年が明けてから、三日が過ぎた。

三が日も終わりを迎えたが、まだ世間は正月気分は抜けていないようだ。
つけていたTV番組でも、司会者や出演者が、こぞって「明けましておめでとう」を連発している。
かく言う俺も、雑煮を食べながらそんなTVを見ていた。
一月三日。昼下がりの事であった。
今年の正月には、特別な意味は一応あった。
なにしろ、高校最後の正月だ。今年の三月で俺は三年間を過ごしてきたきらめき高校とも別れる事になる年だからだ。


卒業────


正直、実感はわかなかった。
ただ、みんなとの別れが近いという実感だけは確実にあった。

ふと、箸を止めて、ため息を一つ。

俺の最大の関心の元になる人の事が、頭の中に浮かんできた。

両親以外の誰よりも長く俺と一緒に居てくれた人。
思い出の中に、一番深く関わっている人。
藤崎詩織という名の女の子の事が。

卒業が近くなってから、どうしようも無い気持ちが高まっていった。
このまま卒業式の日を迎えてしまったら‥‥
もし、詩織があの学校の伝説を信じて、誰かにその事を伝える事があったら‥‥‥
俺は、物凄く多くの事を失いそうな気がする。
そうしたらどうなるだろう。俺のこの想いは。
過去を思い出に変える事なんか、出来ない気がした。
初詣に行った時、賽銭を少し奮発して俺は祈った。隣で手を合せて願いをかけるている詩織との事を。
「なにをお願いしたの?」
詩織はそう聞いてきた。
本当の事を言ったら、どうなっていただろうか。
詩織は、勇気が欲しいと言っていた。俺もそれは欲しい。勇気があれば‥‥‥
卒業まで、あと二ヶ月近く‥‥‥
そう考えていたら、いきなりチャイムが鳴った。
今日は両親ともども出かけて、今は居ない。俺が出るしかなさそうだ。
「はぁい」
玄関に行って、ドアを開けると、立っていたのは詩織だった。
冬だというのに、温かそうな笑顔。
一瞬、今は春かと思ったくらいだ。すうっと入り込んできた冷たい風にも奪えない暖かさ。
「あ、詩織」
「…、こんにちは」
ニッコリと微笑む姿がそこにあった。
「なに、どうしたの?」
「うん‥‥ちょっと見せたい物があって」
ふと、さっきの不安が頭をよぎった。
この笑顔。心底向けられる相手は誰だろう。
「あ‥‥良かったら入らない? 立ち話もなんだから」
「それじゃ‥‥ちょっとお邪魔していいかな?」
「いいよいいよ。気にしなくて」
「うん‥‥それじゃ」
俺の横を通りすぎる時、いい香りがした。

「詩織、なんか食べてきた? お雑煮あるけど食べる?」
居間に通してから、こたつに入るように勧めた。
「うん‥‥どうしようかな」
こたつに入りながら、少し考えた風に、スッとした顎に、綺麗な人指し指を当てていた。
「食べていきなよ」
「それじゃご馳走になろうかな」
「おっけ。んじゃ持ってくるからちょっと待ってて」
「うん」
自分の分の空になった椀を持って、俺は台所へと向かった。
歩きがてら、詩織がさっきから何かを隠しているのが気になった。
さっきから手に持った封筒みたいな物は、まさかお年玉って訳じゃないだろうな。
台所で、椀に二人分よそってから居間へ戻った。
詩織は俺に気づくまで、窓から自分の家を見ていた。
どこか優しげに、どこか暖かそうに。
その横顔に、胸の奥にある物が、トクンと動き出す。

トクントクン。
次第に高鳴っていく。

詩織がうちに居るせいかもしれないが、ふと小さい時の詩織の姿が重なって見えた。
小さい時は、いつも笑っていた。太陽のように。
それがいつのまにか、ドキリとさせるほどの優しそうな笑みを浮かべるようになった。
どんどん置いていかれる気がして、少し胸が痛んだ。
「あ‥‥‥」
「お待たせ」
「ううん‥‥用意させちゃってごめんなさい」
「いいって、俺が勧めたんだから」
詩織の前に椀を置いた。
「それよか、どうしたの?」
窓を見ていた事を聞いてみた。
「うん‥‥‥懐かしいなぁ‥‥って」
また窓の外に目を向けながら、そっと呟いた。
俺はそれを見ながら、こたつに入って
「懐かしい?」
「よく小さい時、ここでこうやって自分のうちを見てた事を思い出しちゃって」
「あ、そっか」
「…のうちで、こうやって居るのって、もう何年ぶりかな‥‥」
「‥‥‥」

いつの頃からか、詩織とは少し離れた感じになっていた。
小学校を卒業するあたりから中学の二年くらいまでは、お互いにあまり関わっていたわけじゃ無かった。
とはいえそこは隣同士、まるっきり疎遠という感じではなかったが、お互いにどこかよそよそしい感じだったのも確かだ。
あの頃は、自分の気持ちの行き場所なんか考えた事もなかった。
ただ、気になる存在としてしか、詩織を見れなかった。
そして気が付けば、いつのまにか詩織は高い所へ行ってしまった。
ただ、こうしていると‥‥‥学校じゃない場所でこうやっていると、そんな事が嘘のように思える。

そんな時、ふと思う。いつも側に居た‥‥と。
高いところなんかに行っていない。手を伸ばせば触れられる場所にいつも居たんだと‥‥‥

「それよりさ、ほら、雑煮あったかいうちに食べてよ」
「うん。それじゃいただきます」
詩織がそう言って、椀の蓋を開けた時、
「あ‥‥」
「え? なに?」
「この匂い‥‥変わってないね」
何の事かは、すぐに察しがついた。
俺はずっと毎年食べているから気づかないが詩織にとっては、うちの雑煮を食べるのは久しぶりだ。
まだその時の香りや味を覚えているのだろう。
「‥‥‥味も全然変わってないね。すっごくおいしい」
「母さん、進歩してない証拠かな」
「そんな事ないわ。わたしこの味とっても好きよ」
「まあ‥‥ね。確かにうまいけど」
俺は自分の分を食べ始めた。
ひとつ同じ鍋の物を食べているという事をふと思い出して、頭にまわるはずの血が全部心臓に回ってしまったように感じる。
詩織はそんな事を意識しているのだろうか。
‥‥‥している筈がないか。

しばらく、二人して雑煮を食べていた。
詩織の食べる速度に合せて、俺もゆっくりと食べる。
そうしているうちに、さっきまで感じていた、うちに詩織が居るという妙な違和感は、いつのまにか消えて無くなっていた。
詩織がここに居る事が、むしろ自然のような気がする。
昔は、こんな事を思う事自体なかった筈なのに‥‥‥いつからだろうか。
「今度おばさまに教えてもらおうかな」
「でもさ、詩織んところのだってうまいんじゃないの?」
「うん‥‥‥でも、わたし、どっちの味も好きだから」
「それじゃ、いつか二つの味が混ざったようなの食べれるかな?」
この時は何も意識してなかった。ただ軽いつもりだった。
「来年、きっと作るから‥‥そしたら食べてね」
この時になって、「来年」という言葉が胸に深く刺さった。
痛みはない代わりに、苦しさと切なさだけがある。
来年。来年になっていれば、今の関係になんらかの決着がついている筈だ。
その時、どういう状況になっても、俺は詩織の雑煮を食えるだろうか。
「ああ、必ず食べさせてもらうよ」
必ず。の所にありったけの気持ちをこめた。
「うん。期待しててね」
そんな気持ちを知ってか知らずか、微笑みながら頷いている。
一年先の遠い約束。
かなう保証はどこにも無い。
それを考えると、やけに胸が痛く重たい。
「それより、今日はどうしたの?」
何か用があったからうちに来たという事を、今まですっかり忘れていた。
「なんだと思う?」
詩織の表情に、悪戯っぽい笑顔が浮かんだ。
なんのヒントも無しに、俺にわかる筈がない。が、俺に関係している事だけは確かだ。
そういう表情をしている時は、いつもそうだったからだ。
「わかんないよ。なんかヒント無いと」
「これなんだけど」
さっきから隠すように持っていた物を、トランプのババヌキをするかのように手に持って出してきた。
その時になって、初めてそれが白い封筒と、葉書のような物が二枚だと分かった。
「‥‥‥年賀状?」
詩織からは、元旦に年賀状が届いていた。
年賀状を取りに行った父さんの話だと、束の中じゃなくて、一枚だけポストにあったという事らしい。
どうやら三十一日の夜あたりに、うちのポストにこっそり入れたのかもしれない。
そういえば、初日の出を一緒に見に行った時に、うちの前で待っていた時に、やたらポストを気にしてたっけ。もしかしたらあの時かもしれない。
かく言う俺も、ポストに出さずに、藤崎家のポストの中に直接入れたクチだ。
お互い、考える事が同じだとわかって、その時はなんとなく嬉しい気分だった。
とりあえずそんな訳もあるし、今詩織が持っているのは年賀状みたいではあるが、俺宛てではないようだ。
「うん。でも、誰からだと思う?」
「‥‥‥誰?」
そう訊くと、葉書の方だけを二枚こたつのテーブルの上にそっと置いた。
「あっ!」
思わず声が出た。
一枚は、宛名の文字がぎこちない文字だ。差出人の名前を見て、それが納得出来た。
「え‥‥ほんとに!?」
思わず年賀状を取り上げた。
裏返すと、さらに俺を驚かせた。
「おにいちゃんとおねえちゃんへ」という文字がいきなり目に飛び込んできたからだ。
「知子ちゃんからの年賀状じゃないか!」
詩織を見ると、俺が驚くのを予想していたかのように、にっこりと笑っていた。
他には、手書きの拙い干支の絵と「あけましておめでとうございます」とひらがなだけで書かれた文字があった。
その下には、あそびにきてね。と小さな文字まである。
はは、こりゃいいや。すごくいい。最高だ。

冬休みに遊びに来た、詩織の従姉妹。その時の事はすごく心に残っていた。
その時、俺は束の間、知子ちゃんの兄貴だったし、パパでもあった。
つい最近の事なのに、なぜか懐かしく感じる。

年賀状‥‥一生懸命書いたに違いない。

「へえ‥‥知子ちゃんが年賀状か‥‥‥」
詩織宛てでも、しっかりと「おにいちゃん」と入っている事に嬉しさを感じる。
「見て、この宛名。きっと叔母さんが書いたのを自分で見ながら写したのね」
漢字を書くというより、むしろ絵を描き写すような感じに思えた。
それでも、一生懸命だけは伝わってくる。
なによりも、それがわかるのが一番嬉しい。
「俺も知子ちゃんに返事の年賀状出さなきゃな‥‥」
「わたし、もう出したから。その年賀状、…が持ってて」
「え? いいの?」
「だって、わたしだけに宛てた物じゃないから」
「あ‥‥いいんだったら、俺がしばらく預かってるよ。返事書き終えたら返すから」
「うん」
手元に知子ちゃんからの年賀状を引き寄せて、残ったもう一枚の方を見た。
「あっ!」
また声が出てしまった。
どうしてこうも驚かせる物を持ってくるのだろうか。
いや‥‥でも、知子ちゃんの年賀状ほどの驚きはなかった。
なにしろ俺も貰っていたからだ。
「詩織も貰ったのか」
俺の言葉に、ひとつ頷く。
「へえ‥‥涼子ちゃん、詩織にまで‥‥‥」
裏返そうとしたとき、
「あ、駄目」
慌てて俺が持っていた年賀状を押えた。
「え!?」
「あ‥‥ご、ごめんなさい。でも、ちょっとひっくり返さないで。お願い」
「あ、ああ‥‥‥いいけど」
俺は少しあっけに取られて、そのまま年賀状を離すと、詩織の手に渡った。
「な、なに? なんかまずい事でも?」
「ううん‥‥べ、別に‥‥‥でも、ちょっと‥‥ね」
見た目にハッキリとわかるほど頬が紅い。
「なんか気になるなぁ‥‥」
「ホントになんでもないの。だから、気にしないで」
「気にしないでって言われると、余計気になるけど‥‥‥」

慌てぶりが普通じゃない。どこか変だ。
これが宛名も見せずに隠すような葉書だったら、俺の不安を煽ったに違いない。
が、相手は涼子ちゃんだ。別に気にするほどの事でもないか。

「あとで‥‥あとで必ず見せてあげるから」
どこかそわそわした風に言ってから、詩織はその年賀状だけを、自分の後ろに置いた。
どうあっても見られたくないらしい。
ま、別に構わない。あとで見せてくれるというのなら、気長に待つ事にするだけだ。
見せてくれると言ったら、見せてくれる。詩織がそう言うのなら、絶対にそうしてくれる。
それがいつかはわからないが。

「そ、それより、この手紙なんだけど‥‥‥」
慌てるのを隠すように、詩織が持っていた最後の封筒を、俺の前に差し出した。
受け取った俺は、少し目が点になっていたかもしれない。
「‥‥‥JAPAN?」
見慣れない文字で、誰だこの下手な日本語を書く奴は。と、一瞬思ったほどだ。
頭から日本語だと信じていたからだった。
よくよく見ると、宛名は全部英語だった。もちろん達筆だ。
最初から英語だとわかっていたら、勘違いなんかしなかっただろう。
「なんだこれ、エアメール‥‥かな?」
くるっとひっくり返した。今度は詩織は止めなかった。
英語で書かれた住所らしき物の最後に、こうあった。
「from KAORI HIMOO‥‥」と。
声に出して言ってから、頭の中でそれがどういう事かわかるには、五秒ほどかかったかもしれない。
なにしろ、すべてがいきなりな事だ。ローマ字で人の名前を見ても、人の名前だと思う事に、少し時間がかかるのも無理はないだろう。
エアメールなんてのには、おおよそ縁がない。
「かおり・ひもお‥‥‥‥」
二、三度復唱してから、頭にパッと電球が灯った。まさにそんな感じで閃く。
「‥‥香織‥‥‥香織ちゃんか!!」
今日一番驚いたかもしれない。いや、今年になってから一番の驚きだ。
「わたしも、外国から手紙なんて誰だろう?って思ったけど、差出人見てびっくりしちゃった」
俺の驚きに便乗するように、詩織自身も驚いた時の興奮を伝えてきた。
まるで、俺が驚くのが嬉しい事のように。
こういう時、不意に心がひとつになっていると思う時がある。
そんな事があった時は、会話がふと途切れても、気まずさを感じたりはしなかった。
そう思っているのは俺だけかもしれないが‥‥‥
「あ‥‥Dear …&SHIORI ‥‥‥って、なんだ、俺達宛てか!」
差出人の文字の方が大きかったから、今までそっちにばかり気を取られていたが、
その前に小さく書かれていた文字を見つけた。
「そうなの。だから、まだ開けてないんだけど」
言われてみれば、確かに封を切ってはいないようだ。
「別に良かったのに」
そうは言ってみたものの、内心嬉しくてたまらない。
「ううん。だって、香織の事でしょ‥‥‥だから一緒に見ようと思って」
柔らかく微笑まれて、思わず目を逸らした。
ずっと見ていろ。と心のどこかでもう一人の俺が言う。無茶いうな。と、俺も言い返す。
「それじゃ、詩織開ける?」
そう言うと、詩織は小さくゆっくりと首を横に振った。
「いい。…が開けて」
「‥‥‥んじゃ、俺が開けるよ?」
詩織の返事は一つの頷きだった。

丁寧に封を切ってから、封筒を開くと、中からいい香りがした。
ホワッと柔らかくなるような匂いだ。香織ちゃんを例えたような匂いのような気がした。
「なんかいい匂いがするよ」
開いた封筒の口を詩織に近付けた。
「‥‥ほんと。いい匂い‥‥きっと、香水か何かをちょっと着けたのね」
「え? そうなの?」
「うん。わたしも使った事あるから」
「へぇ‥‥」
男には、そんな細かい心配りは無理そうだ。だいたい香水なんて持ってない。
香りまで同封するとは、さすが女の子って所だろう。
手紙を取り出すと、確かにさっきより一層強く匂ってきた。それでもしつこい香りじゃなくあくまで控えめな香りだ。
ほんと、香織ちゃんらしいな。
「詩織、もしよかったら‥‥‥読んでくれないかな?」
「えっ? わたしが?」
「いや、ほら‥‥なんか香織ちゃんが読んでる気になれるからさ」
本当ならば、こんな事は絶対に言えそうもない。他の女の子の手紙を読ませるなんて普通ならば、読まさせられる方としてもイヤだろう。
それでも、俺は自然に言えた。言っても詩織は受けてくれると思った。
「うん。それじゃ、わたしが読むね」
その通りだった。イヤな顔ひとつせず、むしろ喜んで俺から手紙を受け取る。
受け取った手紙を、ちょっとだけ目で追ってから、
「‥‥拝啓、…さん、詩織さんお元気ですか」
そう読み始めた。
詩織の声が香織ちゃんの声と重なる。
手紙を書いている香織ちゃんの姿が、なんとなく浮かんできた。
目を閉じれば、香織ちゃんが読んでいると思えるかもしれない。でも、そうはしなかった。
読んでいる時の詩織の表情が見たかったからだ。
それでも、声は香織ちゃんの声になって、俺の耳に届いた。
「お元気ですか。お久しぶりです。
 あ、明けましておめでとう。ですね。
 私がこっちに来てから、早い物でもう五ヶ月になろうとしています。
 日本では、お正月もそろそろ終わりですね。
 アメリカには三が日みたいのは無いですが、みんなとっても楽しそうです。
 今年は、もうお二人とも卒業ですね。
 わたしも、せっかく馴染んだこっちのハイスクールともお別れの時期です。
 せっかく仲良くなった友達とかと、離ればなれになってしまうというのは、本当に悲しい事です。
 でも、寂しいと思った事はありません。
 …さんと詩織さんと別れてから、一日だってお二人の事は忘れた事はないですから。
 そう思ってみて、やったわかったんです。思ってさえいれば、いつでも近くに居るんだって。
 今も、お二人が仲よさそうにしているのを考えると楽しくなってきます」
詩織の声がかすかに細った。「仲がよさそう」の下りからだ。
確かに、聞いていても妙に照れくさい。俺は頬を人指し指で掻いた。
「こうやって、一日一日、何かを知っていく事が、嬉しくて、そして楽しいです。
 わたしは、まだまだ世間知らずで、困る事も一杯あるけど、
 そんなわたしを、みんなはとっても優しく見守ってくれてます。日本に居た間、お二人がわたしの事を見ていてくれたみたいに。
 あの時は、本当に迷惑ばかりかけちゃってごめんなさい。
 でも、わたしにとっては大切な事ばかりでした。
 今でも、きらめき高校に居た頃の事は、昨日の事のように思い出せます。
 また、みんなと会ってみたいなぁ‥‥‥なんて。
 あ、そうそう。今年の三月。わたしは日本に行く予定が出来ました」
最後にそう言ってから、詩織が小さく声を上げた。俺も同時だった。
「なに? 日本に来るって!?」
「うん、そうみたい。見て」
手紙を俺に見せてくれた。
綺麗だが、少し丸い文字で、確かに三月に来ると書いてある。
「そっか、香織ちゃん、日本に来るのか‥‥‥」
なぜだか、会いたくて会えなかった人と再会するような、そんな感慨が湧いてきた。
会いたいと思えば近くに居る人が側に居るにも関わらず、もう一人の詩織が来るような‥‥そんな不思議な感覚がある。
「じゃ、続き読むね」
詩織も少しだけ高ぶっているようだ。わくわくする物があるのだろう。
「その時に、会って一杯お話ししたいです。
 だから、書きたい事は一杯あったんですがその時の為に我慢します。
 それでは、三月に会える日を楽しみにしています。
 短い手紙でごめんなさい。なにを書いていいのかわからなくなっちゃって‥‥‥
 それでは。
 from 紐緒香織」
続きはそこで終わっていた。
「香織‥‥‥」
びっくりするくらい優しい瞳で、詩織は手紙をずっと見ていた。
俺も、しばらく余韻に浸っていたせいで、言葉が出ない。

それにしても、三月‥‥か。
もうとっくに卒業している頃だ。

そこまで考えて、ふと思った。
俺はその時独りだろうか。と。
あの時のままの三人で揃う事が出来るだろうか‥‥‥と。

手紙の文字を一人で読み返している詩織を見ながら、漠然とした不安を感じた。
こうやっている時間さえも、三月には消えてしまうのではないか。
それを思うと、どうしていいかわからない気分になる。
俺を受け入れてくれなかった場合、俺は俺でなくなりそうだ。俺という抜け殻になるだろう。
それほどの時間、俺は詩織と一緒に居た。
だから、こうやって時間を重ねる度に、心のどこかが辛くなる。
確かな物さえあれば、もっと楽になれる筈なのに‥‥‥
「三月‥‥楽しみね」
「あ、ああ‥‥‥うん、そうだね」
「‥‥どうしたの?」
俺が不安そうな声を出したからだろうか、詩織が不思議そうな表情で訊いてきた。
「いや、なんでもないよ。三月だろ。香織ちゃん来るの」
「うん」
笑顔が胸に刺さった。
「卒業してからか‥‥‥」
少し詩織を試してみたかったのかもしれない。
「‥‥‥‥そうよね。もう卒業してるのよね。わたしたち」
笑顔の中に、さびしげな影が落ちた。本当にわからないほど、薄い影が。
元が笑顔だけに、キュっと胸を締め付けてくる物がある。
「あ、あのさ」
「な、なに?」
俺がいきなり上擦った声を出したからだろうか、詩織も小さく声を上げた。
嘘でもなんでも、今はかすかな約束‥‥というか、希望が欲しかった。
「香織ちゃん来たら、どこ行こうか」
遠回しに、三月になっても一緒に居れるかどうか聞いた。
「そうね‥‥
 香織、何日居られるかわからないけど、出来るだけいろんな所へ行きましょうよ」
俺の言った言葉の意味を理解してくれたかどうかはわからない。
でも、今はそんな約束だけでも十分だった。
今は夢だけでもいい。現実が壊れるよりはずっといい。
いつまでもこのままという訳でもなくなってくるだろうが、今はいい。今だけは‥‥‥
「遊園地に行って、散歩して、公園に行って‥‥色々あって迷っちゃうね」
今から楽しそうにしている姿。三ヶ月後にはどうなっているだろう。
「あ、そうそう。それと、卒業したら知子ちゃんとこにも行かなきゃ」
しっかりその事を覚えていたとは思わなかった。卒業してからの予定。
俺にとっては、すべて未定だ。そうさ、その予定全てに詩織が関わっている。
詩織がかかわらなくなったら、なんの為の予定か。
「遠いんだっけ、ま、休みだから俺達も気がねないけどね」
一緒にという意味で、ある部分を強めた。
「せっかくの休みだし、遠い所へ行くんだから、何日かは遊びに行かないとね」
もちろん‥‥‥という以前に、当たり前な事だと言わんばかりに、微笑んでいた。
「卒業したら、今より忙しくなっちゃうね」
すでに心は卒業後の事に飛んでいそうな表情だ。

卒業式の日。
あの伝説。
詩織は一体どういう風に考えているんだろう‥‥‥
信じているのだろうか?

‥‥‥いいか、三月一日になればわかることだ。

俺も、その日決心をするつもりだ。
それまでは、精一杯残りの高校生活をしよう。
この気持ちは、三月一日までは取っておこう。
「じゃ、とりあえず香織ちゃんの手紙、詩織が持っててよ」
「いいの?」
「いいよ。読んでくれたから、すっかり頭に入ってるし」
「それじゃ、しばらくわたしが持ってるね」
嬉しそうなところを見ると、持っていたかったに違いない。
ふと、俺が持つより、詩織が持っていた方がいいような気がした。
封筒に大切そうに仕舞まってから、涼子ちゃんの年賀状と一緒にまとめている。
「雑煮、もう一杯食べる?」
空になった椀に気づいて、勧めてみた。
「ううん‥‥もういいわ。実はね、もうさっき家で食べてきちゃったの」
「はは‥‥なんだ。言ってくれればよかったのに」
「でも、久しぶりにおばさまのも食べてみたかったし」
「‥‥‥んじゃ、腹ごなしにどっか行かない? ちょうど暇してたし」
「あ‥‥わたしも、今そう思ってたの」
可笑しそうにクスクスと笑った。
「じゃ決まりだ。行こう」
「それじゃ、わたしちょっと準備してくるから、一旦帰るね」
「ああ、んじゃ準備したら俺もすぐにそっち行くから」
「うん。待ってる」
俺達は、こたつから抜け出て立ち上がった。
「あ、椀持ってくから、俺のに重ねちゃって」
そう言うと、詩織が空になった椀を俺の椀の上に乗せた。
「ごちそうさま。ほんとおいしかった」
「俺が作った訳じゃないからね。母さんに言っておくよ」
「うん‥‥それと、わたしが教わりたがってるっていう事もお願いね」
「おっけ」
「じゃ、また後でね」
「んじゃ」
玄関まで見送った後、詩織が出て行くまでずっと見ていた。
いきなり来た香織ちゃんからのエアメールに、知子ちゃんからの年賀状。
今年は、なんだかいきなりな事ばかりだな。
独りで苦笑しながら、台所へ向かった。

「さっき、封筒の中にこれ入ってたの。家に帰ってから気づいちゃって」
そう言って、詩織が何かを差し出してきた。
「あっ、香織ちゃんじゃないか」
ちょっと照れくさそうにすました感じの香織ちゃんの写真だった。
あの頃よりも、ちょっと髪も伸びて、少し大人びた感じがする。
香織ちゃんも女の子だ。変わるスピードも速いのだろうな。遠く離れていればなおさらだ。
「変わったな‥‥香織ちゃん」
「変わったね」
しばらく無言で写真を見ていた。
「ねえ‥‥‥わたしも変わったかな?」
いきなり詩織が訊いてきた。
「え? な、なにが?」
「小さい時とくらべて」
訊いてくる内容もいきなりだ。
でも、俺の答えはすぐに出た。いや、元から考えるまでもない。
「変わってないよ」
「‥‥‥そうなの?」
答えを待っている表情だ。
「そりゃそうだよ、なんたって‥‥‥」
俺は視線を逸らしてから、
「い、いや、いいよ。やっぱりいい」
「気になっちゃうじゃない」
「理由なんかどうでもいいよ。変わってないものは変わってないんだから」
「もう、意地悪なんだからっ」
そう言いながらも、笑っている。


理由なんか言えるもんか。
ずっと一緒に居たから。なんて。

Fin

後書き

香織、知子、涼子からの年賀状。
今回は香織メインで。
そのうち日本に遊びに来ます。
したら、また紐緒さんとかと一緒にまたなんかやってくれるかもしれません。

初日の出話と初詣話と、まあいろいろネタは尽きませんが表現に行き詰まりを感じてしまう今日このごろ。
長くかきすぎたかもしれない。
ああ、50を突破したあたりからまたスランプX(^^;
だ、だれか‥‥‥ぅぅ パタ


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル37:3通の年賀状
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数279
感想投稿最終日時2019年04月09日 07時18分56秒

旧コンテンツでの感想投稿(クリックで開閉します)

評価一覧(クリックで開閉します)

評価得票数(票率)グラフ
6: 素晴らしい。最高!100票(35.84%)
5: かなり良い。好感触!78票(27.96%)
4: 良い方だと思う。57票(20.43%)
3: まぁ、それなりにおもしろかった22票(7.89%)
2: 可もなく不可もなし8票(2.87%)
1: やや不満もあるが……6票(2.15%)
0: 不満だらけ8票(2.87%)
平均評価4.68

要望一覧(クリックで開閉します)

要望得票数(比率)
読みたい!263(94.27%)
この作品の直接の続編0(0.0%)
同じシリーズで次の話0(0.0%)
同じ世界観・原作での別の作品0(0.0%)
この作者の作品なら何でも263(94.27%)
ここで完結すべき0(0.0%)
読む気が起きない0(0.0%)
特に意見無し16(5.73%)
(注) 要望は各投票において「要望無し」あり、「複数要望」ありで入力してもらっているので、合計値は一致しません。

コメント一覧(クリックで開閉します)

  • [★★★★★★] 初詣以外の正月のお話なんて、珍しいパターンですね。知子ちゃんと香織ちゃんか・・・。続編では、一波乱ありそうですね!