今苦しんでいるのは、もしかしたら僕一人なんじゃないか。
そんな風にさえ思う。
熱っぽい頭のせいだと解っていても、妙な孤独感だけは拭えない。
息苦しさと、身体の重さが、孤独感を一層煽っている。
昨日から引きはじめた風邪は、僕をベットへ縛り付けているようだった。
動かすのも嫌な首を無理矢理横に向けて、壁の時計を見た。
午後二時。
秋の終わりともなると、窓からの光も、かなり緩やかだ。
今ごろ、学校では午後の授業の真っ最中だろう。
多分、今なら学校へ行っていても家で寝ていても、やる事は一緒だったかもしれない。
でも、同じ寝るなら学校の方がいい。
今の状態より、よっぽど気持ち良く寝られる。
身体も重くないし、嫌な具合に熱っぽくもない。それに、何よりも胸の奥が風邪以外の理由で苦しくなる事もないのだから。
今日学校へ行くときに、僕の部屋へ寄ってくれた時の美樹ちゃんの表情。
突つけば泣いてしまうのではないか。
そんな風に思えてならなかった。
心配しないでと言えば言うほど、美樹ちゃんの表情が暗くなっていった物だ。
今、胸を苦しくさせている理由でもあるが、同時に、どこかで暖かい物を感じている理由でもあった。
心配してくれる。これがどれだけ暖かいか。
もし一人暮らしだったら・・・
考えるのも面倒になって、僕は目を閉じた。
なぜなら、それは考えられない事だったからだ。

「美樹、美樹ったら!」
林檎の大きな声に、美樹はようやく反応した。
「あ・・・なに?」
「なに・・・って、なにじゃないよ。朝からぼけっとして」
林檎が、机に肘をつきながら言った。
美樹の前の席に座って、美樹と向かい合う形になる。
「・・・・・」
「最近、美樹ってばおかしいよ。ニコニコしている日もあったと思うと、次の日はなんだか怒ったりしてるし・・・・それで、今日はため息だもんね。表情も暗いし・・ややこしいったらありゃしない。ホントにおかしいよ、美樹」
「そ、そんな事・・・」
「そんな事大有りよ。自分で気づいてない方がおかしい」
林檎は、そう言ってビシっと美樹を指差した。
「そんな事ないもん」
林檎の勢いに負けじと、美樹は強く言い返す。
自分で意識しない事を言われても、美樹には実感する事は出来なかった。
感情の変化が、彼女と同居している少年との日常に結びついていると気づいていたなら、強く言い返す事はなかっただろう。
「何よ。ムキになることないでしょ。あたしはただ美樹の事心配してるだけなのに。いつもいつも心配で、夜も眠れないわ」
林檎は、ミュージカルの振り付けの様に、大袈裟な動きで両手を胸にやった。
「なんだか面白がってる様に見えるけど・・・」
「か、考えすぎよ、考えすぎ。それより、ぼけっとしている理由とかが気になるんだけど」
図星を突かれた林檎は、内心慌てながらも、落ち着いて話を逸らせた。
「・・・なんでもない」
美樹は、そう言って、林檎から視線を逸らせた。
家で寝込んでいる少年の事を考えているなどと、言える筈が無かった。
「・・・そう」
なんでも無い筈なさそうな美樹の答えに、林檎はうなずいた。
「ごめんね」
美樹は、心配してくれる親友に、そう言った。言いたくない事を無理に聞こうとはしてこないのを、十分知っているからだ。それが判るからだ。
今の気持ち。今の生活。本当の気持ちを言えたなら・・・
林檎に対しても、少年に対しても。
そんな事を考えて、美樹は、今日何度ついたかわからないため息回数記録を更新した。

 目が覚めても、覚めた感じがしなかったのは、部屋が薄暗かったせいだ。
窓に目を移して、ようやく今が夜になっているのがわかったが、何時かまではわからない。
夜になったばかりなのか、すでに夜も深くなっているのか。
次に頭に浮かんできたのは、美樹ちゃんの事だった。
本来なら、居るはずの無い同居人。喜びも苦しみも、全部一人で抱えなければならない筈の一人暮らし。
今、美樹ちゃんが、壁の向こう側に居なければ、本当にそんな生活になってしまう。
もしかしたら、なんらかの理由で、美樹ちゃんはここを突然去る事になったのかもしれない。今部屋が暗いのは、もしかしたら、誰も居ないせいじゃないか。
馬鹿馬鹿しいと思いながら、不安になって、起き上がろうとした。
すると、ドアがいきなり開いた。
ドアの隙間から漏れてきた光は、暗闇に慣れた僕の眼を刺してきた。
「あっ・・・」
小さく慌てた声がした。ドアからの光は、目には痛いが、声は耳に心地よかった。
今日、一番聞きたかった声。美樹ちゃんの声だ。
僕が眩しそうにしたのに気づいたのだろうか。
「美樹・・・ちゃん?」
わかっていても、そう呼んだ。ただ単に美樹ちゃんの名前を呼びたかっただけだ。呼んで、 安心したかったのかもしれない。
「ごめんなさい。起こしちゃいました?」
「あ、いや。起きようと思ってた所だから」
「あの・・・ご飯出来たから・・・どうしようかなって思って」
光に慣れてきた目で、ドアの所に立っている美樹ちゃんを見ると、エプロン姿なのがわかった。
「食欲・・・ありますか?」
弱々しい声がした。不安そうな表情まで見られるように、目が慣れたのを嘆くべきだろうか。
美樹ちゃんに、一番似合わない表情だ。
「あ、うん。なんかあるんなら。腹も減ってきたし」
気がつくと、身体のだるさも、熱っぽさも、殆ど引いて楽になっていた。身体の節々が楽になって、いい感じだ。そうなると、腹の具合にまで気が行くようになる。
「おかゆとかでもいいですか?」
「え? おかゆ作ったの?」
「はい・・・お母さんに電話で聞いて、作ってみたんですけど」
それでも、不安なのか、僕から目を逸らした。
「うまく出来たかどうか・・・」
「いいよ。頑張って作ってくれたんでしょ?」
「はい。なんとか・・」
「だったら大丈夫だよ。是非食べたいな」
腹の虫が、僕にそう言わせると、美樹ちゃんの表情が、ぱぁっと輝いた。笑顔はいつだって光って見える物なのかもしれない。
「あ、はい。それじゃすぐに持ってきますから」
「え? いや、いいよ。僕が行くから」
そう言ってからベット降りようとすると、
「まだ起きちゃ駄目です」と、美樹ちゃんが慌てて僕を、言葉で止めた。
「無理したら、治る物も治らなくなっちゃいます!」
そう言ってから、美樹ちゃんがベットに近づいて来た。
「大丈夫だよ。随分楽になっ・・」
僕の言葉を遮ったのは、額に触れた、少し冷たい感覚だった。
美樹ちゃんの手が、僕の額の上に乗っている。
僕の頭が熱かったのか、それとも美樹ちゃんの手が冷たかったのか。
ただ、柔らかい感触だけが、確かな物だった。
びっくりしていたせいで、感じる暇もなかった感触を感じ始めた頃、美樹ちゃんの手がそっと離れた。
さっきまで僕の額に触れていた手を、美樹ちゃんは自分の額にやっていた。
僕の温度。僕の感触が、今美樹ちゃんに伝わっているのかと思うと、どうしていいか判らない気分になっていく。耳にも聞こえる程、鼓動が高鳴って来て、落ち着いていた体調が、また悪化しそうなくらいだ。
僕の体温と、自分の体温を比べているのだろうか。真剣そうな表情をしている美樹ちゃんを見て、不思議な感覚を味わっていた。
半年以上前は、石塚美樹という女の子が居るという事さえも知らなかった。そんな子が、今、僕と一緒の家に一緒に生活をしている。風邪で倒れた僕の側に居る。ただ不動産屋の手違いというだけの縁でだ。
これが不思議じゃなくてなんだろう。
ましてや、男に対して、常に引いた態度を取っていた美樹ちゃんが、兄妹でも親戚でもない、なんの繋がりも無い僕の額に手を当てるなどとは、思いもしなかった事だ。
「まだ・・・ちょっと熱ありますね」
何故だか、美樹ちゃんの声は消え入りそうだった。
それよりも、今が暗がりである事を、僕は感謝してもいいと思った。
もし今の僕の火照った顔を見られたら、風邪のせいだと誤魔化す事が出来るだろうか。
「あ・・・うん」
僕が答えた後、しばらくお互いに無言だった。
何を言っていいか。何をしていいのか。僕にはわからなかった。
ただ、慌てた鼓動の音がやかましいだけだ。
僕の額に触れた美樹ちゃんの手の感触を思い出す度に、さらに高鳴っていく。
「あ、えっと・・・と、とにかく、持ってきますから、寝ててください」
まるで、我に返ったような口調で言ってから、美樹ちゃんは足早にドアへ向かった。
「あ、美樹ちゃん。電気つけてくれないかな」
出て行こうとする美樹ちゃんを呼び止めた。
ホントは、電気なんかどうでもよかった。ただ、美樹ちゃんが行ってしまったら、また暗くて静かな部屋に戻ってしまうのがなんとなく恐かったからだ。
「あ、はい」
これから点く電灯と、今の美樹ちゃんの返事は、どちらが明るいだろう。
蛍光燈がパッパと点灯して、部屋が明るくなる。
「ありがと」
僕の言葉に、美樹ちゃんは電灯に負けない笑顔でニコリと笑っただけで応えて、部屋を出ていった。
僕は、額に手を当ててみた。
いつもの僕の手の感触だ。何も変わっていない。
美樹ちゃんの感触には、遠く及ばなかった。


寝ていてと言われた割には、寝ている訳にはいきそうも無い状況になっていた。
鍋に皿にと、次々と運ばれて来るのを見ていると、自分が病人だという事を忘れてしまいそうになる。
小ぢんまりした物になると思って、持ってくるという美樹ちゃんの言葉に甘えたものの、これなら僕が起きて食卓に行った方が良かったかもしれない。もっとも美樹ちゃんがそれを認めてくれるとは思えないが。
「・・・なんか手伝おうか?」
「いいです」
多分、本当にいいと思っているんだろう。手伝って欲しいなんて思ってもいないに違いない。
「手伝うよ・・・」
大き目の折り畳み式の座卓をよいしょよいしょと運び込もうとしているのを、黙って見ているほど、身体の具合も悪くない。熱があると言われたが、気分的にはもう全快しているに等しい。
「駄目です。準備が終わるまで寝ていてください」
一生懸命にする姿を見守るだけの方が、具合が悪くなりそうな気がする。
「大丈夫だよ。もうなんとも無いんだから」
「でも・・・」
「でもも何も、こんな大事になったら、寝てなんか居られないんだけど」
なるべく具合が良いことをアピールするように、笑いながら言った。ちょっとでも苦笑しよう物なら、今の美樹ちゃんを刺激する事になるのは、判っている。
「ご、ごめんなさい」
「いいって。とにかく早く準備して飯食べようよ。ぱっぱとやっちゃった方が負担だって少ないから」
美樹ちゃんの了解を待たずに、素早く布団から起き上がって、美樹ちゃんが抱えている座卓に手を掛けた。手際良く動かないと美樹ちゃんが慌てて僕を止めるだろう。
「ほらほら、早く早く」
勢いよく事を運ぶのもコツだ。
「あ、は、はい・・・」
僕の勢いに流されてか、美樹ちゃんは曖昧ながらも返事をした。


「あのさ・・・美樹ちゃん」
座卓の前に座って、僕が聞くと、
「はい、なんですか?」と、なんの迷いも無い、純粋な声が返ってきた。
「凄くお腹が空いてるとか?」
「いえ、別に・・・普通ですけど?」
なんでそんな事を聞くのと言わんばかりに、小さく首を傾げている。
「そっか・・・」
「それより、早く食べましょう。食べて早く良くなってくださいね」
「え、ああ・・そうだね」
座卓の上に並んでいる料理の数々を見ながら、僕はその量に気圧されていた。
確かに、消化吸収には良さそうな料理が並んでは居る。美樹ちゃんがお母さんに聞いて作ったという成果なのだろう。
ただ、問題なのは量だ。
きっと、あれやこれやとメニューを考えているうちに膨れ上がったんだと思うけど、いくらなんでも凄すぎる。が、しかし、裏を返せば、一生懸命やってくれた証拠だ。量の多さに呆然となっていた反面、妙に心地良いのは、美樹ちゃんの気持ちに感動しているせいでもあった。
「どうしたんですか?」
箸を持ったまま動かない僕に、美樹ちゃんが不思議そうに聞いてきた。
「い、いや。別に。それじゃ頂こうかな」
量の多さイコール気持ちの現れだと信じて、僕はニコリと笑った。
引きつっていなければいいけど。

「・・・・・・」
お粥の最初の一口を飲み込むまで、美樹ちゃんはずっと僕を凝視していた。
刺すような視線と言ってもいいかもしれない。美樹ちゃんにしては珍しい。
しかし、そんな視線を気にしたのは、最初だけだった。視線を忘れる事が出来たのは、お粥の味のせいだ。
「どうですか?」
僕がふぅと息を吐いて、茶碗を置いたのを待っていたかのように聞いてきた。
「・・・・」
「おいしくなかったですか?」
不安そうな表情で聞いてきた。
なんとなく、じらしたくなって、僕は答えずにもう一回ふぅと息を吐いた。
「ごめんなさい・・・やっぱりおいしくなかったですね」
「ちょ、ちょっと待って。誰もそんな事言って無いってば」
あまりの落胆ぶりに、僕は慌てて頭を振った。
美樹ちゃんの困った顔が見たくなってした事を後悔さえしている。
「そんな事ないって。ホントにおいしいよ」
「本当ですか?」
疑い深い眼差しになるのも無理はないか。
「本当だって。何もそんな目しなくたって・・・・」
僕は苦笑した。もう、風邪なんて、まさにどこ吹く風だ。
美樹ちゃんは、僕の意地悪に気づいて、むーっとしたような目で、僕を見据えている。
「…さん、意地悪です」
「ははは、ごめんごめん」
「意地悪な人には、ご飯あげません。わたしが食べます」
そう言ってから、美樹ちゃんは自分の茶碗にお粥を並々とよそっていた。
「あ、そりゃないよ」
「いいえ。駄目です。ちゃんと謝るまで許してあげません」
美樹ちゃんの顔は本気だった。暮らしはじめた当初の頃なら、部屋に引き篭もられていただろう。
そう思うと、どれだけ僕達は近づけた事か。
「ごめん。ごめんなさい」
「本当にそう思ってますか?」
「思ってる思ってる。だから一人で食わないで。ホントに」
機嫌取りの意味じゃない。本当の意味で思っている事だ。
絶品と言っていいほどのお粥だ。病み上がりの空きっ腹に、爆弾を落されたような気分だった。こんなお粥が食べられるなら、たまに風邪くらいなら引いてみてもいい気がする程だ。単なるご飯のドロドロした物。という概念が、いきなり崩れ去る程のうまさだ。中華風という奴なのかもしれない。沸いてきたこの食欲なら、出された料理全部を、美樹ちゃんと二人で平らげる事も出来そうな気がする。
「・・・ふふ」
いきなり美樹ちゃんが笑った。
「うそですよ。たっぷり食べてくださいね」
美樹ちゃんの笑顔を見て、やられた。と思った。
翻弄されていたのは、僕だったのか。
僕は今日一番の苦笑を浮かべて、指で頬を掻いてから、美樹ちゃんが差し出した手に、空いた茶碗を渡した。


「不思議だよね」
「え? 何がですか?」
食後のお茶を飲んでいた美樹ちゃんが、目をぱちくりさせた。
満腹になったせいか、時間がゆったりと流れているような中の事だ。
「いやさ・・・半年以上前は、まさかこういう生活するなんて夢にも思ってなかったなぁ・・・ってさ」
座卓の上の、綺麗に平らげられた皿を見ながら、しみじみ思った。
本来なら、インスタント食品や、コンビニ弁当のの食べ後が部屋に散乱していてもおかしくない男の一人暮らしになる筈だった。しかし、今僕の向かいには女の子が座っている。ごく当たり前の様に。
「・・・そうですね」
暮らし始めた当初は、美樹ちゃんは僕に対して、一定の距離を保っていたものだ。いや、むしろ僕を避ける感じでもあった。
今、こうして向かい合って食事していると、そんな事が、まるで昔を通り越して夢だったのかと思う程、違和感は無かった。もうずっと前から、こんな暮らしをしていた気分だ。
「最初、わたし、凄く嫌だったんです。見も知らない男の人と暮らすなんて・・・って」
「そうだよね。っていうか、普通の女の子だったら、絶対しないよね」
「じゃあ、わたしは普通じゃないんですか?」
ここで笑って言ってくれるのは、僕達があの頃のままじゃない証拠かもしれない。
「今住んでるんだから、普通じゃないのかも」
「そうかもしれませんね」
あっさり笑いながら言われて、拍子抜けした程だ。
「・・・最初の頃は、部屋で怯えてました。夜とか、物音とかする度に、布団の中で、身体にぎゅっと力とか入れちゃって・・・」
「・・・」
「何度、ここから出て行こうって思ったか判りません」
昔話ほど古くない筈なのに、美樹ちゃんはずっとずっと昔の事を話しているような口調だった。
湯気を立てるお茶の向こうに、記憶の中の自分の姿を重ねているのか、それが可笑しく見えるのか、軽く俯かせた顔には、うっすらと柔らかい微笑みが浮かんでいた。
「なんでそうしなかったの?」
僕は、身を乗り出したい気分で聞いた。
一番聞きたい事だったのかもしれない。聞いてみたくて、聞けなくて。そんな事を今までずっと繰り返してきた事を、今ようやく聞くことが出来た。
「わかりません」
返事は、これだけだった。
ただ、不意に僕の方に向けた顔に浮かんでいた物は・・・笑顔。
とびっきり柔らかい笑顔だ。
「出て行くって行っても、行く所なんかなかったし、お父さんやお母さんにも負担かける訳にも行きませんでしたから。それに・・・・」
何かを言いかけたのか、それとも終わったのか。しばらく何も言わなかったのが気になって、促してみた。
僕が一番聞きたい所の様な気がしたからだ。
「それに?」
「・・・いえ、別に。たいした事じゃないです」
今までの笑顔が、不意に困ったような顔になった。
僕の目をちらちらと見ては、すぐに俯く。放っておいたら、萎んで無くなってしまうんじゃないだろうか。なんて思ったほどだ。
僕が無理に言葉を求めたら、本当に消えてしまうかもしれない。
「そ、そう・・・」
無理に話を進めた後遺症か、嬉しくも気まずくもない、なんとも言えない沈黙が横たわった。
どれくらい経っただろう。最初に沈黙を破ったのは、美樹ちゃんだった。
「…さんはどうでした?」
「え?」
「嫌じゃなかったですか? 見ず知らずの人と住むなんて」
「それは・・・」
正直な気持ちは、嫌でも無ければ良くも無かった。一緒に住まなければならなくなった時、同居相手が可愛い女の子だからと、単純に喜んだのは一瞬も同然だったかもしれない。
同意したとは言え、それは成り行きであって、最初から同意の上に住もうとする同棲とは訳が違う。
「う・・・ん、まあ、嫌じゃなかったって言ったら嘘になるかな。最初の頃なんて、結構息苦しかったよ。一人なら、自由気ままになれたのにってね」
あの頃の気持を思い出しながら言った。
今は、ずっとこのまま続いてもいい。いや、続けたい。そんな風にさえ思う。
もちろん、僕の心の中だけでの事だ。
美樹ちゃんは・・・・どうなんだろう。
「そうですよね。一人だと自由でいいかもしれませんね」
「やっぱりさ・・・今でも、一人の方がいいとか思う?」
美樹ちゃんを試した・・・と言えば、聞こえはいいだろうか。
僕が聞いた後、美樹ちゃんは少し黙った後、
「…さん、こないだわたしが風邪引いた時、看病してくれましたよね」
「え? あ、あ・・・」
質問の答えで期待した言葉は返って来なかった。
美樹ちゃんが言ったのは、つい五日ほど前に、美樹ちゃんが風邪を引いて寝込んだ時の事だった。思えば、今の風邪の原因は、それだったのかもしれない。
美樹ちゃんが、今日の朝まで僕の風邪を気にしていたのは、自分のせいだと思っていたからなのかもしれないが、風邪なんて、引くのは他人のせいじゃない。
「あの時、わたし一人だったら・・・」
美樹ちゃんは、湯のみ茶碗を中のお茶を回すように動かしながら、軽く視線を落としてから、つっと顔を上げて、僕の方を見て来た。真っ直ぐに。
「わたし、…さんが居てくれて、本当に良かったと思います。…さんと暮らせて・・・」
美樹ちゃんはそう言って、頬を微かに染めて、目を細めて微笑んだ。
こんな柔らかい微笑みがあるのかと思った。こんなに気持を落ち着かせてくれる笑顔があるのかと思った。
そんな微笑みを受けるのが照れくさくなって、視線を逸らせた。
一人より二人。
もちろん、良い事ばかりある訳じゃない。
むしろ、悪い事の方が多いと言っても良いくらいだ。
でも、そんな事は、僕も美樹ちゃんも分かりすぎる程分かっている。
それでも、一人より二人を選んでくれたのだろうか。
僕と居る事を。
「あ・・と。それじゃ、わたし、そろそろ片づけしますね」
僕の浸っている余韻など、知ってか知らずか、そう言って、美樹ちゃんは立ち上がった。
両手で長い髪を肩から前にまわした、頭の上にしていたリボンをするっと解いて、唇で軽く挟んだ。黒い川の流れの様な髪を撫で付けてから、口にしていたリボンできゅっと結んだ。
真っ赤な蝶が髪に止まった風に見える。
美樹ちゃんの家事スタイルだ。暮らし始めた当初は、長い髪を気にしながらのぎこちない家事をしていた美樹ちゃんも、今ではかり手際が良い。
何も変わってないと思えていても、僕達は気づかないうちに沢山変わっているのかもしれない。
ただ一つ、確実に変わっていると判るのは、僕の気持ちだ。
「さ、…さんはもう休んでください。後はわたしが全部やっておきますから」
「ごめん。僕が担当の日なのに」
そう言うと、美樹ちゃんは困った風に眉をひそめた。しかし、表情は笑顔のまま。子どもの悪戯に困りながらも、暖かく見守る母親の表情は、もしかしたらこんな風なのかもしれない。歳が僕より一つ下なのに、ずっと大人びて見えた。
「・・・・わかったよ」
僕がそう言うと、美樹ちゃんが満足そうに微笑んだ。
「あ、座卓とかは、明日僕が動かすから、そのまんまでいいよ」
やられっぱなしじゃ悔しい。というのは、建前なのか本音なのか。
「わかりました。それじゃ他のはみんな片しちゃいますね」
腕まくりをする姿は、美樹ちゃんを知る人が見たら、目を丸くしてしまうに違いない。
僕は、どこか安心感を味わいながら、布団の中に潜り込んだ。


 食後の満腹感のせいか、僕は美樹ちゃんに何も言えずに寝てしまった。
ただ、夢の中なのか、それとも現実の世界の事なのか解らないが、僕は美樹ちゃんに会った。
枕元で僕を見下ろしている美樹ちゃんは、窓からの月明かりを受けて、柔らかく静かに輝いてた。口元には、優しい笑顔。
光と影の加減か、どことなく羽のような物まで見える。
もし天使が居るんなら、こんな風にして居るんだろうな・・・
僕の具合でも見に来てくれたのだろうか。
それとも・・・
現実でも夢でも、どっちでも良かった。
側に居てくれるなら・・・
僕が覚えていたのは、ここまでだった。


Fin

後書き

 一緒に住んでいれば、いろんな事があるもんですね。
ケンカ、楽しい事、つらい事、悲しい事。
なかでも、病気は一度くらいはある物だから
そんな時、二人だったら・・ってのを
ちょっと書いてみました。
もっとも、思った事を再現しきれてないけど(^^;


作品情報

作者名 じんざ
タイトルふたりぼっち
サブタイトル一人よりも二人
タグずっといっしょ, ずっといっしょ/ふたりぼっち, 石塚美樹, 青葉林檎
感想投稿数154
感想投稿最終日時2019年04月09日 11時05分50秒

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