美樹は、寝ている少年の傍らにぺたんと座り、呆然としていた。
パジャマ姿の少年には、布団も何もかかっていない。真っ直ぐに寝ているだけだった。しかし、まるで蝋人形のように、胸を小さく上下させて呼吸をしている様子もなければ、ぴくりとも動こうとしない。まるで、眠ったまま時間が止まったかのように。
美樹は、そんな少年を見たまま、こんな風に思っていた。
もう少年は二度と目を開かないのだと。
揺すり起こせばすぐにでも起きるのではないかと思えるほど血色も良く、それこそ、ただ寝ている風にしか見えないのに、目を開けない。
それは、生きていない事にも等しいのだと。
「うそ・・・ですよね」
美樹は、困った風に眉をひそめて笑いながら、寝ている少年に問い掛けた。
「うそに決まってますよね。昨日まで、私とお話してたじゃないですか。あの時、…さん、笑ってたんですよ? 笑った後に、いきなり・・・・わたしの事、好きだって言ってくれたじゃないですか。凄く驚いたけど、凄く嬉しかった・・涙が出そうなくらい嬉しかった。だから、わたしも、はいって応えたら…さん、とっても照れくさそうで・・・」
笑っていた筈の美樹の目に、じんわりと溢れて来た物があった。
「それなのに、どうして今寝ているんですか? どうして起きてくれないんですか?駄目ですよ。いつまでも寝てちゃ・・・」
溜まってきた物は、やがて限界を超えたのか、つっと一筋の光の筋を美樹の頬に刻んで、ぽつりと落ちた。
「あ、わかった。…さん、また意地悪してるんですよね。わたしがいつも泣いてばかりだから、それを懲らしめようとしてるんですね。わたし、そんなに泣き虫じゃなくなったんですよ。それは・・・確かに本当に泣いてない事もあったけど、今じゃ、…さんの前じゃ、出来るだけ涙を見せないようにしようって決めたんですから・・・だから、そんな意地悪しないで、起きてくださいよぅ・・・・起きてくれないと、もうご飯作ってあげませんよ」
こう言えば、少年は慌てて目を開けるのだ。美樹ちゃんそりゃ無いよと、苦笑混じりで答える。それで、慌てさせたお返しとして、むくれて見せる。それで一件落着な筈だった。
しかし、言葉の最後は、涙に邪魔されていた。
それでも、美樹の表情はあくまで笑顔。涙でくしゃくしゃになった笑顔。
信じたくない故の笑顔。現実から逃げる為の笑顔。
悲しんでしまえば、全て現実になってしまう。だから笑っている。悲しまないで済む表情はこれしかなかった。
悲しくても、笑えるんだ。
笑っているつもりじゃないのに、笑いたくないのに笑えるんだ・・・
美樹は、溢れてくる涙を拭おうともせずに、震える指先を少年の頬にあてて、何度も何度も、輪郭を記憶に刻み込むように撫でた。
「お願いです・・・お願いだから、もう絶対に泣いたりしないから、起きてください。起きて・・・ええ・・・うえええ」
最後は、嗚咽だった。笑顔はすでに涙に洗い流されている。
涙を拭う事も、泣き顔を隠すことさえも忘れていた。
なぜ今こんな事になっているのか、受け入れたくないのに、勝手に美樹の心に入ってくる。
「なんで・・・・・どうしてぇ・・・わたしいや・・・こんなのいやぁ・・・」
鳴咽で声をしゃくらせながらも、絞りだすように言った。
何度も何度も・・・・・・・・


「!」
暗い部屋に、布団を跳ね飛ばす音が響いた。
次に響いたのは、荒い息遣いだ。
部屋の中が冷えているせいか、吐いた息は、月の光と混ざりあって、白く変わっていく。
「・・・・・・」
美樹は、上半身を起こしながら、寒さに身を縮ませる事も忘れて、跳ね飛ばした布団をぎゅっと握りしめていた。
時折、息を飲んでは、荒くなった息をなんとか静めようとしている。
何が起こったのか、今どうなっているのか、そんな事を把握しようとしているかのように、二、三度、ゆっくりと目を動かして辺りを見た後、美樹は不意に自分の頬に手をやった。
濡れていた。
夢から連れてきた物だった。
「え・・・?」
泣いている自分に驚いていたのか、信じられないとでも言う風に声を上げた。
それから、小さく、夜に飲み込まれてしまいそうな程小さな声で、こう呟いた。
「・・・・・夢?」と。


暗い部屋の中、布団から上半身だけを起こし、美樹は力無く呆然としていた。
夢の中の事を、何度も頭の中で繰り返しては、それを吐き出すように深呼吸をして、昂ぶった気持ちを押さえていた。普段はすぐに記憶から消えてしまう筈の夢は、あたかも今の今まで現実に見てきたかのように、美樹の心の中に生々しく残っている。
目を覚ます事が無いと思った少年の姿が浮かぶ度、怯えて目をぎゅっと瞑るの繰り返しが続いた。
あれは夢なんだ。現に今こうして目覚めたし、目の前に…さんも居ない。全部夢なんだ。怖がる必要なんてないんだ。…さんが告白してくれたのも、わたしが応えたのも全部夢・・・なんだ・・・
それを理解して、ほっとしている自分と同時に、胸の奥の一部が鉛に代わったような重苦しさを感じている自分が居る事に気づいていた。悪夢から覚めた時の安心感さえも感じずに。
美樹には分かっていた。なんで安心した気持ちになれないのかを。
ずいぶん前から芽生えていた気持ちに気づいていながら、どこか実感の無いまま過ごしていた日々が一体なんだったのかという事にも。
作りかけの粘土細工が、知らない間に形になっていた。
少年と思いを伝え合った事が夢と消えた事が、知らず知らずのうちに作らせた形だったのかもしれない。
どうして、今まで普通に一緒に暮らせていたのか、不思議とさえ思えるほど、美樹の胸の奥が慌しくなっていく。
もう明日から、目と目を合わせただけで、胸の奥はこんな風になってしまう。それに、ケンカも出来なくなるかもしれない。嫌われてしまうのが怖いから。もう・・・そんな昨日までの生活に戻れない・・・
心に沸きあがったそんな不安も、不思議とどこか心地よく感じていた。それは、少年の事を好きだという証以外の何物でもない事を、美樹はまだ実感しては居なかった。


何気なく見た時計は、起きてから過ぎた時間が短かった事を告げていた。
夢から戻って、まだ十分ほどしか経っていない。それなのに、美樹にとっては、長く辛い時間を過ごしてきたかの様に思えていた。
涙は引いていたが、首周りには、この季節には珍しい汗を、うっすらと掻いていた。しかし、その汗は、美樹からどんどん体温を奪っていく。このまま冷たくなって動かなくなったら、…さんは、心配してくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。そんな事を考えながらも、身体の方が寒さとじっとしている事に耐えきれなくなったのか、美樹はたまらずベットから降りた。
のろのろとした動きでドアに向かい、ノブをひねった。
居間と自室とを結ぶドアがゆっくり開いても、隙間から光が漏れてくる事はなかった。
悪夢と言える物を見た後の揺れる心には、闇は重過ぎたのかもしれない。闇は怖かった。夢の中の事を映し出すスクリーンだったからだ。
しばらく、呆然と立ちながら、何事かを考えた後、美樹は後ろを振り返った。
視線は、美樹と、彼女が使っている枕とを結んでいた。
夢で揺らされた心は、躊躇という文字を崖から突き落として、美樹に行動をさせるに十分な力を持っていた事を、美樹自身は気づいてもいなかった。


ノックの音が、小さく居間に響いた。
小さかったのは、ドアを叩く寸前に、ためらいがノックする指を押し戻したせいだ。
「・・・・・」
美樹がためらったのも道理、すでに少年も寝ている筈の時間だったからだ。それに、何よりも、美樹自身がこれからしようとしている事に対して、もう一人の美樹がためらっているせいもあったのかもしれない。
美樹は、何気なく振り向いた。
いつも見なれている筈の居間、それが例え夜の暗闇で染まっていても、普段の美樹にはとりたててなんという世界でもなかった。しかし、今の美樹を怯えさせるには十分であった。
小さい頃に、家の中の暗闇に対して感じていた、得体の知れない不安と恐怖が、不意に美樹の気持ちの隙間にスルリと入ってくる。トイレに一人で起きられなかった小さかった頃の気持ちだった。
部屋の中の闇が、黒い人影になってゆらゆらと揺れるのではないか。この世ならぬ誰かが物陰に潜んで、暗闇からじっと自分の方を伺っているのではないか。凍りついたような無表情か、あるいはナイフで切り入れたような目や口が、笑いの形を浮かべているのではないか。恐怖映画は、現実世界に入ってこないからこそ楽しめるのだという事に、たった今気づいていた。
得体の知れない不安が、美樹を縮み込ませた。腕の中の枕にぎゅっと皺が寄る。
ほどなくして、大きなノック音が居間に響いた。

昔、友人に言われた事があった。
眠りに落ちる寸前、意識が無くなる寸前に、がばっと身体を起こすと、心が形になって飛び出すらしいぞと。それは幽体離脱みたいなもんか? と聞くと、さあ、似たようなもんじゃないか? と返ってきたのを覚えている。今、もしかしたら試すことが可能かもしれない。丁度、頭の中にもう一枚の瞼が降りかかってるいる所だ。
もし、そんな事が出来たら何をしたいか。
空を飛べるだろうか。
飛べるのなら、夜の空でもいいから飛んでみたい。丸井町の夜景を上から眺めてみたい。
壁をすり抜けられるだろうか。
もし抜けられるのなら、いろんな所へ行ってみたい。
普段入れない所。入るのに金がかかる所。絶対に入れない所・・・・
絶対に入れない所?
絶対に入れない所・・・・・
一つだけあった。
しかも、すぐ近くに・・・・
意識が、だんだん深い霧の中に消えていくように、何も考えられなくなってきた。 この状態で、いきなり跳ね起きようなんて気力はなかった。夢の中に足を踏み入れる気持ち良さに逆らう気なんて、これっぽっちも無い。またいつの日か、思い出したときに試したいと思う日も来るだろう。多分、その時も今みたいになるんだろうな。
と、思ったその時だった。
誰かの気配を感じた気がして振りかえると、黒いフードとマントを纏った人影が、いきなり目の前に現れた。気味が悪いとか怖いという感じはしなかったが、なんでそんな格好した奴が、こんな所に居るんだという興味にも似た疑問は浮かんだ。
そうか、多分こいつは睡魔に違いない。僕を眠りに連れていってくれるんだろう。
ふらふらとそいつの方へ歩いていくと、不意に、何か・・・声か音かはわからない何かに呼ばれたような感じがした。僕が歩くのを止めると、睡魔が不意にフードを取って見せた。
フードからは、長い髪が、ふわっとこぼれ出た。顔は、良く知っている顔にそっくりだった。でも、なぜだろう。ひどく悲しそうな表情をしている。
僕の一番苦手な表情だった。苦手というより、させたくない表情だ。僕は、笑顔の方が好きだった。
「ごめん・・・」
どうして哀しそうなのかが気になったが、僕は行かなくてはいけなかった。誰かが僕を呼んでいる。そんな気がしたからだ。
「どうしても行かなきゃいけないんだ。」
すると、哀しそうな表情が、一変、柔らかい笑顔に変わった。僕の大好きな子の大好きな笑顔だった。なんだか、喜んでくれている様にも見えた。
僕は安心して微笑みを返して、背中を向けた。


 目を開けると、天井が見えた。
カーテンの隙間から入ってくる、月の光が、うっすらと部屋の形を浮き上がらせていた。意外な程明るいのに、優しい光だった。
そう言えば、なぜ僕は目を覚ましたのだろう?
記憶の片隅にちょこっと顔を出しては、意識を向けると引っ込んでしまう夢の記憶を、もぐら叩きのようにして、一生懸命捕らえようとしている時、ドアの方から音が聞こえてきた。
部屋が、寒さのせいで収縮して鳴っているのでも、何かが落ちた音でもない。
明らかにノックの音だった。
「誰?」と、大きな声で言うと、ノックの音が止まった。
愚問だったかもしれない。
この家で、僕以外に僕の部屋をノックできるのは一人しか居ない。でも、こんな時間というのがおかしい。もうとっくに寝ている筈の時間だ。いつも寝るのは必ず僕より早い筈だ。
思わず「誰?」と聞いてしまったのは、そういう理由があったからだ。
聞いてから、どれくらい経っただろう。
「あの・・・わたしです」と、小さな声が返ってきた。紛れもなく、美樹ちゃんの声だった。
「あの・・・えっと・・・」
「なに?・・・開いてるよ」
部屋に鍵はあるが、かけた事は一度もなかった。こう答えるようになったのは、美樹ちゃんがたまに、開いてますか? と聞いてくるせいだった。
僕が答えてから、どれくらい経っただろう。寝ぼけた頭には、長く感じたが、実際はもっと短かったのかもしれない。
ノブをゆっくり回す音が聞こえてきた。すぐに、ドアがのろのろと開くのが見えた。しかし、ドアの向こう側からは、光は漏れてこなかった。美樹ちゃんも顔を覗かせて来ない。声だけがドアの隙間の向こうからした。
「…さん。あの・・・・」
「なに、どうしたの?」
僕は、ゆっくり上半身を起こした。布団の隙間から、せっかく暖めていた布団の中の空気が逃げていく。
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
無言が続いた。用件があるなら彼女が先に言う筈だと思って待っていたせいだ。
どれだけ待っただろう。一向に口を開かない美樹ちゃんに焦れて、
「なんかあったの?」
「あ・・・いえ。違うんです」
「じゃあ、どうしたの?」
「・・・・・」
核心に触れると黙ってしまう。寝入りばなを起こされても、美樹ちゃんに付き合うのは苦痛じゃなかったが、肝心の事を言ってこないと、さすがに焦れてくる。もう一年近くも暮らしていて、お互いの機微や間の取り方も十分にわかってる筈なのに、今日の反応は、今までに無かった物だった。こんな時間に明かりも点けずに僕の部屋にくるなんて、何か変だ。かと言って、別段火事や泥棒と言った緊急事態でもなさそうだ。こうなると、妙な期待をする余裕も出てくるし、鼓動も多少増えたかもしれない。でも、今の僕には、大事じゃない安心感のせいか、眠気が最優先になっている。もう一度布団をかぶって、ゆっくりと夢に戻りたい。
「ごめん・・・別に急ぎじゃなかったら、明日でいい?」
上半身を起こしているのに疲れて、僕はもう一度横になって、布団を被り直した。
それでも、ドアが閉まる気配も無かったし、美樹ちゃんが部屋に戻っていく気配も無かった。
「怖い夢・・・・見たんです」
か細い声が聞こえてきた。微かに震えているような気がした。
こんな声でも、僕の目を覚ますのには十分過ぎた。
怒った声、悲しそうな声、嬉しそうな声。どれも、良く聞く声だが、不安そうな声は、ほとんど聞いた事が無いせいだ。
「夢?」
「・・・・あ、あの、入っていいですか?」
「え!? ちょ、ちょっと待って」
「駄目ですか?」
一瞬、泣いていると思ったほど、声に悲痛な物が混じっているふうに感じた。
「いや、駄目・・・じゃないけど・・・」
何がなんだかわからなくなっていた。寝起きの頭というせいもあったかもしれない。 嬉しがっていいのか、驚けばいいのか、怖がればいいのか、さっぱりわからない。
怖い夢を見たからと言って、わざわざ僕の部屋に来るのは何かおかしい。美樹ちゃんだって、もう高校生だ。怖い夢の一つや二つで、いちいち怖がっているような歳じゃない筈だし、なによりホラー映画を平然と見られるような子が、夢くらいで怖がるとはとても思えない。
どうしようかと動揺していた時に、美樹ちゃんが部屋に入って来た。
月の光を受けた白い姿が一瞬幽霊に見えて、ドキっとした。怖い夢だのなんだので、そういう心境になっていたのかもしれない。
とりあえず電気をと、照明のスイッチの紐を引こうとした時、
「お願いです。電気つけないでっ」
美樹ちゃんの声が僕を固めた。さっきまでの消えてしまいそうな声が嘘のように、大きな声だったからだ。
「ごめんなさい。でも・・電気はつけないでください」
また声に勢いが無くなった。
「どうしたの?」
「・・・・・」
夜目にもわかった。美樹ちゃんが顔を逸らしているのが。手にしている枕で口元を隠すようにしている。顔を見られたくないとでも言っている風だった。怖い時には、電気をつけるのが一番なのに。
「わかったよ。つけないから」
「ありがとう・・・ございます」
僕は頭を掻いた。電気を点けない暗い部屋で二人きり。ロマンチックな雰囲気もなければ、何かを予感したようなドキドキも無い。何しろ、怖い夢に怯えた、まるで子供のような美樹ちゃんを迎え入れて、何をしたらいいのか判らない状態だ。
「えっと・・・」
「迷惑ですよね。こんな時間に」
美樹ちゃんが突っ立ったまま、そう言った。
「いや、迷惑って訳じゃないけど・・・」
「・・・・」
「そんな怖い夢だったの?」
美樹ちゃんをも怖がらせて、こんな所に来させてしまうる夢の内容も気になったし、その話題から切り出すのが、今はいいだろう。
「・・・・」
「お化けの夢・・・・って訳でもないか。それじゃ、虫かなんかに追いかけられたとか?」
美樹ちゃんは首を横に振った。
「なんだろ・・・美樹ちゃんが怖いと思う事か・・・」
「あの・・・ちょっとお願いがあるんですけど」
「え? なに?」
「えっと・・・その・・・変だって思わないでくださいね」
「変?」
「・・・・・・・」
僕が聞き返してから、それっきり美樹ちゃんは黙ってしまった。
「あのさ、とにかく言ってよ。言わなきゃわかんないんだからさ」
忘れかけていた寒さが、気づかないうちに身体の芯に響いてくるようになった。この状態でずっと居られる程、今の季節は甘くない。
「美樹ちゃんだって寒いでしょ?」
「わかりました・・・いいです。ごめんなさい、こんな時間に・・・」
美樹ちゃんは、消えそうな声を残して、ゆっくりと踵を返そうとするのを、慌てて引きとめた。
「ちょ、ちょっと待って。そりゃないよ。ここまで起こされたのに、なんでもないですじゃ、気になっちゃうじゃないか。僕は別に怒ってる訳じゃないんだ」
「でも・・・」
「でもも何もない。とにかく、言いたい事があるなら言ってよ」
こんな状態の美樹ちゃんを放っておける訳がない。
「聞いてくれるんですか?」
「聞くには聞くよ」
「わたし、ここで・・・ここで寝ていいですか?」
「へ?」
いきなりの事で、僕は目を丸くして、素っ頓狂な返事をしてしまった。
こんな返事なんて、ここ数年した事が無い。いや、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。いや、意味はわかる。「ここで寝ていいかどうか」を聞いているのだ。
「ここって僕の部屋?」
すると、美樹ちゃんがこくんと頷いた。
「え、いや・・・まって。本気で?」
「駄目・・・ですか?」
「駄目っていうか・・・その・・・ベット一つしかないし・・・」
もう頭の中はパニックだった。いくら二人での暮らしに慣れ始めたとはいえ、こんな時間にこんな事になれば、どうしたってまともでは居られない。ましてや、気にしている女の子が言ってきているのだ。
「・・・・・」
黙っている理由はこうだろうか。同じ所に寝ていいか。同じベットで寝ていいか・・・と。いや、そんな事は無い。ある訳が無い。美樹ちゃんにとって、僕は同居人に過ぎない筈だ。それなのに、一緒の所へ寝ようなんて思うだろうか? 女の子が同じベットに寝ようとしてるなんて、僕にとってどれほどの爆弾なのか、美樹ちゃんはわかってないのだろう。
「いいよ」
しばらく考えてから、僕は、こう返した。入ってこれる物なら入ってくればいい。僕はここを動かない。床で寝てくれなんて言われたら、嫌だと言うつもりだ。なんとなく、男として見られてないような気がして、正直な所、少し腹が立った。というより、悔しかったし情けなかった。
僕は、布団の中に戻って、枕を奥にずらしてから、ごそごそと奥に詰めて、美樹ちゃんに背中を向けた。入れる物なら入ってみろ。そう思う反面、内心では鼓動がバクバク音を立てているのがわかった。もし入ってきたら・・・それは、ますます僕の事を男として見てないせいなのか・・・それとも・・・
どれだけ時間が経ったのか、わからなかった。まだかまだかと思うのは、鼓動のスピードのせいなのかもしれない。美樹ちゃんが出ていく気配も無い事から、ずっと側に居るのだけはわかったが、いつまでそうしているのだろうかという不安もあった。
まさか、本当に・・・・
ふと、ぽふっと何かが横に置かれたかと思うと、布団が小さくめくられていくのが判った。
僕はバネ仕掛けの人形のように慌てて上半身を起こして振り返ると、美樹ちゃんは布団に入ろうとしている所だった。
思わず目が合った。丁度月の光が、表情を照らしていた。
先に目を逸らしたのは美樹ちゃんだった。
見なければ良かったと思った。見なければ、自分のした事を後悔する事も無かったからだ。
月明かりが明るいとは言え、そんなに細かく見えた訳じゃない。でも、僕にはわかった。どうして、美樹ちゃんが電気を点けるのを嫌がったのか。顔をなるべくこっちに見せないようにしていたのか。
最初からこんな表情をしていたと知っていれば、僕はすぐにでも寝床を譲ったろう。
「美樹ちゃん、ここ使っていいよ。僕が床で寝るから」
「ええっ? そんな・・・こんな寒い日に床なんかで寝たら・・」
「でも、一緒に寝る訳には行かないよ・・・」
建前だったけど本気でもあった。それに、ずっとまともで居られるか自信も無かった。僕だって、健康な男子高校生だ。
「・・・・・」
「美樹ちゃんを床に寝かせるくらいなら、僕は起きてるよ」
「そんなの駄目ですっ」
「だって・・・」
「わたしは・・・別に・・・大丈夫ですから」
目を逸らしていた美樹ちゃんが、まっすぐ僕を見てきた。見られたくなかった筈の目で。表情で。
「大丈夫って・・・」
「…さんにご迷惑はかけません。だから・・・お願いします」
「ほんとにいいの?」
もしかしたら、ひどい事をしてしまうかもしれない。という意味を込めた。美樹ちゃんだって、どういう意味なのかわからない筈は無いだろう。もっとも、今の美樹ちゃんの心を踏みにじるような事をするつもりは無いが、百パーセントの保証は出来ない。もし・・・美樹ちゃんの方から・・・なんていう期待だってある。
返事は、小さな頷き一つだった。
「・・・・わかったよ。こんな狭い所で良ければ」
「ありがとうございます」
「はは・・・」
思わず苦笑した。変な会話だ。思えば、出会いからして、僕達は変だった。今更こんな事で、ごちゃごちゃ悩む事事態がおかしいのかもしれない。
僕に釣られて、美樹ちゃんにも笑顔が浮かんだ。
「もう寒いから、寝よう?」
「あ、はい・・・」
返事を聞いて、思い出したように鼓動が高鳴っていった。

 実際、ベットの中は狭かった。
もともと一人用のベットだ。二人が寝るには狭すぎた。僕が美樹ちゃんに触れないように、必要以上に奥に詰めていたせいもある。普段は、自由に寝返りを打てた布団の中が、今はまるで不自由な監獄だった。身動きをしよう物なら、美樹ちゃんに触れてしまう。
「・・・・・・・」
同じ布団の中に、女の子が寝ていると思うだけで、鼓動は目一杯高鳴っていた。マラソンをやった後でも、こんなドキドキするだろうか。しかも、微かに柔らかい匂いまでする。隣に居るだけでこんなだ。美樹ちゃんにしてみれば、僕の布団は、さぞかし男臭いだろうな。耐えられなくて、寝るのやめるなんて言ったりしないだろうか。
実の所、いざこうなってみると、心地は良かったし、何よりも好きな子がすぐ横に居る。同じ布団の中に。それこそ言われでもしたらショックだ。
「寝ちゃった?」と、天井に話しかけた。横を向いたら、美樹ちゃんはこっちを見ているだろうか。
「まだです・・・」
「そう・・・」
しばらくの沈黙。
「狭くないですか?」
「あ、うん。大丈夫だよ」
正直、ほっとしながら答えた。今の状態を気遣ってさえくれている。自分の行動に後悔してたら、こんな台詞は出てこない筈だ。
それからしばらく、自分の呼吸と鼓動の音は、こんなに大きかったのかと思う時間が過ぎた。美樹ちゃんに聞こえてて、変に思われてるかもしれないとさえ思う程だ。
「・・・ちょっと聞いていいですか?」
「ん? なに?」
「…さん、怖い夢って見た事ありますか?」
「・・・うん。あるよ」
「そういう時って、どうしてます・・・」
「別に・・・目を開けて、ああ悪夢だったんだなって思えば、安心するし、それで終わりかな」
「そうですか・・・」
「美樹ちゃんだって、今まで怖い夢くらい見た事あるでしょ?」
「ありますけど・・・」
「今回のって、どういうのだったの?」
「・・・・・・・・」
聞くまいと思っていた事だったが、話の流れでつい聞いてしまった。案の定答えは無かったが、
「大切な人が・・・二度と起きなくなっちゃったんです」
「大切な人?」
僕は、布団に入ってから、初めて首を少し横に向て、横目で美樹ちゃんを見た。一瞬、こっちを見ているように思えて、すぐに視線を戻した。
大切な人・・・美樹ちゃんを夢で泣かせるほど大切な人・・・
「お父さんとかお母さんとか?」
好きな奴だとかは思いたくなかった。しばらくの沈黙の後、「うん」と一言だけ返ってきた。
頷いてくれて、正直ほっとした。黙られたら、僕に言えない奴の事になるような気がしたからだ。それがわかっただけでもう十分だった。
また沈黙が来た。一緒に布団に入ってから、話している時間より長い。でも、それでも良かった。隣に美樹ちゃんが居る。手をほんの少しでも動かせば、触れ合えるくらい近い所に。
「…さん、もう一つ・・・最後にわがまま聞いて貰えませんか? 明日から一週間、わたしが当番ずっとやりますから」
「なに?」
「手を・・・握ってて欲しいんです」
「えっ・・・」
もう鼓動の限界はとっくに迎えていると思ったが、それより上があった。
「それで、わたしが寝るまで待っていてください・・・」
「どうして?」
「駄目ですか?」
「駄目じゃないけど、ほら、僕の手、ちょっと汗ばんで・・・気持ち悪いよ?」
実際そうだったが、それを利用して、美樹ちゃんを試すつもりで言った。
「平気です」
力強い言葉だった。
「・・・・いいよ。それで良ければ」
「ありがとうございます」
僕は、腹の上に乗せていた左手をずらした。動かしすぎて、美樹ちゃんの身体に触れてしまいそうになるのを気にして、這うようにちょっとづつ左手を動かすと、柔らかい物にぶつかった。思わず息を飲んだ。
僕は腹をくくって、その柔らかい物をきゅっと握った。間違いなく美樹ちゃんの手だ。ただ僕に握られるままになっている。
信じられないくらい柔らかかった。こんな手があるんだと思うくらいに。力を入れたら、本当に壊してしまいそうだ。
「ずっと・・・こうしててください」
「・・・・うん」
多分、今日は寝られないだろう。そう思いながらも、こうして手を握っていられるなら、それでもいいと思った。手から鼓動が伝わったって構いやしない。いつか・・鼓動じゃなくて、言葉で気持ちを言える日が来たら、この手の柔らかさと温かさが、僕に勇気をくれる。そんな気がした。
「もう少し・・・お話しませんか」
沈黙も良かったが、まだ夜は長い。それもいいな。
「じゃあ、なんの話しをしようか」
「…さんの小さい時の話し、聞かせてもらえませんか?」
「よし、じゃ、それ行こうか」
僕は、握った手に少し力を入れて答えた。


Fin

作品情報

作者名 じんざ
タイトルふたりぼっち
サブタイトル
タグずっといっしょ, ずっといっしょ/ふたりぼっち, 石塚美樹, 青葉林檎
感想投稿数156
感想投稿最終日時2019年04月10日 07時03分10秒

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