六年という日々は、それなりに長くもあったし、短くもあった。


今までの時間からくらべればたったの四分の一程度だが、そのほとんどの年月を身近で一緒に過ごして来た人が居る事を考えたら、長い短いというより不思議な感じがする。

六年前───

それまでとは違う時間が始まった事は、今も忘れてはいない。

新緑が、風に夏の匂いを乗せてきた。
空気に少し湿度がまざっているせいか、少し動き出すだけで汗がじんわりと滲んで、着ている白いYシャツを肌に張り付かせた。
もう夏か。
空を見上げると、太陽がまぶしいせいで思わず目を細めてしまう。
「さて‥‥と」
俺はネクタイを指でゆるめながら、歩き出した。


ドアを開けると、ドアについていた小さな鐘が小気味いい音を立てた。
風鈴には及ばないが、開けた時に流れてきた冷たい空気にまざったコーヒーの匂いがその音に加勢しているのか、結構涼しげな音に聞こえる。
中に入った。外の蒸し暑さが嘘のようなひんやりとした空気が心地いい。
「いらっしゃいませ」
ウェイトレスの女の人が、にこやかに言葉をかけてきた。
明るい声が暑さを忘れ去れてくれるような気がする。
俺はその声を聞きながらも、狭いが落ち着いた雰囲気のある店内を見回した。
昼にも関わらず、客席には人の影がまばらだ。
ある座席に、俺が探していた人が座っているのが見えた。
「あ、…」
向こうも俺に気づいたのか、読んでいた本から顔をあげてこっちを見た。
俺は手をあげてそれに応え、その人が座っている座席へと足を運んだ。

その間も、ずっと柔らかい笑顔が俺を見守っていてくれる。
今までもずっとそうだった。六年前‥‥‥いや、もっと前から。

藤崎詩織。それが俺の待ち合わせの相手だった。

「ごめん。ちょっと仕事抜け出すの苦労してさ」
「ううん、こっちこそ無理いっちゃってごめんなさい」
申し訳なさそうな言葉に俺は首を横に振ってみせた。
「いいって」
俺が向かいの椅子に腰を降ろすと、すぐにウェイトレスが水を運んできた。
「御注文はお決まりでしょうか?」
「あ、アイスコーヒーお願いします」
メニューを見るまでもない。
「かしこまりました」
注文を取ると、スっと行ってくれる。
相変わらず気のきいた喫茶店だ。
「外、暑かったでしょ?」
「ああ、もうすっかり夏だよな」
「わたしもさっき取材から帰る時、汗が滲んじゃって‥‥」
「取材って、こないだ言ってた例の管弦楽団の?」
「うん」
「大変だなぁ‥‥‥」

詩織は、今音楽雑誌のライターとして活躍していた。
クラシックの造詣に深いのを生かした文章は、かなりの好評を持って迎えられているようだ。
お互い仕事を始めてからは、会う機会が学生時代よりはグンと減ったが、こうして時間を作っては会う事を良くやっているせいで、離れているという感じはしなかった。
「でも、面白いから」
肩のあたりまで切った、短くなった髪に、すっと指を通しながら言った。
「頑張ってるな」
「うん。それに‥‥‥ …が応援してくれてるもの」
可笑しそうに笑って、口もとをそっと手で隠した。
薄く引いたルージュが、自然に表情に華を添えている。
肌のツヤも張りも、あの頃と比べても遜色がないような気がする。
俺はその笑みに照れくさくなって、お冷やを一口飲んだ。
冷たい感触が喉を伝う。
「そ、それより、今日はどしたの?」
「どうした‥‥って、どうしたもこうしたもないでしょ?
 明日はあなたの誕生日じゃない」
「あ、そういえばそうだっけ?」
一年も経つと、自分の誕生日も忘れるような気がする。
忙しければなおさらだ。
「それに、免許の書き替えでしょう?」
苦笑交じりの困った表情を見せている。
俺の誕生日をしっかり覚えているだけじゃなく、免許の書き替えの時期まで覚えているとは思わなかった。
しかし、言われなければ危うく忘れる所だ。
俺も思わず苦笑してしまう。
しかし、誕生日くらいだったら俺も詩織の誕生日は忘れてはいない。
「いや、最近ちょっと忙しくてさ。気にならなかったよ」
「でも、自分の誕生日くらい覚えてないと」
また可笑しそうに笑う。鈴が転がるような、心地良い笑い声だ。
「大丈夫だよ。俺が忘れてても、詩織が覚えてくれるから」
「人をたよっちゃ駄目よ」
「いいって、自分じゃ誕生日来たところでなんとも思ってないし、詩織にも忘れられてたら、ほんと意味ないし」
「男の人って、そういう所が本当にいい加減なんだから」
「まあ、いいじゃないか。それより‥‥‥」
こうやって話してても良かったが、午後の仕事が残っている。用件を早めに聞こうと俺は話を元に戻した。
「あ、そうそう、ごめんなさい。
 それでね。明日なんだけど空いてるかな?」
「明日?」
俺がそう訊いた時、アイスコーヒーがやってきた。
そのアイスコーヒーにストローを入れて、シロップも入れずに吸った。
ここのは、ちゃんと炒れたコーヒーをアイスコーヒーにしているからそれだけでも十分にうまい。
「うん、夕方くらいから」
「ああ、空いてるよ。
 今日これから最後のツメがあるから、それやっちゃえばしばらくはがら空きだし」
「ほんと? 良かった」
詩織は小さく手を合わせながら、パっと表情を輝かせた。
「でも‥‥‥なんで?」
「…の誕生日をお祝いしようと思って。だから」
「べ、別に‥‥‥そんなに気を遣ってくれなくても」
「駄目よ。わたしの誕生日の時あれだけ祝ってくれたのに‥‥‥」
詩織の目が、少し真剣になっている。
「‥‥‥大好きな人の誕生日、お祝いしない訳には‥‥いかないでしょ?」
さすがに恥ずかしいのか、小声で言いながら頬をほんのりと染めている。
何を言わせるのと言わんばかりだ。
「いや、俺は別にイヤって訳じゃないけど‥‥」
イヤどころか、嬉しさで口元が緩んでしまうのを我慢するのが精一杯だ。
「それならいいでしょ?」
「‥‥‥わかったよ。じゃ、明日の夕方になったらどっかで待ち合わせしよう」
「それじゃ、古並駅の新南口に五時でいい?」
「了解」
俺は笑いながら言った。
「じゃ、遅れないでね」
「わかったよ」
「それじゃ‥‥‥わたし、取材の原稿起こしやらないといけないから、そろそろ‥‥」
そこまで言った時、俺は手で詩織を止めた。
「アイスコーヒー飲み終わるまで待っててよ。一緒に出よう」
詩織が、少しだけハっとしているように見える。
「‥‥‥うんっ」
柔らかい笑顔で一言だけ言ってから頷いて、また椅子に座り直す。
まだしばらくは、涼しい空気の中であったまっていられるな。
その時、アイスコーヒーの中の氷が崩れて、カランと涼しい音を立てた。

Fin

作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル48:6年
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数280
感想投稿最終日時2019年04月09日 23時58分54秒

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  • [★★★★★★] 社会人編ですか。珍しいパターンですが、とっても良いです!
  • [★★★★☆☆] 金月を想定すると気持ち悪いんですけど・・・