「ですから、仮定法はここではwouldがthat以下を……」
窓からさし込む光が絨毯にコントラストを作り、レースのカーテン越しには青空と雲がくっきりと境界を主張する夏の午後。
俺の意識は佐祐理さんの子守歌でこちら側と向こう側の境界線をさまよっていた。
「そうして、意味は……祐一さん?」
紙の上に文字がにじみ出して、一つになって行くようだ。これできっと心の中に染み渡ってきているに違いない。
なんだかゆらゆら揺れていい気分にもなってきた。
しかし、急に俺の頬に硬く冷たいものが押し当てられると、文字は紙の上に整列を始め、俺は机の前という世界に引き戻される。
「祐一さん、ちょっと疲れましたか?」
氷が溶けかけたグラスを手にした佐祐理さんが机の横で少しむくれていた。
「あ、大丈夫です、はい、はい」
あわてて取り繕うように佐祐理さんから目をそらす。
見ると、俺の正面に座る舞もどうやら意識の綱渡りをしている最中のようだった。
「ほら、舞も」
佐祐理さんは舞の額にグラスを押し当てた。舞は目をこすりながら
「眠たい」
とつぶやいて2倍の重力を感じているように体を起こした。
「今日の目標までもう少しだから、舞ももう少し聞いててね」
「そうだぞ、せっかく佐祐理さんが教えてくれてるのに」
「祐一だって、寝てた」
俺は舞の反撃を受け流そうと窓の外を見やった。
隣家の窓のさんやどこか遠くの家の屋根がこの部屋をめがけて光を反射し、レースの隙間から俺の目に光を注いだ。
夏も半ばを過ぎたとはいえ、まだ決して弱まってはいないようだ。
「それにしても」
佐祐理さんはため息をつくように言った。
「舞も祐一さんと一緒になら、はかどると思ったんですけど」
舞は反論できずに小さくなっていた。
まぁ、舞は夜型だから昼に勉強するのは効率が悪いのかもしれない。
「はかどってないのか。なら俺は再来年には舞の先輩だな」
難なく内部進学できた佐祐理さんとは逆に、ここでむくれている舞は内申でいい事を書かれるはずもなく、成績と相まって今年の夏は受験生をする羽目になっている。もちろん、俺もうかうかしていると明日は我が身に降りかかってくるのは言うまでもない。
だからこうして佐祐理さんの家で勉強会を開いてもらっているのだ。
「祐一さん、舞をいじめちゃ駄目ですよ」
佐祐理さんは笑顔で俺をたしなめると、羽織っている水色のチェックが入ったシャツの袖をふわりと揺らして立ち上がった。
俺の目の前で濃い茶色の生地にエスニック柄のロングスカートをなびかせて窓の前に立ち、薄いレースのカーテンを開け放つ。
ガラスを一枚隔てた向こうには夏。
佐祐理さんの手のひらの数ミリ向こうは夏があるはずだった。
佐祐理さんもそれを感じたのか、夏を呼び込むように窓を開いた。
クーラーで作られた空気が、蝉の声と共に押し寄せる夏の空気と混ざり合う。
気分転換のため佐祐理さんがそうしたのならこれは失敗で、部屋の中に居住に適さない中途半端な空気を作って完全に勉強する環境ではなくなった。
舞はこの空気を吸う度に体にかかる重力が増していくと見えて、テーブルにポニーテールの髪が沈み込むまでものの1分とかからなかった。
窓の向こうから視線を戻した佐祐理さんがそれに気づくと俺にいたずらがばれた子供のような照れ笑いをした。
「やっぱり、今日はお天気が良いですから外に行きましょうか」
「そうですね、舞ももう勉強に飽きたみたいですし」
俺は心の中で少しだけ、実は佐祐理さんも勉強を切り上げたかったらしい、と思いながら、そう責任をなすりつけておいた。それを聞いて舞はむくりと顔をあげぼそっと言った。
「祐一だって、さっきから外ばかり気にしてた」
俺は「バレてたか」という言葉を顔に出さずに口の中に押しとどめた。
佐祐理さんは、俺達に異存は無いと理解したらしくと窓から手を離した。
「じゃあ、部屋で着替えてきますからちょっと待っててくださいね」
静かにドアの前まで歩いていくと、佐祐理さんはこちらを振りかえってドアを閉める。パタパタと階段を上る音がクーラーの音の向こうで聞こえ、頭の上でドアの閉まる音が鳴った。
「あの恰好で外に出ても良いと思うんだけどな」
俺は舞に同意を求めるように言った。
水色のタンクトップと濃い色のジーンズの服装をしている舞は、目を何度か動かしてから、
「わからない」
ぶっきらぼうに聞こえる口調で答えた。
だからといって、最近の舞は昔のように服装なんて一切興味の範囲外という訳ではなくなっている。
制服を着られなくなったという必要に迫られたこともあるため、佐祐理さんの指導で何着かの私服を選ぶようになってきていた。佐祐理さんの服装の話に少しでも考える仕草を見せるようになったのは舞が変わってきた証拠かも知れない。
再びドアの閉まる音がして、佐祐理さんが現れた。
淡いピンクの長袖ブラウスに薄い紺のパンツでさっきより動きやすそうだった。
「それじゃあ行きましょうか」
佐祐理さんの左手に握られた黄色い取っ手にぶら下がる真っ赤なプラスチック製のバケツがからからと音を立てた。
ガードレールが途切れると道幅が急にせばまった。
時折追い越してゆく車のために、背丈よりも高い夏草の根本を踏みしめなければならなかった。
後ろ手にバケツを持つ佐祐理さんを先頭にしてもう15分くらい歩いただろうか。
自分自身がこの街を歩く際に目印としている『ものみの山』の向こう側、つまり街の反対側に向かって歩いていた。
三方の視界はずっと遠くで『ものみの山』より高い山で遮られている。ゆるやかな登りは俺達とすれ違うように農業用水を流し、その水が道の両脇に段を作りながら広がる畑との境界線を成していた。
縁に錆が浮いている殺虫剤の広告が貼られた木造の小屋を縁取るようなカーブを曲がると、上り坂が一段落し、道の右側がなだらかな地面を利用した畑になっていた。俺の背丈では畑の向こうが見えず、ともすればずっと向こうの山にまで広がっているのかも知れないと思わせるようなトウモロコシの畑だった。
実際、かなり広そうだ。
「やっと到着です」
佐祐理さんはそう言って、白いリボンのかかった麦わら帽子を脱いで襟元を扇いだ。
部屋にいたときとは逆に、舞は涼しい顔をして目の前のトウモロコシのてっぺんを眺めていた。
やっぱりこいつは基礎体力が違うんだろう。
「それで、これからどうするんですか」
俺の言葉を待っていたように、佐祐理さんは麦わら帽子をかぶり直し、ニコニコしながらバケツを示した。
「こんなものを持ってきてみました」
バケツから取り出したものは紫や緑の透明なプラスチックで作られた水鉄砲だった。
佐祐理さんは水鉄砲を手にして、スカスカと空気を撃つ音を鳴らした。
「水鉄砲……ですか?」
俺は怪訝な顔をした、と思う。
舞はともかく、佐祐理さんは大学生。子供のおもちゃのようなバケツを持ってきた時からその意図を計りかねていた俺にとっては、少し、いやかなり意外だった。
第一、人通りは少ないとはいえ、そんなところはあまり見られたいものではない。
「あははははっ、いや、ですよね」
佐祐理さんは笑顔だった。
「こんな歳になってこんなこと、嫌ですよね。ええ、冗談です」
見透かされていたことと、それを承知で水鉄砲を持ってきた佐祐理さんに、俺は何も言えなかった。……が。
「やる」
すでに舞は佐祐理さんの持つバケツから水鉄砲を取り出していた。
結局、佐祐理さんが緑で舞が紫、俺が黄色の水鉄砲を持つことになった。
さっきの小屋の脇にあった水道から、佐祐理さんがバケツに水を汲んでくる。
「じゃあ、はじめましょう」
「ちょっと待った」
急に弾んだ佐祐理さんの声をさえぎって尋ねる。
「この畑、勝手に使っていいんですか?」
「はい、ここは佐祐理の叔父さんの畑ですから」
だから良いのか? そう考えこもうとした俺に佐祐理さんの水鉄砲が向いた。
「あはははっ、祐一さんスキ有り」
急に視界がにじんだかと思うと、俺の頬から顎にかけて滴が落ちた。
「あっ、ずるい!」
反射的に反撃にうつろうとしたが、なにぶんこちらの水鉄砲は空である。
「汲みに行ったとき、水を入れてきちゃいました」
笑い声を挙げながらなおも2,3回俺に攻撃を仕掛けてくる。それも甘んじて受けなくてはならなかった。
俺は、ほうほうのていで体勢を立て直し、水の入った赤いバケツに向かおうとした。
「祐一さん、待っててあげますよ」
今さら待つもへったくれも無いだろう……そう思いながらバケツにたどり着いた俺に、舞が正面から引き金を引いた。
「あっ!」
思わず俺は叫び声をあげてしまう。
攻撃した当の本人は「なるほど、こうしたら水が出るんだ」という顔をしながら被害者の俺と水鉄砲を見比べ、納得がいったのか俺に向かって確認するように、さらに2回引き金を引いた。
「……だからな、舞。俺は丸腰なんだから撃つなって」
「駄目?」
「俺が水を入れるまで待ってろ」
舞は理解したのか水鉄砲に視線を落とし、おもむろに佐祐理さん目がけて水を放った。
「きゃあ、舞、やったな」
俺の背後で佐祐理さんの嬉しそうな声がしたかと思うと俺のシャツが濡れる感触を感じた。流れ弾ならぬ流れ水らしい。
舞と佐祐理さんの応酬は、俺が一方的な被害を被ったまま水を入れ終わるまで続いた。
俺は立ち上がりざまに舞を撃つ。
勘が鈍っていたのか、飛び道具には働かないのか、舞の背中でおどっていたタンクトップの布地がへばりついた。
無言でタンクトップを剥がす舞を見ると、佐祐理さんは
「あっ大変、祐一さんが撃ってきちゃう」
相変わらずの笑い声で言うと、麦わら帽子を脱いで左手に抱えながらいつもは見せない機敏な動作でトウモロコシ畑の中に飛び込んで俺の視界から消える。
それを追うように舞も一度振り向いてこちらを撃ってから走り出し、畑の中に入っていった。
前哨戦は俺の完敗のようだった。
山から下る風が畑に波を起こし、葉と葉のこすれ合う音をあちらこちらで立てた。
風が止むと日差しが俺の髪を焦げた色をしたトウモロコシの穂の様にしてしまうかのように照りつけた。
俺は2本目と3本目のヤブの間に足を踏み入れた。
まっすぐに伸びた壁に挟まれた道の先には誰もいなかった。
この畑のどこかで舞と佐祐理さんが撃ち合っている気配もしない。2人とも相手を捜しているのか、気配を感じないほど遠くにいるのかどちらかなのだろう。
前に進んでみた。
時折吹く風が俺の気配を消してくれているように思えた。少なくともシャツが葉に触れる音は、目立つ音にはなっていないはずだ。
そこに突然。
トウモロコシの茎の影が火を吹いた。いや、吹いたのは水だ。
気配を消した気分になっていたのは気のせいで、俺はまんまと待ち伏せにあっていることに気づいた。
「やりやがったな」
今度はやられるばかりで終わらせるかと俺も反撃を繰り出したが、それは厚い茎と葉の壁に阻まれてしまい、戦果があるのかどうかは疑わしかった。
これでは埒があかないと俺はヤブを一つ飛び越えた。
俺が目にしたのは、少し離れたところでヤブを飛び越えようとしている佐祐理さんの後ろ姿だった。
水鉄砲が届く距離ではないので撃つことをあきらめ、追うことにする。
意外なほど佐祐理さんは速く走った。それに負けじと俺も走り、幾度か佐祐理さんの後に続いてヤブを乗り越えた。
何度目かヤブを乗り越えたとき、俺は佐祐理さんの姿を急に見失っていた。
用心しながら両脇のヤブから首だけを出して眺めても佐祐理さんの姿は無かった。俺はまんまとフェイントにはまってしまったようだ。
佐祐理さんはここまでやるとはまたも意外な気分だった。
佐祐理さんを取り逃がしたということは、俺にとって同時に佐祐理さんから狙われる危険がしばらく去ったと言うことでもあった。
ふぅ。と、平和を味わう息をもらすとサワサワと草がこすれ合う音を聞いた。
風の音だった。
見上げると、風に揺られて青空が形を変え続けていた。
草の間から見る青空だ。
自分の小さな頃、こうして見た青空があったことを思い出した。
あの時は麦だったから、これだけ濃い青空じゃなかったかも知れない。
だけど、そう……あの時もこんなふうに追いかけっこをしていた。
不意に肩をつつかれる感触がした。
後をとられたことを後悔するより先に、俺は一歩前にジャンプして振り返り、続けざまに2回引き金を引いた。
左の腕を濡らした舞が立ちつくしていた。
俺を撃ちにきたわけでは無いようにも見える。しかし俺はそんなことは構わず、3歩後ずさりして一つヤブを飛び越えた。
そうして先ほどの佐祐理さんを真似るように走り始めた。草いきれを思いっきり吸い込みながら。
10年前のように心が高ぶっている気がした。
追いかけっこは10年前のように長くは続かなかった。
俺の前に立つ人影……佐祐理さんだ。
佐祐理さんは反射的に身構えて、俺の額に照準を合わせた。
遅れをとった俺はやみくもに引き金を引いた。水鉄砲から放たれた水は、佐祐理さんの左手にある麦わら帽子に吸い込まれていった。俺の対佐祐理さん初戦果だった。
「あっ、やったなぁ」
俺の顔に胸に腕にさらに水が注がれる。
俺は左手で目を護りながらもう2度撃った。佐祐理さんの細い髪の毛が受け止めて艶々と光る小さな髪のまとまりが出来た。
佐祐理さんはそれを気にしないかのように手を休めなかった。しかし……
「あれ? あれ?」
空砲が続くと佐祐理さんは声をあげた。緑の水鉄砲は水を全部使い切っていた。
佐祐理さんは俺に一瞬だけ迷う素振りを見せてからくるりと回れ右をし、駆けだした。
俺は、前哨戦の仕返しとばかりに佐祐理さんの背中に向けて放った。水は放物線を描きながら佐祐理さんの後ろ髪に幾筋かの髪をまとめた流れを作った。
「あとでお返ししますからね」
10歩ほど離れたところで佐祐理さんが振り向き、笑って言った。
……考えてみれば、俺の方が倍以上撃たれているのだからお返しという言葉は当てはまらないと思う……
俺も水を補充したいところが、このまま追いかけていったら鉢合わせて返り討ちにあうのがオチだろう。それはゴメンだ。
俺は、ゆっくりと佐祐理さんの走っていった方向に歩き始めた。
意外にも、畑の入り口に居たのは舞だった。
鉢合わせを避ける俺のもくろみは失敗したことになる。
しかし、舞は俺に気づいてもさっきと同じように撃ってこようとはせず、戦意の無いように見えた。俺は構えた水鉄砲をおろす。
「どうしたんだ?」
返事の代わりに舞は俺に紫の水鉄砲をよこした。
「もう飽きたのか?」
舞はかぶりを振った。
「佐祐理は祐一と水鉄砲をやりたがってる」
「なに言ってんだよ。舞も一緒にやろうぜ」
俺は景気づけのつもりで舞の顔に水をかけた。舞は表情を変えず、ただ俺に紫の水鉄砲を押しつけて畑の中に走っていった。
俺の頭は疑問符でいっぱいになった。
舞の思考形態を考えると、ああまで露骨な行動は何かがあることくらいしか分からなかった。
「せっかくだからもらっておくか」
俺は一人つぶやいた。
風がトウモロコシの茎を揺らした。
俺は視界の隅にある赤いバケツを見ると突然一つの考えが浮かんだ。
そうだ、ただ撃つだけじゃ芸がない。
遅かれ早かれ佐祐理さんはここに戻ってくるはずだ。
そのときに、いままでの総決算をしてやろう。
俺は赤いバケツを手にとって、水道に持っていった。
土を洗い落とし、目分量で俺が今まで食らった分だけの水を汲んで重しの代わりにした。
目を付けたのは、日当たりの良い角地に立つせいか、ひときわ高くそびえるトウモロコシだ。穂に腕をくすぐられながら、俺の背丈あたりに実るトウモロコシの一つに傾けたバケツを乗せ、取っ手を隣のトウモロコシの葉でくくりつけた。
俺の計算が正しければ、畑に入り口にあるこのトウモロコシの茎を揺らした人間は、頭から水をかぶるはずだ。
俺は満足して頷きながら畑の中に入った。あとは佐祐理さんが引っかかるのを待てばいい。
が、少し歩いたところで俺は重大なミスを思い当たった。
違うことに夢中になって、自分の水鉄砲に水を補充することを忘れていたのだ。
どうするか……少し考えてから左手に握った紫の水鉄砲に視線をやった。
それはあまり使われていないらしく、まだ半分以上残っている。
これならまぁ、なんとかなるだろう。
大した根拠もなくそう思うことにして、俺はヤブを越えるために再び足を動かした。
しばらく移動を続けたところで、俺は風とは違う気配を感じた。
俺はとっさにしゃがんだ。
向こうはまだこちらに気づいていないらしく、隣の路を歩き続けている。
俺の目に入った紺のパンツ……向こうに居るのは佐祐理さんのようだ。駆け回ったせいか、紺の生地には白っぽい土埃が浮いていた。
俺は息を潜めて時機を待つ。
その足が遠ざかろうとしたとき、俺はトウモロコシの根本から這い出して佐祐理さんの背中に狙いを定めた。淡いピンクのブラウスはその部分だけ濃い色に変わり、地肌の色と混ざり合った向こうにはブラジャーの紐が見てとれた。
「きゃっ」
と叫んで佐祐理さんは振り返った。
振り返る時、肩に俺の攻撃を受けた。
俺は戦果ににやりとする間も与えられず、反撃を食らった。
体を起こすために手間取りながら、俺は逃げ出す。ところがスタートにもたついてしまい、それが佐祐理さんにとって絶好の間合いを作ってしまった。
執拗についてくる佐祐理さんの歓声と攻撃を受けながら、もとより残弾が心許ない俺は、ずぶ濡れの背中越しにでたらめな反撃を返すしか能が無かった。
佐祐理さんはあれだけ簡単に俺から逃げおおせたというのに、俺は走っても、ヤブを越えても、フェイントをかけても何故か佐祐理さんの射程距離から逃れることが出来なかった。
追う側と追われる側の時間感覚の違いか?とも思ったが、佐祐理さんがかなりの運動神経を持つことだけは確かだった。
必死に畑を走り抜けると、そこは土が盛られていて農業用水の淵になっていた。
急に視界が開けた俺は、そこに腰掛ける舞の姿を見つけた。
「あれ? こんなところで……」
何をしてるんだ?と言い終わる前に佐祐理さんも畑を抜けてきた。
佐祐理さんは麦わら帽子を頭に乗せながら、鼻歌を歌うように
「舞、祐一さんいきますよ〜」
最高の笑顔で歩みを進めて引き金を引いた。
……水は出なかった。
「あははははっ、佐祐理はもう空っぽです」
佐祐理さんはそう言って水鉄砲を振って見せた。俺は残りを水の中に撃ち込んだ。
「あっ!」
舞が叫んだ。そしてぽつりと言った。
「ザリガニさん……」
目を凝らせばようやく見えるような見栄えのしないザリガニが、不意打ちに驚いたのか勢いよく後に飛び退いた。
「えっ、ザリガニがいるの?」
佐祐理さんも水を覗き込んだ。
ザリガニは珍客を見比べるようにじっと伏せていたかと思うと、突然体を起こして威嚇した。
それが何故かおかしくて3人で笑った。
「連れて帰ろうか」
そう口にしたのは佐祐理さんだった。
俺が聞きかえそうとしたときには、佐祐理さんは既に身を乗り出してつかもうとする動作に入っていた。
「えいっ!」
水しぶきを立てて佐祐理さんの手のひらが水の中で舞った。
ザリガニはまた飛び退いて佐祐理さんから逃れた。しかし、佐祐理さんはあきらめず今度は両手でつかみにかかった。
佐祐理さんは膝をつきながらも、見事にザリガニを捕らえていた。膝をついた場所が水の中で無かったら完璧だったと言えるだろう。
それでも佐祐理さんはいたずらが成功した子供のような表情で俺達にザリガニを示した。
ザリガニはなおも果敢に威嚇を続け、大きく振り上げたハサミを振り回していた。
「バケツ持ってきましょうか」
俺はそう言ってからバケツがどこにあるかを思い出した。きっとトウモロコシと仲良く風にゆられていることだろう。が、舞の言葉で俺はバケツを取りに走ることにはならなかった。
「かわいそう」
佐祐理さんは獲物に目を移した。
足とハサミを総動員して抵抗するザリガニを見て、佐祐理さんは、
「うん、そうだね」
と言って、屈み込んで水の中にザリガニを放してやった。
ザリガニは再び訪れた平和をより確かなものにするように、俺達から離れていった。
「ああ、びしょびしょになってる」
ザリガニを見送ると、今まで気づかなかったのか佐祐理さんは膝の下の惨状に声をあげた。
それでもすぐにいつもの笑顔に戻り、
「祐一さんもシャワーの後みたいですけどね」
「水もしたたるいい男ですから」
あははははっ、と笑う俺達をよそに舞はザリガニが去っていった方向を眺めていた。
「まいー、帰ろうか」
しばらくして佐祐理さんが声をかけると、ようやく舞は立ち上がった。
「まだなにか居たのか」
俺の言葉に舞は「なにも」とだけ答えて、俺の目の前を通り過ぎていく。
どうも、今日の舞は俺の読める範囲を超えていた。
トウモロコシ畑の中、佐祐理さんは舞の隣を歩き、俺はその後ろに従った。
西の方に傾いた太陽はなおもじりじりと照りつけていた。この分だとすぐにシャツは乾きそうだ。
小屋の前に着くと、バケツがないことに佐祐理さんはすぐ気づいたようだった。
「誰かが持っていっちゃったみたいですね」
佐祐理さんにそう言われてしまうと、俺の役に立たない『自称トラップ』を言い出すのが急に恥ずかしく思えた。
佐祐理さんはバケツの行方には執着せずに、
「せっかく来たんだから何本か頂いていきましょう」
とトウモロコシを指した。
舞はそれを聞くと心持ち嬉しそうな足取りで『一番近くにあるトウモロコシ』へ向かっていった。
舞は目の高さあたりにあるトウモロコシを指さして佐祐理さんを向いた。
「ダメよ、もうちょっと大きいのじゃなくちゃ」
佐祐理さんにたしなめられて、舞は目を下の方に移した。茎の裏側にまわると手頃なものがあったらしく、舞はもう一度目配せした。
佐祐理さんは2度大きく頷いた。
「がんばって、舞ーっ」
佐祐理さんの応援に応えて舞は手を伸ばし、トウモロコシの茎に触れた。
「あっ」と、俺は思わず声をあげそうになったが必死にこらえる。
……しかし、何も起こらなかった。
舞は徐々に力を込めてみたものの一筋縄ではいかない相手らしく、時折左右に振ってみたりもした。それでも何も起こらなかった。
舞は大きく揺さぶってみても駄目であることを確認すると、今度はねじり始めた。さらにはねじりながら舞は体重をかけて攻め続ける。
舞の攻撃をこれだけ食らっても耐えていられるなんて、トウモロコシにしておくには惜しいヤツだ。俺の思考回路はどうでも良い方向に向かい始めていた。
そんな俺を佐祐理さんが不思議そうな顔で眺めている。
そのとき、軋むような音と剥がれるような音が混じった音をたてた。
舞は戦いを終えたのだ。
それと同時に俺が聞いたのは……
「きゃぁぁぁぁぁっ、舞っ!」
佐祐理さんの悲鳴だった。
それからしばらく、俺が感じる音が消えた。
赤になる。
夕焼けも街並みも山も俺も。
音を無くした世界でみんな赤赤赤赤赤赤赤赤。
……に、なっていることだろう。舞の視界は。
ようやく作動した俺の『自称トラップ』は舞の両肩を濡らしていた。
しかも、葉の結び目が弱かったのか絶妙のタイミングでほどけて、舞の頭にすっぽりとはまりこんでいた。
ようやく音を取り戻した俺が最初に耳にしたのは、俺自身の笑い声だった。
何が起こったのか理解できずにもがいていながらも、獲ったトウモロコシをしっかりと握って離そうとしない舞の姿を見ると佐祐理さんも吹き出した。
「これで、みんなびしょ濡れですね」
佐祐理さんは笑いながら舞に手を貸した。
ほどなくして。恨めしそうに俺を見る目がバケツの下から現れた。
もちろん、2人ともこんなことをする犯人なんてとっくに分かり切っているんだろう。
俺は黙って視線を逸らした。
バケツに取れたばかりのトウモロコシを詰めて俺達は坂道を下った。
「ものみの山」の向こうに広がる街並みを眺めながら、佐祐理さんはゆっくりと口を開いた。
「ずっと、こうしてみたかったんです」
言われたことに同意しようにも納得しようにも適当な言葉が見つからない。
だから俺は次の言葉を待った。しかし、
「佐祐理」
舞が話をうち切るように佐祐理さんを呼んだ。
佐祐理さんは舞と目を合わせた。
しばらくの間、2人とも声を出さずに立ち止まった。
先に動いたのは佐祐理さんだった。
「わかってるわよ、舞」
佐祐理さんは俺と舞に背を向けてそう言った。
「でもね」
佐祐理さんは振り向いて、俺の手を取った。
「佐祐理と祐一さんと手をつないで帰るのは良いでしょ?」
「ね?」と俺だけに付け加えた。
俺は2人の話を理解できなかったが、佐祐理さんに同意を示した。
佐祐理さんの手は日焼けから縁遠いほど白く、細く、そして暖かかった。
後ろを見ると、俺達を大して気にしていないような表情の舞がてくてくと付いてきていた。
「祐一さん」
佐祐理さんは、もう舞を気にしていないかのように俺を呼んだ。
俺は佐祐理さんを見た。頬に乾いた泥が少しだけ付いていて、遊び場所から帰る子供のようだった。
「また、遊びましょうね」
「ええ」
俺の返事を聞くと、佐祐理さんはつないだ手を大きく振った。
「ふふ、意外と運動神経があってびっくりしたでしょう」
得意げな口調をする佐祐理さんの瞳はもう俺を見ていなかった。
俺も佐祐理さんの見ている方向に視線を移した。
そこには青空のずっと遠くにくっきりと浮かぶ、小さな小さな雲があった。
後書き
デスクリSSのKanon風味(嘘
夏の原稿に向け書くものの勘を取り戻す作業です。
実は、Ktouthさんの「メールください」というメッセージは前から目にしていましたが、「これが仕上がったらメールを送ろう」と自分で勝手に決め今日まで延ばしてしまいました。すみません〜m(__)m
でも、これの8割は今日書いたものだったりします。
言い訳の有効度80%ダウン(^^;
……見捨てないでください(←ムシの良いやつ)
作品情報
作者名 | 雅昭 |
---|---|
タイトル | 夏の時間 |
サブタイトル | |
タグ | Kanon, 美坂香里, 倉田佐祐理, 川澄舞, 相沢祐一, 水瀬名雪, 北川, 他 |
感想投稿数 | 41 |
感想投稿最終日時 | 2019年04月10日 01時25分04秒 |
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- [★★★★★☆] 素朴だなぁ・・・、けどこういうのもいい感じ♪
- [★★★☆☆☆] 『赤になる。』という所が少しドキッとしました。
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