空から振ってくるもので煩わしくないものと言えばなんだろう?
雪? 百歩譲って、きれいなのは認めるとしても積もると邪魔な存在だと思う。
みぞれ? あれにあたると体に鉛が溜まってゆくみたいに力を奪ってくれる。
雹? これは当たると痛いはガラスは割れるはで洒落にならない。
ケーキ? 振ってきたら車は走れないわ電車は止まるわで街はパニックだな。
キャンディ? 上に同じ。それに当たると痛そうだ。
う〜ん。
「夏の前には雨が降る、か」
祐一はベッドから身を起こして外を眺めていた。
雨を落とす雲さえなければ一年で一番強い光が得られる季節だ。空から振ってくるものの例外に漏れず煩わしい雨は、祐一を飽きさせてもなお降り続けている。
またベッドに倒れ込んだ。この時期は内に眠る動物の生体リズムが活動するなと言っているようで、学校の無い日には動く気にもなれない。
名雪といえば、普段は自然の欲求に従って睡眠を取るくせに、今日は部活だとかで家を留守にしていた。秋子さんも人に会いに行くとかで家を空けている。
祐一は自分だけでも自然に任せようと、掛け布団にくるまった。しばらく干していない布団は、おせじにも良い寝心地とは言えない。それでも、普段は学校に行くため動かざるを得ない体を休めるために瞼を閉じて深い息を付いた。
しかし、安息は長くなかった。
「祐一、祐一〜」
人間の耳は律儀なもので、言い始めから言い終わりまでの間にも音の発生元が接近したことを分からせてくれる。
最後にドアを開ける音を響かせて、動物のリズムに従わないやつが一人、祐一の部屋に飛び込んできた。
祐一は来客にごろりと背を向けて目を開けずに答える。
「んだよ、さっきの漫画はもう読み終わったのか」
祐一は安息を得るための先行投資として、3冊セットの少女漫画を与えていた。
「あんなもん、もう飽きちゃったわよ。それよりも祐一」
祐一の与えた漫画を「あんなもん」呼ばわりして彼女、真琴は祐一に一服の涼しさを、どちらかというと寒気を催す言葉を続けた。
「肉まん食べたい」
「ふざけるな」
思考が判断を下す前に却下の言葉が口をついて出た。この蒸し蒸しじめじめした季節に売っても商売が成り立たなそうな食べ物の上位にランキングされるものだろう。
「ねー、ねー」
真琴は祐一のベッドに乗り上がり、祐一の体を揺らした。
「1:コンビニに肉まんは売っていない。
2:俺はコンビニに行きたくない。
3:俺は肉まんを食いたくない。
以上、反論終わり」
「うそつきぃ」
真琴は背を向けたままの祐一をかるく叩いた。祐一はごろりと仰向けに転がり、それから体を起こした。
「うそつきって何だよ」
「祐一が嘘付いてるから。うそつきでしょうがないでしょ」
祐一は不可解な表情を示した。その表情に真琴は一層語気を強めて、
「コンビニで肉まんが買えなくなったとき、祐一は『夏になれば冷やして食うモンだからしばらく我慢しろ』って言ったじゃない!」
「あぁ、あれは」
(記憶にないけど出任せだよ)
祐一は、後の方を濁した。
「だから、せっかく冷やしたのを買ってきたのに」
「はぁ?」
「おとといお使いに行ったときに、冷たい肉まんを買ってきたの!」
そう言えば、おととい真琴は祐一に言いくるめられて雨の中お使いに行っていた。
「それで?」
「お部屋で食べてみたけど、おいしくなかったから半分しか食べれなかった。
でも祐一は食べ方知ってるんでしょ? 教えて教えて」
真琴に肩を揺らされながら、祐一は昼ご飯の後でアイスを探すために開いた冷凍庫の中身を思い出した。
……肉まんを見かけた記憶は無い。
「おまえ、その肉まんの残りどうした?」
「お部屋にある」
真琴は話が進んだと思ったのか嬉しそうに応えた。
「ちょっと待て」
祐一は嫌な予感を振り払おうと少し間をおいた。
その祐一を真琴は期待のこもった視線で見つめている。
「冷凍食品じゃなかったんだな、それは」
冷凍食品でなければ、常温でも大丈夫な可能性がある。
しかし、真琴の言葉が細い望みの綱をいとも簡単に切り落とした。
「よくわかんないけど凍ってたよ」
祐一は、出来ることなら布団に潜り込みたい衝動におそわれた。が、真琴に肩を押さえられているので思いとどまった。
目だけは意志に従って遠くを眺める。
「どうしたの、どうしたの祐一?」
真琴に顔をのぞき込まれても、祐一はしばらく動かなかった。
「あ、あ、……」
それが「あのなぁ」という単語をようやく形成する頃、祐一の体に力が戻り始めてきた。
「……とりあえずおまえの部屋に行こうか」
祐一の最後まで肩に力の入らない言葉を聞くと、真琴は
「やったー」
と祐一の腕をぐいぐい引っ張った。
「にっくまん、にっくまん」
どうも、頭の中で肉まんがぐるぐる回っているらしい真琴には何かを察することは無理なようだった。
「開ける前に一つ聞くぞ」
「なに?」
祐一は大きく息を吸い込んだ。
「凍ってる肉まんをどうやって食べたんだ?」
「そのまま」
吸った息に利子を付けるほど、祐一は大きく息を吐いた。
「食べ方が分からなかったから堅くて大変だった」
そう聞かされても、もう祐一に吐く息は残されていなかった。
祐一は覚悟を決めて、引き出しに手をかけ、一気に開いた。
中で充満した肉まんとおぼしきにおいが部屋の中に解き放たれる。
祐一はそのにおいの元であると明白な<中華風肉まん>というひねりのない文字が書かれたアルミフィルムの袋を手にとって、中からプラスチックのトレイを引き出した。水が下の方に固まっている白いまん丸なもの3個、中から餡がのぞいているものが一つ姿を現し、一層においが強くなった。
「思ったほどひどくはないな」
とは言うものの、かつて肉まんであったものにも目を凝らすとどれにも黒い点々が付いていた。青白いものがついているものもある。
この季節に活動が活発になる生き物たちだ。
「で、どうやって食べるの?」
真琴は待ちきれないというふうに祐一の袖を引っ張った。しかし、祐一はきっぱりと言い放った。
「全部、食べるのは無理だ」
「そりゃあこんな大きいの一人で全部食べなくて、祐一にも分けてあげるわよ」
真琴はちょっと不機嫌な声で言った。
「そうじゃなくて、全部捨てろ、今すぐに」
「ええ〜っ!!」
祐一は耳をふさぎたくなるような真琴の叫び声を聞いた。
あいにく、肉まんを放り出さないことには耳をふさぐことが出来ず、その声をまるまる聞く羽目になった。
「うっせぇな、近所迷惑だろ」
「祐一がうそつきだからでしょ、うそつきうそつきうそつきうそつきぃ!!」
真琴は祐一の背中をポカポカ叩いた。
「もう食えないんだよ。時期が時期だしな。特に食べかけのこれ、これは絶対に食えない」
「じゃあ他のは食べれるんでしょ」
「他のも見てみろ、ここにこんなふうにカビが生えてるだろ」
祐一は真琴にトレイを近づけてみせた。真琴はしばらく眺めると、
「だったら、これを取っちゃったら良いんでしょ」
祐一は心のどこかに(確かに、カビさえ取ってしまえば良いかも知れない)という気持ちが有ったため、強く否定はしなかった。
「ね、ね、食べて良いんでしょ。そうしたら食べれるんだよね」
真琴の攻勢は激しくなっていった。
祐一はカビの面積を目で計算していた。表面を全部取り払えば何とかなりそうだ。
祐一のまんざらでもない表情を見て真琴は祐一から肉まんを奪おうとした。祐一はそれをかわしながらアルミフィルムに書かれている「調理方法」を読み始めた。
蒸し器で蒸す、のは熱いから電子レンジで調理しよう。熱を加えればきっと大丈夫に違いない。
真琴からさんざんうそつき呼ばわりされただけに、祐一の意地もあった。
「よし真琴、食べても後悔はするなよ」
「肉まんの辞書に後悔は無いわよ」
飛び跳ねんばかりに真琴は祐一の前でガッツポーズをした。一抹の不安のある祐一は複雑な顔をした。
「今日の所は熱いので良いよな」
キッチンに着いた祐一は確認した。「肉まんなら何でも良い」という表情をする真琴はただ期待のこもった目をして頷いた。
祐一は丹念に肉まんから紙をはがし、それから表面の皮を剥いだ。数分後に何事もなかったように白い肉まんが皿の上に並べられた。
念のため入れる水の代わりに日本酒を注ぎ、皿を電子レンジに入れる。
「5分待てよ」
祐一が言うまでもなく真琴はお預けの姿勢で電子レンジの前にかじりつき、中で回る肉まんを見つめていた。
真琴にとっては長い時間だったのだろう、レンジの中の明かりが消えるとすぐに真琴は皿を取りだした。肉まんと言って差し支えのないかおりがキッチンに満たされた。
テーブルに持っていくのももどかしそうに肉まんに手を伸ばす真琴を祐一が遮った。
「何よ?」
「おまえ、絶対に後悔しないな」
「しつこいわね」
返事が終わる前に真琴は肉まんを口に運んだ。
「んん〜っ! 肉まんだぁ〜!!」
一口食べた真琴は感激の声をあげた。
味に不満はないようだった。祐一はそれが、味覚を忘れかけただけということで無いことを心の中で祈った。
「なんとも、無いよな」
「欲しくてもあげないよーだ」
真琴は早くも2つ目を手にしていた。
「食べるの早いな」
「だって、久しぶりだし」
真琴はここで口の中の肉まんを飲み下した。
「中の方はそんなに熱くないもんね」
「えっ!?」
「ちょうど食べ頃でおいしいよ〜」
そう言いながら真琴の手は最後の肉まんにのびた。
祐一は黙ってその肉まんが消えてゆく様子を眺めていた。
「さて、肉まんも食べたことだし漫画、漫画っと」
真琴は満足の笑顔を浮かべてテーブルを立った。
「漫画って、さっき飽きたんじゃなかったのか?」
「肉まん食べたら読もうって決めてたんだから、ちょっとそこどいてね」
真琴は祐一を押しのけるとのびをしながらリビングを出ていった。
真琴が階段を登る音を聞きながら、祐一は証拠隠滅のための皿洗いを始めた。
「あら、良いかおりがしますね」
すべてを生ゴミ入れに放り込み終わった祐一は秋子さんの声を聞いた。
「おやつですか?」
「ええ、まぁ」と曖昧に応えながら祐一は秋子さんを見た。
「私も着替えたら夕ご飯の支度をしないと。期待していてくださいね」
秋子さんは頬に手を当てた。
「お友達からおいしいピロシキの作り方を教わってきましたから」
「えっ?」
「ピロシキです、ロシアの……」
「それは知っていますけど、そうなんですか」
「嫌いなんですか?」
「違います違います。……あ、そうですか、楽しみにしてます」
祐一はリビングを辞すると真琴の部屋に急いだ。
「真琴、よく聞け」
勢いよくドアを開けて言ったものの、真琴の返事はなかった。真琴の姿を探すと、足下で横たわっているのを見つけた。
「おい、どうした! 真琴」
返事はない。
祐一が真琴の頭に目を移すと、漫画に釘付けになっているだけということに気づいた。躊躇せず漫画を取り上げた。
「あっ!」
それまで祐一の存在にすら気づかなかったらしく、真琴はビクッと肩をふるわせた。
「返してよ! あたしの漫画」
「俺の話を聞いてなかっただろ」
「聞くから返してよ」
祐一はは漫画を背中に隠した。
「聞いてからだ」
「あぅ〜」
頃合いを見計らって祐一は話を始めた。
「あのな、今日の夕ご飯はピロシキだ」
「ピロシキ? なんだったっけ?」
「ロシアっていう寒い国に伝わる揚げた肉まんだ。本当は寒い国だけに冷やして食うのが本場らしいけど今日は熱々のものらしい」
「ホント? それが食べれるの?」
目を輝かせる真琴に、話のどうでもよい一部は本当ではなかったことを割愛して、祐一は頷いた。
「さっき無理して肉まん食うことなかったってことだ」
「言ったでしょ、後悔しないって」
祐一は真琴に漫画を返しながら、
「まあな」
と答えた。漫画を受け取った真琴は、
「でも……」
と言いながら、片手でおなかを押さえた。
「さっきからおなかが変」
「……!?
馬鹿っ! なんでさっきそう言わなかったんだよ!」
顔色を変えた祐一が叫んだ。
「だって、漫画読んでたら忘ちゃったのよ!」
「じゃあ漫画読んでもう一度忘れろ」
「そんなこと言ったって出来ないわよ」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ
沈黙が訪れた二人の間に、不吉な音が聞こえた。
「駄目……かも」
「そうみたいだな」
真琴がほんのわずかな野生すら残していないことを完全に理解した。
「後悔はしないんだろ」
そう言いながら祐一は真琴を伴って階段を下りた。
秋子さんの鼻歌が聞こえる廊下を短い歩幅で歩かせ、いつもの3倍の時間を掛けてトイレの入口にたどり着くと、祐一は力を込めて真琴を中に押し込んだ。
トイレの前で待つのもあまり気分のいいものではないので、浩一は居間の扉を開けた。
「あら? ご飯はまだですよ?」
鼻歌を止めた秋子さんの声がキッチンの方から届いた。
「はぁ、そうなんですか」
ちぐはぐな言葉を返して、祐一はキッチンのカウンターの前に立った。
「どうしたんですか?」
そわそわとした祐一の気づいたのか、秋子さんはボールとへらを手にしながら振り向いた。
祐一は何となく秋子さんから目をそらして
「い、いや、真琴がおなかを壊したみたいで」
「具合は悪そうなんですか」
秋子さんはへらを左手に抱えたボールにさし、右手をあごに当てて上を向く表情をした。
「後で水でも飲ましときゃ大丈夫でしょう」
「あんまり油断してはいけませんよ、そうですねぇ……」
秋子さんはそのまましばらく考えた表情をしてから
「あとで、良く効くお料理を作ってあげましょうね」
と云い、いつもの笑顔を浮かべた。
「ゆ〜う〜い〜ち〜」
閉めなかった居間のドアから真琴が入ってきていた。
前にかがんだ姿勢をしているせいもあるだろうが、全体的に小さく見え、顔はどことなくやつれた姿は数十分前とはまるで変わっている。
「やったな、真琴。ダイエット成功おめでとう」
「ゆ〜いち〜、あとでおぼえておきなさいよぉ」
弱々しい声でそういうと、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
「祐一さん、病人をいじめちゃいけませんよ」
キッチンから出てきた秋子さんが慣れた手つきで真琴を介抱してソファーに連れていった。
「あう〜っ、おなかの中で肉まんがぐるぐる回ってるぅぅぅう」
タオルケットを掛けられたおなかをさすって真琴がうめく。
「そんなに肉まんが食べたいんですね」
微笑ましいものを見るように傍らで秋子さん。
事情を知らないのは幸せなのかも知れない。
祐一は隠れて小さな咳払いをした。
「もうちょっとだから、待っててね」
あうあうと、うなっている真琴の頭に軽く手を乗せて秋子さんが立ち上がった。
もうちょっともなにも、真琴が何も食べられる状況にあるとは祐一には考えにくい。
「もうちょっとって、あの?」
「ええ、あとは包むだけですから」
祐一の方にいつも通りの柔らかな笑顔が向けられる。
マジだ。この人は本気で真琴にピロシキを食べさせようとしている。
祐一は病人をいたわる言葉を自然にかけられる、この人と同じ屋根の下で暮らしていることに感謝した。
「たっだいまぁ〜」
玄関を開けてまっすぐリビングへ向かう足音は名雪のものだった。
「おかえり」
ソファーの横で俺が声を掛けると同時に、キッチンからカウンター越しに、
「おかえりなさい」
という声が届く。
「ただいま」
もう一度そう言って、名雪がリビングを見渡すとソファーの上のものに気づいたらしく、側に来てのぞき込んだ。
「あれ? どうしたの?」
「話せば長くなるんだけどな」
名雪はうんうんとうなずいた。
「真琴がここで寝てる」
名雪はふーん、と納得したようだ。って
「突っこめよ!」
ベチ。
「うー」
デコピンを食らった所をさすって名雪がうめく。
「あぅー」
その声につられるように、真琴がうめき声をあげた。
「どーも、腹をこわして療養中。だよな、真琴」
名雪が帰ってくるまで、何度かトイレに連れてゆくのは祐一の仕事だった。
真琴は重くはないが疲れた。それをにじみ出すような声をしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫だろ、たぶん」
真琴の代わりに無責任な言葉を返した。トイレに行く間隔もだいぶ長くなってきているしな。
「そっか、お大事にね」
名雪は顔を上げてキッチンを向いた。
「おかーさーん、今日のご飯はなに?」
「ピロシキよー」
こちらを向かないで言った声がした。
「え、珍しい」
名雪はそのままキッチンへと歩いていった。
「わー、こんなに作ったんだ」
「そうよ、あとは揚げるだけ」
腹をこわしている人間を見たあとにも食欲は衰えない、さすがだな。そう思いながら祐一は気づいた、自分も空腹だということに。
「あれ? こっちのフライパンはなに?」
キッチンの方からまだ会話が聞こえてくる。
「ピロシキの具よ。ちょっと作り過ぎちゃったようね」
「どうするの、これ?」
「困ったわねぇ」
へぇ、秋子さんもうっかりとそういうことがあるんだ。やっぱり教えられたばかりのレシピだからしょうがないのかな。そう思いながらさらにキッチンの会話を聴いた。
「じゃあ私がなにか作ってみるよ」
「そう? お願いできる?」
それから油の音が部屋に響いて、会話を聞き取ることが出来なくなった。
「できましたよ、祐一さん」
テーブルの上には大きなボールに盛られたサラダと、かすかに湯気を立てているピロシキの山が並べられていた。
例によって祐一は食器棚から皿を出す。名雪はキッチンでまだフライパンと格闘していた。
「名雪、後回しだ」
「でも油がまわっちゃうよぉ」
「後だ。俺は腹が減っている」
「うー」
名雪は仕方なしという表情で祐一に従ってきた。
「さて、いただきましょうか」
テーブルに着いていた秋子さんが軽くお辞儀をするような仕草をして食事を開始した。
「いただきます」
「いただきまーす」
二人もピロシキの山に手を伸ばした。
きつね色の表面をふかふかの生地が包み、中からは挽肉とニンジン、タマネギでできた具が生地の香りと混じり合って食欲を刺激する。
味はもちろん、言うまでもなく香りに負けない。
「うん、おいしいよ」
名雪が半分食べたところでそう言ったとき、祐一は次のピロシキに手を伸ばしていた。
「わ、祐一。早いよ」
その言葉に応えず、無言で次のピロシキをほおばる。
秋子さんは相変わらずのマイペースで、何故かお箸を使いながらゆっくりとピロシキを口に運んでいた。
「だけど、真琴はこれ食べられなくて残念だね」
ピロシキを一つ食べ終えた名雪がそう口にした。その時まで真琴がソファーで横になっていたことが頭から消えていた。
秋子さんは「そうそう」と言いながら、ピロシキの山から二つ使っていない皿に取った。
「真琴ちゃんには特別に作ったこれをあげなきゃ」
秋子さんがその皿を真琴の元へと運んで行った後ろで、祐一と名雪は顔を見合わせた。
「ピロシキなんて食えるのか?」
「さぁ?」
名雪はあいまいな顔で答えた。
「わぁ、おいしーぃ」
テーブルにいる二人の心配を覆すような声がリビングからする。
秋子さんの安心したような声がその後に付いてくる。そして最後にテーブルにたどり着いた物は。
「!!」
3個目に突入しようとしていた祐一の手が止まった。名雪はピロシキに伸ばした手をそのままサラダボールへと向ける。
かすかなこの臭……いや、香気。あ、やっぱり臭気、でも香気か。
忘れもしないこの香り、しかも熱が加えられて香りが400%活性化(当社比)している。
この中には……
「もしかしてジャムが」
「ええ、ピロシキってパンの生地ですから合うかもしれないと思いまして」
だから具が余ったのか……。
「参考までに訊きますが」
「はい」
「ジャム入りピロシキは何個位作ったんですか?」
「確か4つです」
相変わらずさらりとした口調でそう答える。
と言うことはこの山にはあと二つの毒ぶ……いや変わりピロシキが。
実際、祐一の皿の上にある3個目のピロシキでさえ容疑(?)がかかっている。
(おい名雪、さっき秋子さんが選んだやつってなんか他と違ってたか?)
(そんな特徴なんておぼえてないよー)
祐一はピロシキの横にサラダをよそった。
(どうする、祐一?)
(どうするったって、自衛手段しかないだろ)
「二人で何のお話ですか?」
「い、いえ。名雪の料理はどうしたのかなって話です。そうだよな、名雪」
「うん。じゃ、じゃあ今から持ってくるね」
笑顔を作るのがだいぶ遅れたまま、名雪は席を立っていった。それと入れ替わるように真琴がテーブルに来る。
「ねー、ピロシキもっと食べたい」
そ、即効性。
キッチンに目をやると名雪が一瞬固まったのが分かる。あのジャムを口にして生還するとは奇跡なのだから当然か。
しかも腹痛まで克服するとは、毒を食らわば皿……じゃなくて毒をもって毒を制す、か……
「秋子さん……」
真琴をなだめながら祐一は秋子さんに向き直った
「あのジャムは一体なんなんです?」
「そうですね」
秋子さんはゆっくりとした動作で頬に手を当てる。
「やっぱり、秘密です」
「秘密って……」
「しつこいわよ、祐一」
もどかしそうに真琴が横から口を挟む。
「女の子には秘密の一つや二つあって当然でしょ」
そう言って秋子さんを向いて「ねー」と同意を求めた。秋子さんも笑顔で同意する。一つや二つじゃないだろ、とは言えるはずもなく祐一は黙った。
ちなみにこのセリフ、祐一がさっき貸したマンガにも同様のものがあるはずだ。
「それよりも、ピロシキピロシキっと」
祐一は立ったままでピロシキに手を伸ばす真琴の手首をつかもうとしたが、途中でやめた。
真琴の動作が素早かったこともあるが、危険因子を真琴が処理してくれれば祐一の危険は減るということが大きい。
ここは真琴の行動で生じる可能性に賭ける事にしておいた。
座ろうともしない真琴を後目に祐一はサラダを食べる。皿にピロシキを残したままで。
「お待たせ〜、名雪印の特製料理だよ〜」
名雪がトマトとキャベツをさっきの具と合わせて炒めた料理を運んできた。
ようやくボリュームのある料理にありつけるという喜びで祐一の反応は一瞬遅れた。
「ちょっと待て」
名雪は「なに?」という顔で祐一を見た。
「その語感、なんか悪いからやめてくれ」
「えー、だってわたしが作ったから名雪印でしょ」
それはそうだが、なんとなく納得がいかない気分を抑えて祐一は名雪の料理を皿に盛った。やはり、原料がブラックボックスの中にない料理は安心できる。
多少油が多い気がしたが、濃いめの下味を和らげてちょうど良い味に仕上がっていた。
「美味いよ、さすがなゆちゃん印」
名雪が笑顔になった。やはり自分の料理を誉められるのは嬉しいらしい。
「どういたしまして」
その笑顔のまま名雪は自分でも料理を食べはじめた。
なゆちゃん印に関してはなんにも触れないのは実はどうでも良かったんだと理解した。
「うん、よかった」
名雪自身にも納得のいく出来のようだ。
「ピロシキはもういいの? ふたりとも」
秋子さんが疑問に思うのも無理はない。あれから祐一と名雪は名雪印の料理とサラダばかり食べて、ピロシキには手を付けていない。
もっとも、祐一の皿には一つ残ったままなのだが
「ええ、あの……」
祐一は言葉を濁して真琴の耳元で小声になった。
(真琴、お前いくつピロシキ食った?)
(え、と……5個くらい)
おいおい……と呆れながらもさらに訊ねる。
(で、中が肉なのは?)
(全部肉だったわよ)
祐一の表情が凍り付いた。
その表情を名雪も察したらしく必死で表情の維持につとめているようだった。つまり危険は増したってことか。
「わ、わたしは……」
名雪が場を取り繕うとするのを察して祐一が口を開いた。
「食べたがってた真琴に思う存分食べてもらいたくて。な、真琴」
真琴の髪の結び目あたりを叩いた。
「たまには良いこと言うじゃない。祐一」
真琴の笑顔に秋子さんも納得してくれたらしい。
「だからね、たーくさん食べておいてね」
名雪も堅い笑顔で追う。言われなくとも真琴のピッチは衰えることが無い。
祐一と名雪は頬の痙攣を抑えた顔を見合わせた。そのまま、無言で食事を再開した。
「う〜苦しい」
ピロシキ11個を平らげたら、こう唸りながらソファーに転がるのは当然と言える。
が、
「う〜なんだか変」
名雪も床に座りながらおなかを押さえている。実は祐一も具合が良くない。
「何でだ?」
名雪は「分からない」と言って首を振った。さっきから何度か繰り返したことだ。
秋子さんは何食わぬ顔で洗い物を片づけている。
となると疑われるのは当然名雪の料理だ。あの料理はピロシキの具を再利用したのだからそれに関しては白と言える。
「キャベツもトマトも昨日買ってきたばかりなのに……」
これは何か傷んだ物を食べた時の違和感とはかなり違う。
「あのな、名雪」
名雪は重々しい動作で祐一を向いた。
「やはり名雪印の称号をやろう」
うー、と先細りの声を上げながら名雪は床にうずくまった。
「名雪、なゆき〜」
キッチンの方から秋子さんの声がする。祐一と名雪が精一杯の力でそちらを向くと、ガラス瓶を手にした秋子さんが居た。
「これ使ったの、名雪でしょう」
「あ、ごめん。使っちゃ駄目だった?」
「そうじゃなくて、こんなに使って大丈夫?」
少なくとも祐一と名雪は大丈夫ではない。あの瓶は一体……
「大豆油が切れてたみたいだから、そっちを使ったんだけど」
名雪はそこまで言うのが限界のようだった。
「オリーブオイルって、急にたくさん食べたら体に合わない人も出ることもあるらしいのよ。大丈夫かしら」
……いえ、大丈夫じゃありません……
祐一はそう答える代わりに床にうずくまった。
「あら、具合がよろしくないようですね。そういうときには」
秋子さんが一枚の皿を手にしているのが分かった。
祐一が使っていた皿だ。その上には一つピロシキが残されている。祐一はそれを……
その後の記憶が祐一にも名雪にも残されていないのが残念である。
後書き
まさか、あの駄文がKtouthさんがまだお持ちだとは思わなかったので、この文章は自分の中で無かったこととして処理されていました。
でもって、酔狂のついでに書き加えた部分がいささかありますが、これは「あの事件」の頃ですね(^^;
(タイムスタンプをお見せできないのが残念です)
この部分も出来が「ぷ〜」なので封印していたのですが、まさかのまさかでKtouthさんが公開なさってしまったので、後悔しつつも「ちょっとはマシかもしれない」こちらと差し替えてもらうことにしました。(しかしつまんねぇギャグだな)
最近は、こういうことにまた少しご無沙汰でしたが、その間に懸賞小説に鼻も引っかけられずに落ちるなんかして割と鬱でした。コミケに落ちたのは嬉しかったんですけどね。(ちなみに2日目で応募しました)
このレベルじゃどーしょーも無いと言うことが嫌と言うほど身にしみたので、しばらく修行して出直して参ります。
とか言いつつ、コミケに行ったら行ったで何か書きたくなる衝動に駆られる可能性大なので、何か書いていたら温かい目で見てやってください。
コミケに寝過ごしたらどうなるかは知りません(ぉぃ
でも、夏休みになってから東京までの定期券が宝の持ち腐れ状態になっているので行かないと勿体ない。
が、眠い
う〜む
実はやらなければならない試験勉強の現実逃避をしていた雅明でした。
逃避ついでに今年もネットワークスペシャリストは逃げます。いつになったら受けるんだ>俺
補足説明:オリーブオイルは誰もが当たるわけではなくて、慣れないと体が受け入れないことがあるだけです。昔、眉毛の長い一国の首相がナポリサミットでこれで大失態を演じたことがありましたね。
作品情報
作者名 | 雅昭 |
---|---|
タイトル | Moist Air |
サブタイトル | |
タグ | Kanon, 美坂香里, 倉田佐祐理, 川澄舞, 相沢祐一, 水瀬名雪, 北川, 他 |
感想投稿数 | 39 |
感想投稿最終日時 | 2019年04月10日 08時44分10秒 |
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- [★★★★★★] 恐るべしなぞジャム!!しかし、真琴…あれを食っても平気とは…やはり野生のなせる業!?
- [★★★★★★] 単純に面白かった。
- [★★★★★☆] 秋子さんがいい味だしてますね。
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