
「いい天気だよな‥‥‥絶好のデート日和だ」
俺は、詩織と菅谷がどんな会話をするのか、その時、詩織がどんな表情をするのか、気になった。
俺の時よりも楽しそうにするだろうか。
気にしだしたら、それこそキリがない。
どうしようもなくなって、俺は考えるのをやめた。

(3)

一時間ばかりしたころ、俺は電車の中に居た。
別段、どこへ行く宛てもなかったが、きらめき第三公会堂とは逆の方向なのだけは確かだ。
窓の外を流れる景色も、慰めにはならない。
トンネルに入った時、窓の外には自分が居た。
どうしようもないほど、無表情な自分だ。
「バカ野郎」
そう心の中で言ってみた。向こうの自分もそう言ってくる。
「笠間先生が言ってたじゃないか。人は誰かの持ち物じゃないって」
まったく同じ事を向こうの自分も言ってくる。
「だから、詩織が何をしようと、詩織の勝手だろう」
そう言ってきた自分に、言い返そうとした時、窓の外の自分は明るい日差しにかき消された。
トンネルの中の会話は、俺が言い返す前に終わった。


電車を降りた時、改札で後ろから声がかかった。
振り向くと、そこに居たのは中沢と逢坂さんだった。
俺を呼んだのは逢坂さんだ。
中沢の方はといえば、そっぽを向いている。
俺と顔を合わせずらかったのかもしれない。
「…君。どうしたの? 浮かない顔して」
浮かない顔をしていた覚えはなかったが、そうだったのかもしれない。
気分が浮かないのは確かなのだから。
「い、いや‥‥‥なんでもないよ」
「そう? それならいいけど‥‥‥あ、そういえば、さっき‥‥」
逢坂さんがそう言いかけた時、中沢が逢坂さんの背中をつついた。
「なに? どしたの?」
「あ、いやなんでもないよ。なんでもない」
中沢が慌てて逢坂さんの前に出てきた。
二人が何を言おうとしたのか、俺にはわかる。
二人が来たのは、反対のホームの階段の方からだ。
この二人には、すでに詩織に対しての気持ちがバレているだけに、俺に何かを隠そうとしている理由はひとつしかない。
詩織達と会ったか見かけたかしたのだろう。
少しだけ忘れかけていたものが、物言わぬ態度のせいで、思い出してしまった。
「お、俺、ちょっと行く予定があるから」
その場にいたたまれなくなって、俺はそそくさと手をあげてから、改札を抜けた。まるで逃げているようだ。
本来なら、逃げるのは照れくさがっている中沢の方かもしれない。


その日、映画館で俺は一日時間を潰した。
同じ映画を、何度も何度も見た。
何度も見たせいで、結末のわかったファンタジーラヴロマン映画。
海外では好評を博したようだが、俺には笠間先生に聞いた「紫葉山観記」の内容の方が、身にしみるだけあっておもしろいと感じる。
ただ、劇中の音楽は凄くいいと思った。
初めて見た時は、シーンとバッチリ合ってて感動すらしたし、なによりも演奏が凄かった。
「本日の上映は、これにて終了いたしました。
 またの御来場をお待ちしております」
そう言うアナウンスを聞いてから、俺はゆっくりと席を立った。
俺は、この映画をつまらなく感じた理由が、その時点で分かったような気がする。
回りは、大半がカップルだったからだ。
二人で余韻を味わっている姿を見ているのが辛くて、俺は足早に館内から出ていった。


外に出ると、すでに陽はすっかり落ちていた。
映画の中の風景とのギャップに、少し戸惑った。何度も見たせいだろう。
余韻もあまり味わえない。一人で来る映画に来る事が、いかにつまらない物かを実感しているからだ。

詩織達の方はどうだろう。
コンサートの余韻を、菅谷と話しているのだろうか。
俺には、オーケストラ楽団の事は、詩織には全然及ばない。もちろん菅谷にもだ。
俺には「良かった」とか、それくらいしか言えない。
本当は、もっと突っ込んだ話がしたいに違いない。
二人は、今頃どうしているのか‥‥‥
夜空を見上げながら、ぼんやりと考えた。
排気ガスくさい空気と、うるさいくらいの街の明かりが、今日は全然気にならなかった。
むしろ、励ましてくれているようでもあった。

俺が家に帰ってから、夕食は食べずに部屋に戻ると、詩織の部屋にはすでに明かりがついていた。
とりあえず、もう帰ってはいるようだが、だからといって何をしようという訳でもない。
あの明かりの元で、コンサートの余韻でも味わっているのだろう。
部屋の明かりのスイッチを入れると、カチンカチンと小さな音がして、蛍光灯がついた。
蛍光灯の光は、こんなにも乾いた光だとは思ったのは、今日が初めてだ。

付けてから、本当にすぐ。ものの三十秒くらいで、部屋の電話が鳴りだした。

なんとなく気になって、親より先に電話を取り上げる。
「はい。…ですけど」
「藤崎と申しますが。…君はいらっしゃいますでしょうか?」
俺を父さんと間違えたのか、馬鹿丁寧な声で詩織が言った。
のろのろとしていた頭が、急に回転しだすような気がする。

もしかしたら、俺は今日ずっと詩織に会いたかっただけなのかもしれない。
そう思った。
一瞬、何を悩んでいたのか忘れたくらいだ。

「‥‥‥あ、俺だよ。俺」
「あ‥‥ …」
名前を呼ばれて、何を悩んでいたのかを思い出した。
「‥‥‥なに? どうしたの?」
声にもそれが出た。無感情な声だ。
「あ‥‥う、うん。えっとね‥‥」
俺は、詩織が続けるまで待った。
「‥‥‥知ってたんでしょ?」
「え‥‥?」
「今日、わたし‥‥‥コンサートに行ってたの。菅谷君と」
いきなり核心をついてきた。
詩織といい、笠間先生といい、どうしてこうも核心を突いてくるんだろう。
そこまで思って、俺はハッとなった。
もしかしたら、俺が帰ってくるのを待って電話したのかもしれない‥‥‥と。
「‥‥‥‥‥‥」
「あの時‥‥‥菅谷君に誘われた時、…が凄い勢いで階段降りていくの、わたし見たの。凄い足音だったから‥‥」
「‥‥‥‥」

俺は、詩織の言うがままに任せていた。何も言い返すつもりはなかった。
なぜ俺にホントの事を言うのか、分からなかったからだ。

「ねえ、…。聞いてる?」
「あ‥‥うん。聞いてるよ」
「それでね‥‥‥」
詩織がそこまで言った時、俺は途中でその言葉を遮った。
「なんでそんな事を俺に?」
「え‥‥‥?」
「別に、俺なんかどうでもいいじゃないか。
 詩織は詩織。俺は俺。用事だってそれぞれにあるんだから。
 それに、当日俺と約束してた訳じゃないしね」

馬鹿。何を言ってる! と、心のどこかで俺が叫ぶ。

「別に気になんかしてないよ。大丈夫だって」
自分の声が変に明るくなっているのがわかる。
イヤな声とでもいうのだろうか。きっとそんな声に違いない。

なんで笑うんだ! どうしてだ! と、俺の中の俺が絶叫した。

「‥‥‥気にして‥‥ないの?」
「‥‥ああ。だって俺が気にしたってしょうがないだろ? 俺には関係ないし」

明るさが消えて、完全に皮肉声になってきた。
今は、どうしてか詩織を困らせたい。
一番やっちゃいけないと自分でわかっていながらなぜかそうしたかった。
詩織にとって、特別な存在でもないクセに。
単なるダダっ子に近い心境かもしれない。母親を困らせる子供のように‥‥‥

「‥‥‥」
「俺なんか、詩織にとっちゃどうでもいいんだよな。単なる幼なじみだしさ。
 それに‥‥‥他の奴みたいに、詩織の好きな世界とかに詳しくないから」

言っちゃいけない言葉の数々。
自分で自分にとどめを刺すのに十分な言葉。
どうしてこんな会話になっていくのか、俺にはよく分からなかった。

なんでだろう。
なんでこうなるんだろう。
どこかで何か間違えているような気分だ。
俺は寛良みたいに、出来た人間じゃない。声をかけてきた娘を突き放すような真似をする理由なんかどこにも無い。


「‥‥‥ごめんなさい‥‥ごめんなさい」
電話の向こうから、絞るような細い声が聞こえてきた時は、意固地だった気持ちが一発で砕け散って消えた。

この声は─────涙声?

小さい時、詩織が泣き出しそうになった時に聞いた声と全く同じ声だ。

「え? ‥‥‥し、詩織? ちょっと‥‥」
「嘘ついて‥‥ごめんなさい‥‥ごめ‥‥だから‥嫌いにならないでぇ‥
 お願い‥‥お願いだか‥ら‥‥」

泣きしゃくりが混じっている。
最後の方は、ほとんどすすり泣きの混じった、涙に負けまいと絞り出すような声だ。

あまりの事に、俺は信じられずに唖然としていた。
言い返されると思っていただけに、耳を疑ったほどだ。
それに‥‥‥嫌いにならないで‥‥だって?

俺が? 詩織を?

冗談じゃない。そんな事を思った事は一度もない。
むしろ、俺が好きで居ていいのか分からなかったくらいだ。
嫌われるのは、むしろ俺の方の間違いじゃないのか?

そんな考えが、頭の中でグルグル回っている。
それからしばらく、電話からはしゃくりあげだけが聞こえてきた。
泣くのを必死に我慢している声だ。

昔から、その声を聞くのが一番イヤだった。辛かったからだ。
そんな声を出させる物を嫌ったものだ。
しかし、今。気が付くと、その嫌った物に─────俺がなっていた。

「ちょ、ちょっと‥‥‥おい、詩織。頼むから‥‥ちょっと」

ふと、電話の向こうに居るのは詩織じゃないような気がした。
詩織はこんな事で泣くような子じゃないと、いつの頃からかずっと思っていた。
俺よりずっとずっと強いと思っていた。

もしかしたら‥‥‥
今、電話の向こうに居るのは、きらめき高校三年生の藤崎詩織じゃなくて、昔の俺が知っている、幼なじみの“詩織”なのかもしれない。

昔、泣いている詩織をなだめる時、俺はこう言った。
『泣かないで。お願いだから泣かないで』と。
泣きそうになりながら、それでも涙を見せずに。

その言葉に、詩織はいつも我慢した風に泣き声を抑えていたが、その時と同じ声だ。
泣き声が嫌いなのは、お互い分かっている。
だから、昔俺が泣きそうになりながら詩織をなだめると、詩織は泣くのを我慢してくれたのかもしれない。
今も、抑えるような声になっているのは、もしかして俺がそういう事が苦手と判かっているからだろうか。いや、それは‥‥‥絶対に考えすぎたろう。

「‥‥‥頼むから。泣かないで‥‥頼むから」
意識した訳じゃないのに、出た声はあの頃と同じだった。
あの頃と同じように、涙は出なかった。いや、出さないように堪えた。
ただ、どうしようもなく哀しかった。泣ける物なら泣きたいくらいに。
悲しい訳じゃない。詩織の泣き声を聞くのがこんなにイヤだったのかと思ったからだ。それを出させた自分がイヤだったからだ。

「‥‥‥‥だ、だって‥‥だって‥」
「いいから‥‥‥とにかく泣くなっ!」
俺はいつのまにか大声で叫んでいた。
寛良みたいに、平静を保って言う事が出来ない。
そうだ。当たり前だ。
なんたって俺は高校生だから。

叫んだ後、電話の向こうで、しゃくりあげが一瞬止まる。
俺の大声にびっくりしたからだろうか。
俺は、そのまま詩織が落ち着くまで待った。
しゃくりあげの間隔が、だんだん長く細くなっていく。
どれくらい時間が過ぎただろう。
ほとんどしゃくりあげが聞こえなくなってから、呼びかけてみた。
「‥‥‥詩織?」
「‥‥う、うん」
「落ち着いた?」
「‥‥うん」
「ごめん。俺‥‥‥」
「あやまらないで。わたしが悪いんだから‥‥」
声に、まだ涙の影響が残っているように思える。
「違うよ。違う。
 俺が謝ったのって、詩織泣かせたから。
 詩織は謝る必要なんて、ほんと、どこにも無いんだから」
「違う。わたしが勝手に泣いちゃったのに‥‥‥」
「あー、だから‥‥‥えっと‥‥」

そこまで言ってから、なんの話をしていたのか、すっかり忘れていた自分に気づく。
いや、泣き声を聞かされた時点で、もうどうでもいいっていう気分になっていた。

「とにかくさ、もういいよ今日の事は‥‥‥
 俺、別に詩織に嘘つかれたなんて思ってなかったから‥‥」
本当は嘘と取っていたが、よくよく考えると、詩織は嘘をついてないし、事の流れからしても、詩織に非は一切無い。
詩織が謝る理由なんて、どこにもない筈だ。
「ううん‥‥‥わたし‥‥嘘ついてた。
 何度も、言おうと思って‥‥それでも言えなかった‥‥本当の事、言わないのって‥‥‥嘘だと、思うでしょ?」
なんで責めてくれないのと言わんばかりの口調だが、多少つっかえつっかえだ。
そのせいで、俺の方が辛くなる。
とにかく、学校では、聞いた事のない口調なのは確かだ。
「でも、なんで俺に嘘なんか? 別に隠す必要なんかないのにさ」
「だって‥‥‥だって‥‥」
一度泣いたら、気持ちと涙腺は緩むのだろうか。
また泣き出しそうな声になってせいで、俺は慌てた。
「ちょ、ちょっと待った。
 今は一旦切るよ。
 少ししたら、俺が電話するから顔でも洗ってきてよ」
本当に落ち着かないといけないのは、むしろ俺の方かもしれない。
「え、そんな‥‥大丈夫だから‥‥‥」
「いいから。大丈夫って言っても、俺切るよ?」
有無を言わせない口調で言った。そうでないと、「大丈夫」の一点張りで言ってくるのがわかっているからだ。
「大丈夫」という言葉は、詩織に関してはそのまま信じる訳にはいかないのを一番良く知っている。
苦しくても、微笑みながら「大丈夫」と言う子だというのを知っているからだ。
「じゃ、必ず少ししたら電話するから」
「う、うん‥‥‥待ってる」
その返事を聞いてから、受話器の通話ボタンを押して、会話を断ち切った。

(4)

力が抜けて、受話器を持ったままベットに倒れるように寝転がった。


正直、俺はこれからなんて言っていいのか分からなかった。
一番言ってしまえればいいという事を伏せたまま喋るのは難しい。

「俺は君が好きだから‥‥‥
 だから、他の奴と俺の知らない世界の事で話あっているのを考えたら‥‥つらくて」
という言葉だ。

これが言えれば、悩む必要なんか無かった。
もしかしたら、これが言える一番のチャンスなのかもしれないが、慌てたばかりの頭じゃそんな事は考えられない。
かと言って、こうやっていても、それが言える自信が湧いてくるかと言えば、全然そんな事はなかった。
むしろ、言う勇気がしぼんでいく。
たぶん、これからもう一回電話しても、それを言う事は出来ないだろう。
また一歩踏み出せない。
踏み出せたら、今まで話せなかったいろんな事、ほんとの事を詩織と話せるかもしれないというのに‥‥‥‥
もし、俺がこのまま寝ても、詩織はずっと電話の前で待っていてくれるだろうか。
試したい気がなかった訳じゃないが、今はそれをする気は全然無い。
詩織の涙声を聞いた後に、そんな事出来る筈がない。

頭の中で、何度も何度も涙声を思い出してみた。
小さい頃は、少しだけ聞いた事のある声。
ぐっと我慢するような声。

あんな声‥‥‥もう二度と聞けないと思ってたのにな‥‥

ふと、チラリと時計を見た。電話を切った時から、まだ二分と経っていない。
詩織と初めて会った時からの時間に比べれば、一瞬のうちにも入らないくらいの短い時間だったが、会った事でこんな事になったのを考えると、随分長い時間に思える。
俺は、何も考えずに、時計の秒針が時を刻んでいくのを見ていた。
ずっと数えて、秒針が七周を回ったところで、俺は受話器のボタンを押した。
何も整理がつかないまま‥‥‥

コール音が一回鳴ってから、すぐに受話器を取り上げる音が聞こえてきた。
「はい。藤崎です‥‥」
元気の無い声が聞こえてくる。
詩織のおふくろさんの声じゃないことは確かだ。
「あ‥‥‥詩織?」
「さっきは‥‥‥ごめんなさい」
「いいよ。それよか、もう大丈夫?」
「うん‥‥‥」
どんな表情をしながら返事しているのか、想像すら出来ない声だ。
「冷たい水で顔洗ってきたから‥‥」
「‥‥‥」
一旦切った会話を繋げ合わす言葉が、なぜか見つからない。
「‥‥‥やっぱりわたしなんて‥‥迷惑よね」
「‥‥?」
「だって‥‥‥嘘ついて、泣いて、…を困らせて‥‥もう最悪よね‥‥」
「お、おい、なんでそうなるんだよ」
「だって、…、何も言ってくれないし‥‥‥」
「別に怒ってる訳じゃないって。ただ‥‥なんて言っていいのか‥‥‥」

そうだ。怒っているというとか、そういう訳じゃない。
どうしても言葉が見つからないだけだ。
詩織には、それがわかってくれていないようだが、それも仕方ない。言わないでわかってくれるなんて、虫のいい話だ。
「とにかく、もういいよ。
 俺、ホントに怒ってないし、気にもしてないから‥‥‥」
さっきまでなら、この言葉は完全に嘘だ。
だが、今は本当に気にしていない。全然‥‥‥じゃないが。


ふと、さっき聞きかけた事を思い出した。肝心な事だ。

「それよか、どうして俺に嘘なんか‥‥‥わざわざ言う必要なんかないのに」
「だって‥‥‥土曜の夜に誘ってくれた時、もう知ってたんでしょ?」
「‥‥‥ああ」
「わたし、…が知ってるって知ってたのに‥‥‥本当の言えなかったの。
 ‥‥‥それで‥‥」
「本当の事って‥‥‥別に正直に言ったって構わないのに」
「それは‥‥‥」
何かを言いたそうな詩織に構わず、言葉を続けた。
「もし言われても、俺には止める権利なんてないし‥‥‥もし、俺の方と約束して、先約を蹴るなんてされたら、菅谷に悪いよ。
 それに‥‥‥もし、俺が本当に知らなかったとしたら、こうやって話してくれた?」
答えが返ってくるまで、少しの間があった。
その間に、詩織は一体どんな事を考えていたのだろう。
「多分‥‥‥言わなかったと思う‥‥」
「だろ? それが普通なんだよ」
正直、俺は違う答えを期待していた。一番無いだろうという答えを。
「でも‥‥‥でも‥‥」
詩織が短く何かを言おうとしたのを、途中で遮った。たぶん、感情で出した言葉だ。俺が黙っていても、後に続く言葉はないだろう。
「いいって、無理しなくても」
「無理なんかじゃ‥‥‥ないのに‥‥」
声に、哀しそうな色あるのはどうしてなのだろう。
俺がいくら考えても答えが出そうになかった。
俺の心の中で一番言いたい事を伝えられたら、その答えを教えてくれるようになるだろうか。
ふと、古文の優しい先生の言葉が頭に浮かんだ。
「笠間先生に言われたよ‥‥‥人って、誰かの持ち物じゃないって」
ふと、笠間先生の優しい微笑みが浮かんだ。それだけで気持ちが随分軽くなる。
しっかり。と言われているような気がした。
「詩織は、誰の持ち物でもないしね‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「もちろん、俺の持ち物でもないし‥‥‥
 だから、詩織がどこで何をしようとそれは詩織の自由だっていうのは、別に皮肉でもなんでもないんだよ」
最初に言った時は、確かに皮肉だった。が、今は違う。
「でも‥‥‥俺が知ってても知らなくても、出来ればホントのこと言って欲しかったな‥‥って気はするけどね」

苦笑が出てきた。
心の底からの苦笑だ。

ここに来て、ようやく俺は息をひとつ吐く事が出来た。
意固地になっていた自分が、馬鹿馬鹿しくなってくる。
それが一時的な物かもしれなくとも‥‥‥だ。

「ほんとに‥‥‥ごめんなさい」
「だからいいって言ってるだろう。
 いつまでもウジウジしてるとウジ虫になるってどっかで聞いた事あるぞ」
普通向きじゃない馬鹿な事も、こういう時に有効かもしれない。
「うん。ごめ‥‥あ」
そこまで言ってから、初めて小さい笑い声が聞こえてきた。
本当の意味で、安らぐような笑い声だ。

大嫌いな涙声。大好きな笑い声。

どちらも、俺にとって大切な声である事は間違いない。
ただ‥‥‥大好きな声が哀しく霞むのだけは、もう、まっぴらごめんだ。
「そうそう。それで問題なし」
「‥‥うんっ」
俺達は、まだお互いの立場もハッキリしていないのに、どうしてこんな風になるのか不思議でたまらなかったが、今の小さい返事で、そんな事はどうでも良くなった。
それだけ力強かった。いつもの詩織の声に戻っている。
「ところでさ、今日‥‥‥どうだった? コンサート」
「うん‥‥‥とっても良かった」
「そっか‥‥‥‥」
正直、まだ心の隅っこの方で残っていた菅谷を羨ましがる気持ちに、ポっと火がついた。
さっきまでは、大火事さながらだったのに比べれば、風前の灯火のように、頼りなく弱々しい火だ。
それはそれで、自分なりに気が楽でもある。
まあ、クラシックについて専門的な会話もあったのかと思うと、悔しい気持ちが無い訳じゃないが‥‥‥
「ねえ‥‥‥今度の日曜日‥‥」
そう聞こえてから、少しの間があってから、俺を驚かせる言葉が来た。
「一緒に行かない?」
「えっ!?」
突然の誘いは、わずかに残っていたモヤモヤを軽く吹き飛ばした。
「すっごくいい楽団だったから、一緒に‥‥‥って思って」
「だって、今日行ったばかりなんだろ?」
「ううん、いいの。もう一度聞きたいって思ってたから」
「ほんとに?」
「うん‥‥‥だから一緒に聞きたくて‥‥」
ぼそぼそと呟くような声だ。
それでも、俺にはハッキリと聞こえた。
そのせいか、胸が瞬間的に高鳴る。どうしようもないくらいに。
「やっぱり‥‥‥興味ない?」
不安そうな声に、俺は首を振った。
慌てたせいで言葉が無くなったのを、興味ないと思ったのだろうか。
「い、いや別に‥‥‥でも、俺、クラシックそんなに詳しくないよ?」
「‥‥‥クラシックって知識で聞く物じゃないと思うの。
 あれも音楽なのよ。だから、音だけ楽しんで貰えるだけでもいいと思うな‥‥」
「でも‥‥‥」
「…、いつか一緒にコンサートに行った事あったじゃない。あの時の帰りに…が、なんて言ったか覚えてる?」
クラシックコンサートに一緒に行った事は覚えている。
かなり印象に残った演奏だったのも覚えている‥‥‥が、その時俺が詩織の記憶に、どんな引っかかる事を言ったのか覚えてない。
というより、どんな言葉がそうなったのか判らないと言った方がいいかもしれない。
「コンサートの事は覚えてるけど‥‥‥俺、なんか言った?」
「すっごく楽しそうに『ほんと良かった。もう引き込まれたよ。すごかったなぁ』って言ったでしょ?」
「あ‥‥‥そういえば、んな事言ったっけか」
言われてみて、そんな事を言ったのを思い出した。言われるまではすっかり忘れていた事だ。
そんな事まで覚えていてくれた事が、今は無性に嬉しかった。
自分も忘れかけていた自分の言葉が、相手の記憶に残っている事ほど嬉しい事はない。それが、相手を喜ばせた言葉ならばだ。
「あの時、わたしすっごく嬉しかったの。
 だって、あんなに喜んでくれたんだもん。一緒に行って良かった‥‥って」
知らなかった。俺の一言が、そう思われていたなんて。
「そんなもんなのかな‥‥」
「そうよ。そんな物なのよ、クラシックって。
 だから、もっと好きになればもっともっといろんな事を知りたいって思えるようになると思う」
「そうか」
確かに、詳しい事はわからないが、純粋に感動した事もある。
それを参考にして、クラシックのCDを探した事もあったっけ。
プレゼント用に‥‥‥だが。
「わかったよ。詩織さえよければ、今度の日曜日‥‥‥」
「うん。行こう。絶対に行きましょう」
絶対なんていう言葉が、これほど頼もしく聞こえたのは初めてかもしれない。
「あ、そうだ‥‥‥もし言いたくなければいいんだけど‥‥今日、何してたの?」
「え? 今日?」
「帰ってきたの、ちょっと遅かったみたいだったから‥‥‥」
俺の帰りを遅いと思えるほど、早く帰っていたのだろうか。
「え、いや、別に‥‥‥ちょっと映画をね‥‥」
別に隠す事ではないし、俺は正直に言った。
「映画? 一人で?」
驚いたような声が返ってきた。
「う、うん。まあね」
「そう‥‥なの」
「他にやる事なくて‥‥‥何回も見ちゃったよ」
「なんていう映画?」
「『フォレスト・クリスタル』とかいう奴なんだけど」
「え? ほんとに?」
「ああ‥‥‥」
「そう‥‥そうなの」
なぜだか、途端に声に勢いがなくなった。
「どしたの?」
「‥‥‥もう見たくない? その映画」
「なんで?」
「わたし‥‥‥見たかったの」
「え? そうなの?」
「うん‥‥‥でも、もう…見ちゃったのなら‥‥」
「べ、別に俺が見たからって‥‥‥誰か友達と行けば?」
「‥‥‥‥」
「そ、それに、ほら、一人で行くよりも、誰かと行った方があの映画、絶対面白いって」
詩織の沈黙に思わず慌ててしまった。
「‥‥‥うん」
その返事に、映画が終わった後の居づらさの事がふと頭に浮かんできた。
カップルだらけの空間。
俺には辛かった。横に居てくれればいいという人が他の奴の横に居たかと思った事が、その辛さを何倍にもしたからだ。
「あ、あのさ‥‥俺でよかったら、その映画付き合ってもいいけど」
「え‥‥ほんとうに?」
嬉しそうに聞こえたせいで、さっきの詩織の沈黙の意味が、もしかしたら‥‥‥という考えに変わった。
「いいよ。
 何回も見たって言ったけど、一回目以降は結末もわかってたからボーっとしてて、あんまし頭に入ってなかったしね。
 それに、あの映画妙に音楽がよくってさ。
 だから、しばらく時間開ければまた楽しめると思うし‥‥」
「ふふっ」
「え? どしたの?」
「あの映画に使われてる音楽を演奏した交響楽団って、どこの楽団だか知ってる?」
妙に嬉しそうな声だ。
その声に、ピンと来た。
まさか‥‥‥
「もしかして‥‥‥ウェイストン交響楽団?」
「あたり」
弾む声が返ってきた。
笠間先生ほど、柔らかくない。落ち着いてもいない。
でも、その声は笠間先生には悪いが、俺には一番の声だ。
「へえ、そうなんだ」
確かに、引き込まれるような曲と迫力のある音。
今まで聞いた事もなかったような感動さえあった。
「今日のコンサートでも、おまけでその映画に使われている曲を一曲だけやってくれたの」
「どんな曲?」
「えっとね‥‥‥ちょっと恥ずかしいけど‥‥こんな感じ」
その後に、小さく口ずさむメロディが聞こえてきた。
時に切なく流れたかと思うと、ふいに希望に満ちたように弾むメロディに変わっていく。
詩織が口ずさんでいるからだろうか。なにか、ずっと昔から知っている曲のような気がした。
映画のラストシーン。主人公と恋人がお互いの心の内を語り会うシーンの曲だ。
その時の感動が、鮮明によみがえってくる。

随分長い時間、詩織が口ずさむメロディを聞いていたような気がしたが、ふと電話から流れてくるメロディがやんだ時、現実に引き戻された。
「うまく伝わらなかったかもしれないけど‥‥‥こんな感じの曲」
恥ずかしそうな感じがした。消え入るような声がその証拠だ。
「そっか‥‥‥」
俺には十分伝わってきた。
むしろ、最初から最後まで口ずさんで欲しかったくらいだ。
「その曲だったのか‥‥‥すごくいいシーンの時だったよ」
「どんなシーンだったの?」
「今聞いちゃ駄目だって。行った時のお楽しみってね」
「‥‥そうよね。うん」
「じゃ、再来週あたりでいいかな?」
「ホントに行ってくれるの?」
「ああ、行くよ。行く。
 その代わり、帰りに飯とか付き合ってくれればね」
冗談混じりに言ってみた。
もちろん、そこまでは期待してない。が、期待以上の答えが返ってくるのに時間はかからなかった。
「うん。なんかおいしい物食べましょ」
電話の向こうで、確実に微笑んでいるのがわかる声だ。
涙のせいで赤くなっているだろう目も、浮かぶのが笑いであれば、その赤みが消えるのも早いかもしれない。
「あ‥‥‥そうだ。話全然変わっちゃうけどさ、こないだの笠間先生の古文でやった『紫葉山観録』の内容って覚えてる?」
「あ、あれ‥‥‥」
「俺、聞いてなくて、あとで笠間先生に話してもらったんだけど、最後の方は教えてくれなくてさ。
 自分で調べなさいとか言われたよ」
「ごめんなさい。わたしもあの授業、あまり聞いてなかったの‥‥」
「え? そうなの」
「うん‥‥‥ちょっとボーっとしてて」
その理由が、俺と同じだったのだろうかと思ってみた。

聞いたら「同じ」と言ってくれるだろうか。
もし「同じ」と言ってくれたら今までずっと言えなかった事が言えそうな気がする。
理由を聞けたら‥‥‥の話だ。
その時点で、つっかえるのはいつもの事だ。

「ね、良かったら聞かせてくれない?」
「聞いたばかりで、うろ覚えだけど、それでよければ‥‥‥」
「うん。それでいいわ」

笠間先生の言葉を思い出しながら、ゆっくりと話始めてみた。
俺の想い、この物語の主人公に重ねて、詩織に伝えられるだろうか。
俺が想っている事を。
俺が‥‥‥詩織を好きで居る事を。
「平安中期に‥‥‥」

(5)

−翌日−

放課後、図書室のドアを開けると、図書室のカウンターに如月さんが座っていた。
「あ、いらっしゃい」
入るとすぐにそう声をかけてきた。
いつもこう言われるのだが、その度になぜか本屋に来た気分になる。
「今日も部活の資料探しですか?」
こう言われるのには理由があった。
普段はこうは言われない。なぜなら‥‥‥
「ううん。それもあるけど‥‥‥今日はちょっと調べ物をしにきたの」
横に居た詩織が、つっと一歩前に出た。
「そうなんですか。いつもお二人で熱心に資料探して‥‥ほんとに頑張ってますね。うらやましいです」
そう言って、緩やかに微笑んだ。
太陽のようでもなく、月のようでもない微笑み。
仕舞い忘れた風鈴を揺らす、少し暖かな秋の風のような微笑み。
こんな如月さんが居るから、図書室を利用する人が多いのだろうか。
今も、わりとまばらに人が居る。半分以上が男子生徒だ。
好雄の姿もあるな。
あいつ、難しそうな本を読んでいるフリをしているようだが、漫画でも重ねているに違いない。
とりあえず、そんな如月さんの微笑みも、俺の気持ちの中の風鈴を鳴らす事は出来ない。
微笑み一つ、言葉一つで、俺の風鈴を早鐘のように鳴らす人が隣に居るからだ。
‥‥‥と、今はそんな事を考えいる場合じゃないな。
「なんの本をお探しですか?」
「あ、いや、いいんだよ。こないだ見た奴だから」
「そうですか。ではごゆっくりどうぞ」
俺は手をあげて応えてから、目当ての本がある本棚へ向かった。
「場所、覚えてるの?」
すぐ後ろについてきた詩織が声をかけてきた。
「ああ、借りに来てるからね」
「そういえば‥‥‥未緒ちゃん、ここらへんの本の配置、だいたい知ってるのよね。
 ほんと、凄いな‥‥」
「確かに‥‥‥」

そこらの図書館を凌ぐほどの本の量だ。
さすがに、伊集院家の肝煎だけはある。
ただ、妙に派手なのがいけない。町の方にある図書館の方が、雰囲気は断然いい。

「ここらへんだったかな‥‥」
俺は、借りた時に置いてあった場所の前に立った。相変わらず難しそうな本の置いてある場所だ。
「‥‥‥‥この段?」
「うーん、確かにそうだったんだけど‥‥」
しばらく探してみても、どうも見あたらない。
「借りられちゃったのかな‥‥」
詩織が残念そうに息をふうっと吐く。
「ちょっと聞いてみるか‥‥‥」
俺達は如月さんの所へ戻って、貸出の事を聞いてみた。
「ええとですね‥‥‥」
端末を手慣れた感じで操作しながら、
「貸出はされてません。
 それに、あの棚には戻しておきましたから、そこに無いとなると、今この部屋の中に居る誰かが読んでいる事になります」
眼鏡をかけなおしながら、ハッキリと言われた。
「え? あれを読んでる奴なんか居るのか‥‥‥」
「‥‥勉強熱心な人もいるのね」
詩織も感心している。
だが、俺はピンと来た。
笠間先生が話してくれた事なんて、知っているからあんなに砕けた内容として表現出来るんだ。
普通の読書にはまったく向いてないと言っていい。
となると‥‥‥
「あ‥‥と、詩織、ちょっと部の資料、適当なやつ見繕って空いた席に座っておいてくれないかな?」
「え‥‥いいけど、どうしたの?」
「ちょっとね」
背中を見せてから、途中で適当な本に手を延ばして一冊取った。
チラリと見たタイトルには「女性心理の考察」と書かれていた。
好雄向きかもな‥‥‥と思いながらも、今度は俺も借りてみようという気になる。
こんな本くらいでわかったら苦労はしないが、研究しないよりはマシだ。
一番確実なのは、本人に聞く事だとわかっているものの、それが出来ていればこんな本に興味なんか示すものか。
好雄の背後から近づくと、案の定漫画を重ねて読んでるのが目に入った。
やれやれ‥‥‥
「おい、好雄」
俺に肩を叩かれて、驚いたように身体をビクリとさせて振り返った。
「あ、なんだ。…か」
「なんだじゃないよ。まったくお前は‥‥‥」
「うるさい。今読書をしているんだから邪魔しないでくれ」
「読書ならもっとまともに読めよな‥‥それよか、ちょっと今お前が読んでいるフリをしている本、見せてくれないか?」
「あ? 別にいいけど」
不思議そうな表情をしながら、表紙をチロっと見せてくれた。
やっぱりだ。
それにしても、あっさり認めるなよな。
「なあ、その本、こっちのと取り替えてくれないか?」
持ってきた本を差し出した。
「なになに‥‥‥女性心理の‥‥」
言いながら俺の手から本を奪うよう持っていく。
「まあしょうがないか。貸してやるよ。
 しっかし、どうせ持ってくるんならエロ本でも持ってくりゃいいのに‥‥‥」
「なんだったら如月さんに聞いてみようか? 好雄がエロ本探してるって‥‥」
カウンターで何やら作業している如月さんをチラリと見ながら言うと、好雄の顔から血の気が引いていく。
「ば、ばか。お、お、お前‥‥」
「あほ。本気にするな」
俺は好雄から、目的の本を受け取った。
「たまには、ちゃんと本も読めよ」
俺がそう言うと、不意に好雄がニヤっと笑いながら
「‥‥‥それよか、今度エロ本貸してやるよ。
 可愛い子ばっかり載ってるから、お前好みのもあるかもしれないぜ」
そう言って、さらに笑顔を深めた。とても女の子相手に見せられるような笑顔じゃないな。
「ほんとか? そ、そうか‥‥それじゃ」
ふと、好雄の視線が、微妙に俺からずれているのに気づいた。

ん? なんかおかしいぞ?

なんとなく振り向いた時、俺は心臓が止まりそうになった。
いや、ホントに二秒くらい止まったかもしれない。
「なにしてるの?」
本を抱えた詩織が、いつのまにか俺の後ろに立って、?マークを浮かべたような表情をしながら聞いてきた。
「な、なんでもないよ。ちょっと本をね」
俺があわてると、好雄が、
「俺って勉強熱心だから、読書してたのに、コイツが邪魔するんだよ」
「そう」
ニッコリ笑う詩織。
良かった、聞いてなかったようだ。
「好雄、漫画本閉じてから言わないと説得力ないぞ」
そう言うと、好雄は慌てて漫画本を閉じた。
「じゃな、俺達はちょっと資料調べあるから」
好雄の所から離れた。
「ほら。本あったよ」
その言葉に、無言で笑顔を送ってきた。
なぜか、鼓動が高鳴る。
いつもと違う高鳴り方だ。
「さ、さあ、ほら時間無いし・・・」
先に一歩行くと、背中に小さな声向けられてきた。

「‥‥‥エッチ」

呆れたような、それでもどこか微笑んでいるようなその声を、俺は聞かないフリをした。
振り向いたら、どんな表情が待っているか分かったもんじゃない。


「なるほど‥‥‥娘さん、こういう風になったのか」
「紫葉山観記」を読み終えて結末を知って、ふうと息が漏れた。
つっかえた物が取れたような感じだ。
さすがに、古文の原文だけあって、笠間先生が言ったほど分かりやすく理解してはいなかったが、どうなったのかだけは確実にわかった。
「‥‥意外だったね」
詩織も、ふうっと息を漏らす。
「でもさ、これはこれでいいんじゃないかな」
「わたしは‥‥‥もっと違う事になると思ったけど」
「そっか‥‥」
考え方の違いだろうか。
それとも、男と女の違いのせいだろうか。
「‥‥‥もし‥‥もし、詩織だったらどうしてた?」
物語の寛良と娘の物語。詩織だったら‥‥‥
「わたしだったら‥‥‥」
詩織がなんて答えるかを待つ間、俺は、はやる気持ちを押える事しか出来ないでいた。

−日曜−

秋の良く晴れた空は、どこまでも蒼く突き抜け、ほんとは宇宙なんていうものは無いのかもしれないと思いたくなるようだった。
それでも、夜になれば、星空が夜空を飾る。
これから会う人とは、小さい頃からそんな晴れた空、夜空を、一緒に眺めるが良くあった。

これからも‥‥‥

そんな気持ちを振り払ってから、チャイムを押した。
すぐにドアが開いた。
まるで、待ちかまえていたかのように‥‥‥。
ドアの向こうに立っていた詩織を見て、俺は思わず息を飲んだ。
「‥‥‥」
「どう‥かな?」
少し照れた風に、俺を見ている。
「‥‥‥」
俺は言葉を無くした。言おうとした言葉もどこかへ飛んでいってしまった。
「やっぱり、変だったかな‥‥‥」
俺が何も言わずに茫然としていたせいか、少し表情を曇る。
「そ、そんな事ないって、すごい綺麗だよ」
ふと我に返った‥‥‥はいいが、返ったついでに素直に言ってしまった。

限りなく黒に近い紺色のスーツに、黒のストッキング。
いつもの明るい色のヘアバンドとは違う、濃緑の落ち着いた感じのヘアバンドがいっそう全体の雰囲気を引き締めているような気がする。
黒に近いという色のせいだろうか。いままで見てきた詩織とは全然違う、大人の雰囲気がうっすらと漂っていた。
昨日、制服を着ていた詩織と同じとは、とても思えないほどだ。

「ほ、本当? うれしいな‥‥‥」
嬉しそうに微笑む詩織の頬が、さぁっと赤らんでいくのがわかる。
「なんか、すっごく大人っぽくて綺麗だよ。
 俺みたいなのが一緒に歩くのがもったいないな‥‥」
「そ、そんな事‥‥」
嬉しそうな顔が、恥ずかしそうな表情に変わっていく。
「今日の為にって、用意してたの。
 それにこれ初めて着る時は…と一緒の時って決めてたし‥‥‥」
「え‥‥‥」
言ってから頬を紅くしてうつむいてしまった詩織を見て、鼓動が勝手に早くなっていくのを感じた。

どうにもならない。

「そ、それは嬉しいな‥‥‥でも‥‥ほんと、綺麗だよ。うん」
他に何か言うことがないのか。と、心のどこかで叫ぶ声が聞こえる。
あっても、鼓動が邪魔してうまく口から言葉が出てこない。
「ありがとう‥‥」
目を細めながら、それでもしっかりと顔をあげながら微笑んだ。
服の魔法に負けない、いつもの詩織の笑顔に、俺は安心した。
どこか遠くへ行ってしまったような感じすらしていただけに、余計そう思う。
この笑顔の側にいれるだけで、あったかい気分になれる。
ずっとこの笑顔と一緒に居たい。その想いは届く日が来るだろうか。
「‥‥‥それじゃ、もう行きましょうよ」
横を通り抜けていく詩織。
その時に、耳元にキラリと小さな輝きが見えた。
少し吹いた風が、耳元にかかっていた髪をどけたせいだ。
俺は、その時、なぜ詩織が後ろ髪を少し前に回して耳を隠しているのか分かった。
「あ、詩織‥‥‥」
側を通り過ぎた時に香った、いつもと違う香りのせいか、俺は無意識に詩織を呼び止めていた。
「なに?」
俺の呼び止めに、ゆっくり振り向く。
「えっと、その‥‥‥ありがとう」
「どうして‥‥?」
俺はその答えに、詩織の目を見つめながら、自分の耳たぶを二回ほど触ってみせた。
何が言いたいのか、すぐに伝わったようだ。
「これ‥‥‥誰かさん専用なの」
桜色の貝を、人指し指で小さく弾きながら、そっと囁くように言った。
弾かれた貝は、キラキラと揺れる。
「えっ‥‥‥」
驚く俺の顔を見て、頬を染めながら小さく微笑んだ。
小さな悪戯が成功した時に子供が見せるような、そんな無邪気な笑顔だった。

あのイヤリングは俺の為だけに輝く物になっているらしい。

イヤリングを箱から取り出す時、あの箱のオルゴールの音が、頭の中に鮮明によみがえってきた。
付ける時、微笑んでくれただろうか‥‥‥
俺のプレゼントなど、笑顔を引き立たせるだけの物でしかない。
それでも、詩織が気に入ってくれたのであれば、もう言う事はなかった。
「さ、行きましょう」
「あ、ああ‥‥‥」


笠間先生は、人は誰かの持ち物じゃないと言った。
確かにその通りだ。
しかし、気持ちだけは、向けられている時だけは、その人の物なのかもしれない。
それが笑顔でも涙でも。
今日一日、詩織の笑顔は俺の物なのかもしれない。

Fin

後書き

この度、この暴走しまくっている文章が50作目を迎えました。
ちょっと欠番もありますが、管理上、50作目ということになります。
思えば、ときメモにハマって以来、こんな文章を書きまくってきましたが、まさか50まで行くとは思いませんでした。
とはいえ、途中から「目指せ100作」を掲げてきたのでようやく半分です。
(編者注:初期の作品の中には複数で1話となっているものがある為、話数は実際の作品数と食い違いってます)

今まで、少しでも応援したり感想をくれた方々に、心からのお礼を申し上げます。
こうやって書いてこれたのは、そういったみなさんのおかげなのです。

主人公と詩織。
この二人の物語は、まだまだ続きます。
二人はまだ気づいてないんです。
お互いの行動の理由が「好きだ」のひとことで片付く事を。
いや、もう知っているのかもしれません。
知っていて、話せない。
そんな二人なんです。
じっくり育てる想い。
それが似合うかな‥‥‥とか思います。


TOKI50.TXT(詩織サイド)も書こうかと思ったんですが、とりあえずそれは次回ということで。
今回のTOKI50.TXTと併せて読んでいただけると、話の全体が見えてくるかもしれません。

もうとっくに呆れられているかもしれませんが今後ともよろしくお願い致します(__)
紐緒香織ちゃん。知子ちゃん。香織紗織姉妹。香織のクラスメイトの彩などなど‥‥‥
これからも、ちょくちょく出てくるかもしれません。


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル35:嫉妬
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数287
感想投稿最終日時2019年04月09日 05時09分06秒

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コメント一覧(クリックで開閉します)

  • [★★★★★★] 主人公、鈍感すぎ。
  • [★★★★★★] すごくイイです。これからもがんばって下さい!!めざせ100作!!
  • [★★★★★★] なんだか自分の高校生の頃を思い出しちゃいます。
  • [★★★★★☆] 詩織が泣くところ、かわいらしいですねぇ。
  • [★★★★★★] 面白い。詩織が可愛いです。
  • [★★★★★☆] 新鮮で面白かったです。詩織ちゃんのやきもち(爆弾?)なら有りそうですが、主人公のやきもちって言うのは、想像したことがありませんでした。 詩織サイドも読んで見たいですね。リクエストします。
  • [★★★★★★] 19話のイヤリングが出てくる所なんか素敵ですね。ところで後書きにある「詩織サイド」ってないんでしょうか?ぜひ読みたいです。
  • [★★★★☆☆] 自分がまだ、高校生の頃の時これと似たような経験をしました
  • [★★★★★★]