美樹ちゃんの態度が、どこか出会った頃に戻っているような気がするのは気のせいではないのかもしれない。
いや、戻ったというより、近づこうとしているのに、近づけない。そんな感じだ。

「あの‥‥‥‥」

美樹ちゃんが、寝る前に台所で水を飲んでいた僕に声をかけてきた。

「あ‥‥ん?」

水を飲みのがら、振り向くと、寝間着姿の美樹ちゃんが、何かを言いたそうにしていた。
一気に水を飲み干して、ぷはぁと息を吐いて、「なに?」と答えると、美樹ちゃんは身体を小さく震わせて、

「‥‥‥‥あ、いいです。なんでもないです」

そう言って、慌てて自分の部屋へと戻っていってしまった。

「まいったな‥‥‥」

僕は、頭を掻いて、ふうと一つため息。

美樹ちゃんの態度がおかしくなったのは、美樹ちゃんが学校の課題を僕のパソコンでこなしていた時に、偶然エロゲーのアイコンを発見されてクリックされて、中身を見られてしまったのが原因だった。間違いなく。
それから、美樹ちゃんの態度が変わっていた。

確かに、ゲーム自体はキツイ内容で、しかも妙なところでセーブしていたせいもあって、いきなりキツイところを美樹ちゃんに見られた不運を呪うしかないのだが、勝手に見て、勝手に怒って、勝手に態度を変えるなんてそれはあんまりと言う物だ。

男という存在にあまり免疫がない美樹ちゃんが、よく僕なんかとの同居を承諾したのかも、今もって疑問が残る所だけど、やはり直接的な物を見せられたら、忘れかけていた物がよみがえってもおかしくない。

しかし、こっちの事情というのも、わかってくれとは言わないが、見たからと言って、怒ったりはしてほしくはなかった。
健全な男子高校生が、女子高校生と同居なんて、まともな状態で居られる訳がない。
美樹ちゃんの事を考えて、努めて理性的に振る舞う事にも慣れているが、やはり基本は男だ。気分が妙にならない方がどうかしていると言っていい。
その欲求の求めた部分が、あのエロゲーだ。
もっとも、エロゲーなんてやってると、むしろ妙な気分が高まっていく方が普通なのはわかっている。

まあ‥‥‥美樹ちゃんにだけは見られたくはなかった。というのが本音だ。

なぜか。

好きな子に対して、イメージを自ら進んで悪くしようなんていう奴は、もはや小学生レベルという事だからだ。

「はぁ‥‥‥‥」

僕は、こういう状態になってから、何度となくついた、ため息回数の記録を更新した。

「林檎ちゃん」
「なに、どしたの?」

美樹の浮かない表情付きの質問に、青葉林檎は、いつもの事として平然と聞き返した。

学校帰りの道の途中であった。
秋の風が、時折強く吹いて、道路に落ちた落ち葉を軽く巻き上げる。

「あのね‥‥‥男の子って、その‥‥‥‥」
「なに? 先輩がどうかしたの?」

林檎の返答に、美樹が目を丸くした。

「え! なんでわかるの!?」
「なんでって、美樹が男の子の話なんてする時は、先輩の事ばっかじゃない。
わかりやすすぎなのよねぇ」
「‥‥‥‥‥」

林檎の言葉に、美樹の頬が真っ赤になっていく。

「で、なに? 今度はどうしたの?」

林檎は呆れ顔に笑顔を貼り付けて、赤くなっている美樹に向けて聞いた。

「男の子って、やっぱりみんなエッチなの?」
「!」

今、林檎がジュースか何かを飲んでいる最中だったら、間違いなく吹き出していただろう。

「ちょ、ちょっと美樹‥‥‥なに、どしたの?」
「うん‥‥‥ちょっと」
「ちょっとって何よ。先輩がなんか変な事してきたの?」

美樹の言葉を、勝手に解釈した林檎が、眉を寄せた。

「え? あ‥‥‥違うの。そうじゃなくて‥‥‥」

気づいた美樹が、ぶるぶると頭を振った。長い髪と赤いリボンがふわふわと揺れる。

「そうじゃなくてどうなのよ?」
「うーん‥‥‥ええとね」

美樹にしてみれば、ただ男の子ってどんな物なのか、さりげなく聞いてさりげなく答えが返ってきて、それで終わりにするつもりだっただけに、事前のシミュレーションをしていない事になって、戸惑っていた。
林檎に対して、聞きたい事の発端を説明する訳にはいかなかった。

「先輩もその‥‥‥エッチなのかなぁって‥‥‥」
「そりゃそうでしょう? 先輩だって男の子なんだから、それなりの事に興味あっていいと思うけど」
「やっぱりそうなのかなぁ‥‥‥」
「‥‥‥例えばさ、美樹はどうなのよ。そういう事とかに、興味とか全然無い?」

林檎の言葉が、まるで美樹という名前の蝋燭に火を付けたかのようだった。

「‥‥‥‥‥‥」

美樹にとっても、正直な所、まるで興味がないという事ではなかった。仮にも健康な女子高校生。性の事に興味が無い方がおかしい。
黙っている美樹に、林檎は不意に言葉をかけた。

「美樹って、男の子の事避けるよね。それってどうして?」
「それは‥‥‥」
「恐いんでしょ。要するに」

美樹が答える前に、林檎が先に言った。

「う、うん」
「なんで恐いの?」
「林檎ちゃんは恐くないの? なんか、噛み付いてきそうとか思わない?」
「あのね‥‥‥‥犬じゃないんだから」

林檎は、親友の答えに、予想を超えた表現が含まれていたのに呆れて、
やれやれという色の息を吐いた。

「男の子の気持ちは解らないけど、やっぱりあたし達と同じで、カッコイイ子とか
見ると、どきどきしちゃうじゃない。男の子って、そういうのが、直接的なんじゃ
ないのかな‥‥‥女の子が違うっていうと、それもまた違うかもしれないけど」
「ふうん‥‥‥」
「何納得してるのよ。あ、あたしは、ただそう思っただけよ」

慌てる林檎をよそに、美樹はあくまでマイペースだった。

「でも‥‥‥先輩は違うと思ってた」
「‥‥‥‥‥」
「いつも遠くを見てるようで、目先の事なんて考えてなさそうで、それにとっても優しいし‥‥‥」
「なぁんだ。結局のろけなんじゃない」
「ち、違う。違うってば」
「あたしにはそーにしか聞こえなかったけど」

林檎は、意地悪そうに、目を細めてニマっと笑った。

「でも、まあ‥‥‥美樹も中学の頃からすれば、随分変わったよね。昔だったら
そんな事絶対に言ってこないかと思ってたし」
「‥‥‥‥」
「でも、男の子に理想持つのはやめた方がいいと思うな。先輩だって、そこらの
男の子と、多少違う所はあっても、本質はみんなと同じなんじゃないかな」
「やっぱり‥‥‥そうなのかな」
「美樹、先輩がもしそうだったら、嫌い?」

林檎の言葉は、美樹の心を直接叩いた。

「‥‥‥‥わかんない」

本当は、美樹自身にもわかっていた。わからないと言った瞬間に、心の奥の方の
自分が「わかってるのに」と、叫んでいるのを感じるほどに。

ただ、エッチな物を見て、同居している少年がどんな表情をしているのかを、
想像すると、心よりも先に身体が引いてしまうのだ。
ただ、少年の困った表情だけが、引いた身体を引き戻していた。しかし、戻される
自分を、男の子が苦手なもう一人の自分が、軽蔑している。

美樹は、もう一人の自分とたたかっているにすぎなかった。

今まで男のが苦手だった自分は、少年と暮らしていくうちに、強くなっていった
もう一人の自分と対等にまで並ばれている。このまま同居を続けていけば、間違い
なく少年と暮らしている美樹の方が勝利を収めるのも時間の問題だ。

「美樹だって、先輩の事何から何まで知ってる訳じゃないでしょ? だったら、
そういう所があったって、多少は認めてあげたら?」

美樹自身、何から何までとはいかないまでも、身近な場所に住んでいる。学校では
誰よりも少年の事を知っていると言っても差し支えないほどだ。
ただ、その事だけは誰にも秘密だった。
それに、一緒に住んでいるからと言って、なんでもわかっているという事にはならない。

「‥‥‥‥‥‥」
「まあ、あとは美樹次第だと思うな。女だって甲斐性よ。うん」
「変なの」
「あ ん た ね。誰の為にこんな事言ってると思ってるの!」

林檎は、言葉を区切り区切り言いながら、目を気持ち吊り上げた。

「そんなマイペースやってると、いずれ先輩に嫌われちゃうんだから」
「えっ」

林檎の言った「嫌う」という言葉が、胸に刺さった。

「男の子って、マイペースな子とか嫌いかもよ」

これは、林檎のでたらめであったが、美樹にとっては、重要極まる事だった。
世間の男女関係のノウハウとはおよそ縁遠い心で居た為だ。要するに、恋愛関係
などについては、習いたての素人の心境と同じなのだ。

安心は情報でやってくる代わりに、不安も情報でやってくる。
まだ自分を持てていない証拠だった。

「え‥‥‥どうしよう」
「‥‥‥あ、ちょっと美樹?」

美樹が心底からの心配そうな表情で眉を下げたのを見て、

「ちょっと、冗談だってば。何もそこまで困る事ないじゃない」
「どうして冗談だって言い切れるの?」

責めた言い方ではなかった。純粋な疑問から来た言葉だった。林檎の言葉を信じない
訳でもなかったが、もしかしたら、本当にマイペースな子は嫌いなのかもしれない。
もしそうだったら‥‥‥と考える美樹の頭には、不安の雲が沸いてくる。
林檎に聞き返したのは、不安を払いたかったからだ。もしかしたら、冗談と言い切れる根拠を持っているかもしれないと思いながら。

「そ、それは‥‥‥‥」

林檎の言葉の詰まりは、美樹の心の不安雲に雨を降らせる寸前だった。

「だから、好き嫌いなんて、多分人それぞれ‥‥‥なはずよ」

ちゃんと言い切れないのは、林檎自身、恋愛に関しては青い果実同然であったからだ。
美樹よりも強く出れるのは、林檎がほんの少しだけ美樹よりも行動力があるのと、プラス、耳年増なせいかもしれなかった。

「そうよ。方程式があるくらいなら、世界中の誰もが恋に悩んだりなんかしないと思う。うん」

言いながら、もっともらしい答えが沸いて来た事に、自分で納得しつつ肯いた。

「そうよね‥‥‥‥わたしもそう思うけど」

自分らしさが一番と解っている物の、林檎が冗談で投げかけた物が、美樹の心の中で、不安の種に変化した。不幸にも、美樹の心の中には、不安の種が育つだけの栄養が沢山あった。

「あ、美樹ちゃん‥‥‥‥」

ビルを上り切って、屋上に出た所で、家のドアの前に立っていた美樹ちゃんをみつけて、思わず声が出たが、小さい声だったせいで、美樹ちゃんに聞こえはしなかった。

美樹ちゃんは、ドアの前で、ノブに手をかけたまま、しばらく固まっていた。

なぜ、動かないのだろう?
疑問は、僕の中で答えに代わった。確信は無いが、ほぼ確信してもいいとさえ思える答えだ。

僕が帰っている家に、入ろうかどうか悩んでいる。
きっとそんな所だろう。
それ以外に考えられない。

やがて、何か意を決したのか、美樹ちゃんがドアを開けようとした時、屋上に居る僕に気が付いたのか、動きが止まった。というより固まった。

「…さん」

微かに風に乗って聞こえて来た声よりも、唇の動きでなんとなくわかった。
僕の名前だ。

「今帰りかい?」
「あ‥‥‥はい」
「そっか‥‥」

会話が続かなかった。
美樹ちゃんの声に力が無いせいなのか、それとも僕の気分のせいなのか‥‥‥
会話が進まないと察したのか、美樹ちゃんは先に鍵でドアを開けて、先に入ってしまった。

「‥‥‥‥‥」

まいったな。
僕は、顎を指でなぞった。ここ最近、気にするようになってきた髭が、うっすらと
指先に感じるようになっていた。


家に入って「ただいま」を言っても、誰も応えてくれはしなかった。美樹ちゃんが居るのは確かだが、今は部屋にこもっているのだろう。
僕は、少し気持ちを鉛色にしたまま、自分の部屋へ戻った。
途中、美樹ちゃんの部屋の前で立ち止まった理由が解らないままに。

部屋に入るなり、僕はパソコンを起ち上げた。
起動画面が表示され、すぐにOS画面に切り替わる。
今回の事の発端になったゲームの入ったディレクトリフォルダを眺めて、軽くマウスを動かしてダブルクリック。女の子の絵のアイコンが出てくる。
こんな物のために、今の状況になったのかと思うと、思わずデリートしたくなったが、なぜか消せなかった。
消しても、どうにもならないと思った裏では、こういうのをやって何が悪い。と、思う気持ちがあったからだ。
しばらく考えてから、僕はパソコンを終了させた。
もちろん、デリート作業などは無しだ。

「ふぅ‥‥‥‥」

天井を見上げてため息をついてから、ベットに身を投げ出した。

このまま眠って朝になったら、今までの事は夢にならないか。
そう思って目をつぶっても、浮かんでくるのは、美樹ちゃんの少し翳った表情だけだった。

これから、このまんまの気持ちでいる事になるんだろうか。
近い筈の美樹ちゃんが、いきなり遠くへ行ってしまった様に感じた。
たった壁一枚向こうに居る筈なのに。
このまま気持ちまで離れてしまったら、どうしよう。
今までのすごしてきた時間が、全部嘘になりそうで恐かった。

どうしようもなく恐かった。
最初は、見も知らぬ女の子だった美樹ちゃんが、今では、僕の心の一部にさえなっている。
この心が、全部ぬけてしまったら、僕はきっと動かなくなってしまうだろう。
「美樹ちゃん‥‥‥‥」
重い何かが、胸の中に入り込んで、毒を吹いているような感じがした。
恋の毒という奴だろうか。

美樹は、愛用の枕を抱えていた。
制服姿のまま。
視線は、じっと床を見つめている。見るべき物が何も無い床だが、美樹の目に映っているのは、同居している少年の姿だった。

「‥‥‥‥‥」

何度となく、少年の笑顔を思いだそうとしている。その度に、少年の部屋で見たパソコン画面がちらちらと頭を過ぎっては邪魔をしていた。

あんな物を見て喜ぶなんて、信じられない。
そう思う気持ちは、まだ心にくすぶっているが、今本当に美樹の胸を締め付けて
いるのは、きっかけはなんであれ、擦れ違ってしまった心であった。

「ばか‥‥‥」

心に浮かぶ少年に、美樹は、そう声に出してつぶやいた。

しかし、いくら何を美樹が思っても、少年の姿が美樹の心から消える事はなかった。
無いどころか、余計鮮明になってくる。

自分の心の一部を、少年に対してあげてしまったせいだった。
本当は、今の美樹の心の中には、少年に対して文句を言うどころか、少年に心の一部を突き返されるのではないかという不安で溢れているのだが、文句はそれを誤魔化す為の物だった。

もし、自分の心を少年が受け入れてくれたら‥‥‥

そう考えた美樹の頭の中に、ふとパソコンの映像が浮かんでくる。
いずれは、自分も、少年の前でああいう姿をするのだろうか。少年はそれを見て、どう思うだろうか。
ふとそんな事を考えて、美樹は枕をきつく抱きしめた。
少年に対して、そんな事なんて出来ない。でも、少年が望むなら‥‥‥
嫌だと思う事を、自分がするかもしれないなんていう事が、今の美樹にとっては一番の嫌悪の対象だった。

しかし、どれもが、見果てぬ未来の出来事だった。

あなたは私の心の一部です。

そう言葉に出してからの事だった。
少年にしても、美樹にしても。
それができる二人であったなら、すぐにでも仲直りが出来たかもしれない。

今日の家事当番は僕だった。

でも、正直やる気がしない。
顔を合わせてしまったら、僕はどんな表情をすればいいのだろう。
そんな事ばかりを考えると、何も手につきそうもない。
こうやっている時間があればあるほど、ますます美樹ちゃんが遠くなっていくような気がするのに、どうしても、埋めようという気にはなれなかった。

何かを恐れているのは間違いない。

何かとは何か。
美樹ちゃんに心が届かなくなる事‥‥‥なのかもしれない。自分でも良くわからない。

「はぁ‥‥‥」

ため息をつくのはやめようと何度思っても、自然に出てくる。
締め付けられる胸が苦しいから。というのは理由だろうか。

時計を見ると、家事を始めないといけない時間になっていた。
秒針の一刻みが、やたらと冷酷に感じる。
もっと遅く動いてくれてもいいだろうなんて思う。

「‥‥‥‥」

このままやらなければ、もしかしたら美樹ちゃんが何か言ってくるかもしれない。
そうなれば、きっかけとして利用出来るに違いない。
などと考えはしたものの、時計は容赦なく僕を追い立ててきた。
もしこのまま何もしなくて、何も起こらなかったら、それこそ、僕と美樹ちゃんとの同居も、同居内別居になってしまう。
それだけは、どうしても避けたかった。

上がらない腰に鞭打って、僕は立ち上がった。

台所に立っている時、僕は冷静で居るように努めた。もし美樹ちゃんが話かけてきても、いつもみたいに話す為だ。
背後に気配を探りつつ、僕は煮込み料理の材料が入った鍋を火にかけた。
その間に、野菜を切っておこう。と、野菜を切ろうとした時、不意に背中から声がかかった。気配をさぐっていた筈だっただけに、いきなりだ。
僕が慌てて振り向くと、部屋着姿の美樹ちゃんが立っていた。

「あの‥‥‥夕飯は‥‥‥」
「あ、ああ‥‥‥今準備してるから」

不意をつかれたせいなのに、なぜか自分の声がやたら冷静だった。
ガキっぽいと言われるかもしれない。美樹ちゃんの気を引こうと瞬時に思って、わざと素っ気無さを乗せたりしたのは。

「そうですか‥‥」
「‥‥‥‥」

僕は、応えずに、まな板の上の野菜と対峙した。
しかし、心の中は嵐。胸の中はバクバクだ。

包丁を持つ手が、いまいち自由にならない。
なんとか、動きが鈍い手を押さえ込んで、包丁を動かし始めた。
背後では、美樹ちゃんの動いた様子は無い。さっき声をかけて来た時と同じ場所に立っているに違いない。
僕は、そんな美樹ちゃんの表情を想像した。素っ気無い言葉を聞いた美樹ちゃんはどんな顔をしているのだろう‥‥‥‥

瞬間的に油断が生まれた。
美樹ちゃんと野菜。どちらにも気が無い瞬間だった。美樹ちゃんから野菜に意識を移す瞬間の空白。
鋭い痛みが指先に走った。

「いてっ!」

思わず叫んだ。
何が起こったのかを知ったのは、指先に細く赤い線が出来ていたのを見てからだった。
包丁が、油断した僕の指に噛み付いた跡だ。
最初は赤い線だった傷に、じわじわと泉のように赤い物が湧いて、次第に垂れた。

「いてててて‥‥‥」

僕は、慌てて、切れた指を、切った方の指で包むようにして抑えた。

「だ、大丈夫ですか!?」

美樹ちゃんが、慌てて近寄ってきた。

「大変、血が‥‥‥」

「だ、大丈夫。ちょっと深くやっちゃっただけで、たいした事ないよ」

痛いには痛いが、感覚的に、そう深い傷ではないのがわかった。

「でも、血が出てますっ」

声同様、表情も慌てていた。どうしたらいいかわからない風だ。

「でもっ!」
「平気平気、大丈夫だから‥‥‥」

そう言った次の瞬間の出来事は、僕には何が起こったのかわからなかった。

握るようにして抑えていた手を、無理矢理奪うようにして、美樹ちゃんに持っていかれたと思った瞬間、僕が切った指は、美樹ちゃんの口の中だった。
感じたのは、柔らかさと温かさ。それだけだった。
他は何も考えられなくなっていた。
今自分が誰なのか、今どういう状況なのかさえも。
さっき、素っ気無い風に言った自分は、影も形も無い。存在していたのかさえもわからなくなる。
どれくらいそうしていただろう。一瞬、時間が止まったように思えた瞬間に終わりが来た。
僕の指が、美樹ちゃんの口から離れた。

「早く手当てしないとっ」
「あ、ああ‥‥‥‥」

美樹ちゃんの言葉に、僕は呆然としながら応えた。
美樹ちゃんの唇についた赤い物を見ながら。

僕の血? 美樹ちゃんの唇に?

今、つままれても、きっと痛みは感じないかもしれない。実際、指の痛みすらも感じてはいなかった。
夢のような‥‥‥ではない。ただ純粋に信じられない。
僕の身体の中にあって、僕でも普段見る事の出来ない物が、よりにもよって、
美樹ちゃんの唇についている。

「座っててください。今救急箱持ってきますから」
「え‥‥‥あ、うん」

今の僕は、出来損ないの操り人形と同じだ。
ろくに応える事も出来ずに、ただの言いなりだった。
美樹ちゃんは、一生懸命なのに、僕はただぼうっとするだけしか出来ない。

「…さん、指出してください」

救急箱を持ってきた美樹ちゃんがそう言うと、素直に従った。
出した指の血は、広がった部分は固まりつつあった。美樹ちゃんの唾液と混ざったせいだろうか。
切った部分は、まだじゅくじゅくした血が淀んでいた。
そんな僕の手を、美樹ちゃんの手が下から支えた。
柔らかい手。微かなぬくもりに、心より先に鼓動が反応した。
どくんどくんと、暴れるように。

「ちょっと染みるかもしれませんけど、我慢してくださいね」

僕は一つ肯く事で、返事をした。

美樹ちゃんは、消毒薬の蓋を開けてから、液を脱脂綿に吹き付けた物を、指の傷痕にぽんぽんと押し当てた。
染みるという事はなかった。それ以前に、痛みさえも消えている。唇の魔法なのかもしれない。

「よかった‥‥‥そんなに深くは無いみたいです」
「あ‥‥うん」

美樹ちゃんのほっとしたような笑顔に、僕は馬鹿みたいにぼうっとして答える事しか出来なかった。

「とりあえず、大き目のバンソウコウ貼っておきますね」

切る事で大きさを調節するバンソウコウを、傷に合わせて切った物を、傷口のある指にぺたんと貼り付けてくれた。
指が半分くらい覆われてしまうほどの大きさに、僕は少しだけ大袈裟すぎると思ったが、同時にバンソウコウの大きさが心地よさに変わっていた。
この時になって、ようやく、この指が美樹ちゃんの唇に触れたという実感が湧いてきた。唇の温もりと、口の中の温かさも、指によみがえってくる。
あの時に意識がはっきりしていたらもっといろんな事を感じたかもしれない‥‥‥

「とりあえず、これで大丈夫だと思います。痛かったらまた手当てしますね」
「‥‥‥‥うん、ありがとう」

ようやく、止まっていた頭が回り始めた。

「気を付けてくださいね‥‥‥‥」

美樹ちゃんの表情から、不意に力が消えた。張り詰めた糸が切れた様だ。


「‥‥‥‥‥‥」


「‥‥‥‥‥‥」


僕は、無言だった。美樹ちゃんも無言。
無言の時間がどれだけ続いただろう。僕は、思い付いたかのように、美樹ちゃんに指摘した。

「美樹ちゃん、ここ、血‥‥‥ついてる」

僕は、自分の唇を指して、美樹ちゃんに伝えた。

「え‥‥? あ!」

美樹ちゃんが唇に手を当てながら、何かに気づいたように小さく声を上げた。
まるで、自分が何をしたのか意識してなかったかのように。

「あ‥‥‥そ、その‥‥‥ごめんなさい‥‥‥」

血をぬぐうより先に、そう言ってきた。

「どうして謝るの?」
「あのその‥‥‥咄嗟だったから、つい‥‥‥」
「いや、お礼言うのは僕の方だよ。謝られる筋合いなんて全然ない」

僕は、一生懸命さに、ただただ圧倒されていたけだった。

「‥‥‥‥‥‥」
「ありがとう」
「そんな‥‥‥わたし‥‥‥」

美樹ちゃんは、すっかり血がついている事も忘れて、うつむいてしまっている。

僕は思った。今なら言える。今しかない。わだかまっていた心を言うならば。
他愛も無い事かもしれないが、僕にとっては、心のしこりだ。
思い出したように苦しくなってきた胸の奥が、そうせっついて来た。

「ねえ、美樹ちゃん。ついでって言ったら変だけど‥‥‥聞いてほしい事があるんだ」
「は、はい、なんですか?」

いきなり切り出したせいで、美樹ちゃんは小さく驚いて、目を円くしていた。

「あの‥‥‥なんて言ったらいいかな。とにかく、あのゲームだけどさ、消しておくよ。
美樹ちゃん、嫌だろ、ああいうの」

消すつもりなんかなかったゲームだが、今なら十回でも百回でも消していい気分だった。
他に、美樹ちゃんの今の行為に報いる方法が思い浮かばなかったし、とりあえず
今回の根本になった物だ。消してしまうのがいいと、今思った。
さっきまでの僕は、正当性を主張していたというより、意固地になっていただけだけなのかもしれない。

「‥‥‥‥‥」
「今更もう遅いだろうけど、今どうしていいかわかんないんだ。だから‥‥」

美樹ちゃんは、無反応だった。ただ、話を聞いてくれているのだけはわかった。
目をしっかり見てきてくれて居るからだ。

「あ、あの‥‥‥別に無理して消さなくても‥‥‥」

長い数秒の後、美樹ちゃんが恥ずかしそうに言った。

「でも‥‥‥‥」
「いいんです。勝手に見た私も悪いんですから‥‥‥」

僕は、勝手に見た事に関しては、もはやこだわっては居なかった。

「いいんだ。とにかく消すから」
「だから、必要無いって言ってるじゃないですか」

美樹ちゃんが、少し声を荒げた。僕の意見とぶつかったせいだろう。

「でも、あんなので悶々としてるんだぜ。美樹ちゃん嫌だろ? そういうの」
「嫌じゃないって言ったら嘘になりますけど、でもいいんです」
「いいって、何がさ」
「だ、だって‥‥‥しょうがない事です。…さんだって男の子ですから」

張りはじめた緊張の糸が、ふわっと緩んだ。

「え‥‥‥」
「なんていうか‥‥‥その‥‥‥」

美樹ちゃんの頬に、さあっと赤味が差した。

「とにかくいいんです!」
「美樹ちゃん‥‥‥」

僕が言った時、背後でじゅわっという音が聞こえてきた、振り向くと、かけてあった鍋から、泡が吹き出している。

「やべっ」

僕が慌ててコンロを止めようとした時、僕より先に美樹ちゃんが動いて、コンロのスイッチに手を伸ばしていた。

「…さんは怪我人なんですから、今日は私が家事をします」
「でも‥‥‥」
「駄目です」

今の美樹ちゃんは、僕よりも確実に強かった。

「いいですね? 今日はもう家事なんかさせないですからね」
「‥‥‥‥わかった」

僕が答えると、美樹ちゃんはにっこり笑った。
それでいいのよ。ではなくて、休んでいて。という心が伝わってきそうな笑顔だ。

このくらいの傷なら、別になんとも無いが、美樹ちゃんの気持ちを一身に受けた指が、僕を裏切って、美樹ちゃんの味方に着いたかのように、僕に休め休めと言ってくる。

「とにかく、また後で話しませんか? 今は夕飯つくらなくっちゃ」

美樹ちゃんは、鍋の蓋を開けて、鍋の中を覗き込みながら、言った。

「‥‥‥そうだね」
「じゃ、夕飯ができるまで、待っててくださいね」

振り返った美樹ちゃんの表情には、すでに曇りは無かった。
いつもの笑顔だ。とびっきりの笑顔というほど、光ってはいない。普段の微笑みだ。
しかし、普段の微笑ほど、心が安らぐ。

「ごめんね。変わってもらっちゃって」
「何言ってるんですか。怪我してる人に家事してくれなんて言いませんよ」
「じゃ、これから家事の時に怪我すりゃいいのか」

冗談を言えるほど余裕が出てきた。
この感覚。いつもの感じだ。
美樹ちゃんが居る事が当たり前で、思い出したように、それを心地よく感じる事。

今がその時だった。

「じゃあ、わたしが怪我したら、代わってくれます?」
「ああ、いいよ。でも、二人同時に怪我したらどうする?」

冗談半分、本気半分で聞いてみた。

「…さんが右手で、わたしが左手を怪我したら、怪我してない方の手同士で、
合わせて一人分になりましょ」

二人で一人。という言葉が、重苦しい胸の中の何かを溶かしていく。
安心という名前の薬が、不安という患部を溶かすのだろう。

「あ、美樹ちゃん、ほら‥‥‥ここ」

僕は、また唇を指した。さっきは、血を拭う前に話になって、美樹ちゃんはすっかり血が着いていることを忘れていたようだ。

「あっ」

いつまでも血を着けていた事にびっくりしている。
ティッシュを渡そうとした時、僕の手が止まった。

下唇の辺りに着いていた、乾いた血を、上唇で覆うようにして、軽く湿らす程度に
拭ったからだ。
それでも、乾いた血はそう簡単に拭える物じゃない。

「美樹ちゃん、ティッシュ」

呆然とした、間抜けた声だ。と、自分で思った。

「‥‥‥ありがとうございます」

自分がどういう行動をとっていたのか、美樹ちゃんは意識しているのだろうか。

意識していてもしていなくても、僕にとってはどちらも衝撃的な事だ。
上唇で拭いきれていない血を、美樹ちゃんは僕から受け取ったティッシュで拭き取った。

「‥‥‥まだ付いてますか?」

僕がじっと見ていたのに気づいてか、首を小さく傾げながら言った。
思わずドキっとさせられる。

「あ‥‥‥いや、もう取れてるよ」
「そうですか。ありがとうございます」

やんわりと笑顔で言う美樹ちゃん。

ありがとう。と言われるのは、奇妙な気分だった。
今は何も付いていない、あの小さくて柔らかそうな唇を、僕の血で汚した事を謝る事はしても、礼を言われるのはどうしても違和感がある。
ティッシュを取ってあげた事など、些細な事だ。

「さて‥‥‥早く支度しなくちゃ」

美樹ちゃんは、何事も無かったように、台所に向かった。
僕は、たった十分ほど前からの事が、まるで夢のように思えて、怪我した指を軽く曲げてみた。
鈍い痛みが広がる。

夢じゃない‥‥‥‥‥

夕飯の後、自分の部屋で、美樹は唇に指を当てていた。

少年の血がついていた場所だった。
鏡に写った美樹自身も、同じように唇に手を当てている。

「‥‥‥」

薄く目を閉じては、そっとなぞる。
それを、何度も何度も繰り返していた。

咄嗟の事で、自分がした事を一番驚いていたのは、美樹自身だった。
あの時だけは、それが一番だと信じていたし、恥じらいやためらいを感じている暇もなかった。
ただ、なんとかしたい。その一心だけで行動していたに過ぎない。
後に平然としていたのは、自分のした事に動揺した自分自身を必死で抑えていた為である。
動揺すれば、自分の気持ちが少年に伝わってしまうのではないか。と、考えた結果だ。
少年の怪我した指を口に含んだ時の、しょっぱい味。血の生臭い鉄のような味は朧げながら、美樹の記憶には残っていた。

料理の味にも消されないほど、強く残った記憶。

「あんな事して‥‥‥びっくりしたかな‥‥‥」

心の中だけで呟くには、今の美樹の心の許容量は小さすぎた。
言葉が口から漏れ出す。
鏡に写った自分自身を、美樹はじっくり見た。
思いもしなかったほど大胆な行動をしたのは、今鏡に写っている方で、自分はその行動を目撃したショックを受けているのではないだろうか。
そんな事を考えていた。
しかし、鏡の中の美樹も、鏡の向こうに居る美樹を、信じられないと言った目つきで見ている。

鏡の中にも、現実の世界はあるのかもしれない。

美樹は、何度となく繰り返した、自分の唇を指でなぞるという事を、またやった。
美樹は、自分の身体の中に、料理に混じって、ほんの微量だが、少年の血が入っていると思うだけで、身体の中が全部心臓になったのかと思えるほどの、鼓動を感じていた。他の誰に言っても、変と思われる事でも、今の美樹にとっては、そんな些細な事でも心を乱すには十分すぎた。

あの時、咄嗟の行動が出来た理由。
相手が美樹の心の中の一部の少年だったからという事に他ならない。

何かをしてあげたい。何をしてもいい。
そう思って、美樹はふと気づいた。

少年の部屋のパソコンで見たゲームの絵の様な姿は、信じられない事では無いと。
自分が、少年にしてあげられる事だったら、もしかしたら出来る事なのかもしれないと‥‥‥‥
ただ、それを解りかけただけの美樹には、まだ遠い先の話に思えていた。
歩き始めたばかりの子どもが、マラソンランナーに思いを馳せるかの様に。


僕は、なぜか寝付けなくて、ベランダに出ていた。
秋の夜空は、夏の残滓のせいもあってか、冬ほど奇麗な星空ではなかったけど、風は、残暑を吹き飛ばすには十分なほど、心地よかった。

もう秋も深い。
しばらく星空を見てから、僕は自分の指に目を移した。
怪我してからの事が、指を見る度に思い浮かんでくる。
ちょっとでも気を抜くと、その時の事がまるで夢になって消えてしまうんじゃないかと、何度も何度も思っていた。

それが寝付けない理由だった。

怪我する前とした後では、美樹ちゃんに対する感覚が一変した。そう思えば思うほど、心と鼓動がばらばらになって、何も考えられなくなる。美樹ちゃんの事以外は。
高鳴っている鼓動が、深入りしすぎたなと、なじってくるようにも思えた。
そんな鼓動に、「ああ、そうさ」と、胸を張って答える。

もう感情を止める事は出来ない。

美樹ちゃんが前に居ないならば、何度言っても満ち足りないほどだ。
ただ、それだといつまでも、彼女には届かない。
わかっている。わかっているが、もし彼女に届かなかったら、僕の心の一部が、凍り付いてしまうだろう。
そうしたら、僕は僕で居られるだろうか‥‥‥
夕方の安心は、夜の不安の為の栄養だった。

不意に、室内に通じているドアが開く音。

「…さん?」

美樹ちゃんの声だった。
振り向くと、美樹ちゃんがドアを半分ほど開けて、顔を覗かせていた。
心の中の美樹ちゃんではない、本物の美樹ちゃんだ。
今までごちゃごちゃ考えていた事が、あっというまに吹き飛んで消えていく。

「美樹ちゃん‥‥‥」
「どうしたんですか?」
「あ、いや‥‥‥なんか落着かなくてね」

君の事を考えてたせいで。なんて言える訳がなかった。

「美樹ちゃんこそどうしたの?」
「あ‥‥はい。ただなんとなく‥‥‥」
「そっか‥‥‥」
「あの‥‥‥わたしも、そっち行っていいですか?」
「え? い、いいよ。別に」

僕が答えると、美樹ちゃんはドアを開けて、やってきた。
パジャマ姿だった。
僕の隣に、ごく自然に並んで、

「‥‥‥‥この町。ここから見ると、凄く綺麗ですね」
「そうだね‥‥‥」

それなりに低くはないビルの屋上ともなれば、ある程度景色はいい。

「わたし‥‥‥ここに住めて良かったって思ってます」
「そうだね。僕もそう思うよ‥‥」
「一人だったら、ここからの景色も、多分寂しかったと思うんですけど、こうやって二人で見るって‥‥‥いいですね」
「‥‥‥‥」

同感だった。一人で見るより、ずっとずっと良かった。
横に誰か居るというだけで、何倍も景色が綺麗に見える。
心の一部である人がすぐ側に居るだけで、どうしてこうも違うのだろうか。
チラリと横目で美樹ちゃんを見ると、彼女は気持ちよさそうに目を細めて、町の明かりを見ていた。たまに吹いてくる柔らかい風が、美樹ちゃんの長い髪をやさしく揺らす。
隣に居るのは、間違いでも幻でも夢でもない。現実の美樹ちゃんだ。

「ところで…さん、怪我は大丈夫ですか?」
「あ‥‥‥うん。大丈夫だよ」

美樹ちゃんに手当てしてもらったままの指を、上げて見せた。

「包丁使う時は、ちゃんと気をつけないと駄目ですよ」
「わかってるよ」

心配してくれた事に、僕は笑顔で返した。
それから、しばらく何も言わずに、二人で並んで夜景を見ていた。
どれくらいそうしていただろう。不意に美樹ちゃんが、

「あの‥‥‥…さん、ちょっと聞いていいですか?」
「ん? なに?」
「えっと‥‥‥…さんの嫌いなタイプとかって‥‥‥どういう感じですか?」
「え? なに、いきなり」

タイプと言われれば、いわゆる好きなタイプとかそういう事だろう。しかし、今の質問がそうなのかどうか、僕にはわからなかった。
こんな時にいきなりされるとは思わなかったからだ。

「いきなりこんな事聞いてごめんなさい」

美樹ちゃんは、申し分けなさそうにしている。

「そうだなぁ‥‥タイプか‥‥‥」

好きなタイプというのを考えた事はあっても、嫌いなタイプというのは、考えた事もなかった。だからと言って、今好きなタイプを言っても、美樹ちゃんの質問の答えにはならない。

それに、好きなタイプどころか、好きな人本人が目の前に居る。

「嫌いなのってのは、考えた事ないなぁ‥‥‥‥」
「そうですか‥‥‥」
「どうしたの? いきなり」
「いえ、ただ‥‥‥なんとなく聞いてみたくて‥‥‥」
「参考までに、美樹ちゃんの嫌いなタイプとかってのはどうなの?」

ついでと言ってはなんだけど、僕も前から聞いてみたかった事だ。好きなタイプと聞ければいいのだろうけど、好きなタイプは理想全開の姿だ。それより、嫌われない事を選ぼうというつもりだ。
嫌われなければ、好かれる余地もあるなんて考えるのは、弱い証拠だと自分でもわかっている。

「えっ、わたしの‥‥‥ですか?」
「そう」
「わたしは‥‥‥‥」

美樹ちゃんは、僕から視線を逸らしてうつむいてしまった。

「僕なんかとか、美樹ちゃんに嫌われるタイプだったりしてね。よくケンカとかしちゃうし」

冗談交じりの口調で言った。暗に、僕は嫌われていないか‥‥‥という事を、軽く聞きたかった。

「そ、そんな事ないです。絶対そんな事ないです」

僕の予想もつかないほどの、勢いのある反応だった。

「だいたい、嫌いな人とだったら、一緒に暮らそうなんて思い続けるのは無理です‥‥‥」
「‥‥‥‥」

嫌いな人だったら住まない。今住んでいる訳だから、少なくとも僕は美樹ちゃんにとって、嫌われている存在ではない事だけはわかった。

「それに、…さん、とっても優しいし‥‥‥」
「いや、そんな事ないって」
「優しいって、自分じゃわからない物ですよ」
「そっかな」

面と向かって、優しいだの言われたのは初めてだった。照れくさすぎて、どうしようもない。
今まで、優しい事しようなんて意識もした事ないから余計だ。

「嫌いな人のタイプは、あげたらきりないですけど、好きなタイプなら」
「‥‥‥‥」

僕は、答える事が出来なかった。今一番聞きたくて、一番聞きたくない事だったし、なにより、美樹ちゃんの本当の心の一端を知る事になるからだ。
バスケ部の三条さんのように、かっこよくてスポーツマンでもない。
こんな僕が、美樹ちゃんの好みのタイプに符号するとは思えない。
僕が何も答えない事にも構わずに、美樹ちゃんは続けた。

「わたしの好きなタイプって‥‥‥ほんとは無いんです」
「え?」

意外な言葉だった。安心するより先に、肩透かしを食った気分だ。

「男の子の事とか、今まであんまり見ようって積極的に思わなかったから、どんな人がいいなぁ‥‥‥なんて、考えた事無いんです」

そこで言葉を止めてから、また続けた。

「でも‥‥‥まったくって言う訳じゃないんですよ。その‥‥‥あえて言う
なら‥‥‥優しい人とかだったらいいなぁ‥‥って」

美樹ちゃんは、放っておけば小さくなって消えてしまいそうになりながら、言った。
今、僕が自分の顔を見れたら、どんな顔をしているだろう。
にやけているような気もするし、唖然としていそうな気もする。
さっき美樹ちゃんが言っていた言葉。僕が優しいという言葉。その言葉が頭の中を駆け巡る。

だとしたら‥‥‥‥

現金なものだった。聞きたくなかった言葉が、聞いて良かったという事に代わっている。

「あ‥‥で、でも、タイプですから。あくまで」

美樹ちゃんが、慌てて、言葉の意味と僕の喜びを薄めた。

「そ、そうだよね。タイプなんて、あくまで理想だしね」

山の頂上が見えるあたりで喜んでいた僕の心は、足を滑らせて転げ落ちていく。
ただ、救いなのは、暗い気持ちではない所と、命綱が付いている所だった。

「…さんは、好きなタイプとかはどうなんですか?」
「僕は‥‥‥そうだなぁ‥‥」

目の前に居るよ。なんて言えれば、どれほど楽か。

「好きになったら、その子がタイプかな」
「でも、それってちょっとずるくないですか?」

本気で言って無い証拠に、美樹ちゃんは笑っていた。

僕の一番好きな笑顔で。

「そうかな。でも、好きになっちゃったらしょうがないと思うよ。タイプとまったく違ってても、いつのまにか、その子の事ばっかり考えてるようになっちゃうかもしれない」

思うとか、かもしれないなんて、曖昧すぎる。きっぱり言えない自分が情けない。

「そうですね‥‥‥そうですよね。好きになっちゃったら、しょうがないですもんね」

美樹ちゃんの言葉は、まるで美樹ちゃんが自分自身に向けて言ったように聞こえた。僕に僕に聞かせようとした言葉じゃないのだけは、なんとなくわかる。
もしかしたら、美樹ちゃんの心の中には、すでに誰か居るのかもしれない。
それを聞きたかったが、さっきのタイプという不確定な物じゃなく、確実な判決が決まる事だ。今の僕には聞けない。

何も言えずに、しばらく黙っていた。
今までの会話を、頭の中で繰り返し繰り返し再現しながら。

僕の事を優しいと言った美樹ちゃんは、優しい人がタイプだと言った。この言葉を聞いた時に、鼓動が高鳴るどころか、一瞬止まりそうにさえなった。
でも、それは僕の気持ちの先走りに過ぎなかった。
しかし、考えだけはどうしても安心する方向へ向こうとする。不安を打ち消したがっているのだ。

僕は、美樹ちゃんに気づかれないほど小さく、ふうとため息をついた瞬間、
「くしゅっ」と、可愛らしいくしゃみが聞こえてきた。

「あ、寒くなってきた?」

まだぬるい風とはいえ、夜風にあたってて大丈夫なのは、夏の熱帯夜の時くらいだ。
今はもう秋だった。

「ううん。大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ。結構冷えてきたし、もう入ろう」
「え、でも‥‥‥本当に大丈夫です」

まだ外に居たがっているような感じだった。

「駄目だよ。もう入ろう」

僕にしても、美樹ちゃんと話せただけで十分だ。美樹ちゃんが居るなら、もっとこうして夜景を眺めていても良かったが、肝心の美樹ちゃんが、夜風に当てられはじめている。僕としては、ここで切り上げるしかなかった。

「わたし上着持ってきます。だから、もう少しだけ‥‥‥」

美樹ちゃんの目が、僕を真っ直ぐ見てきた。僕の目の奥を通り越して、直接心を見てくるような眼差し。
今の僕に断れるはずがない。

「いいよ。その代わり、しっかりあったかい格好してこないと駄目だよ」
「はいっ」

一生懸命な表情が、ぱあっと明るくなるのを、僕は見ていた。

「すぐに準備してきますから、待っててくださいね」
「おっけー」

僕が親指を立てて答えると、美樹ちゃんはいそいそと部屋の中へと戻って行った。

どれくらい待っただろう。上着を取りに行っているにしては、妙に長い。

と言っても、まだ三、四分程度だ。
街の明かりを見ていれば、あっとういうまに過ぎてしまう時間だった。
それに、今日一日の事を思い出していれば、待つ時間なんかいくらあっても足りないくらいだ。
指を怪我した事。手当てしてくれた事。さっきまでの会話。
どれもが、順序関係なく、バラバラに思い出す。
言葉、態度、表情。
あの言葉の意味はなんだろう?
あの態度、普通するだろうか?
あの表情は、もしかしたら‥‥‥
一つ一つの事に、希望を含めた、都合の良い意味を当てはめていた。

「ごめんなさい。おまたせしました」

考えが深くなりそうな時に、美樹ちゃんの声がした。
振り向くと、美樹ちゃんは両手にカップを持ったまま、ドアを開けようと苦戦しているのが見えた。
僕は、急いでドアを開た。

「あ、ありがとうございます」

あったかそうなコートを羽織った美樹ちゃんが持っていた物は、湯気の立つティーカップだった。
紅茶のいい匂いがする。

「遅くなってごめんなさい。お茶入れてて‥‥‥」
「なんだ。なんか妙に遅いなと思ったら」
「ほんとにごめんなさい」

カップを持ったまま、頭を下げたせいで、持っていたカップから紅茶が波打って少し飛び出して、美樹ちゃんの手にかかった。
カップを持つ手を揺さぶるには十分すぎる量と熱さだった。

「きゃっ!」

慌てた美樹ちゃんが落としそうになったカップを、僕は絶妙すぎるタイミングで奪い取った。自分でも、よくそんな事が出来たのかと、感心さえする余裕があったが、当然、無事で済む筈がなく、僕の手にも紅茶がかかる。

激痛にも等しい熱さ。

それでも、放さなかったのは、一瞬歯を食いしばれたからだ。我慢して落さなければ、それで済むと思ったからだ。
熱さに耐えながら、僕は必死になって、カップを、ベランダの手摺の上に置いた。
慎重に。丁寧に。その代わり熱さ倍増だ。

「あっちぃっ!」

置いてから、我慢していた事が声になって出てきた。
手をぶんぶん振って、必死に冷ます。
一振ごとに、楽になってはくる物の、皮膚の中に染み込んだ痛みは、なかなか取れない。
楽になるまで、何度も何度も振った。

「いやぁっ!」

美樹ちゃんが、大きな悲鳴をあげた。ここがマンションかアパートならば、隣人が
何事かと思うほどに。

「だ、大丈夫。平気だよ‥‥‥」

美樹ちゃんの驚き具合と言ったら、それこそ手が溶けてしまったかのようだ。

「でも、でもっ!」
「美樹ちゃんもかかってるだろ。大丈夫か!?」
「そんなのより、…さんの方が」
「大丈夫だよ。ほら」

僕は、手を見せた。赤くなってはいるが、いきなりただれてドロドロになっている訳じゃない。放っておけば、ひりひりする程度ですぐに治る。

「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい‥‥‥」

ここで、僕が大袈裟にしたら、多分泣いてしまうだろう。今でもほとんど半泣きだ。

「僕より、美樹ちゃん‥‥‥ほんとに大丈夫?」

僕は、美樹ちゃんの手を取っていた。
自分の手の硬さが恥ずかしくなるくらい柔らかい。
夕方、美樹ちゃんがしてくれた事には及ばないが、今僕に出来る事は、言葉をかけてやる事くらいしか出来ない。

「‥‥‥‥‥」
「気を付けなきゃね」

僕は笑顔だった。
こういう事になって、一番取り乱したのは美樹ちゃんだ。僕が笑っていれば、全部済むと思った。
だから笑った。

「‥‥‥‥うっ‥‥うっ‥‥」

美樹ちゃんの口から出たのは、鳴咽。
目からあふれ出たのは、涙だった。

「み、美樹ちゃん‥‥‥?」

僕の声は、引き金だったのかもしれない。

「うあぁぁ‥‥‥ううう」

美樹ちゃんは泣いた。子どものように。身だしなみに気を遣う彼女が、恥じも外聞もなく泣いていた。
時折、思い出したように、涙を抑えるようにするものの、溢れ出る物には勝てないのか、抑えようとする度に、涙がさらにあふれてくる。せっかくの可愛らしさがくしゃくしゃになっていく。

こんな事くらいで、泣くほど弱くはない筈だと思っていた。
うろたえるよりも、むしろショックだった。

「美樹ちゃん、僕なら全然大丈夫だから‥‥‥」
「ごめんなさいごめんなさい‥‥‥」
「だから、美樹ちゃんが謝る事ないんだって」

僕の言葉は届いてないのか、美樹ちゃんはただひたすら泣きじゃくっている。

「‥‥‥‥」

照れとか、恥ずかしさとか、そういうのは無かった。ただ、本当に僕が今するべき事はこれしかないと思った。それに、他に涙を止めさせる方法が思いつかない。
僕は、泣いている美樹ちゃんを、包む様に抱きしめた。
美樹ちゃんの全部を、残らず包みたい。
そう思いながら。
柔らかく、甘い香りが、微かに鼻に届く。

「‥‥‥‥‥!」

一瞬、美樹ちゃんの泣き声が止まった。

「こんな事くらいで泣いてたら、涙なんかいくらあっても足りないよ‥‥」
「‥‥‥‥‥」

美樹ちゃんに、再び泣き出しそうな気配があった。反射的に、抱きしめた腕に力を込める。
秋の夜風で冷えた身体に、美樹ちゃんの体温がゆっくりと染み込んで来た。

手摺の上に置いたカップの紅茶が、ぬるくなった頃だろうか。
僕は美樹ちゃんを離した。
美樹ちゃんの鳴咽が止まって、落ち着いてきたのが伝わってきたからだ。

いつまでも離したく無いほど、暖かく柔らかかった。美樹ちゃんの体温が
僕の体温になった気がした。でも、いつまでもこのままで良いわけが無い。
抱きしめたのは、美樹ちゃんに無断でした事だ。
押しのけられなかっただけでも、マシかもしれない。

「‥‥‥ごめん。いきなり」

僕は、美樹ちゃんをまともに見られずに、顔を背けた。
この期におよんで、抱きしめてしまった事を後悔した。美樹ちゃんは抱かれるままになっていたが、それはもしかしたら僕が思ったより強く抱きしめてしまったせいなのかもしれない。

後悔だけが次から次へと押し寄せてくる。
何を言われるか。どんな行動に出られるか。
考えるのは、悪い事ばかりだ。

「わたしの方こそ‥‥‥泣いたりして‥‥」

美樹ちゃんの言葉に、僕の中の暗雲が、嘘のように晴れていくのを感じた。
顔をあげた美樹ちゃんの表情には、涙の跡が濃かったが、くしゃくしゃにして泣いていたとは思えないほどだった。
ただ、笑顔とは程遠い。

「泣いてばかりの女の子なんて、嫌いですよね‥‥‥」

まるで、言葉と一緒に何かを捨てているような声だった。

「え‥‥‥?」
「わたし、いつも迷惑ばかりかけて‥‥‥甘えてばかりで‥‥‥」
「何言ってんだ! そんなの関係ないよ」

僕は、美樹ちゃんの言葉を遮った。
口調が強かったからか、美樹ちゃんは驚いたように目を丸くしている。

「僕がいつ美樹ちゃんを嫌いって言った? そんな事一言だって言った事ないよっ」
「でも‥‥‥」
「美樹ちゃん、そんなに僕に嫌われたい?」
「ち、違いますっ! そんなんじゃないんですっ」

一瞬の躊躇も無く、返事が返ってくる。

「だったら、なんで‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」

美樹ちゃんは、うつむいて黙ってしまった。

「ごめん‥‥‥ずるかったかな」
「そんな事‥‥‥ないです」

それから、美樹ちゃんは顔を上げて、

「‥‥‥不安だったんです。わたし、いつもこんな感じだから、…さんに嫌われてるんじゃないかって‥‥‥」
「美樹ちゃん‥‥‥」
「変ですよね‥‥‥わたし」

笑顔で言われなかったら、僕の胸は痛まなかったかもしれない。
弱々しい笑顔だとしても。
美樹ちゃんが感じていた不安。それは僕の中にもあった。

「全然変じゃないよ‥‥‥」

僕は、美樹ちゃんから視線を逸らして、夜景に目を移した。
人を好きになって、不安にならない奴なんて居ない。むしろ、不安にならない方が変だ。
美樹ちゃんと住むようになって、いつの頃からか、美樹ちゃんを気にするようになってから、不安なんていくらでも抱えてきた。
なまじ近くに居るだけに、不安の波は大きい。
日常の中の仕種で、前と違う事があれば、もしかしたらそれは避けられているせいかもしれない。などと、思う事は今まで沢山あった。

「不安にならない奴なんか居るもんか‥‥‥」

すっかりぬるくなった紅茶を、僕は一気飲みした。
不安なのは、気持ちが相手に伝わっていないからだ。相手に伝わらないんじゃないかと思うからだ。
どちらも、前に進まなければ、どうしようも無い事だった。

「少なくとも、僕は美樹ちゃんの事嫌いじゃないよ」

好きだと言えれば良かった。

「本当‥‥‥ですか?」
「嘘じゃないよ。美樹ちゃんに嘘言っても‥‥‥」

僕は、これ以上言えなかった。

「!」

僕の腕に巻き付く腕。
言葉を止めた物だった。

「‥‥‥‥」
「み‥‥‥きちゃん」
「ごめんなさい‥‥‥しばらくこうさせてください。お願いします‥‥‥」

必死な声なのがわかった。巻き付いてきた腕が震えている。

「ごめんなさいごめんなさい‥‥」

何度も謝りながら、その度に美樹ちゃんの腕に力が篭る。
僕の腕を離さないとするかのように。
力が篭れば篭るほど、なぜだか、心が安らぐ。

「‥‥‥謝る事ないよ。こんな事で謝られたら、僕なんか土下座しても足りないよ。
こんな腕で良ければいくらでも」

今、照れくさくは無かった。嬉しいとも違う。もちろん、嬉しくない筈が無い。


でも‥‥‥ただ、暖かい。

一番感じる事だった。
抱きしめてしまった時とは違った、流れ込んで来るような暖かさ。
馬鹿な事だが、不意に僕が、美紀ちゃんの温もりを吸い取っているような気がした程だ。

「寒くない?」
「大丈夫です。…さんの腕、あったかいから‥‥」
「‥‥‥‥」

僕は、美紀ちゃんの笑顔を確認してから夜景に目を移した。
一人より二人で、しかも距離が近ければ近いほど、綺麗に見えるのかもしれない。
さっきより、ずっとずっと綺麗に見える夜景を見て、そう思った。

少年は、目を覚ました。

目を覚ましたのは、朝の光のせいでも、スズメの声のせいでもなかった。

「…さん。大変ですっ!」

部屋に駆け込んで来たパジャマ姿の少女が、少年を起こしたのだ。
朝の穏やかな時間には、程遠い慌ただしい声だった。

「‥‥‥あ?」

少年の表情は、まだ夢の世界に居たがっているようだ。
昨夜、気持ちが高まり過ぎたせいで、なかなか寝付けなかったせいである。

「早く起きてくださいっ! 遅刻です!」

少女は、少年を布団の上から揺すった。

「えっ!」

無理矢理夢の世界から引っ張り出された少年は、慌てている少女の表情を見た。時計を見るより確実だったからだ。
いつもはそうだった。
不意に、少年は窓から入ってくる光の具合が、いつもと違う事に気が付いた。
昨日の朝とは入ってくる光の量と角度が違う事に。

「‥‥‥?」

少年は、壁掛け時計を見た。

「美樹ちゃん‥‥‥‥」
「…さん、早く早く」

慌てている少女に、少年は時計を指さした。大きなバンソウコウを貼り付けた指で。
少女は、不思議そうに時計を見る。

「‥‥‥‥‥あ」

時計をじっくり見た少女は、そう言って固まった。
しばらくの間、秒針が時を刻む音が、少年と少女の間を埋めた。

「それじゃ、おやすみぃ‥‥‥」

少年は、眠たそうな声で言ってから、布団を被った。

「あ、あの‥‥‥わたし‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「ごめんなさいっ」

少女は頭を下げて、入ってきた時と同様に、慌てて少年の部屋を出ていった。
少年は、少女が出ていく気配を布団の中で感じ取り、ふうとためいきを一つ。
自分の表情が、緩んでいるとも知らずに。


「美樹ちゃんっ! やばいよ。遅刻だっ!」

僕は、美樹ちゃんの部屋へ駆け込んだ。

僕の部屋とはまったく違う匂いが、出迎える。
ベットを見ると、美樹ちゃんがうつぶせになって眠っていた。
まるで、路頭に迷った挙げ句に、力尽きて倒れたかのようだ。
かかっていた布団は、足元に寄せられているせいで、あられも無い姿が丸見えだった。
さっき僕の所に駆け込んで来たのが信じられない。
自分の寝相を知ったら、美樹ちゃんは気絶してしまうだろう。

「ちょ、ちょっと美樹ちゃん、起きてよっ!」
「う‥‥‥ううん」

ごろんと寝返りを打って、仰向けになるが、パジャマが乱れて、へそのあたりが露出する。
しかし、息を飲んでいる暇はなかった。
なぜなら、すでに授業は始まっている時間だったからだ。

大遅刻だった。

「美樹ちゃんってば!」

肩をつかんで揺すった。

「ん‥‥‥‥‥‥‥‥きゃあぁぁぁっ!」

目をゆっくり開けて、僕を見てから、数秒間固まってから、大きな悲鳴を上げた。

「な、なんですか!?」
「なんですかじゃないよ。ほら、もうこんな時間だ」

枕元にあった、白いクマの形をした可愛い目覚し時計を引っ掴んで、美樹ちゃんの目の前に突き出した。
美樹ちゃんは、時計をじいっと見ていた。考えている事が、表情の変化から手に取るようにわかる。

「いやぁっ! 大変っ!!!」

目覚し時計を両手でつかんで、大声を上げた。

「遅刻よ遅刻っ!」

美樹ちゃんは、慌ててベットから飛び起きて、壁に掛けてあった制服をハンガーからもぎ取って、パジャマの上から着ようとしている。

「パジャマ着てるよっ!」

僕が慌てて指摘すると、「あっ」と驚いてから、パジャマの裾に手をかけて、一気にまくり上げ‥‥‥ようという瞬間、美樹ちゃんと目が合った。


「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥」


時間が止まったと思った。

「いやぁっ! なにしてるんですか!!」
「な、なにって‥‥‥遅刻だよって‥‥‥」
「そんなのわかってます。着替えるんですから、早く出て行ってくださいっ!」

顔を真っ赤にしながら、大声で言われて、僕は逃げるようにして、美樹ちゃんの部屋を飛び出した。
なんだよ。自分が勝手に着替え始めようとしたんじゃないか。

僕も、急いで部屋に戻って、着替えをしようとした時、不意に頭を過ぎる物があった。雷が頭の中を通過するようなショックだ。いや、思い出したというべきか。
出来れば認めたくないような、認めたいような複雑な心境だった。

制服のポケットから、生徒手帳を出して、恐る恐る開いた。

確認したかったのは、もしかしたら夢とごっちゃになっていると思ったからだ。
机の上のデジタルカレンダーで確認して、生徒手帳で同じ日付の部分を開く。

「創立記念日」

同じ日付の欄には、気持ちが良いくらい、赤い文字で大きくそう書かれていた。
休みだとわかっている奴にとっては、気持ちの良い文字だろうが、今の僕にはめでたい気持ちにはなれなかった。むしろ馬鹿にされている気さえする。

丸井高校の創立記念日であった。

世間が平日でも、丸井高校生にとっては、休日の一日だ。
僕は、何度もカレンダーと生徒手帳の日付を見比べて、間違いの無い事を確認した。
昨日見たテレビは間違いなく今日の曜日を推測させてくれる。

なんて事だ。

愕然とする反面、どこかほっとしたせいか、思いっきり力がぬけて、ベットにへたり込むと同時に、部屋のドアが開いた。
制服に着替えた美樹ちゃんだった。

「なにやってるんですかっ!」

まだパジャマ姿で、ベットにへたりこんでいるのを見た美樹ちゃんは、信じられないと言った風に、叫んだ。

「‥‥‥‥ねえ、美樹ちゃん。今日何日だっけ」
「今日は日曜日でも休日でもないですよ!」

僕の言いたい事を察したのか、慌てながらも自信たっぷりに答える。

「世間はそうだろうね」

僕があまりにもくつろいでいるのを見てか、美樹ちゃんが怪訝そうに眉を寄せた。

「まさか、二人して忘れるなんてなぁ‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥?」

訳が分からないと言った風な美樹ちゃんに、僕の生徒手帳を渡して、

「今日の所見てよ」
「今日‥‥‥ですか?」

言われた通りに、美樹ちゃんはページをめくって、あるページで手を止めた。
目的のページにたどり着いたようだ。
ページをじっと見ている美紀ちゃんの表情を、ずっと見ていた。
目がある一点で止まった時、一瞬表情が無くなったのがわかった。

「‥‥‥‥‥‥」

呆然としているというものは、今の美樹ちゃんその物だろう。
相応しい言葉も出てきた。

「うそ‥‥‥」
「僕はともかく、美樹ちゃんが忘れてるとは思わなかったよ」

ホームルームで熟睡していれば、学校の日常にうとくなるのももっともだ。
ただ、美樹ちゃんが忘れるていたのは意外だった。
慌てんぼうな所があるものの、少なくとも学校では僕よりしっかりしている筈だ。

「その‥‥‥ぼうっとしてて」

なぜだか、うつむいて、ぼそぼそと呟くようにして言っている。心なしか頬にさっと赤味が差した気さえする。

「ま、いいか。それよか、今日いきなり暇になったけど、どっか行こうか? 美樹ちゃん、なんかやることある?」
「え‥‥あ、いえ。何もないです」
「じゃ、オッケーって事で?」
「はいっ!」

朝の日差しとどっちがまぶしいだろう。
美樹ちゃんの笑顔を見て、そう思った。

Fin

後書き

始めに。

  • 内容とか誤字脱字の推敲を完全にしてないんで、変な部分が一杯あるやもしれない〜(T_T)
  • DOSで読む時は、行が詰まってしまって、ごちゃごちゃして読みにくいかもしれない〜
    一行挿入して読むと楽かと。

(編者注…ご心配なく、気づいたものは直してます(笑))


人格とかいろいろ切り売りしないと、ノリノリで書けないですね〜
まだまだ甘い(T_T)>自分

プロットとか、わたしは立てないんですよ。
設計どうりに話しを進めていくと、どうもライブ感覚になれなくて。
ちゃんと枚数制限とかあった泣きますな(^^;
自由ページだから、テキトーな事やってる訳ですが‥‥

書いてて、本来はもう告白からキスから最終段階まで入る予定だった‥‥‥
というより、入れないと話しが成り立たないよーな気がして、でも、なんとかグっと抑えて抑えて抑えまくって、お茶を濁しながらとりあえずやってみました。
最後の辺りの生み出す苦労っつったらもう(T_T)
こんなショボショボな文程度で苦労してしまうあたりに力の無さを感じる今日このごろ。
ぅぅ。

途中、告白くらいはもうやっちゃってもいいや〜なんて思ったりしたけど、やっぱり最後はゲーム通りにした方がいいかななんて弱い事を考えてしまったのは、今でも後悔なんですが‥‥(^^;う〜ん

そう考えると、「ずっと一緒」の同居に関する事とかかなりザルかもしれないとか思ってしまった。(^^;

同居というシチュエーションを、ゲーム内ではあまり生かしてなかったんで、非常に残念でもったいなく思うゲームですね〜 惜しい!(T_T)

あと、これは一緒とは関係ないんですが、恋愛ゲーって主人公自身の気持ちの高まりが無くっていけませんね。
勝手に熱をあげていってくれる女の子を見ているだけみたいな、そんな感じの主人公ばっかりっていうのが‥‥(^^;

そーいう意味で、最近わたしの心をひっぱたいてくれたナイスゲームが「みちのく秘湯恋物語」っていうゲームだった。
うーん、このゲームは素晴らしい!

宣伝とかそこらへんだけを取ると、ただの変なゲームっぽいんだけど、やっていくとドキドキしちゃうですよ。 女の子とか出てくるけど、基本的にヒロインとしか進展しないのがいい。

まあ、小説を読んでいるような感覚なんで、一本道を進むのが苦手な人にはあまりおすすめ出来ないかもしれないけど、物語にハマれる人なら、もう是非ハマってみるといいです。

SS版なんかは結構おすすめですかね(爆 PS版もいいけど。


作品情報

作者名 じんざ
タイトルふたりぼっち
サブタイトル石塚美樹
タグずっといっしょ, ずっといっしょ/ふたりぼっち, 石塚美樹, 青葉林檎
感想投稿数159
感想投稿最終日時2019年04月10日 05時56分22秒

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同じシリーズで次の話0(0.0%)
同じ世界観・原作での別の作品0(0.0%)
この作者の作品なら何でも156(98.11%)
ここで完結すべき0(0.0%)
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特に意見無し3(1.89%)
(注) 要望は各投票において「要望無し」あり、「複数要望」ありで入力してもらっているので、合計値は一致しません。

コメント一覧(クリックで開閉します)

  • [★★★☆☆☆] 誤植。美紀と書かれているカ所あるよね
  • [★★★★★★] おもしろいけどちょっとながいんじゃない。もうすこしほかのきゃらもだしたほうが。
  • [★★★★★☆] 面白かったっす。最終段階に期待!
  • [★★★★★★] 告白場面作ってよー!!
  • [★★★★☆☆]