その日の昼までは俺は健康だった‥‥


「あと一週間で夏休みね」
「詩織は何か予定あるの?」
七月の暑く照りつける太陽の光眩しい中、俺は校門横で待っていた詩織と一緒に帰る事になっていた。

「そうね‥‥最後の夏休みだし、いろいろ行こうかと思うんだけど。
 そろそろ進路の事もあるから、ゆっくりはしてられないのが寂しいね」
そう言いながらも、微笑んでいた。
「でも、そんなに四六時中勉強してる訳じゃないんでしょ?」
「それは‥そうだけど」
「だろう。だから、どこか行こうよ」
「行くってどこへ?」
「そうだな‥‥」

俺は空を見上げた。
限りなく蒼く澄み渡る空は、海が空に浮かんでいるような感じだ。

「海なんかどうかな。今年、なんか暑そうだし、ちょっと遠くとかさ」

空に思い出せてもらったような気がした。
思い出すと、いてもたってもいられなくなる。

「でも‥‥」
ちょっとだけ間の開いた返事。
少し考えているのかな。

確かに、俺自身そんなに遊んでいていい筈でもないが、息抜きは必要だ。
その時は、詩織と一緒。と考えていた。だから誘った。

最高の息抜きだ。

それに‥‥最近、あまり詩織と居る機会が無かったせいもある。
近くに住んでいても、遠いと感じる時はあった。
このまま離れていたら、もしかして‥‥という思いも少しだけある。
「べ、べつに‥‥そんな無理しなくてもいいよ」
考え込んでいるような表情に、少し戸惑った。
「詩織にだって予定あるだろうし」
「ううん‥‥そうじゃないの」
小さく首を横に振って答えた。
ちょうど道路の信号で止まった。
立ち止まると、アスファルトの熱気がしたからこみ上げてくる。

サウナだな‥こりゃ。


「そうじゃない‥って?」
さっきの続きだ。
「え‥あ、いいの。なんでもないから」
微笑みながら手を振った。
「別に‥‥って」
「あ、信号変わったわ。わたりましょう」
話をはぐらかすように、詩織はすぐに横断歩道へと歩き出していた。
俺も仕方なくついて行こうとした時、耳にイヤな音が響いてくるのが聞こえた。
首をそっちの方に向けると同時に、俺は自分でも信じられないくらいの反応をした。
身体が勝手に動く感じだ。

どう見てもスピードを落としそうもないトラック。
運転席を見ると、運転手の顔が見えない。つっぷしているのだろうか。

詩織はそれに気づいていない。

そんな事を考えている間に、俺は走った。

間に合うか‥‥

それだけを考えて走った。

手が詩織の背中に触れた瞬間、力を入れて突き飛ばす。


前にのめるようにして倒れる詩織の姿がなぜかゆっくり見えた。

あのまま転んだら、膝とか手に傷つけさせちゃうかな‥

ごめん‥‥


そう考える暇もなく、俺は衝撃と一緒に身体が宙に浮くのを感じていた。


空が青いな‥‥

浮遊感のある間、視界に入った空を見て、そんな事を考える余裕だけは、なぜかあった。


昼間なのに、だんだん暗くなってきた。それになんだか眠いな。


フッと眠さが最高潮に達して、俺はゆっくり目を閉じた。

ん? ‥‥なんだ?
なんか耳元が妙に騒がしいな‥‥


うるさい。だまれ。
そう思うと、ピタリとやんだ。


しかし、なぜか音がしなくなって、寂しい気がする。

「誰か‥‥誰かいないのか?」
声に出しても、なぜか響かない。


なんでだろう?
それに、なんか妙に真っ暗だ。


なんでだろう?
そう思うと、目の前が明るくなってきた。

ああ、明るいな‥‥
そう感じると、いきなり身体がスウっと軽くなるような気がして、次の瞬間、パッと目を開けた。

最初に見えたのは、薄暗いような白い物だった。

縦横に線が走っている。
しばらくそれを眺めて、なんなのかを考えていた。
すると、いきなり視界に見慣れた物が見えてきた。
俺を生んでくれた人の顔にそっくりだ。
俺を覗き込んでいるのか。
「…?」
その人が俺の名を呼んだ。
ますます母さんにそっくりだ。
「…? …?」
何度も俺の名前を言った。
俺は答えようとして、口を開いた。
「‥‥ここは?」
なんとか言葉だけはでたな。
それでも、まだ頭の中が整理つかない。
「よかった‥‥」
泣きそうな顔をして見ているこの人は‥‥そうか、母さんか。
そうすると、もう一人見た事も無い人影が見えた。
「もう大丈夫です。
 腕一本骨折にヒビ、それに全身数ヶ所挫傷で済んだのは奇跡としかいいようがなかったですよ」


なんの事だ?
腕一本?? 挫傷?


俺は訳もわからずに身体を起こそうとしたが、うまく起き上がれない。
なにか、身体を押えつけられているような感じだ。
「こらこら、まだ起きちゃイカンよ」
見慣れない人影‥‥顔は知らなくても、頭で整理がついた。
あ、なんだ、この人は医者か。
白衣に聴診器。それだけで十分にわかる。

「あれ‥‥? 俺、なんでこんなところに?」
そうつぶやくと
「あなた‥‥トラックに跳ねられたのよ」
ホッとしたような表情で、母さんが言った。
「トラック?」

誰がそんな物に跳ねられた? ‥‥大変じゃないか!
俺が跳ねられた?
そんな馬鹿な。だとしたら生きてる訳ないし。

「ああ、トラックだ。
 状況を聞いた限り、普通ならどうなっていたかわからない事故だったんだが。
 むしろかすり傷程度と言ってもいいだろう。
 君の場合、よっぽど運が良かったんだろうね。それだけで済んだのは本当に奇跡としか言い様がない。
 この病院の交通事故退院の最短記録も更新するかもしれない」
俺は医者の説明で、だんだん頭の中が組みあがってきた。

トラック‥‥事故‥‥そうだ、詩織!

「あ、詩織! 詩織は無事?」
ようやく頭の中が完全に戻ってきた。
「母さん、詩織はどうなった!」
「あ‥‥詩織ちゃんなら、今学校じゃないかしら」
「学校? 学校‥‥っていうと、助かったんだな」
「運ばれて来た時に一緒に居た子なら、すり傷だけだったが」
医者が、日常茶飯事といった風に答えた。
「そうか‥‥よかった‥‥
 あれ? でも学校って?」
「あなた、丸一日寝てたのよ」
「えっ!?」

驚いた。
思い出すと、さっきあったような気がする。
首を動かして窓の外を見ると、空はあの時と同じに青い。
みんなして俺をからかっているんじゃないのか?

「よっぽど疲労とストレスでもたまっていたんじゃないかね?
 そんな骨折と挫傷程度で一日も寝込むなんて珍しい。
 とりあえず、もう一回精密検査してから、なにもなければすぐに退院して結構」
医者はそう言って行ってしまった。


あたりを見回すと、カーテンにしきられた所に俺は寝ているらしい。
病室か。
「なんて無茶するのかしら‥‥この子は」
ほっとしたような、でもどこか怒っているような表情で俺をずっと見ている。
「しょうがないだろ‥‥」
身体のすみずみにまで意識を向けると、確かに腕とか身体中の所々に、小さな痛みを感じる。
「詩織ちゃん‥‥泣いてたわよ」
「えっ!?」
「泣きながら病院からうちに電話くれたの‥‥詩織ちゃんなのよ」
「‥‥‥‥」

言葉も出なかった。

「で、わたしが病院についた時には、詩織ちゃん処置室の前でまっ青になってて‥‥」
「そうか‥‥」
そんな表情を見た事もなかったし、見たくもなかった。
見なかったのは幸運だが、そういう表情をさせてしまった事は、不運どころじゃすまない。
「で、あとはわたしが看るから‥って言っても帰らないで、あんたが病室に運ばれた後もあんたの側にずっと居たのよ」
「詩織が‥‥」
「結局夜遅くなってから詩織ちゃんのご両親も来てくれて、なんとか詩織ちゃん帰したんだけど」
「‥‥‥」

今の窓の外の空を見ていると、とてもそんな事があったなんて信じられない。
昨日の空とまったく一緒じゃないか。

「あんなに心配させて‥‥」
呆れた風に母さんがつぶやいた。
「そうか‥‥そうだったのか‥‥」
「それより、もう大丈夫みたいね。先生もああ言ってたし」
母さんが立ち上がった。
「大丈夫だよ」
「まったくこの子は‥‥」
苦笑している。
「じゃ、わたしはこれで帰るからね。あんたも結局無事だったんだから。
 それじゃ退院する時になったら迎えに来てあげるから、それまでおとなしく寝てなさい」
「わかったよ‥‥」
俺が頷くのを見て安心したのか、ニコっと笑ってから病室を出ていった。


「そうか‥‥俺は跳ねられたのか‥‥‥でも、交通事故なんて初めてだな」

俺自信、跳ねられたという意識はなかった。
だから思い出しても恐怖感はなかった。
むしろ、突き飛ばした詩織の方が気になる。
顔とかに怪我させてなければいいんだが‥‥

それに‥‥そんなに心配させていたとは思わなかった。

しばらくぼんやりと考えていると、年配の看護婦がやってきた。
「…さん。精密検査しますので、来てください」
そう言いながら、点滴の針などを手際良く外していた。
なんか痛いと思ったらそんなのが刺さっていたのか。
「あ、はい」
看護婦さんに起きるのを手伝ってもらうと、驚くほどすんなり立ち上がれた。
なんだ、たいした事ないじゃないか。
腕のギブスだけが重く感じる程度だ。
俺は看護婦さんの後についていった。

「検査結果だが、どこも異常無しだ。
 とりあえず、一・二日ここに居て、それから退院して結構だ。
 それにしても、君は本当に運がいい。
 普通だったら一ヶ月入院コースだ」


長い時間かけた精密検査の結果のレントゲンやら検査結果表を見ながら、さっき病室に居た医者が言った。
「はぁ‥そうですか。ありがとうございます」
俺は頭を下げた。

当然だ。特に強烈に痛い所もないし変な気分でもない。
それどころか、病院に居るだけで、余計な病気になりそうな気がする。

「じゃ、病室へ戻って結構」
「はい‥」
俺は頭を下げてから診察室を出た。

やれやれ‥‥まあ、とりあえずゆっくりするか。
ゆっくり病室に帰った俺は、ベットへゴロンと転がりこんだ。
ギブスで固まった腕が、どうもうざったい。


しばらく白い天井を見ていると、開けっ放しの病室のドアをコンコンと叩く音がして、俺はその方向を見た。
「よう。元気そうじゃないか」
好雄がそこに居た。
好雄だけじゃなく、優美ちゃんや紐緒さんまで居た。
学校帰りだろうか? 全員制服だ。
その後ろに‥‥少しうつむいて目を合わそうとしない詩織が居た。
「先輩、大丈夫なんですか?」
優美ちゃんが駆け寄ってきた。
「あ、ああ‥‥腕一本折っただけで、あとは異常無いって」
「なんなら、その腕を落としてわたしが新しいのを付けてあげましょうか?」
紐緒さんが薄い笑いを浮かべながら近づいてきた。
「い、いいよ。遠慮しておく‥‥」
俺はそう言いながらも、病室に入ってこない詩織が気になった。
「‥‥詩織、何やってるの?」
そう呼びかけると、顔を少しあげて、すこしためらったような感じに考えながら、意を決したように病室に入ってきた。
こころなしか、表情が暗い。
額に小さな絆創膏と、手の甲や肘にも白い絆創膏が貼られている。
やっぱり怪我をしていたのか‥‥
今思うと、わりと強く突き飛ばしてしまったような気がする。
「聞いたぜ。トラックに跳ねられたんだってな。良く無事で生きてるよな」
好雄は、どこか楽しそうに言っている。
「お兄ちゃん、そんな言い方する事ないじゃない」
「あら、早乙女君。…君が事故ったって聞いた時、凄く心配してたじゃないの?」
紐緒さんが冷ややかな笑みを浮かべていた。
「ま、まあなんだ。無事で良かったよ」
俺は、そんな安心している好雄達よりも、さっきからうつむいて何も話さない詩織が気になってしょうがない。
「詩織、怪我‥‥大丈夫なの?」
俺が声をかけると、またハッとしたように顔をあげた。
「う‥うん。大丈夫。かすり傷だから」
「そうか‥‥良かった」
「ところでお前‥‥なんでトラックなんかに跳ねられたんだ?」
好雄の質問に、詩織の身体が一瞬ビクリとしたような気がした。
もしかしたら、俺なんかよりもずっとショックが大きいのかもしれない。
「あ、ああ。たまたま‥‥な」
詩織の方をチラチラと見ると、うつむいてしまったまんまだ。
「先輩、気をつけてくださいね」
「今度もっと怪我したら、問答無用で身体の一部を取り替えてしまうわよ。
 そしたらトラックぐらいなら、逆に跳ね飛ばせぐらいにはなるわ」
どこかそうなる事を期待しているかのような笑みに、背筋にゾゾっと冷たい物が走ったようだ。
「それより、お前いつまでここに居るつもりなんだ?」
「ああ、一、二日後には退院出来る」
「なんだ、早いな。全然たいしたことなかったんじゃないか」
「まあな」
「そうか‥‥それじゃ、ちょっとゆっくりしたかったけど、俺達はこれから用があるから‥‥‥わりぃな。
 いくぞ優美」
そう言って、好雄は振り返った。
「それじゃ、先輩。お大事に〜」
好雄と優美ちゃんは去っていってしまった。
安心そうな表情をしてくれただけでも、こっちとしてはありがたい。
心配もして‥‥くれたんだろうな。
「それじゃ、わたしもそろそろ行くわよ。研究も残っているし」
「ありがとう、紐緒さん」
「義手とか義足とか‥‥よければ用意しておくわよ」
唇の端をつり上げてニヤリと笑った。
「え、遠慮しとくよ‥‥」
「あら、そう。残念ね‥‥」
本当に残念そうにしながら、病室を出ていった。
残るは‥‥


しばらく、なんとなく気まずい沈黙が来た。
「‥‥‥と、とりあえず座ってよ」
俺が椅子を進めると、ひとつ頷いて、ゆっくりとその椅子に座った。
よく見ると、目のあたりが不健康そうな色に染まっている。
「怪我させちゃったみたいだね。ごめん」
「ううん‥‥そんな、わたしの方こそ」
俺のつぶやきの倍くらいの大きさの声を返してきた。
「ごめんなさい‥‥ごめ‥‥‥」
そう言う詩織の目には、みるみるうちに涙が溢れて来ている。
「お、おい‥‥詩織。泣くなって‥‥」
「だって‥‥だって‥‥‥良かった‥‥ほんとに良かった‥」

こんな風に泣く詩織を見たのは初めてだった。
なんとかしようにも、詩織に近い方の腕がギブスまみれではどうしようもない。

「頼むからちょっと‥‥困ったな」
結局どうする事も出来ずに、泣きやむまで俺は見ているしかないという拷問にも等しい時間を味わった。

「ほら。涙‥‥」
枕もとに置いてあるティッシュを数枚取って、身体をひねって詩織に差し出した。
片腕だとつらい。
黙って受け取ったそれで、涙を拭いている。
「いいんだよ。ほんとになんともなかったんだから‥‥ほら、この通り」
ギブスで固まった腕を軽く振り回した。
痛っ! 折れた腕がちょっと痛い‥が、我慢我慢。
「でも‥‥」
「それより、詩織。目が赤いし疲れた感じだよ‥‥寝てないの?」
俺の問いに、小さく頷いた。
赤いのは、泣いたからか‥‥
「俺なんかのために‥‥ごめん」
「あやまるのはわたしの方よ‥‥」
また泣きそうになるのを、俺は必死でなだめた。
「そ、それよりゆっくりしていけるんでしょ?」
「うん‥‥」
「そっか、良かった。俺も明日まで退屈でどうしようかと思ってたんだよ」
俺はすっかり気分が良かった。
笑う余裕さえもある。
あたりまえだな。どこにも異常はなかったんだから。
それでも、詩織にはまだ笑顔は戻ってこない。


「あ、ところでそれは何?」
詩織の足元にあるビニール袋に目が止まった。
「え、これ‥‥?」
「そう。それ」
「リンゴ‥‥うちから持ってきたの‥‥」
「へえ‥‥もう出てるんだ」
「‥‥もう物食べていいのかなって思ったんだけど‥‥‥食べる?」

暗く沈んだ顔は、まだ輝きを取り戻す気配はなかった。
笑ってくれさえすれば、今の俺にとっては一番の良薬かもしれない。
もともと、自分で進んでなったみたいなものだ。
詩織が怪我するくらいなら、自分が怪我してた方が全然楽だった。
「うん、食べる食べる。なんか腹へっちゃってさ」
俺は手を伸ばした。
その手をそっと詩織の手が抑えた。
「わたしが剥いてあげるから、しばらく横になってて」
「いいよ。全然たいした事なかったんだから」
無理に起き上がっていようとすると、また詩織の顔に悲しみの色が濃くなっていく。
「だ、だからさ、他の患者さんも居るし‥‥」
俺がなだめようとすると、小さな声で詩織が話だした。
こんな涙もろい詩織は初めてだ。

「わたしね‥‥ …とは小さい時からずっと一緒に居るでしょ。
 だからいままで気づかなかったの。
 ‥‥昨日、道路に倒れている…を見た時‥‥‥
 ‥‥‥
 ‥‥
 ‥」
そこまで言った時、詩織の目にはまた涙が浮かんでいる。
目を閉じると、その涙がまぶたに押されて流れ出た。
「不安だったの。すごく‥‥
 …がいなくなっちゃうんじゃないかって‥‥
 そんなの絶対にイヤって‥‥‥‥
 いや‥‥絶対にいやぁ‥‥‥」
絞り出すような声。
何かを思い出しているのだろうか。だんだん声が細くなってくる。
手にもったまだ青味のあるリンゴの表面にポロポロと落ちる、流すにまかせた涙。
俺が倒れている時、詩織はどんな事を考えていたんだろう。

「詩織‥‥」

俺がする事は一つだ。
起き上がって身体をずらし、ベットから降りた。
泣いている詩織の背中に回って、無事な方の手をそっと肩に置いた。
泣き顔を見たくない‥‥そういうつもりもあったのかもしれない。
「ありがとう。うれしいよ」
自分の額を、詩織の頭にコツンと優しくぶつけた。
髪からは、ほのかに柔らかい匂いが漂ってくる。
「大丈夫だよ。俺はこの通り平気だから。
 小さい時からずっと一緒だったんだから、これからもそうだよ。いなくなったりしないから」

そうだよ‥‥ずっと一緒だったんだ。
これからだって、きっと‥‥‥
でも‥‥不安が無い訳じゃない。
むしろ不安の方が大きい。
今の詩織の涙は、自分を責めている涙かもしれなかった。
俺の為の涙じゃないかもしれない。
俺にはわからない‥‥
俺の事を本当に心配してくれているのだろうか。

「だから‥‥泣かないで」
そう言うと、肩に置いた手にやわらかい手がそっと重なった。
「‥‥‥ありが‥‥とう」
その柔らかな感触に、やわらかな言葉に、俺の心臓は跳ね上がった。
俺の鼓動が手に伝わってしまうんじゃないかとも思う。
しばらく、その暖かい手の感触を感じていた。
詩織の泣きしゃくりも、徐々に収まってきている。
「だ、だからさ‥‥笑ってくれた方が俺も嬉しいから」
「うん‥‥」
振り向いた顔は、涙の後が濃いが、さっきまでの沈んだ表情とはほんの少し違う、雲間からのぞく太陽のようなやわらかい輝きがあった。
この笑顔。俺が一番好きな笑顔の一歩手前だ。
泣いて、すぐ笑えて‥‥そんなよく変わる表情も大好きだった。
「それより、リンゴ‥‥くれないかな」
「うん‥‥今剥いてあげる」
俺は再びベットに腰掛けた。重いギブスも気にならない。
リンゴの入っていた袋から、小さなまな板を取り出して膝に置き、ナイフを取り出してサクサクとリンゴを剥く姿をずっとみていた。
時たま、泣いた影響か、ヒックと身体を震わせている。
「へえ‥‥ずいぶんうまいんだなぁ。さすがだね」
皮が切れずに、どんどん長くなっていく。
「ありがとう‥‥」
すっかり笑顔が戻ってきていた。
もうこれでこっちも心配はないな。
この笑顔が見れただけで、今すぐにでも退院できそうなくらい元気になれそうだ。
トントンと音がして、リンゴは見事に分断されていた。
ホントにうまいもんだ。
「はい‥‥」
半切れになったリンゴを差し出してくれた。
「ありがとう」
俺は受け取って一齧りした。
シャクンと歯で噛み切る感触が心地よかった。
甘酸っぱい味が口中に広がって、それがなんともうまい。
「うまいよ。詩織も食べれば?」
「でも‥‥」
「俺の分ならいいって。せっかく剥いたんだから一切れくらい自分でくわなきゃ」
俺は残りのリンゴを口に頬張った。
「うん、うまひよ」
「じゃ、わたしも一個食べようかな」
そう言って、一個取り上げて小さくかじった。
「ほんと‥‥おいしい」
「だろう。夏のリンゴにしちゃずいぶんうまいな」
「まだあるからね」
「そりゃありがたいな」
笑顔のスパイスは、何よりも甘いような気がした。

「はい。これ今日の授業のノート」
詩織がカバンの中から、一冊のノートを取り出した。
受け取った俺はノートを見た。
表面はまだ新品同様だ。
中をぺらぺらめくると、やっぱりまだ使い込まれた跡もない。どうやら新品のようだ。
最初の方に、綺麗な字でビッシリと全科目の授業の内容が書き連ねられている。
「これ‥‥わざわざ?」
「うん‥‥‥」
「ごめん。いろんな手間かけさせちゃって」
「ううん‥‥いいの」
そう言った詩織の頬が微かに赤くなっていく。
「そっか‥‥ありがとう」
赤い頬を見ていると、どうにも心が落ち着かない。
ドキドキとして、どうにもならない。
止める方法なんてあるんだろうか。
「‥‥それより…、夏休み‥‥あまり楽しめなくなっちゃったね」
また少し寂しそうな表情になった。
「いいよ。落ち着いて勉強とか出来そうだしね」
「わたし‥‥ほんとはいろんなところ行こうと思ってたの‥‥でも‥‥‥」
「なんだ。俺のこれなら気にしなくていいよ。
 詩織くらいなら夏休みを少しくらい遊んでても全然大丈夫だろうし。
 それになんたって高校生活最後の夏休みだからな。こんなのを気にしないで遊んできなよ」
ギブスの腕を振り回してみせた。
かなり見事な単純骨折をしたとかで、直るのも早いらしい。
「ううん‥‥違うの」
「え?」
「一緒に‥‥どっか行こうって‥‥そう思ってたから‥‥‥」
少しうつむき加減で、つぶやくように言った。
「え‥‥」
「だから、その腕が直るまで。ううん‥‥せめて退院出来るまで一緒に居させてもらって‥‥いい?」
まっすぐに俺を見つめる瞳。
心に直接刺さる眼差し。
「ほ、ほんと、俺の事なんか気にしなくてもいいよ」
「やっぱり、わたしが居たら迷惑かな。
 そうよね‥‥‥ …がこんなになったのもわたしのせいだもんね‥‥」
少し寂しそうに微笑んでいた。
「違うよ。そういうんじゃなくて‥‥
 詩織にだって沢山予定があるだろう? 俺なんかに構ってるより‥‥」
ほんとうはずっと居て欲しい。
しかし、俺の折れた腕に縛られるような事にはなって欲しくなかった。
それよりも、本当に一緒に居る事を望んでいてくれるのだろうか。
もしそうならば‥‥
「俺なんかと居ても‥‥面白くないよ」
俺の言葉に、無言で首を横に振った。
もしかしたら、俺は試したのかもしれない。
「え‥‥ほんとにいいの?」
「うん」
「‥‥そう言ってくれれば、俺もうれしいけど、あまり無理しないでよ」
「無理なんかじゃ‥‥ないんだけどな‥」
ぽつっと口の中だけで呟くような声が聞こえたが、よく聞き取れなかった。
「え? なに?」
「あ、ううん。別に」
「そっか」
なんだかわからないが、笑顔ならば俺はなにも聞く気はない。
笑顔が一番の答えだから。

窓から見える景色の色が落ちはじめた夕方。
空の色は徐々に色褪せて行った。
代わりに、うっすらと紅い色が空を染めあげていく。

そんな空を頭上の窓の外に感じつつ、自分の腕を見た。
ついさっき看護婦さんに点滴の針を打たれた場所が少し痛い。


「そろそろ帰った方がいいかもね。おじさんとおばさんがまた心配するよ」
「大丈夫。お父さんとお母さんにはここに来るって言ってあるから」
「でも駄目だよ。昨日も遅くまで居てくれたんだろ?」
「うん‥‥でも」
「また明日‥‥待ってるよ」
「‥‥必ず来るから」
詩織は立ち上がった。
「今日は居てくれて助かったよ」
詩織は首を横に振った。
「わたし‥‥なにもしてあげられなくてごめんなさい‥」
「い、いいよ‥‥居てくれるただけで‥」
こんな事が言えるのは、もしかしたら甘えなのかもしれないな‥‥
それにしても、照れくさい。
視線を反らして、頬を掻こうとして自分の腕が重い事に気づいた。
「おじさまとおばさまに何か伝える事ある?」
「いいよ。別に」
「そう‥‥でも報告はしておくから」
「すまないね」
「ううん‥‥いいの。なんか役にたちたいから‥」
「だから、そんなに無理しなくてもいいよ」
笑いながら言った。
笑いで答えてくれた。
この笑顔に期待していいのかな‥‥
俺が今こんな所に居なかったら、こんな笑顔で答えてくれたかどうか。
「それじゃ‥さようなら‥‥また明日ね」
言ってからすぐに振り向かず、少しの間だけ俺を見てから振り返った。
その後、一度も後ろを振り向かずに詩織は病室を出ていった。
また明日‥‥か。
約束ってのはいいものかもしれない。

消灯時間まで、俺はずっと詩織から借りたノートを見ていた。
全科目の授業内容がビッシリと書かれてはるが、読みやすくかかれている。
でも‥‥自分の分のノートはちゃんと取ったのかな?
そんな事を考えていたら、ふと昼間見た詩織の泣き顔が浮かんできた。

まいったな‥‥あんな泣き顔見せられたら俺の負けじゃないか。

俺がいなくなるのが嫌‥‥と泣いた時に言った言葉。
どういう意味なんだろう。
気づかなかったって‥‥なんだろう?

あの時のちょっと取り乱した言葉の意味を、味気も無い天井を見ながらぼんやりと考えていたが、答えなんか出てこない。
言葉よりも、あの泣き顔だけが思い浮かんでくるばかりだ。
あの涙を思い出すだけで、胸がじんわりと暖かくなってくる。
ある意味で、俺は事故に感謝してもいいと思った。
もちろん、重傷だったらそんな事は思ってはいないだろう。
それにしても‥‥なんて暇なんだ。
腕の痛みはとりあえず無いし、腕以外は不自由なところは無い。
もう今すぐにでも帰りたくなってくる。
「しょうがないな‥‥」
点滴が終わった事もあるし、俺は出歩く事にした。
そうだな。どこかへ電話でもするか。
とりあえず、俺はロビーに向かった。


「わりぃな。今日はゆっくり出来なくて」
好雄の明るい声が、電話の向こうからやってきた。
「でも、わざわざ来てもらったりして、こっちこそ済まなかったよ」
「いや、いいよ‥‥ホント言うとな。早く帰る用なんてなかったんだよ」
「え? なんだそりゃ」
「ちaっ、鈍い奴だな。あんな詩織ちゃん居る時に、わいわいなんて出来るかよ。
 それに‥‥詩織ちゃんも事故に関係してるんだろ?」
「な、なんで知ってるんだ」
「お前なぁ‥‥」
呆れた声ような声がした。
「お前が骨折してて傷だらけで、それで詩織ちゃんもそこら中に絆創膏してて、それであんな暗い顔してれば、誰だってわかるぞ‥‥」
「そ、そうか‥‥」
詩織は、事故の事についてはなにも言わなかったのか‥‥
「それに‥‥学校ですごく元気無かったぞ。
 あんな詩織ちゃん初めて見たよ。
 ほかのみんなもお前より詩織ちゃんを心配してたみたいだけどな」
「‥‥」
なんてこった。そんな事になっていたなんて。
やっぱり‥‥負い目があるのかな。
俺は受話器も掴めないほどギブスで固められた不自由な手を見た。
約束は、もしかして義務としてなんだろうか‥‥
「詳しい事は聞かないけど、お前が原因なら、なんとかしたほうがいいぞ‥‥‥」
「ああ、わかってるよ」
すまないな、好雄。
やっぱりお前は一番の友達だ。
「あ、そうそう、今日学校でさ‥‥」
その後、好雄との電話が終わった時には、消灯時間はとっくに過ぎていた。
母さんに退院の旨を電話したのは、そのすぐあとだ。

目を覚ますと、もうすでに陽は高々と昇っていた。
窓から差し込む光が強い。
それにしても、起きても退屈だ。入院がこんなに退屈だなんて思わなかった。
自由に外に出かける事もできやしない。
これだったら学校へ行ってた方がよっぽど楽しい。
普段身体を動かしているせいか、動かしていないとムズムズする。
「ちゃんと寝て学校行ったかな‥‥」
昨日みたいな詩織はもう見たくない。
枕もとに置いてある腕時計を見ると、まだ午前十時だ。
今日のこの時間は‥‥
そんな事を思いながら、退屈を紛らわせていた。


どうしようも無いほどの退屈に耐えた甲斐があって、
時刻はすでに二時を回っていた。
過ぎてしまえば、なんて事無い時間だったような気がする。
しかし、学校が終わった時間になってからが、また長く感じた。
詩織がいつ来るか‥‥そればかり考えると、秒針の動きの二倍くらいの速さで鼓動が高鳴っていく。
今、脈でも計られたら異常数値になるかもしれないな。
こんなに一分一秒が長く感じるのは初めてだ。
ドキドキしながら天井を見ていると、何か大勢の話声と足音が聞こえてくる。
ん? なんだ?
入り口の方を見ると、見慣れた制服姿が男女まぜて数人ほど立っていた。
「お、居た居た。あそこで寝てる」
中沢が俺を真っ先に見つけた。
俺を見つけるなり、五人ほどがぞろぞろと俺のベットの回りに集まってくる。
詩織の姿は‥‥無い。
やっぱり来てはくれなかったのかな。

「な、なんだお前達そんな団体で」
「いやぁ、事故ったんだってな。
 好雄に聞いたら『大丈夫だからお見舞いはしなくてもいいんじゃないか』って言われたけど、大丈夫ならなおさらお見舞いにこないと‥‥と思ってな」
柔道部の中沢らしい。言ってから豪快に笑った。
しかし、好雄がそんな事を言ったのか‥‥
退院したら、なんかおごらないと駄目かもな。
「…君。元気そうじゃない。腕折ったってどれ?」
逢坂さんが興味深げに聞いてきた。
「ほら。これだよ」
布団のしたから腕を出した。
「なにこれ。ほとんど指と腕が使えないじゃないの」
「だろう。だからスゴイ不便で」
「しっかしお前も良く生きてるよな。明日には退院だって?」
粟野が関心したように腕を組ながら言った。
「俺は化け物か‥‥」
俺が苦笑しながら身体を起こそうとすると、中沢がごつい手で俺を制した。
「まあまあ、ゆっくり寝ていろよ。病人なんだから」
「俺は病人じゃないぞ。怪我人だ」
「どっちも同じ事よ」
そう言って、ほかの女の子達と逢坂さんが笑いあっていた。
「あ、お前ら何してるんだ」
ギブスのある腕を見ると、粟野がマジックで落書きをしている。
「NoNo!そこはもっとcolorfullに塗った方がベストよ」
片桐さんまでが、マーカーを出してギブスに塗りだした。
段々本格的に塗られていく。
「お前ら、お見舞いに来たのか邪魔しにきたのかどっちなんだ」
それでも、俺は楽しかった。
退屈な時間なんかとは比べ物にならない時間。
やっぱりこうやって来てくれるだけでもありがたい。

でも‥‥居て欲しい人がここに居ない事を考えるだけで、楽しさが遠のいていくような気がする。

だから、今はそれを考えない事にした。
せっかく来てもらった中沢達に悪い‥‥

「ああ、俺も早く学校に行きたいよ。暇でしょうがない」
「ちaっ、俺と代わって欲しいよ」
中沢と、片桐さんに落書きの役を完全に奪われた粟野がしみじみとつぶやいた。
「中沢君がもし入院したら、わたしお見舞いに来てあげるね」
逢坂さんがニコっと笑いながら言った。
「あ、ああ‥‥」
とたんに中沢の顔が真っ赤になっていく。
はあ、やれやれ。
人の見舞い中に何やってるんだか。
俺は心の中で苦笑した。
来てあげる‥‥か、今日は詩織は来てくれなかったな‥‥
そんな思いを隠しながら、俺は中沢達としばらく話し合った。

「それじゃな。また明後日学校で会おうぜ」
中沢が手をあげた。
「ああ、悪いな見舞いに来てもらって」
「それじゃ‥‥」
みんな次々と病室を出て行った。
「どう。見事に塗れたでしょう」
片桐さんが病室を出て行こうとした時に振り返りながら言った。

確かに見事な塗りだ。
さすがに片桐さんらしい。
しかし‥‥
極彩色のギブスなんて、看護婦さんとか医者に見せるときどんな顔したらいいんだ。

「ま、まあね」
たぶん俺の頬はひきつっていたに違いない。
「それじゃ、お大事に。Goodbye」
「ああ‥」


全員を見送った後、来る事がわかっていた沈黙が来た。
また退屈な時間へと逆戻りだ‥‥
ふぅ‥‥
詩織はやっぱり来てくれなかった。
結局俺のこの怪我は負い目でしかなかったのかな。
‥‥義務でもなんでもいいから来て欲しかった。
そうぼんやりと思いながら、腕を持ち上げた。
極彩色のギブスを眺めて、ため息一つ。
窓から差し込む光も、徐々に弱みを帯びていく。
俺の腕も弱みを帯びたのか、布団の上にパタリと勝手に落ちた。


その時、ふと、廊下の方から小気味良い足音が小さく聞こえてきた。

誰か走っているのか‥‥

だんだん近づいて来る。
その足音が一番大きく聞こえた時、入り口の向こうには今日一番会いたかった人が立っていた。


「ご、ごめんなさい‥‥遅くなっちゃって」
息を切らせて立っていたのは、私服姿の詩織だった。

「今日は来てくれないんじゃないかと思ったよ」
不安だった時間が嘘のような気分だ。
「ごめんなさい‥‥学校で用事があったから‥‥」
椅子に座った詩織は、まだ息を弾ませている。
「家に帰ってから、…の家に寄ったら、おばさまにこれ頼まれちゃって」
大きい紙袋を持ちあげた。
「なにそれ?」
「着替え」
「え? そんなのをわざわざ‥‥いいのに。明日退院だしさ」
「駄目よ。ちゃんとしておかなくちゃ」
そう言って、ニッコリ笑った。
もう昨日みたいな表情はまったく無い。
会いたかったのはこの笑顔だ。
「それじゃ、早速着替えて。着替えた物は帰りに持って帰るから」
「い、いいよ。そこまでしてくれなくても‥」
「これくらいの事させて‥‥ね?」
真剣なまでの表情に、言う事を聞かない心臓が暴れだした。
真剣な表情を見ていると、やっぱり義務なのかもしれない‥と考えてしまう。
「いいって、ほんとに」
そう言うと、しばらく沈黙がやってきた。
「なんかしてないと‥‥駄目なの。落ち着かないの‥‥」
そう呟くように言った。
「昨日も夢を見て‥‥‥
 道路に倒れている…を何度も何度も起こそうとするんだけど、全然起きてくれなくて‥‥それで‥‥‥」
うつむきながら、小さい声でつぶやいた。
「だから、なんかしてないと不安でしょうがないの‥‥」
顔をあげた時、微笑んでいた。微笑んでいるのに、なぜか寂しそうな哀しそうな‥‥笑顔じゃない笑顔があった。
なんか、泣き顔より悲しそうに見える。
そこまで言われて断れるほど、俺は馬鹿じゃないつもりだ。
「‥‥わかったよ。それじゃ着替えるから」
詩織を笑顔にするには、俺が笑わないと駄目だな。
「ほんと? ‥‥ありがとう‥‥」
「お礼なんか言うのはこっちの方だよ」
そう言ったとたん、戻って来た。俺の好きな笑顔が。
「じゃ、後ろ向いてるから」
紙袋を俺に渡した詩織が後ろを向いた。
紙袋の中をゴソゴソと探していると、とても詩織が後ろ向きになってても着替えるのが恥ずかしい物がはいっていた。
シャツとかならまだいいが‥‥
「ちょっとカーテンしめてよ」
カーテンを閉めれば、ベットは個室状態になる。
「え? どうして?」
「あ、えっと、ちょっと後ろ向かれただけじゃ着替えにくい物が入ってるから」
「‥‥あ」
言いたい事がわかったのか、詩織は振り向いてカーテンを締めて外に出た。
顔を赤らめながら。
そんな反応をされると、こっちまで着替えづらくなる。

「いや、やっぱ着替えるとさっぱりするよ」
着替え終わった俺は、自分でカーテンを開けた。
なんでも片手だから、着替えるのにえらく手間がかかった。
「そうでしょ」
まだ顔が赤い。
「じゃ‥‥これホントに頼んでいいかな?」
「うん‥‥置いといて、帰る時持っていくから」
そう言われて、ベットの横に紙袋を置いた。

「それにしても‥‥どうしたの? そのギブス」
極彩色のギブスを見て、詩織が驚いている。
そりゃそうだ。並の落書きならともかく、片桐さんが本気で塗った物だ。
言い様の無い迫力があるし、出来栄えもいい。
が‥‥少なくとも粟野に落書きされるよりはいいが、これじゃどうしようも無い。
入院しているうちはまだいいが‥‥と言っても明日までだ。

「さっき中沢とか片桐さんがお見舞いに来てくれたんだけど、その時やられた」
「へa‥‥でも結構似合ってるじゃない」
可笑しそうに口元に手をやって笑っている。
「俺、これを腕が直るまで付けてないといけないんだよ?」
「ふふ‥‥ごめんなさい」
「それより、座ってよ」
立ったままなのに気づいて、椅子を勧めた。
「ありがとう」
ニッコリ笑って座った。
「ようやく明日退院だよ‥‥」
「おばさまから聞いたわ」
パァっと顔が明るく輝く。
「明日わたしが迎えに来てあげる。学校も昼までだし」
「いいよ。母さんが来るみたいだし、これくらいの事で詩織にまで迎えに来てもらわなくても」
「実はね‥‥」
そこまで言ってから、じっと俺を見ている。
唇の端が微かにつり上がっている所を見ると、どうやら何か隠しているな。
「おばさま、急用とかで来れないんだって」
「え?」
「その代わりに、わたしが来る事になったから。おばさまに頼まれたの」
「そうだったのか‥‥まったく母さんは余計な事するよ‥‥‥ほんとに」
俺がそう言うと、とたんに詩織の表情に不安そうな色が浮かぶ。
なんか俺が事故ってからというもの、どこか表情の変化が激しいような気がするのは気のせいだろうか‥‥
「わたしじゃ‥‥いや?」
「違うって、そんな事じゃないよ。
 来れないなら来れないで、別に構わないのにそれを詩織に頼むなんてさ‥‥
 詩織だって予定あるんだろ?」
俺の言葉に、詩織の表情がゆっくりと和らいでいく。
「うん‥‥明日の昼に、片手が不自由な人を迎えにいかなきゃならないの」
「そうだよね。やっぱり予定あるっていうのに。まったく母さん‥‥‥は‥‥?」
詩織は口元に手を当てて、クスクスと笑っている。
「そうゆう事だから、明日来るね」
「‥‥わかったよ」
やれやれ、すっかりペースに乗せられているような気がする。
悪い気がしないのは言うまでもないが‥‥


「ところで‥‥どう? 入院生活は」
「あ、聞いてくれよ。もう退屈で退屈で‥‥別にどこか痛い訳でもないし」
「でも、ゆっくり出来ていいじゃない?」
「とんでも無い。これなら学校行ってた方が全然面白いよ‥‥
 会いたい人にも会えるからなぁ‥‥」
「え‥?」

う、思わず本音が転がり出た。

「あ‥‥だ、だから、ほら。なんか学校行ってみんなとわいわいやってたほうが楽しいって事だよ」

なんで本心を言えないのか‥‥
言えたら楽になるという保証がないからか‥‥自分でも良くわからないが、それが一番の理由かもしれない。

「そ、そうよね‥‥」
少し残念そうな表情をしているような気がする詩織を見ていると、もしかして言っても良かったのかもしれない‥と、そう思う。

「明後日になったら、また‥‥学校で会おうね」
「ああ、絶対にね」
言ってから、ふと気が付いた。
もしかして‥‥本当の事を聞き出されたのかもしれない‥と。
「あ‥そうそう。はい、今日の授業のノート」
カバンからノートを取り出した詩織は、何事もなかったような表情だ。
やっぱり俺の気のせいか‥‥
「わたしのだけど、我慢してね」
「悪いなぁ‥‥昨日のノート、新品だよね? あれにまとめてもらっちゃって良かったのに」
「でも‥‥退屈してると思ったから」
「一応目を通したけど、やっぱり休みの日にまとめさせてもらうよ。
 いくら入院で退屈してるって言っても、勉強する気になれなくて」
俺が苦笑していると、不思議そうな顔をしてじっと見ていた。
「全部読んでないの‥‥?」
「全部って‥‥ちゃんと読んだよ。黒板の写しの部分でしょ?」
「そう‥‥まだ全部読んでないのね」
悪戯っぽい微笑みを浮かべながら見つめられて、少しドキっとした。
「なんだ‥‥気になるなぁ」
「いいの。気にしないで」
「とりあえず、ノートは夏休みに入ってからでいいよ。どうせあと少しで夏休みなんだし」
「そう‥‥それじゃ夏休みに入ったらすぐに貸してあげるね」
「助かるよ」


「ところで‥‥腕はいつごろ治るの?」
「綺麗に折れてるから、治るのに一ヶ月もかからないだろう。とか言ってたけど」
「そう‥‥長いのね」
また表情が落ち込む。
「ごめんね‥‥わたしのせいで‥‥高校最後の夏休みなのに」
俺は息をゆっくり吸い込んで、ゆっくりとはいた。
ため息とは違う。
「そうだ。こんなんなったのは詩織のせいだ」
「ご、ごめんなさい‥」
ビクっと身体を震わせている。
「だから‥‥治った時、一緒に海に行こうよ」
自然に笑えた。怪我が詩織のせいだなんて、これっぽっちも思っていない。
なんだか脅迫に近い気がしてきたが、いままで縮こまっていた詩織が見る見るうちに笑顔を取り戻して行くのがわかっただけに、救われた気がする。
「うんっ、行きましょう。約束ね」
弾む声がその証拠かな。
「なんか無理矢理みたいで‥‥ごめん。ほんとは俺が勝手に事故ったせいなのに」
「ううん‥‥そんな事ない。とっても嬉しい」
「ほんとに?」
心底嬉しそうに言ってくれているような気がして、思わず聞き返してしまった。
誘ったのは俺の方だったのに。
頷く詩織の頬はほんのりと紅く、見ている俺の胸があったかくなってくる。
「だから‥‥早く怪我治してね」
「ありがとう。絶対に治すよ」
「しっかりご飯食べて、無理しなければすぐよ。きっと」
「飯っていえばここの病院、飯だけはうまいよ。
 よく病院の飯ってまずいまずいって言われるけど、ここのはうまい」
「そう‥‥それじゃ、これいらない?」
カバンの中から、また何かを出しながら、子供のように笑っている。
「何それ?」
「なんだと思う?」
膝の上に乗せているそれは、それを包んでいる布に可愛らしい
模様がプリントされているものの、大きさになんとなく見覚えがあった。
「もしかして‥‥弁当?」
どちらかというと、希望を言ったのかもしれない。
「あたり。良くわかったね」
驚き二割、嬉しさ八割といった感じの笑顔で微笑んだ。
「それ‥‥俺にくれるの?」
「どうしようかなぁ‥‥だってここの食事おいしいんでしょ?」
「あ‥‥そ、そうだけど」
冗談でも、そういう台詞にどう対応していいのかわからないほど舞い上がっていた。
「ふふっ‥‥冗談よ。はい」
「え? ほんとにいいの?」
その言葉に、ニコリとしながら一つ頷いてくれた。
受け取った弁当箱は、すこし重い。
「ありがとう。すごいうれしいよ」
布団の上に弁当箱を置いて、布巾を取ろうと動かそうとした手が片方重い事に気づいた。
片手がギブスであることをすっかり忘れていた。
随分舞い上がっていたようだ。
しかし‥これじゃ布巾を解く事も出来ないじゃないか。
「あ、ごめんなさい‥‥わたしったら」
俺が無理にでも手を使って開けようかと思っていたよりも先に詩織が手を伸ばした。
布巾を解いてくれている間が、みょうにもどかしくて‥‥
それでも、心地よかった。


包んでいた布巾と同じくらい可愛らしい弁当箱‥‥とはいっても色使いが青を基調としているから、間違えて俺が使ってもさほど恥ずかしくは無い感じの物だ。
蓋を開けると、いい匂いがふわっと回りの空気に解けこむように広がっていく。

「うわ‥‥すごいな」
匂いだけじゃなく、こころなしか暖かさも感じる。
いや、本当に暖かい。色とりどりのおかずから微かに立つ湯気がその証拠だ。
「ほんとはね‥‥
 今日来るのが遅れたのは、これを作ってたからっていうのもあるの」
「え‥」
「差し出がましいかな‥‥って思ったんだけど」
目だけをうつむかせている。
「そ、そんな事ないって。すごいうれしいよ」
作ってくれている時の事を想像すると、どうにも収まらないほど鼓動が騒ぐ。
「でも、こんな事までしてくれなくても‥‥」
「ううん‥‥いいの」
緩やかに首を横に振ってくれたものの、どうにも気がかりな事があった。
「ね‥‥やっぱり、これのせい?」
気がかりな元のギブスを持ち上げた。
「いろいろ世話焼いてくれるのは嬉しいんだけど、これのせいだったら、やっぱり‥‥」
昨日よりも今日。
世話を焼いてくれればくれるほど、なにかつらくなってくる。
俺が詩織にとってまるっきりどうでもいい存在でもなさそうなのはなんとなく感じているものの、詩織がここにこうやって居る事自体、信じられないという事もあった。
ずっと近くに居たはずなのに、遠くに感じていたせいなのかもしれない。
「‥‥心配しちゃ駄目?」
つぶやくような言葉。真剣な眼差し。どっちも俺にはつらい物だった。
「そんな事ないけどさ‥‥なんていうか‥‥」
うまい言葉が見つからない。
心の中では平気で言える言葉が出てこない。出せない。
「心配してくれるのは嬉しいけど、あんまりさ‥‥心配されると‥‥」
言えなかった。言ったらどうなるかわからない。
本気になる? もうすでに本気じゃないか。
俺が黙っていると
「本当に…が心配だから‥‥だから‥‥‥」
と、詩織はそこまで言って、言葉をつまらせた。
一瞬の間が開いてから、また続けた。
「‥‥わたしが原因じゃなくても、お見舞いに来てると思うから‥‥」
困ったような顔をしていたが、なぜか頬が紅い。
「わかったよ‥‥変な事聞いてごめん。
 それより、弁当食わなきゃね」
今の言葉だけで十分だった。
そうだな‥‥来てくれるだけで十分だって、思ってたばかりじゃないか。
まったく、俺もどうかしている。
「うーん、本当にいい匂いがする」
「はい、スプーン。お箸じゃきついでしょ?」
気を取り直して弁当の匂いを満喫している俺に、スプーンを渡してくれた。
「あ‥‥ありがとう。
 いやぁ‥いくら利き腕でも片手で箸を使うのはきつくてさ」
「そう‥‥用意してきてよかった」
嬉しそうに微笑む姿に、一瞬だけ見とれてしまった。
「‥‥そ、それじゃ食べようかな。いただきます」
「あんまり自信ないんだけど‥‥」
俺が、おかずをスプーンで口に運ぶのをじっと見ている。
じっと見ていられると、食べづらいな‥‥
「どう?」
口に入れると、すぐに不安そうに訊いてきた。
すぐに聞かれても答えようが無い。まだ噛んでもいない。
「ん‥‥」
生返事しながら噛んでいくと、味が口の中に広がっていく。
「‥‥うまい。すごくうまいよ」
「ほんと?」
「嘘言ってもしょうがないだろう。うまいよ、すごく」
「良かった‥‥」
安心したように微笑んでいる。
「でも‥‥ちょっと懐かしい味だなぁ‥‥なんでだろう」
味わった時から、初めて食べたような気がしない感じがしていた。
詩織が作ってくれた弁当を、今日初めて食べたはずなのに。
「わたしの料理、お母さん直伝だからじゃない?」
「え?」
「ほら‥‥小さい時、良くうちでご飯とか食べたじゃない」
「そういえば‥‥」
言われてみれば、確かにその時に食べ慣れた味だったような気がする。
よく、昼ご飯とかをごちそうになったりしてたっけ。
「あの時は、ずいぶんごちそうになっちゃったなぁ‥」
「ううん、わたしだって良くお邪魔してごちそうになってたから」
「なんか懐かしいなぁ」
「‥‥良かったら、また今度食べに来て。今度はお母さんじゃなくて、
 わたしが‥‥作ってあげるから」
頬をほんのり染めて、少し恥ずかしそうに視線をさ迷わせている。
「本当に?」
「うん‥‥だから、早く腕治してね」
「そう言われると、はりきっちゃうよ」
「ふふっ‥‥はりきって治る物じゃないでしょ」
可笑しそうに笑っている。気分的にはそれで治りそうな気がした。
「病は気からっていうじゃないか」
「病気じゃなくて怪我でしょう?」
「どっちも同じだよ」
言ってから、心の中で苦笑した。
さっき見舞いに来てくれた連中が聞いたらなんて言うかな。
「おっと、弁当食べちゃわないと」
一口食べてから、腹が減ってきているのに気づいた。
「ここの飯もうまいけど、やっぱり慣れた味の方が安心出来るよ」
「ありがとう‥‥作ってきて良かった」
「これ食えるんだったら、入院も悪くないかな」
来てくれないかもしれないという不安は、今はもう薄れて消えた。
「だめよ。そんな事言ってちゃ」
そう言いながらも、笑顔────

「それじゃ、明日の昼に来るから」
陽はすっかり西に傾いて、病室にはオレンジ色の光がやわらかく溜まっていた。
「悪いね」
そう言うと、詩織が小さく首を横に振った。
「いいのよ。もうその事は」
「‥‥ほんと、助かるよ」
「ホントに?」
「ああ、詩織が居てくれてほんとに良かった」
今だけじゃないよ。ずっと昔から‥‥‥と、胸の中だけで続ける。
「わたしも‥‥」
「え?」
「‥‥あ、ごめんなさい。なんでもないの」
出しかけた言葉をゆっくりと胸の中にしまうように、目を閉じている。
「そうか‥」
「それじゃ、また明日ね」
「ああ、また明日‥‥」
なんとなく間が開く。
「‥‥そ、そうだ。弁当ホントにおいしかったよ」
さっき何度となく言った言葉だ。
もっと他に言うことはないのか‥‥
「ありがとう‥」
可笑しそうにクスっと笑ってくれると、なんとなく気が楽になったような気がする。
怪我も治りそうな笑顔だ。
「それじゃ‥」
ゆっくりと背中を見せて、出口へゆっくりと歩いていく。
その背中が見えなくなるまで、ずっと見送った。
一度も振り返らなかった。
振り返ったら、帰りづらくなってしまうと思ってくれたのだろうか。
俺は‥‥もし詩織が振り返ったら、呼び止めてしまったかもしれない。
詩織が帰った後、病室に夕陽の色が濃くなっていったのに気づいた。

また夜が来た。
怪我をしていなくても、元気な時も寂しい時も、必ずやってくる夜。
ただ、今日は少しだけ暇とは無縁だった。
昨日とは違う。
なぜなら‥‥
「えーと、縦の鍵は‥‥」
俺は頭の中で答えを探した。
手もとの小さい明かりが、ノートを照らしていた。
真新しいノートの最後の方のページに書かれた、手書きのクロスワードパズル。
詩織が言った事の意味に気づいたのは、一眠りしてからの事だった。
昼間、詩織が「全部読んでないの?」と言った事を聞いてなければ、気づいてはいなかったかもしれない。
まじめな感じで、びっしりと埋まった縦横の文字のヒントの文字。
しかし、そのほとんどが俺と詩織にしかわからないような事ばかりだった。
小さい時の事、お互いの両親の事、いままでの事‥‥
「ここの横の鍵は‥と‥‥わたしの誕生日‥?」
詩織の誕生日って事か。
俺は迷わずに書き込んだ。
忘れる筈がない。
ヒントをひとつ解く度に、その時の事を思い出しては、少し幸せな気分になったり恥ずかしくなったり‥‥
それでも、一つ一つをしっかり覚えていられた事が嬉しく感じる。
まだ長い夜。
詩織が一緒に居てくれるような気がした。

翌日。

窓の外に広がる空は、俺が事故にあった時と同じくらい青かった。
太陽は、すでに真上にあるころだろう。


「こんにちはっ」
帰り仕度をしている所に、詩織がひょこっと顔を出した。
「あ、詩織。もう来たの?」
学生服のまんまだ。
「学校から直に来ちゃった」
軽く弾んだ息。もしかしたら、走ってきたのだろうか。
「そんなに急いでこなくてよかったのに」
「だって‥‥」
「遅れて来たって待ってたよ」
来てくれる来てくれないで、思い悩む事は今日は無かった。
どんなに遅くても絶対に来てくれると信じていた。
「‥‥‥ありがと」
一番好きな笑顔。
不思議と心が落ち着く。不思議な笑顔。
会えないとずっと不安で、会うととても落ち着くのはなぜだろう。
理由なんか、わかりすぎるほどわかっている。
ただそれを詩織に伝えられないだけだ。
「片付けとか仕度なんて、わたしがやるから」
「え‥‥いいよ」
確かに、片手で手間取っているとはいえ、手伝ってもらうのはさすがに照れくさい。
「良くない。わたしがやるから‥‥ね?」
「‥‥それじゃ、頼んでいいかな」
甘えていい気持ちが無かった訳じゃないが、どこか言い出したら聞かないような感じでせめられたら、断る訳にはいかない。
自分でも思う。素直じゃないと。
「うん」
そう頷いてくれた。
とはいっても、たった数日の入院だ。片付けなんて詩織の手を借りるほどの事でもない。
「あ、そうそう。これ見てくれよ」
俺はギブスをしている方の腕を少し上げた。
今は三角巾で釣ってある。
「あら‥‥どうしたの。新しいギブスね」
「今日、先生が取り替えてくれたんだよ。なんか知らないけど、あのギブスが妙に気に入ったみたいでさ」
「へa‥‥変わった先生が居るのね」
にっこり笑いながら、片付けた物が入っているカバンを持ち上げた。
「あ、俺が持つよ」
「だめ」
カバンを抱き締めるようにして、悪戯っぽく笑っている。
つい二日前の沈んだ表情が嘘のように。
「さ、行きましょう」
「あ、ちょっと待って」
「どうしたの?」
数日とはいえ世話になったベットと、窓の外の景色を少し眺めたかった。
特に思い入れがある訳でもないし、出来れば来たくは無い場所だ。
でも‥‥俺はここで詩織の涙を見た。
それだけは、忘れられない。
「出来たら‥‥もうここには来ないでね」
思い出しながらベットを見ていたら、詩織が小さくつぶやいた。
「すごく辛かったから‥‥だから‥‥」
そう言いながら微笑んでいる。少し寂しそうに。
辛い場所だったという事は、お互い一緒なのだろうか‥‥
「俺も、もう来るつもりなんてないよ。だって‥‥」
あの涙だけは、もう絶対に見たくない。そう思うと言葉が出なくなった。
「だって‥?」
「あ、いいんだ。なんでもないよ」
「‥‥そう」
もしかしたら、もう俺の言いたい事なんてわかっているのだろうか。それとも
聞いてくれるほど興味は無いのだろうか‥‥
でも、笑顔を見ていると、悪い考えの方はスッと消えていく気がする。
「さ、行こうか」
俺はもう振り向かなかった。

病院の入り口を出ると、むわっとする空気が俺を出迎えた。
ちょうど、事故にあった時と同じくらいの暑さだ。
でも、たった二日ぶりとはいえ、外の空気の匂いをかぐと、妙に気持ちが落ち着く。
病院の中の空気は、もうこりごりだ。

「うわ‥‥暑いなぁ」
空気を吸い込むと、一瞬クラっときそうなほど暑い。
空気が流れていないせいだろうか。
「ほんとね‥‥」
空を見上げると、雲一つない青い空に、これでもかと言わんばかりに太陽がまぶしい。
チラリと詩織を見ると、同じようにして空を見上げながら目を細めている。
「もう‥‥ほんとに夏ね」
「今年も、この調子だとめちゃくちゃ暑くなりそうだなぁ‥」
「そうね‥だからプールへ‥‥」
詩織の言葉はそこで止まった。
「ごめんなさい‥」
「え? ‥‥あ、ああ、別に気にしなくてもいいよ」
なんで謝られたのか、一瞬わからなかったが、すぐに気がついた。
「何度も言ってるけどさ、ほんと気にしないでくれよ」
「‥‥うん、ありがとう」
「お礼言うのはこっちだって」
俺がそう言うと、微笑みで答えてくれた。
「ふふっ‥‥」
「はははっ‥‥」
何がおかしいのか、自分でも良くわからなかった。
それでも、なぜか笑いが出る。
申し合わせたように笑い合える事が、不思議でしょうがなかった。
もちろん、それ以上に心地いい。
「ねえ、今日はもうする事ないでしょ? それともなにか予定あるの?」
「退院したばっかりで、予定なんかある筈ないよ」
口元をゆるめたまんま答えた。
「そう。よかった」
「え? 何が?」
「あのね‥‥もし良かったら‥‥今日のお昼、うちでご馳走してあげたいんだけど‥‥駄目?」
「え!? ほんとに?」
その言葉に、詩織は一つだけ頷いた。

頬に赤みがさしているのは、この太陽のせいだろうか‥それとも‥

「駄目なんかじゃないって。でも‥‥ほんとにいいの?」
自分でもしつこいと思う。それでも、信じられない気持ちで一杯なのだから仕方がない。
「うん。でもね、ちょっと寄って欲しいところがあるんだけど」
「どこ?」
「まだ材料買ってないの。だからお買物‥‥いい?」
照れをごまかすように、詩織は苦笑している。
詩織が、スーパーで、どんな物をどんな風に選ぶのか興味があった。
「おっけ。いいよ。つき合うよ」
「良かった‥」
安心したように、ニッコリと笑う姿を見たら、柔らかい安心感が胸に湧いてくる。
これでまた、いつもどおり‥‥


「あ、ところでさ。あのクロスワードなんだけど‥」
「あ‥‥見たの? ごめんね。変なの書いちゃって‥‥」
「いや、わりと面白かったからいいんだけど、一個だけ分からないとこがあってさ」

昨日一晩考えたけど、どうしても解けないものがあった。

「‥‥十四番の縦の鍵?」
「なんで知ってるの?」
「だって‥‥そういう風に作ったんだもん」

詩織は、悪戯っぽい笑顔を浮かべている。

「ずるいなぁ‥‥じゃ、あれは解けないの?」
「‥‥うーんとね、そんな事も無いんだけど」
「じゃ、答え教えてよ。気になってしょうがなくてさ」
「今は‥‥まだ答え無いの」
「なにそれ?」

さっぱり訳がわからない。

「いいじゃない。ちょっとした遊びなんだから、深く考えなくても‥」

ごまかすように笑ってから、空を見上げた。

気になってしょうがないのは同じだったけど、気持ち良さそうに空を見上げている詩織をみたら、別に急いで聞く気もなくなった。
どんな答えを用意しているのか、この笑顔だけが知っていると思うだけで胸がどうしようも無く騒いだ。

Fin

後書き

無茶な設定とかてんこ盛りです(^^;
車に跳ねられた人間が、そうそう出てこれるとも思えないんですが。
まあ、ほんとに奇跡的ってことで(^^;

で、これもまた一ヶ月以上かかってしまった(T_T)
だんだん40Kを越すのがデフォになってくるし…
これを書いているとき、ときメモラジオの最終回をたまたま聞いてて『あ、同じ感じな話になってしまった…』と思いつつも、向こうの話はカナシイ感じなんで、ご冥福を…

と、それはいいとして。
くりかえしますが、無茶な設定は気にしないで『ああ、こんなモンなんだろうな』って感じで読んでいただければ幸いです。
推敲もあまり入れてないので、誤字脱字あるかもしれません。
設定の変な所もあるかもしれません。
ご勘弁を…(^^;


ちなみに、わたしは入院した事なんてないです(^^;
友人が入院したのを見舞った


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル49:青い空
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数280
感想投稿最終日時2019年04月09日 04時19分22秒

旧コンテンツでの感想投稿(クリックで開閉します)

評価一覧(クリックで開閉します)

評価得票数(票率)グラフ
6: 素晴らしい。最高!100票(35.71%)
5: かなり良い。好感触!78票(27.86%)
4: 良い方だと思う。57票(20.36%)
3: まぁ、それなりにおもしろかった22票(7.86%)
2: 可もなく不可もなし8票(2.86%)
1: やや不満もあるが……6票(2.14%)
0: 不満だらけ9票(3.21%)
平均評価4.66

要望一覧(クリックで開閉します)

要望得票数(比率)
読みたい!263(93.93%)
この作品の直接の続編0(0.0%)
同じシリーズで次の話0(0.0%)
同じ世界観・原作での別の作品0(0.0%)
この作者の作品なら何でも263(93.93%)
ここで完結すべき0(0.0%)
読む気が起きない0(0.0%)
特に意見無し17(6.07%)
(注) 要望は各投票において「要望無し」あり、「複数要望」ありで入力してもらっているので、合計値は一致しません。

コメント一覧(クリックで開閉します)

  • [★★★★★★] とっても面白かったです(^^♪ 凄いですね。よくこんなストーリーを思い付けますね。尊敬してしまいました。m(__)m
  • [★☆☆☆☆☆] 逝ってよし。オマエモナー