刺すように冷たい空気。
澄んだ空気は、氷が水を通り越して、いきなり空気に昇華したかのようだ。
それを一層強調しているのは、夜という世界。
一月。最後の冬休みを飾るには最高の夜かもしれなかった。
なぜなら、今、隣で一緒にベンチに座りながら、
夜空へ消えていく白い息を重ねているのは────


−星空− 「prologue」

「すっごく綺麗だったね」
プラネタリウムの入り口を出て、まぶしい陽の光を浴びてはいるものの、詩織の心はまだ夜空にあるのかもしれなかった。
昼だというのに、冷たい空気の中、息が白く変わる。

「確かにね」
空を見上げてみれば、星空とは縁遠い、突き抜けるような雲ひとつない青い空。
あの向こうには、プラネタリウム以上の綺麗な星空があるのだろう。

「さて‥と、どうする? なんか食べて帰ろうか?」
「そうね。もうこんな時間だし、それに‥わたしもおなか空いちゃった」
腕時計をチラリと見た詩織が、少し頬を染めながら言った。
寒い中に居ると、その赤さが目立つ。
微笑みがつきまとっているならば、なおさらだ。
そんな頬の赤みのせいで、俺がどんな気持ちになるのか、詩織はきっと知らないだろう。

「じゃ、なんかあったかい物でも食べようか。そうだなぁ‥‥」
頭の中にある、食べ物屋の映像ルーレットがくるくるとまわり出す。

中華料理屋、定食屋、洋食屋‥‥‥

「そうそう、こないだ、駅の方に新しく出来たラーメン屋さんとかあるんだけど‥‥そこにしない?」
ルーレットを止めたのは詩織だった。
思い出したように、ポンと手を打ち合わせている。
「え? ラーメン屋?
 俺は別にいいけど‥ラーメンでいいの?」
「うん」
ニッコリと微笑んでくれるなら、ラーメンも、高級フランス料理に勝る。
それに、俺は元々ラーメンには目が無い方だ。
詩織が言った時も、俺はそれほど驚いてはいなかった。
なぜなら、学校帰りにたまに良く一緒に食べていたからだ。
「それじゃ、行きましょう」
「ああ」
吹いてきた木枯らしが頬に心地よく感じたのは、もしかしたら俺の頬が熱くなっていたせいかもしれない。

−醤油ラーメン− 「appointment」

まだ店内が新しいだけあって、壁も床もテーブルも何もかもが新しい筈なのだが、それでも「ラーメン屋」という雰囲気をしっかり出している所が気に入った。
店の奥の、向かい合わせの二人席に向かい合わせで座っていた俺達は、お冷やを飲みながら話していた。
店内の熱気のせいで、外が冬であることを一瞬でも忘れそうなほどだ。

「こないだね、メグと千夏の三人で食べに来たんだけど‥‥
 おいしかったから、今度 …を連れてきてあげようかな‥って思ってたの」
「へえ、そりゃ嬉しいね」

心臓がグニャグニャになっている感じがした。心臓も照れるのだろうか。

「ほんとにおいしいんだから。
 メグなんて、味噌ラーメン食べながら『おいしい』って言ってばっかりで‥‥ふふっ」
詩織は、笑っちゃいけないと思いつつ笑う時は、いつも軽く丸めた手で、これも軽く折った人指し指で唇を隠しながら笑う。
その仕草が、俺は大好きだった。
「へえ、そうなんだ。そりゃ意外だな」
美樹原さんにすれば、確かに意外な一面という気はする。が、それを言ったら、詩織のラーメン好きも意外な一部かもしれない。
俺か詩織の友達以外には‥だ。
「へい、お待ち!」
話の途中で、店のオヤジがどんぶりを二つ持ってやってきた。
「醤油ラーメン二つね」
オヤジは俺と詩織の側にそれぞれ置いた。
「お、あんたこないだも来てた子だね」
「あ、どうも‥」
妙に愛想の良いオヤジに、詩織もにこやかに返事を返した。

「なんだ、今日は彼氏連れかい。いいねぇ、若いってのは」

照れくさがる事も忘れそうな笑顔を浮かべてから、さっさと行ってしまった。
愛想の良いオヤジだ。気に入った。
気に入ったのはいいんだが‥‥
とんでもない爆弾を残していってくれたもんだ。そんな物まで注文した覚えはない。

「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」

しばらくの沈黙の後、詩織が油の切れたような笑顔を浮かべた。
首を小さく傾げる動作も、油が切れたようだ。
油は赤みに変わって、頬に集まっているに違いなかった。その証拠は見るに明らかだ。
そんな詩織を見ていると、俺の頬もどうにかなりそうなくらい熱くなってくる。

まったく、愛想がいいのも考えものだ。
もちろん、それがイヤではないし、間違われても俺は悪い気はまったくしない。悪い気どころか、俺の望みでもある。
ただ、詩織がそう言われて困っていなければ‥‥だ。

「ご、ごめんなさい‥‥」
「え‥な、なんで?」

いきなり謝られる理由が分からなかった。
一瞬、告白した訳でもないのに、断れた気さえした。
頭の中心がズンと重くなるような感覚。目の前も一瞬暗くなる。

「だ、だって‥‥わたしと一緒じゃなかったら‥‥」
困ったような表情。頬は紅。
自分の考えすぎに気づいたのは、この時だった。
「べ、別になんとも‥いや‥‥なんていうかその」
思ってなくもない。だから言葉が詰まった。どうしようもないくらい。
そういう風に思われて、全然構わない関係になれたなら‥‥考えれば考えるほど、頭の中が真っ白になっていく。

それを唯一引き戻してくれたのは、ラーメンの匂いだった。
「と、とりあえずさ、なんだ、ラーメン伸びるから先に食べちゃおうよ」
「う、うん‥‥」
話がうまくすり変わって‥‥‥‥なくもないが、とりあえず逸らす事だけは出来た。
俺は割箸入れから詩織の分と自分の分を取って、詩織に手渡す。
「ありがとう‥」
「んじゃ」
俺は箸をラーメンの中に入れた。
詩織は、カバンから髪止めを取り出して長い髪を後ろで束ねている。

髪を結うだけで、随分印象変わるんだな。

と、そんな事を考えながら数秒だけそんな詩織を見つめてから、目を合わされる前に俺は食べ始めた。


しばらく、お互い無言ですすった頃だろうか、さっきの爆弾の威力が落ち着いてきた頃、俺はラーメンに物足りなさを感じていた。
その物足りなさを埋める物は、視界にはあった。あったが、手を出そうか迷っていた。
なぜなら『それ』は人に迷惑をかける物だからだ。

「‥‥‥」

時たま、チラチラと『それ』を見ては手を伸ばしかけるが、どうも心がブレーキをかける。

「‥‥ねえ」
そんな時、不意に詩織が聞いてきた。
「え、え?」
「…は、ニンニクとか入れないの?」
「あ、いや‥‥その、入れたいんだけど‥なんていうかさ‥」
元々考えていた事が同じだったのかもしれない、俺の言葉に詩織はピンと来たのかもしれない。
「それじゃ‥わたしも入れていい?」
「え?」
「お互い、臭っちゃえばわからないでしょ?」
苦笑まじりの、悪戯っ子の笑顔。そんな表情をした。
「そ、そりゃそうだけど‥‥それで良ければ」
「うん。わたしは大丈夫。
 今日はもうこれから帰るだけだし‥‥それにわたし、ニンニクの臭い‥気にならないから」
詩織が頬を赤らめる意味が、俺にはよくわからなかった。
「いや、ホントはさ、さっきから入れたかったんだけど、詩織が居るから匂わせちゃまずいかなって思ってさ」
俺はニンニクの容器に手を伸ばしながら言った。
「ううん。気にしないで‥‥だって‥」
「ん?」
つぶやくような声で、正直、なんて言ったのか聞こえなかったのが悔やまれる。
「いいの。別に‥」
軽く首を振ってから、なにかを振り普うようにニッコリと笑った。
まあ、笑ってさえいれば、イヤな事ではないのだろう。
俺は、さっきまで物足りなかった物を、遠慮なくラーメンの中に入れた。
詩織も、控えめだが、臭うには十分な量だけ入れている。
こういうのを、臭い仲。とでも言うのだろうか。
どんな仲だろうと、一緒ならばそれでいいのかもしれない。
別の意味でも、物足りなさが埋まったところで、俺はラーメンを食べ始めた。

うん、うまい。

詩織の食べる速度に併せて、ゆっくり食べたせいで、かなり味わう事が出来た。
同時に、いつもの自分のペースが速かったという事にも気づく。
俺は、気が付かないところで自分のペースに走って、詩織の事を見ていない時があったのかもしれない。

そう思って、ハっとなった。
いつからこんな事を思うようになったのだろうか‥と。

詩織という目標に向かって走っていると思っていた。
もちろん、好きである故に近づいていたいという目標以外にも、目指させてくれる物を詩織が持っていたから、俺は追い付こうと努力はしていたつもりだ。

それが、気が付けば‥‥

いや、それは俺の思い過ごしだろう。
まだ俺が詩織にたどり着くには至らない。


俺は最後のスープを飲み干して、どんぶりを置いた。
詩織の方はさすがに、スープを一滴残らず‥というほどではなかったが、店のオヤジにすれば十分満足してくれるほどの食いっぷりには違いないだろう。
詩織に限らず、女の子は沢山食べる物なのかもしれない。
「ふう‥‥おいしかった」
どんぶりを置いた詩織が、ほっと息を漏らした。
「ああ、ほんとうまかったよ。
 またここにはちょくちょく来るかな」
「ほんと? よかった‥‥喜んでもらえて」
なぜだか嬉しそうだ。
「あ‥‥そうだ。
 今度また一緒に来ましょうよ。今度は違うメニューとかも食べてみたいし」
詩織は、店のメニューを楽しそうに見ている。
「じゃ、俺今度は、あのバターコーンラーメンでも食ってみようかな」
「わたしはそうね‥‥トンコツにしようかな」
俺は、詩織を見ていた。
今度来る時までに、店のオヤジに言われた通りにはなっていないかもしれない。

が、いつか必ず‥‥

「‥‥どうしたの?」
「え?あ、いや‥‥別に」

一瞬、バレたのかと思った。

「それにしても‥‥今日のプラネタリウム、すっごく綺麗だったね」
食べて一息ついたころ、詩織がポツリともらした。どこか夢見る風だ。
俺の方はと言えば、偽りの、しかし綺麗な星空を横で一緒に見てくれている人が居ると思っているだけで、十分に満足していた。
偽りの星空は、それを飾る贅沢なオマケかもしれない。
「そういや、今は冬だからね。ホントの夜空も凄い綺麗な時期かな」
「そうね‥‥空気も澄んでて、星が一杯見えそう」
「去年なんかは凄かったよ。
 たまたま夜に出かけた時、ちょっと空見上げたらびっくりするくらい星が出てて‥‥
 そりゃ、プラネタリウムってほどじゃないけどめちゃくちゃ綺麗でさ」
「ほんとに? いいなぁ‥‥わたしも見たいな‥」
「それじゃ‥‥」
そこまで言ってから、こうやって声を出した事を、少し後悔した。
本当は一緒に見に行こうと誘うつもりだったが、なんとなく、また今度ね。と、すかされそうだったからだ。
しかし、声を出してしまった以上、もう後戻りは出来ない。
「あのさ‥‥良かったら、近いうち、星空でも見に行かない?」
「えっ‥‥?」
信じられないという風に、目を丸くしている。
当然だろうな。夜に星を見に行こうなんて言ったのだから。
「星空‥?」
「本物の星空。当然夜に‥‥だけど」
「‥‥うん。いいわよ」

やっぱり断られ‥‥‥て?

「え?」
「え‥って、見に行かないの?」
「見に行くの?」
「…がそう言ったんじゃない」
すこしじれた様な詩織の表情。
やばい。なんだか話が噛み合わない。
「ちょ、ちょっと待って。
 えっと‥‥とりあえず、見に行くけど、詩織も来るって事でいいの?」
「うん」
「えと‥二人だけだけど‥‥大丈夫?」
もはや、今は頭で考えるより口まかせに喋っている感じだ。
「え‥‥う、うん‥別に‥‥」
ここに来て、我に返った。というより、ようやく頭で整理がつくようなった。
そうなってから、なんだかとんでもない事を言ったような気がした。
二人だけで‥‥なんていう、別に今とさして変わらない状況の言葉だが、言ってから、やたらと胸が騒ぎ出す。
「そ、それじゃ‥‥今日、天気予報で週間予報とか見たら、すぐ連絡するよ」
「‥‥うん」
俺は、お冷やを一気に飲んで、乾いた喉を潤した。
本当に外は冬だろうか‥‥

ラーメン屋を出ると、出迎えてくれた木枯らしが、冬だという事を改めて教えてくれた。
「大丈夫? 寒くない?」
「あ‥うん、平気よ」
大丈夫じゃなくて、平気と言った。それなら安心だ。
「それにしても、今日はほんと寒いね」
詩織は、コートの前を合わせながら、それでも笑顔だけは春の日差しのまま言った。
「さっきのラーメンパワーも、あまり持ちそうもないな」
そんなパワーより、詩織が横に居てくれれば、寒さなんかあまり気にならない。
それは俺だけなんだろうか。詩織はどうだろうか‥‥
「でも、今日はお天気がいいから、歩いていればすぐにあったかくなりそう」
「そうだな‥‥一駅だけど、電車にゃ乗れないしね」
はぁっと息を空に向けて吐いてみた。
綺麗に白く変わるが、ニンニクの臭いのする息だ、あまりカッコいい物じゃない。
「ふふっ‥‥そうよね」
そう言ってから、詩織も空に向かって、俺よりも小さく白い息を吐いた。
俺達の息は、すぐに木枯らしが持っていった。
ニンニク臭い息は、冬将軍に対して失礼だろうか。

「あ、ガム食べる? 臭い、早く消えると思うけど」
ポケットの中に入っているガムの事を思い出した。
消臭用にと、常備してあるやつだ。
「ううん、いいわ。もう帰るだけだし‥」
「‥‥そっか、そうだな‥‥ま、いいか」
「それに‥‥ニンニクの臭いなんて、わたしは気にしてないし‥‥」
「まあね。俺もニンニクの臭いは嫌いじゃないよ」
「うん‥‥でも、やっぱり他人のっていうのがイヤって人も居るし‥」
「まあね‥‥‥それじゃ、俺はとりあえずガム噛んでおくよ。
 俺は別にいいけど、俺の臭いじゃイヤだろうしね」
俺にしてみれば、詩織のニンニク臭い息なんてなんとも思わないし、それにお互いニンニク臭いから、ほとんど気づかない。
「あ‥ううん。わたしの事はいいから。
 お互い臭うから、全然気にならないし、それに‥‥」

そこまで言った時、ひときわ冷たくて強い北風が吹いてきて、微かに感じていた暖かさと、詩織が言いかけた言葉を奪っていく。
言葉の続きは、北風が持っていかなくても、詩織は言わなかったような気がする。
それほどまでに、語尾は小さく、細かった。
続きを言いたければ、言ってくれるだろうし、言いたくなければ言わないだろう。
その先の言葉だけは、俺の希望を含めた予想だけにとどめた。


「それにしても、女の子ってさ‥‥スカート、寒くない?」
今の詩織の格好は、少し長めのスカートだが、膝から下は素足だ。
ふと気になって聞いてみた。
「結構平気よ。それに、今日はストッキングもはいてるし」
「へえ‥‥そんなものなんだ」
言われてみれば、確かにうっすらと脚の色が違う。言われなければ気づかなかったかもしれない。
「それに、私達の年頃の女の子なら、脂肪もついちゃってるから‥‥」
少し恥ずかしそうに微笑んでいる。恥ずかしそうなのは目でわかる。
「なに? 太ってるって事?」
どういう事かぐらいは、俺にもわかる。が、今はわざとだ。
「違うわ。そういう風に出来てるって事なの。ほんとにもう‥意地悪なんだから」
以前詩織から聞いた事がある。俺はわざと何か言うと、ニヤっとするらしい。
その笑いを俺がすると、それは意地悪である証拠だと言うのだ。
「ははっ、ごめん。冗談だって」
「もう‥‥知らない」
こんな冗談が通じない詩織じゃない。その証拠に、笑っている。楽しそうに。
一駅区間だけの、散歩がてらのデート。こんな事があれば、楽しいかもしれない。

−天気予報− 「ハレ ノチ ホシゾラ」

「はい、藤崎ですけど」
電話の向こうから、落ち着いた声が聞こえた。
「あ、…だけど」
「‥‥ …君?」
「え‥‥あ!」
「詩織ね。ちょっと待っててね」
電話の相手は、そう言ってから可笑しそうに笑っていた。
詩織のおふくろさんだった。どうりで落ち着いた声な訳だ。
今回は確認しなかったのが敗因だった。
確認しないと、間違える時があるからだ。
それに、おふくろさんもおふくろさんで、たまに俺をからかっているんじゃないかと思えるような、受け答えがある。
「は、はい‥‥あ、すいません」
「ふふっ‥‥いいのよ。じゃ、ちょっと待っててね」
落ち着いた声でも、雰囲気が詩織に良く似ていた。
いや、詩織がおふくろさんに似ていると言うべきか。

すぐに保留音が鳴ってからしばらくして「‥‥はい」と無表情な声が聞こえてきた。
「あ‥‥もしもし、…だけど」
「‥‥‥あ、ああ、…」
妙に無機質な声だった。それに、今にも消えてなくなりそうだ。
「‥なに? どうしたの?」
「ごめんなさい‥‥今、ちょっと寝ちゃってて‥」
どうりで声に勢いが無いわけだ。
「え、何? 風邪かなんか?」
「ううん‥違うの。ちょっと眠くなっちゃって‥‥」
「あ、悪かったかな。またあとで電話しようか?」
「ううん‥‥大丈夫だから」
「いいよ。あと十分くらいしたら、もう一度電話するから」
「う‥ん、ごめんなさい‥」
なんとか目を覚まそうとしているかのような声だ。
「それじゃ、またあとで」
「うん‥ほんとにごめんなさい」
「いいって。それじゃ‥」
詩織が切るのを待ってから、俺も通話を切った。


やれやれ‥‥とは思うものの、なんとなく唇の端が緩んでいるのを感じる。
小さい頃に、何度か見た事のある寝起きの表情と、どこか変わっているだろうか。
あの頃は、寝起きの顔は、本当に眠そうだったな‥‥詩織は。
立ったまま寝てしまうんじゃないかと思った事もあったくらいだ。
電話を切ってから、丁度五分くらい経ったころだろうか、電話が鳴り出した。
とっさに俺が取って、「はい、…ですけど」と、慌てて答えると
「あっ‥わたし、藤崎と申しますが‥‥」
「詩織? 俺、俺だよ」
今度は間違えようもない。
「あ‥…」
さっきまでの声とは違う、張りのある声。もうすっかり眠気はなさそうだ。
「なんだ、こっちからかけるって言ったのに」
「ううん、それじゃ悪いから‥」
「別に良かったのに‥‥それよか、もう大丈夫?」
「うん。もう大丈夫。さっきはごめんなさい‥‥寝起きだったから‥」
「いや、いいよ。それよかどうしたの? なんか疲れてたとか?」
「そうじゃないの。
 ご飯食べてから、部屋で音楽聞いてたらいつのまにか寝ちゃってて‥‥」
きっと、電話の向こうでは、苦笑しているに違いない。そんな風に思わせてくれる声が聞こえてきた。
「そっか。それなら良かった」
「え‥‥良かったって?」
「いや、今日随分歩いちゃったしさ。
 そのせいで体調崩しちゃったのかなっ‥て」
「ううん。ホントに大丈夫だから。
 でも‥‥ありがとう。心配してくれて」
柔らかい声に、ドキっとさせられる。
目の前に詩織が居る訳でもないのに、なぜか視線を逸らしてしまった。
「い、いや、いいって‥‥
 それよりさ、さっき天気予報見たんだけど、ここ二日くらいは快晴だって」
「ほんとに? 良かった‥‥」
「だから‥‥明日とかどう?」
正直、詩織がホントに一緒に星を見に行ってくれるかどうか、自信はなかった。
「また今度」「次の機会」「いつか」そんな言葉が頭の中を駆け回る。
「え? 明日?」
「あ‥‥いや、別に。用事とかあったら‥‥」
「ううん。大丈夫よ。明日ね」
「ほんとにいいの?」
「うん‥だって、約束したでしょ? 一緒に行こうって」
どうしたの? と言わんばかりに、聞いてくる。

最近になって‥‥卒業を間近にして、詩織との距離が、錯覚かもしれないが少し近づいていると感じる時がある。
でも、それを認めるが正直恐い。
俺の勘違いであったなら‥‥その時は‥‥

「それじゃ、明日でいい?」
「うん」
声だけでもわかる元気さが、いつもそんな俺の不安を吹き飛ばして、こっそり不安の種を落として行く事に気づいたのはいつの頃からだったろう。今は不安を吹き飛ばしただけの事だ。

不安の種は静かに胸の奥。


「じゃ、明日の夜八時頃からでいいかな?」
「明日の夜八時ね。うん、わかったわ」
「でも‥‥詩織、夜に出歩いて大丈夫かな? それがちょっと心配だけど」
「うん‥‥でも、…と出掛けるっていえば、多分大丈夫だと思う」
「そうなの?」
その理由が、どうしても気になった。
「いままでも、コンビニ行ったりして遅くなった時あったじゃない。
 あの時も…と一緒だったって言ったら『そう‥‥なら、別にいいけど』ってお母さんも言ってたし」
「なんだ‥そんなに信用されてもなぁ‥‥」
とはいえ、内心嬉しくて仕方がない。
「そんなことないわ。結構信用されてるんだから」
詩織がそう言った後、クスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。
「でも、親父さん、あまりいい気分じゃないだろうなぁ」
「え、どうして? お父さん、…の事嫌いって訳じゃないと思うけど?」
俺の言った意味がまったくわからないという風だ。
男でなければ、本当の意味を理解するのは多分無理かもしれない。
「‥‥いや、なんとなくさ」
「え? なんなの、教えて」
「いや、だからなんとなくだよ」
「そう‥それならいいけど‥」
詩織の声の表情が曇っても、こればかりは言えない。
言っても理解はされないだろうし、理解させるには、俺の気持ちまで言わなくてはならない。
告白するチャンスを逃したような気もするが、こんな精神的に準備してない時に言って、これからの事をふいにしたくはなかった。
「とりあえず、明日‥‥夜の八時くらいでいい?
 いくらなんでもあんまり遅くなったらまずいしね」
「うん‥‥」
どんな表情での返事だろうか。
それが気になった。聞いたみたかった。
「じゃ、明日の八時頃、詩織のうちへ行くから」
出て来た言葉がこれだ。俺も相変わらずだ‥‥
「うん。待ってる」
間違いない。今のこの声だけは、微笑んでいるとわかる声だ。
「それじゃ、また明日‥‥」
「うん‥‥‥」
俺が受話器から耳を離そうとした時、詩織の呼び止める声が聞こえた。
「あ‥‥まって」
すぐに受話器を耳につけて「え? なに?」と聞くと、
「‥‥明日、楽しみにしてるから‥‥それじゃ‥」
そう言って、電話は切れた。
俺は、しばらく茫然としながら、受話器を耳に当てたままだった。
ツーツーという乾いた音が、いつまでも俺の頭の中に響いた。

−星空− 「Starligh symphony」

一番小さかった頃は、思いっきり背伸びして、やっと届いていた藤崎家のチャイムを押した。
小さい頃は、そのせいもあってか、「詩織ちゃん」と呼ぶのがチャイム代わりだったものだ。
押してからしばらくすると、ドアが開いた。
俺が来るのを知っていたのかもしれないと思える程だ。
「あ‥‥ …君。こんばんわ」
出てきたのは詩織ではなく、詩織のおふくろさんだった。
もう一人の母さん的存在の人。
小さい頃は、詩織と俺のわけ隔てなく、優しかったり叱ったりして貰った事もある。
一度、母さんが用事でどうしても授業参観に来れない時に、来てくれた時さえあった。
詩織とは別々のクラスになっている時でもだ。もちろん、掛け持ちでだが。
あとから聞いた話だと、詩織が俺から母さんの都合を聞いてそれをおふくろさんに話したところ、買って出てくれたらしい。今でも感謝している。
「あ、どうも。こんばんわ」
「ちょっと待っててね。今なんか準備してるみたいだから」
そう言って振り返り、
「詩織、なにやってるの? …君来たわよ」
すると、台所の方から、
「はぁい。今行くから」と返ってくる。
「ごめんなさいね。寒いから中で待っててちょうだいな」
「あ、はい。それじゃお邪魔します」
玄関に入ると、ほんわかと暖かい。
藤崎家の「匂い」がする。
この暖かさ、匂い、ほんとに変わってないな‥‥
しばらく待っていると、トタトタと軽い音を立てながら、詩織が台所から駆けてきた。
「詩織! 家の中で走っちゃ駄目だぞ」
途中、居間の方から親父さんの声がした。
「ごめんなさい、今急いでたから」
詩織はそう言い返して、玄関までやってきた。
手には、少し大きめのカバン。
めずらしく、スリム系のGパンをはいている。動きやすそうな格好だ。
「ごめんなさい。待たせちゃって」
「いいって。三分も待ってないよ」
「あ‥‥ふふっ」
「え‥?」
「う、ううん‥‥別に、なんでもないの。それより、早く行きましょう」
「あ、ああ‥‥」
詩織の言葉の意味。嬉しそうな表情。
俺が理解する間もなく、詩織は靴を履いて、玄関のドアを開けた。
すぅっと入ってきた冷たい空気は、少しあったまってきた俺の回りの空気を追い普っていく。
「うわ‥外、すっごく寒いね」
そう言いながらも微笑む詩織は、一足早い春のような気がした。

息を吐いてみた。
大げさなくらい、白く変わっていく。
いつもこんな量の息を吐いていると思うと、不思議でならない。
この寒さのせいか、人通りがほとんど無い道。俺と詩織の二人だけの足音だけが響いていた。
「‥‥ほんと寒いね」
詩織の息も、白く変わっていく。
「寒くない? 大丈夫?」
「うん。ちゃんと厚着してきたから平気よ」
「ならいいけど。
 それにしても、こんな寒いの、今年になってから初めてじゃないかな‥‥」
「まだ冬はこれからって感じよね」
「そうだね‥‥」

この冬が終われば、待っているのは卒業。
詩織とは別々の道を歩かなくてはいけなくなるかもしれない。
今の所、同じ学校を志望してはいるものの、この先の事なんかどうなるかわかったものじゃない。
今みたいに学校に行けば詩織に会えるなんていう事はなくなるかもしれないし、近くに居たとしても、遠い存在になってしまうかもしれない。
これから先の事だって、今の夜の闇よりも暗く、何も見えない。

「まだ‥‥これから‥‥か」
「どうしたの?」
「いや、冬はこれからだって‥ね」
『冬』は余計だった。
「でも‥‥やっぱり春が待ち遠しいよね」
「ああ‥」

春になれば。春になったら。春に‥‥‥

「どうしたの?」
「えっ?」
「さっきから、なにか変だけど‥‥わたし、なんか悪い事言っちゃった?」
ハっとして詩織の方を向くと、不安そうな表情が待っていた。
「い、いや‥‥違う違う。
 ほら、今年が高校最後の冬だからさ‥その、なんとなく‥‥」


肌刺す冷たい空気も。
白く変わる息も。
起きるのが辛い朝も。

今年だけじゃなく来年も、その先もずっと来るだろう。

しかし、詩織と居られる冬はもしかしたら、来年は無いかもしれない。
そう思うと、どうしようも無い気持ちになってくる。

どうしようもなく辛い気持ちに。


「なんていうか、寂しいっていうか‥‥」
「なんだ‥‥そうだったの。
 わたし、なんか言っちゃったのかと思って心配しちゃった」
白い吐息の向こうに、詩織の微笑みが霞んだ。
「ま、でも、寒くなくなるってのはいい事だ。冬は朝がメチャクチャつらいし」
いつまでも続けていい話題じゃない。俺は話を切り替えた。
「あ、わたしも同じ」
「でも、詩織はあれだよ。寒い朝でも絶対に遅刻しないもんなぁ」
「そうだけど‥‥朝起きるの、本当につらいんだから」
「低血圧って訳でもないんだよね?」
「普通だと思うけど‥‥でも、寒い朝が得意な人なんて、居ないと思うな」
おかしそうにクスクスと笑っている。笑いも白く変わるんだな。
「あ、ほら。あの高台のあたりだよ」
歩いているうちに、いつのまにか目的地が見えてきた。
俺は指さしてみせた。
「あの一番上に公園があるんだけど、そこからだと、夜景も見えるしね。
 結構いいとこなんだよ」
「そうなんだ‥‥」
本当の所、いつか夜に夜景を一緒に見に行きたいと思っていた場所だ。
まさか、こうやって本当に実現するとは思わなかった。
以前は、好雄や中沢達と行ったから、ムードも何もあったんもんじゃなかったが‥
「星、たくさん見えるといいね」
「ああ‥」
出る時、俺達はあまり上を見ない事を申し合わせていた。
思いっきり真上を見上げられるのは、あの高台の上だ。

−星空− 「winter's constellation」

高台へ上る坂の途中でも、なるべく回りを見ないように歩いた。
気になれば気になるほど、視線が上に向きがちになったが、そんな時は詩織の方に視線を向けた。
「少しあったまってきたね」
確かに、体の芯からあったまってきた気がする。
一人じゃないという安心感のせいか、あったまって来たのは身体だけじゃない。
「もうじきだから」
「早く見たいね」
楽しくてしょうがないという声だ。
昼間であれば、表情も見れただろう。
「確かにね。俺もさっきから我慢の限界だよ」
「これで、星があまり見えないとかだったら、どうしよう」
詩織は冗談っぽく言ったつもりかもしれないが、俺には、さっきから結構気がかりな事だった。
なにしろ、あまり上を見ないように意識してきただけに、実際の所綺麗に見えるかどうかは不安だった。
まったく星が無い訳じゃないのは、ほんのチラっと視線を上に向けた時に、確認済みだ。
しかし‥‥綺麗に見えるかどうかは保証出来ない。
「もし見えなかったら‥‥謝るよ」
「ご、ごめんなさい‥‥そんなつもりじゃ‥‥」
俺の答えに驚いたのか、慌てながら手を振っている。
「違うの。そういうつもりじゃないの‥‥」
慌てる姿が、妙に俺の胸を高鳴らせた。
「い、いや‥別に俺もそんなつもりじゃ‥‥」
自分で言った「そんなつもり」がどんなつもりかも分からないまま、俺も慌てさせられた。
俺の言葉に、真面目に反応してくれたせいかもしれない。
「わたしが見たいって言ったから‥‥もし見れなくても、わたしは大丈夫だから‥」
俺も、正直な所、星が見えなくてもいいとさえ思っている。
こうやって詩織と歩けているだけで、すでに十分だった。

しかし、詩織がそれを望んでいなかったら‥‥と考えると、不安にもなる。
こんな時、お互いの気持ちさえわかったなら、どんなに便利だろう。

「だから‥‥ごめんなさい」
詩織は必死だった。
見てわかる。
そんなにまでして、言ってくれている事が、たまらなく嬉しかった。

「ちょっと。ちょっと聞いてよ」

詩織を一旦制し、

「俺、別に詩織を責めてる訳じゃないって。
 誘ったの俺だし、もし星が見えなかったら、ついてきて貰った意味ないしさ‥‥
 それに、つまんないだろうし」
自分でも、なんでこんな弱気なのかわからないまま、それでも言葉は止まらなかった。
「だから‥‥」

そこまで言った時、

「いいの。星がまったく見えなくたっていいの!」と、俺の言葉を遮った。

俺の言葉より強く。はっきりと。

「一緒だから‥‥だから‥‥」
絞り出すような言葉。
『一緒』という言葉に、胸が痛いほど高鳴った。
「詩織‥‥」
「だから‥‥一緒に行きましょう。星がなくたって、夜景が無くたっていいから」
「‥‥それでもいいの?」
「うん」
夜の中でもわかった。詩織が微笑んでいるのが。
「わかったよ‥‥‥」

息を吐いて肩の力を抜いた。
ふっと気分が軽くなる。
余分な力は、白く変わって夜空へ消えた。

よくよく考えたら、こんなちょっとしたすれ違いは、しょっちゅうあった。
お互いの本当の気持ちがわかったなら、笑顔だけで済むかもしれないと思うのは贅沢だろうか。
「それじゃ、夜の散歩って事で行こうか。星空と夜景はオマケだね」
「ふふっ‥‥」
「ははっ‥」
そういえば、すれ違った後、最後にいつもあったのは笑顔だ。
いつのまにか立ち止まっていた俺達は、また歩き出した。
「星空なら一枚。夜景なら五枚ってとこかな」
「なぁに? それ」
「ほら、あれ。小さい頃二人で集めてた奴」
「え‥‥」
「結局、貰えなかったけどさ、『玩具の瓶詰め』」
「あ!」
詩織がひときわ高い声を上げた。
「ふふっ‥‥」
「え? なに? どうしたの」
「あれ‥‥まだやってるのかなぁ」
「まだやってるんじゃない?」
「それじゃ、集まったら送ってみましょうか」
「え?」
「あれね。実はまだ持ってるの‥‥ふふっ」
可笑しくてしょうがないと言った感じの声だ。
「え? ほんとに?」
「うん。確か銀のマークが四枚だったかな‥あと一枚って時に‥‥」
不意に、詩織の声の調子が落ちる。
「いつのまにか、一緒に遊ぶ事が少なくなっちゃって‥‥」
「そうだっけ‥‥」
一緒に遊ぶ事がなくなったというより、お互い少し距離が離れてしまったという方が正しいかもしれない。
ちょうど、俺が詩織を意識しだした頃だ。

友達の噂を恐れていた時期。
今は、そんな時期があったなんて信じられないくらい詩織は側にいる。
もっとも、互いの本当の距離は、俺にはわからない。

「でも‥‥またこうやって一緒に遊べるんだし‥‥」
夜に慣れた目に、ハッキリと見えた。詩織の柔らかくて優しい微笑みが。
どうしていいかわからないほど、鼓動が高鳴る。
鼓動に押されて、思っている事が口に出そうだ。

抑えろ抑えろ!

しかし、抑えれば抑えるほど、口の代わりに体が勝手に動きそうだ。
ちょっとでも気をゆるめたら、抱き締めてしまうかもしれない。
もしそうしてしまったら、詩織は‥‥
「ま、まあね‥‥」
結局出てきた言葉はこれだ。本当の事を言う事も、抱き締めもしなかった。
これも、いつもの事だ。こんな『いつも』が、いつか変わる日も来るのだろうか。
「あ、あそこじゃない?」
ふと、詩織が前を指さした。
俺の心の中の嵐なんか、まるで知らない風だ。
それも当たり前か。言わなければ伝わる筈もない。


詩織が指指した所は、確かに俺達の目的地だった。
道の先が開けた感じになっている。まるで世界の果てのように、向こうには何もないようだ。
俺は知っている。あの先には‥‥
「ねえ、早く行きましょう」
「あ、おい、ちょっと!」
小走りに駆け出した詩織を、俺は追いかけた。

冬の空気の綺麗さという物を、初めて実感したような気がする。
この空気ならば、どこまでも見通せるに違いない。

「‥‥‥‥」

詩織がなぜ無言なのか、俺にもわかる。俺も無言だからだ。
そうさせる物が、目の前にはあった。

さっきまでの不安など、突風の中の消えかけた蝋燭の火以下かもしれない。
目の前に広がっていたのは、星空だった。
ただ違うのは、星空が眼下にも頭上にもある事だった。
眼下にあるのは、夜景という名の人が作った星空。頭上にあるのが本当の星空。
星空が地上に映ったのか、あるいは夜景が夜空に映ったのか。
俺にとっては、どちらも星空だ。

チラっと詩織の横顔を見てみた。
どんな風に目の前の夜景と星空を見ているのか、気になったからだ。
見てから、すぐに目を逸らすつもりだった。
それが出来ないと知ってからでは遅いと知らずに。

時たま吹く冷たい風に、髪を遊ばせている姿、一直線に目の前の風景を見つめる眼差し。

どれもが、俺の目を引き付けて離さない。

ふと、小さかった詩織の面影が重なった。
あの詩織が、いつの間に‥‥

「‥‥ん? なに? どうしたの?」
俺の視線に気づいてか、穏やかな声と一緒に、不思議そうな表情で俺を見つめてきた。

目が合う。
綺麗な瞳の奥まで一瞬見えた気がした。

「あ、いや‥」
「‥‥‥」
俺が何も答えなくても、ただニッコリと微笑んだだけで、また視線を前に向けた。
「すごく綺麗ね‥‥」
「ああ‥‥」

一緒に同じ場所に立って、同じ物を見ている。
それ以上望む物はない。

いや‥‥

ひとつだけあった。
それは、もしかしたら、空にある星よりも遠い物かもしれない。
あるいは街の明かりのように、すぐに届く位置にあるのかもしれない。

それを確かめる手段はただひとつだ。

ただ、いつもそれを言う事は出来ない。たぶん今も言えないだろう。
言いたい気持ちを、訳もわからない恐さがいつも抑える。


「あ‥‥ちょっと座ろうよ。いつまでも突っ立ってるのもなんだし」
「うん」
詩織は笑顔で頷いた。
もしかしたら、俺が言えないのは、この笑顔のせいかもしれない。

ベンチは、公園側に向いて座れば公園を見るだけだが、反対に向いて座ればどんなプラネタリウムも及ばないほどの、星空を見る特等席だった。
ベンチへは、詩織が先に座った。
俺は、意識しないで詩織のすぐ隣‥‥少し身体を傾けたなら、肩が触れてしまいそうなくらい近くに座った。
こんな近くに座る事も、いつからか、自然になっている。
冷たい風が吹いたなら、詩織の吐く白い息も風に溶けずにこっちに流れてる距離だ。
「すっごく綺麗ね」
「そうだな。こんなに綺麗に見えるなんて、思ってもなかったよ。
 前来た時は夏だったって事もあるかもしれないけど、こんな綺麗だとは思わなかった」
「わたし、こんな綺麗な夜景見たの初めて」
「俺もだよ」

もしかしたら、夜景と星空がこんなに綺麗に見えるのは、一人じゃないからかもしれない。
他の誰でもない。
一番こうやって居たかった人と、今一緒だからだろうか。

「わたしね、昨日、星座とかって、ちょっと調べてたの」
「へえ‥‥」
「でも‥‥こんな星が多いと、なにがどれなんだか、よくわからないね。
 本持ってくればよかった」
薄闇の中での苦笑の意味が、俺には良くわかった。
言われてみるまでもなく、星がありすぎて、星座を構成している星がよくわからない。
「確かに。俺も調べてたんだけど、こんなに見えたら、ちょっとわからないな」
「でも、ほら‥‥あのオリオン座の三連星とか、あそこらへんのならすぐにわかるんだけど」
詩織が、オリオン座の特秩の、三つならんだ星を指さす。
「確かに。綺麗に並んでるし、他の星よか、少しは明るいしね」
「そうなると‥‥」
詩織が、指で、星座の線をなぞるようにしている。
「あのちょっと右上の明るい星が、牡牛座のアルデバランね」
「ああ、そうだけど‥でも、牡牛座ってどんな形してたっけ?」
「うんとね‥‥」
少し考えるように夜空を見上げてから、
「忘れちゃった」
そう言って、なぜか楽しそうに微笑んだ。
「よっぽど星座好きじゃないと、覚えられない形のって多いし‥‥‥」
「確かにね。俺も調べてて思ったけど、なんか強引すぎる形って多いよ」
「そうそう。そうよね」
同じ風に思っていた事なのか、笑顔を輝かせながら言ってきた。
それから、ふと、表情をふわりと柔らかくして、俺から視線を逸らし、夜空を見上げ、
「でも‥‥知ってると、夜空を見たらもっと楽しいよね。きっと」
夜空の中に、自分の知識を重ねる日の事を夢見ているかのような眼差しだ。

「いつか‥‥本持ってきて、一緒に調べましょうよ」

視線を俺の方に向けてきた。まっすぐに。

「‥‥ああ」

今の俺には、しっかり頷く事しか出来ない。
いつか、こんな風に見つめてくれた時、言葉以外で応えられる日が来るだろうか。


「あ‥と、そうそう。あったかいコーヒーとか持ってきたの、飲む?」
手をポンと小さく打ち鳴らしながら言った。
「え? コーヒー?」
「コーヒーじゃイヤだった?」
「いや、そうじゃなくて‥‥」
「寒いかな‥って、思って。ほら」
カバンから取り出したのは、小さなポットだった。
遊園地に、詩織の従姉妹の子と一緒に行った時に、詩織が持ってきたポットだ。
「飲む飲む。
 ちょうどあったかい物とか飲みたかったから、なんか買いに行こうかと思ってたとこだよ」
「ほんと? 良かった。持ってきて」
あったかい飲物より先にくれたのは、あったかい笑顔だった。
「はい」
詩織が、ポットの蓋代わりのコップを俺に渡してくれた。
「あ、さんきゅ」
「コーヒー、お砂糖とかミルク、ほんのちょっとしか入れてないけど、いい?」
「ああ、全然オッケーだよ。俺も、そっちの方がいいし」
俺の言葉に返ってきたのは、返事ではなく、ただひとつの笑顔。
注いでくれている間の沈黙を埋めてくれたのは、コポコポと音をたてるコーヒーと、そこから立ち昇る湯気だった。
「‥っと、サンキュ」
俺は飲む前に、ベンチの上にカップを置いてから、
「貸して。注いであげるよ」
「あ‥‥うん、ありがとう」
受け取ったポットを傾けて、ゆっくりと詩織の持つカップに注いだ。
それから、置いた自分のカップを持って──あちっ───冷たい空気と一緒に香りを吸い込んでみた。

うん、いい香りだ。

ひとすすりすると、舌を刺すように熱い。
「あちち」
「あ‥熱かった?」
「いや、ちょっとね」

ちょっとどころじゃなかった。かなり熱い。
もっとも、それは俺の不注意だが。

「冷めないように‥って、熱いので入れてきちゃったから‥ごめんなさい」
「いいよ。これくらい熱い方が、あったまっていいから」
俺が笑いで返すと、詩織も安心したようにニッコリと笑顔を返してくる。
視線を詩織から移してカップを見ると、ふと、俺のカップから立ち昇る湯気がフッと消えた。
いや、吹き飛ばされたと言っていいかもしれない。

俺のカップを持つ指に感じた、微かな風。
北風よりは暖かい小さな風のせいだ。

ハッとして、詩織の方を見ると、詩織は口を小さくすぼめていた。
小さな風は、冬将軍からではなくて、詩織から来た物だった。

「あ‥‥ふふっ」
俺が見たのに気づいて、小さく笑った。
今の俺にはキツすぎる茶目っ気だ。

こういう時、どういう風に反応すればいいのだろう。
と考えれば考えるほど頭の中が真っ白になっていく。

心臓の鼓動一つ一つが爆弾のように鳴り響くのに耐えられなくて、俺は
思わず詩織から顔を背けて、コーヒーを勢い良くすすってしまった。

あちっ!

二杯目のコーヒーを飲んだ時にほうっと吐いた息は、勢い良く白く変わったが、すぐに吹いて来た北風がかき消した。
それでも、身体の中の暖かさだけは消せやしない。
少し熱めのコーヒーと、隣に座っている人のせいだろう。

「あったかくなってきた」
「うん」
「寒いとこで飲むコーヒーって、なんでかな。なんでこんなうまいんだろ」
二杯目の最後の方は、喉越しの暖かさが忘れられないくらいだった。
夜景と星を見ながらコーヒー。しかも隣には詩織。
これ以上コーヒーをうまく飲める場所があったら、教えて欲しいものだ。
いや、詩織が隣にさえ居てくれれば、それでいいのかもしれない。
「ほんと。どうしてなのかな。こうやってるから‥‥かな?」
冗談っぽく言っている風にも聞こえるし、本気で言っているようにも聞こえる。
そんな声だった。
どちらにしても、胸を必要以上に高鳴らせるには十分の言葉だ。
ただ、俺にとっては本当の事には違いのだが、冗談だとしたら俺にとってはきつい、本当の「冗談」だ。

「そうだよ」
立ち上がりついでに、小さな声で言ってみた。
詩織には聞こえる筈がないほど、小さな声で。

「え?」
詩織が、少し驚いた風な声を出す。
一瞬、聞こえたかもしれないと思った。
内心慌てながらも、態度にはなるべく出さないようにして、
「い、いや。なんでもないよ」
そのまま、公園の手摺の所まで歩いて行った。
もしかしたら、聞こえないと思っていた声は、しっかり詩織の耳には届いたのかもしれない。
もし届いていたとしたら、冬将軍の、昨日の昼間、ニンニク臭い息を冬の空に撒き散らした事の仕返しに違いない。
詩織の反応が、正直俺は恐かった。告白に近い言葉だったからだ。

振り返らずに、そのまま夜景を見ていた。

すぐ下に見える高速道路を走る車の小さな赤いテールランプとヘッドライトが目に入る。
あの車、どこへ行くんだろう?
誰かに出会いに行くのだろうか。それとも、誰かと別れてきたのだろうか。
詩織の事をなるべく考えずに、そんな事を考えていた。
どれくらい、そんな夜景を見ていた頃だろう、ふと横に気配がした。
見て確認しなくてもわかっている。
「ほんとに‥‥綺麗」
詩織のその言葉を聞いて、正直ホっとした。あの一言のせいで、さっきまでの俺達、今までの俺達では居られなくなってしまったかもしれない‥という不安が消えたせいだ。
まあ、俺の考えすぎには違いない。

「‥‥」
安心感のせいか、言葉が出ない。
そんな俺に構わず、詩織は続けた。
「星空は、まだちょっとわからないけど、夜景なら‥‥」
そう言って、ある方向を指指した。
「あの辺りがうちの方よね」
一際整然と明かりが並んでいる辺りを指している。
紛れもない、俺達の住む住宅街の明かりだ。
特に特秩も無いが、それがまた特秩なだけに、すぐ分かる。
「ここからだと、こんな風に見えるのね‥‥」
このつぶやきに、自分が考えすぎていた事にも気づいた。
思わず苦笑が浮かんでくる。

まったく‥‥俺も馬鹿だな。

「なんか、こうやって見てるとさ、この街も随分広いよな‥‥」
独り言のつもりだったのか、詩織に聞いて欲しかったのか、今はわからない。
ただ、思った事が口から出てきただけの事だった。
「ほら‥‥あそこ、あの真っ暗な所、あそこが中央公園でしょ?」
詩織が指さした所は、夜景にぽっかりと黒い穴が開いたような場所だった。
「あ、確かに」
「こうやって見ると、あの公園もそんなに遠くないのね‥‥」
距離にしてみれば、それほどでも無い距離だ。
こうやって見ると、地図の上を見ているようで、全然遠いと感じない。

「小さい頃は、あんな距離でも遠いって‥‥思ってた」

詩織の呟きが、なぜだか俺の胸にチクリと刺さった。
痛くも辛くもない、不思議とどこか心地良い感覚だ。

「あの頃は、あんな所へ行くのでも、大冒険気分だったもんな‥‥」

隣に居るのが親ではなくて詩織一人だったという不安は、今でもハッキリ覚えている。
同時に、僕が守るんだといっちょまえに思っていた事も覚えている。

今思えば、あの頃は、詩織の事を好きとかっていう理由じゃなくて、詩織という「女の子」を守ろうとして、必死だった。

もっとも、後で親にこっぴどく叱られた事も、ちゃんと記憶にある。


「なんだか‥‥ちょっと寂しいね」
夜に慣れた俺の目が、俺の方を向いてきた詩織の笑顔をハッキリと見る事が出来た。
笑顔なのに、どこか寂しそうな雰囲気さえも。

「なんで?」
遠かった距離が縮まった。
これがどうして寂しいのか、俺にはわからなかった。

「うん‥‥なんていったらいいのかよくわからないけど‥‥
 あの頃、あんなちょっとの所へお父さん達に内緒で行く事でも、凄くドキドキしてたけど、今だと、どこ行ったってそんなにドキドキする事なんてないじゃない?
 だから、そんな風に思えなくて、ちょっと寂しいかな‥‥って」
「う‥ん、確かにね」

ドキドキという点では、今でも違う意味であるにはあるが、今詩織の言っている意味のドキドキは確かにない。

「お父さんやお母さんが連れてってくれたなら、あんなにドキドキしなかったもの」

そう言ってから、可笑しい事でもあったのか、一人でその思いを抱えこむようにして小さく笑った。

「って、なに?
 俺が頼りないって事?」
笑いながら言ってみた。
「それもなかったって訳じゃないけど」
笑顔が一層濃くなった。

「ちぇっ‥でも、小さい頃に、頼り甲斐のある雰囲気のある奴なんて、そうそう居るもんじゃないけどな」
小さい時の事だ、頼れないとしても、それは当時の俺の責任だ。
それがわかっているから苦笑した。

「でも‥‥わたし、見てて思った。なんか一生懸命なんだな‥って」
「え? 一生懸命って、何が?」
「今思えばなんだけどね。
 あの時、ずっとわたしの手とか握っててくれたでしょ」
「え、あ、あ‥そうだっけか?」

そういえば、迷子にならないように、離れないようにと、ずっと握っていたような気もする。
元々あの頃の事だから、手を繋ぐ事の恥ずかしさもそんなになかったし、遠くへ行く緊張感のせいもあった。

今にして思えば、良くそんな事が平然と出来たと感心すらする。

「だから、ドキドキもしてたけど、安心もしてた。
 手を握っててもらえれば全然恐くないんだって‥‥そう思ってた」

そんな言葉が、俺をドキドキさせる事を、詩織知っているのだろうか。
知っていたとしたら、ずるいの一言だ。
もっとも、それを確認する術はひとつしか無いが、それを言う訳にはいかなかった。

今、この時間を壊す可能性がある言葉だからだ。

言ってしまえれば、どんなにか気が楽になるだろう‥‥
俺は、なにを言っていいのかわからなくて、ただ照れくささで頬を掻いた。


詩織は、俺が何かを言うのを期待してはいなかったのか、すぐに前──夜景に向き直った。
「もうじき‥‥冬休みも終わりね」
「‥‥」
詩織のその言葉に、ふと思い出していた小さい頃の出来事が、目を覚ました時に消えていく夢のような気がした。
いや、過ぎた事は本当に夢と同じなのかもしれない。

望んでも絶対に行けない世界なのだから。

ただ、続きがあるかもしれない‥‥と思う事だけは、夢も現実も一緒だ。

「いやだな‥‥ずっとこんな時間‥‥続けばいいのに」
ふと、小さな声が聞こえてきた。
今日一番、いや、最近になって一番驚かされた。
詩織の口から、こんな言葉が出てくるなんて思いもしなかったからだ。
誰に対してそう言い聞かせるようにしているだろう。

俺? 自分自身?
いや、多分‥‥両方であって、両方でないのだろう。

なんとなく分かる気がした。
俺は、何も言わずに何も答えずに、目の前の夜景を見るしかなかった。
詩織の呟きに何も答えてやれなかったせいだ。
それに、何か答えても、言葉が軽く浮いてしまうような気がする。
それから、しばらく俺達は無言で夜景を見ていた。

このままでもいい。そう思いながら。

ひときわ強い北風が吹いた事よりも、小さなクシャミの方に、俺の気は行った。

「あ、寒い?」
「う、ううん‥」
少し照れくさそうにしながら、小さく首を横に振っている。

「ちょっと鼻がムズムズしただけ」
「‥‥」

チラリと腕時計を見ると、ここに来てからもう一時間以上経っている事に初めて気づいた。

正直、詩織のクシャミが聞こえるまではずっとこの時間が続くと思っていただけに残念だが、もういい頃合だ。
こんな事で風邪を引かせるわけにもいかない。
「‥‥もうそろそろ帰ろうか」
「え、わたし‥大丈夫よ?」
詩織に、俺の声がどう聞こえたか分からないが、驚いた風に目を丸くした。
「あ、違うって。
 一時間も経ってるし、動かないまんまで居たら風邪ひくだろ」
同意を促すというより、決めてかかる言い方をしてみた。
自分からこんな時間を断ち切ろうとしているなんて、いつもの俺らしくもないが、それも詩織の身を案じればこそだ。
「寒いの?」
「え? いや、俺は別に‥‥」
一瞬にして攻守が入れ替わった。
「寒いんだったら‥‥そろそろ」
気を遣ったつもりが、逆に遣われている。
「ち、違うって。俺よか詩織の方が」
「‥‥心配してくれてるの?」
ドキっとする台詞も、悪戯っぽい笑顔のまま言われると、どう反応していいかわからない。
もっと真剣にじっと見つめられながらなら、それはそれで困りこそすれ、出来そうな対応くらいはあった‥と思う。
答えにつまって、そっぽを向きならが頬を人指し指で小さく掻いていると、
「ふふっ‥‥」
詩織が、北風に小さな笑い声を乗せてきた。
姉にからかわれた弟の気分ってのは、こんな感じなのかもしれないな。
「ありがとう‥」
笑い声よりも小さな声に、俺の頬を掻く指が止まった。
「もう帰りましょうか。…をこれ以上心配させちゃ悪いし」
お礼の声が嘘だったと思えるような明るい声で、ニコっと笑いながらこっちを向いてきた。

ありがとう────

あの言葉に感じた物は、北風が連れ去っていった。
冬将軍は、意地悪なのかもしれない。

−帰宅− 「Over the night」

高台から見た時は、場所の検討くらいしかつかなかった所が、今はハッキリ見えてきていた。
詩織の家と、俺の家だ。

あと何歩歩けばあそこにたどり着いてしまうだろう。
たどり着く事は、今日のこの時間が終わる事でもある。
寒い中、そんなに長い時間ではなかったけど、星を見ている間はずっと終わらない時間だったような気がしていただけに、信じられない気持ちになっている。
それでも、不思議と残念な気分にはなっていなかった。
帰り際も、特に話す事も少なかったが、隣で、同じ時間と同じ雰囲気を感じてくれてくれる人が居ると思うだけで、なぜか心地よかった。
たまに交わす会話は、そんな事の確認だったのかもしれない。


そんな事を思っているうちに、いつのまにか詩織の家の門の前まで来ていた。
立ち止まって、三秒ほど無言が続いた。短いようで長い時間だ。
「今日は‥‥すごく綺麗な物見せてくれて‥本当にありがとう」
沈黙を破ったのは詩織だった。
沈黙がフワフワと柔らかい紙のように思えてしまうのは、詩織の破り方が優しいからだろうか。
「いや、別に‥‥」
お礼を言われるような事でもないだけに、どうにも照れくさい。

むしろ、礼を言うとしたら俺の方かもしれない。
なにしろ、こんな時間までつき合ってくれたのだから。

「また今度‥‥今度は‥‥」
「は?」
言葉の続きをなかなか言ってくれないから、促してみた。
「あ、ううん、別に。今度‥また行きたいねって、そう思っただけ」
「あ、ああ‥」
言葉をつまらせるだけの言葉なのかどうか頭を巡らす前に、詩織の笑顔が飛び込んできた。
「今度は、ちょっと暖かくなってきてから行ってみたいね」
「そうだな‥‥花見がてらに行くってのもいいかな。あそこ、桜あったろ?」
そこまで言ってから、ふとその季節の事を思ってみた。

そうか、桜の咲く時期。俺達は‥‥‥‥

「‥‥‥‥」
詩織の返事が無いのも気になった。無言のままだ。

春。桜の咲く季節。卒業の季節。
もしかしたら、俺の今までが終わるかもしれない季節なのだろうか。

無言の詩織を見ていると、なんとなくそんな事が頭をよぎる。
「ま、まあいいや。とりあえず、また今度行こう」
「う、うん‥‥」
ここで強く押せない俺に、今度があるのか疑問だが、今はこれしか言えない。

「あ、えと‥‥それじゃ、そろそろ」
今日一日は、こんな終わり方をする予定じゃなかった。

もっと、心地よくなるような終わり方をする。そう思っていた。それが‥‥

「うん」
俺はその言葉を聞いてから、詩織に背を向けた。と、その時、
「あ、待って」
「え?」
振り替えると、詩織がカバンの中を、なにやらゴソゴソと探している。
「あ、あった」
そう言って取り出したのは、小さな箱だった。
「さっき食べようと思って持っていった物なの。良かった食べない?」
よくよく見てみると、どうやらお菓子の箱らしい。チョコボールか。
「いいの?」
「うん。あげる」
俺は詩織から、お菓子の箱を受け取った。
「さんきゅ」
「それじゃ‥‥今日はホントに楽しかった。また‥‥また絶対に行こうね」
絶対という言葉に、力強い何かを感じる。
「おっけ。
 今度はもっと色々準備していこうか。鍋とか持っていって、それでもつつくとか」
「あそこでそんな事していいのかしら」
そう言いながらも、可笑しそうに笑っている。
「確かに変だけど、やってみたいよ。そう思わない?」
「うん、思う」
「鍋はオーバーだとしても、それに近い事はしたいな」
「そうね。それじゃ、今度までに考えておかなくちゃ」
微笑みながらそう言うのを見て、俺はようやく今が望んだ終わり方をしていると気づいた。

終わりは終わりじゃなく、始まりへの続きであるべきだな。

「んじゃ、俺、そろそろ‥‥」
「あ、ごめんね。引き留めちゃって」
「いや、いいって」
俺は苦笑して、手を軽くあげた。
「んじゃ」
「うん‥‥それじゃ、また」
さっき背中を見せた時の気分とは、全然違う。心地いい。
また‥‥か。
口元に笑みが浮かんでいるとは気づかないまま、俺は数歩離れた自分の家へと
向かった。


「あ」

俺は思わず声をあげてしまった。
詩織から貰ったお菓子でも食おうと思って、開けた時に、蓋の裏側にあった金のエンゼルマークをみつけたからだ。

銀が四枚あるとか言ってたけど、一気に金で一個もらえる事になるな、こりゃ。
明日、詩織に言ったら、どんな顔するだろうか‥‥

そんな事を考えながら、箱からチョコボールをザラっと出して、数個まとめて頬張った。
あの頃に食べたのと変わらない味がした。

Fin

後書き

みなさま、明けましておめでとうございます(^^)
なんか、こんなシリーズをやって一年以上が経つとは思いませんでした。
まあ、コナミが色々やってますが、あれはあれ。これはこれ‥‥
という感じでやっていきます。

最近、ちょっとTLSの方に傾いてますけど(笑

いやぁ、いいっすね。アレ。
ときメモには少し欠けていた要素が入ってて。

でも、もちろん、TLSには、ときメモにある部分が無いです。
二つで補完しあう感じでしょうか。
この53は、コミケで出した奴です。
コミケでは、コンビニでカラーコピーなんぞをやってしまって単価を50円ほどあげてしまった(T_T)
安価配布を貫いてたのに‥‥‥‥ぅぅ

というわけで、買っていただいた方、申し訳ありませんでした(__)

アップする方には、絵はないので、そこらへんで差別化を計ってみました‥‥
‥‥が、わたしの絵なんて無くてもあっても同じようなモンなんで、差別化にはなりませんか‥‥‥(T_T)


作品情報

作者名 じんざ
タイトルあの時の詩
サブタイトル50:天と地の星達
タグときめきメモリアル, ときめきメモリアル/あの時の詩, 藤崎詩織
感想投稿数280
感想投稿最終日時2019年04月10日 02時56分24秒

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